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『神律大学の未証明者《アンプローヴン》』   作者: 仕儀の反駁
第五章《公理階層》《第六候補》編

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第六十九話 百メートル先の現在

 久世律真の投影体が消えてから、四日が経過した。


 右肩の治療は第二段階へ移り、固定帯も三本から一本へ減っている。通常歩行に加え、短距離の走行許可も出た。


 ただし。


「全力疾走の許可ではない」


「百メートル毎秒を目標にするのに?」


「目標値と、初日から出してよい速度は別だ」


「じゃあ今日はどこまで」


「測定結果を見て決める」


「それだと、最初から抑えて走ることになる」


「抑えられる者は、治療中に固定帯を外そうとはしない」


「まだ言うのか」


「再発防止に必要な間は言う」


 午前七時四十二分。


 帝都神律大学、法則災害学部第三高速演習路。


 全長六百メートルの直線走路は、大学北部の地下区画に設置されている。一般的な陸上競技場とは異なり、床面には衝撃吸収用の法則膜が幾層にも重ねられていた。


 加速。


 接地圧。


 骨格負荷。


 体温。


 認識速度。


 方向転換。


 制動距離。


 走行中のあらゆる要素が、本人の身体記録として同時に測定される。


 左右の壁には、色も形も異なる標的板が並んでいた。


 ただ速く走るだけでは、実戦使用可能な身体速度として認められない。


 走行中に指定対象を識別し、進路を選び、所定の位置から減速へ移り、周囲へ致命的な衝撃を与えず停止する。


 その全てを満たした速度だけが、本人の制御可能な戦闘速度として記録される。


「面倒だな」


「直線だけ速い人間は、戦場では障害物と同じです」


 澄玲が測定端末を確認しながら言った。


「敵へ当たれば攻撃になりますが、味方へ当たれば事故です」


「もう少し言い方があるだろ」


「では、高速で移動する危険物です」


「悪化した」


「九条の表現は正確だ」


 玄理が走路脇の解析卓から口を挟む。


「速度値だけを測るなら、壁へ向けて射出すれば済む。今回確認するのは、黒瀬零が自分の身体を、どこまで意図した戦闘行動として扱えるかだ」


「射出はしないよな?」


「神代が許可しない」


「御厨先生は許可するみたいに聞こえる」


「測定方法としては効率的だ」


「却下だ」


 緋月が即答した。


 獅堂は右腕へ薄い固定膜を巻いたまま、走路脇の保護区画に立っている。久世の掌を受け止めた両腕は、まだ完治していない。


 それでも本人は、「骨折していないなら見学くらいできる」と言い張った。


 朔夜は走路中央付近の監視位置。


 澄玲は解析卓。


 灯は緋月の隣に置かれた椅子へ座り、膝の上に救護用の冷却膜を抱えている。


「どうして灯がそれを持ってる」


「お兄ちゃんが無茶した時に使うため」


「神代先生が持てばいいだろ」


「神代先生は、無茶する前に止める人だから」


「それなら使う場面はない」


「止まらなかった時の担当が私」


「信用がない」


「昨日、廊下で走ったよね」


「あれは通信端末を取りに行っただけだ」


「走ったよね」


「……少し」


「どれくらい?」


「測ってない」


「測定記録はある」


 緋月が端末を開いた。


「最高速度、八二・六メートル毎秒」


「廊下に測定器があるのか?」


「大学内だぞ」


「その速度で、通信端末を取りに行く必要があったのですか」


 澄玲が尋ねる。


「着信が切れそうだった」


「歩いても自動応答へ移行します」


「知らなかった」


「今、覚えてください」


 走路正面の大型表示が点灯した。


 ――被検者、黒瀬零。


 ――直近正式実測値、七一・二メートル毎秒。


 ――非公式走行記録、八二・六メートル毎秒。


 ――本日第一目標、八五・〇メートル毎秒。


「百じゃないのか」


「段階を踏めと言った」


 緋月は俺の右肩へ検査膜を貼り付ける。


「第一走では八五・〇。認識課題を一件。停止距離は六〇・〇メートル以内」


「簡単そうだ」


「その発言を記録した」


「どうして」


「失敗後の言い訳を減らすためだ」


 通信表示の一角には、旧学生寮一〇六号室が映っていた。


 第四候補は診療椅子へ座り、左脚を固定したまま演習路を見ている。その隣には《第四学籍》が立ち、三枚の《異議付記欄》を抱えて第四候補の身体記録を監視していた。


『八五で停止距離六〇なら、失敗する方が難しい』


「お前は黙ってろ」


