第四話 地に足をつけるな
――黒瀬零は、一度も地面へ足を触れずに勝利せよ。
演習場に浮かび上がった文章を、俺は三度読み直した。
何度見ても内容は変わらない。
「……どういう意味だ」
最初に口を開いたのは、俺だった。
「書いてあるとおりでしょう」
九条澄玲が答える。
「一度も地面へ足を触れず、獅堂剛毅に勝利する」
「読めば分かる部分を聞いたんじゃない」
「では、質問を正確に定義してください」
「どうやって勝つんだ、という意味だ!」
俺の声が演習場へ響く。
対戦相手である獅堂は、しばらく呆然としていた。
だが、やがて意味を理解したらしい。
肩を震わせ、腹を抱えて笑い始めた。
「は、はは……! こいつは傑作だ!」
「何がおかしい」
「全部だよ!」
獅堂が右足で床を踏み鳴らす。
轟音。
演習場の床から巨大な岩柱がせり上がり、その頂点に獅堂を乗せたまま天井近くまで伸びていく。
「俺の命題は、地上に立つ者を支配する! それなのに、お前は地面に触れずに俺を倒さなきゃならない!」
獅堂は遥か頭上から俺を見下ろした。
「ただでさえ飛ぶ能力もない第五種が、空中から俺と戦うって? 試合開始と同時に転んで失格じゃないか!」
「開始地点を空中に設定すればよいのでは?」
澄玲が言った。
「審判に抱えてもらうのか?」
「吊り下げる方法もあります」
「それで勝ったとして、能力の証明になると思うか?」
神代緋月が冷たく遮った。
彼女は灯の学生証へ近づき、空中に浮かんだ文章を観察している。
「この条件を設定したのは、大学の査問管理機構ではない」
「学生証が勝手に決めたんですよね」
天城朔夜が言う。
「なら、大学の規定どおりに判定される保証もない」
「そういうことよ」
緋月が頷く。
「装置で身体を吊る。飛行能力者に運んでもらう。手で逆立ちして移動する。文章の表面だけを読めば、いくらでも抜け道は考えられる」
「逆立ちは駄目なのか?」
「本気で獅堂と逆立ちしたまま戦うつもり?」
「可能性として聞いただけだ」
「勝手にしてください。写真は撮ります」
澄玲が端末を構えた。
「やらないから下ろせ」
緋月は俺たちを無視して、学生証の表面へ指を近づける。
直接は触れない。
その周囲に表示された法則反応だけを慎重に測定している。
「この試験は、言葉の抜け穴を探すためのものではない」
「なぜ断定できる」
「命令の直前に、こう書かれていたでしょう」
――命題を証明せよ。
緋月が、その一文を拡大する。
「勝利条件だけを満たしても、あなたの命題が証明されなければ意味がない」
「空中で能力を使って勝てばいいんじゃないのか?」
「そんな単純な話なら、わざわざ獅堂が相手に選ばれる理由がない」
緋月は獅堂を見上げる。
「彼の命題は、地面を支配する」
「俺の相手として、一番相性が悪いということか」
「逆よ」
「何?」
「最も証明に適した相手なのかもしれない」
俺は意味が分からず、眉を寄せる。
緋月は俺の右手へ目を向けた。
「あなたの未証明は、世界が一つの《結論》へ確定することを停止させる」
次に、獅堂が立つ岩柱を指す。
「対して、獅堂の万象は我が礎は、地上に存在する物の位置と上下関係を確定する」
「俺の能力と、正反対?」
「可能性を残す者と、立場を定める者」
緋月の左目が細められる。
「試験は、おそらく二人の命題が持つ思想そのものを衝突させようとしている」
俺はもう一度、赤い文字を見る。
地面へ足を触れずに勝利する。
獅堂の支配する領域から逃げたまま、遠くから攻撃しろという意味ではない。
あいつが絶対的な支配権を持つ地上で。
地上に立たず。
それでも自分の《結論》を証明しろ。
「面白い」
獅堂が岩柱の上で笑った。
「受けて立つ」
「お前に断る選択肢はなかっただろ」
「だからって、怖じ気づく理由にもならない」
岩柱が床へ沈み、獅堂が俺たちの前へ戻ってくる。
