第七十五話 傷つけ合う正しさに帰る場所はない
白い円から伸びた六本の鎖は、空間を渡って近づいてきたわけではなかった。
一本目は、現れた瞬間から俺の胸を貫いている。制服を突き抜けて見える。だが、痛みも出血もない。代わりに、俺の背後へ保持されていた帰還先の記録が強く引かれた。
――現在の黒瀬零。
――帰還座標、帝都神律大学北部法則災害学区。
――独立保持。
――解除を開始。
「……っ」
身体を引かれているわけではない。足は白い床へ立ったまま。それでも、胸の奥から何かが中央の白い円へ引き抜かれようとしている感覚だけはある。
二本目は、《未定義現象研究室》管理区画・第二仮設居室の第四候補。
三本目は、三年前の黒瀬零。
四本目は、帝都理法大学の黒瀬零。
五本目は、採択領域から離脱した黒瀬零。
そして最後の一本は、旧気象観測所への連絡路にいる灯。
六本全てが、別々の現在人物と、その人物へ割り当てられた帰還先を結んでいる。
「身体を引いてるんじゃない」
俺が言う。
「ああ」
玄理が答えた。
「人物と帰還先の対応関係そのものだ」
上位側へ踏み込んだ後、誰として、どの現在へ、どの身体記録を持って戻るのか。その一式が六件の帰還だ。
その六件が、中央へ集められている。
白い円の外周には、六体の《前提執行体》。顔を持たない、細長い白い人影だ。
解析表示。
――通常身体速度。
――全個体、二〇〇メートル毎秒以上。
だが、今さらそれだけを警戒する者はいなかった。
六体の表面には、細い白線が流れている。
――存在格。
――無刻存在。
――《無刻行動》、成立可能。
――同条件の行動への対応、可能。
通常身体を止めても、それだけでは終わらない。
六体が自らの任意で《無刻行動》を選べば、認識、判断、移動、執行。それらを経過時間〇のまま成立させることができる。
その有限の経過時間〇の攻防では、通常時間へ依存する俺たちは同じ攻防過程へ一手も加えられない。
そして、同じ存在格――無刻存在である緋月だけが、相手の《無刻行動》を認識し、経過時間を増やすことなく対応できる。
「鎖を切るな!」
玄理の声が四つの戦場へ響いた。
第四問で重ねられていた《第一公理階層》は既に、それぞれの適用範囲へ分かれている。それでも、六本の鎖だけは《第三公理階層》の査問記録を経由し、全ての戦場へ繋がっていた。
朔夜が、既に構えていた黒い薄刃を止める。
「理由を」
「鎖そのものが帰還経路だ」
玄理が言った。
「切断すれば、統合処理そのものは止められる」
「だが」
「下位側へ帰るための接続まで失う」
「なら」
朔夜が六本を見る。
「引かれるままにしろと?」
「止める方法を探している」
中央では、六本の帰還柱が僅かずつ傾いていく。
一本でも白い円へ完全に取り込まれれば、その一件の帰還座標が代表として採用される。
残る五件の人物、現在時刻、身体記録、関係。それらが、選ばれた一人の記憶、過去、履歴のいずれかへ折り畳まれる。
「また一人にするのか」
「帰還先からな」
玄理が答える。
「久世の目的は、一人だけを助けて帰すことではない」
「下位世界へ保持できる帰還先は一件だけだという条件を先に成立させる」
「その後」
「残り五件を、その一件の内部へ統合する」
第二仮設居室から、第四候補の通信が入る。
『一件しか残せないなら』
映像の向こうでは、左脚の固定具が白く軋んでいる。
『俺を使え』
「却下だ」
即答した。
『お前が決めることじゃない』
「お前が消える前提で話すな」
『現在の帝都神律大学に正規学籍を持っていない』
『六件の中で、帰還先が最も不安定なのも俺だ』
「だから、先に捨てていい理由にはならない」
『六件全部を失うよりはいい』
「まだ失ってない」
『その言い方で』
第四候補が俺を見る。
『いつまで保留するつもりだ』
「答えが出るまでだ」
白い円の前で、久世律真の身体が僅かに沈んだ。
長衣が肩から落ちる。
その内側に、人間の肉体に似たものはなかった。
無数の白線で構成された細身の身体。これまで使用していた投影体より遥かに高密度な《査問執行体》。
両脚を開く。拳を身体の前へ構え、重心を隠さない。
説明のための姿勢ではない。
俺たちの回答を、力で終わらせるための構え。
「回答時間を設定する」
六本の鎖に、同じ数字が浮かぶ。
――帰還座標統合まで。
――通常経過時間。
――一二・〇秒。
十二秒。
それが、俺たち通常時間側へ与えられた行動可能時間だ。
その途中で《前提執行体》が《無刻行動》を選び、緋月との間で何十件の行動が経過時間〇のまま競合したとしても、そこで通常時間は消費されない。
だから、この数字も経過時間〇の攻防の内部では減らない。
俺たちの十二秒と、緋月たちの経過時間〇。
同じ時間軸を別の速度で流れているわけではない。
そもそも、経過時間の有無が違う。
「十二秒で」
俺は久世を見る。
「誰か一人を選べって?」
「選択されなければ」
久世が答える。
「最も安定した帰還先を、自動的に採択する」
「誰だ」
「現在の帝都神律大学に正規学籍を持ち、黒瀬灯との兄妹関係が現行記録へ存在する」
「黒瀬零」
俺の鎖が強く光る。
