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『神律大学の未証明者《アンプローヴン》』   作者: 仕儀の反駁
第五章《公理階層》《第六候補》編

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第七十六話 六つの現在を支える輪

 白い扉は閉じたまま、六人分の現在を数えていた。


 《未定義現象研究室》の会議区画。


 その中央に残された扉には、六本の細い線が刻まれている。


 現在の俺。


 第四候補。


 三年前の黒瀬零。


 帝都理法大学の黒瀬零。


 採択領域から離脱した黒瀬零。


 そして、黒瀬灯。


 一件の帰還座標を通りながら、人物参照も、現在時刻も、帰還後の関係も統合されることなく戻った六件だ。


 扉に刻まれた線は、それぞれ異なる周期で明滅していた。


 俺の線は会議区画の時計と同期している。


 第四候補は《未定義現象研究室》管理区画・第二仮設居室で継続する独立時刻。


 三年前の俺は暫定滞在区画。


 帝都理法大学の俺は所属大学側で継続する時間。


 採択領域から離脱した俺は旧気象観測所の外部観測時間。


 そして灯は、現在の帝都神律大学に属する時刻を持っている。


 六件は、同じ門を通ったからといって、同じ場所へ帰ったわけではない。


 同じ時刻へ帰ったわけでもない。


 それでも白い扉は、六件全てを一件の査問結果として数えていた。


「動くな」


 緋月が言った。


「動いてない」


「上半身を起こした」


「座っただけだ」


「寝台へ戻れ」


「扉を見るくらいならいいだろ」


「寝たまま見ろ」


 俺は仕方なく簡易寝台へ背中を戻した。


 右肩には固定膜。左前腕には感覚検査用の端子が取り付けられ、左脚は膝から足首まで薄い治療膜で覆われている。


 現在、自分の身体出力だけで確実に成立させられる最高速度は一〇〇・〇メートル毎秒。


 前の査問で記録された一一六・八メートル毎秒は、俺自身の速度ではない。第四候補の帰還鎖が巻き戻る力を利用した、一歩限りの外部加速を含む合成身体速度だ。


 自己走行速度は一〇〇・〇。


 そこへ外部からの反動が加わった結果が一一六・八。


 数字だけを見て、俺自身の走行能力が向上したと考えることはできない。


「次の走行訓練は?」


「未定だ」


「三日後くらい?」


「未定だ」


「軽い制動確認だけなら」


「未定だ」


「歩行は?」


「治療区画内に限り許可する」


「時速は?」


 緋月は一度、俺を無言で見た。


「今から一時間、その質問を禁止する」


「質問まで制限するのか」


「治療に必要だ」


「どういう医学だよ」


「お前の場合は必要だ」


 寝台の横では、灯が椅子に座ったまま白い扉を見つめていた。


「灯」


「何?」


「疲れたなら仮眠室に行っていいぞ」


「平気」


「目、閉じかけてたけど」


「閉じてない」


「三秒くらい閉じてた」


「瞬き」


「長い瞬きだな」


 灯が言い返そうとした、その時だった。


 扉に刻まれた六本の線が同時に揺れた。


 それまで異なる周期で明滅していた六件が、一度だけ同じ間隔へ揃う。


「玄理」


 緋月が呼ぶ。


「見ている」


 玄理は視覚補助表示を通して白い扉を解析していた。


 欄外収蔵アポクリファ・アーカイヴへ大量の記録を保持した反動で、肉眼による細かな文字の識別はまだ完全には戻っていない。


 扉の前に、新しい判定が開いた。


 ――六件帰還後現在。


 ――人物統合、なし。


 ――時刻統合、なし。


 ――維持参照、未確定。


「維持参照?」


 俺が読み上げると、玄理が答えた。


「帰還させただけでは足りないらしい。六件が下位世界で異なる現在人物として存続するために、その区別を何を基準として維持し続けるのか。その形式を要求している」


「本人が自分で自分を維持すればいいだろ」


「それだけなら、六件それぞれが現在人物として存在する根拠にはなります」


 澄玲が白い扉の前へ移動した。


「ですが、査問の対象は六件の並立そのものです。六件が一つの下位世界に存在しながら、互いへ統合されていないことを継続して示す必要があります」


「また誰か一人に、六人を証明させるつもりか」


「その可能性があります」


 六本の線のうち、灯を示す一本だけが僅かに太くなった。


「灯?」


 俺が身体を起こそうとした瞬間、緋月の左手が額へ触れた。


 力を込められているようには見えない。それでも、俺の身体は寝台から離れない。


「動くな」


「灯の線が」


「見えている」


 表示が更新された。


 ――六件共同現在。


 ――暫定維持参照を選定。


 ――選定条件。


 ――同一起源五件の外部に位置すること。


 ――五件を相互に区別する現在関係を有すること。


 ――現行下位世界に正規の存在登録を有すること。


 そして最後に、一件の人物名が現れた。


 ――暫定維持主体。


 ――黒瀬灯。


「私?」


 灯の声が小さくなる。


 白い扉から六本の光が伸びた。


 五本は、別々の現在にいる五件の黒瀬零へ。


 残る一本は、灯の胸へ。


 同時に、扉の周囲へ六体の白い人影が形成された。


 前の第五問で現れた身体とは違う。顔のない細身の輪郭。その表面を、絶えず白い線が流れている。


 ――《前提執行体》。


 ――第六問執行権限、付与。


 ――存在格。


 ――無刻存在(アンクロノス)


 ――《無刻行動》、成立可能。


 ――同条件の行動への対応、可能。


 第五問で用いられていた執行経路は、既に閉じている。


 だが、新しい査問が始まれば、新しい権限と通常身体、そして新たな執行経路を与えられて再び現れる。


 同じ存在格だからといって、第五問に現れた六体と、今回の六体が同一人物というわけではない。


 査問ごとに提出される、一件ごとの処理主体。


 ただし、その存在格は共通している。


 無刻存在(アンクロノス)


