第七十九話 ゼロ秒の向こうに足跡はない
《未統一回答》という文字は、昼を過ぎても六脚の椅子から消えなかった。
《未定義現象研究室》会議区画。昨日まで白い部屋として開かれていた空間は、今では壁のほとんどを失っている。
六つの席。中央の空白。その先に形成された白い門。
さらに向こう側には、下位側の認識へ翻訳された《第三公理階層》の参照表現が、今も遠く広がっている。
直接観測できているわけではない。
互いに異なる《第二公理階層》。その一件一件の内部に、相互に異なる《第一公理階層》が無限に並立する。そして、それら無限に存在する《第二公理階層》そのものを、一つの公理項として扱う上位。
《第三公理階層》。
俺たちは、そこへ異議を提出する資格だけを手に入れた。
――《第六候補》。
――候補名、《未統一回答》。
――構成現在、六件。
ただし。
――身体入域、未許可。
その判定だけは、何度見ても変わらない。
「見すぎだ」
背後から声がした。
「見てるだけだ」
「十一分二十四秒見ている」
「測ってたのかよ」
「治療対象の行動は記録している」
緋月は俺の右肩へ固定膜を追加した。
「痛っ」
「痛むなら動かすな」
「今のは先生が押したからだろ」
「押されて痛む状態で走ろうとしている人間が何を言う」
「今日は走るって言ってない」
「まだ、だろう」
否定できない。
隣では灯が俺の顔を見ていた。
「走るつもりだった?」
「確認くらいはしたかった」
「何を?」
「身体の調子」
「走って?」
「走れば分かる」
「神代先生」
「分かっている」
「何で二対一なんだよ」
「昨日までのお兄ちゃんを見た人数で考えたら、もっと増やせるよ」
「増やすな」
会議区画の解析卓では、玄理が六件分の記録を別々に開いていた。一枚の一覧ではない。
俺。第四候補。三年前の黒瀬零。帝都理法大学の黒瀬零。採択領域から離脱した黒瀬零。そして灯。
六件それぞれの記録が、互いを一つの全体表へ統合しない位置に配置されている。昨日までの査問で、それが必要になった。
誰か一人へ全部を集めない。一つの記録へ全員を押し込めない。一人が欠けても、残った誰かを代わりにしない。一つの名前を共有しても、一人の人物にはならない。
その回答の結果として、六人は六人のまま、一件の《第六候補》を構成している。
「御厨先生」
「何だ」
「まだ何か調べてるのか」
「お前たちの成立状態だ」
「昨日から変わってないだろ」
「変わっていないことを確認するのも観測だ」
「確かに」
「珍しく素直だな」
「珍しくは余計だ」
玄理は俺へ一件の表示を送った。
――《第六候補》。
――候補名、《未統一回答》。
――構成現在、六件。
――代表主体、なし。
――存在格分類。
現在の俺の欄。
――通常時間依存存在。
「名前ついてるのか、それ」
「正式な存在格名称ではない。現状を便宜的に分類しただけだ」
「つまり普通の人間」
「少なくとも、行動成立に通常経過時間を必要としている」
その下には、比較対象としてもう一件。
――神代緋月。
――存在格。
――無刻存在。
「先生だけずるくない?」
灯が言った。
「何がだ」
「みんな入れないのに、一人だけ入れる」
「私が決めた条件ではない」
「でも入れるんでしょ?」
「ああ」
「じゃあ、ちょっとだけ入って中見てきてよ」
「しない」
「即答」
緋月は白い門へ視線を向ける。
「私一人が《第三公理階層》へ入り、六件を代表して内部情報を取得した時点で、回答権が一件へ集中する可能性がある」
「偵察も駄目なのか」
「駄目だとは言っていない」
「じゃあ」
「必要になれば行う。ただし、お前たちが自分で到達する努力を放棄する理由にはしない」
「でも昨日、無刻存在は訓練で手順化されてないって言ってたよな」
「ああ」
「努力って、何をすればいいんだ」
「だから昨日言った」
