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『神律大学の未証明者《アンプローヴン》』   作者: 仕儀の反駁
第五章《公理階層》《第六候補》編

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第七十三話 呼び声は四つの世界を渡る

 白い階段が崩れ切るより先に。


 四つの戦場は、互いの姿を失った。


 俺の正面に残ったのは、足元の白い踊り場と。


 その向こうに立つ久世律真だけ。


 第一研究棟も。


 地下演習路も。


 旧気象観測所への連絡路も見えない。


 澄玲たちが走り去った方向には。


 空と区別のつかない白い壁が生まれている。


 それでも。


 通信表示には、三つの接続が残っていた。


 ――第一研究棟。


 ――九条澄玲、天城朔夜。


 ――地下演習路。


 ――獅堂剛毅、第四候補。


 ――旧気象観測所連絡路。


 ――御厨玄理、黒瀬灯。


 会議区画には。


 神代緋月が残っている。


 ただし。


 俺たちが通常時間の中で十二秒。


 十五秒。


 戦い続けるその全てを通して。


 緋月が一回の経過時間〇の攻防を、延々と続けているわけではない。


 俺たちは。


 通常時間の中で動く。


 走る。


 話す。


 考える。


 攻撃する。


 その途中で。


 《第三公理階層》側の固定処理や。


 無刻存在(アンクロノス)に属する《前提執行体》が。


 経過時間を必要としない《無刻行動》によって。


 下位側の回答より先に結果を成立させようとすることがある。


 その時。


 俺たち通常時間側の存在には。


 次の状態変化が生じない。


 俺も。


 久世も。


 澄玲も。


 朔夜も。


 獅堂も。


 玄理も。


 灯も。


 風へ流されていた白い破片さえも。


 そこから先へは進まない。


 時間を止められたわけではない。


 その有限の攻防そのものが。


 経過時間を一切消費せずに成立しているからだ。


 対して。


 《前提執行体》は。


 存在格、無刻存在(アンクロノス)


