第七十二話 白い階段に刻む最初の回答
《上位階層査問》の開始予定時刻は、正午だった。
午前十一時五十六分。
《未定義現象研究室》の会議区画には、六件分の現在記録が展開されている。
現在の俺。
第四候補。
三年前の黒瀬零。
帝都理法大学の黒瀬零。
採択領域から離脱した黒瀬零。
そして。
黒瀬灯。
五件の黒瀬零を、一人へ統合しない。
一件の《第一公理階層》だけを、六件全ての正解として選ばない。
いずれの現在も、残る五件を否定する前提として使用しない。
《第六候補》の成立に必要とされる三つの条件は、六本の記録柱へ別々に保存されていた。
「査問って、何を話すんだ」
「こちらが説明する内容は、既に提出している」
玄理は会議卓へ表示された回答文書を閉じた。
「《六件共同前提》の成立過程。《前提競合》で単独優先候補を選ばなかった理由。第四候補が一件の《第一公理階層》へ完全帰属せず、現在人物として残留した事実」
「こちらから新たに説明することは少ない」
「なら、向こうの話を聞く?」
「聞くとは限らない」
「査問だろ」
「言葉によって行われるという記載はない」
嫌な言い方だった。
朔夜が壁際で腕を組む。
「執行権限を持つと言っていた」
「ああ」
玄理が答えた。
「一つの《第三公理階層》には、相互に異なる《第二公理階層》が無限に並立する」
「その各《第二公理階層》は、さらに相互に異なる《第一公理階層》を無限に並立させ、その全体を一つの公理項として扱っている」
「今回の査問では、複数の《第二公理階層》が、それぞれ自身の内部に持つ《第一公理階層》を下位世界へ提出する」
「どの《第二公理階層》が」
灯が尋ねる。
「六人を一番うまく扱えるか試すってこと?」
「正確には、どの《第二公理階層》が持つ公理構造なら、六件の現在を最も安定して処理できるかだ」
「それを、実際に下位へ適用することで示す可能性がある」
「話すより先に、世界を変えるってこと?」
「相手にとっては、それも論証だ」
「迷惑な論証ですね」
澄玲は、三件の予測問題を並べていた。
第一。
統合を優先する《第二公理階層》。
第二。
分岐後の独立を優先する《第二公理階層》。
第三。
現在記録だけを本人性の根拠とする《第二公理階層》。
先の《前提競合》で現れた三件の《第一公理階層》と、考え方は似ている。
だが今回は。
一件の世界前提同士を比べるわけではない。
それぞれの《第二公理階層》は、その内部に相互に異なる《第一公理階層》を無限に並立させている。
内部から提出された一件の《第一公理階層》を拒絶したところで。
《第二公理階層》全体の回答を否定したことにはならない。
「俺たちは、何をすれば勝ちなんだ」
獅堂が、両腕へ巻かれた固定膜を確認しながら尋ねる。
「勝敗条件は提示されていない」
玄理が答えた。
「なら、壊せばいいものも分からないのか」
「今の時点ではな」
「一番やりにくいやつだ」
獅堂の腕は、久世の投影体を受け止めた時よりは回復している。
それでも、完治ではない。
俺の右肩も同じだった。
走行訓練によって炎症を起こした組織は治療中。
胸部には、《前提競合》で久世の掌を受けた痛みが残っている。
通常身体速度。
最高、一〇〇・四メートル毎秒。
九八・四メートル毎秒からの自力制動には成功した。
だが。
久世の下位投影体は。
五〇〇。
六〇〇。
条件によっては七〇〇メートル毎秒を超える。
今の俺一人では。
動き始めた姿さえ見失う。
「黒瀬零」
緋月が呼ぶ。
「走行許可は、一〇〇・〇メートル毎秒までだ」
「戦闘が始まっても?」
「身体が戦闘中だけ頑丈になるなら再検討する」
「ならない」
「だから一〇〇だ」
「久世には追いつけない」
「追いつくことと、無理に速度を上げて自壊することは別だ」
「一〇五くらいなら」
「一〇〇」
「一〇一」
「一〇〇」
「細かいな」
「限界値を交渉で上げるな」
緋月の右手には、まだ薄い包帯が巻かれている。
《第一公理階層》や《第二公理階層》側から。
下位の俺たちが回答する前に結果を固定しようとした処理。
それらは、経過時間を必要とせず成立しようとした。
そして。
緋月は無刻存在に属している。
認識。
判断。
身体動作。
能力処理。
それらを成立させるために、経過時間を必要としない存在格。
必要であれば。
任意に《無刻行動》を行い。
経過時間〇のまま、一連の行動を成立させることができる。
さらに。
同じように《無刻行動》を行う他者に対しても。
通常時間の経過を挟まず。
同じ攻防過程の中で対応できる。
だから。
上位側の処理と緋月が《無刻行動》によって競合している間。
通常時間を必要とする俺たちには。
次の状態変化が起こらない。
一秒が止められているわけではない。
その攻防に。
