第六十八話 五つの影を折り畳む手
三年前の黒瀬零から届いた通信は、声ではなく、俺自身の記憶として再生された。
『現在時刻、午前九時十二分』
聞いたことのない言葉ではない。
だが、耳から入った感覚がなかった。
誰かと会話した記憶でもない。
まるで自分が過去にそう考えた事実として、頭の内側へ最初から存在していた。
『暫定滞在区画で異常が発生している』
続く言葉も同じだった。
通信端末は鳴っていない。
共同学籍網にも、着信記録は表示されていない。
それなのに俺は、三年前の俺が何を伝えようとしたのかを知っている。
「御厨先生」
「確認している」
《未定義現象研究室》の解析卓で、玄理が五件の黒瀬零を示す記録を展開した。
現在の俺。
第四候補。
三年前の黒瀬零。
帝都理法大学の黒瀬零。
採択領域から離脱した黒瀬零。
五件全てに、独立した現在時刻が与えられている。
そのはずだった。
「三年前の黒瀬零さんだけ、現在時刻がありません」
灯が表示を見つめる。
ほかの四件には、それぞれ異なる場所で進行する現在時刻がある。
俺は午前九時十三分。
第四候補も、旧学生寮一〇六号室の現在時刻に従っている。
帝都理法大学の黒瀬零は、所属大学側の時計へ対応していた。
採択領域から離脱した黒瀬零には、旧気象観測所の外部観測時間が割り当てられている。
だが、三年前の黒瀬零だけは違った。
――記録時点、三年前。
――現在時刻、該当なし。
――対象分類、黒瀬零の過去状態。
「昨日までは、独立した現在人物として登録されていました」
澄玲が共同学籍網の履歴を確認する。
「登録そのものが削除されたわけではありません。現在人物としての記録が、現在の黒瀬零さんに属する過去履歴へ移されています」
「俺の過去じゃない」
俺は言った。
「三年前の俺ではある。でも、俺が経験した三年前と、あいつがその時点から別に生きてきた現在は同じじゃない」
「処理側は、そう判断していない」
玄理は、分類変更の発生源を追う。
「《公理標定室》で確認した局所公理が、別の経路から再び適用されている」
――同一起源は、一つの主体である。
昨日、俺たちが現在への適用を拒否した公理。
公理そのものを壊したわけではない。
五人の現在へ、正しい分類として使用できないことを示しただけだ。
「拒否したのに、また適用できるの?」
灯が尋ねる。
「止めたのは、一件の適用経路だ」
玄理が答えた。
「接続先の《第一公理階層》では、現在も正しい局所公理として成立している。下位側へ到達する別の経路が形成されれば、再び適用を試みられる」
「今度は、三年前の俺を、俺の過去として処理してる」
「ああ」
俺の頭の中へ、再び三年前の俺の言葉が現れた。
『右手が動かない』
通信ではない。
思い出したくもない出来事を、突然、自分の過去として思い出させられた感覚に近い。
『身体が麻痺しているわけじゃない』
『右手を動かそうとした現在が、記録されない』
表示の中で、三年前の黒瀬零の右腕が、現在人物の身体記録から少しずつ外されていく。
肉体が透明になったわけではない。
映像には映っている。
だが、彼が右手を上げようとするたび、その動作は「三年前に黒瀬零が行った未完了動作」として、俺の過去履歴へ保存されていた。
本人の現在には、何も起きていないことにされる。
「このままだと、どうなる」
「現在に、新しい行動を成立させられなくなる」
緋月が答えた。
「身体そのものが消えるとは限らない。だが、発言、移動、判断、負傷、治療。その全てが、現在の本人へ帰属しなくなる」
「生きてるのに、過去の記録になる?」
灯が尋ねる。
「外部からはな」
「本人の中では?」
「現在がある」
緋月の声は静かだった。
「だが、その現在を誰にも提出できない」
生きている。
考えている。
苦しんでいる。
それでも世界からは、既に終わった過去としてしか扱われない。
