第二話 存在してはならない扉
『見つけてくれたんだね、お兄ちゃん』
三年間、一度たりとも忘れたことのない声だった。
少し高くて、舌足らずで。
俺を呼ぶときだけ、どこか甘えるように語尾が柔らかくなる。
「灯……!」
黒い扉が、音もなく開いていく。
その向こうにあったのは、校舎の一室ではなかった。
夜だ。
底のない闇の中に、無数の星が浮かんでいる。
ただし、それは空ではない。
星々は頭上だけでなく、足元にも、左右にも、あらゆる方向へ広がっていた。
上下という概念さえ存在しない暗黒の中心を、細い白色の通路がどこまでも伸びている。
通路の左右には、扉が並んでいた。
木製の扉。
錆びついた鉄扉。
病院の自動扉。
巨大な城門。
人間が通るには小さすぎる扉や、山よりも巨大な扉まで。
形も、大きさも、造られた時代さえ異なる無数の扉が、星空の中に整然と並んでいる。
その最奥。
一人の少女が立っていた。
遠すぎて、顔までは見えない。
けれど、その輪郭を見間違えるはずがなかった。
「灯!」
俺は扉へ手を伸ばした。
「触るな!」
背後から鋭い声が飛ぶ。
同時に、赤髪の女の左目が輝いた。
「誤りを訂正する――万象校正」
世界から、一本の赤い線が引かれた。
それは女の左目から伸び、黒い扉を横切った。
ただ、それだけだった。
爆発も、衝撃もない。
なのに扉の向こうに広がっていた星空が、一瞬で消滅した。
扉そのものが閉じたのではない。
扉が存在していたという事実が、最初から間違いであったかのように修正された。
目の前にあるのは、何の変哲もない灰色の壁。
俺が触れていたはずの扉も。
その向こうにいた灯の姿も。
最初から存在していなかった。
「何をした!」
俺は女へ詰め寄った。
「開きかけた接続を遮断した」
「灯がいた!」
「あなたには、そう見えただけよ」
「声も聞いた!」
「それが本人の声である証拠は?」
冷たい言葉だった。
俺は学生証を握る手に力を込める。
「これが証拠だ」
「それは証拠ではない。矛盾の発生源よ」
女の視線が、俺の手元へ落ちる。
「渡しなさい」
「断る」
「命令よ」
「なら、俺は従わない」
空気の温度が下がった。
女は一歩も動いていない。
それでも、皮膚の上から刃物を押し当てられているような圧迫感が全身を包む。
この女は、明らかに新入生とは違う。
獅堂のように、地面を動かしたり橋を作ったりするだけではない。
ただここに立っているだけで、周囲の現実そのものが女の側へ傾いている。
「黒瀬零」
女は俺の名を呼んだ。
「あなたの記憶がどれほど強固であっても、それだけで彼女の存在は証明できない」
「だから調べるんだ」
「調べる?」
「灯がどこにいるのか。三年前に何があったのか。この大学が何を隠しているのか」
「知ったところで、あなたには何もできない」
「それを決めるのはあんたじゃない」
「いいえ」
女の左目に、再び赤い光が灯った。
「世界よ」
俺の手の中で、学生証が震えた。
表面に走っていた文字が、一つずつ薄れていく。
帝都神律大学。
《第零学部》。
世界原理学科。
黒瀬灯。
刻まれていた情報が、上から消されていく。
「やめろ!」
「この学生証は、現在の帝都神律大学が発行したものではない。登録番号も、使用されている材質も、情報記述方式も現行規格と一致しない」
女は淡々と告げる。
「存在しない学部に所属する、存在しない学生の身分証明書。そんなものは、この世界に存在できない」
「存在してる! 俺が持ってるだろ!」
「矛盾は存在の証明にはならない」
学生証から、灯の写真が消え始める。
輪郭が薄れ、黒髪が灰色に溶け、顔が白い空白へ変わっていく。
三年前と同じだ。
写真から灯が消えた。
名簿から名前が消えた。
部屋から生活の痕跡が消えた。
俺以外のすべてから、妹が消えていった。
また奪われる。
ようやく見つけた証拠まで。
「させるか……!」