「切る」


 朔夜が黒い薄刃を構えた。


「待て」


 玄理が止める。


「帰還鎖とは違う。今伸びているのは、六件の現在を識別するための参照線だ」


「灯へ集中している」


「ああ」


「切ればどうなる」


「五件を別々の人物として参照する根拠が、一時的に失われる」


「では放置するのか」


「切断対象を特定するまで待て」


「じゃあ、灯に全部流れ込むのを見てろっていうのか!」


 俺は寝台の端を掴んだ。


「お兄ちゃん」


 灯が俺を見る。


「動かないで」


「でも」


「今は、まだ痛くない」


 そう言い終えた直後。


 灯の瞳が大きく揺れた。


「灯?」


「……白い階段」


「何?」


「違う」


 灯は額へ手を当てる。


「私、あそこを走ってない」


「灯」


「地下演習路も……帝都理法大学の講義室も」


 一つの口から、異なる五人分の記憶が、順序もなく漏れ始める。


「一〇六号室の机。三年前の研究棟。旧気象観測所……知らない。私は、そこにいない」


 緋月が灯の前へ膝をついた。


「黒瀬灯。私を見ろ」


「神代先生」


「氏名を答えろ」


「黒瀬、灯」


「現在位置」


「《未定義現象研究室》」


「自分の記憶ではないものを、区別できるか」


「分かる」


 灯は目を閉じた。


「でも、全部こっちへ来る」


「内容を追うな」


「でも、お兄ちゃんたちを区別し続けないと……」


 灯へ繋がった参照線が、さらに強く光った。


「誰が誰なのか、分からなくなる」


「それをお前一人が担う必要はない」


「でも、扉が」


「扉の判定は、回答ではない」


 緋月は灯の瞳と呼吸を確認した。


 現時点で、肉体的な損傷はない。


 だが、五件の黒瀬零をそれぞれ異なる現在人物として識別する処理が、灯一人へ集中している。


 同じ名前。


 同じ起源。


 重なる過去。


 異なる現在。


 その全てを、灯の記憶と認識、そして五人との関係を索引として分類させようとしていた。


「世界の索引にするつもりか」


 俺が言う。


「表現としては近い」


 玄理が答えた。


「五件が誰であるかを、灯との現在関係から逆算する。灯が五人を別々だと識別している間は、五件も別々の人物として維持される」


「灯が区別できなくなれば?」


「同一起源の一件として再分類される可能性がある」


「人質じゃないか」


『維持主体だ』


 白い扉の向こうから、久世の声が届いた。


 姿はない。


 《第三公理階層》の査問記録を介して、通常時間側へ音声だけが提出されている。


『六件を維持するためには、六件を区別する基準が必要になる』


「だから、灯一人へ全部押しつけるのか」


『五件の同一起源主体から独立し、全件との現在関係を成立させられる者として、黒瀬灯が最も適している』


「適してたら、背負わせていいのか」


『一件の維持主体へ集約すれば、下位世界の処理負荷は最小になる』


「灯が壊れる」


『身体損傷は発生していない』


「記憶が混ざってる!」


『五件を区別するために必要な参照情報だ』


「それを壊れるって言うんだよ!」


 白い扉へ手を伸ばそうとする。


 右肩が動くより早く、緋月の手が俺の胸を押さえた。


「黒瀬零」


「止めないでくれ」


「止める」


「灯が」


「お前が今立てば、治療対象を一件増やすだけだ」


「じゃあ、どうする」


「考えろ」


 緋月は俺から視線を外さない。


「走れない時に、走る以外の回答を作れ」


 灯へ集中する六本の線が、さらに太くなる。


 白い扉へ時間が表示された。


 ――暫定維持主体の固定まで。


 ――通常経過時間、一五・〇秒。


「十五秒……」


 澄玲が呟く。


 これは、俺たち通常時間側が考え、動き、回答を作るために与えられた一五秒だ。


