第七十一話 正しい世界が三つある
第四候補へ新しく与えられた部屋には、番号がなかった。
《未定義現象研究室》管理区画・第二仮設居室。
正式な学生寮でも、学籍を持つ学生のための部屋でもない。法則災害や存在登録異常によって、通常の居住記録へ登録できなくなった者を一時的に保護するための空間だった。
寝台。
簡易机。
治療端末。
左脚の固定具を置くための支持台。
旧学生寮一〇六号室にあったものと配置はよく似ている。
だが、同じではない。
「窓がないな」
俺が言うと、第四候補は寝台へ腰掛けたまま壁を見る。
「地下管理区画だからな」
「必要なら外部映像を表示できる」
「本物の窓じゃない」
「一〇六号室の窓も、景色が良かったわけじゃない」
「そういう問題か?」
「今は、部屋が存在するだけで十分だ」
壁面には旧学生寮の外観が表示されている。
一〇五号室。
その隣に一〇七号室。
間に一〇六号室があった痕跡はない。
建物全体が、最初から一部屋少なかった構造へ修正されている。
それでも。
俺たちは一〇六号室を覚えている。
第四候補がそこで過ごした時間も。
机の位置も。
窓際へ置かれていた固定具も。
部屋が消えた瞬間も。
「記憶と世界が食い違ってる」
「今更だ」
第四候補が言った。
「お前は、灯が消えた世界で一人だけ覚えていたんだろ」
「そうだけど」
「なら、部屋一つ程度で驚くな」
「部屋一つでも、なくなったものはなくなったものだ」
「戻すために、別の何かを消す気か」
「そんなことは言ってない」
「なら、今できることは同じだ」
第四候補は壁面表示を消した。
「忘れない」
短い言葉だった。
諦めたようには聞こえない。
失った一〇六号室を、最初から存在しなかったことにはしない。
だが。
取り戻すために、別の《第一公理階層》を現在から排除しようともしない。
その両方を選んでいる。
「お前、久世より頑固だな」
「お前にだけは言われたくない」
入口の扉が開き、澄玲と灯が入ってきた。
澄玲は端末を一台。
灯は透明な保管箱を抱えている。
「引っ越しの荷物?」
俺が尋ねる。
「一〇六号室にあったものです」
灯が箱を机へ置いた。
中には、紙の記録票が三枚。
古い学生証の破片。
第四候補が使用していた固定具の交換部品。
水の容器。
消えた一〇六号室に置かれていたものと同じに見える。
「残ってたのか」
「欄外収蔵へ移されていた記録から、物品として現在側へ戻せたものだけです」
澄玲が答えた。
「完全な復元ではありません。現在適用されている《第一公理階層》と矛盾しない物品として、再定義されています」
「どれが元の物か分からない?」
「同一性は証明できません」
第四候補が箱の中から学生証の破片を取った。
名前の部分は失われ、大学の記章と学生番号の末尾だけが残っている。
「これで十分だ」
「本当に?」
灯が尋ねる。
「一〇六号室に置いてあった物だと、俺が覚えている」
「証明できなくても?」
「ああ」
第四候補は学生証の破片を机へ置いた。
「俺が覚えていることまで、世界に許可を求める必要はない」
灯が少しだけ笑った。
その直後。
澄玲の端末が白く発光した。
警告音は鳴らない。
画面中央へ、三つの円だけが現れる。
互いに重ならず。
離れもせず。
三つの円周だけが接触したまま、ゆっくりと回転している。
「始まりました」
澄玲の表情が変わった。
「何が」
「《前提競合》です」
◇
場所は、《非時刻環境・存在連続性確認室》。
先の確認を終えて以降、帝都神律大学の施設記録から再び所在が不明になっていた部屋。
玄理が接続を確認した時点では、大学内のどの建物にも存在していなかった。
だが。
《第二公理階層》から《前提競合》の通知が届いた直後。
管理区画の廊下へ、存在しないはずの扉が現れた。
白い扉。
番号も。
施設名もない。
中央へ、三つの円だけが描かれている。
「この部屋は、一件の《第一公理階層》へ帰属していない」
玄理が扉の表面を解析する。
「だから、《前提競合》の中立地点として使用できる」
「どの世界前提にも属していないから」
灯が言う。