「俺を帰して、残りを俺の記憶へ入れるのか」
「ああ」
「本人として帰れないなら、それは帰還じゃない」
「六件全てが帰還できない場合より」
久世の答えは変わらない。
「損失は少ない」
「また数の話か」
「下位世界を維持するための判断だ」
「なら」
左手で自分の胸を貫く鎖を掴んだ。
感触はある。冷たくない。硬くもない。重量もない。
「その世界の作り方が間違ってる」
握る。
だが、鎖は指の内側を通り抜ける。
物質ではない。
俺と帰還先。その対応関係が、鎖として見えているだけだ。
残り、一一・二秒。
「九条!」
「はい!」
「一件の座標しか残せないって条件!」
「確認しています!」
澄玲の前に、複数の問いが浮かぶ。
――帰還先とは何か。
――一件の帰還座標は、一件の人物のみを受け入れるか。
――異なる現在人物が、同一座標へ帰還することは可能か。
――帰還先の同一性は、空間座標だけで決定されるか。
世界は解を持つ。
成立可能な解が、白い文字となって広がる。
久世は待たない。
消えた。
次の瞬間、右脇腹。
「――っ!」
攻撃されたと認識した時には、拳が身体を貫くような衝撃を残していた。
白い床が一気に遠ざかる。肺から空気が抜け、視界が暗くなる。
飛ばされた先には、既に久世がいる。
二撃目。
左腕を上げる。右肩を庇う余裕はない。
拳と前腕が衝突する。
骨折はしていない。
だが、左腕全体の感覚が消える。
表示。
――査問執行体。
――通常身体速度。
――七八四・六メートル毎秒。
――マッハ二・二九。
「……また上げたのか」
前の投影体は六二一・七。
今は七八四・六。
影を見ても間に合わない。戦場が移動経路を作る前兆を探す。それも間に合わない。
久世の姿を認識した時には、攻撃もほぼ同時に届いている。
「黒瀬零!」
緋月からの通常通信。
今は《前提執行体》が《無刻行動》を選んでいない。経過時間〇の攻防も成立していない。
だから、俺たちは普通に通常時間の中で話せる。
「身体記録を答えろ!」
「左腕。感覚が薄い」
「右肩は動く」
「動かすな」
「脚は問題ない」
「走行上限は」
「一〇〇」
「守れ」
久世、三度目。
今度は俺ではない。
狙いは俺の背後の帰還柱。
あれへ触れれば、俺の帰還先が最も安定した一件として直接確定される。
「天城!」
「右経路を切る」
黒線。
因果切断。
久世が使用しようとした右方向からの移動経路を切断する。
白い身体が一瞬だけ別方向へ逸れる。
「獅堂!」
「足場を置く!」
金色。
俺と帰還柱の間で床が隆起する。
久世は踏まない。空中で身体を捻り、柱へ。
「九条!」
「上方経路、二件です!」
直接落下。
そして、白い円から伸びる帰還鎖。
「天城先輩!」
「一件切る」
直接落下の因果を切断。
残るのは一件。
久世の右足が、俺の帰還鎖へ触れた。
「鎖を……!」
帰還経路そのものを足場にしている。
切れない。
獅堂の礎にもできない。
久世が頭上を通る。
「お兄ちゃん!」
灯。
「柱!」
「ああ!」
走る。
六〇。
八〇。
九五。
久世はもう柱の前。
俺との距離、一八メートル。
久世の掌と帰還柱は、一メートル未満。
身体速度では絶対に間に合わない。
なら、距離ではない。
久世が柱へ触れ、俺の帰還先を一件の代表帰還先として確定する。
その結果。
「その結論を」
未証明。
「保留する!」
――現在の黒瀬零。
――代表帰還先として確定。
――確定保留。
久世の掌は、既に柱へ触れている。
処理も開始済み。
それでも、俺の帰還座標が代表として採択された、その結果だけはまだ出ない。
残り、九・〇秒。
「接触を止めたわけではない」
久世は右手を柱へ置いたまま言う。
「二・四秒後には確定する」
「その前に」
「どかす」
「現在のお前には不可能だ」
金色の床を蹴る。
速度、一〇〇・〇。
それでも、久世との距離は縮まらない。
久世は右手を柱から離せない。確定を続けるため、俺を迎撃できるのは左腕。
拳自体は見えない。
だが、方向は限られている。
澄玲の表示には、久世の左側に一本の線。
「胸部です!」
沈む。
白い拳が頭上を抜け、風圧が走る。
首が後ろへ持っていかれそうになる。
姿勢を保つ。
懐へ左拳。
久世が左肘で受ける。
衝突。
左手の感覚がさらに薄れる。
「……っ!」
押せない。
出力が違いすぎる。
「獅堂!」
「今、繋ぐ!」
俺の足元から金色の線が伸びる。
第一研究棟の澄玲と朔夜。
旧気象観測所への連絡路の玄理と灯。
地下演習路の獅堂。
第二仮設居室の第四候補。
さらに、三年前の俺、帝都理法大学の俺、採択領域から離脱した俺。
それぞれ別の場所。別の現在。別の身体。
金色の線が、それぞれの足元へ伸びる。
「一つにするなよ!」
「しねえ!」
獅堂が叫ぶ。
「床も!」
「力も!」
「誰の身体も統合しない!」
「全員!」
「自分の場所で踏め!」
朔夜が第一研究棟の床を踏む。
澄玲も、玄理も、灯も。
地下演習路では獅堂が踏み込む。
第四候補は診療椅子の右脚を、第二仮設居室の床へ押しつける。
三年前の俺、帝都理法大学の俺、採択領域を離脱した俺も、それぞれの現在で足を出す。
場所は違う。
