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『神律大学の未証明者《アンプローヴン》』   作者: 仕儀の反駁
第五章《公理階層》《第六候補》編

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第七十話 世界は一人分の過去しか残さない

 旧学生寮一〇六号室が、空室になった。


 第四候補が、その部屋にいるにもかかわらず。


 午後二時十三分。


 俺は《未定義現象研究室》で右肩の再検査を受けていた。


 一〇〇・四メートル毎秒まで加速した代償は、筋繊維の軽度損傷と、治療途中だった関節周辺組織の炎症。


 固定帯は一本から二本へ戻されている。


 緋月によれば、走行そのものよりも、停止できず宙へ放り出された時の負荷の方が大きかったらしい。


「次の走行許可は」


「今から三日後だ」


「一〇〇メートル毎秒で止まる訓練は?」


「三日後だ」


「軽い動作確認だけでも」


「三日後だ」


「歩くのは?」


「許可する」


「八〇メートル毎秒くらいで?」


「それを歩行と呼ぶなら、三日間は寝台から降ろさない」


 緋月が検査膜を剥がした直後、研究室中央の警告灯が白く点滅した。


 赤ではない。


 法則災害でも、外敵侵入でもない。


 記録不一致。


 存在登録と現実の間に食い違いが発生した時の色だった。


「対象を表示」


 玄理が解析卓へ手を置く。


 空中へ開いた旧学生寮の平面図には、一〇六号室にいる第四候補の身体反応が表示されていた。


 心拍。


 呼吸。


 体温。


 左脚の固定状態。


 全て正常。


 にもかかわらず、部屋の使用記録には別の判定が並んでいる。


 ――使用者、なし。


 ――入居記録、なし。


 ――室内生命反応、誤検出。


 ――居室分類、空室。


「第四候補と連絡を」


 玄理が通信を開く。


 表示が一度だけ乱れた後、診療椅子へ座る第四候補が映った。


 背景には、見慣れた一〇六号室がある。


 寝台。


 簡易机。


 壁際の医療端末。


 窓の隣に置かれた固定具。


 少なくとも映像を見る限り、室内そのものに大きな変化はない。


『聞こえている』


「何が起きてる」


『部屋の扉が開かない』


「中から?」


『開閉装置へ触れても反応しない』


 第四候補が右手を扉へ伸ばす。


 指先は確かに操作盤へ触れた。


 だが、表示は変わらない。


 ――室内使用者、なし。


 ――内側からの操作入力、検出せず。


「触れてるのに」


 灯が画面へ近づく。


「操作した記録だけが残ってない?」


『それだけじゃない』


 第四候補が机の上へ手を伸ばした。


 水の入った透明容器が置かれている。


 指が触れ、容器が一度持ち上がる。


 だが数センチ上がったところで、容器だけが机へ戻った。


 第四候補の指は、持ち上げた形のまま空中に残される。


『俺が持ったという記録が、室内設備側へ反映されない』


「身体では触れられる」


 澄玲が映像を確認する。


「ですが、部屋が第四候補さんを使用者として認めていません」


「認められないと、持ち続けることもできないのか」


「この部屋の備品は、登録された入居者か、許可された訪問者しか使用できない設定になっています」


「学生寮の盗難防止機能だ」


 玄理が言った。


「通常なら、入居記録の異常だけでここまで強く作用しない。設備規則そのものが、存在登録へ従属させられている」


「久世か」


「本人が直接処理しているかは不明だ」


 玄理が一〇六号室の記録構造を展開する。


 入居記録。


 学生記録。


 治療記録。


 第四候補としての暫定証人登録。


 《第四学籍》による独立付記。


 全て残っている。


 削除されてはいない。


 ただし、それら全ての上へ、新しい一文が置かれていた。


 ――当該記録群は、現在適用中の世界前提と一致しない。


「世界前提?」


 俺が読む。


「昨日までの処理は、同じ起源の五人を一人へまとめるものだった」


 玄理が答える。


「今回は、それとは異なる」


 表示が拡大された。


 ――《第二公理階層》。


 ――下位適用試験。


 ――対象、《第一公理階層》一件。


 ――適用候補公理項として再分類。


「《第一公理階層》一件が、公理項?」


 灯が尋ねる。


「《第二公理階層》から見ればな」


 玄理は複数の記録枠を並べた。


「一つの《第一公理階層》は、無限の《観測階序》と、それらへ適用される固有の公理構造を内包する」


「そして一つの《第二公理階層》は、相互に異なる《第一公理階層》を無限に並立させ、その各々の全体を一つの公理項として扱う」


 最初の枠には、昨日まで俺たちが接触していた構造が示される。


 ――同一起源は、一つの主体である。


 その局所公理を含む、一件の《第一公理階層》。


 隣には、別の《第一公理階層》。


 ――同一起源から分岐した時点で、各主体は独立する。


 さらに隣。


 ――起源の同一性は、主体の同一性に影響しない。


 その隣。


 ――主体という分類そのものを採用しない。


 どれも、内部に無限の《観測階序》を持つ一件の《第一公理階層》。