「どの《第一公理階層》を現在へ適用するか決める場所にできる?」
「その理解でいい」
「入ったら、どうなる」
俺が尋ねる。
「三件の《第一公理階層》が、局所的な世界前提として同じ対象へ適用可能になる」
「三つの世界が重なる?」
「物理空間として重なるとは限らない」
玄理は扉へ描かれた三つの円を拡大した。
「一つの《第二公理階層》には、相互に異なる《第一公理階層》が無限に並立し、その各々の全体が一つの公理項として扱われる」
「今回は、その中から三件が適用候補として抽出された」
「最終的には?」
「《前提競合》の標準形式では、下位世界を最も安定して構成できる一件が選定される」
「選ばれなかった二つは」
「この競合対象における現在としては採用されない」
表示へ、三件の候補が開かれた。
第一候補。
――同一起源は、一つの主体である。
――五件の黒瀬零は、一件へ統合される。
――黒瀬灯との兄妹関係は、統合主体へ帰属する。
第二候補。
――同一起源から分岐した時点で、各主体は独立する。
――五件の黒瀬零は、それぞれ別の現在人物として成立する。
――分岐前の関係記録は、各人物へ個別に継承される。
第三候補。
――起源の同一性は、主体の同一性へ影響しない。
――五件の黒瀬零は、起源情報を参照せず、それぞれの現在記録によって分類される。
――分岐前の関係記録は、現在の相互承認がある場合のみ維持される。
「第二候補でいいんじゃないか」
俺が言った。
「五人を別人として扱う」
「それを選べば、五件全てが分岐前の黒瀬零を、自分自身の過去として継承します」
澄玲が答える。
「灯さんとの兄妹関係も、五件全てへ同じ強度で帰属する可能性があります」
「それの何が悪い」
「灯さん本人の意思とは関係なく、五人全員が同じ意味で兄として割り当てられることになります」
俺は灯を見る。
灯はすぐには答えなかった。
「私は」
しばらく考えてから口を開く。
「五人とも、同じ人だとは思ってない」
「でも、全員がお兄ちゃんだった過去を持ってる」
「それだけで、私が五人全員を同じように『お兄ちゃん』って呼ばなきゃいけないの?」
「違う」
「第二候補だと、そういう関係まで自動で引き継がれるんでしょ」
「その可能性があります」
澄玲が答える。
「第三候補なら?」
「現在の相互承認によって決まります」
「なら第三候補の方が――」
「起源情報を、本人性の判定から完全に外す」
玄理が言った。
「三年前の黒瀬零が、現在の黒瀬零と同一起源であるという事実も」
「第四候補が失った学籍も」
「分岐前に共有していた経験も」
「本人性の判断根拠としては使用されなくなる」
第四候補が通信越しに言う。
『俺が黒瀬零だったことまで、現在の俺と無関係になる』
「そうだ」
『便利な部分だけ残すことはできないのか』
「一件の《第一公理階層》を下位へ適用する以上、その内部の公理構造だけを、こちらの都合で切り分けることはできない」
第一候補。
五人を一人にする。
第二候補。
五人を別人として成立させる代わりに、過去と関係を均等に継承させる。
第三候補。
現在を本人性の基準とする代わりに、共有した起源を本人性から切り離す。
どれも。
一部は正しい。
どれも。
俺たちの全部ではない。
「一件を選ばないといけないのか」
「《前提競合》の標準形式ではな」
玄理が答える。
「ですが」
澄玲が続けた。
「《第六候補》の第二条件は、一件の《第一公理階層》のみを六件全ての現在として選択しないことでした」
「この競合で一件を選んだら」
「条件を失う可能性があります」
「選ばなかったら?」
「下位世界へ適用する公理項が確定しない」
玄理は白い扉を見る。
「さらに、《前提競合》の対象となっている《六件共同前提》が、現在適用中の《第一公理階層》から切り離される可能性がある」
「六人とも消える?」
灯が尋ねる。
「消滅とは限らない」
「今は、その言い方が一番怖い」
「下位世界へ帰属しない記録になる可能性がある」
「記録にされるのは、もう十分だ」
俺は扉へ手を置いた。
「入る」
「待て」
緋月が右肩を掴む。
「今の身体状態で高速戦闘は許可しない」