一秒どころか、一瞬の経過さえ必要とされていないだけだ。
「神代先生は、今回も上位側?」
「ああ」
緋月は答えた。
「向こうが《無刻行動》によって、下位側のお前たちが回答する前に結果を固定しようとした場合、私が同じ条件で対応する」
「下に久世が来たら」
「お前たちが対応しろ」
「先生が一発殴れば終わるんじゃ」
「私が下位側の通常攻防へ直接介入すれば、こちらの回答が私による強制結果として扱われる」
「また形式か」
「嫌なら、自分で形式を変えろ」
「どうやって」
「それを探すのも査問だ」
緋月は、壁面へ表示された予測情報を見る。
「ただし」
「何だ」
「下位側へ送られる執行体が、通常時間だけで行動する存在とは限らない」
「久世みたいに速いってこと?」
「速度の話ではない」
緋月は、包帯の巻かれた右手を上げた。
「無刻存在に属する存在が来た場合」
「そいつが《無刻行動》を選べば、今のお前たちは同じ攻防過程へ介入できない」
「先生と同じ存在格」
「ああ。存在格だけはな」
「能力、技量、出力、知識、扱える範囲まで同じという意味ではない」
「そいつらが《無刻行動》をしたら」
「私が対応する」
「倒してくれる?」
「下位側で答えるべき相手までは消さない」
「じゃあ、何を止める」
「お前たちが同じ攻防過程へ一切介入できないまま、査問結果を完了することだ」
緋月の目が、会議区画の時計へ向いた。
「私が、経過時間〇で成立しようとする執行結果を未完了の位置へ戻す」
「その後、通常時間側に残った身体と処理へ、お前たちが答えろ」
「役割分担か」
「ああ」
「先生が止められなかったら?」
「その時は」
緋月は淡々と答えた。
「お前たちは途中を認識する機会すらない」
冗談ではなかった。
午前十一時五十八分。
会議区画の壁面へ。
白い線が一本現れた。
床から天井まで。
何もない壁を、縦へ二分する。
玄理が立ち上がった。
「接続を確認」
白線が増える。
二本。
四本。
八本。
会議区画だけではない。
廊下。
研究室。
管理区画。
大学北部一帯の建物へ。
同じ白線が出現している。
施設図が展開された。
法則災害学部第一研究棟。
第二治療棟。
地下演習路。
未定義現象管理区画。
旧気象観測所へ続く連絡路。
全てが。
白い線によって複数の区画へ分けられていく。
「査問会場が広すぎないか」
獅堂が言う。
「会場を作っているのではありません」
澄玲が表示を読む。
「大学施設そのものを、査問対象へ指定しています」
新しい文字が現れる。
――《上位階層査問》。
――執行階層、《第三公理階層》。
――開始前処理。
――下位回答の持続可能性を確認。
――対象範囲。
――帝都神律大学・北部法則災害学区。
「持続可能性?」
灯が読む。
「六件を別々の現在として残した状態で」
澄玲の顔が強張る。
「周囲の世界まで維持できるか、実際に試すつもりです」
「維持できなかったら?」
「六件の並立そのものが、下位世界へ過大な矛盾を生じさせると判断されます」
「だから一人にまとめる?」
「その根拠に使われる可能性があります」
玄理が会議区画の扉へ向かう。
「全員、配置へ移れ」
「まだ正午前だぞ」
俺が時計を見る。
十一時五十九分。
秒針が最後の一周へ入る。
「開始予定時刻は正午だ」
玄理が言った。
「準備が正午まで待つとは書かれていない」
扉が開く。
その先に。
廊下はなかった。
◇
白い階段が。
空へ向かって伸びていた。
天井も。
壁もない。
帝都神律大学の研究棟内部だった空間が。
青空の下へ露出している。
だが。
建物が破壊されたわけではない。
足元には研究棟の床が残っている。
数メートル先には。
会議区画の向かいにあった解析室の扉もあった。
その間へ。
本来存在しない白い階段と。
何もない空だけが適用されている。
「外に出たのか」
「違います」
澄玲が端末を空へ向ける。
「位置座標は変わっていません。研究棟内部です」
「壁がないだけ?」
「この場所へ適用された《第一公理階層》では、ここに壁が存在しないのでしょう」
右側を見る。
白い階段の向こうには、別の廊下がある。
そこでは。
天井が床になり。
照明が足元から上を照らしていた。
左側では。
会議区画の隣にあった研究室が、数百メートル先へ移されたように見える。
位置そのものが変わったわけではない。
この場所と研究室の間にある距離だけが。
別の《第一公理階層》の前提へ置き換えられている。
「三件じゃない」
俺が言う。
「ああ」
玄理は施設図を開いた。
白い区画。
黒い区画。
上下が反転した区画。
距離が圧縮された区画。
扉と部屋の対応が異なる区画。
同じ大学北部に。
十七件の《第一公理階層》に由来する空間規則が適用され始めている。