 途中で《前提執行体》が《無刻行動》を選び、緋月との間で何十件もの攻防を経過時間〇のまま成立させたとしても、その攻防自体は通常時間を消費しない。


 だから、その間に一五・〇という数値が減ることもない。


 俺たちの一五秒と、緋月たちの経過時間〇は、同じ時間を異なる速度で進んでいるわけではない。


 そもそも、経過時間を必要とするかどうかが違う。


「九条」


 朔夜が呼ぶ。


「問題を変えろ」


「はい」


 澄玲は、白い扉が提出した問いを見る。


 ――六件の現在を、誰が維持するか。


「『誰が』という聞き方自体に、一件の維持主体を置くという前提が含まれています」


『一件へ集中しなければ、維持責任の所在が消える』


「責任の所在と、処理の集中は同じではありません」


 澄玲が問いへ手を触れた。


 世界は解を持つ(エウレカ)


 元の問題の下へ、別の問いが開く。


 ――六件の現在は、どのような参照関係によって維持されるか。


 複数の解が展開された。


 ――一件の外部観測者。


 ――一件の共通記録。


 ――一件の代表主体。


 ――六件それぞれの自己証明。


 ――六件相互の分散参照。


「最後の形式です」


 澄玲が言った。


「一人が六人全てを区別する必要はありません」


「自己証明だけでは、同一起源五件が互いに別人であることを外部へ示せない」


 玄理が答える。


「だから、相互参照を加えます」


「全員が全員を覚えるのか?」


「それでは、灯さん一人へ集中していた負荷を六人へ分配しただけです」


 澄玲は六本の参照線を見た。


「一件が全体を維持する形式そのものをやめます。六件それぞれが自分自身の現在を保持し、さらに別の一件から現在人物として参照される形式にするんです」


「輪にする?」


 灯が尋ねる。


「はい。誰か一人が残る五件全てを背負うのではなく、六件を一方向へ並べて、最後の一件を最初の一件へ戻します」


「一人が全部を覚えなくていい?」


「必要ありません。各自が、自分自身と次の一件だけを保持します」


 六件それぞれが自己参照を持つ。


 さらに、一件ずつ他者参照を持つ。


 全体を一枚の名簿へまとめない。


 六件全てを一人の記憶へ収めない。


 参照関係そのものを、一件の中心へ集中させない。


「記録はどうする」


 玄理が尋ねる。


「御厨先生が一枚の一覧へ保存すれば」


「俺が中央維持主体になる」


「はい。それは避ける必要があります。各人物の欄外へ、一件ずつ別々に保存してください」


「全体表は作らない?」


「作れば、その全体表を所有する主体が新しい代表になります」


「了解した」


 玄理が右手を上げた。


 残り、一一・三秒。


 その時。


 白い扉の奥から、無数の細い線が灯へ向かって伸びた。


 最初から存在していた参照線とは違う。


 下位側がまだ回答を提出していないにもかかわらず、黒瀬灯を正式な単独維持主体として固定しようとする上位処理。


 同時に、六体の《前提執行体》の表面を流れていた白線が強く発光した。


 一体が灯へ。


 二体目が、五件の黒瀬零へ繋がる参照線へ。


 三体目が、澄玲の作った分散参照の解へ。


 残る三体は、玄理、朔夜、獅堂が成立させようとしている下位側の回答へ手を伸ばした。


 六体が、自らの任意で《無刻行動》を選ぶ。


 通常時間を次へ進めることなく。


 経過時間〇の攻防が成立した。


 ◇


 経過時間〇。


 俺は寝台へ横たわった姿勢から、次の状態へ進まない。


 灯の呼吸も次の吸気へ移らず、澄玲の指も、玄理の右手も、朔夜の黒い薄刃も、獅堂が床へ置こうとしていた足も、その状態から変化しない。


 久世の通常時間側へ提出された音声記録も、次の言葉へ進まない。


 時間を止められたわけではない。


 ここで成立している《前提執行体》と緋月の行動が、そもそも経過時間を必要としていないだけだ。


 六体の《前提執行体》。


 存在格、無刻存在(アンクロノス)