『経験者の助言だ』


「マッハ二で止まれずに重傷を負った経験か?」


『停止に失敗したわけではない』


「じゃあ、何に失敗した」


『相手を倒し切れなかった』


「助言者として最悪だな」


『速さは足だけで出すものじゃない』


 第四候補は俺の悪態を無視して続けた。


『次に踏む床を探してから足を出せば遅れる』


「じゃあ、どうする」


『踏むと決めた場所へ、床を間に合わせる』


「意味が分からない」


『なら八五で転べ』


「言われなくても転ばない」


 緋月が開始位置を示した。


「黒瀬零。未証明(アンプローヴン)の使用は禁止する」


「分かってる」


「痛み、視覚異常、平衡感覚の乱れを感じた場合は即座に停止しろ」


「止まれる範囲なら」


「即座にだ」


「分かった」


「確認目的を答えろ」


「八五・〇メートル毎秒へ到達する。指定標的を識別する。六〇・〇メートル以内で、自力停止する」


「入路を許可する」


 俺は開始線へ立った。


     ◇


 第一走。


 結果は八三・九メートル毎秒。


 青い三角形の標的は認識できた。停止距離も五一・二メートル。


 だが、右肩を庇ったことで走行姿勢が左へ崩れ、加速途中に法則膜の補正が入った。


 ――目標速度、未達。


 ――外部姿勢補正、一件。


 ――実戦使用判定、不成立。


「惜しい」


 灯が言った。


「惜しいという判定項目はない」


 緋月が答える。


「でも、あと一・一だよ」


「外部補正がなければ、八〇にも届いていない」


「厳しくないか」


「補正後の数値を本人の速度として扱えば、実戦で身体が壊れる」


 第二走。


 八八・四メートル毎秒。


 速度は目標を超えた。


 だが、途中で表示された赤い円を、青い円と誤認した。


 停止距離、四七・八メートル。


 ――目標速度、達成。


 ――対象識別、失敗。


 ――実戦使用判定、不成立。


「色くらい似ててもいいだろ」


「敵と味方の服装が似ていた場合も、同じことを言うのですか」


 澄玲に返され、何も言えなくなった。


 第三走。


 九二・一メートル毎秒。


 標的識別には成功。


 だが、停止距離は七四・三メートル。


 法則膜が緊急制動を行い、俺の身体は走路終端の一六メートル手前で止められた。


 ――目標速度、達成。


 ――対象識別、成功。


 ――制動距離、超過。


 ――外部制動、一件。


 ――実戦使用判定、不成立。


「速度を上げるほど、停止姿勢への移行が遅れています」


 澄玲が三回分の動作記録を重ねる。


「認識が遅れているのではありません。止まると判断した後も、身体が加速時の運動を継続しています」


「筋力不足か」


「それだけではない」


 朔夜が走路中央から戻ってくる。


 彼は、俺の接地跡を確認していた。


「お前は、加速と制動を別々の動作として扱っている」


「別だろ」


「だから遅い」


 朔夜は右足と左足の接地位置を指した。


「加速を終えた後で、停止姿勢を作っている。最後の加速動作そのものを、制動へ繋げろ」


「簡単に言うな」


「簡単だとは言っていない」


 どこかで聞いた返しだった。


 通信越しの第四候補が、僅かに笑う。


『今のお前は、速く走った後で止まろうとしている』


「普通はそうだろ」


『速い者は、走り始める前から止まる場所を決めている』


「床を間に合わせろよりは分かる」


『同じ意味だ』


「全然違う」


 第四走の条件が表示された。


 ――目標速度、九五・〇メートル毎秒。


 ――識別対象、二件。


 ――停止距離、五〇・〇メートル以内。


「上げるのか」


「身体記録に異常はない」


 緋月が答えた。


「ただし、これが午前中最後の走行になる」


「百まで行かない?」


「今日の測定結果を見てから決める」


「またそれか」


「必要な判断だ」


 俺は再び開始線へ立った。


 走路の左右へ並んでいた標的板が収納される。代わりに、四〇メートル地点と一八〇メートル地点へ、小型表示が一枚ずつ現れた。


 色。


 形。


 文字。


 走行開始後に、無作為に決定される。


 二件を走りながら読み取り、終点で回答する。


「黒瀬零」


 緋月が呼ぶ。


「無理に百へ届かせるな」


「九五が目標だろ」


「数字を見ると、余分に出そうとする」


「信用がないな」


「実績がある」


 開始表示が赤から白へ変わった。


 床を蹴る。


     ◇


 最初の一〇メートルで、身体が軽いと感じた。


 右肩の痛みはない。


 左脚にも、第四候補から一時的に重ねられた負傷感覚は残っていない。