速度も、身体も、踏み込みの強さも全て違う。
それでも、全員が自分の立つ場所を自分で踏む。
金色の線を通じて、九件の踏み込みが俺の左脚の下へ集まる。
同じ方向の作用として。
久世の身体が僅かに揺れた。
「力を統合したか」
「違う!」
獅堂。
「別々に踏んだ結果を!」
「同じ方向に使っただけだ!」
押す。
左拳で久世の肘を押し込む。
一センチ。
三センチ。
後退。
柱へ触れていた右手が、僅かに浮く。
「天城!」
「切断する」
黒線。
久世の掌が代表帰還先を確定する処理。
その因果を切断。
柱へ流れていた白い光が途切れる。
俺の保留も役目を終える。
――代表帰還先。
――確定対象。
――なし。
久世の右手が柱から離れた。
「一件目」
息を吐く。
「止めた」
中央の白い円。
――帰還座標統合まで。
――六・一秒。
鎖はまだ引かれている。
直接確定を止めても、時間が切れれば俺の帰還先が自動選択される。
「九条!」
「分かったか!」
「あと一つです!」
澄玲の前で、帰還先の構造が分解される。
空間座標。
現在時刻。
人物参照。
所属世界。
帰還前の身体記録。
帰還後も継続する関係。
「……帰還先は」
澄玲が言う。
「単純な場所じゃありません」
「誰が、どの現在へ、どの身体として、どの関係を保持したまま戻るか」
「それらをまとめた対応関係です」
「それで?」
「一件しか残せないのは」
澄玲の目が白い円へ向く。
「空間座標だけです!」
「どういうことだ」
「中央の円が、下位世界へ開ける物理的な出口」
「それだけは一件しか維持できない」
「ですが!」
「人物参照も!」
「現在時刻も!」
「身体記録も!」
「一件に統合する必要はありません!」
灯が問う。
「同じ場所から、六人とも帰せる?」
「同じ人物としてではありません」
澄玲が答える。
「六件が同じ門を通る」
「でも、門の先ではそれぞれ別の現在へ接続する」
久世が問う。
「一件の座標から、六件の帰還を分離する根拠は」
「現在時刻です」
澄玲の前に六件の時計が開く。
俺は帝都神律大学。
第四候補は第二仮設居室で継続する時間。
三年前の俺は独立した現在時刻。
帝都理法大学の俺は所属側の時間。
採択領域から離脱した俺は外部観測時間。
灯は現在の帝都神律大学。
「六件は」
澄玲が言う。
「最初から、完全に同じ一件の時間だけで生きていません」
「空間座標を共有しても、人物参照と帰還する現在時刻が違えば」
「六件の帰還先を、六件のまま保持できます」
「同じ門から」
久世が答える。
「異なる現在へ退出する」
「はい」
「一件の出口しか開けないという条件には従う」
「はい」
「帰還後の現在だけを六件へ分ける」
「その形式なら、一件の帰還座標と六件の帰還先は両立します」
残り、四・八秒。
「理屈は通る」
玄理。
「だが、記録がない」
「何の」
「一つの門を通った後、複数の人物が互いを統合せず、異なる現在へ帰属した前例だ」
「前例がなきゃ成立しないのか」
「《第三公理階層》の査問では、成立可能性だけでは下位適用の根拠として弱い」
白い円に表示。
――複数帰還形式。
――成立記録、なし。
――下位適用、不能。
「なら」
俺は答えた。
「作る」
「今から?」
灯。
「ああ」
「実際に上位側へ入らなくても」
玄理が白い円を睨む。
「帰還処理だけを一件、試験することはできる」
「失敗したら?」
「六件のうち、対応を失った人物が現在側から外れる」
「却下」
俺が即答した。
「ほかに方法はない」
「実験台にするな」
「既に」
玄理は俺を見る。
「俺たちは査問対象だ」
「御厨先生まで、向こうみたいなこと言うな」
「違う」
玄理は六本の鎖へ手を伸ばした。
「失敗した帰還も、俺が欄外へ残す」
「残せば戻せる?」
「保証はできない」
「だが、何もせず一件へ統合されれば、失敗したという記録すら本人のものとして残らない」
残り、三・九秒。
時間がない。
『やる』
第四候補。
『俺の帰還先を最初に使え』
「またお前か」
『一度、一〇六号室を失った』
『それでも俺は現在側に残った』
『一件の《第一公理階層》から外れた後も、《六件共同前提》によって独立人物として参照された記録がある』
玄理が第四候補の記録を開く。
「前例として最も近いのは事実だ」
『俺を第二仮設居室へ帰す処理を、一件目にしろ』
「消えたら」
『記録に残すなとは言わない』
「本人として戻れ」
第四候補が僅かに笑う。
『そのためにやる』
二本目の鎖が強く光る。
「九条!」
「帰還先を分解します!」
第四候補の帰還先を分解する。
まず、空間座標。
――《未定義現象研究室》管理区画・第二仮設居室。
人物参照。
――第四候補。
現在時刻。
――第二仮設居室で継続中の独立時間。
身体記録。
――左脚固定。
――治療継続。
世界前提。
――単独《第一公理階層》への完全帰属なし。
――《六件共同前提》から独立人物として参照。
「天城先輩!」
「空間座標と人物参照を、一件の帰還先として固定している因果を!」
「分けてください!」
「切れば」
朔夜が言う。
「同じ帰還先として保持できなくなる」
「切断後!」
「別々の条件として、白い円へ接続し直します!」