 一体目は灯の胸へ白い指を伸ばし、《無刻行動》によって結果を成立させようとする。


 ――黒瀬灯。


 ――六件共同現在。


 ――単独維持主体として固定。


 二体目は、五件の黒瀬零から伸びる参照線を束ねる。


 ――五件人物識別情報。


 ――黒瀬灯の記憶へ常時供給。


 三体目は、澄玲が作った分散参照形式へ触れた。


 ――中央主体を持たない回答。


 ――維持責任不明。


 ――不受理。


 四体目は、玄理が六件へ分散しようとしていた欄外記録を一件の全体表へ統合しようとする。


 五体目は、朔夜が切断しようとしていた集中経路を査問上の必須接続へ変更する。


 六体目は、獅堂が別々に作ろうとしていた六件の足場を、一件の基礎へ統合しようとした。


 さらに《第三公理階層》側から、三十一件の上位固定処理が伸びている。


 黒瀬灯を一件の維持主体として確定する処理。


 灯の現在関係を、五件の人物識別を成立させる唯一の根拠へ変更する処理。


 灯の意識が失われた場合、五件を同一起源主体へ自動統合する処理。


 灯の記憶へ、五件分の識別情報を常時供給する処理。


 分散参照を、中央判断主体不在として不受理にする処理。


 異なる経路から、同じ結論へ向かう。


 黒瀬灯一人へ、六件の現在全てを背負わせる。


 それを、俺たちが一手も成立させられない条件から先に完成させようとしていた。


 だが。


 緋月は、その全てを認識している。


 彼女もまた、無刻存在(アンクロノス)


 相手が経過時間〇で認識し、判断し、行動を成立させるなら、緋月もその行動を同じ経過時間〇の攻防として扱い、自らの《無刻行動》で対応できる。


 一体目。


 灯へ伸びた白い指へ、緋月の右手が重なる。


 《無刻行動》。


 万象校正(エメンダティオ)