 自らの任意で《無刻行動》を成立させられる。


 そして。


 緋月もまた。


 同じ存在格に属している。


 《前提執行体》が経過時間〇で認識し。


 判断し。


 移動し。


 何らかの処理を成立させようとすれば。


 緋月はその行動を認識し。


 同じ経過時間〇の攻防の中で対応できる。


 通常身体速度の大小ではない。


 無刻存在(アンクロノス)という存在格の問題だ。


 俺たちには。


 その途中を認識できない。


 だから。


 白い壁が四つの戦場を分断した直後。


 俺の認識では。


 何も起きていない。


 それなのに。


 次に目へ入った緋月の右手を覆う包帯には。


 新しい赤が滲んでいた。


 第一研究棟の映像では。


 《前提執行体》の右足が、直前より半歩だけ後方へずれている。


 地下演習路では。


 白い指先が帰還先へ触れる寸前から。


 数センチ押し戻されていた。


 旧気象観測所への連絡路にも。


 玄理たちの記憶にはない白い亀裂が一本残っている。


 俺たちが次の状態へ進まないまま。


 《前提執行体》が《無刻行動》を成立させようとし。


 緋月がそれへ対応した。


 その結果だけが。


 通常時間側へ残っている。


『第一固定処理を切断した』


 通常時間の進行が許された後。


 緋月が通信へ結果を送る。


『《前提執行体》の《無刻行動》も、下位側の回答を先取りしようとしたものだけ未完了へ戻した』


「先取り?」


『お前たちが同一攻防過程へ介入できない状態で、帰還先の移管や現在人物の再分類を完了しようとした』


「止めたのか」


『完了だけはさせていない』


「倒してはいない?」


『それを決めるのは下位側の査問だ』


 緋月は短く答えた。


『通常時間側の処理を進めろ』


「ああ」


 そして。


 俺は久世と向き合った。


     ◇


『現在確認を十五秒ごとに行う』


 玄理の声が通信へ響く。


『氏名、現在位置、継続する行動を答えろ』


『返答が途切れても、各自の時計で確認を続けろ』


「十五秒ごとに点呼するのか」


『点呼ではない』


『異なる《第一公理階層》へ分断された後も、同じ六件の現在を相互参照するための処理だ』


「返事が聞こえなくなっても?」


『答えろ』


『相手へ届かないことと、答えを提出しなかったことは同じではない』


 久世は。


 通信を妨害しなかった。


 白い長衣の頬には。


 俺が刻んだ細い亀裂が残っている。


 投影体の損傷にすぎない。


 それでも。


 あいつの身体へ俺の拳が届いた証拠だった。


「分断後も、声で現在を維持するつもりか」


「悪いか」


「声は、接続が保たれている間しか届かない」


「なら、届いてる間に使う」


「合理的ではない」


「お前にとってはな」


 久世の右手が下がった。


 来る。


 そう分かっていても。


 身体が動き始める瞬間そのものは捉えられない。


 俺が見た時には。


 久世の姿は既に消えていた。


 足元の影が。


 僅かに膨らむ。


『左後方です!』


 澄玲の声。


 白い壁に隔てられていても。


 先ほど定義した攻撃経路の一部は、まだ共有されている。


 俺は右足を短く置く。


 腰を落とす。


 背後から現れた掌が。


 右肩の上を通過した。


 風圧だけで固定帯が激しく揺れる。


 避けた。


 だが。


 直後には二撃目が来ていた。


 今度は。


 表示も。


 声も。


 間に合わない。


 左脇腹へ衝撃。


「っ……!」


 身体が白い床を滑る。


 靴底が長い摩擦音を立てた。


 息が一度止まる。


 視界の端へ警告。


 ――左第九肋骨。


 ――損傷なし。


 ――筋組織。


 ――軽度圧迫。


 ――走行継続。


 ――可能。


「手加減したのか」


「査問対象を即座に破壊する必要はない」


「余裕だな」


「速度差は変わっていない」


 その通りだった。


 攻撃位置を絞られれば。


 避けられる。


 未証明(アンプローヴン)で結果を保留すれば。


 一時的に攻撃を届かせることもできる。


 だが。


 久世の身体そのものが。


 見えるようになったわけではない。


「第三問」


 久世の背後へ。


 三つの戦場が。


 小さな白い円として表示された。


「異なる《第二公理階層》から提出された《第一公理階層》の下で生存するために」


「各自が異なる回答を選んだ時」


 三つの円の内部で。


 《前提執行体》の通常身体が動く。


「それらを」


「なお一つの共同回答と呼べるか」


     ◇


 第一研究棟では。


 床と壁の区別が消えていた。


 澄玲が走っている面は。


 数秒前まで廊下の右壁だった。


 朔夜はその上方。


 本来なら天井に当たる面へ立っている。


 重力の向きが変化したのではない。


 この場所へ提出された《第一公理階層》では。


 どの面が人間を支える床なのか。


 その区別自体が固定されていない。


 足を置いた面が。


 次も床である保証はない。


 突然。


 壁として扱われれば。


 身体を支える前提そのものを失う。


「天城先輩。左側の面は、約三秒後に非支持面へ変わります」


「三秒あれば十分だ」


 朔夜が黒い薄刃を振るう。


 因果切断(セヴァランス)


 澄玲がその面へ足を置くことと。


 そこから落下すること。


 その因果を切る。


 面が床として扱われなくなっても。


 即座には落ちない。


 その僅かな猶予で。


 澄玲は次の面へ跳んだ。


 二人の前方。


 《前提執行体》の通常身体が。


 床も。


 壁も。


 区別せずに進んでいる。


 白い身体が面へ触れるたび。


 そこが進路として成立していく。


 目的地は。


 研究棟中央の旧講義室。


 三年前の黒瀬零へ割り当てられた帰還先が。


 その内部へ保持されている。


「このまま追っても追いつけません」


 通常時間側で測定された。


 《前提執行体》の身体速度。


 ――二六一・四メートル毎秒。


 澄玲も。


 朔夜も。


 通常身体速度だけでは及ばない。


 さらに。


 《前提執行体》は無刻存在(アンクロノス)


 必要と判断すれば。


 通常時間側の身体移動とは別に。


 《無刻行動》を成立させられる。


 その有限の経過時間〇の攻防には。


 今の澄玲も。


 朔夜も。


 介入できない。


 ただ追い続ければ。


 通常身体速度でも追いつけず。


 《無刻行動》を選ばれれば。


 同じ攻防過程へ入ることすらできない。


「追う必要はない」


 朔夜が答えた。


「進路を一つにしろ」


 澄玲の前へ。


 問題が開く。


 ――床と壁の区別を必要としない対象が、旧講義室へ到達する経路。


 解。


 壁面。


 天井。


 窓枠。


 配管内部。


 構造材の境界。


 部屋同士の隣接関係。


 無数。


 床と壁の区別を失った世界では。


 接触する全ての面が進路になり得る。


「多すぎます」


「経路を見るな」


 朔夜が言う。


「到達条件を見ろ」


 澄玲は。


 《前提執行体》の動きを追う。


 どの面を通るかは決まらない。


 それでも。


 必ず越えなければならないものが一つある。


 旧講義室の外。


 旧講義室の内。


 その境界。


「対象がどの面を進んでも」


 澄玲が言う。


「最後には、旧講義室ではない場所から、旧講義室である場所へ移らなければなりません」


 問いを書き換える。


 世界は解を持つ(エウレカ)


 無数の経路が消えた。


 一件だけが残る。


 ――外部と内部の境界を通過する。


「天城先輩!」


「見えた」


 朔夜の薄刃が。


 まだ遠くにいる白い人影へ向けられる。


 身体を切るのではない。


 どの面を経由したとしても。


 最後に必要となる。


 外部から内部へ到達する因果。


「切断する」


 黒い線が。


 研究棟を横断した。


 《前提執行体》が旧講義室の入口へ触れる。


 そのまま内部へ移るはずだった腕が。


 境界直前で止まった。


 扉は開いている。


 壁もない。


 それでも。


 外から内へ移るという結果だけが成立しない。


「止まりました」


「通常身体はな」


 朔夜が答えた。


 《前提執行体》の表面へ。


 細い白線が走る。


 存在格は。


 無刻存在(アンクロノス)