 一歩目。


 二歩目。


 三歩目。


 接地するたび、法則膜の反発が足裏へ返る。


 床を蹴った後で、次の床を探す。


 違う。


 第四候補の言葉を思い出す。


 踏むと決めた場所へ、床を間に合わせる。


 意味を完全に理解したわけではない。


 それでも、足元を見続けるのをやめた。


 四〇メートル地点。


 表示は黄色。


 形は六角形。


 文字は「帰」。


 認識した瞬間、表示が消える。


 速度が上がる。


 八〇。


 八五。


 九〇。


 風圧が顔面へ押し付けられる。


 地下演習路に自然の風はない。


 俺自身が押し退けた空気が、壁となって返っている。


 右足を置く。


 次の左足を置く場所は、もう見ない。


 身体の位置を確定してから足を運ぶのではない。


 そこへ進むと決め、身体を追いつかせる。


 第四候補と同じではない。


 自証座標(アクシス・エゴ)でもない。


 ただの走行だ。


 通常時間を使い。


 床を蹴り。


 筋肉を動かし。


 距離を進む。


 今の俺の身体による運動。


 一八〇メートル地点の表示が開いた。


 青。


 円。


 文字は――


 読もうとした瞬間、表示全体が白く塗り潰された。


「停止しろ!」


 緋月の声が演習路へ響く。


 だが、既に別の表示が視界へ重なっていた。


 ――走行記録を照合。


 ――同一起源個体の既存運動記録を確認。


 ――対象、第四候補。


 ――対象、黒瀬零。


 ――運動主体、統合処理を開始。


「またかよ……!」


 走路の床へ、白い線が現れる。


 俺の足元からではない。


 開始線に設置された比較記録端末から伸び、走路脇の通信装置へ向かっている。


 その接続先は、旧学生寮一〇六号室。


 今回の測定では、第四候補の過去の走行記録が比較資料として読み込まれていた。


 マッハ二を超えた第四候補の身体運用を、そのまま俺へ付与したわけではない。


 単なる比較対象。


 そのはずだった。


 だが、《第一公理階層》の局所公理が、それを新しい適用経路として利用している。


 同じ起源。


 同じ走行測定。


 類似した身体構造。


 同じ目標。


 ならば。


 走った主体も、一人である。


『比較記録を切れ!』


 第四候補の声が通信から届く。


 まだ耳で聞こえる。


 現在の本人の声だ。


 だが、その背後に別の音が混じり始めた。


 足音。


 高速で床を蹴る音。


 俺の記憶にはない。


 第四候補が過去に別の場所で走った時の音が、俺自身の過去として頭の中へ入り始めている。


「黒瀬零、減速しろ!」


 緋月の声。


 俺は制動へ移る。


 だが、走路脇の白線は止まらない。


 表示が開いた。


 ――下位適用経路。


 ――通常時間内で進行。


 ――伝播速度、九七・六メートル毎秒。


 白線が通信装置へ向かって走る。


 あれが到達すれば、第四候補の走行記録は、俺の過去として完全に登録される。


 運動記録だけで終わる保証はない。


 負傷。


 学籍。


 三年間。


 本人の現在。


 久世が一件へ折り畳もうとしている全てへ、再び接続が開く。


「上位側でも再適用が始まった」


 玄理の声が演習路へ響く。


 中央時計の周囲へ、細い黒線が生じる。


 一本。


 二本。


 三本。


 黒線は、局所公理側の処理と緋月の対応が、経過時間〇で競合した痕跡だ。


 局所公理の適用処理には、経過時間が必要ない。


 緋月は無刻存在(アンクロノス)に属しているため、相手の経過時間〇の処理を認識し、自身の《無刻行動》によって対応できる。


 その攻防が行われている間、俺たち通常時間側の存在は、一切次の状態へ進めない。


 俺の走行も。


 白線の通常時間内での伝播も。


 第四候補の身体も。


 一連の無刻処理が終わり、緋月が通常時間の進行を許した後に再開する。


 俺たちには、その途中は見えない。


 ただ、次の瞬間を迎えるたび、時計の周囲から黒線の一部が消え、緋月の手袋へ新しい傷が増えていく。


「下位側を止めろ」


 通常時間の進行後、緋月が言った。


「上位側はこちらで抑える」


 白線と通信装置の距離。


 四一・三メートル。


 俺と通信装置の距離。


 四三・九メートル。


 俺は既に制動へ入っている。


 速度、九四・八メートル毎秒。


 白線は九七・六。


 このままでは間に合わない。


「天城先輩!」


「見えている」


 朔夜の黒い薄刃が走路を横断する。


 因果切断(セヴァランス)