「戦闘になるとは限らないんだろ」
「なる可能性がある」
「じゃあ先生が」
「私は競合回答者としては入れない」
思わず振り返った。
「どうして」
「今回の《前提競合》は、六件の現在へ、どの《第一公理階層》を適用するかを決めるための査問だ」
緋月は扉へ描かれた三つの円を見る。
「私は、その六件に含まれていない」
「でも、前は上位側の処理を止めた」
「あれは、下位側のお前たちが一手も成立させられない経過時間〇の処理で、上位側が回答を先取りしようとしたからだ」
緋月は俺を見る。
「私は無刻存在に属している。必要なら、認識、判断、身体動作、能力処理を経過時間〇のまま成立させる《無刻行動》ができる」
「相手が経過時間〇で動いても、それに対応できる」
「ああ」
「でも今回は、それを使っちゃ駄目?」
「競合結果そのものを私が決めるためには使わない」
緋月ははっきり答えた。
「私が《無刻行動》で三件の候補へ直接介入し、一件を排除したり、六件を強制的に残したりすれば」
「それは六件が出した回答ではなくなる」
澄玲が理解したように言う。
「はい」
緋月は頷く。
「私は、競合の外から下位回答を上書きする主体になる」
「存在格が高いから入れないわけではない?」
灯が尋ねる。
「違う」
緋月は明確に否定した。
「無刻存在であること自体が参加禁止理由ではない」
「私は、今回の問いの当事者として登録されていない。それだけだ」
「もし中で、また経過時間〇の上位処理が来たら?」
俺が尋ねる。
「六件の回答を待たずに結果だけを確定しようとする処理なら、外側から対応する」
「競合そのものには答えない」
「ああ」
「俺たちが一件を選ぶかどうかも」
「決めない」
「六件を残すかどうかも」
「お前たちの回答だ」
玄理が補足する。
「神代の役割は、回答権を持たない上位処理が、下位側の選択より先に結論を固定する場合の阻止に限定する」
「それ以外の競合内容には介入しない」
「じゃあ誰が入る」
「現在の黒瀬零」
「黒瀬灯」
「《六件共同前提》を、下位側の回答として保持できる証人」
「計三名」
「証人は?」
「九条澄玲が適任だ」
澄玲が一度、目を見開く。
「私ですか」
「お前は三件の《第一公理階層》を、一件の正解へ収束させずに問題として保持できる」
「ですが」
「嫌なら断れ」
「嫌ではありません」
澄玲は端末を胸元へ寄せた。
「ただ、責任が大きいと感じただけです」
「責任が小さい仕事は、最初から任せていない」
「御厨先生なりの励ましですか」
「事実だ」
「分かりました」
朔夜が扉の横へ立つ。
「俺たちは外か」
「ああ」
玄理が答える。
「競合内部との通信は維持する。必要なら接続経路を特定しろ」
「切断は」
「内部から対象を指定された場合のみだ」
「獅堂は」
「扉を保持する」
獅堂が両腕の固定膜を見る。
「壊すなって言われると思った」
「今回は壊すな」
「分かってる」
第四候補の映像が、扉表面へ重なる。
『俺たちは』
「遠隔参照になる」
玄理が答えた。
「三年前の黒瀬零、帝都理法大学の黒瀬零、採択領域から離脱した黒瀬零も同様だ」
『自分の現在を、他人に預けろと?』
「違う」
俺が言う。
「お前らの答えを持っていく」
『同じに聞こえる』
「嫌なら自分で来い」
『左脚が治ればな』
「じゃあ今は黙って見てろ」
『失敗したら』
「その時は文句を言え」
『消えていなければな』
「縁起でもないこと言うな」
第四候補は小さく息を吐いた。
『頼む』
「ああ」
扉に描かれた三つの円が、回転を止める。
中央で接触した。
白い扉が、三方向へ開いた。
◇
部屋は三つあった。
同じ広さ。
同じ白い壁。
同じ黒い球。
同じ六本の記録台。
だが、入口から見える景色は全く異なる。
左の部屋。
そこには、俺一人だけが立っていた。
灯も。
澄玲も。
入口の外にいる仲間も存在しない。
中央の部屋。
俺と灯と澄玲がいる。
だが、六本の記録台全てに、同じ名前が表示されている。
――黒瀬零。
右の部屋にも、六本の記録台がある。
そこでは名前が全て別々だった。
俺の台には。
――黒瀬零。
