第六十九話 百メートル先の現在
久世律真の投影体が消えてから、四日が経過した。
右肩の治療は第二段階へ移り、固定帯も三本から一本へ減っている。通常歩行に加え、短距離の走行許可も出た。
ただし。
「全力疾走の許可ではない」
「百メートル毎秒を目標にするのに?」
「目標値と、初日から出してよい速度は別だ」
「じゃあ今日はどこまで」
「測定結果を見て決める」
「それだと、最初から抑えて走ることになる」
「抑えられる者は、治療中に固定帯を外そうとはしない」
「まだ言うのか」
「再発防止に必要な間は言う」
午前七時四十二分。
帝都神律大学、法則災害学部第三高速演習路。
全長六百メートルの直線走路は、大学北部の地下区画に設置されている。一般的な陸上競技場とは異なり、床面には衝撃吸収用の法則膜が幾層にも重ねられていた。
加速。
接地圧。
骨格負荷。
体温。
認識速度。
方向転換。
制動距離。
走行中のあらゆる要素が、本人の身体記録として同時に測定される。
左右の壁には、色も形も異なる標的板が並んでいた。
ただ速く走るだけでは、実戦使用可能な身体速度として認められない。
走行中に指定対象を識別し、進路を選び、所定の位置から減速へ移り、周囲へ致命的な衝撃を与えず停止する。
その全てを満たした速度だけが、本人の制御可能な戦闘速度として記録される。
「面倒だな」
「直線だけ速い人間は、戦場では障害物と同じです」
澄玲が測定端末を確認しながら言った。
「敵へ当たれば攻撃になりますが、味方へ当たれば事故です」
「もう少し言い方があるだろ」
「では、高速で移動する危険物です」
「悪化した」
「九条の表現は正確だ」
玄理が走路脇の解析卓から口を挟む。
「速度値だけを測るなら、壁へ向けて射出すれば済む。今回確認するのは、黒瀬零が自分の身体を、どこまで意図した戦闘行動として扱えるかだ」
「射出はしないよな?」
「神代が許可しない」
「御厨先生は許可するみたいに聞こえる」
「測定方法としては効率的だ」
「却下だ」
緋月が即答した。
獅堂は右腕へ薄い固定膜を巻いたまま、走路脇の保護区画に立っている。久世の掌を受け止めた両腕は、まだ完治していない。
それでも本人は、「骨折していないなら見学くらいできる」と言い張った。
朔夜は走路中央付近の監視位置。
澄玲は解析卓。
灯は緋月の隣に置かれた椅子へ座り、膝の上に救護用の冷却膜を抱えている。
「どうして灯がそれを持ってる」
「お兄ちゃんが無茶した時に使うため」
「神代先生が持てばいいだろ」
「神代先生は、無茶する前に止める人だから」
「それなら使う場面はない」
「止まらなかった時の担当が私」
「信用がない」
「昨日、廊下で走ったよね」
「あれは通信端末を取りに行っただけだ」
「走ったよね」
「……少し」
「どれくらい?」
「測ってない」
「測定記録はある」
緋月が端末を開いた。
「最高速度、八二・六メートル毎秒」
「廊下に測定器があるのか?」
「大学内だぞ」
「その速度で、通信端末を取りに行く必要があったのですか」
澄玲が尋ねる。
「着信が切れそうだった」
「歩いても自動応答へ移行します」
「知らなかった」
「今、覚えてください」
走路正面の大型表示が点灯した。
――被検者、黒瀬零。
――直近正式実測値、七一・二メートル毎秒。
――非公式走行記録、八二・六メートル毎秒。
――本日第一目標、八五・〇メートル毎秒。
「百じゃないのか」
「段階を踏めと言った」
緋月は俺の右肩へ検査膜を貼り付ける。
「第一走では八五・〇。認識課題を一件。停止距離は六〇・〇メートル以内」
「簡単そうだ」
「その発言を記録した」
「どうして」
「失敗後の言い訳を減らすためだ」
通信表示の一角には、旧学生寮一〇六号室が映っていた。
第四候補は診療椅子へ座り、左脚を固定したまま演習路を見ている。その隣には《第四学籍》が立ち、三枚の《異議付記欄》を抱えて第四候補の身体記録を監視していた。