「黒瀬零。三日後まで好きに足掻け」
獅堂は俺の肩を押し退け、演習場の出口へ向かった。
「飛行装置でも、糸でも、他人の能力でも使えばいい」
扉の前で立ち止まり、振り返る。
「何を使おうが、俺の前では全部地面になる」
「どういう意味だ」
「査問前に敵へ講義するほど親切じゃない」
獅堂の口元が歪む。
「自分で調べろよ。ここは大学なんだろ?」
扉が閉まった。
◇
「まずは実験計画書を作成します」
「戦闘訓練じゃないのか?」
「計画書が先です」
獅堂が去った直後。
澄玲は円形机の前へ座り、端末を開いていた。
画面には、既に新しい文書が表示されている。
――研究題目。
――黒瀬零における空中連続命題行使条件の解明。
――研究責任者、神代緋月。
――実験補助者、天城朔夜、九条澄玲。
――被験者、黒瀬零。
「俺の許可なく被験者にするな」
「研究対象でも構いません」
「そういう問題じゃない」
「安心しろ」
天城が俺の肩へ腕を回してきた。
「被験者には人権がある」
「その言い方だと、研究対象にはないみたいに聞こえるぞ」
「細かいことを気にするな」
「大学で一番気にしなきゃいけない部分だろ」
神代教授は俺たちの会話を聞き流し、実験計画書を空中へ投影した。
「《公開査問》まで三日。試験の制限時間は、残り約百五十三時間」
灯の学生証に表示された数字が減っていく。
「査問が終わっても、試験全体の期限までは三日以上残る。しかし、次の証明条件が追加される可能性が高い」
「獅堂に勝てば終わりではない?」
「第二の証明と書かれている以上、第三以降が存在しても不思議ではないわ」
「つまり、ここで時間を使いすぎる余裕はない」
澄玲が言う。
「今日中に未証明の空中運用方法を確立します」
「今日中?」
「不可能ですか」
「普通に考えれば無理だ」
「では、普通ではない方法を探しましょう」
澄玲は平然としている。
緋月が指を動かすと、演習場の床が透明になった。
その下には、底の見えない暗闇が広がっている。
「最初の目的は、単純よ」
俺が立っている足場を除き、床がすべて消える。
残されたのは直径一メートルほどの円形台だけ。
「地面へ触れず、可能な限り長く空中へ留まりなさい」
「いきなり実践か」
「理論だけで空は飛べない」
「俺の能力でも飛べないぞ」
「だから、何ができないのかを確認する」
緋月が端末を操作する。
俺の立つ円形台が、小刻みに震えた。
「待て」
「実験開始」
足場が消えた。
「人の話を――!」
身体が落下する。
足元には何もない。
壁までは十メートル以上。
掴める物も、蹴れる物もない。
「未証明!」
世界から音が消えた。
落下する身体が、空中で静止する。
一秒。
二秒。
二・四秒。
効果が切れる。
再び落下が始まった。
「もう一度!」
右手に力を込める。
「未証明!」
何も起こらない。
「なぜだ!」
暗闇の底から、黒い板が飛び出した。
俺の背中を受け止め、そのまま最初の高さまで押し戻す。
「第二発動、失敗」
澄玲が記録を読み上げる。
「やっぱり連続使用には制限があるのか?」
「それだけでは説明できません」
澄玲は映像を巻き戻す。
「第一回目の発動が終了した時点で、黒瀬零の状況は何も変化していない」
「空中に止まっていただけだからな」
「別の《結論》へ到達するための行動を取らなかった」
緋月が言う。
「前の実験を思い出しなさい。あなたの命題は、《結論》を停止するだけでは成立しない」
「別の可能性へ移動する必要がある」
「ええ。今回は落下を保留した。しかし保留中に、落下以外の《結論》を作らなかった」
「だから、同じ現象をもう一度保留できなかった?」
「おそらくね」
緋月が再び足場を出現させる。
「次は、保留中に身体を動かしてみなさい」
「掴むものがない」
「空中でも手足は動かせるでしょう」
「泳げと?」