「一つの《第二公理階層》だけでも、内部には相互に異なる《第一公理階層》が無限に並立する」
玄理が言った。
「今は複数の《第二公理階層》が、それぞれ内部から下位適用可能な《第一公理階層》を同時に提出している」
「大学を実験台にしてる」
灯が言った。
「向こうは、査問対象の環境を再現しているつもりだ」
「もっと悪い」
正午。
時計が十二時を示した。
音は鳴らなかった。
代わりに。
白い階段の最上段へ。
一人の男が現れた。
久世律真。
白い長衣。
短く整えられた黒髪。
前と同じ。
敵意の見えない表情。
その背後には。
六体の白い人影が立っている。
顔はない。
衣服もない。
人間に似た輪郭だけを持つ、細長い身体。
「久世」
俺が呼ぶ。
「正午だ」
久世は答えた。
「《第三公理階層》による《上位階層査問》を開始する」
「話し合いに来たようには見えない」
「話し合いも行う」
「その後ろの六人は」
「《前提執行体》」
白い人影が、一歩進んだ。
解析表示が開く。
――《前提執行体》。
――下位側通常身体、形成済み。
――通常身体速度、測定待ち。
――存在格。
表示が一瞬だけ乱れる。
続いて。
新しい文字が現れた。
――無刻存在。
――《無刻行動》、成立可能。
――同条件の行動への対応、可能。
誰も。
すぐには声を出さなかった。
緋月だけが。
六体を順番に見た。
「やはり来たか」
「先生と同じ」
灯が呟く。
「存在格だけはな」
緋月が答えた。
「通常時間側へ形成された身体を壊しても」
「それだけで、《無刻行動》を成立させる執行主体まで消えたと考えるな」
「どう見分ける」
俺が尋ねる。
「通常身体が止まった後も、存在格に基づく執行記録が残っていれば処理主体は存続している」
「経過時間〇の方は先生が?」
「執行完了を阻止する」
「通常時間側は」
「お前たちが止めろ」
久世は、俺たちの会話を遮らなかった。
「六件の現在が」
「異なる《第二公理階層》から提出された《第一公理階層》の下でも」
「独立を維持できるか確認する」
「失敗したら、一人にする?」
「六件を維持するために下位世界が崩壊するなら」
久世は階段を下りる。
「統合は、犠牲の少ない回答になる」
「誰の犠牲が少ない」
「周囲全体の」
「五人が消えることは?」
「一人の内部に保存される」
「またそれか」
「回答は変わっていない」
久世が一段下りた。
次の瞬間。
姿が消えた。
「来る!」
澄玲の声。
獅堂が俺の前へ出る。
衝撃。
白い階段が中央から砕けた。
久世の拳を。
獅堂が両腕で受け止めている。
警告表示が開く。
――下位投影体、身体速度。
――六二一・七メートル毎秒。
――マッハ一・八一。
「前より」
獅堂の靴底が床へ沈む。
「重くなってるな!」
「先の投影体は説明用だった」
久世は拳を押し込みながら答える。
「今回は査問執行用だ」
「それを先に言え!」
万象は我が礎。
獅堂の足元から。
金色の線が伸びる。
研究棟の床。
白い階段。
反転した廊下。
三件の異なる構造が。
獅堂の立つための一つの礎へ接続される。
拳の圧力が床へ逃げた。
だが。
白い階段だけが。
久世側から適用された《第一公理階層》へ強く所属している。
獅堂の礎から。
そこだけが外れた。
足元が崩れる。
「獅堂!」
朔夜が黒い薄刃を振るう。
因果切断。
久世の拳と。
獅堂の身体が後方へ押し込まれる結果。
その因果が断たれる。
圧力が失われ。
獅堂が横へ退いた。
久世は追わない。
右手を。
俺へ向けた。
「第一問」
空中へ文字が開く。
――六件の現在を独立させたまま。
――一件の身体へ帰属する負傷を。
――どこへ置く。
久世の指が下がった。
白い線が。
俺の右肩から六方向へ走る。
「何を――」
痛みが増えた。
同時に。
通信表示の向こうで。
第四候補の身体が揺れる。
『右肩……?』
三年前の俺も。
帝都理法大学の俺も。
採択領域から離脱した俺も。
同じ右肩を押さえた。
俺の負傷が。
五件の黒瀬零へ共有されている。
「同一起源を単一主体として扱う《第一公理階層》では」
久世が言う。
「一件の損傷を、一件の身体だけへ置く根拠がない」
「ある」
俺は右肩を押さえた。
「この肩は俺のだ」
「起源を共有する四件の身体と、構造的差異がない」
「今痛いのは、俺だ」
「他四件も痛みを申告している」
「お前が押しつけたからだろ!」
白い人影が動く。
六体の《前提執行体》。
一体目は。
会議区画に残された俺の記録柱へ。
二体目は。
灯の記録柱へ。
三体目は。
第四候補との通信経路へ。
残る三体は。
それぞれ異なる廊下へ走り出した。
今行われているのは。
通常時間側の身体移動。
解析表示が速度を測定する。
――二四八・九メートル毎秒。
