第一話 世界が彼女を否定している
世界は、証明された事実によってできている。
空から手を離した石は落ちる。
炎に触れれば火傷する。
死んだ人間は生き返らない。
誰かが生まれたなら、戸籍や記録や、誰かの記憶に残る。
それらは疑う余地のない事実であり、世界を成り立たせる前提だ。
だから三年前、警察官は俺に言った。
『黒瀬灯という少女が存在した記録はありません』
母も言った。
『零に妹なんていないでしょう?』
父も、親戚も、近所の住人も、灯の同級生だったはずの連中も。
誰一人として、俺の妹を覚えていなかった。
写真から姿が消えていた。
学校の名簿から名前が消えていた。
部屋から家具も服も消え、最初からそこには物置しかなかったことになっていた。
黒瀬灯という人間は、生まれていない。
世界中の証拠が、そう結論づけていた。
ただ一人。
兄である俺を除いて。
「――ふざけるな」
だから俺は、世界の方を疑うことにした。
◇
帝都神律大学正門。
そう刻まれた巨大な黒石の門を見上げ、俺は小さく息を吐いた。
門の向こうに広がっているのは、大学と呼ぶにはあまりにも巨大な都市だった。
空を貫く白亜の研究塔。
空中を走る無人軌道車。
幾何学模様を描いて浮遊する講義棟。
遠方にはドーム状の競技施設が並び、さらにその奥では、雲を突き抜けるほど巨大な銀色の環がゆっくりと回転している。
《第一宇宙観測環》。
地上から宇宙の法則を直接測定するための、世界最大級の観測装置らしい。
パンフレットに載っていた写真より、実物はずっと不気味だった。
空に巨大な目が浮かび、人間を見下ろしているように見える。
「新入生の方ですね。学生証を提示してください」
門の脇に立つ警備員に声をかけられ、俺は制服ではなく、新しく買った黒いジャケットの内ポケットから学生証を取り出した。
大学なのだから、当然ながら指定制服などない。
スーツ姿の学生もいれば、パーカーにジーンズの学生もいる。白衣を着たまま歩いている者もいれば、甲冑のような外骨格を身にまとった者までいた。
もっとも、この大学では服装よりも奇妙なものなどいくらでもある。
警備員が俺の学生証を門の端末へかざす。
青白い光が走り、空中に文字列が表示された。
――黒瀬零。
――十八歳。
――基礎課程一年。
――所属予定、法則災害学群。
――命題等級、第五種。
最後の一行が表示された瞬間、警備員の表情がわずかに曇った。
第五種。
正式な異能者として認められる中では、最低の等級だ。
「能力の使用許可範囲は確認していますか?」
「講義区画では原則禁止。実験区画では担当教員の許可が必要。査問施設では双方の合意があれば使用可能」
「よろしい。無許可の命題行使は、軽度でも停学処分の対象になります」
警備員が端末を操作する。
門の中央に、薄い光の膜が現れた。
「こちらを通過してください。《存在照合》を行います」
「存在照合?」
「本人の肉体、精神、記憶、因果履歴が、学生証に登録された情報と一致するか確認します。大公理崩壊以降、外見だけを偽装した侵入者を判別することには意味がありませんから」
平然と恐ろしい説明をする。
俺が光の膜をくぐると、皮膚の内側を冷たい指でなぞられたような感覚が走った。
数秒後、透明な文字が浮かぶ。
――照合完了。
――黒瀬零の存在を承認します。
その文章を見て、胸の奥がわずかに軋んだ。
存在を承認する。
この大学では、人間一人が本物かどうかさえ、機械による確認が必要になる。
「ようこそ、帝都神律大学へ」
警備員が告げる。
「ここは、人間が世界を研究する場所であり――世界が人間を研究する場所です」
◇
正門から入学式会場までは、徒歩で三十分以上かかった。
帝都神律大学は、一つの学校ではない。
十二の学部、百を超える学科、数千の研究室、学生寮、商業施設、病院、発電所、空港、演習場までを内包する独立学術都市だ。
在籍者は学部生だけでおよそ八万人。
大学院生、研究員、教職員、その家族まで含めれば、総人口は三十万人を超える。
能力者を集めた学校と聞けば、異能の使い方を教える訓練施設を想像する者も多い。
しかし、ここでは違う。