朔夜が第四候補を見る。
映像の向こうで第四候補が頷く。
黒い薄刃。
「切断する」
第二仮設居室という場所と、第四候補という人物。
その二件を一件の帰還先として固定していた因果が切れる。
二本目の鎖が二つに分かれた。
一方は中央の円へ。
もう一方は第四候補の胸へ伸びる。
身体が透ける。
『続けろ』
「獅堂!」
「場所を支える!」
第二仮設居室の床。
万象は我が礎。
支えるのは第四候補本人ではない。
帰る場所。
それだけだ。
「御厨先生!」
「人物記録は保持した」
玄理の前に白紙。
欄外収蔵。
第四候補の現在人物記録を欄外へ。
第二仮設居室との対応が一時的に切れても、世界本文から外れかけても、本人の現在記録だけは別に残す。
「灯さん!」
澄玲。
「第四候補さんを!」
「今!」
「どう呼びますか!」
「第四候補さん!」
「黒瀬零ではなく?」
「同じ名前だった人でも!」
灯が叫ぶ。
「今ここにいる!」
「第四候補さん!」
現在の呼称が成立する。
黒瀬灯が、目の前の人物を「第四候補」として参照する。
誰か一人の兄という過去の関係ではない。
現在、灯自身が目の前にいる人物を第四候補として参照している。
「黒瀬零さん!」
「ああ!」
白い円。
一件の空間座標しか受け入れない。
そこへ、第四候補という独立した人物参照、別の現在時刻、別の身体記録を重ねる。
前例はない。
成立記録もない。
だから成立不能。
その結論を――
「保留する!」
未証明。
――一件の帰還座標。
――複数人物参照への接続。
――成立不能。
――確定保留。
第四候補の身体が消えた。
「第四候補!」
返事はない。
第二仮設居室には、診療椅子だけが残っている。
第四候補の人物参照は、中央の白い円へ吸い込まれている。
一件の空間座標。
帰還する人物は第四候補。
現在時刻は、第二仮設居室で直前まで継続していた独立時間。
身体は左脚固定、治療継続。
一本の鎖が白い円を通った。
◇
第二仮設居室。
診療椅子の上に白い輪郭。
頭部、胸、右腕、左腕、固定された左脚が、一件ずつ身体記録へ戻る。
『聞こえるか』
第四候補。
「名前!」
『第四候補』
「現在位置!」
『《未定義現象研究室》管理区画』
『第二仮設居室』
「身体!」
『左脚固定』
『新しい損傷なし』
「本人か」
『それを』
第四候補が、いつもの声で返す。
『他人に聞くな』
帰った。
一件の白い円。
一件の出口。
それでも、俺の中へは入っていない。
第四候補は第四候補として、第二仮設居室へ戻った。
残り、二・一秒。
白い円の表示が更新される。
――複数帰還形式。
――成立記録。
――一件。
「通った!」
灯が叫ぶ。
「一件では足りない」
久世が動く。
第四候補の帰還――今生まれた前例を消すため、中央の円へ。
久世は七八四・六メートル毎秒。
俺は一〇〇。
朔夜の黒線も今からでは間に合わない。
獅堂の礎も、新しく作るには遅い。
久世の右手が白い円へ触れた。
同時に、六体の《前提執行体》の表面を流れる白線が一斉に強く発光する。
六体が、自らの任意で《無刻行動》を成立させようとする。
その瞬間から、俺たち通常時間側には次の状態変化が生じなくなった。
◇
経過時間〇。
久世の指は白い円へ触れたまま、動かない。
俺も、朔夜の黒い薄刃も、灯の表情も、第二仮設居室へ帰った第四候補の呼吸も。
通常時間を必要とする全てが、直前の状態から次へ進まない。
七八四・六メートル毎秒。
それほどの通常身体速度でも、久世はこの攻防へ一手も参加できない。
速度が足りないのではない。
軸が違う。
久世の身体は、行動成立に通常時間を必要とする。
一方、六体の《前提執行体》の存在格は、無刻存在。
《無刻行動》。
一体目は、第四候補が通過した帰還経路へ。
――第四候補。
――帰還後人物参照。
――現在の黒瀬零へ再統合。
二体目は、第二仮設居室の第四候補の胸へ。
――帰還結果。
――一時試験。
――正式現在への定着前。
――人物参照を回収。
三体目は、白い円の成立記録へ。
――複数帰還形式。
――成立記録、一件。
――査問結果から除外。
残る三体は、まだ帰還していない五件の鎖へ。
一件の前例がほかへ利用される前に、人物参照と空間座標を再び一件ずつへ結合する。
同時に、《第三公理階層》から十九件の上位固定処理。
第四候補の帰還を、一時的な試験現象として無効にする。
人物参照を現在の黒瀬零へ再統合する。
第二仮設居室への帰還を未成立へ戻す。
複数帰還形式の成立記録を査問結果から外す。
残り五件へ同じ形式を適用できないよう、前例不足へ戻す。
十九件。
経路は異なるが、結論は同じ。
今、経過時間〇の攻防へ参加できるのは、上位固定、六体の《前提執行体》、そして神代緋月。
無刻存在。
「下位側が作った前例を」
声は、俺たちには聞こえない。
「下位側が何もできない条件から消すな」
《前提執行体》一体目。
帰還鎖へ伸ばした白い腕に、緋月の右手。
《無刻行動》。
万象校正。
――第四候補。
――現在の黒瀬零への再統合。
――下位側が同一攻防過程へ介入不能な状態で完了。
――訂正。
人物参照が第四候補へ戻る。