 切断された因果を。


 経過時間〇の処理から再構築することもできる。


「《無刻行動》を選ばれる前に」


 澄玲が言う。


「通常時間側で、処理主体を絞ります」


「やれ」


 白い身体が。


 横へ広がった。


 一体だった輪郭が。


 扉。


 壁。


 天井。


 床。


 四方向へ分かれる。


 四つの通常身体的な表出が。


 同時に旧講義室内部へ到達しようとする。


「同じ因果を、複数の前提経路から作り直しています」


「なら、一件ずつ切る」


「間に合いません」


「お前が絞れ」


 澄玲は。


 四つの白い輪郭を見る。


 全てを別々の敵として考えれば。


 朔夜の切断が追いつかない。


 だが。


 目的は同じ。


 三年前の黒瀬零の帰還先を。


 別の体系へ移管する。


「四体ではありません」


 澄玲が言った。


「一件の執行処理が、四つの面へ通常身体を展開しているだけです」


 問いを変える。


 ――帰還先移管の処理主体は何件か。


 解。


 ――一件。


「天城先輩」


「身体ではなく、四件の表出と一件の処理主体との対応を切ってください!」


「了解」


 朔夜の黒い刃が。


 四つの輪郭を同時に横切る。


 四つの通常身体的表出と。


 一件の執行処理主体。


 その因果が切断された。


 白い輪郭が。


 支えを失った紙片のように崩れる。


 床へ落ちる。


 その床もまた。


 途中で壁へ変わり。


 四枚の白い残骸は。


 研究棟の底が分からない空間へ落下していった。


 ただし。


 それで。


 無刻存在(アンクロノス)としての執行主体そのものが消滅したと。


 証明されたわけではない。


 止めたのは。


 通常時間側で成立していた。


 旧講義室への移管経路。


 それだけだ。


『九条澄玲』


 玄理の声が届く。


『現在位置。行動を答えろ』


「九条澄玲。第一研究棟」


「三年前の黒瀬零さんの帰還先を保持しています」


「天城朔夜。同じく保持する」


 十五秒目。


 二人の返答が。


 別の《第一公理階層》の中から提出された。


     ◇


 地下演習路では。


 出発地点と到着地点が。


 同じ場所へ重ねられていた。


 獅堂が一歩進む。


 次の瞬間。


 また開始線の上にいる。


 床面へ残る足跡だけが増え。


 身体の位置は。


 一メートルも変わらない。


 前方二百メートル。


 《前提執行体》の通常身体が。


 第四候補の帰還先へ手を伸ばしている。


「これ、どうやって追いつけっていうんだ」


『走るな』


 通信表示の向こう。


 第四候補が答える。


 第二仮設居室。


 診療椅子へ座ったまま。


 地下演習路の測定記録を見ている。


『今の走路では、移動の開始と完了が同じ位置へ帰属する』


『何歩進んでも、走行結果は開始線へ戻される』


「見れば分かる」


『なら、位置を変えようとするな』


「止まったまま殴れる距離じゃない」


『お前が進む必要はない』


「じゃあ、どうする」


『走路を動かせ』


 獅堂は。


 前方へ続く白い床を見る。


「簡単に言うな」


『簡単だとは言っていない』


「黒瀬零みたいなこと言うな」


『あいつが俺の言い方を真似した』


 《前提執行体》の指先が。


 帰還先を示す記録柱へ近づく。


 残り十八メートル。


 通常時間側の身体速度は。


 二百メートル毎秒を超えている。


 さらに。


 存在格は無刻存在(アンクロノス)


 通常身体が拘束されても。


 必要なら。


 経過時間〇での帰還先移管処理を成立させようとすることができる。


 だが。


 だからといって。


 その《無刻行動》が勝手に完了するわけではない。


 緋月もまた。


 同じ存在格から対応している。


 問題は。


 通常時間側で残された身体と処理を。


 獅堂たち自身が止められるかどうかだ。


「時間がない。具体的に言え」


『お前が一歩進むたび、位置は開始線へ戻る』


『だが、踏んだ床に残した作用まで、全て同じ一件へ戻されているわけじゃない』


 獅堂が足元を見る。


 重なった足跡。


 一歩目。


 二歩目。


 三歩目。


 四歩目。


 全て。


 身体位置は開始線。


 だが。


 その瞬間ごとに床へ加わった。


 圧力。


 亀裂。


 接地履歴。


 それらは。


 それぞれ別の記録として残っている。


『移動結果は同じでも』


『お前が踏んだ床は増えている』


「全部を俺の足場にしろってことか」


『そうだ』


 獅堂が両足を開く。


 治療途中の腕ではない。


 脚と。


 腰へ力を集める。


 万象は我が礎(グランド・レガリア)


