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『神律大学の未証明者《アンプローヴン》』   作者: 仕儀の反駁
第五章《公理階層》《第六候補》編

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第七十二話 白い階段に刻む最初の回答

 《上位階層査問》の開始予定時刻は、正午だった。


 午前十一時五十六分。


 《未定義現象研究室》の会議区画には、六件分の現在記録が展開されている。


 現在の俺。


 第四候補。


 三年前の黒瀬零。


 帝都理法大学の黒瀬零。


 採択領域から離脱した黒瀬零。


 そして。


 黒瀬灯。


 五件の黒瀬零を、一人へ統合しない。


 一件の《第一公理階層》だけを、六件全ての正解として選ばない。


 いずれの現在も、残る五件を否定する前提として使用しない。


 《第六候補》の成立に必要とされる三つの条件は、六本の記録柱へ別々に保存されていた。


「査問って、何を話すんだ」


「こちらが説明する内容は、既に提出している」


 玄理は会議卓へ表示された回答文書を閉じた。


「《六件共同前提》の成立過程。《前提競合》で単独優先候補を選ばなかった理由。第四候補が一件の《第一公理階層》へ完全帰属せず、現在人物として残留した事実」


「こちらから新たに説明することは少ない」


「なら、向こうの話を聞く?」


「聞くとは限らない」


「査問だろ」


「言葉によって行われるという記載はない」


 嫌な言い方だった。


 朔夜が壁際で腕を組む。


「執行権限を持つと言っていた」


「ああ」


 玄理が答えた。


「一つの《第三公理階層》には、相互に異なる《第二公理階層》が無限に並立する」


「その各《第二公理階層》は、さらに相互に異なる《第一公理階層》を無限に並立させ、その全体を一つの公理項として扱っている」


「今回の査問では、複数の《第二公理階層》が、それぞれ自身の内部に持つ《第一公理階層》を下位世界へ提出する」


「どの《第二公理階層》が」


 灯が尋ねる。


「六人を一番うまく扱えるか試すってこと?」


「正確には、どの《第二公理階層》が持つ公理構造なら、六件の現在を最も安定して処理できるかだ」


「それを、実際に下位へ適用することで示す可能性がある」


「話すより先に、世界を変えるってこと?」


「相手にとっては、それも論証だ」


「迷惑な論証ですね」


 澄玲は、三件の予測問題を並べていた。


 第一。


 統合を優先する《第二公理階層》。


 第二。


 分岐後の独立を優先する《第二公理階層》。


 第三。


 現在記録だけを本人性の根拠とする《第二公理階層》。


 先の《前提競合》で現れた三件の《第一公理階層》と、考え方は似ている。


 だが今回は。


 一件の世界前提同士を比べるわけではない。


 それぞれの《第二公理階層》は、その内部に相互に異なる《第一公理階層》を無限に並立させている。


 内部から提出された一件の《第一公理階層》を拒絶したところで。


 《第二公理階層》全体の回答を否定したことにはならない。


「俺たちは、何をすれば勝ちなんだ」


 獅堂が、両腕へ巻かれた固定膜を確認しながら尋ねる。


「勝敗条件は提示されていない」


 玄理が答えた。


「なら、壊せばいいものも分からないのか」


「今の時点ではな」


「一番やりにくいやつだ」


 獅堂の腕は、久世の投影体を受け止めた時よりは回復している。


 それでも、完治ではない。


 俺の右肩も同じだった。


 走行訓練によって炎症を起こした組織は治療中。


 胸部には、《前提競合》で久世の掌を受けた痛みが残っている。


 通常身体速度。


 最高、一〇〇・四メートル毎秒。


 九八・四メートル毎秒からの自力制動には成功した。


 だが。


 久世の下位投影体は。


 五〇〇。


 六〇〇。


 条件によっては七〇〇メートル毎秒を超える。


 今の俺一人では。


 動き始めた姿さえ見失う。


「黒瀬零」


 緋月が呼ぶ。


「走行許可は、一〇〇・〇メートル毎秒までだ」


「戦闘が始まっても?」


「身体が戦闘中だけ頑丈になるなら再検討する」


「ならない」


「だから一〇〇だ」


「久世には追いつけない」


「追いつくことと、無理に速度を上げて自壊することは別だ」


「一〇五くらいなら」


「一〇〇」


「一〇一」


「一〇〇」


「細かいな」


「限界値を交渉で上げるな」


 緋月の右手には、まだ薄い包帯が巻かれている。


 《第一公理階層》や《第二公理階層》側から。


 下位の俺たちが回答する前に結果を固定しようとした処理。


 それらは、経過時間を必要とせず成立しようとした。


 そして。


 緋月は無刻存在(アンクロノス)に属している。


 認識。


 判断。


 身体動作。


 能力処理。


 それらを成立させるために、経過時間を必要としない存在格。


 必要であれば。


 任意に《無刻行動》を行い。


 経過時間〇のまま、一連の行動を成立させることができる。


 さらに。


 同じように《無刻行動》を行う他者に対しても。


 通常時間の経過を挟まず。


 同じ攻防過程の中で対応できる。


 だから。


 上位側の処理と緋月が《無刻行動》によって競合している間。


 通常時間を必要とする俺たちには。


 次の状態変化が起こらない。


 一秒が止められているわけではない。


 その攻防に。


 一秒どころか、一瞬の経過さえ必要とされていないだけだ。


「神代先生は、今回も上位側?」


「ああ」


 緋月は答えた。


「向こうが《無刻行動》によって、下位側のお前たちが回答する前に結果を固定しようとした場合、私が同じ条件で対応する」


「下に久世が来たら」


「お前たちが対応しろ」


「先生が一発殴れば終わるんじゃ」


「私が下位側の通常攻防へ直接介入すれば、こちらの回答が私による強制結果として扱われる」


「また形式か」


「嫌なら、自分で形式を変えろ」


「どうやって」


「それを探すのも査問だ」


 緋月は、壁面へ表示された予測情報を見る。


「ただし」


「何だ」


「下位側へ送られる執行体が、通常時間だけで行動する存在とは限らない」


「久世みたいに速いってこと?」


「速度の話ではない」


 緋月は、包帯の巻かれた右手を上げた。


無刻存在(アンクロノス)に属する存在が来た場合」


「そいつが《無刻行動》を選べば、今のお前たちは同じ攻防過程へ介入できない」


「先生と同じ存在格」


「ああ。存在格だけはな」


「能力、技量、出力、知識、扱える範囲まで同じという意味ではない」


「そいつらが《無刻行動》をしたら」


「私が対応する」


「倒してくれる?」


「下位側で答えるべき相手までは消さない」


「じゃあ、何を止める」


「お前たちが同じ攻防過程へ一切介入できないまま、査問結果を完了することだ」


 緋月の目が、会議区画の時計へ向いた。


「私が、経過時間〇で成立しようとする執行結果を未完了の位置へ戻す」


「その後、通常時間側に残った身体と処理へ、お前たちが答えろ」


「役割分担か」


「ああ」


「先生が止められなかったら?」


「その時は」


 緋月は淡々と答えた。


「お前たちは途中を認識する機会すらない」