 ――黒瀬灯。


 ――単独維持主体として固定。


 ――下位側回答提出前に完了。


 ――訂正。


 灯の胸へ届こうとしていた指が、結果を完成させられない位置へ戻される。


 その間にも、二体目は五本の参照線を束ねようとした。


 緋月が外す。


 三体目は、澄玲の分散参照形式を不受理へ変更する。


 訂正。


 玄理の分散記録を一件の全体表へ集約しようとする処理。


 訂正。


 獅堂が分けようとしている六件の足場を、一件の礎へ統合しようとする処理。


 訂正。


 《前提執行体》は止まらない。


 一件を未完了へ戻されれば、別の理由から同じ結果を提出する。


 兄妹関係。


 学籍。


 帰還記録。


 人物参照。


 現在時刻。


 《六件共同前提》。


 灯を中央維持主体とするために利用できる要素を、一件ずつ選び直してくる。


 緋月も、それらへ一件ずつ対応する。


 一件。


 四件。


 十一件。


 二十三件。


 通常時間側で経過した時間は〇。


 それでも、同じ経過時間〇の攻防の中では、《前提執行体》と緋月が何十件もの《無刻行動》を成立させ、互いの行動へ対応し、結果を競合させている。


 白い刃が緋月の右腕へ向かった。


 ――神代緋月。


 ――下位査問外部者。


 ――排除。


 緋月は、その排除結果を訂正する。


 別の一体が背後へ回る。


 通常時間側の速度で回り込んだわけではない。


 《無刻行動》によって、経過時間〇のまま攻撃位置へ行動を成立させている。


 首へ伸びる白い刃。


 緋月は振り返らず、その攻撃が首へ届くという完了結果を外した。


 だが、その間に正面から来た一撃が、右手の包帯を裂いた。


 血が傷口から浮く。


 傷も、痛みも存在している。


 ただし、血液が床へ落下するための通常経過時間は、まだ一切消費されていない。


 緋月は六体の《無刻行動》へ対応しながら、三十一件の上位固定処理へ右手を向けた。


 一件目。


 ――黒瀬灯を単独維持主体として確定。


 切断。


 七件目。


 ――灯の記憶を、五件の識別情報を保持する唯一領域へ変更。


 切断。


 十三件目。


 ――灯の意識喪失時、五件を自動統合。


 切断。


 二十二件目。


 ――分散参照を、中央判断主体不在として不受理。


 切断。


 そして三十一件目。


 ――下位側回答完成前に、一件の維持主体を必須と確定。


 切断。


 それ以上には触れない。


 六件の現在をどう維持するのかという問いそのものは消さない。


 分散参照が正解だと、緋月が決めることもしない。


 ただ、黒瀬灯を唯一の答えとして、俺たちが何もできない条件から先に確定することだけを止める。


 三十一件目を切断された直後、六体の《前提執行体》が一斉に緋月へ向きを変えた。


 白い刃。


 人物再分類。


 維持主体の強制指定。


 複数の《無刻行動》が、異なる方向から成立を求める。


 緋月はその一件ずつへ対応し、灯、澄玲、玄理、朔夜、獅堂へ向けられていた執行結果を、通常時間側で対処可能な位置まで戻していった。


 六体を倒したわけではない。


 無刻存在(アンクロノス)という存在格を消したわけでもない。


 通常時間の進行を許せば、六体は再び下位側の敵として動くことができる。


 ただ。


 俺たちが同じ攻防過程へ一手も加えられないまま、灯を単独維持主体として固定する。


 その完了だけは許さなかった。


 緋月は、通常時間側へ残す警告文を登録する。


 ――黒瀬灯への単独維持主体指定を切断。


 ――《前提執行体》。


 ――存在格、無刻存在(アンクロノス)


 ――六体による《無刻行動》を確認。


 ――分散参照形式への不受理処理を阻止。


 ――下位対象が同一攻防過程へ介入不能な状態での執行完了を阻止。


 ――維持形式、下位側回答待ち。


 ――残存執行体へ、通常時間側で対処せよ。


 右手の包帯へ、新しい赤が広がっている。


 緋月は一連の経過時間〇の攻防を終えた。


 通常時間の進行を許す。


 ◇


 灯へ迫っていた白い指が、胸の数センチ前から通常時間側の動作を再開した。


 五件の参照線を束ねようとしていた別の《前提執行体》も、俺たちの記憶にはない位置まで進んでいる。


 澄玲の解へ伸びていた白い腕。


 玄理の右手を掴もうとしていた指。


 朔夜の黒い薄刃へ触れようとしていた掌。


 獅堂の足元へ入り込んだ白い線。


 俺たちにとっては、一瞬も経っていない。


 それでも六体は、その経過時間〇の攻防で、既に緋月と何十件もの《無刻行動》を競合させていた。


 その結果だけが、通常時間側へ残っている。


 視界の端に警告文が開いた。


 ――黒瀬灯への単独維持主体指定を切断。


 ――《前提執行体》。


 ――存在格、無刻存在(アンクロノス)