「六件を分断するつもりです!」
澄玲が叫ぶ。
「参照経路が切れれば、《六件共同前提》を維持できません!」
「朔夜!」
玄理が指示する。
「通信経路を守れ」
「分かった」
「獅堂は記録柱だ」
「任せろ!」
「九条、執行体の適用規則を特定しろ」
「はい!」
「灯は私から離れるな」
「でも」
「お前の記録柱が狙われている。本人が大きく移動すれば、柱との対応まで分離される可能性がある」
六体の表面へ。
白い線が走った。
通常身体の移動とは。
別の処理。
六体が。
《無刻行動》を選んだ。
その時。
俺たち通常時間側には。
次の状態変化が生じなくなった。
◇
経過時間〇。
俺の呼吸は。
次の吸気へ進まない。
久世の長衣も。
宙へ散っていた白い階段の破片も。
灯の開きかけた口も。
通常時間を必要とする全てが。
直前の状態にある。
久世も同じだった。
六二一・七メートル毎秒。
どれほど高速な通常身体であっても。
その数値は。
経過時間〇の攻防へ参加する資格にはならない。
久世の投影体は。
拳を引き戻しかけた姿勢のまま。
次の動作へ進めない。
対して。
六体の《前提執行体》は。
無刻存在。
通常身体が二四八・九メートル毎秒で移動していたことは。
今の攻防には関係しない。
六体は。
その存在格に特徴的な《無刻行動》によって。
経過時間を一切消費せず。
認識。
判断。
移動。
接続。
再分類処理を成立させようとする。
一体目。
俺の記録柱への接続を成立させる。
――現在の黒瀬零。
――《六件共同前提》から分離。
――単独主体として再分類。
二体目。
灯の記録柱へ。
――黒瀬灯。
――外部関係者。
――五件の識別主体として固定。
三体目。
第四候補との通信経路へ。
――暫定証人記録。
――通信関係を解除。
――現在人物参照を終了。
残る三体も。
第一研究棟。
地下演習路。
旧気象観測所へ続く連絡路。
それぞれの帰還記録へ。
経過時間〇で処理を成立させようとする。
俺たちには。
その全てへ。
一手も返せない。
止められたのではない。
俺たちの認識も判断も身体動作も。
成立のために経過時間を必要とする。
今の攻防は。
その経過時間を一切消費していない。
だから。
同じ攻防過程へ介入できない。
ただ一人。
緋月を除いて。
「下位側の回答が始まる前に」
緋月が言った。
「終わらせるな」
無刻存在。
緋月も。
自身の意思で《無刻行動》を成立させる。
一体目。
俺の記録柱。
《六件共同前提》からの分離完了。
緋月の右手が。
その処理へ重なる。
万象校正。
――下位側が同一攻防過程へ介入不能な状態での再分類完了。
――下位査問の回答を先取り。
――訂正。
結果を。
未完了の位置へ戻す。
二体目。
灯の記録柱。
――黒瀬灯。
――五件を識別する単一基準として固定。
――本人回答前に確定。
緋月が、その固定結果を外す。
三体目。
第四候補との通信経路。
――通信対応の解除。
――現在人物参照の終了。
――下位回答前に完了。
訂正。
接続解除を。
未完了へ戻す。
だが。
《前提執行体》も止まらない。
同じ無刻存在に属している。
緋月の《無刻行動》を認識し。
その訂正に対して。
同じ経過時間〇の攻防で別の《無刻行動》を成立させる。
一件を戻されれば。
別の理由を作る。
学籍。
身体記録。
入居履歴。
兄妹関係。
現在時刻。
帰還座標。
異なる経路から。
同じ分断結果を成立させようとする。
緋月も。
その一件ずつへ対応する。
一件。
三件。
九件。
二十七件。
通常時間側では。
一瞬も経っていない。
それでも。
同じ経過時間〇の攻防では。
《前提執行体》による《無刻行動》と。
緋月による《無刻行動》が。
何十件もの結果を競合させている。
第一研究棟。
帰還先移管。
経路到達そのものを待たず。
経過時間〇で成立させようとする処理。
緋月は。
完了結果だけを未成立へ戻す。
地下演習路。
第四候補の帰還先を。
本人の過去記録へ変更する《無刻行動》。
訂正。
旧気象観測所への連絡路。
採択領域から離脱した黒瀬零を。
既に観測を終えた履歴として閉じる《無刻行動》。
訂正。
緋月は。
六体を倒さない。
無刻存在という存在格を奪うこともしない。
下位側の零たちが。
何へ答えるべきかまで。
自分で決めることもしない。
止めるのは。
彼らが同じ攻防過程へ一切介入できない状態で。
査問結果を完成させることだけ。
最後の再分類処理を。
未完了へ押し戻す。
緋月の右手を覆う包帯へ。
新しい裂け目が生じた。
皮膚から血が浮く。
だが。
経過時間は〇。
血液も。
まだ落下という次の状態へは進まない。
緋月は。
六体全ての《無刻行動》による執行が。
完了していないことを確認する。
それ以上。