 冗談ではなかった。


 午前十一時五十八分。


 会議区画の壁面へ。


 白い線が一本現れた。


 床から天井まで。


 何もない壁を、縦へ二分する。


 玄理が立ち上がった。


「接続を確認」


 白線が増える。


 二本。


 四本。


 八本。


 会議区画だけではない。


 廊下。


 研究室。


 管理区画。


 大学北部一帯の建物へ。


 同じ白線が出現している。


 施設図が展開された。


 法則災害学部第一研究棟。


 第二治療棟。


 地下演習路。


 未定義現象管理区画。


 旧気象観測所へ続く連絡路。


 全てが。


 白い線によって複数の区画へ分けられていく。


「査問会場が広すぎないか」


 獅堂が言う。


「会場を作っているのではありません」


 澄玲が表示を読む。


「大学施設そのものを、査問対象へ指定しています」


 新しい文字が現れる。


 ――《上位階層査問》。


 ――執行階層、《第三公理階層》。


 ――開始前処理。


 ――下位回答の持続可能性を確認。


 ――対象範囲。


 ――帝都神律大学・北部法則災害学区。


「持続可能性?」


 灯が読む。


「六件を別々の現在として残した状態で」


 澄玲の顔が強張る。


「周囲の世界まで維持できるか、実際に試すつもりです」


「維持できなかったら?」


「六件の並立そのものが、下位世界へ過大な矛盾を生じさせると判断されます」


「だから一人にまとめる?」


「その根拠に使われる可能性があります」


 玄理が会議区画の扉へ向かう。


「全員、配置へ移れ」


「まだ正午前だぞ」


 俺が時計を見る。


 十一時五十九分。


 秒針が最後の一周へ入る。


「開始予定時刻は正午だ」


 玄理が言った。


「準備が正午まで待つとは書かれていない」


 扉が開く。


 その先に。


 廊下はなかった。


     ◇


 白い階段が。


 空へ向かって伸びていた。


 天井も。


 壁もない。


 帝都神律大学の研究棟内部だった空間が。


 青空の下へ露出している。


 だが。


 建物が破壊されたわけではない。


 足元には研究棟の床が残っている。


 数メートル先には。


 会議区画の向かいにあった解析室の扉もあった。


 その間へ。


 本来存在しない白い階段と。


 何もない空だけが適用されている。


「外に出たのか」


「違います」


 澄玲が端末を空へ向ける。


「位置座標は変わっていません。研究棟内部です」


「壁がないだけ?」


「この場所へ適用された《第一公理階層》では、ここに壁が存在しないのでしょう」


 右側を見る。


 白い階段の向こうには、別の廊下がある。


 そこでは。


 天井が床になり。


 照明が足元から上を照らしていた。


 左側では。


 会議区画の隣にあった研究室が、数百メートル先へ移されたように見える。


 位置そのものが変わったわけではない。


 この場所と研究室の間にある距離だけが。


 別の《第一公理階層》の前提へ置き換えられている。


「三件じゃない」


 俺が言う。


「ああ」


 玄理は施設図を開いた。


 白い区画。


 黒い区画。


 上下が反転した区画。


 距離が圧縮された区画。


 扉と部屋の対応が異なる区画。


 同じ大学北部に。


 十七件の《第一公理階層》に由来する空間規則が適用され始めている。


「一つの《第二公理階層》だけでも、内部には相互に異なる《第一公理階層》が無限に並立する」


 玄理が言った。


「今は複数の《第二公理階層》が、それぞれ内部から下位適用可能な《第一公理階層》を同時に提出している」


「大学を実験台にしてる」


 灯が言った。


「向こうは、査問対象の環境を再現しているつもりだ」


「もっと悪い」


 正午。


 時計が十二時を示した。


 音は鳴らなかった。


 代わりに。


 白い階段の最上段へ。


 一人の男が現れた。


 久世律真。


 白い長衣。


 短く整えられた黒髪。


 前と同じ。


 敵意の見えない表情。


 その背後には。


 六体の白い人影が立っている。


 顔はない。


 衣服もない。


 人間に似た輪郭だけを持つ、細長い身体。


「久世」


 俺が呼ぶ。


「正午だ」


 久世は答えた。


「《第三公理階層》による《上位階層査問》を開始する」


「話し合いに来たようには見えない」


「話し合いも行う」


「その後ろの六人は」


「《前提執行体》」


 白い人影が、一歩進んだ。


 解析表示が開く。


 ――《前提執行体》。


 ――下位側通常身体、形成済み。


 ――通常身体速度、測定待ち。


 ――存在格。


 表示が一瞬だけ乱れる。


 続いて。


 新しい文字が現れた。


 ――無刻存在(アンクロノス)


 ――《無刻行動》、成立可能。


 ――同条件の行動への対応、可能。


 誰も。


 すぐには声を出さなかった。


 緋月だけが。


 六体を順番に見た。


「やはり来たか」


「先生と同じ」


 灯が呟く。


「存在格だけはな」


 緋月が答えた。


「通常時間側へ形成された身体を壊しても」


「それだけで、《無刻行動》を成立させる執行主体まで消えたと考えるな」


「どう見分ける」


 俺が尋ねる。


「通常身体が止まった後も、存在格に基づく執行記録が残っていれば処理主体は存続している」


「経過時間〇の方は先生が?」


「執行完了を阻止する」


「通常時間側は」


「お前たちが止めろ」


 久世は、俺たちの会話を遮らなかった。


「六件の現在が」


「異なる《第二公理階層》から提出された《第一公理階層》の下でも」


「独立を維持できるか確認する」


「失敗したら、一人にする?」


「六件を維持するために下位世界が崩壊するなら」


 久世は階段を下りる。


「統合は、犠牲の少ない回答になる」


「誰の犠牲が少ない」


「周囲全体の」


「五人が消えることは?」


「一人の内部に保存される」


「またそれか」


「回答は変わっていない」


 久世が一段下りた。


 次の瞬間。


 姿が消えた。


「来る!」


 澄玲の声。


 獅堂が俺の前へ出る。


 衝撃。


 白い階段が中央から砕けた。


 久世の拳を。


 獅堂が両腕で受け止めている。


 警告表示が開く。


 ――下位投影体、身体速度。


 ――六二一・七メートル毎秒。


 ――マッハ一・八一。


「前より」


 獅堂の靴底が床へ沈む。


「重くなってるな!」


「先の投影体は説明用だった」


 久世は拳を押し込みながら答える。


「今回は査問執行用だ」


「それを先に言え!」


 万象は我が礎(グランド・レガリア)


 獅堂の足元から。


 金色の線が伸びる。


 研究棟の床。


 白い階段。


 反転した廊下。


 三件の異なる構造が。


 獅堂の立つための一つの礎へ接続される。


 拳の圧力が床へ逃げた。


 だが。


 白い階段だけが。


 久世側から適用された《第一公理階層》へ強く所属している。


 獅堂の礎から。


 そこだけが外れた。


 足元が崩れる。


「獅堂!」


 朔夜が黒い薄刃を振るう。


 因果切断(セヴァランス)