緋月は俺を見る。
「通常時間側で、今できることを増やせ」
「具体的には?」
「認識。判断。身体制御。上位公理の読解。そして、自分が提出する回答への理解」
そこまで言って、緋月は最後に付け加えた。
「まず治療」
「最後だけ急に現実的だな」
「最優先だ」
「五番目に言ったのに?」
「順番と優先順位は同じではない」
「それ先生が言うと別の意味に聞こえる」
灯が笑った。俺も少しだけ笑う。
だが、白い門の上へ表示されている条件を見れば、笑ってばかりもいられない。
――身体入域最低条件。
――行動成立に経過時間を必要としないこと。
――存在格分類。
――無刻存在。
俺はまだ、そこへ一歩も届いていない。
◇
「それで、何でここに来たんだ」
十五分後。
俺は《未定義現象研究室》地下第三実験区画の透明隔壁の前に立っていた。
正確には、立たされていた。
走行試験場ではない。高出力戦闘訓練室でもない。
隔壁の向こうにあるのは、白い床と六本の透明な柱だけ。各柱の上には、小さな黒い立方体が一つずつ置かれている。
区画名。
《非時刻環境・存在連続性確認室》。
以前にも名前だけは見たことがある。
「歩いていいとは言った」
緋月が答えた。
「実験区画まで来ていいとは聞いてない」
「治療区画と研究区画を結ぶ廊下を歩いただけだ」
「俺が言う側みたいな理屈使うなよ」
「事実だ」
俺の隣には澄玲。少し後ろに玄理、朔夜、獅堂。灯もいる。
ただし灯の視覚補助表示には情報制限がかけられている。前回の査問で五件分の記憶を一時的に流し込まれた影響が、完全に消えたと判断されていないからだ。
残る四件の黒瀬零は遠隔参加。俺たちの前に、それぞれ別の通信窓が開いている。
『で』
第四候補が言った。
『何をするんだ』
「確認だ」
玄理が六本の柱へ計測表示を重ねる。
「無刻存在について、現時点で下位側から確認できる差異を整理する」
「先生が動く?」
俺が聞く。
「ああ」
「本気で?」
「立方体を移動させるだけだ」
「それを本気とは言わないだろ」
「黒瀬零」
「はい」
「今日のお前は観測対象ではない」
「何で釘刺されたんだ」
「顔」
「また顔かよ」
「お兄ちゃん、分かりやすいよ」
「灯まで言うな」
緋月が隔壁の向こうへ入る。
六本の柱。柱同士の間隔は二・〇メートル。最初の柱だけに、黒い立方体が置かれている。残る五つは空だ。
「通常計測を開始する」
玄理が言った。
複数の時計。高速撮像装置。位置計測。空間記録。因果接続記録。公理状態観測。
可能な限り別々の方式で、同じ実験区画を測る。
澄玲が表示を確認した。
「全系統、通常時間に同期しています」
「開始時刻を合わせる必要あるのか?」
「比較のためです」
「でも先生が無刻で動いたら」
「だからこそです」
澄玲は透明隔壁の向こうを見る。
「通常時間から見た時、何が記録され、何が記録されないのかを確認します」
「なるほど」
玄理が緋月へ合図する。
「準備完了」
「分かった」
緋月は最初の柱の前に立ち、右手で黒い立方体へ触れる。
「移動先は?」
「第六柱」
「距離十・〇メートル」
「そうだ」
「通常身体で移す?」
「最初はな」
緋月が立方体を持ち上げた。
次の瞬間、床を蹴る。
速い。だが、見えないほどではない。
一直線に十メートルを移動し、第六柱へ立方体を置く。
計測結果。
――移動距離、一〇・〇メートル。
――通常経過時間、〇・〇三八秒。
――平均移動速度、二六三・一六メートル毎秒。
「普通に速いな」
「通常身体速度だ」
緋月が第六柱の前から答える。
「これが先生の最高速度?」
「違う」
「じゃあどれくらい」
「今の実験には必要ない」
『俺も知りたい』
第四候補。
『同じく』
三年前の俺。
『気にはなる』
帝都理法大学。
『そこだけ五人揃うのやめないか』
採択領域から離脱した俺。