 互いの公理構造は矛盾している。


 だが、どれか一つが誤りとして消されているわけではない。


「つまり」


 俺は並んだ記録枠を見る。


「《第二公理階層》には、別々の前提で成立する《第一公理階層》が無限にある」


「ああ」


「それぞれの《第一公理階層》全体が、一つの公理項として扱われる」


「そうだ」


 澄玲が表示を追う。


「では、五件の黒瀬零を独立人物として扱う《第一公理階層》も存在するのですね」


「存在する」


「それを現在の世界へ適用できれば」


「久世たちが使用した《第一公理階層》を否定できるわけではない」


 玄理は首を振る。


「相互に矛盾する二件の《第一公理階層》は、《第二公理階層》の内部で、どちらも成立している。こちらへ別の一件を適用しても、最初の一件が誤りになるわけではない」


「今起きてるのも、それか」


「そうだ。《第二公理階層》側が、下位世界へ適用する一件の《第一公理階層》を選定している」


 新たな表示が現れる。


 ――適用候補一。


 ――五件の黒瀬零が現在人物として並立する《第一公理階層》。


 ――内部矛盾、多数。


 ――本人性衝突、多数。


 ――学籍重複、五件。


 ――関係記録競合、多数。


 その隣。


 ――適用候補二。


 ――黒瀬零は、帝都神律大学に在籍する一件のみ。


 ――第四候補、成立せず。


 ――三年前の黒瀬零、過去記録。


 ――帝都理法大学の黒瀬零、成立せず。


 ――採択領域離脱個体、成立せず。


 ――内部矛盾、最少。


 画面中央へ判定が表示される。


 ――適用優先。


 ――候補二。


「一人へ統合するんじゃない」


 俺は言った。


「最初から一人しかいなかった《第一公理階層》を、この世界の前提として選ぶ気か」


「ああ」


 玄理が答える。


「前の処理では、五人分の記憶や経験を一人へ保存しようとしていた」


「今回は、そもそも四人が現在人物として成立しない《第一公理階層》を、下位世界へ適用しようとしている」


「保存すらしない?」


 灯の声が低くなる。


「適用されなかった《第一公理階層》側の記録としては残る」


 玄理が答えた。


「だが、この世界に生きる人物の現在ではなくなる」


 通信画面の向こうで、第四候補が扉を見る。


『だから、この部屋は俺を入居者として認識しないのか』


「正確には」


 澄玲が言う。


「あなたが入居している現在を含む《第一公理階層》そのものが、下位世界へ適用される候補から外され始めています」


 第四候補の机が消えた。


 突然ではない。


 机の表面が白くなり。


 輪郭が薄れ。


 最初からそこへ置かれていなかったように、壁へ溶け込んでいく。


 上にあった水の容器だけが床へ落ちる。


 だが、衝突音はしなかった。


 容器もまた白くなり、消えた。


「一〇六号室へ行く」


 俺は寝台から降りた。


「走るな」


 緋月が言う。


「分かってる」


「通常歩行だ」


「急がないと、部屋ごと消える」


「高速移動許可は出さない」


「じゃあ先生が――」


 言い終える前に。


 俺の認識では、研究室の景色がそのまま旧学生寮一階の廊下へ切り替わった。


 床を蹴った感覚はない。


 風も。


 加速も。


 身体へ移動の途中を示す感覚は何も残っていない。


 何が起きたのか理解した時には、俺たち全員が旧学生寮へ移されていた。


 緋月が、無刻存在(アンクロノス)に特有の《無刻行動》によって俺たちを運んだ。


 俺たちの時間を停止させたわけではない。


 緋月が一人目を持ち上げ、移動し、置き、次の者を運び終えるまでの全行動を、経過時間〇のまま成立させた。


 その有限の処理が続いている間。


 通常時間へ依存する俺たちには、次の瞬間が訪れなかった。


 俺の思考も。


 灯の瞬きも。


 澄玲の呼吸も。


 研究室で床へ落ちかけていた検査膜も。


 次の状態へは進まない。


 だが緋月自身は、その経過時間〇の中で俺たちの身体を一人ずつ移動させられる。


 そして一連の《無刻行動》を終え、通常時間の進行を許した時。


 俺たちは既に、旧学生寮へ移されていた。


「先生」


「何だ」


「走るより速い」


「速度比較するな」


「最初からそうしてくれれば」


「緊急時だけだ」


 緋月が答える。


「それに、今の移動を秒速へ換算することはできない」


 一〇六号室の扉には、空室を示す灰色の灯りが点いていた。


 扉の横には別の番号が表示されている。


 一〇五号室。


 その次が、一〇七号室。


 一〇六という番号だけが、廊下から除かれ始めていた。


「扉を開ける」


 獅堂が前へ出る。


 両腕には、まだ固定膜がある。


「壊すなよ」


「壊さず開けるくらいできる」


 獅堂が扉へ手を置く。


 万象は我が礎(グランド・レガリア)


 壁。


 床。


 扉枠。


 学生寮一階の構造材が、獅堂の立つための礎として接続される。


 扉を破壊するのではない。


 この場所に一〇六号室への入口が存在するという物理構造そのものを、足場として保持する。


 消えかけていた部屋番号が戻る。


 一。


 〇。


 六。


「今だ」


 朔夜が黒い薄刃を扉へ向ける。


 因果切断(セヴァランス)