 久世の拳と。


 獅堂の身体が後方へ押し込まれる結果。


 その因果が断たれる。


 圧力が失われ。


 獅堂が横へ退いた。


 久世は追わない。


 右手を。


 俺へ向けた。


「第一問」


 空中へ文字が開く。


 ――六件の現在を独立させたまま。


 ――一件の身体へ帰属する負傷を。


 ――どこへ置く。


 久世の指が下がった。


 白い線が。


 俺の右肩から六方向へ走る。


「何を――」


 痛みが増えた。


 同時に。


 通信表示の向こうで。


 第四候補の身体が揺れる。


『右肩……?』


 三年前の俺も。


 帝都理法大学の俺も。


 採択領域から離脱した俺も。


 同じ右肩を押さえた。


 俺の負傷が。


 五件の黒瀬零へ共有されている。


「同一起源を単一主体として扱う《第一公理階層》では」


 久世が言う。


「一件の損傷を、一件の身体だけへ置く根拠がない」


「ある」


 俺は右肩を押さえた。


「この肩は俺のだ」


「起源を共有する四件の身体と、構造的差異がない」


「今痛いのは、俺だ」


「他四件も痛みを申告している」


「お前が押しつけたからだろ!」


 白い人影が動く。


 六体の《前提執行体》。


 一体目は。


 会議区画に残された俺の記録柱へ。


 二体目は。


 灯の記録柱へ。


 三体目は。


 第四候補との通信経路へ。


 残る三体は。


 それぞれ異なる廊下へ走り出した。


 今行われているのは。


 通常時間側の身体移動。


 解析表示が速度を測定する。


 ――二四八・九メートル毎秒。


「六件を分断するつもりです!」


 澄玲が叫ぶ。


「参照経路が切れれば、《六件共同前提》を維持できません!」


「朔夜!」


 玄理が指示する。


「通信経路を守れ」


「分かった」


「獅堂は記録柱だ」


「任せろ!」


「九条、執行体の適用規則を特定しろ」


「はい!」


「灯は私から離れるな」


「でも」


「お前の記録柱が狙われている。本人が大きく移動すれば、柱との対応まで分離される可能性がある」


 六体の表面へ。


 白い線が走った。


 通常身体の移動とは。


 別の処理。


 六体が。


 《無刻行動》を選んだ。


 その時。


 俺たち通常時間側には。


 次の状態変化が生じなくなった。


     ◇


 経過時間〇。


 俺の呼吸は。


 次の吸気へ進まない。


 久世の長衣も。


 宙へ散っていた白い階段の破片も。


 灯の開きかけた口も。


 通常時間を必要とする全てが。


 直前の状態にある。


 久世も同じだった。


 六二一・七メートル毎秒。


 どれほど高速な通常身体であっても。


 その数値は。


 経過時間〇の攻防へ参加する資格にはならない。


 久世の投影体は。


 拳を引き戻しかけた姿勢のまま。


 次の動作へ進めない。


 対して。


 六体の《前提執行体》は。


 無刻存在(アンクロノス)


 通常身体が二四八・九メートル毎秒で移動していたことは。


 今の攻防には関係しない。


 六体は。


 その存在格に特徴的な《無刻行動》によって。


 経過時間を一切消費せず。


 認識。


 判断。


 移動。


 接続。


 再分類処理を成立させようとする。


 一体目。


 俺の記録柱への接続を成立させる。


 ――現在の黒瀬零。


 ――《六件共同前提》から分離。


 ――単独主体として再分類。


 二体目。


 灯の記録柱へ。


 ――黒瀬灯。


 ――外部関係者。


 ――五件の識別主体として固定。


 三体目。


 第四候補との通信経路へ。


 ――暫定証人記録。


 ――通信関係を解除。


 ――現在人物参照を終了。


 残る三体も。


 第一研究棟。


 地下演習路。


 旧気象観測所へ続く連絡路。


 それぞれの帰還記録へ。


 経過時間〇で処理を成立させようとする。


 俺たちには。


 その全てへ。


 一手も返せない。


 止められたのではない。


 俺たちの認識も判断も身体動作も。


 成立のために経過時間を必要とする。


 今の攻防は。


 その経過時間を一切消費していない。


 だから。


 同じ攻防過程へ介入できない。


 ただ一人。


 緋月を除いて。


「下位側の回答が始まる前に」


 緋月が言った。


「終わらせるな」


 無刻存在(アンクロノス)


 緋月も。


 自身の意思で《無刻行動》を成立させる。


 一体目。


 俺の記録柱。


 《六件共同前提》からの分離完了。


 緋月の右手が。


 その処理へ重なる。


 万象校正(エメンダティオ)