右手に力を込める。
胸の奥で、何かが軋んだ。
「未証明!」
音が消える。
色が薄れる。
世界が、結論を失った。
消えかけていた灯の写真が静止する。
半分だけ白く染まった顔。
消失したはずの名前。
存在するのか。
存在しないのか。
どちらとも確定していない学生証が、俺の手の中に残った。
赤髪の女が、初めて表情を変えた。
「……私の校正を保留した?」
左目の光が強まる。
学生証の表面に赤い亀裂が走った。
消去される事実と、残ろうとする事実。
二つの結論が、一枚のカードの上で衝突している。
頭の奥に、焼けた針を突き刺されたような痛みが走った。
「ぐ……!」
「手を放しなさい」
「嫌だ」
「あなたの精神が耐えられない」
「それでも、放さない!」
学生証を胸へ押しつける。
効果時間は、二・四秒。
それを過ぎれば、保留されていた結果は再び確定する。
灯の写真も、名前も消える。
今までの俺なら、そう考えていた。
けれど。
九条澄玲は言った。
現象の発生を遅らせるだけなら、空中で静止する理由がない。
俺は、自分の命題を正しく理解していない。
「この学生証は……まだ消えていない」
「何?」
「消えたことが、まだ証明されていない!」
俺は、ただ結果を遅らせているのではない。
何が真実なのか。
どの結論が正しいのか。
それが決定されること自体を止めている。
ならば。
消滅という結果を保留するのではなく。
この学生証が消えるべきものなのかどうか、その前提を疑えばいい。
「存在してはならないなんて、誰が決めた!」
右手の甲に、白い光が浮かぶ。
円環の内側に、途中で途切れた一本の線。
初めて見る紋様だった。
「世界が決めたというなら、その世界の正しさを証明してみろ!」
学生証を覆っていた赤い光が砕けた。
女の長い髪が、衝撃で大きく揺れる。
灰色の壁に亀裂が走った。
亀裂の向こうから、一瞬だけ星の光が漏れる。
「――灯!」
再び扉が現れかけた、そのときだった。
「そこまでです!」
白い光の線が、俺と女の間へ突き刺さった。
光は複雑な図形を描き、互いに衝突していた二つの命題を一時的に分断する。
俺は反動で後方へ倒れた。
「っ……」
背中を地面へ打ちつける寸前、誰かに腕を掴まれた。
「あなたは、会うたびに落下していますね」
銀色の髪が視界に入る。
「九条……?」
「わずか数時間の間に二度です。統計的な偏りを疑うべきでしょう」
「今、それを言う必要あるか?」
「緊張を緩和するための冗談です」
「冗談だったのか、それ」
九条澄玲は俺を立たせると、赤髪の女へ向き直った。
その手には構内案内用の端末が握られている。
「無許可の命題行使は停学処分の対象だと、正門で説明を受けました」
「教員による緊急措置は例外よ」
「学生の所有物を破壊することも?」
「危険物を回収しようとしただけ」
「危険物であると判断した根拠は?」
「あなたに開示する権限はないわ」
「では、黒瀬零の行動が危険だったと判断する根拠も、私には確認できません」
澄玲は真顔で言った。
相手が明らかな格上であっても、一歩も引く気がないらしい。
女は面倒そうに息を吐いた。
「九条澄玲。法則基礎学部一年。入学試験筆記首席、実技第三位」
「私の資料も確認済みですか」
「あなたが不正に閲覧した新入生名簿より、正規の情報よ」
「私の行為を把握していたのですね」
「学内記録に侵入した痕跡を、もう少し綺麗に消すことね」
「次回の参考にします」
「反省しなさい」
どうやら澄玲の不正閲覧は、最初から大学側に知られていたらしい。
赤髪の女は、額を押さえた。
「今年の一年は、どうしてこう問題児ばかりなのかしら」
「獅堂も含まれるのか?」
「彼は単純だから、あなたたちよりは扱いやすいわ」
女は左目を閉じた。
周囲を満たしていた圧迫感が消える。
赤い光が収まると同時に、彼女は右目を覆う眼帯へ指を添えた。