『八五で停止距離六〇なら、失敗する方が難しい』
「お前は黙ってろ」
『経験者の助言だ』
「マッハ二で止まれずに重傷を負った経験か?」
『停止に失敗したわけではない』
「じゃあ、何に失敗した」
『相手を倒し切れなかった』
「助言者として最悪だな」
『速さは足だけで出すものじゃない』
第四候補は俺の悪態を無視して続けた。
『次に踏む床を探してから足を出せば遅れる』
「じゃあ、どうする」
『踏むと決めた場所へ、床を間に合わせる』
「意味が分からない」
『なら八五で転べ』
「言われなくても転ばない」
緋月が開始位置を示した。
「黒瀬零。未証明の使用は禁止する」
「分かってる」
「痛み、視覚異常、平衡感覚の乱れを感じた場合は即座に停止しろ」
「止まれる範囲なら」
「即座にだ」
「分かった」
「確認目的を答えろ」
「八五・〇メートル毎秒へ到達する。指定標的を識別する。六〇・〇メートル以内で、自力停止する」
「入路を許可する」
俺は開始線へ立った。
◇
第一走。
結果は八三・九メートル毎秒。
青い三角形の標的は認識できた。停止距離も五一・二メートル。
だが、右肩を庇ったことで走行姿勢が左へ崩れ、加速途中に法則膜の補正が入った。
――目標速度、未達。
――外部姿勢補正、一件。
――実戦使用判定、不成立。
「惜しい」
灯が言った。
「惜しいという判定項目はない」
緋月が答える。
「でも、あと一・一だよ」
「外部補正がなければ、八〇にも届いていない」
「厳しくないか」
「補正後の数値を本人の速度として扱えば、実戦で身体が壊れる」
第二走。
八八・四メートル毎秒。
速度は目標を超えた。
だが、途中で表示された赤い円を、青い円と誤認した。
停止距離、四七・八メートル。
――目標速度、達成。
――対象識別、失敗。
――実戦使用判定、不成立。
「色くらい似ててもいいだろ」
「敵と味方の服装が似ていた場合も、同じことを言うのですか」
澄玲に返され、何も言えなくなった。
第三走。
九二・一メートル毎秒。
標的識別には成功。
だが、停止距離は七四・三メートル。
法則膜が緊急制動を行い、俺の身体は走路終端の一六メートル手前で止められた。
――目標速度、達成。
――対象識別、成功。
――制動距離、超過。
――外部制動、一件。
――実戦使用判定、不成立。
「速度を上げるほど、停止姿勢への移行が遅れています」
澄玲が三回分の動作記録を重ねる。
「認識が遅れているのではありません。止まると判断した後も、身体が加速時の運動を継続しています」
「筋力不足か」
「それだけではない」
朔夜が走路中央から戻ってくる。
彼は、俺の接地跡を確認していた。
「お前は、加速と制動を別々の動作として扱っている」
「別だろ」
「だから遅い」
朔夜は右足と左足の接地位置を指した。
「加速を終えた後で、停止姿勢を作っている。最後の加速動作そのものを、制動へ繋げろ」
「簡単に言うな」
「簡単だとは言っていない」
どこかで聞いた返しだった。
通信越しの第四候補が、僅かに笑う。
『今のお前は、速く走った後で止まろうとしている』
「普通はそうだろ」
『速い者は、走り始める前から止まる場所を決めている』
「床を間に合わせろよりは分かる」
『同じ意味だ』
「全然違う」
第四走の条件が表示された。
――目標速度、九五・〇メートル毎秒。
――識別対象、二件。
――停止距離、五〇・〇メートル以内。
「上げるのか」
「身体記録に異常はない」
緋月が答えた。
「ただし、これが午前中最後の走行になる」
「百まで行かない?」
「今日の測定結果を見てから決める」
「またそれか」
「必要な判断だ」
俺は再び開始線へ立った。
走路の左右へ並んでいた標的板が収納される。代わりに、四〇メートル地点と一八〇メートル地点へ、小型表示が一枚ずつ現れた。
色。
形。
文字。
走行開始後に、無作為に決定される。
二件を走りながら読み取り、終点で回答する。
「黒瀬零」