 ――下位側が同一攻防過程へ介入不能な状態での再分類完了。


 ――下位査問の回答を先取り。


 ――訂正。


 結果を。


 未完了の位置へ戻す。


 二体目。


 灯の記録柱。


 ――黒瀬灯。


 ――五件を識別する単一基準として固定。


 ――本人回答前に確定。


 緋月が、その固定結果を外す。


 三体目。


 第四候補との通信経路。


 ――通信対応の解除。


 ――現在人物参照の終了。


 ――下位回答前に完了。


 訂正。


 接続解除を。


 未完了へ戻す。


 だが。


 《前提執行体》も止まらない。


 同じ無刻存在(アンクロノス)に属している。


 緋月の《無刻行動》を認識し。


 その訂正に対して。


 同じ経過時間〇の攻防で別の《無刻行動》を成立させる。


 一件を戻されれば。


 別の理由を作る。


 学籍。


 身体記録。


 入居履歴。


 兄妹関係。


 現在時刻。


 帰還座標。


 異なる経路から。


 同じ分断結果を成立させようとする。


 緋月も。


 その一件ずつへ対応する。


 一件。


 三件。


 九件。


 二十七件。


 通常時間側では。


 一瞬も経っていない。


 それでも。


 同じ経過時間〇の攻防では。


 《前提執行体》による《無刻行動》と。


 緋月による《無刻行動》が。


 何十件もの結果を競合させている。


 第一研究棟。


 帰還先移管。


 経路到達そのものを待たず。


 経過時間〇で成立させようとする処理。


 緋月は。


 完了結果だけを未成立へ戻す。


 地下演習路。


 第四候補の帰還先を。


 本人の過去記録へ変更する《無刻行動》。


 訂正。


 旧気象観測所への連絡路。


 採択領域から離脱した黒瀬零を。


 既に観測を終えた履歴として閉じる《無刻行動》。


 訂正。


 緋月は。


 六体を倒さない。


 無刻存在(アンクロノス)という存在格を奪うこともしない。


 下位側の零たちが。


 何へ答えるべきかまで。


 自分で決めることもしない。


 止めるのは。


 彼らが同じ攻防過程へ一切介入できない状態で。


 査問結果を完成させることだけ。


 最後の再分類処理を。


 未完了へ押し戻す。


 緋月の右手を覆う包帯へ。


 新しい裂け目が生じた。


 皮膚から血が浮く。


 だが。


 経過時間は〇。


 血液も。


 まだ落下という次の状態へは進まない。


 緋月は。


 六体全ての《無刻行動》による執行が。


 完了していないことを確認する。


 それ以上。


 下位側の回答へは触れない。


 一連の経過時間〇の攻防を終える。


 通常時間の進行を許した。


     ◇


 俺にとっては。


 白い線が光った。


 その次の瞬間。


 何十件もの攻防が存在したとは思えないほど。


 何も経っていない。


 それでも。


 六体の《前提執行体》は。


 先ほどと異なる位置にいた。


 それは。


 二四八・九メートル毎秒で、その間を走ったという意味ではない。


 《無刻行動》として成立した移動や接続処理の結果が。


 通常時間側へ反映された位置だった。


 俺の記録柱へ向かっていた一体は。


 会議区画の扉の直前。


 灯の柱を狙う一体も。


 獅堂の防衛線まで距離を詰めている。


 残る三体は。


 第一研究棟。


 地下演習路。


 旧気象観測所への連絡路。


 それぞれの帰還先へ続く経路上へ現れていた。


 緋月の右手から。


 血が一滴。


 今度こそ床へ落ちた。


「《無刻行動》による執行完了を止めた」


 緋月が告げる。


「全件、下位側で回答できる状態へ戻している」


「今だ」


「俺が行く!」


 走り出そうとした瞬間。


 久世が。


 前へ立っていた。


 通常時間側の移動。


 途中は見えない。


 白い長衣だけが。


 一瞬で視界を塞ぐ。


「第二問」


 掌が俺の胸へ向かう。


「走行主体を五件へ分けたまま」


 速い。


 避けられない。


「その速度を」


「一件だけのものだと、どう証明する」


 掌が届く。


 その前に。


 黒い線が。


 俺と久世の間を横切った。


 朔夜。


 拳が俺へ届く因果を切る。


 だが。


 久世の掌そのものは止まらない。


 胸の数センチ横を通過し。


 空気だけで身体が持ち上がる。


「切ったのに!」


「命中経路だけだ」


 朔夜が答える。


「発生した衝撃まで切れていない」