 開始線へ重なった。


 無数の接地履歴。


 そこから。


 金色の線が広がる。


 一歩目に踏んだ床。


 二歩目。


 三歩目。


 四歩目。


 身体の位置を毎回開始線へ戻されても。


 一度でも自分が立った床を。


 一件ずつ。


 自分の礎として接続していく。


 金色の線が。


 走路を前方へ走る。


 十メートル。


 三十。


 八十。


 百五十。


 獅堂自身は。


 開始線に立ったまま。


 だが。


 礎として繋がった床だけが。


 《前提執行体》の足元へ到達する。


「捕まえたぞ」


 獅堂が右足を踏み下ろした。


 二百メートル先。


 床が隆起する。


 金色の構造材が。


 《前提執行体》の足首を挟み込んだ。


 通常時間側の身体が。


 止まる。


『位置を戻す公理は、対象自身にも適用されている』


「どういう意味だ」


『そいつが帰還先へ手を伸ばす動作も』


『通常時間側で完了した時点で、開始位置へ戻される』


「なら、最初から届かないんじゃ」


『普通に同じ動作を繰り返すだけならな』


 第四候補が。


 表示を拡大した。


 《前提執行体》の腕。


 何度も。


 同じような動作を繰り返している。


 伸ばす。


 戻される。


 もう一度。


 伸ばす。


 だが。


 その度に。


 開始位置として保存される位置が。


 僅かに前へ進んでいる。


『戻された行動の末端を、次の開始条件として積み上げている』


『失敗を履歴として保存して、距離を稼いでいる』


「面倒なやつだな」


『それに、通常身体を拘束しても、無刻存在(アンクロノス)としての執行主体まで止まったわけじゃない』


「だったら」


 獅堂が拳を握る。


「通常身体は今壊す」


『お前も履歴を使え』


「もうしてる」


 獅堂は。


 開始線に立ったまま。


 金色の礎を通して。


 二百メートル先の床と。


 自分の立つ位置を連結する。


 身体を移動させたわけではない。


 腕だけを二百メートル伸ばしたわけでもない。


 自分と執行体の間にある。


 走路全体を。


 一つの足場として扱う。


 拳を振るう。


 行動結果は開始線へ戻される。


 もう一度。


 また戻る。


 三度。


 四度。


 それでも。


 床へ与えた衝撃履歴は消えない。


 二百メートル先。


 金色の床が。


 同じ箇所を何度も突き上げる。


 一撃。


 二撃。


 三撃。


 白い胴体へ。


 亀裂が走る。


「戻されるなら」


 獅堂が五度目の拳を握った。


「戻るたびに、同じ場所を殴ればいい!」


 床が爆ぜる。


 《前提執行体》の通常身体が。


 下方から打ち抜かれた。


 白い破片へ砕ける。


 帰還先の記録柱は。


 接触される直前で残った。


 だが。


 獅堂も。


 第四候補も。


 それだけで。


 無刻存在(アンクロノス)としての執行主体まで滅んだとは考えない。


『右腕の負荷が上がっている』


「見えてる」


『次の一撃は禁止だ』


「お前は神代先生か」


『負傷者だから分かる』


「それは説得力があるな」


 演習路へ。


 十五秒ごとの確認が届く。


『獅堂剛毅』


「獅堂剛毅。地下演習路」


「第四候補の帰還先を保持している」


『第四候補』


 通信表示の向こう。


 彼も答える。


『第四候補。第二仮設居室』


『俺の帰る現在を保持する』


 離れた二人の声が。


 同じ確認時刻へ記録された。


     ◇


 旧気象観測所へ続く連絡路では。


 一歩進むたび。


 出発地点へ戻されていた。


 地下演習路と似ている。


 だが。


 こちらは。


 位置だけではない。


 玄理と灯が一歩進むたび。


 その一歩を踏み出した記録そのものが消える。


「四十三歩目」


 灯が言った。


「違う」


 玄理が答える。


「現在適用中の《第一公理階層》では、まだ一歩も進んでいない」


「でも、私は四十三回歩いた」


「だから数え続けろ」


 正面。


 旧気象観測所への鉄扉。


 距離は。


 二十メートル。


 一歩進む。


 二人は元の位置へ戻る。


 踏み出した事実。


 移動した身体記録。


 全て。


 ――実行されなかった行為。


 そう扱われ。


 世界の本文から棄却される。


 それでも。


 灯は数える。


「四十四歩目」


 玄理が右手を上げる。


 欄外収蔵アポクリファ・アーカイヴ


 世界の本文から棄却された。


 四十四件の歩行記録。


 それらが。


 連絡路の欄外へ保存される。


 一歩目の灯。


 二歩目。


 三歩目。


 同じ出発地点へ戻されながら。


 それぞれ。


 別の行為として前へ足を出している。


 玄理自身の歩行も。


 欄外へ並んだ。


「進んでないことにされた歩数を、全部残してるの?」


「本文で認められないなら、欄外へ置く」


「それで扉まで届く?」


「一件では届かない」


 連絡路の奥。


 《前提執行体》の通常身体が現れた。


 鉄扉の前ではない。


 玄理たちと同じ。


 出発地点。


 二人の背後。


 振り返った時には。


 白い腕が灯へ伸びていた。


 玄理が。


 欄外記録を一枚引き出す。


 十三歩目に存在した自分。


 世界本文では棄却された。


 玄理の位置。


 それを。


 現在の灯と執行体の間へ重ねる。


 白い腕が。


 その記録を貫く。


 身体ではない。


 欄外へ保存された。


 成立しなかった位置。


 十三歩目の玄理が破れ。


 白い紙片になる。


「今のは」


「失敗した歩行記録だ」


「私を庇うために使った?」


「保存したものは使う」


「でも、なくなった」


「十三歩目だけだ」


 執行体の腕が再び振るわれる。


 玄理は。


 二十七歩目。


 三十五歩目。


 四十一歩目。


 棄却された自分自身を。


 順番に壁へする。


 白い腕が。


 一枚ずつ破壊していく。


「先生。このままだと全部なくなる」


「なくなる前に進め」


「進んでも戻される」


「戻った後で数えろ」


「四十五歩目!」


 灯が前へ出る。


 戻る。


「四十六!」


 戻る。


「四十七!」


 また戻る。


 《前提執行体》が近づく。


 玄理の欄外記録が壁になり。


 白い攻撃を受け続ける。


「五十一!」


 灯の呼吸が乱れる。


 身体は。


 毎回同じ位置へ戻されている。


 だが。


 疲労まで。


 なかったことにはならない。


「五十二!」


「止まるな」


「分かってる!」


 鉄扉まで二十メートル。


 一歩も縮まらない。


 それでも。


 欄外には。


 五十二件の前進が存在している。


 現在適用中の《第一公理階層》が。


 本文として認めなかっただけで。


 灯は。


 五十二回。


 そこへ向かっている。


「先生」


「何だ」


「歩いたことにされないなら」


 灯は五十三歩目を踏み出す。


「私が歩いたって、言い続ければいい?」


「それだけでは、世界の本文は変わらない」


「でも」


「先生は残せる」


「ああ」


「なら残して」