緋月が呼ぶ。
「無理に百へ届かせるな」
「九五が目標だろ」
「数字を見ると、余分に出そうとする」
「信用がないな」
「実績がある」
開始表示が赤から白へ変わった。
床を蹴る。
◇
最初の一〇メートルで、身体が軽いと感じた。
右肩の痛みはない。
左脚にも、第四候補から一時的に重ねられた負傷感覚は残っていない。
一歩目。
二歩目。
三歩目。
接地するたび、法則膜の反発が足裏へ返る。
床を蹴った後で、次の床を探す。
違う。
第四候補の言葉を思い出す。
踏むと決めた場所へ、床を間に合わせる。
意味を完全に理解したわけではない。
それでも、足元を見続けるのをやめた。
四〇メートル地点。
表示は黄色。
形は六角形。
文字は「帰」。
認識した瞬間、表示が消える。
速度が上がる。
八〇。
八五。
九〇。
風圧が顔面へ押し付けられる。
地下演習路に自然の風はない。
俺自身が押し退けた空気が、壁となって返っている。
右足を置く。
次の左足を置く場所は、もう見ない。
身体の位置を確定してから足を運ぶのではない。
そこへ進むと決め、身体を追いつかせる。
第四候補と同じではない。
自証座標でもない。
ただの走行だ。
通常時間を使い。
床を蹴り。
筋肉を動かし。
距離を進む。
今の俺の身体による運動。
一八〇メートル地点の表示が開いた。
青。
円。
文字は――
読もうとした瞬間、表示全体が白く塗り潰された。
「停止しろ!」
緋月の声が演習路へ響く。
だが、既に別の表示が視界へ重なっていた。
――走行記録を照合。
――同一起源個体の既存運動記録を確認。
――対象、第四候補。
――対象、黒瀬零。
――運動主体、統合処理を開始。
「またかよ……!」
走路の床へ、白い線が現れる。
俺の足元からではない。
開始線に設置された比較記録端末から伸び、走路脇の通信装置へ向かっている。
その接続先は、旧学生寮一〇六号室。
今回の測定では、第四候補の過去の走行記録が比較資料として読み込まれていた。
マッハ二を超えた第四候補の身体運用を、そのまま俺へ付与したわけではない。
単なる比較対象。
そのはずだった。
だが、《第一公理階層》の局所公理が、それを新しい適用経路として利用している。
同じ起源。
同じ走行測定。
類似した身体構造。
同じ目標。
ならば。
走った主体も、一人である。
『比較記録を切れ!』
第四候補の声が通信から届く。
まだ耳で聞こえる。
現在の本人の声だ。
だが、その背後に別の音が混じり始めた。
足音。
高速で床を蹴る音。
俺の記憶にはない。
第四候補が過去に別の場所で走った時の音が、俺自身の過去として頭の中へ入り始めている。
「黒瀬零、減速しろ!」
緋月の声。
俺は制動へ移る。
だが、走路脇の白線は止まらない。
表示が開いた。
――下位適用経路。
――通常時間内で進行。
――伝播速度、九七・六メートル毎秒。
白線が通信装置へ向かって走る。
あれが到達すれば、第四候補の走行記録は、俺の過去として完全に登録される。
運動記録だけで終わる保証はない。
負傷。
学籍。
三年間。
本人の現在。
久世が一件へ折り畳もうとしている全てへ、再び接続が開く。
「上位側でも再適用が始まった」
玄理の声が演習路へ響く。
中央時計の周囲へ、細い黒線が生じる。
一本。
二本。
三本。
黒線は、局所公理側の処理と緋月の対応が、経過時間〇で競合した痕跡だ。
局所公理の適用処理には、経過時間が必要ない。
緋月は無刻存在に属しているため、相手の経過時間〇の処理を認識し、自身の《無刻行動》によって対応できる。
その攻防が行われている間、俺たち通常時間側の存在は、一切次の状態へ進めない。
俺の走行も。
白線の通常時間内での伝播も。
第四候補の身体も。
一連の無刻処理が終わり、緋月が通常時間の進行を許した後に再開する。
俺たちには、その途中は見えない。
ただ、次の瞬間を迎えるたび、時計の周囲から黒線の一部が消え、緋月の手袋へ新しい傷が増えていく。
