第三話 妹を殺すための講義
『私を助けたいなら――』
黒い月の中心で、十三枚の翼が開く。
『まず、私を殺して』
その声を最後に、空が元へ戻った。
黒い月が閉じる。
太陽を覆っていた暗闇は、吸い込まれるように《第一宇宙観測環》の中央へ収束していった。
銀色の巨大な環が、低い音を響かせながら停止する。
ほんの数秒前まで昼空を占領していた異物は、跡形もなく消えていた。
「灯……?」
答えはない。
俺は構内端末を空へ向けた。
録画機能は起動していた。
しかし画面に記録されているのは、青空と《第一宇宙観測環》だけだった。
黒い月も。
十三枚の翼も。
灯の声も残っていない。
「九条」
「私も確認しています」
澄玲は自分の端末を操作していた。
その指は普段と変わらず正確に動いている。
だが、画面を見る銀色の瞳には明らかな動揺があった。
「映像記録、音声記録、法則変動記録。すべて異常なしとなっています」
「俺たちにしか見えてなかったのか?」
「いいえ」
澄玲は周囲を見回した。
広場に集まった学生たちは、今も興奮した様子で空を指さしている。
「見た者は大勢います。しかし、認識した内容が違う」
「どういうことだ」
近くにいた男子学生二人の会話が聞こえてきた。
「すごかったな、観測環の入学記念演出」
「人工日食だろ? あんな機能もあるんだな」
「記念撮影し損ねた。誰か動画上げてないかな」
彼らは黒い月を見ている。
だが、あれを異常現象とは認識していない。
まして、その中心に巨大な瞳が開いたことも、灯の声がしたことも気づいていなかった。
「同じものを見ながら、異なる意味を与えられている」
澄玲が呟く。
「現象そのものではなく、観測した者の解釈へ干渉したのでしょうか」
「俺たちには、どうして本当の姿が見えた」
「本当の姿とは限りません」
「何?」
「多数派が見たものと、私たち二人が見たもの。どちらが真実であるかは、まだ決められないという意味です」
相変わらず、簡単に希望を持たせてはくれない。
「では、次のニュースです」
大学の上空に設置された放送板から、明るい女の声が流れた。
「先ほど《第一宇宙観測環》に一時的な出力変動が発生しました。観測および安全機能に問題はありません。新入生の皆さんは、引き続き学内行事をお楽しみください」
「出力変動?」
「大学側は異常を把握しています」
澄玲が言った。
「それでも、一般学生には説明しない」
「神代教授は知ってると思うか?」
「少なくとも、私たちより多くの情報を持っています」
俺は学生証を裏返した。
赤い文字は消えていない。
――第二の証明を開始する。
――命題を証明せよ。
――期限は七日。
――証明に失敗した場合、黒瀬灯の存在を完全に終了する。
そして、その下に新たな表示が増えていた。
――残り時間。
――百六十六時間五十二分。
数字は、一秒ごとに減っている。
七日間。
妹を殺せという命令。
何を証明すればいいのかも分からない試験。
そのすべてが、この小さなカード一枚の上で進行している。
「明日まで待つ気はない」
俺は端末を取り出した。
「神代教授に連絡する」
「連絡先を知っているのですか」
「履修情報に研究室が追加されたんだ。担当教員への連絡くらい――」
画面を開く。
神代緋月。
名前は登録されていた。
その隣には、赤い文字で現在の状態が表示されている。
――勤務時間外。
「まだ昼だぞ」
「教授にとっては勤務時間外なのでしょう」
「入学式の日に勝手に学生を研究室へ入れておいて?」
「教員の労働環境には複雑な事情があります」
「庇ってるようで、まったく庇えてないな」
何度発信しても応答はない。
代わりに、自動返信が届いた。
――問い合わせ内容が生命の危機に関係する場合は、一を入力してください。
俺は迷わず一を押した。
――その危機が四十八時間以内に発生する場合は、一を入力してください。
一。
――現在、生命活動が停止している場合は、一を入力してください。
「停止してたら押せないだろ」
「音声入力に対応しているのかもしれません」
澄玲は真面目に言った。
次の瞬間、別の返信が届いた。
――明日の午前八時まで待ちなさい。
――追伸。学生証を分解しようとしないこと。
俺と澄玲は顔を見合わせる。
「見られてるのか?」
「可能性は高いですね」
澄玲が学生証へ伸ばしかけていた手を、静かに引っ込めた。
「分解するつもりだったのか」
「非破壊検査の次に検討していただけです」
「それを普通は分解するつもりだったと言うんだ」
◇
入学式当日の夜。
俺は新入生用の学生寮にいた。
帝都神律大学には、大学都市の東西南北に四つの学生居住区がある。
俺が割り当てられたのは、東部第二学生寮。
二十階建ての建物で、内部には食堂、浴場、訓練室、簡易診療所まで備わっている。
部屋は一人用。
ベッド、机、収納棚、小型冷蔵庫。
必要な家具は一通り揃っていた。
だが俺は荷物を片づける気にもなれず、ベッドへ腰かけて学生証を見つめていた。
――残り時間、百六十時間十一分。
今も数字は減り続けている。