 切断したのは、空室判定と施錠状態を結ぶ因果。


 鍵が開く音はしなかった。


 それでも扉は、こちら側へゆっくりと開いた。


     ◇


 部屋の中は、通信映像で見た時より狭くなっていた。


 寝台の半分が壁へ埋まり、机は既に消えている。


 窓も左右から白い壁に挟まれ、幅は三〇センチほどしか残っていない。


 第四候補は診療椅子へ座ったまま、部屋の中央にいた。


 左脚の固定具は残っている。


 だが、その下の床は薄くなっていた。


 透明になったわけではない。


 床面そのものが、「この部屋には必要なかった空間」として畳まれている。


「入るな」


 第四候補が言った。


「足元が安定していない」


 俺が一歩踏み入れる。


 床はある。


 だが、踏んだ感覚が遅れて返ってきた。


 靴底が触れた後で、そこに床が必要だったと判断されたような感触。


「部屋が俺たちを認識してから、床を作ってる」


「現在適用されようとしている《第一公理階層》には、第四候補さんの入居記録が存在しません」


 澄玲が入口から室内を観察する。


「この部屋そのものも、一〇六号室ではない構造へ修正されています」


「第四候補を外へ出せばいい?」


 灯が尋ねる。


「身体だけ運び出しても、現在人物から外される処理は継続する」


 玄理が部屋の記録を展開した。


「問題は場所ではない。第四候補が存在する《第一公理階層》全体が、現在の適用候補から外されている」


「なら、どう止める」


「今、見ている」


 第四候補の背後で、壁が動いた。


 白い面が、毎秒数センチほどの速度で前へせり出してくる。


 押し潰すための壁ではない。


 その壁が通過した場所から。


 寝台も。


 医療端末も。


 部屋の記録も。


 次々に消えていく。


 世界が、一〇六号室を最初から存在しなかった形へ修正している。


「第四候補を運ぶ」


 獅堂が部屋へ入った。


「床を支えろ」


「分かってる!」


 獅堂が右足を踏み込む。


 部屋全体が一度だけ揺れ、床面へ太い金色の線が走った。


 存在登録ではない。


 物理的な建造物として、この瞬間に一〇六号室が存在しているという事実を、自分の足場へ変えて支える。


 壁の進行が遅くなった。


「黒瀬零」


 緋月が俺を見る。


「第四候補を椅子ごと運べ」


「俺が?」


「獅堂は部屋を保持している。天城と九条は適用経路を探せ。御厨は第四候補の記録を保持しろ」


「先生は」


「《第二公理階層》側から、下位回答より先に結果を固定する処理が成立しようとした場合、私が対応する」


「肩は」


「腕で持ち上げるな。椅子を押せ」


「走っていい?」


「室内だけだ」


「速度は」


「状況を見て判断しろ」


「数字は?」


「今は自分で決めろ」


 俺は第四候補の診療椅子へ手をかける。


「右肩を使うな」


「押すだけだ」


「壁まで、あと七メートル」


「十分ある」


「この部屋の距離を信用するな」


 第四候補の言葉と同時に、天井へ三本の黒い線が現れた。


 一本。


 二本。


 三本。


 《第二公理階層》側から、候補となる《第一公理階層》を下位世界へ固定しようとする処理。


 四本目が成立しようとした。


 その時。


 俺の指は、診療椅子の背へ触れる直前の状態から進まなくなった。


 第四候補の口も。


 迫っていた白い壁も。


 獅堂の足元を走る金色の線も。


 通常時間へ依存する全てに。


 次の瞬間が訪れなかった。


     ◇


 経過時間〇。


 通常時間側の状態は、一切次へ進んでいない。


 黒瀬零の指は、診療椅子の背へ触れる直前。


 第四候補の唇も、次の言葉を発する直前。


 白い壁も。


 獅堂の金色の線も。


 澄玲の前へ開きかけた表示も。


 全てが、直前の状態にある。


 その中で。


 《第二公理階層》側の処理だけが、経過時間を必要とせず成立しようとしていた。


 そして。


 緋月もまた、その全てを認識している。


 無刻存在(アンクロノス)


 行動の成立条件へ、経過時間を必要としない存在格。


 相手が経過時間〇で行動しても、その行動を認識し、同じ攻防過程で対応できる。


 三本の黒線が、一〇六号室へ到達しようとする。


 緋月は右手を動かした。


 《無刻行動》。


 万象校正(エメンダティオ)