死亡とは違う。
消滅とも違う。
本人だけが、誰にも共有できない現在へ取り残される。
「暫定滞在区画へ行く」
俺は寝台から足を下ろした。
「黒瀬零」
緋月の声が低くなる。
「歩行許可は出てる」
「高速移動の許可は出していない」
「普通に走る」
「お前の普通を信用していない」
「なら、先生が運んでくれ」
「私は上位側の処理へ対応する」
緋月は研究室中央の時計を見る。
秒針は通常どおり動いていた。
その周囲に、細い黒線が十九本浮かんでいる。
一本目。
二本目。
三本目。
全てが、同じ秒と次の秒の間へ詰め込まれているわけではない。
黒線の一本一本は、局所公理の適用処理が経過時間〇で成立を試み、緋月が同じ経過時間〇の攻防で、その完了を阻止した痕跡だった。
上位側の処理に経過時間は必要ない。
緋月も無刻存在に属している。
局所公理の適用が《無刻行動》に相当する処理として成立しようとするたび、緋月はそれを認識し、自身の《無刻行動》によって対応できる。
その攻防中、通常時間側には次の瞬間が訪れない。
俺も。
玄理も。
灯も。
久世の投影体が既にこの場へ存在していたとしても。
通常時間へ依存する者は、誰一人として同じ攻防過程へ参加できない。
一連の無刻処理が終わり、緋月が通常時間の進行を許した後にだけ、時計の秒針は再び動く。
そのたび、処理履歴として黒線が一本残された。
「下位側では、三年前の黒瀬零を過去記録へ移す現象として現れている」
玄理が十九件の痕跡を解析する。
「だが、適用処理そのものは経過時間を必要としていない。神代が阻止しなければ、俺たちが異常を認識するより先に、分類変更が完了していた」
「神代先生は、上位側を止める?」
「ああ」
緋月が右手の手袋を締め直す。
「ただし、適用経路の下位側中継点が残っている限り、上からの処理だけを訂正しても再接続される」
「俺たちは中継点を探す」
「そうだ」
緋月は俺たちを見る。
「上位側の処理が経過時間〇で成立しようとするたび、通常時間側には次の瞬間が来なくなる。私が対応を終えれば、通常時間を進める」
「その間、俺たちには何もできない」
「できない」
「久世が通常時間側で動いていても?」
「あの投影体が無刻存在でない限り、同じだ。経過時間〇の処理中には動けない」
緋月は時計の周囲へ増えた二十本目の黒線を見る。
俺たちには、その線がいつ増えたのか分からなかった。
ただ、緋月の右手を覆う手袋に、先ほどまでなかった細い裂け目が生じている。
俺たちが一度も瞬きを終えないうちに。
上位側の適用と、緋月の訂正が一つ終わっていた。
「相手がいるのか」
「既に来ている」
研究室の白い壁へ、一つの人影が映った。
◇
最初は、廊下を歩く誰かの影だと思った。
だが、廊下側に人はいない。
影だけが壁の内部を進み、研究室の扉の前で止まった。
扉は開かなかった。
代わりに、壁面から一人の男が歩み出る。
二十代後半ほどに見えた。
白い長衣。
襟元には、帝都神律大学とも帝都理法大学とも異なる記章がある。
短く整えられた黒髪。
表情には敵意も緊張もなかった。
男は研究室へ入ると、最初に俺を見た。
次に灯。
玄理。
澄玲。
朔夜。
獅堂。
最後に、上位側の適用処理へ意識を向けている緋月を見る。
「六件」
男が言った。
「想定より多い」
「名前を答えろ」
朔夜が壁際から離れる。
「久世律真」
男は素直に答えた。
「現在の下位記録では、それが最も近い」
「所属は」
「お前たちの分類に従うなら、《第一公理階層》局所公理運用機関」
「役職を聞いている」
「役職は、こちらへ持ち込んでいない」
久世律真は、自分の両手を見る。
「この身体は、下位側の時間と物理条件に合わせて構成した投影体だ。現在のお前たちと、同じ通常時間の攻防過程に属している」
「わざわざ弱くなって来たのか」
獅堂が尋ねる。
「違う」
久世は獅堂を見る。