「私を殺して、か」
灯が何を伝えようとしたのか。
本当にあれは灯だったのか。
もし本人だとして、殺すとは肉体を殺すという意味なのか。
そもそも、三年前に世界から消えた灯が、現在も生きていると言えるのか。
考えるほど、言葉の意味が崩れていく。
俺は端末を机へ置き、椅子の背にもたれた。
窓の外には、夜の大学都市が広がっている。
研究塔の窓には今も明かりが灯り、空中軌道車が光の線を描いている。
そのさらに上。
《第一宇宙観測環》は、夜空の一部を切り取るように浮かんでいた。
昼間に黒い月が出現した場所。
大学側は、あれを単なる出力変動と発表した。
だが、俺たちが見たものは明らかに違う。
あの環は、何のために造られたのか。
地上から宇宙の法則を観測する装置。
入学案内には、そう書かれていた。
しかし、法則を観測するとは具体的に何を意味するのだろう。
星を見るなら望遠鏡でいい。
重力波や電磁波なら、それぞれ専用の測定器がある。
わざわざ都市一つを覆うほど巨大な環を空へ浮かべる必要があるのか。
「知らないことばかりだな」
三年間、灯だけを探してきた。
帝都神律大学へ入るため、必要な勉強も訓練もした。
けれど、俺は世界そのものについて何も知らない。
知ろうともしなかった。
灯が見つかれば、それでいいと思っていた。
だが灯は、世界の外で待っていると書き残した。
妹を取り戻したいなら。
俺はまず、その「世界」が何なのかを理解しなければならない。
学生証を握りしめる。
「待ってろ、灯」
たとえ、お前が自分を殺せと言っても。
言葉どおりに従うつもりはない。
何を意味しているのか。
どうしてそんなことを言ったのか。
俺が自分で確かめる。
その夜。
眠りにつく直前まで、学生証の残り時間は一秒も止まらなかった。
◇
翌朝、七時五十分。
俺は第十二講義棟の前に立っていた。
端末に指定された目的地は、第十三講義棟地下四階。
しかし構内地図に、第十三講義棟は存在しない。
「予想どおりですね」
背後から澄玲の声がした。
振り返ると、彼女は片手に端末、もう片方の手に紙のカップを持っていた。
「おはようございます」
「早いな」
「講義開始の十六分前に到着しました。標準的です」
「それより、その飲み物は?」
「コーヒーです」
「普通のものも飲むんだな」
「私を何だと思っているのですか」
「食事を栄養素と数値でしか見てなさそうな人」
「失礼ですね。味覚も重要な生体情報です」
否定の仕方が、やはり普通ではない。
「第十三講義棟は見つかったか?」
「いいえ。ですから、問題を定義します」
澄玲の瞳に、白い数式が流れる。
「目的地は、第十三講義棟地下四階。現在地は、第十二講義棟正面。到達期限は午前八時。使用可能な手段は、徒歩および学内設備」
淡い光の線が、彼女の足元から伸びる。
それは第十二講義棟の入口ではなく、建物の側面へ回り込んでいった。
「私の命題――世界は解を持つ」
光の線を追う。
第十二講義棟の裏には、搬入口があった。
清掃員が資材を運び込むための小さな扉。
澄玲は迷わず中へ入る。
「ここ、学生が通っていいのか?」
「到達可能な経路として表示されています」
「合法とは限らないだろ」
「問題の条件に、合法であることを含め忘れました」
「そこは忘れるなよ」
搬入口の先には、業務用のエレベーターがあった。
内部の操作盤には、地上一階から地下三階までのボタンが並んでいる。
地下四階はない。
しかし澄玲の光は、操作盤の何もない部分へ伸びていた。
「押せということか?」
「おそらく」
俺が壁へ触れる。
何の反応もない。
澄玲が自分の学生証をかざしても同じだった。
「黒瀬零。あなたの方を使ってください」
「俺の学生証を?」
灯の学生証を操作盤へ近づける。
途端に、金属板の表面へ「0」と刻まれた黒いボタンが浮かび上がった。
「地下四階じゃなくて、ゼロ?」
「押せば分かります」
「何が起きるか分からないときに言う台詞じゃないな」
それでも俺はボタンを押した。
扉が閉じる。
エレベーターが下降を始めた。
地下三階を通過する。
表示板の数字が、三から四へ変わる。
五。
六。
七。
「地下四階を過ぎてないか?」
「物理的な深度を示していない可能性があります」
数字はさらに増えていく。
十三。
二十一。
百四十四。
やがて数字ではなく、見たことのない記号が表示され始めた。
エレベーターは下へ降りているはずなのに、身体へ重力は感じない。
外部との通信も途絶えている。
そして。
表示板に一つの文字が浮かんだ。
――未定義。
下降が止まる。
扉が開いた。
「ようこそ」
神代緋月が立っていた。
「帝都神律大学、第十三講義棟へ」
◇
扉の向こうには、巨大な研究室が広がっていた。
白い壁。
天井まで届く書架。
無数の端末と観測装置。
部屋の中央には、直径十メートルほどの円形机が置かれている。
机の上には、帝都神律大学を中心とした立体地図が投影されていた。
だが奇妙なことに、研究室の窓の外には宇宙が見える。
地上から遥か上空。