学生たちは能力を使うだけでは卒業できない。
自分の能力がどのような条件で発動し、どのような原理で現実へ干渉し、どの程度まで再現できるのか。
それを研究し、実験し、論文として提出しなければならない。
能力は才能であると同時に、研究対象でもある。
そして、研究に失敗すれば留年する。
世界を滅ぼせる異能者であっても、必修単位を落とせば卒業できない。
妙に世知辛い話だ。
「新入生の方ですか?」
案内板の前で立ち止まっていると、横から声をかけられた。
振り向けば、長い銀髪を一つにまとめた少女が立っていた。
白いシャツに細身のパンツ。胸元には俺と同じ、新入生用の青い徽章が留められている。
整った顔立ちだが、その眼差しは人を見るというより、観察対象を測定しているように鋭かった。
「入学式会場なら、中央塔ではありません。今日は第四記念講堂に変更されています」
「変更?」
「午前七時十三分、中央塔内部で小規模な空間断裂が発生しました。講堂の半分が、現在とは異なる時間帯へずれています」
「それは小規模なのか?」
「死傷者は出ていませんから」
この大学の安全基準が早くも不安になってきた。
少女は俺の顔を数秒見つめた。
「あなた、黒瀬零ですね」
「どうして名前を?」
「新入生の能力評価資料を読みました」
「一般学生が見られるのか、それ」
「閲覧制限はありました」
「なら、どうやって読んだ」
「制限を解除しました」
「犯罪の告白をするな」
少女は悪びれた様子もなく、自分の胸元を指した。
「法則基礎学部一年、九条澄玲です」
「黒瀬零。もう知ってるみたいだけど」
「第五種命題、未証明。確定した現象を、およそ二・四秒間だけ未確定状態へ戻す」
「資料を丸暗記してるじゃないか」
「興味深かったので」
「最低評価の能力が?」
「最低評価だからです」
澄玲は淡々と答えた。
「弱い能力には、二種類あります。本当に作用範囲が狭いものと、観測方法が間違っているものです」
「俺のは前者だよ」
「そう断定するには、実験回数が足りません」
研究者らしい言い方だった。
俺が返事をする前に、大学中へ鐘の音が響いた。
ただの音ではない。
空気だけでなく、地面や建物、胸の奥にある骨まで共鳴させるような、重い響き。
周囲を歩いていた学生たちが、一斉に足を止めた。
『新入生諸君』
男の声が、空から降ってくる。
『入学式を開始する。自力で第四記念講堂へ到達せよ』
直後。
目の前にあったはずの道が、消えた。
「は?」
正確には、消失したのではない。
道は存在している。
しかし俺と講堂の間に、巨大な崖が生まれていた。
先ほどまで平坦だったキャンパスがねじれ、地面が幾重にも折り重なり、建物同士の位置関係が完全に変化している。
講堂は数百メートル先に見えているのに、そこへ至る道だけがあり得ない角度で空へ伸びていた。
周囲から悲鳴と歓声が上がる。
「毎年恒例の新入生選別です」
澄玲だけが平然としていた。
「入学試験は合格したんじゃないのか?」
「これは試験ではなく、実演講義でしょう」
『諸君が今見ているものは、命題による現実改変だ』
先ほどの声が続く。
『八十年前まで、人類は世界を不変の法則によって記述できると信じていた。質量、時間、因果、生と死。十分な知識さえあれば、森羅万象は一つの理論へ統合できると考えていた』
折れ曲がった地面の上を、数人の学生が走り出した。
風をまとって飛翔する者。
空中に透明な階段を生み出す者。
自分の身体を光へ変え、崖の向こうへ移動する者。
『しかし、西暦二〇四六年。《大公理崩壊》が発生した』
空に巨大な映像が投影される。
都市の上空に走る亀裂。
逆さまに落下する海。
一日の中で何度も異なる歴史へ変化する街。
そして、人間の言葉に従って形を変える星空。
『世界を支えていたはずの法則が、場所によって異なる振る舞いを始めた。二足す二が四にならない領域。死者が死ぬ前から埋葬されている都市。観測者が眠るたび、異なる過去を獲得する国家』
映像が切り替わる。
炎を背負った一人の男が、崩壊する都市の中央に立っていた。
『そして一部の人間は、自らの思想や願望を、世界へ強制する力を得た』
男が腕を振るう。