 一件目。


 候補二を下位世界へ固定する処理を訂正する。


 二件目。


 第四候補の現在を、下位側が回答する前から不成立として扱う処理を外す。


 三件目。


 一〇六号室の消去結果を、零たちの判断より先に確定する記述を切り離す。


 三本の処理が未完了へ戻る。


 だが。


 《第二公理階層》側も、緋月の対応を認識したかのように、別の経路から処理を成立させようとする。


 五本。


 十二本。


 二十九本。


 候補二の適用を、一件の直結した結果として固定するのではない。


 入居記録。


 学籍。


 本人性。


 身体記録。


 施設構造。


 全てを別々の経路から変更し、同じ結論へ到達しようとしている。


 緋月は一件ずつ対応する。


 経過時間は〇のまま。


 だが。


 それは、緋月が一方的に全てを消せるという意味ではない。


 上位側の処理が経過時間〇で成立しようとするなら、緋月は同じ経過時間〇の攻防で対応できる。


 しかし。


 通常時間側で既に生じている問いまで消せば。


 零たち自身が答えるべき査問を、緋月が代わりに終わらせることになる。


 だから。


 止めるのは。


 下位側が一手も動けないうちに、上位側だけで回答を完了しようとする処理。


 それだけ。


 通常時間へ戻った後に進行する白い壁。


 第四候補が、この世界で現在人物として成立できるかという問い。


 無限に並立する《第一公理階層》のうち、どの公理項を現在へ適用するか。


 その回答は、零たち自身が作らなければならない。


 二十九件目。


 最後の上位固定処理を、未完了へ戻す。


 一連の《無刻行動》が終わる。


 緋月は通常時間の進行を許した。


     ◇


 天井の黒線が、一斉に消えた。


 俺にとっては。


 四本目が現れかけた次の瞬間には、もう全て消えていた。


 その間に何手の攻防が成立したのか。


 俺には認識できない。


 ただ。


 緋月の右手を覆う手袋へ、新しい裂け目が増えていた。


 そこから赤い血が一滴、通常時間の再開と同時に床へ落ちる。


「上位側からの固定処理を止めた」


 緋月が告げる。


「下位側の適用は残っている。動け」


「ああ!」


 俺は診療椅子を押した。


 同時に。


 出口が遠ざかる。


 扉まで一〇メートル。


 一二。


 一五。


 部屋が物理的に広がったわけではない。


 第四候補の現在位置と。


 現在適用されようとしている世界の出口。


 その対応が外されている。


「距離まで変えるのか」


「変えているのではありません!」


 澄玲が叫ぶ。


「第四候補さんが出口へ到達できる《第一公理階層》が、現在の適用候補から外されています!」


「同じだろ!」


「対処方法が違います!」


 扉へ向かって椅子を押すだけでは届かない。


 どれだけ進んでも。


 第四候補が一〇六号室から退室したという現在を含む《第一公理階層》が採用されなければ。


 出口は遠ざかり続ける。


「九条」


 朔夜が言う。


「問題を絞れ」


「今しています」


 澄玲の前へ、複数の問いが現れる。


 第四候補を部屋から出す。


 一〇六号室を残す。


 五件の黒瀬零を維持する。


 候補二の適用を止める。


 《第二公理階層》の選定へ異議を提出する。


 どれも間違いではない。


 だが。


 一度に解こうとすれば、問いが広すぎる。


「この部屋から出るために必要なのは」


 澄玲が目を閉じた。


「出口へ到達することではありません」


「じゃあ何だ」


「第四候補さんが退室できる《第一公理階層》を、現在の適用候補として残すことです」


「どうやって」


「候補二が優先される理由を崩します」


 候補二。


 黒瀬零が一人しか存在しない《第一公理階層》。


 内部矛盾が最も少ない。


 学籍重複もない。


 関係記録の競合も少ない。


 だから。


 適用優先。


「矛盾が少ない世界を選んでる」


 俺は椅子を押しながら言う。


「なら、こっちの矛盾を減らせばいいのか」


「違います」


 澄玲は即座に否定した。


「それでは、私たち自身が、一つの整合的な記録へ修正されることになります」


「じゃあ」


「矛盾の少なさが、下位世界へ適用する《第一公理階層》を選ぶ基準として適切なのかを問います」


 澄玲の前で、問いが一つにまとまる。


 ――最も矛盾の少ない《第一公理階層》を、現在として優先すべきか。


 世界は解を持つ(エウレカ)