 白線と通信装置の接続が切れる。


 そのはずだった。


 だが、白線は二つに分かれた。


 一方は通信装置へ。


 もう一方は、走路全体の測定記録へ向かう。


「直接接続だけではありません!」


 澄玲が叫ぶ。


「演習路が、第四候補の記録を黒瀬零さんの比較基準として保持しています。通信装置を切っても、測定記録から再接続されます!」


「どこを壊せばいい!」


 獅堂が保護区画から走路へ入る。


「壊してはいけません!」


「またか!」


「比較対象を指定している記録だけを外す必要があります!」


 走路脇に、三枚の白い校正板が浮かび上がった。


 一枚目。


 身体負荷基準。


 二枚目。


 最高速度比較。


 三枚目。


 行動主体照合。


「三枚目!」


 澄玲が指す。


「行動主体照合だけを解除してください!」


 校正板まで三八・二メートル。


 白線まで三六・九メートル。


 俺の速度は九三・一まで落ちている。


「黒瀬零」


 緋月の声がする。


「無理に追うな」


「追わなきゃ、第四候補が消える」


「神代先生!」


 灯が叫ぶ。


「別経路は?」


「探している」


 玄理が答える。


「間に合う保証はない」


「なら行く」


 俺は制動姿勢を解いた。


「黒瀬零!」


「百メートル毎秒」


 右足を踏み込む。


「今日の目標じゃなかっただけだ」


 右肩に痛みが走る。


 無視はしない。


 痛みの位置を確認する。


 右肩。


 左脚は正常。


 呼吸、継続可能。


 視界、異常なし。


 身体を前へ倒す。


 再び加速へ移る。


 九四。


 九五。


 白線が校正板へ近づく。


 通信表示の中で、第四候補が右手を動かした。


 だが、その動作が途中で止まる。


 本人の身体が物理的に停止したわけではない。


 右手を上げた現在が、俺の走行記録へ移され始めている。


 頭の中に、知らない記憶が増える。


 左脚を壊す以前の走行。


 空気が裂ける音。


 踏み抜いた床。


 追いつけなかった相手。


 第四候補が見た景色。


 俺が見たものではない。


 俺が走った距離ではない。


 俺の過去ではない。


 それでも局所公理は、同じ黒瀬零の経験として、一つへまとめようとする。


 速度、九七・二。


 白線まで二一メートル。


 俺まで二三・四。


 間に合わない。


「お兄ちゃん!」


 灯の声。


「今走ってるのは誰!」


 質問の意味を考える余裕はなかった。


 それでも、答えは分かる。


「俺だ!」


 今、床を蹴っている。


 右肩の痛みを感じている。


 校正板へ手を伸ばしている。


 この走行を選んだのは、今の俺だ。


 第四候補ではない。


 第四候補の記録を奪うためでもない。


 二人分の速度を一人へ加えるためでもない。


 あいつの現在を、あいつ自身へ返すために走っている。


 その結論を。


「保留する!」


 未証明(アンプローヴン)