星々を背景に、《第一宇宙観測環》が目の前を横切っている。
「ここは、どこなんだ」
「第十三講義棟地下四階」
「窓の外は宇宙に見えるけど」
「そう見えるわね」
「見えるじゃなくて、説明してくれ」
「良い心がけよ。分からないことを分からないままにしないのは、研究者の基本だから」
緋月は円形机へ向かいながら言った。
「この研究室は、一般的な空間座標には存在しない」
「存在しない?」
「正確には、特定の位置を持たないのですか」
澄玲が質問する。
「その方が近いわ」
緋月が指を鳴らす。
立体地図の上に、複数の光点が現れた。
第十二講義棟。
《第一宇宙観測環》の内部。
海底観測所。
月面研究基地。
そして、名前の表示されていない暗い領域。
「この部屋には、複数の入口が存在する。けれど、どの入口から入っても同じ研究室へ到達する」
「空間を折り畳んでいるのですか」
「それとも違う。折り畳むためには、元となる空間的な距離が必要でしょう?」
緋月は光点を一本の線で結んだ。
「この部屋は、それぞれの場所に対して『研究室への入口である』という関係だけを持っている。距離や方向を共有していない」
「物理的な場所ではなく、関係性によって存在している……」
「そういうこと」
俺は窓の外を見る。
「じゃあ、あの宇宙も本物じゃないのか?」
「映像ではないわ。《第一宇宙観測環》内部に設置された窓と、視覚的に接続している」
「触れられるのか?」
「窓を開ければ、研究室の空気が宇宙空間へ流出する」
「絶対に開けるなよ」
「開閉機能はないから安心しなさい」
緋月は円形机の奥にある椅子へ腰を下ろした。
「改めて紹介する。ここは私が管理する《未定義現象研究室》」
「未定義現象?」
「既存の学問体系では、観測対象として分類できない現象を扱う研究室よ」
「法則災害とは違うんですか」
澄玲の質問に、緋月は机上の地図を切り替えた。
火災。
空間断裂。
時間の逆行。
人間の身体が結晶化する現象。
複数の映像が並ぶ。
「法則災害とは、既存の世界法則が局地的に変化し、人間社会へ被害を与える現象の総称。たとえば、重力の方向が反転する。時間の流れが極端に遅くなる。物質が生命として活動を始める」
「普通の災害と違って、原因が物理現象ではなく法則そのものにある」
「ええ。とはいえ、発生する現象が理解できれば、対策も立てられる」
映像の一つが拡大される。
空へ落下していく街。
「重力が上向きになったなら、建物を地面へ固定すればいい。時間が遅くなったなら、外部との通信方法を変更すればいい。原因が異常でも、結果を定義できるなら研究対象になる」
続いて、映像がすべて消えた。
代わりに黒い扉が表示される。
「けれど未定義現象は違う」
緋月は俺の学生証を指した。
「存在するのか、しないのか。物質なのか、情報なのか。現在にあるのか、過去にあるのか。それどころか、何を問いとして設定すればいいのかさえ分からない」
澄玲の世界は解を持つが機能しなかった理由。
問題そのものを定義できなかったからだ。
「黒瀬灯と《第零学部》は、未定義現象ということか」
「現在のところはね」
「なら、あんたも何も知らないのか?」
「何も知らないわけではない」
緋月は右目の眼帯へ触れた。
「けれど、知っていることの何割が正しいのかを判断できない」
「どういう意味だ」
「《第零学部》について調べた記録は、調べるたびに内容が変化するのよ」
円形机に、古い文書が投影される。
――帝都神律大学、《第零学部》設立。
――初代学部長、神代緋月。
「あなたが学部長?」
俺は緋月を見る。
「違う。私は《第零学部》の学部長になった記憶などない」
文書が次の記録へ切り替わる。
――《第零学部》は、《大公理崩壊》以前から存在した。
さらに別の文書。
――《第零学部》は、二〇六六年に発生した研究事故により廃止。
次。
――帝都神律大学に《第零学部》が設置された事実はない。
「すべて大学の正規記録よ」
「内容が矛盾している」
「だから私の万象校正でも訂正できない。どの記録を基準にすればいいのか判断できないから」
「記録が間違っているのではなく、過去そのものが変化している可能性は?」
澄玲が尋ねる。
「ある。けれど、記録だけが書き換えられている可能性もある。あるいは異なる歴史の記録が、同じデータベースへ混入しているのかもしれない」
緋月は俺へ目を向けた。
「そして三年前。《第零学部》に関係するすべての記録から、一人の学生の名前が消えた」
「黒瀬灯」
「そうよ」
「三年前のことを知ってるのか!」
俺は机へ両手をついた。
「灯に何があった。どうして世界中から記憶が消えた!」
「落ち着きなさい」
「これで落ち着いていられるか!」
「私の記憶からも消えているのよ」
緋月の言葉に、声を失う。
「何?」
「私は黒瀬灯という少女を覚えていない」
「昨日、名前を知っていた」
「記録として知っていただけ。彼女の顔も、声も、性格も知らない」
緋月は投影された文書を閉じた。