灯が俺たち五件の通信表示を順番に見た。
「五人を一人にしない条件、やっぱり必要だったね」
「昨日もそれ言っただろ」
「何回でも思う」
「実験を続けるぞ」
玄理が強引に話を戻した。
「次だ」
緋月は第六柱の立方体へ触れる。
「同じ距離」
「ああ」
「同じ移動先?」
「第一柱へ戻せ」
「分かった」
緋月が立方体を持つ。
俺は見る。
今度こそ、何か一つでも。
昨日まで見えなかったものを。
「開始」
玄理の声。
次の瞬間。
立方体は第一柱にあった。
「……は?」
瞬きをしていない。視線も外していない。
緋月は第六柱の前にいた。黒い立方体も、確かに右手にあった。
なのに今は、緋月が第一柱の前に立ち、立方体もそこへ置かれている。
「もう一回」
「待て」
玄理が止める。
「記録を確認する」
計測表示が開いた。
――開始前状態。
――神代緋月、第六柱前。
――対象物、第六柱上。
次。
――行動完了後状態。
――神代緋月、第一柱前。
――対象物、第一柱上。
その間。
――通常経過時間。
――〇。
「ゼロ秒」
灯が呟いた。
「違う」
緋月が即座に言う。
「表示は〇だぞ」
「通常時間側で消費された経過時間がないという意味だ」
「同じじゃないのか?」
「同じではない」
玄理が別の計測結果を開く。
――移動距離、一〇・〇メートル。
――通常経過時間、〇。
――平均速度。
――算出不能。
「無限じゃない?」
俺が聞く。
「違います」
澄玲が答えた。
「でも距離を時間で割るなら、一〇をゼロで」
「その計算自体が成立しません」
「ゼロ除算だから?」
「それ以前です」
澄玲は一件目の通常移動記録を横へ置いた。
距離。時間。速度。
三つの関係。
「通常移動では、移動距離と経過時間から速度を定義できます」
「ああ」
「ですが、今の神代先生の行動には、移動過程を測るための通常経過時間そのものが参照されていません」
「〇秒かかったんじゃない?」
「『〇秒という長さの時間を使った』のではありません」
澄玲が首を振る。
「時間を使っていないんです」
言葉が止まった。
緋月が第一柱の横から続ける。
「私が一〇メートルを無限の速度で移動したわけではない」
「じゃあ、何をした」
「一〇メートル先へ移動するという行動を、経過時間を必要としない条件で成立させた」
「……似てるけど全然違うな」
「違う」
玄理が記録を拡大する。
高速撮像装置。
通常移動では、緋月の身体が第六柱から第一柱へ移る途中状態が何百枚も存在している。
だが、《無刻行動》側にはない。
第六柱にいる。
第一柱にいる。
その二件だけ。
「途中の画像が落ちた?」
「機材故障ではない」
「撮影間隔より速かった?」
「その解釈も不適切です」
澄玲が言う。
「撮影間隔の内部を高速で通過したのであれば、より短い間隔で観測できる装置を用意すれば、原理上は途中状態を取得できる可能性があります」
「無刻は違う?」
「はい」
「観測間隔をどこまで短くしても?」
「通常時間を細分化している限り、同じです」
玄理が因果記録を開いた。
――第六柱から対象物を取得。
――第一柱へ対象物を配置。
成立。
だが、その二件を繋ぐ通常時間上の行動履歴。
――該当なし。
「瞬間移動とも違う」
朔夜が言った。
「何で?」
灯が訊く。
「瞬間移動なら、出発位置から消失し、到着位置へ出現するという現象として定義できる」
「先生は?」
「歩いている」
俺は緋月を見る。
「歩いたのか?」
「走った」
「走ってたの?」
「ああ」
「全然見えなかった」
「見える条件にいなかった」
「やっぱり速すぎて?」
「違うと言っている」
少しだけ声が低くなった。
「黒瀬零」
「はい」
「速度へ戻すな」
「分かった」
「本当に?」
「灯まで確認するな」
「だってお兄ちゃん、速さの話好きだから」
「好きっていうか重要だろ」
「重要ではある」