 五十三。


 五十四。


 五十五。


 《前提執行体》の腕が。


 最後の防壁を砕く。


 玄理の欄外記録。


 残り八件。


「全部」


 灯が言った。


「私が進んだ全部を」


「帰る道にして」


 玄理は。


 並んだ歩行記録を見る。


 一歩目。


 十歩目。


 三十歩目。


 五十五歩目。


 世界本文では。


 一度も成立していない。


 だが。


 五十五件を順に並べれば。


 黒瀬灯が。


 出発地点から鉄扉へ近づこうとした。


 一つの経路になる。


「命令するな」


「お願い」


「それなら聞く」


 玄理が右手を閉じた。


 五十五件の欄外記録が。


 一列へ並ぶ。


 同じ位置へ重なっていた灯の姿が。


 一歩ずつ。


 前へずれていく。


 本来なら存在しなかった。


 五十五の位置。


 世界の外へ捨てられた歩行。


 それらが。


 一つの道になる。


「行け」


 灯が走った。


 現在の身体が。


 通常の距離を、そのまま二十メートル走ったのではない。


 欄外へ保存された。


 自分自身の歩行記録。


 それを。


 一件ずつ。


 現在の足場として踏み直していく。


 一歩目。


 二歩目。


 三歩目。


 棄却された位置が。


 現在の経路へ変わる。


 背後から。


 《前提執行体》の通常身体が追う。


 玄理が。


 残る欄外記録を解放した。


 十七歩目の玄理。


 二十九歩目。


 四十八歩目。


 複数の。


 成立しなかった玄理。


 それらが。


 執行体の四肢へ絡みつく。


「欄外へ置かれた時点で」


 玄理が言う。


「お前を提出した《第二公理階層》の前提だけに従う義務はない」


 白い通常身体が。


 無数の記録票へ覆われる。


 灯は。


 最後の足場を蹴った。


 鉄扉へ手を置く。


「五十六歩目!」


 扉が開く。


 その向こう。


 旧気象観測所へ続く。


 暗い階段。


 採択領域から離脱した黒瀬零の帰還先。


 まだ。


 現在側へ接続されている。


 灯が振り返る。


 記録票に拘束された。


 《前提執行体》の通常身体。


 玄理が。


 そこへ一枚の白紙を重ねた。


 ――帰還先移管。


 ――本文記載なし。


「欄外へ落ちろ」


 白い人影が。


 紙面の余白へ吸い込まれる。


 最後に残った指先まで消えた。


 床へ残ったのは。


 何も書かれていない記録票だけ。


 だが。


 玄理は。


 それを破壊完了とは記録しない。


 通常時間側へ形成されていた身体を。


 欄外収蔵アポクリファ・アーカイヴの余白へ収蔵した。


 それだけ。


 その存在格。


 無刻存在(アンクロノス)まで失われた証拠はない。


『御厨玄理』


「御厨玄理。旧気象観測所連絡路」


「帰還先を保持した」


『黒瀬灯』


 灯は。


 開いた扉の前で。


 息を整える。


「黒瀬灯」


「五十六歩、進んだ」


 世界の本文には。


 一歩も記録されていない。


 それでも。


 玄理の欄外には。


 五十六件の歩行が残った。


     ◇


「三地点の通常身体が止まった」


 久世が言った。


「通常身体はな」


 俺は答えた。


「でも、あいつらは無刻存在(アンクロノス)だ」


「必要なら《無刻行動》をする」


「ああ」


 俺たちの周囲には。


 まだ数十体の《前提執行体》が立っている。


 通常時間側では。


 すぐには動いていない。


 だが。


 表面へ流れる白い線は消えていない。


 《無刻行動》を選べなくなったわけでもない。


「なら」


 俺は三つの白い円を見る。


「こっちの回答が通ったってことだ」


「局所的には」


「認めるのか」


「事実は記録する」


 久世の視線が。


 三つの白い円へ向く。


 第一研究棟。


 地下演習路。


 旧気象観測所への連絡路。


 それぞれが。


 異なる方法で。


 帰還先を守った。


 澄玲と朔夜は。


 無数の経路から。


 必ず必要となる外部と内部の境界だけを見つけ。


 到達因果を切断した。


 獅堂と第四候補は。


 開始位置へ戻される行動の履歴を。


 足場として積み上げた。


 玄理と灯は。


 成立しなかった歩行を欄外へ残し。


 道へ変えた。


「同じ回答ではない」


 久世が言う。


「当然だ」


「第一研究棟では、因果の切断によって現在を維持した」


「ああ」


「地下演習路では、同一位置へ帰属する複数の行動履歴を、一つの礎として接続した」


「一人に統合したわけじゃない」


「旧気象観測所では、世界本文から外れた記録を現在の経路へ使用した」


「だから何だ」


「異なる《第一公理階層》へ」


 久世の右手が上がる。


「異なる解答を提出している」


「それらを一件の《六件共同前提》と呼ぶ根拠は」


「同じ答えを出す必要はない」


「共同回答である以上」


 久世が言う。


「統一された公理原理が必要だ」


「ない」


「ならば、別々の回答だ」


「それでいい」


 俺は答えた。


「何?」


「別々の人間が」


「別々の場所で」


「別々の方法を選んだ」


「それでも」


 俺は三つの白い円を見る。


「互いを消さない」


 久世の目が。


 僅かに細くなる。


「原理ではない」


「俺たちの選択だ」


「選択は、再現可能な公理項にならない」


「公理にする気はない」


 十五秒ごとの。


 現在確認。


『御厨玄理。旧気象観測所連絡路。行動継続』


『黒瀬灯。同じ場所。帰還先を保持』


『九条澄玲。第一研究棟。三年前の黒瀬零さんの帰還先を保持しています』


『天城朔夜。同じく保持する』


『獅堂剛毅。地下演習路。まだ立ってる』


『第四候補。第二仮設居室。帰還先との接続を確認』


 声が。


 四つの戦場を渡る。


 一つの答えではない。


 同じ言葉でも。


 同じ方法でもない。


 それでも。


 互いが。


 まだ現在にいることへ。


 別々の場所から返事をしている。


「これが根拠だ」


 俺は言った。


「通信経路に依存した相互確認だ」


「今は、それで十分だ」


「では」


 久世が。


 右手の指を閉じようとする。


「経路が失われた後も」


「同じことを言えるか確認する」


 久世の指が。


 完全に閉じるために必要な通常経過時間は。


 まだ消費されていない。


 その状態で。


 《第三公理階層》側の固定処理が。


 そして。


 四つの戦場に存在する《前提執行体》が。


 《無刻行動》を成立させようとした。


     ◇


 経過時間〇。


 久世の指は。


 閉じ切る直前の位置から変化しない。


 白い長衣も。


 俺の呼吸も。


 落下中だった破片も。


 第一研究棟の澄玲と朔夜も。


 地下演習路の獅堂も。


 旧気象観測所への連絡路にいる玄理と灯も。


 通常時間を必要とする一切に。


 次の状態変化は生じない。


 久世も。


 六二一・七メートル毎秒の通常身体であり。


 この経過時間〇の攻防へ。


 一手も参加できない。


 対して。


 《前提執行体》。


 存在格。


 無刻存在(アンクロノス)