「三年前、大学全域で大規模な記憶改変が発生した形跡がある。けれど、誰の記憶が消されたのか分からなかった」
「灯がいたこと自体を忘れたから……」
「喪失した対象を認識できなければ、喪失したことにも気づけない」
部屋が静まり返る。
世界中の人間が、灯を忘れた。
神代緋月も例外ではない。
「それなら、どうして俺だけが覚えている」
「それを調べるために、あなたをここへ呼んだ」
緋月が指を動かす。
円形机の上へ、俺の身体を模した立体映像が現れる。
「黒瀬零。あなたには、外部から記憶を保護する特殊な構造も、精神干渉への耐性も確認されていない」
「でも忘れなかった」
「ええ。そして、あなたの命題は未証明」
映像の頭部に、白い光が点る。
「黒瀬灯が存在したのか、存在しなかったのか。世界が後者へ確定しようとした瞬間、あなたの命題が無意識に判定を停止させた可能性がある」
「三年前から、ずっと能力を使い続けている?」
「仮説にすぎないわ。通常、命題を三年間連続で発動すれば精神が崩壊する」
「つまり、普通ではない別の理由がある」
澄玲が言う。
「または、黒瀬零自身が命題の効果を受けていることに気づいていない」
緋月は頷いた。
「だから、この研究室で調べる」
「その前に、これを説明してくれ」
俺は灯の学生証を机へ置いた。
裏面の赤い文字。
妹を殺せという言葉。
残り時間は、百五十五時間を切っている。
「昨日の黒い月と、この命令は何なんだ」
「順番に説明しましょう」
緋月が立ち上がり、窓の前へ移動する。
宇宙を背景に、銀色の巨大な環が回転している。
「まずは《第一宇宙観測環》について」
◇
「黒瀬零。宇宙を観測すると聞いて、何を思い浮かべる?」
「星や銀河を見ること」
「普通はそうね」
緋月が窓へ手をかざす。
外に見えていた観測環の映像が拡大される。
環の表面には、都市のように無数の施設や構造物が並んでいた。
「望遠鏡は、宇宙に存在する物を見る。電波望遠鏡は電波を、重力波観測装置は時空の揺らぎを測定する」
「《第一宇宙観測環》は違う?」
「ええ。あれが観測するのは、宇宙の中にある物ではない」
複数の数値が空中へ表示される。
光速度。
重力定数。
空間次元数。
時間方向。
因果連結率。
歴史整合度。
「宇宙が、宇宙として成立し続けているかを観測する」
「成立し続けているか?」
「たとえば、今日と明日で光の速度が変われば、現代文明の大半は成立しない。原因より先に結果が発生するようになれば、科学的な予測も成り立たなくなる」
緋月は二つの球体を表示した。
一方の球体を動かすと、もう一方が遅れて動く。
「私たちは、原因があり、その後に結果が生じると思っている。物体は三次元の空間に存在し、時間は過去から未来へ進むと信じている」
「それが世界の法則だからだろ」
「《大公理崩壊》以前なら、そう答えられた」
球体の動きが変わる。
二つ目の球体が先に動き、その後から一つ目が動いた。
次には、球体が動いたという記録だけが残り、球体そのものは最初の位置から変化していない。
「今では、それらは絶対的な前提ではない」
「だから観測が必要になる」
澄玲が言った。
「世界法則が昨日と同じ状態を維持しているか、継続的に確認するために」
「正解よ」
緋月が指を鳴らす。
観測環の周囲に、巨大な透明の球が現れた。
その内部に、地球、月、太陽、無数の星が含まれている。
「観測環は、光や電波だけではなく、宇宙全域に共通する法則の変動を拾い上げる。厳密には、観測可能な宇宙全域を一つの標本として、その整合性を測定する装置よ」
「局所整合性という警報も、それに関係するのか?」
「局所整合性は、限られた領域の中で法則や歴史がどれだけ矛盾なく接続されているかを示す値」
緋月は研究室を指した。
「たとえば今、この部屋の局所整合性は九九・九九八パーセント。あなたたちが床へ立ち、私の声を聞き、同じ出来事を共有できている状態ね」
「百パーセントではないんですね」
澄玲が質問する。
「観測誤差もあるし、量子的な不確定性も存在する。そもそも完全な百パーセントが正常なのかも分からない」
「昨日は八十パーセント台まで下がっていた」
「異なる世界や歴史が同じ場所へ重なったからよ」
一人の人間が、同時に生きていて死んでいる。
一つの建物が、学校であると同時に廃墟でもある。
昨日見た壁の向こうでは、互いに両立しない光景が重なっていた。
「整合性が下がり続けると、どうなる」
「まず、観測者によって見える現実が変化する。さらに進めば、どの現実も優位になれず、領域そのものが崩壊する」
「消滅するのか?」
「消滅という結論にさえ到達できない」
緋月の声が低くなる。
「存在するとも、存在しないとも定義できない状態になる。外から観測できず、内側から脱出することもできない」
「それが未定義状態……」
「私たちは《白紙化》と呼んでいる」
白紙。
何もないのではない。
何があるのかを定義できなくなる。
「昨日の黒い月は?」
「《第一宇宙観測環》が生み出した天体ではない」
緋月が表示を切り替える。
入学式直後の観測データが現れた。