「私は神代緋月。法則災害学部の特任教授よ」
「法則災害学部……」
俺の所属予定先だ。
「黒瀬零。入学時点では、あなたの基礎指導も担当することになっていた」
「過去形みたいに言うな」
「今後も担当できるか、疑わしくなっただけよ」
神代緋月は俺の持つ学生証を見る。
先ほどの衝突によって消えかけていた文字は、元へ戻っていた。
黒瀬灯。
その名前は、確かに残っている。
「その命題は、現象を二・四秒間保留するだけではない」
緋月が言った。
「九条澄玲の指摘どおり、入学時の評価が間違っていたようね」
「俺の能力が、違うものだっていうのか」
「別の能力という意味ではない。能力の解釈が浅すぎるのよ」
緋月は灰色の壁へ近づき、その表面を指でなぞった。
「命題は、本人の願望や思想が世界法則として発現したもの。ゆえに、能力者自身の認識によって作用の形が変わる」
「本人が強いと思えば、強くなるということですか」
澄玲の問いに、緋月は首を横へ振る。
「それほど都合のいいものではないわ。根拠のない思い込みでは、世界を上書きできない」
緋月は俺たちへ向き直る。
「重要なのは、自己理解よ」
「自己理解?」
「なぜ自分はその願いを抱くのか。なぜ他の答えでは駄目なのか。どんな人生を送り、どんな結論へ至ったのか。それらを矛盾なく理解するほど、命題は本来の形へ近づいていく」
緋月は左目を指した。
「私の命題、万象校正は、私が観測した範囲に存在する矛盾を、最も整合性の高い状態へ修正する」
「さっき、扉を消した能力か」
「ええ。現在の帝都神律大学に《第零学部》は存在しない。この壁の向こうに空間はない。黒瀬灯という学生は登録されていない。ならば、現れた扉と学生証は誤りとして排除される」
「随分と一方的な能力ですね」
澄玲が言った。
「何を正しいと判断するかは、あなたの認識に依存するのでは?」
「良い質問ね」
緋月はわずかに口元を緩めた。
「私が好き勝手に正解を決められるわけではない。校正には、比較対象となる記録や法則が必要よ。観測可能な事実の中から、最も矛盾が少ない状態が選ばれる」
「つまり、新しい現象や未知の法則には弱い」
「そのとおり。正誤を判定するための基準がなければ、訂正できない」
澄玲の瞳に興味の光が浮かぶ。
緋月は続けた。
「そして黒瀬零の未証明は、正誤の決定そのものを保留する」
「俺は、結果を遅らせていたんじゃないのか?」
「あなたがそう認識していただけよ」
緋月が俺へ近づく。
「落下したのか、していないのか。学生証が存在するのか、しないのか。あなたの命題は、対立する二つの結論の間に入り込み、どちらが真実であるかという判定を停止させている」
「では、効果時間を過ぎたあとに現象が発生するのは?」
澄玲が尋ねる。
「判定の停止が解除されれば、より強い根拠を持つ結論が採用される。落下の場合、重力と運動の法則が圧倒的に優位だった。だから黒瀬零は再び落下した」
「学生証の場合は?」
俺が尋ねる。
「あなたが存在を主張し、私が存在を否定した。どちらにも証拠がある。判定を一時停止されたことで、私の校正が完了しなかった」
緋月が学生証へ視線を落とす。
「私の万象校正と、相性が悪い命題ね」
「勝ったと思っていいのか?」
「次に同じことをすれば、あなたの精神が先に壊れる」
真顔で言われた。
「今回は、能力の構造が一瞬噛み合っただけ。第五種が第一種に勝利したなどと勘違いしないことね」
「第一種……」
命題等級は、第五種から第一種まで存在する。
第五種は、限定された条件下で小規模な現象を起こせる程度。
第四種は、戦闘や実験で安定して利用できる段階。
第三種以上になれば、一つの施設や都市区画へ影響を及ぼす危険性を持つ。
第二種は、国家規模の災害へ対処できる、あるいは自らが災害となり得る能力者。
そして第一種。
既存の法則を広範囲に上書きし、単独で歴史や文明の在り方を変え得る存在。