灯の台には。
――黒瀬灯。
残る四本には。
氏名欄そのものが存在しない。
「どれへ入ればいいんですか」
澄玲が尋ねる。
「三件とも、同じ回答対象として扱わなければならない」
玄理の声が通信から届く。
「無茶言うな」
「一件だけへ入った時点で、その《第一公理階層》を下位側回答として受理したと判定される可能性が高い」
「身体は一つしかない」
「現在の身体はな」
「分かるように説明してくれ」
「三つの入口へ、それぞれ異なる意味で関与しろ」
澄玲が三方向を見る。
「私たち三人を、一人ずつ別の部屋へ割り当てるのでは駄目ですか」
「それでは各《第一公理階層》が、一人ずつを自分の回答主体として所有する」
「じゃあ」
「三人全員が、三件全てへ関与する必要がある」
「同時にって」
灯が俺を見る。
「分身はできないよね」
「できたら五人で困ってない」
入口の床へ白い文字が現れた。
――《前提競合》開始まで。
――三〇・〇秒。
「時間制限まであるのか」
「競合開始後、三件の《第一公理階層》が持つ内部規則が、局所的に外部へ適用される」
玄理が言う。
「それまでに、三件全てへ六件の参照先を接続しろ」
「六本の記録台へ?」
「そうだ」
「三部屋なら十八本だぞ」
「三〇秒で」
灯が言う。
「一人六本?」
「単純に分担すればそうなります」
澄玲が端末を開く。
「ですが、別々に触れるだけでは駄目です。三つの部屋に関与する私たちが、同じ三人であることも保持しなければなりません」
「第二候補と第三候補じゃ、同じ人として扱われる条件が違う」
「はい」
――二五・〇秒。
「方法は」
俺が尋ねる。
澄玲は三件の部屋を見比べた。
左。
一人だけの部屋。
中央。
同じ名前が六つある部屋。
右。
名前を持たない四件がある部屋。
「問題を定義します」
世界は解を持つ。
三つの入口へ、同じ問いが表示される。
――一つの身体で、三件の異なる《第一公理階層》へ関与する方法。
解が展開された。
――身体を三分割する。
――三件の代理を使用する。
――三つの時点へ行為を分散する。
――一件の行為を、三件の《第一公理階層》から異なる意味で参照させる。
「最後です」
澄玲が言う。
「同じ行為を、三つの世界前提に、それぞれ異なる意味で受理させます」
「具体的には」
「黒瀬零さんが、三つの入口の接触点を通る一つの走路を作ってください」
「一本の走行として?」
「はい」
「でも三部屋を順番に通れば、行動時刻は同じじゃない」
「行為の各地点が同時である必要はありません」
澄玲は床へ三本の経路を重ねる。
「一件の走行全体を、三件の《第一公理階層》がそれぞれ自分の内部で成立した行為として参照できればいい」
「一回の走りを、三つとも自分の世界で起きた行為として扱わせる」
「その間に、私と灯さんが各入口から六件の参照記録を接続します」
「走行速度は」
緋月の声が通信へ入る。
「九〇メートル毎秒以下に抑えろ」
「距離は」
「各部屋、一二〇メートル」
「三つで三六〇」
「方向転換が二回ある」
「九〇じゃ間に合わない」
「競合開始までの三〇秒は侵入準備時間だ。開始後も、その瞬間に敗北が確定するわけではない」
「どのくらいある」
玄理が答える。
「最初の前提固定まで、通常経過時間で推定四・〇秒」
「三六〇メートルを四秒」
「平均九〇メートル毎秒」
灯が言う。
「本当に九〇でぎりぎり」
「方向転換と記録台への接触を考えれば足りない」
俺は右肩を回した。
痛みはある。
だが、動かせないほどではない。
「一〇〇で行く」
「許可しない」
緋月が即答する。
「前は一〇〇・四まで出た」
「停止できなかった」
「今回は最後まで止まらない」
「途中で二回曲がる」
「壁を使う」
「肩を壊す」
「左で触れる」
「黒瀬零」
「他に方法がない」
通信の向こうで、短い沈黙があった。
――一二・〇秒。
「最高一〇〇・〇」
緋月が言う。
「一〇〇を超えるな」
「分かった」
「終了後は自力で停止しろ」
「努力する」
「努力ではない。実行しろ」
「分かった」
澄玲が端末を灯へ渡す。
「灯さん。六件の現在時刻を読み上げてください」