 俺は空中で身体を捻った。


 床がない。


 代わりに。


 反転した廊下の天井が。


 足元へ近づいてくる。


 そこへ右足を置く。


 上下が違うなら。


 立てる面を選ぶ。


 踏み込む。


 速度。


 七六・三。


 八四・八。


 久世へ向かわない。


 右側を抜け。


 会議区画へ向かう《前提執行体》を追う。


「行かせない」


 久世の声が背後から届く。


「九条!」


 朔夜が呼ぶ。


「経路を絞れ!」


「今、定義します!」


 澄玲の前へ。


 問いが開く。


 ――久世律真が、黒瀬零を追撃するために使用可能な経路。


 解。


 白い階段。


 反転廊下。


 距離圧縮区画。


 天井を持たない解析室。


 俺の影へ接続した共有主体経路。


 五件。


「天城先輩!」


「全部は切れない」


「四件をお願いします!」


 朔夜の薄刃が振るわれる。


 白い階段。


 反転廊下。


 距離圧縮区画。


 解析室。


 四件の追撃因果が切断された。


 残る一件。


 俺の影。


 床へ落ちた影が。


 五人分へ広がる。


 その中心から。


 久世の腕が現れる。


「左下です!」


 澄玲の声。


 見えた。


 久世自身ではない。


 影が。


 僅かに盛り上がった。


 次に攻撃が現れる場所。


 俺は左足を短く置く。


 速度を落とす。


 九〇・二。


 身体を右へ傾ける。


 影から出た拳が。


 左脇を通過した。


 避けた。


 久世の攻撃を。


 結果を保留する前に。


 自分の身体で。


「部分認識を確認」


 久世の声に。


 驚きはない。


 すぐに二撃目。


 影の別の場所が盛り上がる。


「右!」


 今度は。


 灯の声だった。


 俺の影を見ている。


 右肩は動かさない。


 腰を落とす。


 拳が頭上を通過し。


 風圧で髪が揺れた。


「お兄ちゃん、そのまま前!」


「ああ!」


 速度を戻す。


 九四。


 九七。


 《前提執行体》まで。


 一二メートル。


 白い人影が。


 会議区画の扉へ手を伸ばす。


 記録柱へ接続されれば。


 現在の俺と。


 残る四人の黒瀬零。


 灯。


 六件の相互参照が切断される。


 俺は左手を伸ばす。


 届かない。


 相手の通常身体の方が速い。


 なら。


 届かないという結論を。


「保留する!」


 未証明(アンプローヴン)


 ――黒瀬零。


 ――《前提執行体》への接触。


 ――距離不足により不成立。


 ――確定保留。


 距離が消えたわけではない。


 身体が瞬間移動したわけでもない。


 足りない距離が。


 接触不能という確定結果になることだけを。


 二・四秒。


 保留する。


 右足を踏む。


 床を蹴る。


 速度。


 一〇〇・〇メートル毎秒。


 緋月から許可された上限。


 指先が。


 白い人影の背中へ触れた。


「獅堂!」


「合わせる!」


 会議区画の内側で。


 獅堂が、記録柱の立つ床を踏み込む。


 万象は我が礎(グランド・レガリア)


 俺が触れた《前提執行体》の通常身体と。


 六本の記録柱が立つ床。


 その間へ。


 一枚の金色の足場が接続される。


 通常時間側の白い身体が。


 その場へ固定された。


「朔夜!」


「切る」


 黒い線。


 《前提執行体》と。


 俺の記録柱を分断する処理経路。


 切断。


 白い人影へ。


 亀裂が走る。


 だが。


 まだ崩れない。


 顔のない頭部が。


 俺へ向いた。


 腕が振り上げられる。


 人間の動きではない。


 関節を順番に使わず。


 肩から指先までが。


 一本の白い刃のように伸びる。


 俺の首へ。


 同時に。


 表面の白い線が。


 強く発光した。


 《前提執行体》が。


 再び《無刻行動》を選んだ。


     ◇


 経過時間〇。


 俺の身体は。


 首を引こうとした状態から。


 次へ進まない。


 朔夜の黒い薄刃も。


 澄玲の開いた口も。


 獅堂の踏み込んだ足も。


 久世も。


 俺を追うために身体を捻った姿勢のまま。


 次の状態変化を持たない。


 通常時間側で。


 獅堂の礎へ固定された白い身体も。


 物理的な通常移動としては進んでいない。


 だが。


 その存在に属する経過時間〇の執行主体は。


 別だ。


 無刻存在(アンクロノス)