炎が広がったのではない。
燃えていなかったはずの建物が、初めから焼失していたという結果へ変化した。
『我々は、その異能を――命題と呼ぶ』
命題。
人間の精神から生じた、個人固有の法則。
ただ熱を発生させるだけなら、それは現象操作にすぎない。
だが命題は、その使い手が抱く思想を世界法則として世界へ押しつける。
先ほどの男の命題が、「我が視界にあるものは、既に燃え尽きている」ならば、炎を防ぐだけでは意味がない。
火が発生するより先に、焼失という結論が成立するからだ。
『命題には、原則として三つの構造が存在する』
空中に文字が浮かび上がる。
《前提》。
《論証》。
《結論》。
『能力を発動するための条件を《前提》。自己の思想を世界へ浸透させる過程を《論証》。その果てに現実となる事象を《結論》と呼ぶ』
澄玲が空中へ手を伸ばした。
彼女の指先に、薄い光の線が集まっていく。
「説明を聞いているだけでは、間に合いません」
「何をする気だ?」
「講堂への最短経路を算出します」
「道がねじ曲がってるのに?」
「道が存在しないことと、到達できないことは同義ではありません」
澄玲の瞳に、複雑な数式が走った。
「私の命題は――世界は解を持つ」
彼女が一歩踏み出す。
何もない空中に、白い正方形が現れた。
二歩目。
さらに次の足場が生まれる。
「私が問題として定義した現象には、必ず一つ以上の解法が存在します」
「それが君の能力か」
「正確には、能力の初期段階です。今の私では、実行可能な手順を可視化することしかできません」
澄玲は、空に浮かぶ足場を駆け上がっていく。
何人かの学生が後に続こうとしたが、彼女が踏み終えた足場はすぐに消滅した。
自分だけが利用できる解答というわけか。
『命題の強弱は、破壊力だけでは決まらない』
空からの講義は続いている。
『適用範囲。発動条件。再現性。そして何より、使い手が己の命題をどれほど深く理解し、肯定しているか』
周囲に残っていた学生たちも、次々と能力を発動し始めた。
俺は崖の手前に立ち、自分の右手を見下ろす。
俺の命題、未証明。
既に起きた現象を、二秒ほど保留する。
それだけだ。
飛べない。
橋も作れない。
この崖を越える役には立たない。
「おい、そこの第五種」
背後から声がした。
振り向くと、大柄な男子学生が立っていた。
刈り上げた金髪に、鍛えられた肉体。赤いジャケットの胸元には、工学系学部の徽章がある。
「黒瀬零だろ。入試実技の最下位」
「有名人になった覚えはないんだが」
「第五種で神律大に入った奴なんて、ここ十年でお前だけだ」
男は崖の向こうを指さした。
「俺の能力なら、向こうまで道を作れる。一緒に来たけりゃ荷物を持て」
「断る」
「意地を張るなよ。能力の弱い奴は、強い奴に使われる。それが一番効率的だ」
「大学へ来てまで、荷物持ちになる気はない」
男の口元が歪んだ。
「なら、ここに残ってろ」
彼が右足を踏み鳴らす。
地面が轟音を上げ、崖の向こうへ向かって一直線に隆起した。
岩石でできた巨大な橋。
男の命題は、おそらく地面や構造物を操作するものだ。
数人の学生が彼へ頭を下げ、橋を渡り始める。
俺も便乗しようと一歩を踏み出した瞬間、男が指を鳴らした。
俺の足元だけ、岩の橋が崩れた。
「――っ」
身体が宙へ投げ出される。
眼下には、底の見えない暗黒。
大学内の演習だから本当に死ぬことはない。
そんな保証は、どこにもなかった。
「未証明!」
俺は右手を握りしめた。
世界から、音が消える。
落下している。
その事実だけが薄くなる。
重力が消えたわけではない。
俺の身体は確かに崖へ落ちた。
ただし、その結果が現実として確定していない。
落下した。
だが、まだ落下したとは証明されていない。
その矛盾した状態が、二秒だけ続く。
俺の身体は崖の途中で静止していた。
「一」
岩壁を蹴る。
「二――!」
崩れかけた橋の縁へ手を伸ばす。
効果が切れた。
保留されていた落下の結果が、一気に俺の身体へ襲いかかる。
全身を下方へ引きずる衝撃。
肩が外れそうになる。
それでも、指は橋の縁にかかっていた。
「なに……?」
金髪の男が目を見開く。