 ――六体による《無刻行動》を確認。


 ――分散参照形式への不受理処理を阻止。


 ――下位対象が同一攻防過程へ介入不能な状態での執行完了を阻止。


 ――維持形式、下位側回答待ち。


 ――残存執行体へ、通常時間側で対処せよ。


「上から灯を確定する処理は切った」


 通常時間側へ戻った緋月が告げた。


「六体は未完了の位置へ戻している。残りは下位側で答えろ」


「先生」


「話は後だ」


「手が」


「後だ」


 残り、一〇・八秒。


「始めます!」


 澄玲が六件へ通信を開いた。


「各自、まず自分の現在を答えてください。その後、私が指定する一件を、別の現在人物として参照してください!」


 俺の前へ、最初の表示が開く。


 ――自己参照。


 ――黒瀬零。


 ――現在位置、《未定義現象研究室》会議区画。


 ――身体記録、治療継続。


「黒瀬零。俺は、俺の現在を保持する」


 次に、第四候補の記録が表示された。


「第四候補を、俺の過去でも、俺の記憶でもなく、第二仮設居室にいる一人の現在人物として参照する」


 俺から第四候補へ、一本の細い線が繋がる。


『第四候補。俺は、俺の現在を保持する』


 その前へ、三年前の黒瀬零の記録が表示された。


『三年前の黒瀬零を、過去記録ではなく、独立した現在時刻を持つ人物として参照する』


 第四候補から、三年前の俺へ。


 二本目の線が繋がった。


『三年前の黒瀬零。俺は、俺の現在を保持する』


 暫定滞在区画から声が届く。


 次に表示されたのは、帝都理法大学の黒瀬零。


『帝都理法大学に所属する黒瀬零を、俺とは異なる現在人物として参照する』


 三本目。


『帝都理法大学の黒瀬零。俺は、俺の現在を保持する』


 その先に、採択領域から離脱した黒瀬零が表示される。


『旧気象観測所の外部観測時間にいる黒瀬零を、異なる所属と異なる経歴を持つ一人の現在人物として参照する』


 四本目の線。


『採択領域から離脱した黒瀬零。俺は、俺の現在を保持する』


 旧気象観測所の時計が点灯した。


 そして、彼が次に参照するのは灯だった。


『黒瀬灯を、誰かの妹という関係だけに属する存在ではなく、黒瀬灯本人として参照する』


 第五の線が灯へ繋がる。


 先ほどのように、五件全ての記憶が一度に灯へ流れ込むことはない。


 採択領域から離脱した黒瀬零から、一件だけ。


「黒瀬灯」


 灯は両手を胸へ置いた。


「私は、私の現在を保持する」


 そして最後に、俺を見る。


「今のお兄ちゃんを、ほかの四人と同じ起源を持っていても、今ここで私がお兄ちゃんと呼んでいる黒瀬零として参照する」


 第六の線が、灯から俺へ繋がった。


 一本の太い鎖ではない。


 一人へ集中する参照線でもない。


 六件が自分自身の現在を保持しながら、別の一件からも現在人物として参照される。


 六本の細い線が輪を作った。


 その中心には、誰もいない。


「欄外へ保存する」


 玄理が言った。


 欄外収蔵アポクリファ・アーカイヴ


 ただし、六件を一枚の記録へまとめることはしない。


 俺が第四候補を参照した記録は、俺の欄外へ。


 第四候補が三年前の俺を参照した記録は、第四候補の欄外へ。


 三年前の俺から帝都理法大学の俺へ。


 帝都理法大学の俺から、採択領域から離脱した俺へ。


 そこから灯へ。


 そして灯から俺へ。


 六件の参照記録を、それぞれ六件の欄外へ一件ずつ分けて保存する。


 全体表は存在しない。


 六件全てを同時に所有する記録主体もいない。


『それでは、維持責任を持つ者が存在しない』


 久世の声。


「全員が持ってる」


 俺が答える。


『責任が分散すれば、破綻時の判断主体が失われる』


「誰か一人に、全員の生死を決めさせるよりましだ」


『六件のうち一件が参照を拒絶すれば、環は崩れる』


「拒絶する自由まで含めて本人だ」


『維持より自由を優先するのか』


「維持するために本人を消したら、何を維持したことになる」


 残り、五・二秒。


 白い扉は、まだ六本の環を受理しない。


 表示が揺れた。


 ――六件分散参照。


 ――中央維持主体、なし。


 ――維持形式、不安定。


 ――単独責任主体、必要。


「まだ一人を求めてる」


 灯が言う。


「なら、一件へ集中する対応を切る」


 朔夜が黒い薄刃を上げた。


「待ってください」


 澄玲が六本の環を見る。


「先に、切断対象を限定します」


「何を切ればいい」


「第一に、黒瀬灯さんが五件を区別したという事実と、黒瀬灯さん一人が五件全てを維持しなければならないという結論の間です」


「二件目は」


「六件が自己参照と他者参照を持つことと、中央に一件の維持主体が必要だという結論。その間です」


「分かった」


 朔夜が黒い薄刃を振るう。


 因果切断(セヴァランス)


 一閃目。


 灯が五件を区別するという事実と、灯一人が五件の存在全てを背負うという結論。


 その因果を切断。


 二閃目。


 六件が分散して相互参照するという事実と、中央に一件の維持主体を置かなければならないという結論。


 その因果を切断。


 直後、《前提執行体》が朔夜の黒い薄刃を掴もうとした。


 朔夜は刃の角度を変え、白い腕と、集中経路を再成立させる処理との因果を切る。


 白い腕が対応先を失った。


 同時に、灯へ集中していた太い参照線も消える。


 残ったのは、六件を一件ずつ結ぶ細い環だけだった。


「獅堂さん」


 澄玲が呼ぶ。


「六件の現在位置を、別々の足場として支えてください」


「一つの床にまとめるなってことだな」


「はい」


 獅堂が治療区画の椅子から両足を床へ置いた。


 両腕は使わない。


 右脚にも固定膜がある。


 それでも、自分の意思を床へ通す。


 万象は我が礎(グランド・レガリア)