「試す前から否定しない」
足場が消える。
俺は再び落下した。
「未証明!」
身体が止まる。
空中で腕を振り、脚を蹴る。
だが、水中とは違う。
押し返してくるものがない以上、身体の重心がわずかに揺れるだけだ。
二・四秒後。
また落下が始まる。
「失敗」
底から飛び出した板に受け止められる。
「当然だろ!」
「しかし、完全な無意味ではありません」
澄玲が俺の移動距離を表示する。
「発動中、黒瀬零の身体は水平方向へ一・七センチメートル移動しています」
「誤差じゃないのか?」
「重心移動による変化です。ただし、空気を蹴って進んだわけではありません」
「なら使えない」
「一・七センチメートルでも、別の物体へ手が届く可能性は変化します」
澄玲が演習場へ複数の輪を出現させた。
金属製の輪が、空中に一定の間隔で浮かぶ。
「次は、落下を保留している間に輪を掴んでください」
「地面に足を触れない条件なら、手で掴むのは問題ないか」
「文章上は」
「その言い方、信用できないな」
天城が笑う。
「まずはできることを増やせ。抜け道かどうかを考えるのはその後だ」
円形台が上昇する。
最初の輪まで、およそ三メートル。
普通に跳べば届かない距離だ。
「開始」
俺は台から飛び出した。
身体が弧を描き、輪へ向かう。
だが、距離が足りない。
「未証明!」
落下という《結論》が停止する。
跳躍の勢いまで完全に止まるわけではない。
身体はゆっくりと前方へ進み続けた。
腕を伸ばす。
指先が輪へ触れた。
「届いた!」
輪を掴む。
その瞬間、停止していた時間が動き出したように身体へ重さが戻る。
「ぐっ!」
肩に全体重がかかる。
それでも落下はしない。
両手で輪へぶら下がった。
「成功です」
澄玲の声が響く。
「発動中に、落下以外の《結論》へ到達しました」
「次の輪へ移動できるか試せ」
天城が言う。
「休ませろ!」
「査問で獅堂が休憩時間をくれると思うか?」
「思わないけど!」
俺は身体を振り、次の輪へ向かって跳んだ。
再び空中へ放り出される。
距離が足りない。
「未証明!」
今度は発動した。
身体の落下が止まり、前方への移動だけが続く。
二つ目の輪を掴む。
「連続発動に成功」
澄玲が記録する。
「同一の落下ではなく、一つ目の輪を掴んだことで状況が更新された」
「別の《結論》へ到達すれば、同じ能力をもう一度使える」
俺は輪へぶら下がりながら息を整える。
「これを繰り返せば、空中を移動できる」
「演習場に輪が並んでいればな」
天城が言った。
「《公開査問》で同じ装置を使えるのか?」
「命題兵装として事前登録すれば、使用自体は可能よ」
緋月が答える。
「ただし、この試験が外部装置による移動を証明として認めるかは不明」
「獅堂も、輪を黙って残してはくれないでしょう」
澄玲が補足する。
獅堂の万象は我が礎なら、輪を支える構造そのものを破壊できる。
「道具に頼らず、同じことができればいい」
俺は輪の上から演習場を見渡す。
壁。
天井。
観測装置。
何か掴めるものがあれば、落下を止めて移動できる。
「査問場の構造を利用する」
「獅堂の支配下にある構造を?」
澄玲が尋ねる。
「触れる前に壊される可能性が高いです」
「なら、あいつが作った岩を使う」
「敵の攻撃を足場の代わりにするのか?」
天城の表情が楽しそうに変わった。
「悪くない」
「足場にはしない。足を触れたら条件違反だからな」
「手で掴む。殴って軌道を変える。飛んでくる岩を利用して、空中を移動する」
緋月が腕を組む。
「理論上は可能ね」
「獅堂が攻撃するたび、俺の移動手段が増える」
「ただし、一度でも判断を誤れば地面へ落ちる」
「最初から簡単だとは思ってない」
俺は輪から次の輪へ飛ぶ。
「もう一度だ」
◇
実験開始から三時間。
俺は二十三回落下した。
肩を三度痛め。
壁へ二回激突し。