すべての数値は正常。
出力異常なし。
機械的な故障もない。
ただ一つ。
観測対象を示す矢印だけが、通常とは逆方向を向いている。
「《第一宇宙観測環》は、本来こちらから宇宙を観測する装置よ」
「昨日は逆だった」
澄玲が矢印を見つめる。
「観測環を経由して、何者かがこちら側を観測した」
「そう判断している」
「巨大な目は、その観測者か?」
「分からない。相手の姿だったのか、私たちの脳が観測行為を目として認識しただけなのか」
「十三枚の翼は?」
「《第零学部》の紋章と一致する」
緋月が眼帯へ触れる。
そこにも、同じ紋章が刻まれている。
「どうしてあんたが、その紋章を持ってる」
「私にも分からない」
「そんなわけ――」
「この眼帯を入手した経緯も、右目を失った理由も、記憶から消えている」
緋月は平静に言った。
しかし、眼帯へ触れた指にはわずかに力が入っていた。
「残っていた記録によれば、私は三年前の法則災害で右目を失った。けれど、その災害がどこで発生し、何と戦ったのかが記録されていない」
「そこにも灯が関係している?」
「可能性は高い」
緋月は俺の学生証を見た。
「だから私も、黒瀬灯を探している」
初めてだった。
この女が、灯を消そうとする敵ではないと感じたのは。
「昨日は、学生証を消そうとしただろ」
「危険性が分からなかったからよ。今も安全だとは思っていない」
「それでも研究するのか」
「危険だから研究するのよ」
緋月は当然のように言った。
「理解できないものを放置すれば、いつか理解できないまま殺される」
◇
「次に、『私を殺して』という言葉について」
緋月は円形机へ戻った。
机上に「黒瀬灯」という名前が表示され、その周囲に四つの円が現れる。
「現時点で、四つの解釈が考えられる」
一つ目の円が光る。
「第一。言葉どおり、黒瀬灯本人の生命活動を停止させる」
「却下だ」
「最後まで聞きなさい」
「聞く必要はない」
「感情で仮説を排除すれば、研究にならない」
腹は立った。
だが、灯を救うためには可能性を見なければならない。
「……続けてくれ」
「第二。黒瀬灯という人格、または記憶を破壊する」
二つ目の円。
「肉体が別に存在し、その中に閉じ込められた人格だけを消す必要がある可能性」
「助けることにならないだろ」
「現在の人格が、誰かに作られた偽物なら?」
言葉に詰まる。
「第三。黒瀬灯という名前で登録された現象を停止させる」
三つ目の円。
「彼女が既に人間ではなく、扉や観測装置、法則災害そのものになっている場合」
「人間が現象になるのか?」
「命題保持者なら珍しくない。自分の肉体を捨て、能力だけを残した事例もある」
最後の円が光る。
「第四。現在の世界に存在する『黒瀬灯が存在しなかった』という結論を殺す」
「結論を……殺す?」
「言語的な表現よ。存在しない黒瀬灯を消すことで、存在した黒瀬灯を取り戻す」
澄玲が机上の四つの円を見比べる。
「偽の解答を除去し、問題を再定義するということですね」
「そう。昨日聞こえた声が本物なら、彼女は自分の存在が何らかの形で歪められていることを伝えようとした可能性がある」
俺は学生証を見る。
「どれが正しい」
「今は判断できない」
「七日しかないんだぞ」
「だから、七日間で証明するのよ」
緋月が表示を消す。
「学生証に書かれた『命題を証明せよ』という指示。それは、おそらくあなた自身の命題を指している」
「未証明を?」
「命題は、能力者の思想が世界法則として発現したものだと説明したわね」
「ああ」
「けれど、発現しただけでは完成しない」
机上へ三つの単語が表示される。
《前提》。
《論証》。
《結論》。
「命題には三つの基本構造がある。第一話の実演講義でも説明されたはずよ」
「能力の発動条件が《前提》。思想を世界へ浸透させる過程が《論証》。発生する現象が《結論》」
「そのとおり」
緋月が俺の命題を表示する。
――未証明。
《前提》、不明。
《論証》、不明。
《結論》、一時的な真偽判定の停止。
「あなたは《結論》だけを感覚的に使っている」
「《前提》も《論証》も分かっていないということか」
「ええ。それでは命題を証明したとは言えない」
「証明すると、どうなる」
「再現性と適用範囲が大きく向上する。場合によっては、等級も変化する」
緋月は別の能力者の記録を表示した。
同じ炎が、最初は手のひらでしか発生しない。
次の映像では建物を包み。
最後には、街全体の「燃焼した」という過去を作り出している。
「命題の成長は、単純な出力増加ではない。使い手が自分の思想を理解するほど、能力の意味そのものが拡張される」
「炎を大きくするのではなく、燃えるという概念の適用範囲が広がる」
澄玲が言った。
「そのとおり。肉体を鍛えることも、技術を磨くことも重要。けれど最終的に命題の限界を決めるのは、本人がどこまで自己を定義できるかよ」
「俺は何を証明すればいい」
「まず、自分の命題の《前提》を特定する」
緋月が俺を指さした。
「あなたは、どんなときに未証明を発動できる?」