「読み上げるだけ?」
「三件の《第一公理階層》が、同じ六件を別々の参照先として扱っていることを、声と記録で維持します」
「澄玲さんは?」
「私は、三つの問題定義を保持します」
「俺は走る」
「はい」
――五・〇秒。
俺は左の入口へ身体を向けた。
左。
中央。
右。
三つの部屋を、一筆書きで通る経路。
最初の一二〇メートル。
方向転換。
次の一二〇。
もう一度方向転換。
最後の一二〇。
「黒瀬零」
緋月の声。
「今走るのは誰だ」
以前、灯から聞かれた言葉。
答えは同じだ。
「俺だ」
「他の四人の速度ではない」
「ああ」
「比較記録を使うな」
「分かってる」
「行け」
扉が完全に開いた。
◇
床を蹴る。
最初に入ったのは、第一候補の部屋。
――同一起源は、一つの主体である。
入口を越えた瞬間。
身体が重くなった。
俺の右肩へ。
第四候補の左脚へ。
三年前の俺の右手へ。
帝都理法大学の俺の呼吸へ。
採択領域から離脱した俺の平衡感覚へ。
五人分の身体記録が、一件へ重なろうとする。
『止まるな!』
第四候補の声が頭の中へ響く。
通信ではない。
俺自身の思考として混じってくる。
「保留する!」
未証明。
――五件の行動主体。
――単一化。
――確定保留。
身体が軽くなる。
完全に分離したわけではない。
だが。
今走っている足が誰のものかは分かる。
俺の足だ。
速度。
八七・四。
九〇・一。
左側の六本の記録台が見える。
触れる時間はない。
俺の背後から、灯の声が届く。
「現在の黒瀬零、午前一〇時〇三分二一秒!」
「第四候補、午前一〇時〇三分二一秒!」
「三年前の黒瀬零、独立現在時刻を保持!」
「帝都理法大学の黒瀬零、所属時間を保持!」
「採択領域から離脱した黒瀬零、外部観測時間を保持!」
「黒瀬灯、午前一〇時〇三分二一秒!」
六本の記録台が点灯した。
澄玲が問題定義を重ねる。
「六件は、一件へ統合されず、同一の走行を別々の現在から参照しています!」
第一候補の部屋が。
走行全体を、一人分の行為として取り込もうとする。
だが。
灯が六件の現在時刻を分けて読み。
澄玲が六件を別々の参照先として保持する。
俺の走行だけが。
三つの部屋を結ぶ一本の線として残る。
第一折り返し。
壁まで四メートル。
速度、九三・二。
右足を前へ出し、身体を左へ倒す。
壁へ触れるのは左手。
右肩へ衝撃を入れない。
掌が白い壁へ触れた。
壁が僅かに沈む。
その反発を利用して進行方向を一八〇度変える。
左肘。
腰。
右脚。
順番に負荷が走る。
速度は八一・七まで落ちた。
「遅れてる!」
灯の声。
「分かってる!」
中央の部屋へ入る。
第二候補。
――同一起源から分岐した時点で、各主体は独立する。
六本の記録台には、六件全てへ同じ名前が表示されていた。
――黒瀬零。
灯の表示まで。
――黒瀬零の妹。
澄玲の表示は。
――黒瀬零の協力者。
「私を、誰かとの関係だけで定義しないでください!」
澄玲が声を上げる。
世界は解を持つ。
――九条澄玲とは誰か。
解が開く。
――黒瀬零の協力者。
――帝都神律大学法則基礎学部一年。
――世界は解を持つの保有者。
――九条澄玲本人。
「最後を採用します」
澄玲の名前が戻る。
――九条澄玲。
灯も記録台へ手を置いた。
「私は、お兄ちゃんの妹だけど」
六本の表示を見る。
「誰をお兄ちゃんと呼ぶかまで、世界に決めてもらわない」
灯の名前が戻る。
――黒瀬灯。
関係を捨てたわけではない。
関係だけへ本人を押し込めることを拒否した。
俺は走る。
速度。
八八・五。
九一・〇。
右肩へ痛み。
まだ耐えられる。
中央の部屋では、五件の黒瀬零が別々の人物として成立している。
だが。
全員へ同じ過去。
同じ関係。
同じ名前を均等に配ろうとする。
別人として分けるだけでは足りない。
誰とどう関わるかまで。
《第一公理階層》が先に割り当てていいわけではない。
第二折り返し。
壁まで六メートル。
速度、九四・八。
「黒瀬零、落とせ!」
緋月の声。
「間に合わない!」
「落として曲がれ!」
最後の一歩を短くする。
第四候補から聞いた。