 《前提執行体》は。


 固定された通常身体とは別に。


 《無刻行動》として。


 障害排除と接続再構築を成立させようとする。


 ――主対象。


 ――黒瀬零の記録柱。


 ――黒瀬零本人。


 ――接続を妨害する障害物。


 ――障害排除後。


 ――接続を完了。


 俺の首を切ることは。


 主目的ではない。


 記録柱への接続を完成させるための手段。


 緋月は。


 その処理を認識していた。


 同じ無刻存在(アンクロノス)


 同じ経過時間〇の攻防。


「下位側で見抜ける形を残せ」


 緋月も《無刻行動》を成立させる。


 白い刃による。


 俺の排除完了へ。


 右手を重ねる。


 万象校正(エメンダティオ)


 ――障害排除。


 ――下位対象が同一攻防過程へ介入不能な状態で完了。


 ――下位回答の先取り。


 ――訂正。


 俺の首が切断されるという完了結果を。


 未完了へ戻す。


 だが。


 記録柱への接続処理そのものまでは消さない。


 主対象が。


 最後まで記録柱であるという構造も残す。


 そこは。


 澄玲と。


 朔夜と。


 俺たち下位側が。


 自分たちで見抜き。


 答えなければならない。


 《前提執行体》が。


 別の《無刻行動》を成立させる。


 一本。


 三本。


 七本。


 俺の首。


 胸。


 右肩。


 影。


 別々の障害排除経路を提出しながら。


 記録柱への接続を完成させようとする。


 緋月は七件全てへ対応する。


 別の戦場でも。


 他の《前提執行体》が。


 同時に《無刻行動》を成立させている。


 灯の記録柱。


 第四候補との通信経路。


 三件の帰還先。


 緋月は。


 同じ経過時間〇の攻防の中で。


 六体の執行結果へ順に対応する。


 右手の包帯へ。


 また裂け目が生じる。


 白い執行処理が。


 緋月の身体そのものへ干渉する。


 皮膚が裂け。


 血が浮く。


 同じ存在格なら。


 相手の《無刻行動》へ対応できる。


 だが。


 対応できることと。


 攻撃を受けても傷つかないことは。


 別の話だ。


 存在格は。


 防御力ではない。


 それでも。


 緋月は。


 通常時間側の回答を先取りしようとする処理だけを。


 一件ずつ。


 未完了へ戻す。


 最後。


 俺を障害物として排除する白い刃。


 接触するという結果を。


 首の直前で未完了へ戻した。


 刃を消してはいない。


 方向も。


 目的も。


 通常時間側へ残る。


 緋月が通常時間の進行を許せば。


 俺たちは。


 そこから自分たちで止めなければならない。


 緋月は。


 一件の記録を。


 通常時間再開後に表示される通信へ登録する。


 ――《前提執行体》。


 ――存在格、無刻存在(アンクロノス)


 ――《無刻行動》による障害排除完了を阻止。


 ――主対象、黒瀬零の記録柱。


 ――下位側で接続を切断せよ。


 一連の経過時間〇の攻防を終える。


 通常時間の進行を許した。


     ◇


 白い刃が。


 首の一センチほど手前から。


 通常時間側の動作を再開した。


 俺には。


 その直前まで。


 何が起きていたのか分からない。


 だが。


 視界の端へ。


 緋月が残した記録が開く。


 ――《前提執行体》。


 ――存在格、無刻存在(アンクロノス)


 ――《無刻行動》による障害排除完了を阻止。


 ――主対象、黒瀬零の記録柱。


 ――下位側で接続を切断せよ。


 緋月の包帯から。


 新しい血が落ちた。


「一手分は戻した」


 緋月が告げる。


「残りは自分で止めろ」


「分かってる!」


 白い刃が来る。


 首を引く。


 間に合わない。


 右肩を大きく使えない。


 左腕で受ければ。


 切断される。


 澄玲が。


 緋月の記録と。


 《前提執行体》の通常時間側の動きを重ねる。


「その執行体は、接続処理を完了するまで主対象を変更できません!」


「何?」


「今狙っているのは、黒瀬零さんではありません!」


 俺の背後。


 記録柱。


 白い腕は。


 俺を斬ること自体を目的としていない。


 柱へ到達するために。


 俺を障害物として排除しようとしている。


 対象は。


 最後まで記録柱。


「朔夜!」


「見えている」


 黒い薄刃が走る。


 執行体の腕と。


 俺を排除する必要性。


 その因果を断つ。


 白い刃が。


 首の一センチ前で。


 目的を失った。


 俺は左拳を握る。


 白い人影の胸へ打ち込む。


 硬い。


 人間の身体ではない。


 手首へ痛みが返る。


 それでも。


 獅堂の金色の足場へ固定され。


 記録柱への接続経路を切られた通常身体は。


 拳の衝撃を逃がせない。


 白い亀裂が広がる。


「もう一発!」


「右肩を使うな!」


 通常時間側の緋月の声。


「分かってる!」


 左拳。


 二撃目。


 白い人影の胸部が砕けた。


 破片が空中へ散る。


 表示が開く。


 ――《前提執行体》。


 ――下位側通常身体、一体機能停止。


 続けて。


 別の判定。


 ――存在格。


 ――無刻存在(アンクロノス)