世界でも、数十人しか認定されていない。
「教授だったのか……」
「最初に言ったでしょう」
「特任教授とは言ったけど、第一種とは聞いてない」
「聞かれなかったもの」
澄玲のような返答をする女だった。
そのとき、路地の奥から低い警報音が鳴った。
『第七旧研究区画にて、未登録法則反応を検出』
機械的な女声が響く。
『矛盾汚染度、規定値を超過』
『局所整合性、九十七・二パーセント』
『九十六・八』
『九十五・一』
数字が急速に低下していく。
「矛盾汚染?」
俺が尋ねると、緋月の表情が険しくなった。
「この場所から離れるわよ」
「まだ扉を調べてない」
「だから離れるの」
『局所整合性、九十二・四パーセント』
灰色の壁が、波打った。
一瞬だけ、壁の表面に教室の風景が映る。
誰もいない講義室。
血に濡れた廊下。
見たことのない都市。
赤い海。
無数の人間が空を見上げている世界。
異なる光景が、瞬きよりも短い間隔で切り替わる。
「何が起きてる」
「互いに両立しない複数の現実が、この場所へ重なろうとしている」
緋月が説明する。
「通常、世界は一つの歴史と一つの法則体系を維持している。少なくとも、私たちが生活する範囲ではね」
「別の歴史も存在するのですか」
澄玲が食いついた。
「今は講義の時間ではないわ」
「しかし、説明がなければ適切に避難できません」
「あなた、どんな状況でも知識欲を優先するのね」
「知識がなければ、適切な判断はできません」
緋月は短く息を吐いた。
「世界は、人間が昔考えていたほど単純ではない」
壁に映る光景が、さらに激しく入れ替わる。
「私たちが宇宙と呼んでいるものは、観測可能な現実の一領域にすぎない。同じ起源から異なる結果へ分岐した歴史。異なる法則で成立する宇宙。そもそも時間や空間という概念を持たない領域」
「それらが、扉の向こうにある?」
「断定はできない。ただし、先ほど見えた通路が、この世界の内部に存在しないことだけは確かよ」
緋月が俺を睨む。
「黒瀬灯の声に反応して、あなたが接続を強めた。その結果、本来は交わらない複数の現実が、この場所へ流入している」
「俺のせいだっていうのか」
「正確には、あなたと学生証の共鳴が原因ね」
『局所整合性、八十八・九パーセント』
地面が透けた。
足元に、星空が広がる。
無数の扉が並ぶ白い通路。
先ほど見た場所だ。
遠くにいた少女の姿が、少しだけ近づいている。
『お兄ちゃん』
声が聞こえた。
「灯!」
『来ないで』
俺の足が止まる。
先ほどとは違う。
今度の声は、震えていた。
『まだ、こっちへ来ちゃ駄目』
「どこにいる! 何があった!」
『私は――』
少女の声が途切れる。
代わりに、別の声が響いた。
『観測対象、黒瀬零を確認』
男とも女とも判別できない声。
感情のない、冷たい声だった。
『第一接触を終了』
『未証明の成長率を記録』
『次回観測まで、対象世界を保存する』
足元の星空から、巨大な何かがこちらを見上げた。
目だった。
人間のものではない。
星々を瞳孔として、無数の宇宙を内包する巨大な眼球。
それが俺たちの世界を、実験器具の中の細胞でも見るように観察している。
「見るな!」
緋月が眼帯を外した。
隠されていた右目には、瞳がなかった。
白目も、虹彩も存在しない。
眼窩の内側で、赤い文字列が無限に回転していた。
「全観測記録を現行世界へ固定――万象校正!」
赤い光が路地全体を飲み込む。
壁に映っていた異なる世界が、次々と削除されていく。
赤い海が消える。
血に濡れた廊下が消える。
星空が消える。
巨大な眼が閉じる。
『局所整合性、九十一パーセント』
『九十四パーセント』
『九十八パーセント』
最後に、灯の姿が消えた。
灰色の壁が戻る。
警報音が止まり、路地に静寂が訪れた。
緋月の身体が傾いた。
「教授!」
澄玲が支えようとする。