下位側の回答へは触れない。
一連の経過時間〇の攻防を終える。
通常時間の進行を許した。
◇
俺にとっては。
白い線が光った。
その次の瞬間。
何十件もの攻防が存在したとは思えないほど。
何も経っていない。
それでも。
六体の《前提執行体》は。
先ほどと異なる位置にいた。
それは。
二四八・九メートル毎秒で、その間を走ったという意味ではない。
《無刻行動》として成立した移動や接続処理の結果が。
通常時間側へ反映された位置だった。
俺の記録柱へ向かっていた一体は。
会議区画の扉の直前。
灯の柱を狙う一体も。
獅堂の防衛線まで距離を詰めている。
残る三体は。
第一研究棟。
地下演習路。
旧気象観測所への連絡路。
それぞれの帰還先へ続く経路上へ現れていた。
緋月の右手から。
血が一滴。
今度こそ床へ落ちた。
「《無刻行動》による執行完了を止めた」
緋月が告げる。
「全件、下位側で回答できる状態へ戻している」
「今だ」
「俺が行く!」
走り出そうとした瞬間。
久世が。
前へ立っていた。
通常時間側の移動。
途中は見えない。
白い長衣だけが。
一瞬で視界を塞ぐ。
「第二問」
掌が俺の胸へ向かう。
「走行主体を五件へ分けたまま」
速い。
避けられない。
「その速度を」
「一件だけのものだと、どう証明する」
掌が届く。
その前に。
黒い線が。
俺と久世の間を横切った。
朔夜。
拳が俺へ届く因果を切る。
だが。
久世の掌そのものは止まらない。
胸の数センチ横を通過し。
空気だけで身体が持ち上がる。
「切ったのに!」
「命中経路だけだ」
朔夜が答える。
「発生した衝撃まで切れていない」
俺は空中で身体を捻った。
床がない。
代わりに。
反転した廊下の天井が。
足元へ近づいてくる。
そこへ右足を置く。
上下が違うなら。
立てる面を選ぶ。
踏み込む。
速度。
七六・三。
八四・八。
久世へ向かわない。
右側を抜け。
会議区画へ向かう《前提執行体》を追う。
「行かせない」
久世の声が背後から届く。
「九条!」
朔夜が呼ぶ。
「経路を絞れ!」
「今、定義します!」
澄玲の前へ。
問いが開く。
――久世律真が、黒瀬零を追撃するために使用可能な経路。
解。
白い階段。
反転廊下。
距離圧縮区画。
天井を持たない解析室。
俺の影へ接続した共有主体経路。
五件。
「天城先輩!」
「全部は切れない」
「四件をお願いします!」
朔夜の薄刃が振るわれる。
白い階段。
反転廊下。
距離圧縮区画。
解析室。
四件の追撃因果が切断された。
残る一件。
俺の影。
床へ落ちた影が。
五人分へ広がる。
その中心から。
久世の腕が現れる。
「左下です!」
澄玲の声。
見えた。
久世自身ではない。
影が。
僅かに盛り上がった。
次に攻撃が現れる場所。
俺は左足を短く置く。
速度を落とす。
九〇・二。
身体を右へ傾ける。
影から出た拳が。
左脇を通過した。
避けた。
久世の攻撃を。
結果を保留する前に。
自分の身体で。
「部分認識を確認」
久世の声に。
驚きはない。
すぐに二撃目。
影の別の場所が盛り上がる。
「右!」
今度は。
灯の声だった。
俺の影を見ている。
右肩は動かさない。
腰を落とす。
拳が頭上を通過し。
風圧で髪が揺れた。
「お兄ちゃん、そのまま前!」
「ああ!」
速度を戻す。
九四。
九七。
《前提執行体》まで。
一二メートル。
白い人影が。
会議区画の扉へ手を伸ばす。
記録柱へ接続されれば。
現在の俺と。
残る四人の黒瀬零。
灯。
六件の相互参照が切断される。
俺は左手を伸ばす。
届かない。
相手の通常身体の方が速い。
なら。
届かないという結論を。
「保留する!」
未証明。
――黒瀬零。
――《前提執行体》への接触。
――距離不足により不成立。
――確定保留。
距離が消えたわけではない。
身体が瞬間移動したわけでもない。
足りない距離が。
接触不能という確定結果になることだけを。
二・四秒。
保留する。
右足を踏む。
床を蹴る。
速度。
一〇〇・〇メートル毎秒。
緋月から許可された上限。
指先が。
白い人影の背中へ触れた。
「獅堂!」
「合わせる!」
会議区画の内側で。
獅堂が、記録柱の立つ床を踏み込む。
万象は我が礎。
俺が触れた《前提執行体》の通常身体と。
六本の記録柱が立つ床。
その間へ。
一枚の金色の足場が接続される。
通常時間側の白い身体が。
その場へ固定された。
「朔夜!」
「切る」
黒い線。
《前提執行体》と。
俺の記録柱を分断する処理経路。
切断。
白い人影へ。
亀裂が走る。
だが。
まだ崩れない。
顔のない頭部が。
俺へ向いた。
腕が振り上げられる。
人間の動きではない。
関節を順番に使わず。
肩から指先までが。
一本の白い刃のように伸びる。