 白い文字列が走る。


 だが。


 すぐには一つの解へ収束しない。


 ――肯定。


 ――否定。


 ――状況依存。


 ――評価不能。


「解が一つじゃない」


 灯が言った。


世界は解を持つ(エウレカ)は、一つの答えを強制する能力ではありません」


 澄玲が答える。


「正しく定義された問題に対して、成立可能な解を見つける能力です」


「なら、どれを使う」


「選びません」


「え?」


「全部、成立させます」


 澄玲は四件の解を消さない。


「矛盾が少ない《第一公理階層》を優先すべき体系もある」


「優先すべきでない体系もある」


「状況によって判断が変わる体系もある」


「そもそも、異なる《第一公理階層》間の矛盾量を比較不能とする体系もある」


 澄玲は、表示された無数の公理項を見る。


「一つの《第二公理階層》には、それぞれの回答を成立させる《第一公理階層》が、相互に異なるまま無限に並立しているはずです」


「だから」


 朔夜が理解する。


「候補二だけを優先する理由がない」


「はい」


 澄玲は四件の解を、適用判定へ重ねる。


「候補二が成立すること自体は否定しません」


「ですが、それだけを下位世界へ適用すべき唯一の候補とする根拠は成立していません」


 表示が揺れた。


 ――適用優先。


 ――候補二。


 その文字が一度消える。


 すぐに戻る。


 だが。


 末尾へ新しい一文が追加されていた。


 ――優先根拠を再照合。


「止まった?」


 灯が尋ねる。


「遅くなっただけだ」


 玄理が答える。


「《第二公理階層》側は、候補二だけを唯一の真理だと判断しているわけではない」


「下位世界へ適用する公理項として、処理上扱いやすいから優先している」


「人を消す方が効率的だから?」


「処理上はな」


 俺は椅子を押す。


 扉までの距離。


 一四メートル。


 一三。


 一二。


 少しずつ縮み始めた。


 だが。


 背後の白い壁も近づいている。


 第四候補まで、四メートル。


「まだ間に合う」


「床が先に消える」


 第四候補が下を見る。


 固定具の下。


 床面へ細い白線が走っている。


 足場の消去境界。


 獅堂が歯を食いしばった。


 右腕の固定膜へ、赤い警告が走る。


「保持し切れない。部屋全体が、俺の礎から外れようとしてる」


「獅堂、無理をするな」


「ここで解除したら、椅子ごと落ちる!」


「落下先は?」


 灯が尋ねる。


「下の階ではない」


 玄理が答えた。


「現在適用されていない《第一公理階層》側の記録へ分離される」


「戻せる?」


「保証できない」


「なら支えて!」


「言われなくても!」


 獅堂が両足を床へ沈める。


 床面が金色に染まった。


 それでも白線は止まらない。


「天城先輩」


 澄玲が言う。


「適用候補と存在の関係を切れますか」


「範囲を指定しろ」


「候補二が現在へ適用されることと、候補一に属する人物が存在できなくなることの間です」


「長いな」


「短くすると、第四候補さんそのものを切断する危険があります」


「分かった」


 朔夜が黒い薄刃を構える。


 切るべきものは、候補二そのものではない。


 候補二を壊せば。


 黒瀬零が一人だけ存在する《第一公理階層》全体を否定することになる。


 それもまた。


 《第二公理階層》の内部で、正しく成立している一件だ。


 消していい理由はない。


 切るのは。


 候補二が適用された結果として。


 候補一に生きる第四候補の現在が存在不能になる。


 その接続だけ。


「九条」


「はい」


「そこを見失うな」


「維持します」


 因果切断(セヴァランス)


 黒い薄刃が、部屋を斜めに横切った。


 壁も。


 床も。


 第四候補も切らない。


 候補二の適用と。


 第四候補の消去結果。


 その二件を結ぶ因果だけが断たれた。


 白線が停止した。


 床の消去境界が、固定具の数センチ手前で止まる。


「通った!」


 灯が言う。


「一時的だ」


 朔夜は薄刃を下ろさない。


「向こう側が、別の接続を作ろうとしている」


 白線が枝分かれした。


 候補二の適用。


 第四候補の消去。


 その間へ、新たな理由が挿入されていく。


 ――入居記録が存在しない。


 ――暫定証人登録は正式学籍ではない。


 ――身体記録の一部が未帰属。


 ――本人性を証明する単独記録が不足。


「理由を増やしてる」


 俺が言う。


「一本の因果を切られるなら、別の根拠から同じ結果へ到達する」


 朔夜が答える。


「全部切れる?」


「指定できればな」


「間に合わない」


 白線が床へ増えていく。


 一本。


 三本。


 七本。


 一二本。


 それぞれが、別々の理由から第四候補を存在不能という結果へ繋ごうとしている。


 そして。


 一三本目。


 それだけは。


 通常時間上の白線として現れる前から。


 経過時間〇で、第四候補の存在不能を確定しようとしていた。


     ◇


 通常時間側には、次の瞬間が訪れない。


 先ほどまで動いていた一二本の白線も。


 俺も。


 第四候補も。


 朔夜も。


 獅堂も。


 一切、次の状態へ進まない。


 だが。


 一三本目の処理だけは違う。


 それは、下位側で新しく成立した理由ではなかった。


 朔夜が切断した複数の因果を迂回し。


 《第二公理階層》側から。


 ――本人性証明の不足。


 ――第四候補の存在不能。


 この二件を経過時間〇で直接結ぼうとしている。


 緋月は、その処理を認識した。


 無刻存在(アンクロノス)


 相手が経過時間〇で成立させる処理にも、同じ攻防過程から対応できる存在格。


 一三本目へ。


 緋月の《無刻行動》が成立する。


 万象校正(エメンダティオ)