「確定した結果を止めたいとき」
「不十分ね。昨日、私の校正には干渉できた。しかし黒い月が消える現象は止められなかった」
「発動しようとはしてない」
「本当に?」
灯の声が消えた瞬間。
俺は確かに、待てと思った。
消えるなと願った。
それでも能力は発動しなかった。
「意識的な宣言が必要なのではありませんか」
澄玲が言う。
「崖から落ちたときも、学生証を守ったときも、能力名を叫んでいる」
「過去の記録では、無言でも一度発動している」
緋月が俺の入学試験映像を表示した。
試験中、俺へ向けて訓練用の弾丸が放たれる。
俺は能力名を口にしていない。
それでも弾丸は額の直前で停止していた。
「なら、宣言は必須ではない」
「危険が迫っただけでも発動しない。あなたは入学試験で何度か攻撃を受けているから」
「では、共通条件は何でしょう」
澄玲の瞳に数式が走る。
崖から落ちたとき。
弾丸を撃たれたとき。
学生証を消されそうになったとき。
三つの映像が並ぶ。
「すべて、黒瀬零が結果を認識している」
「それだけなら、黒い月の消失にも当てはまる」
緋月が否定する。
「結果に対し、別の可能性を具体的に想定していたのでは?」
澄玲が映像を拡大する。
「落下したが、壁を蹴れば戻れる。弾丸が命中する前に、身体を反らせる。学生証が消える前に、その存在を主張する」
「別の可能性……」
「黒い月のときは、消失を止めた後にどうするかを想定していなかった」
緋月が俺を見る。
「あなたの命題は、単に《結論》を否定する能力ではないのかもしれない」
「じゃあ何だ」
「別の《結論》が成立する余地を残す能力」
確定を遅らせる。
真偽判定を止める。
だが、それだけではない。
俺が別の結果を望み、その可能性を捨てていないとき。
世界が一つの答えへ決まることを拒絶する。
「仮説は立った」
緋月が机を指で叩く。
「次は実験よ」
◇
研究室の奥にある扉が開いた。
その先は、白い壁に囲まれた広大な演習場だった。
床には無数の線と数字が刻まれ、天井には観測機器が並んでいる。
「ここは《法則検証室》。外部へ影響を与えず、命題の発動条件を調べるための施設よ」
「何をする」
「簡単な実験から始める」
緋月が机のような装置へ手を置く。
床の中央から、一体の人形がせり上がってきた。
人間と同じ大きさ。
表面は黒い金属で覆われている。
「第三世代命題観測用自律人形。通称」
「人形なのに博士なのか」
「論文を二百三十七本発表しているから、あなたより遥かに研究実績があるわ」
「人形に負けた……」
「安心してください。私たちの大半が負けています」
澄玲が無表情で慰めてくる。
人形の両目に青い光が灯る。
『被験者、黒瀬零。第五種命題。未証明』
「実験内容は?」
『対象へ物理攻撃を行い、命題の発動条件を測定します』
「簡単な実験じゃなかったのか?」
『簡単です。死亡率は〇・〇三パーセント』
「大学の実験で許される数字なのか、それ」
「法則災害学部では低い方よ」
緋月が答える。
やはり、この大学の安全基準はおかしい。
『実験を開始します』
《ドクター》の右腕が変形する。
黒い銃口が俺へ向けられた。
「待て、心の準備が――」
発砲。
銀色の弾丸が俺の右肩を狙って飛ぶ。
「未証明!」
音が消える。
弾丸が空中で停止した。
一秒。
二秒。
俺は身体を左へ動かす。
効果が切れ、弾丸は背後の壁へ衝突した。
『第一試行、成功』
「今度は、移動しないでください」
澄玲が言った。
「命中を避けるなって?」
「発動後に代替結果を選ばなかった場合を確認します」
「肩に穴が開くだろ」
「治療設備はあります」
「だからって撃たれたくはない」
「実験よ」
緋月に逃げ道を塞がれた。
《ドクター》が再び銃口を向ける。
『第二試行』
発砲。
「未証明!」
弾丸が停止する。
俺はその場から動かない。
二秒後。
弾丸が再び動き出す。
「くっ!」
右肩に衝撃。
弾丸は訓練用だったらしく、肉体を貫通はしなかった。
それでも骨まで響く痛みが走る。
『第二試行、発動成功。結果変更、失敗』
「やっぱり、結果を止めるだけでは意味がない」
俺は肩を押さえた。
「次は?」
「第三試行。発動中に、弾丸が存在しないと考えてください」
「どういうことだ」
「あなたの能力が、望んだ結果を選択するものか確認します」
再び発砲。
「未証明!」
停止した弾丸を見る。
存在しない。
この弾丸は消える。
そう強く念じる。
二秒後。
弾丸は消えなかった。
俺の肩へ命中する。
「痛っ……!」
『第三試行、結果変更失敗』
「願うだけでは駄目」
緋月が記録を見る。
「では、第四試行」
「まだ撃つのか」
「今度は、弾丸を掴みなさい」
「素手で?」
「停止中なら可能でしょう」
《ドクター》が発砲する。
俺は能力を発動した。
弾丸が止まる。
手を伸ばし、指で掴もうとする。
だが、触れた瞬間。
弾丸は空中に固定されたまま、びくともしなかった。
「動かせない!」
「位置そのものが未確定状態へ固定されている?」
澄玲が観測結果を見る。