俺の首へ。
同時に。
表面の白い線が。
強く発光した。
《前提執行体》が。
再び《無刻行動》を選んだ。
◇
経過時間〇。
俺の身体は。
首を引こうとした状態から。
次へ進まない。
朔夜の黒い薄刃も。
澄玲の開いた口も。
獅堂の踏み込んだ足も。
久世も。
俺を追うために身体を捻った姿勢のまま。
次の状態変化を持たない。
通常時間側で。
獅堂の礎へ固定された白い身体も。
物理的な通常移動としては進んでいない。
だが。
その存在に属する経過時間〇の執行主体は。
別だ。
無刻存在。
《前提執行体》は。
固定された通常身体とは別に。
《無刻行動》として。
障害排除と接続再構築を成立させようとする。
――主対象。
――黒瀬零の記録柱。
――黒瀬零本人。
――接続を妨害する障害物。
――障害排除後。
――接続を完了。
俺の首を切ることは。
主目的ではない。
記録柱への接続を完成させるための手段。
緋月は。
その処理を認識していた。
同じ無刻存在。
同じ経過時間〇の攻防。
「下位側で見抜ける形を残せ」
緋月も《無刻行動》を成立させる。
白い刃による。
俺の排除完了へ。
右手を重ねる。
万象校正。
――障害排除。
――下位対象が同一攻防過程へ介入不能な状態で完了。
――下位回答の先取り。
――訂正。
俺の首が切断されるという完了結果を。
未完了へ戻す。
だが。
記録柱への接続処理そのものまでは消さない。
主対象が。
最後まで記録柱であるという構造も残す。
そこは。
澄玲と。
朔夜と。
俺たち下位側が。
自分たちで見抜き。
答えなければならない。
《前提執行体》が。
別の《無刻行動》を成立させる。
一本。
三本。
七本。
俺の首。
胸。
右肩。
影。
別々の障害排除経路を提出しながら。
記録柱への接続を完成させようとする。
緋月は七件全てへ対応する。
別の戦場でも。
他の《前提執行体》が。
同時に《無刻行動》を成立させている。
灯の記録柱。
第四候補との通信経路。
三件の帰還先。
緋月は。
同じ経過時間〇の攻防の中で。
六体の執行結果へ順に対応する。
右手の包帯へ。
また裂け目が生じる。
白い執行処理が。
緋月の身体そのものへ干渉する。
皮膚が裂け。
血が浮く。
同じ存在格なら。
相手の《無刻行動》へ対応できる。
だが。
対応できることと。
攻撃を受けても傷つかないことは。
別の話だ。
存在格は。
防御力ではない。
それでも。
緋月は。
通常時間側の回答を先取りしようとする処理だけを。
一件ずつ。
未完了へ戻す。
最後。
俺を障害物として排除する白い刃。
接触するという結果を。
首の直前で未完了へ戻した。
刃を消してはいない。
方向も。
目的も。
通常時間側へ残る。
緋月が通常時間の進行を許せば。
俺たちは。
そこから自分たちで止めなければならない。
緋月は。
一件の記録を。
通常時間再開後に表示される通信へ登録する。
――《前提執行体》。
――存在格、無刻存在。
――《無刻行動》による障害排除完了を阻止。
――主対象、黒瀬零の記録柱。
――下位側で接続を切断せよ。
一連の経過時間〇の攻防を終える。
通常時間の進行を許した。
◇
白い刃が。
首の一センチほど手前から。
通常時間側の動作を再開した。
俺には。
その直前まで。
何が起きていたのか分からない。
だが。
視界の端へ。
緋月が残した記録が開く。
――《前提執行体》。
――存在格、無刻存在。
――《無刻行動》による障害排除完了を阻止。
――主対象、黒瀬零の記録柱。
――下位側で接続を切断せよ。
緋月の包帯から。
新しい血が落ちた。
「一手分は戻した」
緋月が告げる。
「残りは自分で止めろ」
「分かってる!」
白い刃が来る。
首を引く。
間に合わない。
右肩を大きく使えない。
左腕で受ければ。
切断される。
澄玲が。
緋月の記録と。
《前提執行体》の通常時間側の動きを重ねる。
「その執行体は、接続処理を完了するまで主対象を変更できません!」
「何?」
「今狙っているのは、黒瀬零さんではありません!」
俺の背後。
記録柱。
白い腕は。
俺を斬ること自体を目的としていない。
柱へ到達するために。
俺を障害物として排除しようとしている。
対象は。
最後まで記録柱。
「朔夜!」
「見えている」
黒い薄刃が走る。
執行体の腕と。
俺を排除する必要性。
その因果を断つ。
白い刃が。
首の一センチ前で。
目的を失った。
俺は左拳を握る。
白い人影の胸へ打ち込む。
硬い。
人間の身体ではない。
手首へ痛みが返る。
それでも。
獅堂の金色の足場へ固定され。
記録柱への接続経路を切られた通常身体は。
拳の衝撃を逃がせない。
白い亀裂が広がる。
「もう一発!」
「右肩を使うな!」
通常時間側の緋月の声。