「下位側を止めろ」
通常時間の進行後、緋月が言った。
「上位側はこちらで抑える」
白線と通信装置の距離。
四一・三メートル。
俺と通信装置の距離。
四三・九メートル。
俺は既に制動へ入っている。
速度、九四・八メートル毎秒。
白線は九七・六。
このままでは間に合わない。
「天城先輩!」
「見えている」
朔夜の黒い薄刃が走路を横断する。
因果切断。
白線と通信装置の接続が切れる。
そのはずだった。
だが、白線は二つに分かれた。
一方は通信装置へ。
もう一方は、走路全体の測定記録へ向かう。
「直接接続だけではありません!」
澄玲が叫ぶ。
「演習路が、第四候補の記録を黒瀬零さんの比較基準として保持しています。通信装置を切っても、測定記録から再接続されます!」
「どこを壊せばいい!」
獅堂が保護区画から走路へ入る。
「壊してはいけません!」
「またか!」
「比較対象を指定している記録だけを外す必要があります!」
走路脇に、三枚の白い校正板が浮かび上がった。
一枚目。
身体負荷基準。
二枚目。
最高速度比較。
三枚目。
行動主体照合。
「三枚目!」
澄玲が指す。
「行動主体照合だけを解除してください!」
校正板まで三八・二メートル。
白線まで三六・九メートル。
俺の速度は九三・一まで落ちている。
「黒瀬零」
緋月の声がする。
「無理に追うな」
「追わなきゃ、第四候補が消える」
「神代先生!」
灯が叫ぶ。
「別経路は?」
「探している」
玄理が答える。
「間に合う保証はない」
「なら行く」
俺は制動姿勢を解いた。
「黒瀬零!」
「百メートル毎秒」
右足を踏み込む。
「今日の目標じゃなかっただけだ」
右肩に痛みが走る。
無視はしない。
痛みの位置を確認する。
右肩。
左脚は正常。
呼吸、継続可能。
視界、異常なし。
身体を前へ倒す。
再び加速へ移る。
九四。
九五。
白線が校正板へ近づく。
通信表示の中で、第四候補が右手を動かした。
だが、その動作が途中で止まる。
本人の身体が物理的に停止したわけではない。
右手を上げた現在が、俺の走行記録へ移され始めている。
頭の中に、知らない記憶が増える。
左脚を壊す以前の走行。
空気が裂ける音。
踏み抜いた床。
追いつけなかった相手。
第四候補が見た景色。
俺が見たものではない。
俺が走った距離ではない。
俺の過去ではない。
それでも局所公理は、同じ黒瀬零の経験として、一つへまとめようとする。
速度、九七・二。
白線まで二一メートル。
俺まで二三・四。
間に合わない。
「お兄ちゃん!」
灯の声。
「今走ってるのは誰!」
質問の意味を考える余裕はなかった。
それでも、答えは分かる。
「俺だ!」
今、床を蹴っている。
右肩の痛みを感じている。
校正板へ手を伸ばしている。
この走行を選んだのは、今の俺だ。
第四候補ではない。
第四候補の記録を奪うためでもない。
二人分の速度を一人へ加えるためでもない。
あいつの現在を、あいつ自身へ返すために走っている。
その結論を。
「保留する!」
未証明。
――行動主体。
――単一化結論。
――確定保留。
俺の頭へ流れ込んでいた足音が消えた。
第四候補の記録が消失したわけではない。
俺の記憶へ移される処理だけが、二・四秒間確定できなくなる。
走路の上に、二つの足音が分かれて響いた。
一つは記録の中。
第四候補が過去に走った音。
もう一つは現在。
俺が今、床を蹴る音。
速度、九八・六。
白線まで一二・二メートル。
俺まで一三・〇。
まだ足りない。
『腰を上げるな!』
第四候補の声が通信から届く。
今度は記憶ではない。
『最後の一歩で伸びようとするな。接地時間が増える』
「助言してる場合か!」
『消される側だからしている!』
「だったら黙って待ってろ!」
『お前が遅いから待てない!』
右足。
左足。
次に踏む場所を探さない。
床を見るのをやめる。
三枚目の校正板だけを見る。
そこへ行く。