「黒瀬零の身体だけは、発動中も動けています」
「対象に選んだ現象だけが停止するのか」
俺は弾丸から手を離し、身体を横へ移動した。
効果が切れる。
弾丸が壁へ命中した。
『第四試行、成功』
緋月が空中へデータを並べる。
「結果が見えてきたわね」
「何が分かった」
「あなたは、好きな《結論》を作り出すことはできない。存在する弾丸を消すことも、物理法則を無視して方向を変えることもできない」
「弱いままじゃないか」
「けれど、既に存在する別の可能性を選ぶ時間を作れる」
弾丸が命中する。
避ける。
二つの結果が表示される。
「発動時点で実現可能な別の《結論》が存在し、あなた自身がそこへ到達する行動を取った場合に限り、最初の結果を覆せる」
「能力が勝手に助けてくれるわけではない」
「ええ。あなた自身が、別の答えを証明しなければならない」
緋月が俺の命題情報を書き換える。
――《前提》候補。
――確定しようとする《結論》を認識していること。
――実現可能な別の《結論》を想定していること。
――《論証》候補。
――能力者自身の行動により、別の《結論》へ到達すること。
――《結論》。
――対象となる事象の真偽判定を一時停止する。
「これで証明できたのか?」
「まだ仮説段階」
「七日しかないんだぞ」
「実験を一度行っただけで証明と呼べるなら、大学は必要ないわ」
正論だが、時間がない。
「あと何回撃たれる?」
「少なくとも百回」
「研究室を変えたい」
「配属初日に?」
「配属初日だからこそだ」
そのとき、演習場の入口から拍手が聞こえた。
「いやあ、面白い能力じゃないか」
若い男の声。
振り向くと、一人の学生が扉にもたれていた。
二十歳ほど。
乱れた紺色の髪。
白衣の下には、黒いシャツと色褪せたジーンズ。
首には認証札がいくつも下げられ、右手には食べかけの菓子パンを持っている。
「教授。そいつが例の第五種?」
「遅刻よ、天城」
「昨日から観測環に張りついてたんだ。少しくらい大目に見てくださいよ」
男は俺たちへ近づいてくる。
「《未定義現象研究室》、学部四年。天城朔夜」
軽い口調で名乗り、菓子パンを持ったまま手を差し出した。
「よろしく、新入り」
「黒瀬零」
握手を交わす。
天城の手は、不自然なほど冷たかった。
「九条澄玲です」
「知ってる。筆記首席の天才だろ」
「私の情報も閲覧したのですか」
「今年の首席は有名だからな。そっちの最下位も」
「それ、しばらく言われ続けるのか?」
「首席と最下位が同じ研究室。話題性は抜群だ」
天城は笑いながら、《ドクター》の観測記録へ目を通す。
「なるほど。結果を保留して、その間に自力で別の結果を作る」
「何か分かるのか?」
「先輩を舐めるなよ。俺は能力の実戦運用が専門だ」
彼は食べ終えたパンの袋を丸めた。
「黒瀬。お前の命題は強い」
「教授には第五種が第一種に勝ったと勘違いするなと言われた」
「現時点じゃ弱い。けど、原理は相当危ない」
天城は俺の正面に立つ。
「普通の命題は、自分の答えを世界へ押しつける。俺の炎が正しい。私の理論が正しい。お前の死が正しい。そうやって自分の《結論》を通す」
彼は俺の胸へ指を突きつけた。
「でも、お前は相手の答えに『待った』をかける」
「二秒だけな」
「時間の問題じゃない。第一種の《結論》にすら割り込めることが問題なんだ」
神代緋月の万象校正。
世界の矛盾を訂正する第一種命題。
俺はほんの一瞬とはいえ、それを止めた。
「能力者同士の戦いでは、先に自分の《結論》を成立させた方が有利になる。けどお前は、成立した後から議論をやり直せるかもしれない」
「今は、弾を避ける程度だ」
「だから研究するんだろ」
天城は楽しそうに笑った。
「世界最弱の第五種が、世界の決定に異議を申し立てる。最高に大学らしい能力じゃないか」
「天城」
緋月が低い声で呼ぶ。
「余計な期待を持たせないこと」
「期待じゃなくて評価ですよ」
「未完成の能力は、本人を殺す」
「完成した能力も、だいたい本人を殺しますけどね」
「笑えない冗談ね」
緋月の表情は本気だった。
天城は肩をすくめる。
「それで教授。俺を呼んだのは、観測環の報告だけじゃないでしょう」
「ええ」
緋月が灯の学生証を空中へ表示する。
赤い文字。
残り時間。
妹を殺せという命令。
天城の笑みが消えた。
「これ、《第零学部》の選抜試験に似てますね」
「知ってるのか!」
「落ち着け。似ているだけだ」
天城は表示を拡大する。
「昔の記録にあった。《第零学部》へ入るには、七日間で自分の命題を証明する必要がある」
「本当に《第零学部》は存在した?」
「記録上はな。ただし、その記録が正しい保証はない」
「試験に失敗するとどうなる」
「記録には書かれていなかった」
天城が赤い警告文を見る。
「でも今回は、失敗条件が明記されている」
――黒瀬灯の存在を完全に終了する。
「黒瀬灯は、今も存在が確定していない」
澄玲が言った。
「存在する証拠と、存在しない証拠が両立している。だから『終了する』という処理が可能になる」