緋月は否定しなかった。
「通常時間側で戦う限り、身体速度は重要だ。だが、それと存在格を混同するな」
「……はい」
「昨日の《前提執行体》を思い出せ」
表示へ別の記録が開いた。
――《前提執行体》。
――通常身体速度、二七三・八メートル毎秒。
――存在格、無刻存在。
「通常身体で動いた時には、二七三・八メートル毎秒という測定値を持つ」
「ああ」
「だが、《無刻行動》を選んだ後の攻防に、その数値は使われなかった」
昨日。
俺も、灯も、澄玲も、玄理も、朔夜も、獅堂も。
次の状態へ進めないまま、緋月と六体の《前提執行体》だけが、経過時間〇の攻防を何十件も成立させていた。
「存在格が違えば」
俺は言う。
「どれだけ通常速度を上げても、同じ攻防には入れない」
「ああ」
「じゃあ、通常速度を鍛える意味は?」
「ある」
即答だった。
「同じ存在格へ到達した後も、身体そのものの性能差は消えない」
「無刻同士でも?」
「ああ」
緋月は自分の右手を見る。
「経過時間を必要とせず行動できることと、その行動でどこまで到達できるか、何を破壊できるか、どの程度の負荷に耐えられるかは別だ」
「じゃあ、無刻存在になったからって、急に身体まで無限に強くなるわけじゃない」
「ならない」
「攻撃力も?」
「別だ」
「防御力も?」
「別だ」
「普通に鍛える必要がある?」
「少なくとも、お前についてはな」
「俺だけ?」
「今の身体を見ろ」
固定膜。治療端子。肋部の保護。
「説得力あるな……」
「理解できたなら座れ」
「立ってるだけなのに」
「十二分立った」
「それくらい」
「昨日の負傷状態を忘れたか」
「覚えてる」
「なら座れ」
「はい」
俺は素直に椅子へ戻った。
灯が小さく笑う。
「最近、言うこと聞くようになったね」
「聞かないと固定増やされるからな」
「学習理由が悪い」
玄理が言った。
◇
「一つ試したい」
俺が言ったのは、その十分後だった。
「却下」
「まだ内容言ってない」
緋月が答える。
「お前が『試したい』と言う場合、身体を使う確率が高い」
「能力だけ」
「内容を言え」
「これ」
俺は先ほどの記録を開く。
――黒瀬零。
――通常移動。
――行動成立に通常経過時間を必要とする。
「これを未証明にする」
空気が少しだけ変わった。
玄理が俺を見る。
澄玲も。
「考えは分かります」
澄玲が先に言った。
「『黒瀬零の行動には通常経過時間が必要である』という結論を未確定化する」
「ああ」
「それで、必要じゃない状態を作れるか試す」
「そう」
「成立しない可能性が高い」
玄理が言う。
「何で?」
「お前の未証明は、確定した結論を一時的に未確定へ戻す」
「ああ」
「反対命題を真にする能力ではない」
言われれば分かる。
それでも。
「試すだけなら」
「身体移動は禁止」
緋月が言った。
「じゃあ何で試すんだ」
「指」
「指?」
「右手人差し指を一センチ動かせ」
「細かいな」
「嫌なら中止する」
「やります」
机の上へ腕を置く。
計測端子。通常時計。位置記録。
玄理が全てを接続する。
「対象結論を限定しろ」
「ああ」
俺は自分の右手を見る。
指先。
今、ここから一センチ右へ動かす。
通常なら筋肉が動き、関節が曲がり、時間が経ち、位置が変わる。
その一連の行動へ、左手を向ける。
「未証明」
世界から、一つの結論だけが僅かに確定を失う。
――黒瀬零の右手人差し指が一センチ移動するためには。
――通常経過時間を必要とする。
――確定保留。
二・四秒。
「動かす」
指へ力を入れる。
一センチ、右へ。
表示。
――移動距離、一・〇センチメートル。
――通常経過時間、〇・一六秒。
「……普通だな」
「普通です」
澄玲が答えた。
「でも『時間が必要』は未確定だった」
「はい」
「なのに時間を使った」