二体目。
既に、第四候補の胸へ触れている。
――帰還後身体。
――試験用仮設記録として回収。
――正式現在への定着。
――取り消し。
緋月が手首へ触れる。
腕力で引き剥がすのではない。
接触と人物記録の回収、その二件の間にある結果へ干渉する。
――下位側で成立済みの帰還。
――上位承認前を理由とした回収。
――下位側回答後の一方的変更。
――訂正。
白い掌が、第四候補の胸から未完了の位置へ戻る。
三体目。
成立記録へ伸びる白い指に、緋月が向かう。
その前に、四体目と五体目が左右から来る。
経過時間を必要とせず、攻撃位置へ。
《無刻行動》を成立させている。
首と右腕へ、白い刃。
緋月は首への一本を外す。
右腕には白い刃。
既に裂けていた手袋を貫き、包帯と皮膚を切る。
血が浮く。
傷は成立している。
痛みも存在する。
ただ、血が床へ落ちるための通常経過時間は、まだ消費されていない。
三体目の指が成立記録へ触れる。
――複数帰還形式。
――成立記録、一件。
――例外記録として除外。
「除外は」
緋月が右手を伸ばす。
「下位側の回答が終わってからにしろ」
万象校正。
成立記録から、
――例外。
その分類だけが剥がれる。
《前提執行体》は止まらない。
第四候補の現在の呼称。
身体記録。
第二仮設居室の床。
治療継続。
《六件共同前提》からの独立参照。
そのどれか一件が切れれば、第四候補を帰還後の現在から外せる。
六体。
理由は異なるが、狙う結果は同じ。
緋月も止まらない。
一件。
三件。
八件。
十六件。
互いの《無刻行動》が、同じ経過時間〇で成立、対応、阻止、再提出を繰り返す。
経過した通常時間は〇。
それでも、有限の攻防の内部では何十件もの行動結果が競合している。
そして、その背後には十九件の上位固定。
緋月は六体へ対応しながら、右手を上位固定文へ向けた。
一件目。
――第四候補の帰還を一時現象として無効化。
切断。
二件目。
――人物参照を現在の黒瀬零へ再統合。
切断。
五件目。
――第二仮設居室への復帰を未成立として再分類。
切断。
十二件目。
――成立記録を査問結果から除外。
切断。
十九件目。
――残る五件への複数帰還形式の適用。
――前例不足により禁止。
切断。
第四候補が本人として帰った。
その回答自体を緋月が作ったわけではない。
一つの門から複数人物が別々の現在へ戻れる。
そう決めたのも緋月ではない。
俺たちが通常時間側で提出し、査問が一度受理した。
その結果を、後から上位側だけでなかったことにする。
それだけを止めている。
十九件目、消失。
六体の《前提執行体》が一斉に緋月へ向く。
白い刃。
帰還鎖を介した人物再分類。
さらに、
――神代緋月。
――査問外部者。
――介入排除。
三方向から同時に、緋月への排除処理。
切断。
左の白い刃を外す。
右は包帯を裂き、傷をさらに深くする。
赤が増える。
それでも、緋月は六体の《無刻行動》を一件ずつ未完了へ戻す。
第四候補へ伸びた腕。
成立記録へ触れようとする指。
残る五本の鎖を俺一人へ統合しようとする処理。
全てを、通常時間側で俺たち自身が対応可能なところまで戻す。
倒さない。
消さない。
無刻存在という存在格も奪わない。
通常時間の進行を許せば、六体は再び下位側の敵として行動できる。
緋月が阻止したものは、俺たちが同一攻防過程へ一手も加えられない状態から、帰還結果を一方的に奪うこと。
それだけ。
通常時間側へ警告文が登録される。
――下位側で成立した回答を、上位側から抹消する処理を切断。
――《前提執行体》。
――存在格、無刻存在。
――六体による《無刻行動》を確認。
――第四候補の帰還結果に対する再統合、回収、例外化を阻止。
――帰還記録、維持。
――下位対象が同一攻防過程へ介入不能な状態での執行完了を阻止。
――通常時間側で、残存執行体へ対処せよ。
緋月は一連の経過時間〇の攻防を終え、通常時間の進行を許した。
◇
久世の指が白い円を押し込んだ。
だが、前例削除は始まらない。
俺たちにとっては一瞬も経っていない。
それでも、六体の《前提執行体》の位置が変わっている。
一体は、第四候補の帰還鎖へ白い指が触れる直前。
一体は、第二仮設居室。第四候補の胸から数センチ。
一体は、成立記録へ触れる寸前。
残る三体は、まだ帰還していない鎖へ。
俺たちの記憶にはない角度。
経過時間〇の攻防で、既に緋月と何十件もの《無刻行動》を競合させた。
その結果だけが、通常時間側へ残っている。
警告。
――下位側で成立した回答を、上位側から抹消する処理を切断。
――《前提執行体》。
――存在格、無刻存在。
――六体による《無刻行動》を確認。
――第四候補の帰還結果に対する再統合、回収、例外化を阻止。
――帰還記録、維持。
――通常時間側で、残存執行体へ対処せよ。
「下位側の結果へ」
緋月の声が通常通信へ戻る。
「上から触れさせるな」
「六体は」
「未完了の位置へ戻した」
「残りは」
「自分たちで止めろ」
「分かった!」
第一研究棟では、朔夜の黒い薄刃が第四候補の帰還鎖へ伸びる《前提執行体》の、人物参照を再統合する因果を切断する。