しかし緋月は片手でそれを制し、壁へ手をついた。
右目から赤い血が流れている。
「大丈夫なのか」
「心配されるほど弱くないわ」
「強い奴は目から血を流すのか?」
「第一種にも代償はある」
緋月は眼帯を付け直した。
「命題は万能ではない。世界を上書きするということは、それだけ世界から抵抗を受けるということよ」
「今の声は何だった」
「分からない」
「灯は、どこにいる」
「分からない」
「あの巨大な目は?」
「分からないわ」
緋月は苛立ったように答えた。
「私は第一種能力者であって、全知の神ではない。観測できないものを知ることはできない」
「なら、調べる」
「簡単に言わないで」
「それでもだ」
俺は学生証を握りしめた。
「灯は生きている。少なくとも、あの向こうにいる」
「今の現象が本人によるものだという保証はない」
「それでも、手がかりはできた」
「あなたは自分が見たいものだけを見ている可能性がある」
「そうかもしれない」
俺は否定しなかった。
「それでも、何も見なかったことにはしない」
緋月が俺を見つめる。
しばらく、誰も口を開かなかった。
やがて彼女は諦めたように息を吐く。
「学生証を渡す気は?」
「ない」
「記憶を封印されるのと、どちらがいい?」
「脅してるのか」
「選択肢を提示しただけ」
「どっちも断る」
「そう言うと思ったわ」
緋月は教授服の内側から、小さな黒い端末を取り出した。
空中へ数回触れる。
俺の構内端末が震えた。
画面には、新しい通知が表示されている。
――履修情報が更新されました。
――必修科目が一件追加されました。
「なんだ、これ」
「明日の午前八時。第十三講義棟、地下四階へ来なさい」
「第十三講義棟?」
大学には十二の学部がある。
構内案内図に記載された主要講義棟も、第一から第十二までだ。
「そんな建物、案内図にはありません」
澄玲が言う。
「存在するわ。一般学生には表示されないだけ」
「何の講義ですか」
「講義ではない」
緋月は俺を真っ直ぐに見た。
「今日付で、黒瀬零を法則災害学部特別観測対象に指定する」
「観測対象?」
「その学生証を没収できないなら、所有者ごと管理する」
「人体実験でもするつもりか」
「必要なら」
「帰る」
「冗談よ」
「真顔で言うな」
緋月はわずかに笑った。
この女の冗談は、澄玲以上に分かりにくい。
「表向きは、私の特別研究室へ所属してもらう。通常、研究室への正式配属は三年次以降だけれど、例外措置よ」
「入学初日に研究室配属?」
「おめでとう。異例の早さね」
「全然嬉しくない」
「拒否すれば?」
「あなたが《第零学部》関連施設へ不法侵入し、未登録の危険物を所持し、第一種能力者へ無許可で命題を行使した件について、正式な査問を開く」
「ほとんどあんたのせいだろ」
「それを証明できる?」
腹の立つ言い方だった。
「私も参加します」
澄玲が手を挙げた。
緋月が眉を寄せる。
「何に?」
「特別研究室です」
「あなたは関係ない」
「私は先ほどの現象を観測しました。未知の法則領域に関する一次情報を保有しています。関係者から外す方が非合理的です」
「単に興味があるだけでしょう」
「否定しません」
「帰りなさい」
「拒否します」
「あなたたち、本当に似ているわね」
「どこがだ」
「心外です」
俺と澄玲の声が重なった。
緋月は深くため息をついた。
「分かった。九条澄玲も、暫定観測補助員として登録する」
「ありがとうございます」
「ただし、今日見たものを誰かに話せば――」
「記憶を消しますか」
「単位を消すわ」
澄玲の顔が、初めて明確に強張った。
「それは困ります」
「効果がある脅しで安心したわ」
第一種能力者より、単位の方が恐ろしいらしい。
いかにも大学生だった。
◇
緋月と別れたあと、俺たちは中央区画へ戻った。
つい先ほどまで現実が崩れかけていたとは思えないほど、大学は平穏だった。