伸びようとすれば。
接地時間が増える。
右足を身体の真下へ置く。
腰を下げる。
床面へ速度を返す。
速度、八九・三。
左足で方向を変える。
今度は壁へ触れない。
曲がれた。
右肩にも衝撃は入らない。
だが、床へ長い亀裂が走った。
「床面負荷、許容値を超過!」
玄理の声。
「次はもっと落とせ!」
「次は直線だ!」
最後の部屋。
第三候補。
――起源の同一性は、主体の同一性へ影響しない。
入口を越えた瞬間。
頭の中から、何かが抜け落ちた。
灯を見る。
知っている。
名前も分かる。
一緒に過ごした記憶も残っている。
だが。
妹だという実感だけがない。
情報は残っている。
兄妹という関係だけが。
現在の相互承認を待つ未確定記録へ変わっている。
「お兄ちゃん!」
灯が叫ぶ。
声は聞こえる。
だが。
その呼び方が、誰へ向けられているのか。
一瞬だけ分からない。
速度、九二・七。
最後の六本の記録台。
残り九〇メートル。
「黒瀬零さん!」
澄玲の声。
「現在の関係を答えてください!」
「今、走ってる!」
「走りながら答えてください!」
「無茶言うな!」
「答えなければ、第三候補では関係が成立しません!」
灯。
俺より年下。
失われた妹。
未来の回答を受け取る器として扱われかけた人間。
五件の黒瀬零の誰を。
どう呼ぶか。
自分で決めようとしている。
過去が同じだからではない。
世界が兄妹と登録したからでもない。
今。
灯が俺を。
お兄ちゃんと呼んだ。
俺が。
その呼び方へ答える。
「灯!」
「何!」
「俺は!」
速度、九五・一。
「お前の兄でいたい!」
灯の記録台が発光した。
「だったら!」
灯が叫ぶ。
「勝手に消えないで!」
「分かってる!」
関係記録が成立する。
――黒瀬零。
――黒瀬灯。
――兄妹関係。
――現在の相互承認により継続。
過去を否定したわけではない。
起源を消したわけでもない。
今の二人が。
今も、その関係を選んだ。
残り五〇メートル。
速度、九七・三。
六本の記録台が近づく。
その時。
三つの部屋の天井が、同時に割れた。
白い人影が落下する。
久世律真。
以前現れた下位投影体と同じ顔。
同じ白い長衣。
だが。
身体は三つ。
第一候補の久世。
第二候補の久世。
第三候補の久世。
三人が。
三件の《第一公理階層》から。
同時に俺へ向かってくる。
「《前提競合》に戦闘処理を入れたのか!」
「違う」
三人の久世が、同じ声で答えた。
「競合中の不正な横断行為を停止する」
「一回の走りを三つで使うのが不正?」
「一件の現在は、一件の《第一公理階層》へ帰属する」
「それを決めるために来たんだろ!」
「だから、三件へ同時帰属する行為は認められない」
第一候補の久世が動いた。
――身体速度、五一三・八メートル毎秒。
見えない。
第二候補。
――四九八・一メートル毎秒。
第三候補。
――五二二・六メートル毎秒。
三人の踏み込みが。
ほぼ同時に。
別方向から迫る。
「天城先輩!」
澄玲が叫ぶ。
外部の朔夜が、扉越しに黒い薄刃を振るう。
だが。
三件の《第一公理階層》では。
久世と俺を結ぶ因果が、それぞれ異なっている。
一本では切れない。
「指定しろ!」
「第一候補は、統合主体への回収!」
澄玲が叫ぶ。
「第二候補は、分岐主体への強制帰属!」
「第三候補は、現在関係の未承認による排除!」
三本の黒線が走る。
第一候補の久世の右腕が逸れる。
第二候補の足が止まる。
第三候補だけが。
切断を免れた。
「一件足りない!」
久世の掌が俺の胸へ届く。
見えない。
避けられない。
それでも。
命中した後に確定しようとしている結果は分かる。
「その結論を!」
未証明。
――第三候補。
――黒瀬零。
――競合領域から排除。
――確定保留。
掌が胸へ触れる。
衝撃はある。
肋骨が軋む。
身体が後方へ浮いた。
だが。
競合領域から排除されたという結果だけが。
二・四秒後へ押し出される。
残り三〇メートル。
足が床から離れている。
このままでは走れない。
「獅堂!」
俺が叫ぶ。
「扉の外からは床へ届かない!」
「なら!」
獅堂が両手を扉枠へ置く。