 ――行動主体。


 ――単一化結論。


 ――確定保留。


 俺の頭へ流れ込んでいた足音が消えた。


 第四候補の記録が消失したわけではない。


 俺の記憶へ移される処理だけが、二・四秒間確定できなくなる。


 走路の上に、二つの足音が分かれて響いた。


 一つは記録の中。


 第四候補が過去に走った音。


 もう一つは現在。


 俺が今、床を蹴る音。


 速度、九八・六。


 白線まで一二・二メートル。


 俺まで一三・〇。


 まだ足りない。


『腰を上げるな!』


 第四候補の声が通信から届く。


 今度は記憶ではない。


『最後の一歩で伸びようとするな。接地時間が増える』


「助言してる場合か!」


『消される側だからしている!』


「だったら黙って待ってろ!」


『お前が遅いから待てない!』


 右足。


 左足。


 次に踏む場所を探さない。


 床を見るのをやめる。


 三枚目の校正板だけを見る。


 そこへ行く。


 能力で座標を書き換えるのではない。


 時間を消すのでもない。


 今の身体で。


 通常時間の中を。


 一歩ずつ進む。


 九九・一。


 九九・六。


 白線まで五・四メートル。


 俺まで五・九。


 右肩の検査膜が警告を発する。


 筋繊維負荷。


 関節保護限界。


 緋月から強制停止命令が表示される。


 それより先に、足を出した。


 ――瞬間身体速度。


 ――一〇〇・四メートル毎秒。


 手が校正板へ届く。


 白線も、ほぼ同時に到達する。


「俺の走りを」


 指先が三枚目の板を掴む。


「お前の過去にするな!」


 行動主体照合板を引き抜いた。


     ◇


 白線が消えた。


 その瞬間。


 俺の身体は、止まらなかった。


「まずい!」


 獅堂が走路へ踏み込む。


 目の前には終端壁。


 距離、三三メートル。


 速度は、まだ九〇を超えている。


 制動姿勢へ移ろうとする。


 遅い。


 右肩が上がらない。


 身体の軸が左へ流れる。


「床を使う!」


 獅堂が右足を踏み下ろす。


 万象は我が礎(グランド・レガリア)