新入生たちが構内地図を眺め、部活動や研究会の勧誘を受けている。
広場では音楽系サークルが演奏を始め、屋台では焼きそばや飲み物が売られていた。
世界の裏側へつながる扉が存在していても。
宇宙より巨大な何かに観察されていても。
大半の人間にとって、今日はただの入学式なのだ。
「黒瀬零」
隣を歩いていた澄玲が言う。
「その学生証を見せてください」
「嫌だ」
「奪いません」
「さっきの件があったばかりだから、信用できない」
「私は、あなたを助けました」
「同時に能力を観察してただろ」
「両立します」
「開き直ったな」
それでも俺は学生証を取り出した。
完全に渡すことはせず、自分の手の上に置いたまま澄玲へ見せる。
澄玲は端末をかざし、表面を走査した。
「材質は、一般的な樹脂ではありません」
「何でできてる」
「不明です。端末が物質として認識していません」
「触れるのに?」
「質量も温度も存在する。しかし、元素組成を取得できない」
澄玲の瞳に、複数の数式が流れる。
彼女の世界は解を持つが発動しているのだろう。
「解析できるか?」
「現時点では、問題の定義に必要な情報が不足しています」
「君の能力でも無理なのか」
「私の命題は、何でも知る能力ではありません」
澄玲は端末を下ろした。
「問題として正確に定義できた事象に、実行可能な解法を与える能力です。何を問うべきか分からない場合、解答は得られない」
「便利そうに見えて、面倒なんだな」
「すべての研究がそうです。正しい答えを得るより、正しい問いを立てる方が難しい」
澄玲が学生証を見つめる。
「ですが、一つだけ分かりました」
「何が?」
「この学生証は、あなたが持っているときだけ安定しています」
「俺が?」
「先ほど、神代教授が触れようとした瞬間、表面の情報が崩れました。しかし、あなたが握ると復元した」
「灯が、俺のために残したからじゃないのか」
「可能性はあります。ただし、別の解釈もできる」
澄玲が俺を見る。
「この学生証は、黒瀬灯の存在を証明するものではない」
「どういう意味だ」
「黒瀬零が、黒瀬灯を記憶していることを証明するための物かもしれません」
俺は手の中のカードを見る。
灯の写真。
名前。
《第零学部》という、存在しない所属。
これは灯の学生証ではない。
俺の記憶が正しいと示すための装置。
あるいは。
俺を、あの扉へ導くための鍵。
「いずれにせよ、明日の調査で――」
澄玲の言葉が止まる。
「どうした」
「学生証の裏面を」
俺はカードを裏返した。
そこには先ほどまで、赤い文字でこう書かれていた。
――黒瀬零がこれを発見した場合、直ちに処分せよ。
だが、文章が変わっている。
――第一の証明を確認。
――観測対象、黒瀬零。
――《第零学部》への入学資格を暫定承認。
「入学資格……?」
文字は、さらに増えていく。
――第二の証明を開始する。
――命題を証明せよ。
――期限は七日。
最後に、一行だけ。
他の文章よりも濃い赤色で、警告が刻まれた。
――証明に失敗した場合、黒瀬灯の存在を完全に終了する。
呼吸が止まった。
「七日……」
その瞬間、大学上空に浮かぶ《第一宇宙観測環》が大きく回転した。
銀色の環の中心に、黒い点が生まれる。
点はゆっくりと広がり、太陽の一部を覆い隠した。
昼間の空に、存在しないはずの月が浮かび上がる。
周囲の学生たちが歓声を上げ、端末を向ける。
「珍しい天体現象だ」
「観測環の実演か?」
「入学式の演出じゃない?」
誰も異常だとは思っていない。
けれど俺と澄玲だけは、その黒い月の中心に刻まれたものを見ていた。
十三枚の翼を持つ紋章。
そして。
空から、灯の声が降ってくる。
『お兄ちゃん』
優しく。
けれど、泣いているような声で。
『私を助けたいなら――』
黒い月が、巨大な瞳のように開いた。
『まず、私を殺して』