 ――下位側回答前の存在不能確定。


 ――訂正。


 一三本目を未完了へ戻す。


 続いて。


 一四本目。


 一五本目。


 それぞれが異なる理由から。


 零たちが次の一手を成立させるより先に。


 第四候補の現在を消去結果へ固定しようとする。


 緋月は全てへ対応した。


 ただし。


 既に通常時間側へ成立している一二本の理由には触れない。


 入居記録がない。


 正式学籍ではない。


 身体記録が不足している。


 本人性を証明する単独記録が足りない。


 それらをどう扱うかは。


 零たちが、自分たちの時間の中で答えなければならない問題だからだ。


 緋月が止めるのは。


 経過時間〇という、零たちが一手も参加できない攻防から。


 その回答を先取りする処理だけ。


 一五件目を訂正する。


 一連の《無刻行動》を終える。


 通常時間の進行を許した。


     ◇


 一三本目以降の白線は、俺たちの視点では現れなかった。


 一二本目の次へ。


 何も増えない。


 その途中に経過した時間は〇。


 俺には何が起きたのか見えない。


 緋月の手袋へ、さらに細い裂け目が増えただけだった。


「上位側からの確定を切った」


 緋月が短く言う。


「残っている理由は、お前たちの側で処理しろ」


「分かった!」


「御厨先生!」


 灯が玄理を見る。


「第四候補さんの記録を出して!」


「どれだ」


「全部!」


「雑すぎます」


 澄玲が言う。


「でも、必要です」


 玄理が右手を上げた。


 欄外収蔵アポクリファ・アーカイヴ


 空中へ、第四候補に関する記録が展開される。


 失われた正式学籍。


 退学処理。


 三年間の生活履歴。


 戦闘記録。


 負傷記録。


 旧学生寮一〇六号室への暫定入居。


 《第四学籍》による独立付記。


 現在の呼吸。


 現在の心拍。


 現在の発言。


 現在の拒否。


 その全てが。


 下位世界へ適用される《第一公理階層》の本文ではなく。


 玄理の欄外へ保存される。


「これで消されない?」


 灯が尋ねる。


「保存されるだけだ」


 玄理が答えた。


「世界から外されても、記録は残る」


「それじゃ駄目」


「ああ」


 玄理は認める。


「本人として生きるには足りない」


 第四候補が、欄外へ並ぶ自分の記録を見る。


『記録だけ残るなら』


「言うな」


 俺は遮った。


『まだ何も言っていない』


「どうせ、俺が消えても記録が残るならとか言う気だろ」


『現実的な判断だ』


「久世と同じこと言うな」


『俺は五人を一人にしろとは言っていない』


「自分を記録にして残すのも同じだ」


『違う』


「俺から見れば同じだ」


 椅子を押す。


 扉まで九メートル。


 背後の壁まで二・五メートル。


 時間がない。


「第四候補」


 俺は言った。


「お前、自分の名前を言えるか」


『黒瀬零』


「それは俺も同じだ」


『知っている』


「俺と違う名前は」


『まだない』


「じゃあ、今のお前を示すものは」


『第四候補』


「候補は役割だ」


『《第四学籍》の元の所有者』


「それも関係だ」


『旧学生寮一〇六号室の入居者』


「部屋は消されかけてる」


『重傷者』


「治ったら使えない」


『何が言いたい』


「お前自身を」


 椅子の背を強く押す。


「お前自身として示せるものは何だ」


 第四候補は答えなかった。


 白線が増える。


 ――本人性を証明する単独記録が不足。


 その判定だけは。


 今の俺たちにも、完全には否定できない。


 第四候補には、正式な名前がない。


 第四候補という呼称も。


 黒瀬零という名も。


 どちらも、ほかの誰かとの関係から与えられたもの。


 それでも。


 名前がなければ。


 本人ではないのか。


 単独で証明できなければ。


 誰かの記憶でしかないのか。


 緋月は、第四候補へ伸びる白線を見る。


 今、動いているのは通常時間側の処理だ。


 ここで緋月が経過時間〇の《無刻行動》によって、第四候補が残るという結論そのものを強制すれば。


 それは。


 第四候補自身の回答ではなく。


 神代緋月が成立させた結果になる。


 だから。


 緋月は手を出さない。


 通常時間の進行を許したまま。


 零へ言葉だけを送る。


「黒瀬零」


「先生?」


「本人性を証明できれば残せる、という条件へ従うな」


 俺は第四候補へ集まる白線を見る。


 正式学籍がない。


 名前がない。


 単独記録が足りない。


 適用候補の《第一公理階層》と一致しない。


 だから。


 存在できない。


 全て。


 同じ結論へ向かう理由だった。


「証明できないなら存在できない」


 緋月が続ける。


「その前提自体が、向こうのものだ」


 なら。


「理由ごと」


 俺は右手を伸ばした。


 肩に痛みが走る。


 それでも。


 第四候補の診療椅子へ触れる。


「保留する」


 未証明(アンプローヴン)


 ――対象、第四候補。


 ――本人性証明、不足。


 ――存在不能。


 ――確定保留。


 白線が止まる。


 理由は消えない。


 学籍も戻らない。


 名前も生まれない。


 矛盾も解消しない。


 それでも。


 証明不足から存在不能へ至る結論だけが。


 二・四秒間。


 確定できなくなる。


「押すぞ!」


『短いぞ』


 第四候補が言う。


「分かってる!」


 椅子を押す。


 扉まで七メートル。


 六。


 五。


 距離が縮む。


 今度は、遠ざからない。


 候補二が消えたわけではない。


 一〇六号室が残ると決まったわけでもない。


 ただ。


 第四候補が存在できないという結論だけが。


 まだ出ていない。


 その間は。


 第四候補が出口へ到達する現在も、棄却できない。


「獅堂!」


「持ってる!」


「天城先輩!」


「接続を切っている!」


「九条!」


「退室可能な解を保持しています!」


「御厨先生!」


「記録は一件も落としていない!」


「灯!」


「ここにいる!」


「何してる!」


「お兄ちゃんが誰を助けてるか見てる!」


 扉まで三メートル。


 壁まで一メートル。


 白い壁が第四候補の背後へ迫る。


 診療椅子の背面が僅かに白く染まった。


 保留時間、一・一秒。


 右肩へ負荷が走る。


 足を踏み込む。


 速度は大したことがない。


 一〇〇メートル毎秒どころか。


 一〇メートル毎秒にも届いていない。


 それでも。


 この部屋で今必要なのは。


 速さだけではない。


「今押してるのは誰!」


 灯が叫ぶ。


「俺だ!」


「助けられてるのは!」


「第四候補だ!」


「同じ人?」


「違う!」


「じゃあ行って!」


 椅子が扉を越えた。


 第四候補の身体が廊下へ出る。


 直後。


 二・四秒の保留が切れた。


 そして。


 《第二公理階層》側から。


 一〇六号室の消去を不可逆の結果として固定する処理が。


 経過時間〇で成立しようとした。


     ◇


 通常時間側には、次の瞬間が訪れない。


 白い壁は。


 第四候補の背後まで迫った状態から動かない。


 椅子の後輪は、扉の外へ完全に出ている。


 第四候補の身体も廊下側。


 だが。


 上位側の処理は。


 一〇六号室と第四候補を。


 再び一件の消去対象へ対応させようとしていた。


 ――一〇六号室。


 ――消去。


 ――入居者。


 ――第四候補。


 ――同一消去対象。


 緋月は、その処理を認識する。


 同じ経過時間〇で、《無刻行動》を成立させる。


 万象校正(エメンダティオ)