 ――経過時間〇の執行主体。


 ――完全停止、未確認。


「倒したのか」


 俺が尋ねる。


「身体だけだ」


 緋月が即答する。


「白線を見ろ」


 空中へ散った破片の一部。


 そこへ。


 細い白線が残っている。


 消えていない。


「通常身体は壊れた」


 玄理が言う。


「だが、無刻存在(アンクロノス)として《無刻行動》を成立させる執行主体まで消えたとは確認できない」


「また動く?」


「任意に《無刻行動》を行い、別の身体や処理経路を提出する可能性がある」


「じゃあ、一体減ったとは」


「通常時間側の身体については、一体だ」


「今のところか」


「一つ!」


 灯が叫ぶ。


「通常身体として動いているのは、残り五体です!」


「正確には」


 澄玲が施設図を開く。


「現在、通常身体として活動中なのが五体です!」


 一体は。


 朔夜が守る通信経路。


 一体は。


 獅堂が防ぐ灯の記録柱。


 残る三体は。


 既に別々の場所へ到達している。


 第一研究棟。


 地下演習路。


 旧気象観測所への連絡路。


「目的は」


 玄理が、三地点を拡大する。


「六件の帰還先だ」


「帰還先?」


「《公理標定室》の門が要求した、六つの下位側帰還先」


「そのうち三件を、《前提執行体》が別の《第二公理階層》に属する帰還体系へ移管しようとしている」


「帰る場所を奪うのか」


「一件の《第一公理階層》へ完全帰属しない六件を維持するには」


 玄理が答える。


「各自が別々の帰還先を持つ必要がある」


「三件を失えば、《第六候補》への門は開けない」


「それだけじゃない」


 灯が施設図を見る。


「帰還先を失った人は?」


「上位側へ入った後」


「現在へ戻る先を持てなくなる」


「誰の場所が狙われてる」


 表示が開く。


 第一研究棟。


 ――三年前の黒瀬零。


 地下演習路。


 ――第四候補。


 旧気象観測所への連絡路。


 ――採択領域から離脱した黒瀬零。


「三人分」


 俺が言う。


「俺たちを分けるつもりか」


「逆だ」


 久世の声がした。


 振り返る。


 白い階段の下。


 久世が立っている。


 いつ移動したのか。


 見えなかった。


 だが。


 通常時間側の移動だ。


「帰還先を三件へ減らす」


 久世は言った。


「六件全てを維持できないことが示されれば」


「残る三件を一件へまとめる?」


「最も損失の少ない主体構成を、《第三公理階層》へ再提出する」


「数を減らしてから統合するのか」


「下位世界の負担は小さくなる」


「本人の負担は?」


「保存される」


「お前は」


 俺は一歩前へ出る。


「それしか言えないのか」


「事実が変わっていない」


「俺たちも変わってない」


「違う」


 久世が俺の足元を見る。


「お前は、先ほど私の攻撃を二度回避した」


「それがどうした」


「下位側の身体だけで」


 久世は僅かに目を細めた。


「査問へ回答する速度を得始めている」


 褒めているわけではない。


 だが。


 否定しているようにも聞こえなかった。


「なら」


 俺は構える。


「もう一回、試してみろ」


「必要はない」


 久世が右手を上げる。


 三地点の施設図が。


 同時に白く染まった。


 第一研究棟。


 床と壁の区別が消える。


 地下演習路。


 走行前と走行後の位置が。


 同じ地点として重なる。


 旧気象観測所への連絡路。


 一歩進むたび。


 直前の位置が、進行前の地点として再定義される。


「各執行体が、異なる《第一公理階層》を適用した」


 玄理が言う。


「一つの部隊では対応できない」


「分かれろってことか」


 獅堂が、会議区画から出てくる。


「分かれれば、六件の参照が薄くなる」


 玄理は施設図を見たまま答える。


「固まれば、帰還先を奪われる」


「どちらを選んでも不利ですね」


 澄玲が言う。


「それが向こうの問いだ」


 俺は施設図を見る。


 三つの戦場。


 ここに残る久世。


 通信経路を狙う《前提執行体》。


 灯の記録柱を狙う《前提執行体》。


 一度に全部は守れない。


 俺一人では。


 最初から。


「四組に分かれる」


 玄理が言った。


「第一研究棟は、九条と天城」


「分かりました」


「地下演習路は、獅堂」


「一人でか?」


「第四候補と遠隔接続しろ。あの走路を最も知っているのは、お前たち二人だ」


「了解」


「旧気象観測所への連絡路は、私と灯」


「御厨先生が前に出る?」


「記録経路の迷路なら、俺の領分だ」


「神代先生は」


「《無刻行動》による経過時間〇の攻防を受け持つ」


 緋月は。


 通常時間側で。


 全員を見回した。


「《前提執行体》が《無刻行動》を行えば、今のお前たちは同じ攻防過程へ介入できない」


「先生が対応する?」


「ああ」


「どこまで」


「下位側のお前たちが回答する前に、結果を完了させる処理までだ」


「それより先は」


「自分たちで答えろ」


 緋月の右手から。


 血がもう一滴落ちる。


「私は、お前たちと同じ通常時間の戦場を並んで走るわけではない」


 緋月は続けた。


「お前たちが通常時間の中で一手を進める」


「その途中で、《前提執行体》が《無刻行動》によって回答を先取りしようとするなら」