地下演習路では、獅堂の金色の礎が二体の通常身体を鎖の外へ押し出す。
旧気象観測所への連絡路では玄理。
成立記録を例外へ変更しようとした処理履歴が、白紙になる。
「下位側で成立した回答を」
欄外収蔵。
「失敗記録へ書き換えようとした」
「その履歴自体を」
「欄外へ落とす」
白紙が閉じる。
成立記録へ伸びていた指が、対応先を失う。
灯は第二仮設居室へ呼びかける。
「第四候補さん!」
『聞こえている』
「今いるのは!」
『第二仮設居室』
「誰として!」
『第四候補としてだ』
現在の呼称と人物参照が、第四候補本人へ再び固定される。
三体の通常身体が停止。
残る三体も帰還鎖へ触れる前に、朔夜、獅堂、玄理それぞれの作用で進路を失う。
だが、表面の白線はまだ消えない。
止めたのは通常身体だけだ。
無刻存在としての執行主体まで消えた証拠はない。
「神代緋月」
久世の声に、初めて明確な警戒が混じった。
「私は」
緋月が答える。
「答えを決めていない」
「第四候補を帰したのは黒瀬零たちだ」
「上位削除を阻止した時点で介入している」
「査問結果の改竄と、下位側が一手も成立させられない状態からの一方的な執行を防いだ」
「六体の執行を妨害した」
「下位側が対応できる位置へ戻しただけだ」
「同じ結果だ」
「違う」
緋月の声は変わらない。
「私が六体を破壊し、第四候補の帰還を完成させたなら、私の回答になる」
白線はまだ《前提執行体》に残っている。
「通常身体を止めたのは黒瀬零たちだ」
久世の視線が、会議区画の緋月へ向いた。
その一瞬。
「今だ」
走る。
残り、一・四秒。
距離、二二メートル。
速度、一〇〇・〇。
間に合わない。
久世は白い円へ触れたまま、俺が届くより早く別の下位処理を開始できる。
でも、円から伸びる鎖が一本、俺の左腕の近くにある。
第四候補を帰した帰還鎖だ。
役目を終え、張力を失い、中央へ巻き戻されようとしている。
左手を伸ばし、掴む。
物質じゃない。
だけど今は使える。
この鎖には、第四候補を本人として帰還させた成立結果が通っている。
「獅堂!」
「使え!」
金色。
万象は我が礎。
鎖の巻き戻る先を固定。
中央へ戻ろうとする力を逃がさない。
俺は鎖を引いた。
「黒瀬零!」
緋月の通常時間の声。
「ああ!」
「外部加速は!」
「一歩だけだ!」
次の瞬間、身体が前へ弾かれる。
表示。
――黒瀬零。
――自己走行速度。
――一〇〇・〇メートル毎秒。
――外部帰還経路による加速を検出。
――合成身体速度。
――一一六・八メートル毎秒。
自分の出力が一一六・八になったわけではない。
俺自身は一〇〇。
帰還鎖による外部からの反動を合成して、一一六・八。
それでも、身体へかかる負荷は本物だ。
右肩が軋む。
左脚に衝撃。
視界が揺れる。
「一歩で終わらせろ!」
緋月の言葉は「止めろ」ではない。
「続けるな」。
その一歩で、結果まで出せ。
「ああ!」
鎖の反動。
一一六・八。
久世まで六メートル。
振り向く。
右拳、七八四・六。
見えない。
でも、今の久世は白い円へ触れている。
緋月が止めた上位側の前例削除を諦め、代わりとなる下位処理へ切り替え、俺の接近を止める。
三件を同時に成立させようとしている。
拳を出せる位置は、俺と白い円の間の一件。
「九条!」
「正面!」
澄玲。
「胸部です!」
身体を左へ。
久世の拳が右肩の固定帯を掠める。
「っ!」
鋭い痛み。
布が裂ける。
直撃ではない。
久世の懐へ入り、左拳を握る。
久世の手が白い円から離れようとする。
帰還前例を消す処理を諦め、この《査問執行体》を別の適用点へ退避させる。
その結果。
「まだ帰すな!」
未証明。
――久世律真。
――《査問執行体》の上位側への退避。
――確定保留。
久世律真の本体を閉じ込めたわけじゃない。
七八四・六という通常身体速度も奪っていない。
下位側へ提出された、この高密度《査問執行体》。
こいつがこの適用点から退避を完了した、その結果だけを二・四秒、未確定にする。
十分だ。
左拳を、久世の胸――既に亀裂が残っている場所へ叩き込む。
白い線でできた身体が大きくへこみ、亀裂が広がる。
まだ足りない。
「天城!」
黒い薄刃が、久世の胸の亀裂と、《査問執行体》全体を下位側へ維持する上位接続へ向く。
「切断する」
因果が切れる。
「獅堂!」
久世の背後に金色の足場。
衝撃の逃げ道を塞ぐ。
「御厨先生!」
白紙。
久世が利用していた下位側の退避経路を欄外へ収蔵。
「九条!」
「《査問執行体》の維持点!」
澄玲の表示。
「胸部の亀裂です!」
「灯!」
「お兄ちゃん!」
声。
「今!」
「殴ってるのは誰!」
「俺だ!」
「帰るのは!」
「六人全員だ!」
腰を回し、左脚で踏む。
一一六・八。
外部加速。
その一歩で受けた運動を逃がさない。
拳の先へ。
「これが」
二撃目を久世の胸部へ。
「俺たちの回答だ!」
衝撃。
白い《査問執行体》が内側から砕けた。
胸。
肩。
両腕。
顔。
そこから無数の白線が解けていく。
白い階段の破片のように空中へ散る。
久世の身体は後方へ飛ばない。