万象は我が礎。
三つの部屋の床ではない。
三件全てに共通する入口の扉。
そこへ接続された境界面。
その共通境界全体を。
獅堂は自分の足場へ変える。
俺の背後。
空中へ、一枚の金色の面が現れた。
足裏が触れる。
床ではない。
壁でもない。
三件の《第一公理階層》が共通して参照する、入口との対応関係。
それを蹴る。
速度、九八・〇。
久世が追う。
三件の身体。
三方向。
保留時間、一・五秒。
最後の六本。
俺一人では届かない。
「灯!」
「分かってる!」
灯が第一の記録台へ手を置く。
「現在の黒瀬零!」
澄玲が第二へ。
「第四候補!」
遠隔通信から、三年前の俺の声。
『三年前の黒瀬零!』
帝都理法大学。
『所属世界の黒瀬零!』
採択領域から離脱した俺。
『外部観測下の黒瀬零!』
第四候補。
『第四候補!』
最後に。
灯が自分の台へ、もう一方の手を置く。
「黒瀬灯!」
六本全てが点灯した。
俺の足が中央の記録点へ届く。
掌を置く。
「三つとも」
息が切れる。
胸が痛い。
右肩も。
左脚も。
限界に近い。
「俺たちの全部じゃない」
三人の久世の動きが失われる。
停止したわけではない。
攻撃を強制的に止められたわけでもない。
三件の《第一公理階層》それぞれが。
久世による排除処理を、自分の正当な競合処理として受理できなくなった。
第一候補。
一人へ統合し切れない六件が残る。
第二候補。
別人として分けても。
関係を均等に配分できない。
第三候補。
起源を本人性から外しても。
現在の相互承認だけでは、過去の全てを説明できない。
どれも正しい。
どれも足りない。
六件の現在を。
一件だけで完全には説明できない。
記録点中央へ、新しい判定が現れた。
――《前提競合》。
――単独優先候補。
――該当なし。
久世の三つの身体が、同時にこちらを見る。
「一件を選ばないというのか」
「ああ」
「下位世界は、相互に矛盾する複数の《第一公理階層》を、同一地点へ無条件に同時適用できない」
「だったら」
俺は息を整える。
「六人を、一つの世界前提へ押し込むな」
「《第一公理階層》へ帰属しなければ、現在を維持する完全な世界前提が存在しない」
「一つに決めなきゃ維持できないなら」
灯が言った。
「決めるまで待って」
「待機中の現在は、どこへ置く」
久世が尋ねる。
澄玲が答えた。
「《六件共同前提》へ」
「それは《第一公理階層》ではない」
「はい」
「《第二公理階層》における、一件の公理項でもない」
「はい」
「下位世界全体を成立させる世界前提にはならない」
「それでも」
澄玲は六本の記録台を見る。
「六件が、互いを別の現在として参照しています」
「不完全だ」
「不完全だからといって」
澄玲の声は揺れなかった。
「一件の完全な説明へ、六人を置き換えてよい理由にはなりません」
久世は答えなかった。
三件の投影体へ。
白い亀裂が走る。
競合そのものが失敗したからではない。
一件を選ぶという処理形式が。
六件の現在を扱うための形式として。
不適切だと判定され始めている。
部屋中央へ、新しい文字が現れた。
――下位側回答を確認。
――単独《第一公理階層》への完全帰属を拒否。
――複数公理項間における独立参照を維持。
その下。
《第六候補》の条件が更新される。
――第三条件。
――一件の現在を、残る五件の否定根拠として使用しないこと。
「他の誰かがいるから」
灯が読む。
「自分は偽物だってことにしない」
「逆も同じです」
澄玲が言う。
「自分が本物だから、ほかを偽物にしない」
久世の投影体が、白い粒子へ崩れていく。
「この回答は」
第一候補の久世が言った。
「一つの《第二公理階層》が行う、単独公理項選択の標準形式では保持できない」
「なら、どうなる」
「上位の《公理階層》へ再提出される」
「また上へ持っていくのか」
「逃げているのではない」
第二候補の久世が答える。
「一つの《第二公理階層》では処理できない回答が提出された」
「次は」
第三候補の久世が言う。
「無限に並立する《第二公理階層》の全体が、それぞれ一つの公理項として扱われる」