能力で座標を書き換えるのではない。
時間を消すのでもない。
今の身体で。
通常時間の中を。
一歩ずつ進む。
九九・一。
九九・六。
白線まで五・四メートル。
俺まで五・九。
右肩の検査膜が警告を発する。
筋繊維負荷。
関節保護限界。
緋月から強制停止命令が表示される。
それより先に、足を出した。
――瞬間身体速度。
――一〇〇・四メートル毎秒。
手が校正板へ届く。
白線も、ほぼ同時に到達する。
「俺の走りを」
指先が三枚目の板を掴む。
「お前の過去にするな!」
行動主体照合板を引き抜いた。
◇
白線が消えた。
その瞬間。
俺の身体は、止まらなかった。
「まずい!」
獅堂が走路へ踏み込む。
目の前には終端壁。
距離、三三メートル。
速度は、まだ九〇を超えている。
制動姿勢へ移ろうとする。
遅い。
右肩が上がらない。
身体の軸が左へ流れる。
「床を使う!」
獅堂が右足を踏み下ろす。
万象は我が礎。
走路終端の床が、緩やかに隆起した。
壁ではない。
俺の進行方向を上方へ逃がすための傾斜。
足が斜面へ触れる。
衝撃。
身体が宙へ浮く。
天井が迫る。
朔夜の黒線が俺の進路を横切った。
切断したのは、俺の運動そのものではない。
終端壁へ正面衝突する因果経路。
身体が僅かに横へ逸れる。
だが、勢いは残っている。
次に見えたのは、緋月だった。
突然現れたわけではない。
俺が空中へ投げ出された直後、緋月は経過時間を必要とせず、俺の予想着地点へ移動する《無刻行動》を成立させていた。
緋月が一連の無刻行動を終え、通常時間の進行を許した時、俺から見れば、彼女は既に着地点へ立っていた。
「受け身を取れ!」
「右肩が!」
「左腕で頭を守れ!」
言われた通り、左腕を上げる。
緋月が俺の背中と腰を掴み、衝撃を床へ流した。
視界が回る。
法則膜が沈む。
肺から空気が抜けた。
数秒後。
俺は演習路の床へ仰向けに倒れていた。
「生きてる?」
灯の顔が視界へ入る。
「たぶん」
「たぶんじゃなくて答えて」
「生きてる」
「名前は」
「黒瀬零」
「誰の走りだった?」
「俺の」
灯はそこで、ようやく息を吐いた。
緋月が俺の右肩へ手を当てる。
「痛みは」
「増えた」
「程度」
「七くらい」
「十段階で?」
「たぶん」
「数値基準を途中で変えるな」
「痛い時に正確な採点を求めるな」
「検査する。動くな」
「もう動けない」
「信用しない」
走路上の表示が、遅れて測定結果を開いた。
――被検者、黒瀬零。
――最高速度、一〇〇・四メートル毎秒。
――指定対象認識、一件成功。
――第二対象、外部処理により無効。
――走行主体、本人へ帰属。
――外部記録統合、失敗。
――制動距離、測定不能。
――外部介助、二件。
――実戦使用判定、不成立。
「百、超えた」
灯が言う。
「合格ではない」
緋月が即座に答えた。
「自力制動ができていない。姿勢も崩れている。右肩は再検査が必要だ」
「でも、百は超えた」
「速度値だけだ」
「最初の目標は達成?」
「測定値としてはな」
「褒めてる?」
「事実を述べた」
「その言い方、前にも聞いた」
「同じ事実だからだ」
通信表示には、第四候補が映っている。
彼は診療椅子の上で、右手を上げていた。
今度は、その動作が俺の記録へ入ってこない。
『一〇〇・四』
「見えてる」
『接地時間が長い』
「助けてもらった側が文句を言うな」
『俺の現在を守ると言ったのはお前だ』
「守っただろ」
『だから次は、壁へ突っ込まずにやれ』
「次は止まる」
『その言葉を記録しておけ』
「お前まで神代先生みたいになってきたな」
『不本意だ』
「九条と同じこと言ってる」
澄玲が解析卓から顔を上げた。
「私は、御厨先生に似ていると言われた時です」
「どっちも似たようなものだろ」
「違います」
「九条」
玄理が呼ぶ。
「後で、その違いを説明しろ」
「必要ありません」
張り詰めていた空気が、僅かに緩んだ。
それでも、演習路に残された白い痕跡は消えていない。