一度は空中の輪が顎へ直撃した。
「黒瀬零。右へ一・二メートル」
澄玲の声が飛ぶ。
「分かってる!」
俺は空中で未証明を発動する。
落下を停止。
身体を捻る。
右側を通過しようとしていた金属球へ腕を伸ばす。
しかし、わずかに距離が足りない。
「届かない!」
「届きます」
「どこを見て――」
「左足を曲げ、右肩を前へ出してください」
言われたとおりに身体を捻る。
重心がずれ、指先が金属球へ触れた。
掴む。
球体は俺の体重で軌道を変えながら、そのまま前方へ進む。
「次、上方二・八メートル」
澄玲の瞳に、無数の数式と光の線が走っている。
彼女の世界は解を持つが、空中に一本の経路を描き出していた。
ただし、その光は俺には見えない。
澄玲の指示だけが頼りだ。
「三、二、一――跳んでください」
金属球から手を放す。
身体が上方へ投げ出される。
次の輪へ向かう。
「未証明!」
落下停止。
輪を掴む。
「空中滞在、十七・六秒」
澄玲が記録を読み上げる。
「最初より七倍以上伸びました」
「まだ十七秒か……」
「査問場を端から端まで移動するには、十分な時間です」
「獅堂が何もしなければな」
俺は輪から床へ降ろされた。
足が地面へ触れた瞬間、膝から力が抜ける。
「連続発動による精神負荷が増加している」
緋月が俺の瞳へ光を当てた。
「今日はここまで」
「まだ動ける」
「命令よ」
「三日しかない」
「脳を壊せば、三日後どころか一生戦えない」
「治療できないのか?」
「肉体の損傷とは違う。命題は、使い手の自己認識を世界へ接続する行為」
緋月は俺の頭部を示す観測映像を表示する。
脳の周囲に、白い亀裂のような光が走っていた。
「過度に行使すれば、自分と世界の境界が曖昧になる」
「どうなる」
「自分が何者なのか分からなくなる。重症化すれば、命題だけが残り、人格が消える」
黒瀬灯が、人間ではなく現象になっている可能性。
先ほど緋月が挙げた仮説が頭をよぎった。
「灯も……能力を使いすぎたのか?」
「可能性の一つではある」
緋月は否定も肯定もしない。
「だから急ぐ。けれど、焦って自滅することは許さない」
俺は拳を握った。
身体は動く。
それでも頭の奥には、鈍い熱が残っている。
「一時間休憩。昼食を取った後、獅堂の命題を分析する」
「本人が能力を教えるとは思えないぞ」
「《公開査問》へ参加する能力者には、過去の査問記録を公開する義務があるわ」
「相手に対策されるのに?」
「自分の命題を秘匿したまま勝つだけでは、学術的な証明にならない」
緋月が演習場の扉を開ける。
「強者とは、能力を知られても《結論》を通せる者よ」
◇
《未定義現象研究室》の隣には、小さな休憩室があった。
窓の外には、相変わらず宇宙が広がっている。
その景色を眺めながら食べるのは、大学生協で売られている普通のカレーだった。
「この場所まで配達してくれるのか?」
「生協は学内のどこにでも来る」
天城が菓子パンの袋を開けながら答える。
「異空間でも?」
「月面研究基地にも支店があるからな」
「大学で一番強い組織、生協なんじゃないか?」
「研究費を握る事務局の方が強いです」
澄玲が即答した。
「第一種能力者でも、領収書を紛失すれば経費は下りません」
「世界を改変できても、領収書は再発行できないのか」
「改変すれば公文書偽造よ」
緋月が言う。
妙なところだけ現実的な大学だった。
食事を終えると、円形机の上へ獅堂の記録映像が投影された。
去年行われた、高校生対象の推薦選抜試験。
映像の中で、当時十七歳の獅堂が荒野に立っている。
対戦相手は三人。
全員が遠距離攻撃型の能力者だった。
「獅堂は入学前から第四種認定を受けていた」
緋月が説明する。
「単純な出力だけなら、新入生の中で最高」
映像の中で、三人の能力者が同時に攻撃する。
雷。
炎。
空気の刃。
獅堂は避けない。
右足を踏み鳴らす。