「つまり、この試験が終われば……」
「成功しても失敗しても、何らかの《結論》へ確定する可能性が高い」
緋月が答えた。
成功すれば、灯を救えるかもしれない。
失敗すれば、今度こそ完全に消える。
俺の記憶からも。
「残された時間で、俺の命題を証明する」
「ああ」
天城が頷いた。
「ただし、研究室の実験だけじゃ足りない」
「どうする」
「命題の証明には、第三者による再現性の確認が必要だ」
「第三者?」
「自分と指導教員だけで『成功しました』と言っても、研究成果とは認められないだろ」
大学の研究と同じだ。
測定結果。
再現性。
第三者による評価。
「帝都神律大学には、そのための制度がある」
天城が笑う。
「公開査問」
第1話で、警備員が口にしていた言葉。
研究費、施設、学説の正当性などを巡って行われる、学生同士の正式な命題戦。
「自分の理論と能力を、他の能力者との戦闘で証明する」
「戦って勝てばいいのか?」
「それだけなら、ただの喧嘩だ」
緋月が否定する。
「公開査問では、双方が事前に自分の命題の《前提》、《論証》、《結論》を申告する。戦闘中の観測データは大学が記録し、能力の再現性と理論の正確性を審査する」
「能力の説明を相手に教えるのか」
「すべてではない。けれど、自分の能力を説明できない者に、学説を主張する資格はない」
能力の秘密を隠し、初見殺しで倒すだけでは評価されない。
自分の力がどのような原理で動くのかを示し。
相手もそれを理解した上で。
なお、自分の《結論》を通す。
大学だからこその戦い。
「俺が査問に出れば、証明になる?」
「適切な相手と戦い、複数回命題を再現できれば可能性はある」
「相手は誰だ」
緋月と天城が、一瞬だけ視線を交わした。
嫌な予感がする。
演習場の扉が乱暴に開いた。
「おい、最下位!」
聞き覚えのある声。
赤いジャケット。
刈り上げた金髪。
入学式で俺を崖から落とした男――獅堂剛毅が立っていた。
「どうしてお前がここにいる」
「こっちの台詞だ!」
獅堂は俺を指さした。
「入学初日から特別研究室に呼ばれたって聞いたぞ! 第五種のくせに、何をした!」
「崖から落とされた」
「それは関係ないだろ!」
「おそらく、かなり関係があると思います」
澄玲が冷静に補足する。
獅堂は言葉に詰まった。
「神代教授。俺を呼んだ理由は何ですか」
「黒瀬零との公開査問を命じる」
「こいつと?」
獅堂の顔に、獰猛な笑みが浮かぶ。
「いいんですか。実技最下位を相手にしたところで、俺の評価には――」
「あなたは昨日、無許可で学生を危険にさらした」
緋月が遮る。
「査問を受けるなら、処分を軽減する」
「受けます」
即答だった。
「黒瀬零。お前も逃げるなよ」
「逃げる理由がない」
昨日は、こいつの足元を借りなければ崖を越えられなかった。
だが今は違う。
灯の存在が懸かっている。
「査問は、三日後」
緋月が宣言する。
「それまでに、双方は自らの命題構造を提出すること」
獅堂が右足を踏み鳴らした。
床が低く震える。
「俺の命題は既に証明済みだ」
彼の背後で、岩石の柱が隆起した。
「我が立つ地は、俺の意志を支える。俺が支配する地上で、俺より高く立つ者はいない」
大地が王へひざまずくように形を変える。
「第四種命題――万象は我が礎」
獅堂が俺を睨む。
「今度は橋から落とすだけじゃ済まさない」
「その発言も記録しました」
澄玲が端末を掲げる。
「お前、いちいち記録するな!」
「研究者として当然です」
緋月が俺を見る。
「三日で、自分の命題を理解しなさい」
「無茶を言うな」
「七日で妹を救うのでしょう?」
反論できなかった。
「獅堂剛毅の命題は、地面を操作するだけの能力ではない」
緋月は静かに続ける。
「彼が『地上』と認識した領域では、位置、構造、重力方向まで彼の支配を受ける」
「昨日より、ずっと詳しい説明だな」
「公開査問では、知った上で戦うことになる」
獅堂の能力が分かっていても。
地上に立つ限り、逃れられない。
「あなたの未証明が、単なる二秒間の時間稼ぎなら勝てない」
緋月の左目が、俺を射抜く。
「別の《結論》を、自分の手で証明しなさい」
俺は灯の学生証を握った。
残り時間、百五十四時間三分。
三日後の公開査問。
俺より遥かに完成された第四種命題。
自分でも理解できていない、最低等級の能力。
それでも、やるしかない。
世界が《結論》を決めるというなら。
俺は、その《結論》に異議を唱える。
「分かった」
俺は獅堂を見返した。
「三日後、お前を倒す」
「言ったな、最下位」
「ただし、証明するのはお前の敗北じゃない」
右手の甲に、途切れた円環の紋様が浮かび上がる。
「第五種でも、世界の答えを覆せるってことだ」
その瞬間。
灯の学生証が赤く光った。
新しい文章が、一行だけ浮かび上がる。
――第二証明対象を確認。
――対立命題、万象は我が礎。
――証明条件を設定。
続いて表示された条件を見て。
演習場にいた全員が、言葉を失った。
――黒瀬零は、一度も地面へ足を触れずに勝利せよ。