 走路終端の床が、緩やかに隆起した。


 壁ではない。


 俺の進行方向を上方へ逃がすための傾斜。


 足が斜面へ触れる。


 衝撃。


 身体が宙へ浮く。


 天井が迫る。


 朔夜の黒線が俺の進路を横切った。


 切断したのは、俺の運動そのものではない。


 終端壁へ正面衝突する因果経路。


 身体が僅かに横へ逸れる。


 だが、勢いは残っている。


 次に見えたのは、緋月だった。


 突然現れたわけではない。


 俺が空中へ投げ出された直後、緋月は経過時間を必要とせず、俺の予想着地点へ移動する《無刻行動》を成立させていた。


 緋月が一連の無刻行動を終え、通常時間の進行を許した時、俺から見れば、彼女は既に着地点へ立っていた。


「受け身を取れ!」


「右肩が!」


「左腕で頭を守れ!」


 言われた通り、左腕を上げる。


 緋月が俺の背中と腰を掴み、衝撃を床へ流した。


 視界が回る。


 法則膜が沈む。


 肺から空気が抜けた。


 数秒後。


 俺は演習路の床へ仰向けに倒れていた。


「生きてる?」


 灯の顔が視界へ入る。


「たぶん」


「たぶんじゃなくて答えて」


「生きてる」


「名前は」


「黒瀬零」


「誰の走りだった?」


「俺の」


 灯はそこで、ようやく息を吐いた。


 緋月が俺の右肩へ手を当てる。


「痛みは」


「増えた」


「程度」


「七くらい」


「十段階で?」


「たぶん」


「数値基準を途中で変えるな」


「痛い時に正確な採点を求めるな」


「検査する。動くな」


「もう動けない」


「信用しない」


 走路上の表示が、遅れて測定結果を開いた。


 ――被検者、黒瀬零。


 ――最高速度、一〇〇・四メートル毎秒。


 ――指定対象認識、一件成功。


 ――第二対象、外部処理により無効。


 ――走行主体、本人へ帰属。


 ――外部記録統合、失敗。


 ――制動距離、測定不能。


 ――外部介助、二件。


 ――実戦使用判定、不成立。


「百、超えた」


 灯が言う。


「合格ではない」


 緋月が即座に答えた。


「自力制動ができていない。姿勢も崩れている。右肩は再検査が必要だ」


「でも、百は超えた」


「速度値だけだ」


「最初の目標は達成?」


「測定値としてはな」


「褒めてる?」


「事実を述べた」


「その言い方、前にも聞いた」


「同じ事実だからだ」


 通信表示には、第四候補が映っている。


 彼は診療椅子の上で、右手を上げていた。


 今度は、その動作が俺の記録へ入ってこない。


『一〇〇・四』


「見えてる」


『接地時間が長い』


「助けてもらった側が文句を言うな」


『俺の現在を守ると言ったのはお前だ』


「守っただろ」


『だから次は、壁へ突っ込まずにやれ』


「次は止まる」


『その言葉を記録しておけ』


「お前まで神代先生みたいになってきたな」


『不本意だ』


「九条と同じこと言ってる」


 澄玲が解析卓から顔を上げた。


「私は、御厨先生に似ていると言われた時です」


「どっちも似たようなものだろ」


「違います」


「九条」


 玄理が呼ぶ。


「後で、その違いを説明しろ」


「必要ありません」


 張り詰めていた空気が、僅かに緩んだ。


 それでも、演習路に残された白い痕跡は消えていない。


 走行主体を統合しようとした、《第一公理階層》に属する局所公理。


 今回の適用は止まった。


 第四候補の現在も維持されている。


 だが、玄理が開いた記録の末尾へ、新しい表示が追加された。


「まだ続きがある」


 彼の声で、全員が表示を見る。


 ――《第一公理階層》局所公理適用。


 ――下位側から二度の拒絶を確認。


 ――単一《第一公理階層》内での再適用。


 ――効率不良。


「効率不良?」


 獅堂が眉を寄せる。


「本人性の話を、処理効率で考えてるのか」


「公理側に感情的評価はない」


 玄理が答える。


「問題は、その次だ」


 文字が更新される。


 ――対象《第一公理階層》全体を、一公理項として再提出。


 ――上位照合へ移行。


 ――照合先。


 表示が一度途切れた。


 白い走路全体が僅かに暗くなる。


 次の瞬間、これまで直接表示されたことのなかった構造名が現れた。


 ――《第二公理階層》。


「《第二公理階層》……」


 澄玲が小さく読む。


「一件の《第一公理階層》の中で適用できないなら」


 俺は起き上がろうとして、緋月に額を押し戻された。


「その《第一公理階層》全体を、一つの公理項として扱う上位階層へ持っていく?」


「その可能性が高い」


 玄理は表示を閉じない。


「一つの《第二公理階層》には、相互に異なる《第一公理階層》が無限に並立し、それぞれの全体が、一つの公理項として扱われる」


「今まで相手にしていた世界前提そのものが」


 灯が表示を見る。


「次は、一個の公理みたいに扱われるの?」


「ああ」


「そこには、五人を別々の人物として扱う《第一公理階層》もある?」


「存在する可能性は高い」


「なら、そっちを選べば」


「現在適用されている《第一公理階層》が、誤りになるわけではない」


 玄理が答えた。


「相互に矛盾する《第一公理階層》が、同じ《第二公理階層》の内部で、それぞれ一つの公理項として成立する」


「どれを、今の下位世界へ適用するか」


 澄玲が言う。


「次は、《第二公理階層》側で照合されるのですね」


「そういうことになる」


「久世の上司?」


 灯が尋ねる。


「人物や組織とは限らない」


「でも、そこへ答えを出さないと終わらない?」


「少なくとも、《第一公理階層》の局所公理だけを相手にし続けても、処理は終わらない」


 玄理の言葉へ、誰もすぐには答えなかった。


 一〇〇メートル毎秒。


 今日、初めて届いた速度。


 それでも、久世の投影体にはまだ遠い。


 経過時間〇の攻防へも介入できない。


 《第一公理階層》へ身体ごと入域する最低存在条件さえ、満たしていない。


 その先に。


 もう、次の階層が現れている。


「遠いな」


 俺が言う。


「百メートルより?」


 灯が尋ねる。


「比べられないくらい」


「じゃあ、まず肩を治して」


「そこから?」


「そこから」


 緋月も頷いた。


「次の測定では、一〇〇・〇メートル毎秒から自力で停止する」


「先に、もっと速く」


「停止だ」


「九五くらいまで落として」


「一〇〇からだ」


「厳しくなってないか」


「本日、その必要性が実証された」


「証明って言葉、今は嫌いになりそうだ」


「嫌うのは自由だ。治療と訓練には従え」


 演習路の向こう。


 引き抜いた行動主体照合板が、床へ落ちている。


 俺は、そこへ辿り着いた。


 止まることはできなかった。


 一人では、何も完了させられなかった。


 獅堂が床を作り。


 朔夜が衝突への因果を切り。


 澄玲が外すべき記録を特定し。


 玄理が処理を解析し。


 緋月が経過時間〇の上位処理へ対応し、最後には俺の身体を受け止めた。


 灯の声がなければ。


 今、走っているのが誰なのかさえ、見失っていたかもしれない。


 それでも。


 一〇〇・四メートル毎秒は、第四候補の過去ではない。


 五人を一人へまとめた結果でもない。


 今の俺が。


 今の身体で。


 今の意思によって到達した速度だった。


 百メートル先にあったものは。


 速さそのものではない。


 誰の記憶にも。


 誰の過去にも。


 まだ折り畳まれていない。


 俺自身の現在だった。

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