 六件の現在位置へ、それぞれ別の金色の足場が生まれた。


 会議区画。


 第二仮設居室。


 暫定滞在区画。


 帝都理法大学。


 旧気象観測所。


 そして、灯の立つ場所。


 一件の大地へ統合するのではない。


 六件が、それぞれの身体で、それぞれの現在へ立つための六つの礎。


 獅堂へ接近していた《前提執行体》が、その六つを一件の礎へまとめ直そうと白い線を流す。


 だが、獅堂は六件の足場を互いに接続しなかった。


「六件は、俺の上に立ってるんじゃない」


 六つの足場が、別々に光る。


「それぞれ、自分の場所に立ってる」


 《前提執行体》が一件へ触れ、獅堂を一件の所有者として統合しようとする。


 玄理が、その処理履歴を白紙へ収めた。


「一件の所有者へ集める処理は、回答じゃない。訂正対象だ」


 白紙が閉じる。


 《前提執行体》の白い指から、統合先の情報が失われた。


 残り、二・七秒。


 それでも扉の表示は変わらない。


 ――中央維持主体。


 ――選定不能。


 ――六件維持、失敗。


「黒瀬零さん!」


 澄玲が俺を見る。


「最後の結論です!」


「ああ」


 六件を維持するには、一件の主体が必要。


 誰か一人が全員を区別し、全員の現在を背負い、全員が存在できる世界を維持し続けなければならない。


 その結論。


「一人に決めるな」


 左手を白い扉へ向ける。


 未証明(アンプローヴン)