 それぞれが。


 《無刻行動》によって。


 経過時間〇での執行を成立させようとする。


 第一研究棟。


 白い人影の執行主体が。


 澄玲の現在記録へ干渉を試みる。


 別の経路から。


 朔夜が切った外部と内部の因果を再提出する。


 地下演習路。


 通常身体を破壊された執行主体が。


 新たな白い輪郭を提示し。


 獅堂の礎へ干渉しようとする。


 旧気象観測所への連絡路。


 欄外へ収蔵された執行主体が。


 別の余白から。


 玄理の記録帰属へ手を伸ばす。


 俺の周囲。


 数十体の《前提執行体》も。


 別に。


 通常時間が止まる何かを待っていたわけではない。


 今。


 自らの任意で。


 《無刻行動》を選んだ。


 それだけだ。


 俺の首。


 胸。


 右肩。


 影。


 身体記録。


 帰還先。


 異なる対象へ。


 経過時間〇で執行を成立させようとする。


 今の俺には。


 見えない。


 避けられない。


 判断も。


 次の身体動作も。


 この攻防の中では成立させられない。


 だが。


 緋月は。


 その全てを認識していた。


 同じく。


 無刻存在(アンクロノス)


 相手の《無刻行動》へ。


 同じ経過時間〇の中から対応する。


 最初に。


 自分の背後から。


 首へ到達しようとする白い刃。


 緋月は振り返る必要すらない。


 《無刻行動》。


 万象校正(エメンダティオ)