「私は同じ経過時間〇で、それへ対応する」


「その攻防を終えた後に、通常時間側へ残った問いを返す」


「先生が負けたら」


「その心配をする前に、自分の相手を見ろ」


「分かった」


「黒瀬零は、ここに残れ」


 玄理が久世を見る。


「久世と一人で?」


「一人ではない」


 朔夜が。


 通信経路から一本の黒線を伸ばす。


 澄玲が。


 俺の周囲へ、問題表示を残す。


 獅堂が。


 白い階段の一部を、金色の足場へ変える。


 玄理が。


 六件の現在記録を、俺の背後へ展開する。


 灯が。


 俺を見た。


「お兄ちゃん」


「ああ」


「見えないなら、見るまで待たないで」


「どういう意味だ」


「来る場所を、みんなで一つにするの」


 先ほど。


 朔夜が追撃経路を四つ切り。


 澄玲が残る一件を示し。


 灯が影の動きを読み。


 俺が身体で避けた。


 一人では。


 久世の動きそのものは見えない。


 なら。


 見える場所へしか。


 来られないようにする。


「分かった」


 俺は答えた。


「久世は、俺たちが止める」


「黒瀬零」


 緋月が呼ぶ。


「一〇〇・〇を超えるな」


「戦場が勝手に速くなったら?」


「お前の身体速度は、お前が決めろ」


「了解」


「必ず止まれ」


「ああ」


「それと」


 緋月は。


 三地点へ向かう《前提執行体》を見る。


「通常身体を倒しても」


無刻存在(アンクロノス)としての執行まで終わったと思うな」


「分かってる」


「任意に《無刻行動》を行える」


「その時は」


「同じ条件で、私が対応する」


 久世が。


 白い階段を一段下りる。


 三地点の戦場で。


 《前提執行体》の通常身体が。


 同時に動き始めた。


「分断を選ぶか」


 久世が言う。


「違う」


 俺は左拳を構える。


「別々に戦うだけだ」


「参照が途切れれば、別々の現在は維持できない」


「途切れさせない」


「距離が生じる」


「呼べば聞こえる」


「適用される《第一公理階層》が異なる」


「それでも答える」


「三件全てを守ることはできない」


「三件じゃない」


 俺は久世を見る。


「ここも含めて四つだ」


 白い長衣が揺れた。


 久世が消える。


 朔夜の黒線が。


 左側の経路を切る。


 澄玲の表示が。


 足元を指す。


 灯の声が。


 通信から届いた。


『右前、低い!』


 影が盛り上がる。


 俺は右足を短く置き。


 腰を落とす。


 久世の拳が。


 頬の横を通り過ぎた。


 避けた。


 そのまま。


 左拳を振るう。


 久世の身体は。


 既に後方へ移ろうとしている。


 六二一・七メートル毎秒。


 俺の拳では追えない。


 久世の回避が成立する。


 俺の拳が届かない。


 その結論を。


「保留する」


 未証明(アンプローヴン)


 ――久世律真。


 ――黒瀬零の打撃範囲外へ離脱。


 ――確定保留。


 久世の身体は動いている。


 後方へ下がっている。


 それでも。


 俺の拳が届かないという結果だけは。


 まだ確定しない。


 足を踏む。


 右肩ではなく。


 腰から左腕を押し出す。


 拳が。


 久世の頬へ届いた。


 衝撃。


 白い階段の空気が弾ける。


 久世の顔が横へ動き。


 投影体の頬へ。


 細い亀裂が一本走った。


 初めて。


 俺の打撃が。


 久世律真へ命中した。


「届いた」


 俺が言う。


 久世は顔を戻し。


 頬の亀裂へ指を触れた。


 怒りはない。


 笑いもしない。


 ただ。


 先ほどまでとは違う目で。


 俺を見る。


「回答を確認」


 彼が言った。


「黒瀬零」


 白い階段の全てが。


 音を立てて崩れ始める。


「ここからは」


 久世の背後へ。


 数十体の《前提執行体》が現れた。


 新たに現れた人影の表面にも。


 白い線が流れている。


 表示が連続して開く。


 ――《前提執行体》。


 ――存在格。


 ――無刻存在(アンクロノス)


 ――《無刻行動》、成立可能。


 第一研究棟。


 地下演習路。


 旧気象観測所への連絡路。


 そして。


 俺と久世が立つ白い階段。


 四つの戦場が。


 異なる《第二公理階層》から提出された世界前提へ。


 閉じられていく。


「実力で提出しろ」


 久世が言った。


 通常時間側では。


 《前提執行体》の身体が動く。


 そして。


 彼らが《無刻行動》を選べば。


 その有限の攻防が成立しているあいだ。


 通常時間を必要とする俺たちは。


 同じ攻防過程へ介入できない。


 それでも。


 緋月は無刻存在(アンクロノス)として。


 全てを見ていた。


 右手を上げる。


「下位側は」


「自分の回答を作れ」


 包帯の隙間から。


 血が流れている。


「《無刻行動》で、お前たちの回答だけは先取りさせない」


 査問は。


 ようやく。


 言葉だけで済む段階を終えた。


 その最初の回答は。


 崩れ落ちる白い階段へ刻まれた。


 一筋の亀裂だった。

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