「分かってる!」
左拳。
二撃目。
白い人影の胸部が砕けた。
破片が空中へ散る。
表示が開く。
――《前提執行体》。
――下位側通常身体、一体機能停止。
続けて。
別の判定。
――存在格。
――無刻存在。
――経過時間〇の執行主体。
――完全停止、未確認。
「倒したのか」
俺が尋ねる。
「身体だけだ」
緋月が即答する。
「白線を見ろ」
空中へ散った破片の一部。
そこへ。
細い白線が残っている。
消えていない。
「通常身体は壊れた」
玄理が言う。
「だが、無刻存在として《無刻行動》を成立させる執行主体まで消えたとは確認できない」
「また動く?」
「任意に《無刻行動》を行い、別の身体や処理経路を提出する可能性がある」
「じゃあ、一体減ったとは」
「通常時間側の身体については、一体だ」
「今のところか」
「一つ!」
灯が叫ぶ。
「通常身体として動いているのは、残り五体です!」
「正確には」
澄玲が施設図を開く。
「現在、通常身体として活動中なのが五体です!」
一体は。
朔夜が守る通信経路。
一体は。
獅堂が防ぐ灯の記録柱。
残る三体は。
既に別々の場所へ到達している。
第一研究棟。
地下演習路。
旧気象観測所への連絡路。
「目的は」
玄理が、三地点を拡大する。
「六件の帰還先だ」
「帰還先?」
「《公理標定室》の門が要求した、六つの下位側帰還先」
「そのうち三件を、《前提執行体》が別の《第二公理階層》に属する帰還体系へ移管しようとしている」
「帰る場所を奪うのか」
「一件の《第一公理階層》へ完全帰属しない六件を維持するには」
玄理が答える。
「各自が別々の帰還先を持つ必要がある」
「三件を失えば、《第六候補》への門は開けない」
「それだけじゃない」
灯が施設図を見る。
「帰還先を失った人は?」
「上位側へ入った後」
「現在へ戻る先を持てなくなる」
「誰の場所が狙われてる」
表示が開く。
第一研究棟。
――三年前の黒瀬零。
地下演習路。
――第四候補。
旧気象観測所への連絡路。
――採択領域から離脱した黒瀬零。
「三人分」
俺が言う。
「俺たちを分けるつもりか」
「逆だ」
久世の声がした。
振り返る。
白い階段の下。
久世が立っている。
いつ移動したのか。
見えなかった。
だが。
通常時間側の移動だ。
「帰還先を三件へ減らす」
久世は言った。
「六件全てを維持できないことが示されれば」
「残る三件を一件へまとめる?」
「最も損失の少ない主体構成を、《第三公理階層》へ再提出する」
「数を減らしてから統合するのか」
「下位世界の負担は小さくなる」
「本人の負担は?」
「保存される」
「お前は」
俺は一歩前へ出る。
「それしか言えないのか」
「事実が変わっていない」
「俺たちも変わってない」
「違う」
久世が俺の足元を見る。
「お前は、先ほど私の攻撃を二度回避した」
「それがどうした」
「下位側の身体だけで」
久世は僅かに目を細めた。
「査問へ回答する速度を得始めている」
褒めているわけではない。
だが。
否定しているようにも聞こえなかった。
「なら」
俺は構える。
「もう一回、試してみろ」
「必要はない」
久世が右手を上げる。
三地点の施設図が。
同時に白く染まった。
第一研究棟。
床と壁の区別が消える。
地下演習路。
走行前と走行後の位置が。
同じ地点として重なる。
旧気象観測所への連絡路。
一歩進むたび。
直前の位置が、進行前の地点として再定義される。
「各執行体が、異なる《第一公理階層》を適用した」
玄理が言う。
「一つの部隊では対応できない」
「分かれろってことか」
獅堂が、会議区画から出てくる。
「分かれれば、六件の参照が薄くなる」
玄理は施設図を見たまま答える。
「固まれば、帰還先を奪われる」
「どちらを選んでも不利ですね」
澄玲が言う。
「それが向こうの問いだ」
俺は施設図を見る。
三つの戦場。
ここに残る久世。
通信経路を狙う《前提執行体》。
灯の記録柱を狙う《前提執行体》。
一度に全部は守れない。
俺一人では。
最初から。
「四組に分かれる」
玄理が言った。
「第一研究棟は、九条と天城」
「分かりました」
「地下演習路は、獅堂」
「一人でか?」
「第四候補と遠隔接続しろ。あの走路を最も知っているのは、お前たち二人だ」
「了解」
「旧気象観測所への連絡路は、私と灯」
「御厨先生が前に出る?」
「記録経路の迷路なら、俺の領分だ」
「神代先生は」
「《無刻行動》による経過時間〇の攻防を受け持つ」
緋月は。
通常時間側で。
全員を見回した。
「《前提執行体》が《無刻行動》を行えば、今のお前たちは同じ攻防過程へ介入できない」
「先生が対応する?」
「ああ」
「どこまで」
「下位側のお前たちが回答する前に、結果を完了させる処理までだ」