 ――下位回答確定前の執行完了。


 ――下位査問の回答を先取り。


 ――訂正。


 白い刃が。


 首へ届くという完了結果を失う。


 だが。


 一体へ対応した間にも。


 別の《前提執行体》は。


 同じ経過時間〇で別の《無刻行動》を成立させようとする。


 第一研究棟。


 旧講義室。


 通常時間側で。


 澄玲と朔夜が止めた。


 外部から内部への到達。


 その因果を。


 別の前提経路から経過時間〇で再提出する。


 一件。


 二件。


 六件。


 四つの表出。


 扉。


 壁。


 天井。


 床。


 異なる経路から。


 同じ帰還先へ到達しようとする。


 緋月は。


 その通常身体を破壊しない。


 旧講義室へ到達できるかどうか。


 それ自体は。


 通常時間側で。


 澄玲と朔夜が答えるべき問題だ。


 止めるのは。


 二人が同一攻防過程へ介入できないまま。


 到達結果だけを完成させること。


 四件の到達処理を。


 全て。


 未完了へ戻す。


 次。


 地下演習路。


 獅堂は。


 開始線に立った状態から変化しない。


 金色の礎も。


 通常時間上の次の状態を持たない。


 《前提執行体》は。


 その隙に走っているのではない。


 通常身体速度で獅堂を置き去りにしているのでもない。


 無刻存在(アンクロノス)として。


 《無刻行動》により。


 帰還先移管を経過時間〇で成立させようとしている。


 緋月も。


 同じ条件で対応する。


 ――帰還先移管。


 ――下位対象が同一攻防過程へ介入不能な状態で完了。


 ――訂正。


 掌と。


 記録柱。


 その間で成立しようとしていた完了結果を外す。


 《前提執行体》は。


 別の《無刻行動》を提出する。


 一件。


 三件。


 九件。


 同じ存在格に属する者同士が。


 互いの《無刻行動》へ対応する。


 行動結果が競合する。


 緋月の包帯へ。


 白い刃が走る。


 皮膚が切れる。


 血が浮く。


 だが。


 落下はしない。


 経過時間〇の攻防に。


 血液が床へ落ちるための経過時間は含まれていない。


 それでも。


 負傷そのものは成立している。


 緋月は。


 九件の移管処理を。


 一件ずつ訂正した。


 次。


 旧気象観測所への連絡路。


 玄理も。


 灯も。


 欄外の紙片も。


 次の状態へは進まない。


 その一方で。


 欄外へ収蔵された執行主体が。


 別の余白から。


 《無刻行動》を成立させようとする。


 白い指。


 目的。


 玄理の手首。


 その接触を足掛かりに。


 ――欄外収蔵アポクリファ・アーカイヴ


 ――収蔵主体。


 ――御厨玄理。


 ――執行主体へ再分類。


 緋月が。


 その白い指へ対応する。


 ――欄外収蔵主体の変更。


 ――下位能力者が同一攻防過程へ介入不能な状態で成立。


 ――下位回答の先取り。


 ――訂正。


 白い指が。


 余白へ戻される。


 別の余白。


 また別の余白。


 一件。


 二件。


 五件。


 全て。


 完了だけを戻す。


 最後。


 白い階段跡。


 俺の周囲。


 数十体の《前提執行体》。


 首。


 胸。


 右肩。


 影。


 身体記録。


 帰還先。


 別々の対象へ。


 何十件もの《無刻行動》が提出されている。


 久世は。


 通常時間側の身体のまま。


 指を閉じ切る直前の位置から変化していない。


 この攻防に。


 一手も加えていない。


 緋月は。


 俺へ向けられた。


 最初の執行を外す。


 二件目。


 三件目。


 十件目。


 全てを破壊はしない。


 通常時間が進んだ後。


 俺が戦うべき相手まで。


 代わりに消すつもりはない。


 俺の現在を。


 俺が何もできない条件から確定的に奪う処理。


 それだけを。


 未完了へ戻す。


 首の切断結果。


 身体記録を階段側へ移す結果。


 五件の黒瀬零を影から一件へ接続する結果。


 俺が完全な単独状態にあると確定する結果。


 一件。


 また一件。


 緋月の万象校正(エメンダティオ)が。


 完了を阻止する。


 《前提執行体》も。


 緋月も。


 同じ経過時間〇の攻防の中で。


 互いの行動へ対応し続ける。


 通常時間では。


 一瞬も経っていない。


 それでも。


 その有限の攻防では。


 何十件もの《無刻行動》が。


 成立を争い。


 阻止され。


 別の経路から再提出されている。


 そして。


 その全ての背後で。


 《第三公理階層》側の固定処理が。


 別の結果を完成させようとしていた。


 戦場間通信。


 七十四件。


 音声だけではない。


 十五秒ごとの現在確認に使う。


 共有された時刻対応。


 異なる戦場で生じた。


 因果の揺れ。


 床を伝わる振動。


 欄外記録の移動。


 作用結果の痕跡。


 六件が。


 互いを参照できる。


 全ての対応。


 それを。


 完全に消去する。


 ただ。


 ここで。


 緋月が全てを止めれば。


 下位側の査問も成立しない。


 久世が提出した問いは。


 通信経路を失っても。


 六件が共同回答を維持できるか。


 その問いそのものまで。


 緋月が消していいわけではない。


 だから。


 七十四件を分ける。


 通常音声を。


 異なる《第一公理階層》間へ伝えるための対応。


 それは。


 下位査問の一部として。


 解除を許す。


 だが。


 通信経路そのものを。


 存在しなかったことにする処理。


 阻止。


 十五秒という。


 共有確認時刻そのものを消す処理。


 阻止。


 異なる戦場で成立した結果が。


 互いの世界へ一切作用痕跡を残せなくなる処理。


 阻止。


 六件が。


 最初から互いを参照していなかったことにする処理。


 阻止。


 万象校正(エメンダティオ)


 白い固定線が。


 一件ずつ切断されていく。


 《前提執行体》も。


 その妨害へ《無刻行動》で対応する。


 白い刃が。


 緋月の右腕へ入る。


 手袋が裂ける。


 皮膚が切れる。


 それでも。


 緋月の行動は成立し続ける。


 最後の上位固定処理。


 切断。


 残るのは。


 通常音声の伝達対応が解除されるという。


 下位査問上の結果だけ。


 緋月はさらに。


 通常時間側の下位対象へ向けられていた。


 《前提執行体》の《無刻行動》による執行結果を。


 全て。


 未完了の位置へ戻す。


 倒してはいない。


 消してもいない。


 存在格も奪っていない。


 通常時間が進めば。


 通常身体はまた動く。


 《前提執行体》自身も。


 必要なら再び《無刻行動》を行える。


 ただ。


 俺たちが同一攻防過程へ一手も介入できないまま。


 査問結果だけを確定することを。


 許さなかった。


 緋月は。


 通常時間側へ表示する記録を登録する。


 ――上位固定処理、七十四件を切断。


 ――《前提執行体》。


 ――存在格、無刻存在(アンクロノス)


 ――《無刻行動》による経過時間〇での執行、および同条件の行動への対応を確認。


 ――下位対象が同一攻防過程へ介入不能な状態での執行完了を阻止。


 ――戦場間通信の完全消去を阻止。


 ――音声伝達対応の解除のみ、下位査問処理として成立。


 右手の傷から。


 赤い滴が浮いている。


 緋月は。


 一連の経過時間〇の攻防を終えた。


 通常時間の進行を許した。


     ◇


 久世の指が。


 最後まで閉じた。


 音が消えた。


 通信端末が壊れる音も。


 雑音もない。


 玄理たちの声だけが。


 最初から音として接続されていなかったように。


 途切れた。


 同時に。


 俺の首へ触れる直前まで来ていた。


 《前提執行体》の通常身体。


 その腕が。


 俺の記憶にはない。


 数センチ離れた位置から動作を再開した。


 右肩へ伸びていた別の腕も。


 影へ触れようとしていた指も。


 俺が覚えていない位置にいる。


 経過時間〇の攻防で。


 既に何度も。


 緋月と《無刻行動》を競合させていた。


 その結果だけが。


 通常時間側へ残っている。


 表示へ。


 警告。


 ――戦場間通信。


 ――音声伝達対応。


 ――解除。


 ――異なる《第一公理階層》間に、通常音声の伝達関係は成立しない。


 続いて。


 緋月の記録。


 ――上位固定処理、七十四件を切断。


 ――《前提執行体》。


 ――存在格、無刻存在(アンクロノス)


 ――《無刻行動》による経過時間〇での執行、および同条件の行動への対応を確認。


 ――下位対象が同一攻防過程へ介入不能な状態での執行完了を阻止。


 ――戦場間通信の完全消去を阻止。


 ――音声伝達対応の解除のみ、下位査問処理として成立。


「玄理!」


 返事はない。


「灯!」


 何も届かない。


 第一研究棟。


 地下演習路。


 旧気象観測所。


 三つの表示も。


 白く閉じた。


 俺の背後に残っていた。


 直接的な支援経路。


 朔夜の黒線。


 澄玲の問題表示。


 獅堂の金色の足場。


 玄理の記録。


 灯の声。


 全てが。


 異なる《第二公理階層》から提出された世界前提へ隔てられていく。


「声は接続ではないと言った」


 久世が一歩進む。


「相手へ届かなければ」


「返答が存在することを確認できない」


「だから何だ」


「お前は今」


 久世が言う。


「一人だ」


 数十体の《前提執行体》の通常身体が。


 先ほど経過時間〇の攻防で。


 完了できなかった位置から。


 通常時間側の行動を再開する。


 正面。


 左右。


 足元の影。


 白い階段の残骸。


 あらゆる方向から。


 俺へ向かう。


 澄玲の声はない。


 朔夜が。


 今この場の追撃経路を直接切ることもない。


 灯の警告も。


 獅堂の足場もない。


 久世。


 通常身体速度。


 六二一・七メートル毎秒。


 俺。


 一〇〇・〇まで。


 《前提執行体》も。


 通常時間側だけで。


 二百メートル毎秒を超える身体速度を持つ。


 さらに。


 存在格は。


 無刻存在(アンクロノス)