「お前の能力、結果を消すんじゃなかったのか」
「そんな便利なものじゃない」
俺は歯を食いしばり、橋の上へ這い上がった。
「確定を少し遅らせるだけだ」
「それで助かったつもりか?」
男が再び足を上げる。
橋ごと破壊する気だ。
その瞬間、鋭い声が響いた。
「そこまでです」
白い光の線が、男の足元を貫いた。
九条澄玲が、空中の足場からこちらを見下ろしていた。
「新入生同士の能力行使は、相互の同意がない限り禁止されています」
「これは攻撃じゃない。俺が作った橋を消すだけだ」
「橋の上にいる人間が落下すると理解した上で行えば、未必の故意が成立します」
「証拠は?」
「記録しました」
澄玲が小さな端末を掲げる。
男は舌打ちした。
「覚えてろ、最下位」
「できれば名前を名乗ってから言ってくれ」
「獅堂剛毅だ。工学部命題兵装学科」
今度は橋を壊さず、獅堂は向こう岸へ歩いていった。
俺は痛む肩を押さえながら、その背中を見送る。
「助けは不要ではなかったのですか」
澄玲が尋ねる。
「荷物持ちになるのを断っただけだ。救助まで断った覚えはない」
「合理的ですね」
「冷静に崖から見ていた奴に言われたくない」
「あなたの能力が、本当に資料どおりか確認していました」
やはり観察対象にされていたらしい。
「確認した感想は?」
「奇妙です」
「弱すぎるからか」
「いいえ」
澄玲は俺が蹴った岩壁へ視線を向けた。
「現象の発生を遅らせるだけなら、あなたは落下中も運動を続けるはずです。しかし実際には、空中で完全に静止していた」
「だから、落下を未確定にしたんだろ」
「落下が未確定でも、あなたの位置座標まで固定される理由にはなりません」
俺は答えられなかった。
能力の細かい理屈など、考えたこともない。
生き残るため、感覚的に使っていただけだ。
「黒瀬零。あなたは自分の命題を、正しく理解していない可能性があります」
澄玲はそう言い残し、再び光の足場を駆けていった。
その後ろ姿を見ながら、俺は右手を開く。
自分の命題を理解していない。
三年間、灯を探すために何度も使ってきた力だ。
それでも、俺は何も分かっていないのか。
『最後に、諸君へ一つだけ伝えておこう』
空から響く男の声が、一段と低くなった。
『この大学において、教員の言葉は真理ではない。教科書も、学説も、歴史も、世界そのものさえ疑え』
空中の映像が消える。
『学問とは、既にある正解を覚える行為ではない』
折れ曲がっていた大地が、ゆっくりと元へ戻っていく。
『世界の方が間違っていると証明するための技術だ』
足元の崖が消えた。
俺はいつの間にか、第四記念講堂の正面に立っていた。
巨大な扉の上に、この大学の理念が刻まれている。
――真理に服従するな。真理を創造せよ。
世界の方が間違っていると証明する。
そのために、俺はここへ来た。
◇
入学式は、驚くほど普通に終わった。
学長の話。
履修登録の説明。
学生生活に関する注意事項。
異能を用いたカンニングは不正行為にあたるという、当たり前なのか判断に困る説明。
式の終了後、新入生には構内案内用の端末が配布された。
俺は人の流れから外れ、端末の検索欄へ一つの名前を入力する。
黒瀬灯。
検索結果、該当なし。
学生名簿。
研究者名簿。
論文データベース。
過去の事故記録。
すべて該当なし。
「やっぱり、ないか」
最初から期待していたわけではない。
この大学へ来たのは、灯の在籍記録があると思ったからではない。
三年前、灯が消えた夜。
俺は彼女の部屋で、唯一消えずに残っていたものを見つけた。
一枚の紙片。
そこには、帝都神律大学の校章が印刷されていた。
そして、灯の字で一言だけ書かれていた。
――世界の外で待っている。
それだけを手がかりに、俺はこの大学へ入学した。
端末を閉じようとしたとき、不意に画面が乱れた。
「なんだ?」
学生名簿の検索結果に、一瞬だけ文字が浮かぶ。
――検索対象を確認。
――黒瀬灯。
――アクセス権限が不足しています。
心臓が跳ねた。
「待て」
画面に触れる。
しかし表示はすぐに消え、再び「該当なし」へ戻った。
見間違いではない。
確かに名前が表示された。