 一〇六号室が消えること。


 第四候補が消えること。


 既に下位側で、別々の結果へ分けられた二件。


 その二件を。


 上位側から再び一つへ統合する処理だけを訂正する。


 部屋を残すことまでは選ばない。


 第四候補が残るという回答を、緋月が代わりに決めることもしない。


 零たちが通常時間の中で成立させた。


 ――第四候補だけを、一〇六号室の外へ出した。


 その結果を。


 経過時間〇の側から一方的に書き換える処理だけを止める。


 上位処理が未完了へ戻る。


 緋月は一連の《無刻行動》を終えた。


 通常時間の進行を許す。


     ◇


 白い壁が、一〇六号室を覆い尽くした。


 寝台。


 窓。


 床。


 部屋番号。


 全てが白へ消える。


 扉枠の向こうには。


 一枚の壁だけが残った。


 一〇六号室は消えた。


 だが。


 第四候補は廊下にいる。


 診療椅子へ座り。


 左脚を固定し。


 呼吸をしている。


 現在人物として。


 まだ。


 ここにいる。


     ◇


 消えた一〇六号室は、元へ戻らなかった。


 廊下の部屋番号は、一〇五の次が一〇七になっている。


 学生寮の設計図からも、一〇六号室の空間そのものが抜け落ちた。


 だが。


 壁の内部へ不自然な空洞が残ったわけではない。


 最初から、その分だけ短い建物だったかのように。


 旧学生寮全体の構造が再計算されている。


「世界改変」


 俺が言う。


「局所的なものだ」


 玄理が答えた。


「旧学生寮一階と、それに関連する記録へ限定されている。現在のところ、大学全域への波及は確認されていない」


「部屋は消えたのに、第四候補は残った」


「候補二の適用が完了する前に、本人だけを現在側へ移したからだ」


「移した?」


「正確には」


 朔夜が黒い薄刃を消す。


「第四候補が存在できないという結論を保留し、その間に一〇六号室との対応を外した」


「部屋が消えることと、こいつが消えることを、別の結果にした」


 緋月の右手には、新しい包帯が巻かれていた。


 俺たちから見れば。


 いつ手袋を外し。


 いつ止血し。


 いつ包帯を巻いたのか。


 途中を一切認識できない。


 最後の上位処理を訂正した後。


 通常時間の進行を許すまでの同じ経過時間〇の中で。


 自分の負傷処置まで終えていたのだろう。


「私たちが勝ったのですか」


 灯が尋ねる。


「違う」


 澄玲が白い壁を見る。


「候補二の一部は、既に適用されています」


「一〇六号室が存在しない世界になった」


「はい」


「じゃあ、第四候補さんが残ってるのは」


「候補二だけでは説明できない現在です」


 適用された《第一公理階層》では。


 第四候補は成立しない。


 それでも。


 彼は廊下にいる。


 一件の《第一公理階層》だけでは説明できない人物。


 世界前提から外れているにもかかわらず。


 現在だけが残った。


「未定義現象?」


 俺が玄理を見る。


「近い」


 玄理は第四候補の記録を解析する。


「ただし、お前の未証明(アンプローヴン)による保留だけでは説明できない。保留時間は既に終了している」


「じゃあ、どうして消えない」


「《六件共同前提》が残っている」


 表示が開く。


 代表者を置かない。


 共有の人名を置かない。


 所有権を移さない。


 存在格、能力、身体を移さない。


 六件それぞれを、独立した参照先として保持する。


「《六件共同前提》が……」


 五人の黒瀬零を一人へまとめず。


 灯を未来の回答へ統合せず。


 六件を、別々の参照先として残すために作った記録形式。


「適用された《第一公理階層》が第四候補を含まなくても」


 玄理が言う。


「《六件共同前提》は、第四候補を独立した一件として保持している」


「部屋が消えても、帰る場所が一つ残った?」


 灯が尋ねる。


「場所ではない」


「じゃあ」


「他者から区別されている現在だ」


 玄理は第四候補を見る。


「《六件共同前提》へ登録された一件として、こいつはまだ現在側から参照されている」


 第四候補が、白い壁へ目を向ける。


『部屋は戻らないのか』


「今のままでは無理だ」


 玄理が答えた。


「一〇六号室が存在する《第一公理階層》を、下位世界へ改めて適用すれば戻る可能性はある」


『その場合、別の何かが消えるかもしれない』


「ああ」


『なら、今は要らない』


「住む場所は必要だろ」


 俺が言う。


『場所は用意できる』


「一〇六号室で過ごした時間は」


『記録に残っている』


「また記録か」


『消えていいとは言っていない』


 第四候補は、白い壁へ右手を触れた。


『ただ、部屋を戻すために、別の《第一公理階層》を現在から外すつもりはない』


 俺は何も言えなかった。


 久世と同じではない。


 第四候補は。


 自分の部屋が存在する《第一公理階層》だけを唯一の正解として、ほかへ押しつけようとしてはいない。


 だが。


 それでも。


 失ったものを簡単に諦めていいとも思えなかった。


「仮設居室を用意する」


 緋月が言った。


「治療設備を優先する。旧学生寮ではなく、《未定義現象研究室》の管理区画へ移す」