「それより先は」
「自分たちで答えろ」
緋月の右手から。
血がもう一滴落ちる。
「私は、お前たちと同じ通常時間の戦場を並んで走るわけではない」
緋月は続けた。
「お前たちが通常時間の中で一手を進める」
「その途中で、《前提執行体》が《無刻行動》によって回答を先取りしようとするなら」
「私は同じ経過時間〇で、それへ対応する」
「その攻防を終えた後に、通常時間側へ残った問いを返す」
「先生が負けたら」
「その心配をする前に、自分の相手を見ろ」
「分かった」
「黒瀬零は、ここに残れ」
玄理が久世を見る。
「久世と一人で?」
「一人ではない」
朔夜が。
通信経路から一本の黒線を伸ばす。
澄玲が。
俺の周囲へ、問題表示を残す。
獅堂が。
白い階段の一部を、金色の足場へ変える。
玄理が。
六件の現在記録を、俺の背後へ展開する。
灯が。
俺を見た。
「お兄ちゃん」
「ああ」
「見えないなら、見るまで待たないで」
「どういう意味だ」
「来る場所を、みんなで一つにするの」
先ほど。
朔夜が追撃経路を四つ切り。
澄玲が残る一件を示し。
灯が影の動きを読み。
俺が身体で避けた。
一人では。
久世の動きそのものは見えない。
なら。
見える場所へしか。
来られないようにする。
「分かった」
俺は答えた。
「久世は、俺たちが止める」
「黒瀬零」
緋月が呼ぶ。
「一〇〇・〇を超えるな」
「戦場が勝手に速くなったら?」
「お前の身体速度は、お前が決めろ」
「了解」
「必ず止まれ」
「ああ」
「それと」
緋月は。
三地点へ向かう《前提執行体》を見る。
「通常身体を倒しても」
「無刻存在としての執行まで終わったと思うな」
「分かってる」
「任意に《無刻行動》を行える」
「その時は」
「同じ条件で、私が対応する」
久世が。
白い階段を一段下りる。
三地点の戦場で。
《前提執行体》の通常身体が。
同時に動き始めた。
「分断を選ぶか」
久世が言う。
「違う」
俺は左拳を構える。
「別々に戦うだけだ」
「参照が途切れれば、別々の現在は維持できない」
「途切れさせない」
「距離が生じる」
「呼べば聞こえる」
「適用される《第一公理階層》が異なる」
「それでも答える」
「三件全てを守ることはできない」
「三件じゃない」
俺は久世を見る。
「ここも含めて四つだ」
白い長衣が揺れた。
久世が消える。
朔夜の黒線が。
左側の経路を切る。
澄玲の表示が。
足元を指す。
灯の声が。
通信から届いた。
『右前、低い!』
影が盛り上がる。
俺は右足を短く置き。
腰を落とす。
久世の拳が。
頬の横を通り過ぎた。
避けた。
そのまま。
左拳を振るう。
久世の身体は。
既に後方へ移ろうとしている。
六二一・七メートル毎秒。
俺の拳では追えない。
久世の回避が成立する。
俺の拳が届かない。
その結論を。
「保留する」
未証明。
――久世律真。
――黒瀬零の打撃範囲外へ離脱。
――確定保留。
久世の身体は動いている。
後方へ下がっている。
それでも。
俺の拳が届かないという結果だけは。
まだ確定しない。
足を踏む。
右肩ではなく。
腰から左腕を押し出す。
拳が。
久世の頬へ届いた。
衝撃。
白い階段の空気が弾ける。
久世の顔が横へ動き。
投影体の頬へ。
細い亀裂が一本走った。
初めて。
俺の打撃が。
久世律真へ命中した。
「届いた」
俺が言う。
久世は顔を戻し。
頬の亀裂へ指を触れた。
怒りはない。
笑いもしない。
ただ。
先ほどまでとは違う目で。
俺を見る。
「回答を確認」
彼が言った。
「黒瀬零」
白い階段の全てが。
音を立てて崩れ始める。
「ここからは」
久世の背後へ。
数十体の《前提執行体》が現れた。
新たに現れた人影の表面にも。
白い線が流れている。
表示が連続して開く。
――《前提執行体》。
――存在格。
――無刻存在。
――《無刻行動》、成立可能。
第一研究棟。
地下演習路。
旧気象観測所への連絡路。
そして。
俺と久世が立つ白い階段。
四つの戦場が。
異なる《第二公理階層》から提出された世界前提へ。
閉じられていく。
「実力で提出しろ」
久世が言った。
通常時間側では。
《前提執行体》の身体が動く。
そして。
彼らが《無刻行動》を選べば。
その有限の攻防が成立しているあいだ。
通常時間を必要とする俺たちは。
同じ攻防過程へ介入できない。
それでも。
緋月は無刻存在として。
全てを見ていた。
右手を上げる。
「下位側は」
「自分の回答を作れ」
包帯の隙間から。
血が流れている。
「《無刻行動》で、お前たちの回答だけは先取りさせない」
査問は。
ようやく。
言葉だけで済む段階を終えた。
その最初の回答は。
崩れ落ちる白い階段へ刻まれた。
一筋の亀裂だった。