上位接続は切断され、退避結果は保留され、背後には金色の礎。
逃げ場はなく、その場で崩壊。
最後に、白い円の前で久世の顔だけが一瞬残った。
「第四候補の帰還を確認」
「ああ」
「一件の門から、異なる人物参照と異なる現在時刻へ接続可能」
「ああ」
「残る五件にも同じ形式を適用するか」
「同じじゃない」
「何?」
「同じ門を使うだけだ」
六本の帰還鎖。
「帰る現在は、それぞれ違う」
久世の輪郭が薄くなる。
「ならば」
「六件全ての帰還を提出しろ」
久世の《査問執行体》が完全に崩れた。
その瞬間、六体の《前提執行体》の表面を流れていた白線が一斉に消えた。
通常時間側で身体を停止させられたからではない。
存在格、無刻存在そのものを失ったわけでもない。
第五問。
下位側回答として、第四候補の複数帰還が一件受理された。
久世の《査問執行体》が破壊されたことで、《第三公理階層》から六体へ与えられていた第五問内での執行経路が閉じる。
――《前提執行体》。
――第五問における執行権限、終了。
――通常身体、停止。
――《無刻行動》による執行経路、閉鎖。
白い身体が崩れる。
今度は、表面に白線も残らない。
少なくともこの第五問の内部で、再び《無刻行動》を行うことはない。
◇
次は、三年前の黒瀬零。
一件の白い円を通過し、暫定滞在区画へ。
過去記録ではなく、独立した現在時刻を持つ一人の人物として帰る。
次は帝都理法大学の黒瀬零。
同じ門。
だが帰る現在は、帝都理法大学側の所属時間。
次は採択領域から離脱した黒瀬零。
旧気象観測所、外部観測時間へ。
次は灯。
現在の帝都神律大学へ。
そして最後に、俺が同じ白い円を通る。
《未定義現象研究室》。
会議区画。
一件の空間座標。
一件の門。
それでも、人物参照、現在時刻、身体記録、帰還後へ継続する関係は別々だ。
誰一人、一件へ統合されない。
六本目の鎖が白い円を通過する。
表示。
――帰還座標。
――一件。
――帰還人物。
――六件。
――人物統合。
――なし。
――現在時刻統合。
――なし。
――帰還後関係の一括継承。
――なし。
――帰還完了。
白い円が閉じる。
六本の帰還柱は中央へ集められなかった。
それぞれが、それぞれの場所、それぞれの現在を保持する。
《上位階層査問》から、新しい判定。
――第五問。
――下位側回答を受理。
――一件の門と、六件の帰還先は両立する。
続いて、《第六候補》の成立条件が追加される。
――第四条件。
――一件の帰還座標を共有しても、六件の帰還後主体を一件へ統合しないこと。
「終わった?」
灯。
「今回の下位査問はな」
玄理。
大学北部へ適用されていた異なる空間規則が、一件ずつ解除される。
反転していた廊下が元へ戻る。
研究棟の中に見えていた青空が消える。
距離を引き延ばされた解析室が本来の位置へ再接続。
地下演習路の開始地点と終了地点が再び分かれる。
旧気象観測所への連絡路では、玄理の欄外に五十六件の歩行記録が消えずに残る。
《前提執行体》。
通常身体。
文字のない記録票。
ただ、存在格そのものを破壊したわけじゃない。
第五問へ接続されていた《無刻行動》の執行経路が閉じた。
それだけだ。
別の査問。
別の権限。
別の身体。
与えられれば、再び現れる可能性はある。
久世律真もいない。
倒したのは本体ではない。
一件の《第二公理階層》から《第三公理階層》の下位査問へ提出されていた、高密度な《査問執行体》。
それでも、初めて久世の下位側の身体を完全に破壊した。
「黒瀬零」
緋月。
俺の前。
「はい」
「左脚を動かすな」
「立ってるだけだ」
「右肩も」
「動かしてない」
「左腕」
「感覚は戻ってきた」
「寝ろ」
「ここで?」
「運ぶ」
「普通に歩ける」
「一一六・八メートル毎秒の負荷を」
緋月が言う。
「治療途中の身体へ入れた」
「外から引かれただけだ」
「身体は区別しない」
胸元を掴まれる。
次の瞬間が訪れるまでの間に、緋月が《無刻行動》を選んだ。
◇
経過時間〇。
俺は緋月に胸元を掴まれた姿勢から、次の状態へ進まない。
灯も玄理も、崩れかけた記録票も、通常時間側の全てがそのまま。
ただし今、緋月と同じ経過時間〇の攻防へ対応してくる《前提執行体》はいない。
第五問における執行経路は閉じている。
緋月は俺の身体を持ち上げる。
右肩へ負荷をかけない。
左脚を固定し、会議区画の寝台へ運ぶ。
検査膜を準備し、傷を確認。
一連の行動を経過時間〇のまま成立させる。
全て終えた後、緋月は通常時間の進行を許した。
◇
景色が変わっていた。
移動途中は見えない。
風も加速も、抱え上げられた感覚も認識できない。
俺にとって次の現在は、既に会議区画の寝台だった。
「本当に速いな」
「速度ではない」
緋月が右肩へ検査膜を当てる。
「私は、行動成立に経過時間を必要としない」
「分かってる」
「なら、通常身体速度と混同するな」
「今のは運ばれた感想だ」
「感想を言う前に、検査を受けろ」
「一発だけって言っただろ」
「二発殴った」
「一歩の中で」
「屁理屈は治療後に聞く」
少し離れたところでは、獅堂が両腕と右脚の再検査を受けている。
朔夜は右腕を治療中。