 もし。


 この後。


 あいつらが再び《無刻行動》を選べば。


 今の俺は。


 同じ経過時間〇の攻防へ介入できない。


 見えない。


 速さだけでも。


 追いつけない。


 それでも。


 玄理は言っていた。


 返答が途切れても。


 各自の時計で。


 確認を続けろ。


 俺は時計を見る。


 正午。


 〇分四十五秒。


 確認時刻。


「黒瀬零」


 誰にも届かない声で言う。


「白い階段跡」


「久世律真と交戦中」


 久世が消える。


 影が動く。


 だが。


 どこから来るかは分からない。


 その時。


 白い床の遠くで。


 黒い線が一本走った。


 朔夜の切断。


 音は届かない。


 姿も見えない。


 それでも。


 第一研究棟側で何かが切断された結果が。


 複数の《第一公理階層》の適用境界を。


 僅かに揺らす。


 続いて。


 足元へ。


 重い振動。


 獅堂が。


 地下演習路の床へ。


 何かを成立させた痕跡。


 同じ確認時刻。


 白い空間の端から。


 何も書かれていない紙片が一枚落ちる。


 玄理の欄外記録。


 そして。


 時計の表示が。


 一瞬だけ乱れた。


 〇分四十五秒。


 その末尾へ。


 小さな文字。


 ――黒瀬灯。


 ――現在確認。


 声はない。


 通信もない。


 それでも。


 三つの別の戦場から。


 同じ確認時刻へ。


 返事が届いた。


「聞こえてる」


 俺は言った。


「音声は届いていない」


 久世の声が。


 背後からする。


「声だけが返事じゃない」


 振り返らない。


 黒線。


 振動。


 紙片。


 確認時刻。


 三つの戦場から生じた結果が。


 世界前提の境界を僅かに揺らしている。


 その揺れが。


 久世の使用可能な経路を。


 一瞬だけ狭める。


 来る場所。


 右後方。


 低い。


 俺は。


 左足を軸に。


 身体を回した。


 白い掌が。


 脇腹の横を通過する。


 避けた。


 今度は。


 澄玲に位置を教えられたわけではない。


 朔夜に。


 目の前の経路を直接切ってもらったわけでもない。


 灯の声も。


 届いていない。


 別の戦場にいる全員が残した。


 非音声の結果。


 その痕跡から。


 自分で。


 久世の攻撃位置を読んだ。


 初めて。


 俺自身の判断で。


 直接。


 久世の攻撃を避けた。


 すぐに。


 左拳を振るう。


 久世は。


 後方へ離れる。


 六二一・七メートル毎秒。


 届かない。


 なら。


 その前に。


 俺が一人だという。


 あいつの判断そのものを。


「まだ」


 未証明(アンプローヴン)


 ――黒瀬零。


 ――単独状態。


 ――支援なし。


 ――確定保留。


 久世の回避結果を。


 直接保留したわけではない。


 拳の距離でもない。


 俺が。


 支援を失い。


 完全な一人になったという。


 査問上の結論。


 それを。


 二・四秒。


 確定させない。


 白い空間には。


 朔夜の黒線が残っている。


 獅堂の振動も。


 玄理の紙片も。


 灯の現在確認も。


 声が届かなくても。


 同じ《第一公理階層》にいなくても。


 消えてはいない。


 足を踏む。


 速度。


 一〇〇・〇メートル毎秒。


 左拳が。


 久世へ迫る。


 今度は。


 頬ではない。


 胸。


 久世は。


 右腕で受けた。


 衝突。


 白い床へ。


 円形の亀裂が走る。


 俺の拳は。


 止められた。


 それでも。


 久世の身体が。


 初めて。


 半歩。


 後方へ下がった。


「単独判定を拒否したか」


「拒否してない」


「では」


「何をした」


「まだ」


 俺は拳を引く。


「決めさせてないだけだ」


 呼吸を整える。


 通信は戻らない。


 三つの戦場の様子も。


 直接は分からない。


 それでも。


 次の十五秒。


 確認時刻になれば。


 全員が。


 また答える。


 誰にも聞こえなくても。


 異なる世界前提の内部にいても。


 別々の現在から。


 自分の名前。


 今いる場所。


 守っているもの。


 それぞれを。


 同じ確認時刻へ提出する。


 久世の背後。


 数十体の《前提執行体》が。


 通常時間側で構えた。


「確認を継続する」


 久世が言う。


「互いの存在を証明できない状態で」


「お前たちが、いつまで共同回答を維持できるか」


「証明できなきゃ」


 俺は答えた。


「信じないと思ってるのか」


「根拠のない信頼は」


 久世が言う。


「《第三公理階層》へ提出できる査問結果にならない」


「お前の結果にはならなくても」


 左拳を。


 もう一度構える。


「俺たちが戦う理由にはなる」


 次の現在確認まで。


 残り十二秒。


 十二秒。


 通常時間の中で。


 それぞれが。


 自分の相手へ答えるための時間。


 白い人影の群れが。


 四つの戦場で。


 同時に踏み込んだ。


 同じ答えを出すためではない。


 同じ方法を選ぶためでもない。


 離れたまま。


 互いを一人へ統合しないために。


 四つの戦場で。


 四つの回答が。


 次の十五秒へ向かって動き始めた。

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