表示へ。
次の構造名が現れる。
――《第三公理階層》。
「《第二公理階層》同士が」
澄玲が読む。
「次の競合単位になる?」
「そうだ」
三件の身体が消えていく。
最後に。
一つの声だけが残った。
「その時も、一件を選ばずにいられるか」
◇
《非時刻環境・存在連続性確認室》から出た直後。
俺は止まれなかった。
三件の部屋が閉じ。
白い扉が背後で一つへ戻る。
俺の身体だけが。
一〇〇メートル毎秒近い速度を保ったまま、管理区画の廊下へ飛び出した。
正面。
壁まで四二メートル。
「黒瀬零!」
緋月の声。
「自力で止まれ!」
前なら。
止まろうと決めた後で、姿勢を作っていた。
加速を終えてから。
制動を始めていた。
違う。
走り始める前から。
止まる場所を決める。
右足を短く置く。
腰を下げる。
左足を進行方向へ対して斜めに接地する。
床を蹴るのではない。
床へ。
自分の速度を返す。
靴底が滑り。
廊下へ白い煙が立った。
右肩に痛み。
胸にも。
それでも。
姿勢を崩さない。
速度。
七〇。
五〇。
二〇。
壁まで七メートル。
三。
一・八。
停止した。
右手を壁へ触れる。
支えるためではない。
止まった後に。
そこに壁があることを確認するため。
表示が開く。
――競合領域退出時速度。
――九八・四メートル毎秒。
――自力制動。
――停止距離、四〇・六メートル。
――外部介助、なし。
「止まった」
灯が後ろから言う。
「見れば分かる」
「一人で?」
「ああ」
「壁にぶつかってない?」
「触っただけだ」
緋月が俺の横へ来る。
右肩。
胸部。
脚部。
順番に検査する。
「負傷は」
「増えてる気がする」
「気ではなく増えている」
「でも止まった」
「それと治療は別だ」
「褒めてない?」
「制動は成立した」
「それ、褒めてる?」
「事実だ」
「やっぱり御厨先生に似てきたな」
「その発言を続けるなら、次の走行許可を一週間後にする」
「撤回する」
「記録した」
「消してくれ」
「嫌だ」
少し離れた場所で。
玄理が《前提競合》の結果を確認している。
三件の《第一公理階層》。
どれも選ばれなかった。
だが。
どれも否定されなかった。
六件は。
一件の世界前提へ完全帰属しないまま。
現在側へ残っている。
「《第二公理階層》の処理形式が変わった」
玄理が言う。
「どう変わった」
「これまで向こうは、一件の《第一公理階層》を、公理項として選ぼうとしていた」
表示が開く。
――単独公理項選択。
――不成立。
――再処理形式。
――上位階層査問。
「査問?」
澄玲が読む。
「戦闘ではなく、審理形式ですか」
「表面上はな」
玄理が答える。
「ただし、《第三公理階層》から見れば、一件の《第二公理階層》全体が、一つの公理項として扱われる」
「複数の《第二公理階層》が」
灯が言う。
「自分の方が六人の現在を正しく扱えるって、示しに来る?」
「その可能性が高い」
「久世も来る?」
「来るだろう」
玄理は、白い扉へ残された一行を見る。
――《第二公理階層》代表適用者。
――久世律真。
「代表適用者」
俺が読む。
「それが、久世の役割?」
「下位側での正式な翻訳だろう」
「一人しかいない?」
「一件の《第二公理階層》につき一名とは限らない」
玄理は表示を閉じた。
「少なくとも」
「久世律真は役職名ではない」
「固有名だ」
三件の正しい世界。
そのどれにも。
俺たち六件の全ては収まらなかった。
だから。
一つを選ばなかった。
正解がないからではない。
正解が複数あるから。
そのうち一件だけを。
六人全員へ強制することを拒んだ。
次は。
一件の《第一公理階層》同士ではない。
無限の《第一公理階層》を、それぞれ公理項として内包する。
《第二公理階層》そのものが。
次の査問単位になる。
それでも。
今の俺たちには。
三つの正しさへ一人ずつ頭を下げ。
どれか一件へ入れてもらう理由はなかった。
正しい世界が三つあるなら。
六人が六人のまま生きられる現在も。
そのどこかにあるのではなく。
まだ。
どの一件にも。
完全な形では提出されていないだけだった。