「『必要であることが確定していない』ことと、『時間を必要とせず行動できる』ことは同じではありません」
澄玲は二つの文を並べる。
――時間を必要とすることが確定していない。
――時間を必要とせず行動できる。
「前者から後者は導けません」
「やっぱりか」
「お前は橋を壊しただけだ」
玄理が続ける。
「橋?」
「『必ず時間を使う』という結論へ至る橋を、一時的に完成させなくした」
「でも反対側へ行く橋は作ってない」
「ああ」
「未証明だからって、逆が証明されたわけじゃない」
「そういうことだ」
俺は表示を見る。
二・四秒が終わる。
――通常経過時間を必要とする。
再確定。
「惜しかった?」
灯が訊く。
「全然」
「でも考え方は悪くないと思います」
澄玲が言った。
「そうなの?」
「少なくとも、存在格の条件を能力で直接上書きするだけでは到達できないことが分かりました」
「それ、失敗を前向きに言ってない?」
「失敗から条件を減らすのも研究です」
「九条らしい」
「褒めていますか?」
「褒めてる」
「なら受け取っておきます」
澄玲は少しだけ笑った。
その横から朔夜が表示へ触れる。
「もう一つ分かった」
「何が?」
「未証明で無刻を作れないなら」
朔夜は俺を見る。
「お前自身が変わるしかない」
「……嫌な結論だな」
「嫌なのか」
「楽できない」
「最初から楽をする話ではないだろう」
「天城先輩まで先生みたいなこと言うようになったな」
「一緒にするな」
「聞こえている」
緋月。
「悪口じゃない」
「なら続けろ」
灯が小声で言う。
「ちょっと怒ってる?」
「聞こえてるぞ」
「やっぱり」
◇
実験はそこで終わらなかった。
玄理が新しい記録形式を開く。
「六件全員で同じ試験を行う」
「指を動かす?」
「違う」
「何するんだ」
「通常時間側での基礎値を取り直す」
表示が六つに分かれる。
現在の俺。第四候補。三年前の黒瀬零。帝都理法大学の黒瀬零。採択領域から離脱した黒瀬零。そして灯。
「灯も?」
「私は黒瀬零じゃないんだけど」
「《第六候補》構成現在だから対象になる」
玄理が言った。
「ただし身体負荷試験は個別条件に合わせる」
六件。
同じ候補。
でも、同じ身体ではない。同じ経験でもない。同じ能力でもない。
「項目は?」
第四候補が通信越しに訊く。
「通常時間認識遅延。判断開始までの遅延。身体制御精度。自己身体出力。通常走行可能な対象のみ、自力移動速度。上位公理翻訳情報への処理限界」
「多いな」
『大学の検査って感じする』
三年前の俺。
「大学だからな」
「普通の大学は公理階層に入る検査しないと思う」
灯。
「普通の大学を知らないだろ、お前」
「学校は知ってる」
「そこ張り合うところか?」
「黒瀬零」
緋月が俺を呼ぶ。
「何」
「お前の走行試験はなしだ」
「今の流れで!?」
「治療中だ」
「低速なら」
「なし」
「五十メートル毎秒」
「なし」
「三十」
「なし」
「十」
「歩け」
「十メートル毎秒は歩行じゃないだろ」
「分かっているなら聞くな」
通信窓の向こうから、第四候補が笑っている。
『こっちは走っていいぞ』
「黙れ」
『第二仮設居室の運動区画、使用許可が出た』
「ずるい」
『同じ人間じゃないからな』
一瞬、言葉が止まった。
第四候補も、俺も。
そして。
『……今の便利だな』
「都合いい時だけ別人になるな」
『査問が認めた』
「そうだけど」
灯が笑う。
「ちゃんと別人として喧嘩してる」
「どういう感想だよ」
「いいことなんじゃない?」
少し考えて。
「ああ」
俺は答えた。
「たぶん」
昨日までは、五人の黒瀬零が存在することそのものが問題だった。
本物は誰か。誰を残すか。どの一人へ統合するか。
そんな問いばかりだった。
今は、第四候補が走れる。俺は走れない。
その差に、少し腹が立つ。
それだけだった。
同じ起源だから。同じ能力だから。同じ名前だから。