『監視目的か』


「治療と保護だ」


『違いは』


「私が管理責任者として説明できるかどうかだ」


『では、従う』


「素直だな」


「部屋を消された直後に、お前と同じ態度を取る人間を二人も相手にしたくない」


「どういう意味だ」


「そのままの意味だ」


 澄玲が僅かに笑う。


「神代先生も、御厨先生に似てきましたね」


「九条」


 玄理が呼ぶ。


「今の発言は必要か」


「必要ありません」


「なら記録から」


「消さないでください」


 短いやり取りの間に。


 白い壁へ、一行の文字が浮かび上がった。


 誰も表示装置を起動していない。


 それでも。


 消えた一〇六号室の扉があった場所へ。


 《第二公理階層》側から、新しい照合結果が届く。


 ――適用候補二。


 ――部分適用、成功。


 ――不整合残存、一件。


 ――第四候補。


 ――現在人物として残留。


 その下に。


 別の判定が現れる。


 ――残留根拠。


 ――《六件共同前提》。


 ――単一《第一公理階層》に帰属せず。


「見つかった」


 玄理が言う。


「何が」


「《第六候補》の次の条件だ」


 文字が更新される。


 ――《第六候補》成立前提。


 ――第一条件。


 ――五件の黒瀬零が、一件の主体へ統合されていないこと。


 既に確認した条件。


 その下へ、新しい一文が続く。


 ――第二条件。


 ――一件の《第一公理階層》のみを、六件すべての現在として選択しないこと。


 灯が、ゆっくりと読む。


「一つの世界前提を、六人全員の正解にしないこと」


「そういうことだ」


 玄理が答えた。


「第六候補は」


 俺は表示を見る。


「一件の《第一公理階層》には所属してない?」


「まだ確定はできない」


「でも」


「少なくとも、どれか一件の《第一公理階層》へ六件全てを完全帰属させた時点で、成立条件を失う」


 第一条件。


 五人を一人にしない。


 第二条件。


 一件の《第一公理階層》だけを、六件全員の正解にしない。


 《第六候補》。


 それが誰なのか。


 人なのか。


 役割なのか。


 まだ分からない。


 だが。


 五人の黒瀬零と。


 現在の灯。


 六件が。


 別々のまま残ることを。


 何かが条件として要求している。


 白い壁の文字が、再び更新された。


 ――下位側異議を受理。


 ――《第二公理階層》内での再照合を開始。


 ――照合形式。


 ――前提競合。


「前提競合?」


 獅堂が読む。


「次は、候補を選ぶだけじゃないのか」


「こちらの現在を」


 澄玲が言う。


「別の《第一公理階層》と競わせるつもりです」


「世界同士で戦わせる?」


 灯が尋ねる。


「戦闘になるとは限らない」


 玄理が答えた。


「だが、適用されなかった《第一公理階層》に属する現在は、この下位世界の現在ではなくなる」


「それを戦いって言うんだよ」


 俺は白い壁を見る。


 久世の姿はない。


 声も聞こえない。


 それでも。


 あいつがどこかで、この結果を確認している気がした。


 一件の局所公理を止めた。


 なら。


 その局所公理を含む《第一公理階層》全体を、一つの公理項として提出する。


 それでも止めるなら。


 《第二公理階層》に無限に並立する、別の《第一公理階層》と競わせる。


 向こうは。


 五人を一人にできるなら、方法にはこだわらない。


 統合。


 再分類。


 過去への移管。


 世界前提の選定。


 その全てを。


 救済と呼ぶ。


 俺たちには、まだ一〇〇・四メートル毎秒しかない。


 久世の通常時間側の投影体へも追いつけない。


 無刻存在(アンクロノス)同士が経過時間〇で行う攻防へも、俺たちは参加できない。


 《第一公理階層》へ身体ごと入る最低存在条件さえ満たしていない。


 その一方で。


 緋月は。


 俺たちが通常時間で一手を進める合間に。


 上位側が経過時間〇で回答を先取りしようとするたび。


 同じ経過時間〇の攻防で、それへ対応していた。


 緋月が時間を停止させているわけではない。


 緋月自身の認識も。


 判断も。


 身体動作も。


 万象校正(エメンダティオ)による処理も。


 経過時間を必要とせず成立する。


 その有限の《無刻行動》が続く間。


 俺たち通常時間側には、次の瞬間が訪れない。


 だから。


 俺たちは、その途中を認識できない。


 同じ時間を、並んで戦っているわけでもない。


 俺たちは通常時間の中で回答を作る。


 緋月は。


 その回答が完成するより前に。


 経過時間〇の側から答えを奪われることだけを防ぐ。


 それでも。


 今日。


 一つ残せたものがある。


 世界から部屋を消されても。


 正式な名前がなくても。


 本人性を単独で証明できなくても。


 第四候補は。


 記録ではなく。


 誰かの過去でもなく。


 今。


 ここにいる。


 世界が、一人分の過去しか残さないというなら。


 俺たちは。


 その《第一公理階層》だけを。


 唯一の現在として選ばない。

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