玄理は欄外収蔵で大量の記録を保持した反動から、一時的に視覚処理を落としている。
澄玲は、複数の《第二公理階層》から提出された多数の《第一公理階層》を同時に問題として保持した際の意識負荷を検査中。
無傷なのは灯。
その灯が椅子を持ってきて、俺の寝台の横へ座る。
「どうした」
「見張り」
「何の」
「お兄ちゃんが、治療終わる前に立たないように」
「神代先生がいるだろ」
「神代先生は、ほかの人も診ないといけないから」
「信用されてないな」
「実績があります」
「九条みたいなこと言うな」
「澄玲さんから教わった」
「余計なことを……」
研究室中央に、白い扉が現れた。
以前、《公理標定室》で見たものに似ている。
ただ、中央には六本の細い線。
玄理が視覚補助表示で解析する。
「《第三公理階層》への異議提出経路だ」
「開いたのか」
「暫定的にな」
扉に文字。
――《上位階層査問》。
――下位側回答。
――第五問まで受理。
――異議提出先。
――《第三公理階層》。
――入域最低条件。
次の表示に、誰もすぐには言葉を出さなかった。
――無刻存在。
「やっぱり」
俺は言う。
「今の俺たちは入れない」
「ああ」
玄理が答え、灯が緋月を見る。
「神代先生なら、条件だけなら満たしてる?」
「ああ」
緋月が白い扉を見る。
無刻存在。
不可逆の存在格分類。
時間停止を使用しているわけではない。
高速移動によって通常時間を置き去りにしているわけでもない。
行動成立のために経過時間を必要としない存在。
その存在格へ属する緋月は、任意に《無刻行動》を成立させることができる。
《前提執行体》も同じ。
無刻存在。
だから、緋月は《前提執行体》の《無刻行動》へ対応できた。
ただし、同じなのは存在格だけだ。
能力、出力、防御、技量、判断、通常時間側の身体速度。
何一つ同等を意味しない。
無刻存在は、経過時間〇で成立する攻防へ互いに対応可能となるための最低条件。
それだけだ。
「一人で行く?」
灯。
「行かない」
緋月が即答する。
「戻る条件が六件分成立しても、入域後の査問を私一人が代表する理由にはならない」
「でも」
「久世はまた来る」
「ああ」
「今度は、もっと強い身体で?」
「可能性は高い」
「《前提執行体》も?」
「別の査問権限を与えられれば、再び来る」
扉の向こうから声。
『一件の門へ』
『六件を帰還させた回答を受理した』
久世律真。
先ほど破壊した《査問執行体》ではない。
位置、距離、方向は不明。
《第三公理階層》の査問記録から、声だけが提出されている。
俺は寝台の上で、顔だけを扉へ向けた。
『次の査問では』
「今度は何だ」
『帰還先ではなく』
白い扉が僅かに開く。
その向こうには、空間として見ることのできない無数の公理項。
相互に異なる《第二公理階層》。
その一件一件が内部に、相互に異なる無限の《第一公理階層》を並立させている。
異なる前提。
異なる公理。
異なる方法で下位世界を成立させる。
『六件が帰還できる世界を』
『誰が維持するのか問う』
「お前が来い」
『次は』
『下位側への執行体だけでは回答にならない』
「なら」
「そこまで行く」
『現在のお前には入域できない』
「知ってる」
『通常時間の速度も』
『まだ足りない』
「それも知ってる」
『二つは別の問題だ』
「ああ」
『七八四・六メートル毎秒の身体へも』
『単独では追随できていない』
「ああ」
『今日の一一六・八は』
『お前自身の出力ではない』
「分かってる」
『無刻存在は』
『通常時間の速度を上げれば』
『その延長で到達できる存在格でもない』
「それも分かってる」
左手を握る。
痛みはある。
感覚も戻っている。
通常時間における身体速度。
そして、経過時間〇で行動を成立させ、同じ条件の行動へ対応できる存在格。
完全に別軸だ。
どれだけ通常時間の中を速く走っても、それだけで無刻存在になるわけではない。
逆も同じ。
無刻存在であるからといって、通常時間側の純粋な身体速度まで無条件に高くなるわけではない。
「だから」
俺は答える。
「通常時間の速さは、自分のものにする」
『入域条件は』
「それとは別に越える」
『方法は』
「まだ知らない」
『回答になっていない』
「今はな」
返答はない。
久世の記録が消える。
白い扉も閉じた。
ただし、扉そのものは研究室から消えない。
五件の黒瀬零を一人へ統合しない。
一件の《第一公理階層》だけを六件全員の正解にしない。
ほかの誰かがいることを、自分が偽物である根拠にも、相手が偽物である根拠にも使わない。
そして、一件の帰還座標を共有しても、六件の帰還後主体を一人へ統合しない。
四つの条件が成立した。
その結果、《第三公理階層》へ異議を提出するための道が、初めて下位世界側へ残った。
俺たちはまだ門を越えられない。
俺の身体は、通常時間の一〇〇メートル毎秒でさえ完全には扱い切れていない。
そして、存在格もまだ無刻存在には届いていない。
それでも、行き先は見えた。
一つの門が、一人分の正解しか通せないとは限らない。
同じ朝へ帰ったとしても、そこから始まる人生まで一つである必要はなかった。