俺は端末を操作し、先ほどと同じ検索を繰り返す。
何度試しても結果は変わらない。
「アクセス権限が不足しているということは、記録自体は存在する……?」
その瞬間、端末が勝手に地図画面へ切り替わった。
赤い点が点滅している。
現在地から北へ、およそ五百メートル。
表示された場所は、入学案内図では空白になっていた。
目的地の名称も存在しない。
ただ、一本の細い経路だけが示されている。
俺は周囲を確認した。
近くにいた学生たちは、それぞれの端末を見ながら講義棟や寮へ向かっている。
俺の画面を気にしている者はいない。
これは罠かもしれない。
それでも迷う理由はなかった。
赤い点を追い、俺は大学の北側へ向かった。
◇
賑やかな中央区画から離れるにつれて、周囲から人の姿が消えていった。
新しい建物の間に、古びた石造りの校舎が混ざり始める。
壁には蔦が絡み、窓は鉄板で塞がれている。
端末が案内したのは、二つの研究棟に挟まれた狭い路地だった。
行き止まり。
正面には、何の変哲もない灰色の壁があるだけだ。
「ここに何がある」
壁へ手を触れる。
冷たいコンクリートの感触。
その瞬間、端末から機械音が鳴った。
――存在照合を開始。
「存在照合?」
正門で受けたものと同じ表示。
だが、続いて現れた文章は異なっていた。
――申請者、黒瀬零。
――世界登録、正常。
――記憶領域に未登録人物の残存を確認。
――矛盾保持者として暫定承認。
灰色の壁に亀裂が走った。
亀裂は長方形を描き、一枚の扉へ変化する。
取っ手も鍵穴もない、真っ黒な扉。
その中央に、見慣れない紋章が刻まれている。
大学の校章に似ている。
だが本来十二枚あるはずの翼が、十三枚存在していた。
端末に新しい文字が表示される。
――《第零学部》関連施設。
――許可なき立ち入りを禁ずる。
「《第零学部》……」
そんな学部は、大学の案内にも公式サイトにも存在しない。
俺が扉へ近づくと、足元で何かが光った。
一枚のカードが落ちている。
学生証だった。
拾い上げる。
古びてもいない。
まるで、つい先ほど誰かが落としたばかりのように温かい。
表面には、一人の少女の写真が印刷されていた。
少し癖のある黒髪。
笑うとわずかに細くなる目。
俺と同じ形の眉。
忘れるはずがない。
世界中の誰も覚えていなくても。
俺だけは絶対に忘れない。
震える指で、記載された名前をなぞる。
――黒瀬灯。
「灯……」
三年ぶりに、妹の存在を証明するものが俺の手の中にあった。
所属欄には、こう刻まれている。
帝都神律大学。
《第零学部》。
世界原理学科。
そして学生証の裏面には、赤い文字で短い文章が書かれていた。
――黒瀬零がこれを発見した場合、直ちに処分せよ。
背後で、靴音がした。
「それを床へ置きなさい」
振り返る。
路地の入口に、一人の女が立っていた。
黒い教授服。
長い赤髪。
右目を覆う眼帯には、十三枚の翼を持つ紋章が刻まれている。
女は俺ではなく、学生証を見つめていた。
その表情に浮かんでいるのは、驚きでも怒りでもない。
明確な恐怖だった。
「その学生は、この大学に存在してはならない」
俺は学生証を握りしめる。
「存在している」
「記録上は存在しない」
「ここに名前がある」
「その記録そのものが、世界へ深刻な矛盾を発生させる」
「俺には関係ない」
「あるわ」
女の左目が、赤い光を放った。
空気が軋む。
ただ睨まれただけで、俺の身体が、自分自身の輪郭を失っていく。
「あなたがその少女を記憶し続けている限り――」
女は、死刑を宣告するように告げた。
「この世界は完成できない」
俺は学生証を胸元へ押し当てた。
三年前。
誰もが俺に言った。
妹など存在しない。
お前の記憶が間違っている。
現実を受け入れろ。
世界中が俺を否定した。
だから、答えは最初から決まっている。
「だったら――」
俺は女を睨み返した。
「未完成のままで構わない」
世界が灯を否定するなら。
俺が証明する。
世界の方が、間違っていると。
その瞬間。
閉ざされていた黒い扉の向こうから、三年ぶりに聞く声がした。
『見つけてくれたんだね、お兄ちゃん』
扉が、ゆっくりと開き始めた。