走行主体を統合しようとした、《第一公理階層》に属する局所公理。
今回の適用は止まった。
第四候補の現在も維持されている。
だが、玄理が開いた記録の末尾へ、新しい表示が追加された。
「まだ続きがある」
彼の声で、全員が表示を見る。
――《第一公理階層》局所公理適用。
――下位側から二度の拒絶を確認。
――単一《第一公理階層》内での再適用。
――効率不良。
「効率不良?」
獅堂が眉を寄せる。
「本人性の話を、処理効率で考えてるのか」
「公理側に感情的評価はない」
玄理が答える。
「問題は、その次だ」
文字が更新される。
――対象《第一公理階層》全体を、一公理項として再提出。
――上位照合へ移行。
――照合先。
表示が一度途切れた。
白い走路全体が僅かに暗くなる。
次の瞬間、これまで直接表示されたことのなかった構造名が現れた。
――《第二公理階層》。
「《第二公理階層》……」
澄玲が小さく読む。
「一件の《第一公理階層》の中で適用できないなら」
俺は起き上がろうとして、緋月に額を押し戻された。
「その《第一公理階層》全体を、一つの公理項として扱う上位階層へ持っていく?」
「その可能性が高い」
玄理は表示を閉じない。
「一つの《第二公理階層》には、相互に異なる《第一公理階層》が無限に並立し、それぞれの全体が、一つの公理項として扱われる」
「今まで相手にしていた世界前提そのものが」
灯が表示を見る。
「次は、一個の公理みたいに扱われるの?」
「ああ」
「そこには、五人を別々の人物として扱う《第一公理階層》もある?」
「存在する可能性は高い」
「なら、そっちを選べば」
「現在適用されている《第一公理階層》が、誤りになるわけではない」
玄理が答えた。
「相互に矛盾する《第一公理階層》が、同じ《第二公理階層》の内部で、それぞれ一つの公理項として成立する」
「どれを、今の下位世界へ適用するか」
澄玲が言う。
「次は、《第二公理階層》側で照合されるのですね」
「そういうことになる」
「久世の上司?」
灯が尋ねる。
「人物や組織とは限らない」
「でも、そこへ答えを出さないと終わらない?」
「少なくとも、《第一公理階層》の局所公理だけを相手にし続けても、処理は終わらない」
玄理の言葉へ、誰もすぐには答えなかった。
一〇〇メートル毎秒。
今日、初めて届いた速度。
それでも、久世の投影体にはまだ遠い。
経過時間〇の攻防へも介入できない。
《第一公理階層》へ身体ごと入域する最低存在条件さえ、満たしていない。
その先に。
もう、次の階層が現れている。
「遠いな」
俺が言う。
「百メートルより?」
灯が尋ねる。
「比べられないくらい」
「じゃあ、まず肩を治して」
「そこから?」
「そこから」
緋月も頷いた。
「次の測定では、一〇〇・〇メートル毎秒から自力で停止する」
「先に、もっと速く」
「停止だ」
「九五くらいまで落として」
「一〇〇からだ」
「厳しくなってないか」
「本日、その必要性が実証された」
「証明って言葉、今は嫌いになりそうだ」
「嫌うのは自由だ。治療と訓練には従え」
演習路の向こう。
引き抜いた行動主体照合板が、床へ落ちている。
俺は、そこへ辿り着いた。
止まることはできなかった。
一人では、何も完了させられなかった。
獅堂が床を作り。
朔夜が衝突への因果を切り。
澄玲が外すべき記録を特定し。
玄理が処理を解析し。
緋月が経過時間〇の上位処理へ対応し、最後には俺の身体を受け止めた。
灯の声がなければ。
今、走っているのが誰なのかさえ、見失っていたかもしれない。
それでも。
一〇〇・四メートル毎秒は、第四候補の過去ではない。
五人を一人へまとめた結果でもない。
今の俺が。
今の身体で。
今の意思によって到達した速度だった。
百メートル先にあったものは。
速さそのものではない。
誰の記憶にも。
誰の過去にも。
まだ折り畳まれていない。
俺自身の現在だった。