 ――六件の現在維持。


 ――単独維持主体、必須。


 ――確定保留。


 一件を選べないから、六件の維持は失敗する。


 その結論だけが、二・四秒間、確定できなくなる。


「九条!」


「分散形式を提出します!」


 澄玲が六本の環を、問いに対する解として白い扉へ重ねた。


「御厨先生!」


「六件の記録は、別々の欄外へ保存済みだ!」


「天城先輩!」


「集中経路は切断した」


「獅堂さん!」


「六つとも、自分の場所に立ってる!」


「灯!」


 俺は灯を見る。


「大丈夫か!」


「まだ、全部私の中には来てない!」


「それでいい!」


 六件が、それぞれ自分自身の現在を保持する。


 さらに、別の一件から現在人物として参照される。


 だが、誰も残る五件全ての存在を背負わない。


 輪の中心には何もない。


 一件の代表者も。


 一件の所有者も。


 一件の正解も。


 置かれていない。


 それでも六本の線は途切れなかった。


 白い扉が大きく震える。


 六体の《前提執行体》が、通常時間側で最後に一斉に環へ手を伸ばした。


 玄理の白紙が、分散記録を統合しようとした三件の処理履歴を収蔵する。


 朔夜の黒線が、環と一件の中央主体を再接続しようとする二件の因果を断つ。


 獅堂の六つの足場が、《前提執行体》の接触をそれぞれ異なる場所で受け止める。


 澄玲は六体の執行対象を、一件ずつ別の参照線へ限定した。


 どの一体も、六件全てを一度に支配できない。


 六件を一件へ統合するためには、六本の関係を一件の中心へ集める必要がある。


 だが。


 その中心は、最初から存在しなかった。


 表示が更新される。


 ――六件共同現在。


 ――維持参照を再照合。


 ――単独維持主体。


 ――該当なし。


 ――六件分散参照。


 ――自己参照、六件。


 ――他者参照、六件。


 ――中央必須点、なし。


 ――維持成立。


 俺の未証明(アンプローヴン)による保留が切れる。


 ――単独維持主体、必須。


 その判定が書き換わった。


 ――不要。


 同時に、六体の《前提執行体》の表面を流れていた白線が消えた。


 ――《前提執行体》。


 ――第六問における執行権限、終了。


 ――通常身体、停止。


 ――《無刻行動》による執行経路、閉鎖。


 白い身体が崩れ、文字のない記録票へ変わる。


 少なくとも、この第六問の内部では、六体が再び《無刻行動》を成立させるための査問上の経路は存在しない。


 それは、六体の存在格そのものが失われたという意味ではない。


 無刻存在(アンクロノス)という分類を消したのではなく、第六問へ接続されていた執行権限と経路が終了しただけだ。


 灯へ集中していた五件分の記憶も、一件ずつ薄れていった。


 白い階段。


 地下演習路。


 帝都理法大学。


 旧気象観測所。


 一〇六号室。


 灯自身が経験していない記憶が、本来の持ち主へ戻っていく。


 灯の身体が僅かに前へ傾いた。


 緋月が肩を支える。


「氏名」


「黒瀬灯」


「現在位置」


「《未定義現象研究室》」


「自分の記憶ではないものは」


「もう、聞こえない」


「頭痛」


「少し」


「吐き気」


「ない」


「視覚異常」


「ない」


「今日はこれ以上、査問表示を直接見るな」


「でも」


「禁止する」


「……分かりました」


 緋月は灯を椅子へ座らせた。


 白い扉へ、新しい条件が表示される。


 ――《第六候補》成立前提。


 ――第五条件。


 ――六件の現在を維持する責任を、一件の人物、一件の関係、または一件の記録へ集中させないこと。


「第五条件」


 俺が読む。


「あと一つか?」


「条件の総数は表示されていない」


 玄理が答える。


「まだ追加される可能性はある」


「少しくらい希望を持たせてくれないか」


「不明なものを確定事項として話す気はない」


「御厨先生らしい」


 白い扉に刻まれた六本の線が、中央へ集まることなく環状に刻み直された。


 その中心は空白だった。


 誰の名前もない。


 誰の学籍もない。


 誰の能力もない。


 六件が互いを一件へ収束させず、それぞれの場所へ立っていることだけが、輪郭として残っている。


『回答を受理した』


 久世の声が届いた。


『一件の維持主体を置かず、六件の分散参照によって下位現在を保持した』


「ああ」


『中央判断主体を持たない構造は、危機発生時に脆い』


「一人が壊れたら全部終わる構造よりはましだ」


『今回の形式でも、一件の参照が失われれば環は欠ける』


「だからって、灯を柱にする気はない」


『では』


 扉の中央に残っていた空白へ、帝都北部の地図が開いた。


 帝都神律大学。


 旧気象観測所。


 法則災害学区。


 大学外の居住区。


 河川沿いの交通施設。


 六つの地点へ、白い光が灯る。


 今度示された六件は人物ではない。


 下位世界の現在を維持する、局所的な参照点だった。


『一件の参照が失われた時』


 六つの光のうち、大学外にある一件が消えた。


 その瞬間、残る五件が中央へ引かれ始める。


『残る五件を一件へ統合せず、維持を継続できるか確認する』


「次は大学の外まで使うのか」


『六件が生きる世界を維持するという回答を提出したのは、お前たちだ』


「壊すのはお前だろ」


『壊れた場合にも成立する回答でなければ、維持形式とは呼べない』


 帝都北部の地図へ警告が開く。


 ――次回査問範囲。


 ――帝都北部法則災害圏。


 ――参照点、一件喪失を想定。


 ――残存現在の統合を禁止。


 ――維持回答を提出せよ。


 白い扉が閉じる。


 地図だけが、研究室の中央に残った。


 六つの光。


 そのうち一件は、既に不安定に点滅している。


「いつ始まる」


 俺が尋ねた。


「開始時刻は表示されていない」


 玄理が答える。


「なら、すぐかもしれない」


「ああ」


 俺は寝台から身体を起こそうとした。


 緋月の手が額へ触れる。


「寝ろ」


「次が来る」


「今立てば、その前に倒れる」


「でも」


「黒瀬零」


 緋月の声が低くなる。


「一件へ集中させるなと、今答えたばかりだ」


 言葉が止まった。


「次を、お前一人で背負うな」


「……分かった」


「本当に?」


 灯が尋ねる。


「分かった」


「立たない?」


「今は」


「神代先生」


 灯が緋月を見る。


「固定を追加する」


「分かったって言っただろ!」


 会議区画に、少しだけ笑いが戻った。


 白い扉の前では、六本の線が中央へ誰も置かないまま、互いを支える輪として明滅している。


 世界を支えるのは誰か。


 俺たちが提出した回答は、誰か一人ではなかった。


 だから次に問われるのは。


 その輪から一件が欠けた後も。


 残る者たちを。


 誰か一人へ折り畳まずに。


 いられるかどうかだった。

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