全部同じである必要はない。
俺たちは、違っていい。
「開始するぞ」
玄理の声で、全員が表示へ向き直った。
◇
一時間後。
俺の検査結果は、あまり面白くなかった。
通常時間認識遅延は前回より僅かに改善。
身体制御は、負傷部位を除いて正常。
上位公理翻訳情報は、《第三公理階層》の参照表現を長時間直接見続けると処理負荷が急激に増大。
自己身体出力は測定制限。
そして走行速度。
――未測定。
「未測定って一番嫌な文字だな」
「治れば測る」
緋月が答える。
「いつ?」
「未定だ」
「三日後?」
「未定だ」
「二日」
「未定だ」
「明日」
「今から一時間、その質問を禁止する」
「前にも聞いたぞそれ!」
「効果がなかったから再実施する」
灯が笑いを堪えている。
「笑うな」
「ごめん」
「全然ごめんって顔じゃない」
「でも」
灯は俺の検査表示を見る。
「認識は少し上がってるんでしょ」
「まあ」
「なら、一個進んだ」
「……そうだな」
俺も表示を見る。
たった一件。
《第三公理階層》へ入れるわけでもない。
無刻存在になったわけでもない。
身体速度が上がったわけでも、攻撃力が増したわけでもない。
でも、昨日までは経過時間〇になった瞬間、何が起きているのかすら分からなかった。
今日は少なくとも、分からない理由が一つ分かった。
ゼロ秒だから見えないわけじゃない。速すぎるから届かないわけでもない。
俺たちは、時間を使うことを前提にしている。
向こうは、その前提を必要としていない。
なら、同じ場所へ立つには速く走るだけじゃ足りない。
でも、速く走ることが無意味なわけでもない。
存在格。
身体。
能力。
認識。
全部、別々に必要になる。
「面倒だな」
「何が?」
灯が訊く。
「強くなるの」
「今さら?」
「今さら」
俺は笑った。
その時だった。
白い門が、一度だけ光った。
「玄理」
緋月の声が変わる。
「見ている」
全員が会議区画側の表示を見る。
《第三公理階層》へ繋がる白い門。
その前へ、新しい記録が開いていた。
昨日の、
――名前を。
――人の代わりにしなかったこと。
――確認した。
あの発信主体未同定記録とは違う。
今回は、明確に査問系統の形式を持っている。
――《第六候補》。
――仮成立状態、継続。
――構成現在、六件。
――身体入域最低条件。
――六件全て、未充足。
「分かってるよ」
俺が言う。
当然、門は反応しない。
表示が続く。
――存在格到達経路。
――既定手順、なし。
「既定手順なし」
灯が読む。
「神代先生の言った通りだね」
「ああ」
さらに一行。
――構成現在ごとの適合差。
――照合を開始。
「適合差?」
俺が読む。
玄理の表情が変わった。
「待て」
六件の名前が並ぶ。
現在の俺。
第四候補。
三年前の黒瀬零。
帝都理法大学の黒瀬零。
採択領域から離脱した黒瀬零。
黒瀬灯。
その横へ、それぞれ異なる白い線が伸び始める。
「全員同じじゃない?」
灯が尋ねた。
「当たり前だ」
玄理が答える。
「六件を別々の現在として成立させた以上、存在格への到達可能性まで同一である保証はない」
「じゃあ」
俺は六本の線を見る。
「誰か一人だけ、先に届く可能性もある」
緋月が黙った。
昨日、彼女自身が言った言葉を思い出す。
――誰か一人を代わりに無刻存在へ押し上げ、代表入域者にしようとするな。
白い門の表示が更新される。
――《第六候補》。
――存在格適合個別照合。
――開始。
六本の線が、一斉に異なる明るさで光った。
俺の線。
第四候補。
三年前の俺。
帝都理法大学の俺。
採択領域から離脱した俺。
灯。
六人は、一人ではない。
だから。
同じ場所へ、同じ順番で、同じ方法で辿り着けるとも限らない。
その当たり前のことを。
今度は、《第三公理階層》の側から問われようとしていた。