「俺の命題は――万象は我が礎」
大地が隆起する。
巨大な壁が三つの攻撃を受け止めた。
次の瞬間。
対戦相手の足元が垂直に跳ね上がり、三人の身体を空へ打ち上げる。
「俺が立つ場所こそが地上だ」
獅堂が拳を握る。
空中へ投げ出された三人の身体が、突然異なる方向へ落下した。
一人は左へ。
一人は右へ。
一人は真上へ。
「何が起きた」
「重力方向を書き換えた」
緋月が映像を一時停止する。
「ただし、重力そのものを操作したわけではない」
「違うのか?」
「彼らにとっての『下』を変更した」
床が下。
空が上。
それは人間が当然のように受け入れている位置関係だ。
「獅堂の支配領域では、彼が定めた方向が下になる」
映像が再生される。
三人の能力者は、それぞれ別方向に出現した岩壁へ激突した。
全員が戦闘不能。
「強すぎないか?」
「だから第四種なのよ」
「地面に触れていなくても、攻撃を受けている」
澄玲が映像を巻き戻す。
「三人は空中にいました。それでも獅堂は上下関係を変更している」
「空へ飛べば能力から逃れられるわけじゃないのか」
「獅堂が地上を支配している限り、その地上を基準とした上下関係も支配される」
俺は映像を見る。
ただ地面を動かす能力ではない。
自分が立つ場所を世界の基準へ変える。
「《前提》は?」
澄玲が資料を表示する。
――能力者の両足が、同一の連続面へ接触していること。
――対象領域が、能力者の立つ面と物理的または構造的に接続していること。
「獅堂が両足で立っていなければ、能力を発動できない」
「片足を浮かせれば解除できる?」
「一瞬だけなら継続する。けれど、完全に地面から離れれば支配領域は急速に失われる」
「なら、獅堂を空中へ打ち上げればいい」
「それができるならな」
天城が映像を切り替える。
別の試合。
対戦相手が、獅堂の足元を爆破している。
地面ごと吹き飛ばし、空中へ投げ出す作戦だ。
しかし。
獅堂の靴底には、砕けた岩の破片が張りついていた。
「我が足元にあるものは、すべて我が礎となる」
岩片が空中で連結し、小さな足場を作る。
獅堂はその上へ立ったまま落下しない。
「地面を持ち運んでいる?」
「自分が地面だと認識した物体を、一定時間だけ領域の核として維持できる」
澄玲が資料を読む。
「飛行能力者への対策ですね」
「それだけじゃない」
天城が次の映像を再生する。
対戦相手は、水を操る能力者。
競技場全体を水で満たし、獅堂の足場を奪おうとする。
獅堂の身体が水へ沈む。
だが、彼は水面へ両足を置いた。
「水が……固まった?」
「違う」
緋月が答える。
「水面を地面として定義した」
獅堂が一歩進むたび、水が岩のように盛り上がる。
「俺を支えるなら、それは地面だ」
水面が巨大な掌へ変化し、水使いを握り潰した。
次の映像。
強風の中を飛ぶ能力者。
獅堂は風の流れに片足を置く。
透明な空気が階段のように固定される。
「空気まで?」
「物質である必要はない」
緋月が映像を停止した。
「獅堂にとって、地面とは土や岩を意味しない」
机上に、彼の命題を構成する文章が浮かび上がる。
――我を支えるものは、我が礎である。
――我が礎より上に立つ者は、我が支配を受ける。
――我が支配下において、上下は我が意志により定まる。
「自分の重量や存在を支えるもの。それが獅堂にとっての地面」
「だから、あいつは言ったのか」
何を使おうが、俺の前では全部地面になる。
「輪を掴んでぶら下がれば、輪が俺を支える」
「獅堂は、その輪を地面として支配できる可能性が高い」
「糸で吊っても、飛行装置を使っても同じ」
「空気の浮力で飛んでも、その空気が地面になる」
逃げ道が一つずつ消えていく。
「それなら、どうやって地面に触れず戦う」
俺の問いに、誰もすぐには答えなかった。
天城だけが、机に両肘をついて俺を見ている。
「黒瀬」
「何だ」
「地面に触れないことばかり考えてるだろ」
「条件がそうなんだから当然だ」
「違う」
天城は獅堂の命題を指した。
「問題なのは、お前の足が床に触れるかじゃない」
「じゃあ何だ」
「何かに支えられた瞬間、それが獅堂の地面になる」
足場。
輪。
壁。
装置。
空気。
俺を支えるものすべてが、敵の支配下へ入る。
「つまり条件の本当の意味は――」
澄玲が静かに言う。
「何にも支えられずに勝利せよ」
そんなことが可能なのか。
物体は重力に引かれる。
空を飛ぶにも、翼が空気を押す反作用が必要だ。
何かを蹴る。
何かを掴む。
何かに押される。
人間が移動するには、必ず外部との相互作用が必要になる。
「物理的に不可能だ」
俺は言った。
「何にも支えられず、何にも力を借りずに動くなんて」
「通常の物理法則ではね」
緋月が答える。
「けれど、あなたたちは通常の物理現象を研究するためにここへ来たわけではない」
「俺の命題を使えということか」
「あなたの能力は、既に決まった《結論》へ別の可能性を持ち込む」
「支えがないなら落ちる。それ以外の可能性なんてない」
「本当に?」
緋月の言葉が、胸へ突き刺さる。
「支えがなければ落ちる」
それは物理法則だ。
疑う余地のない事実。
空から手を離した石は落ちる。
入学初日の朝。
俺自身が考えていたことだ。
けれど、この大学の理念は何だった。
――真理に服従するな。真理を創造せよ。
「支えがなければ落ちるという《結論》そのものを、未証明にする……?」
「可能かどうかは、これから確かめる」
「でも、俺の能力は別の可能性が存在しなければ発動できない」
「なら作るのよ」
「どうやって」
「それを考えるのが研究でしょう」
緋月は簡単に言う。
俺は反論しようとした。
そのとき。
研究室全体が大きく揺れた。
窓の外に見えていた宇宙が、九十度回転する。
机の上に置かれていた食器や端末が、突然壁へ向かって落下した。
「何だ!」
俺の身体も横方向へ引かれる。
床から足が離れ、研究室の壁へ投げ出された。
「未証明!」
落下を止める。
空中に静止した俺の目の前で、休憩室の扉が開いた。
「よう、最下位」
獅堂剛毅が立っていた。
「どうしてここにいる!」
「俺も神代教授の呼び出しを受けたんだよ」
獅堂の両足は、垂直になった壁へ接している。
まるでそこが床であるかのように、平然と立っていた。
「勝手に研究室の重力基準を変えないで」
緋月の声には、明確な怒気が含まれている。
「すみません。けど、こいつらが俺の能力を勘違いしたままだったら、査問にならないでしょう」
獅堂が壁を踏む。
研究室の上下が、さらに回転する。
天井が地面になり。
床が壁になり。
宇宙を映す窓が真下へ移動する。
「黒瀬零」
獅堂は空中に静止する俺を見た。
「輪を掴む練習をしてたらしいな」
「見てたのか」
「査問相手の研究くらいするさ」
獅堂が右手を握る。
演習場から運び込まれていた金属の輪が、研究室の壁から飛び出した。
輪は俺の手元へ迫る。
掴めば、落下を避けられる。
俺は反射的に腕を伸ばした。
「掴めよ」
獅堂が笑う。
「それがお前の地面になる」
指先が輪へ触れる直前、俺は手を止めた。
掴めない。
掴めば支配される。
だが、掴まなければ二・四秒後に落下する。
「どっちを選ぶ?」
獅堂の背後で、研究室の壁が巨大な王座へ変形する。
「何かに頼って、俺の下へつくか」
俺の未証明の残り時間が減っていく。
二秒。
「何にも頼らず、そのまま落ちるか」
一秒。
窓の下には、星々の海が広がっている。
答えがない。
支えがなければ落ちる。
それは当然だ。
世界が決めた、唯一の《結論》だ。
「さあ証明してみろよ」
獅堂が両腕を広げる。
「地に足のつかない理想に、何の価値がある?」
能力が切れる。
俺の身体が落下を始めた。