「下位側へ適用する公理を説明する者が、下位側から応答不能な状態で現れるべきではない」
「話し合いに来た?」
灯が尋ねる。
「可能なら」
「三年前のお兄ちゃんを過去にしておいて?」
「消してはいない」
「現在を奪ってる」
「重複を解消している」
久世の目には、嘲笑も悪意もなかった。
「五件の黒瀬零は、同一起源から成立した一人の人物だ。異なる経験、負傷、所属、関係を保持していても、起源が一つである以上、一つの主体へ帰属させられる」
「本人たちが拒否してる」
「拒否も保存する」
「何?」
「五件の記憶、判断、苦痛、選択を失わせるつもりはない」
久世は俺の前へ一枚の白い表示を開いた。
そこには、五人分の記録が重ねられている。
誰か一人の経験が削除されているわけではない。
第四候補の三年間。
失った学籍。
重傷を負った身体。
帝都理法大学で過ごした日々。
採択領域から離脱した黒瀬零の位置記録。
三年前の俺が、俺とは別に積み上げた現在。
その全てが保存されていた。
ただし。
氏名欄は一つ。
身体欄も一つ。
現在時刻も一つだった。
「一人へ統合した後も、全記憶を保持できる」
久世が言う。
「一人分の身体へ、五件の経験を矛盾なく収める。失われた学籍、身体機能、関係記録も、最も欠損の少ない形へ再構築できる」
「誰の身体に」
「現在の帝都神律大学正規学籍を持つ黒瀬零が最適だ」
俺の名前が中央へ表示される。
「つまり、俺以外の四人は」
「お前の記憶と人格要素として継続する」
「それを消すって言うんだよ」
「継続する」
「本人としてじゃない」
俺は寝台から立ち上がった。
緋月は止めなかった。
時計の周囲には、黒線がさらに増えている。
二十一本。
二十二本。
その一本が現れるたび、通常時間側には次の瞬間が訪れていない。
局所公理の適用処理が経過時間〇で成立しようとし、緋月が《無刻行動》によって訂正する。
その有限の攻防が終わると、再び通常時間が進む。
久世の投影体も、その間は一切動いていない。
本人には、停止したという記憶すら形成されない。
「現在の俺に、あいつらを入れるな」
「拒否理由を確認する」
久世は真剣に尋ねた。
「統合後も、記憶は残る。感情も、選択も、本人が本人であったという認識も保存される」
「思い出としてだろ」
「ああ」
「俺の中に残った思い出が、あいつ本人の現在になるのか」
久世は答えなかった。
「三年前の俺が今何を考えてるか、お前には分かるか」
「統合後に参照できる」
「統合後じゃ遅い」
俺の頭の中へ、三年前の俺の言葉が現れる。
『俺を助けるために』
『お前が俺になる必要はない』
また記憶として保存された。
本人の現在の発言としては、どこにも届かない。
「俺は今、あいつの言葉を聞いてない」
俺は久世を見る。
「自分の過去として思い出させられてる」
「伝達結果は成立している」
「誰が言ったかが消えてる」
「情報は失われていない」
「話した本人が失われてる」
久世は、初めて僅かに目を細めた。
「本人性を、情報の帰属以上のものとして扱うのか」
「当たり前だ」
「証明できるか」
「できなくても、勝手に一人へするな」
久世の右手が上がった。
攻撃姿勢には見えなかった。
それでも緋月が叫ぶ。
「伏せろ!」
白い床が弾けた。
◇
久世が踏み込んだ結果は見えた。
だが、身体が移動する途中を捉えられなかった。
警告表示が空中へ開く。
――下位投影体、身体速度。
――四一七・三メートル毎秒。
――マッハ一・二二。
超音速。
現在の俺が出せる速度を、遥かに上回っている。
久世の掌が俺の胸へ届く直前、獅堂が間へ入った。
「させるか!」
万象は我が礎。
床。
壁。
研究室の構造材。
獅堂が立つための全てが、一時的に彼の礎として接続される。
久世の掌と、獅堂の両腕が衝突した。
衝撃波が処置区画を走る。
固定されていない器具が吹き飛び、天井の検査灯が砕けた。
獅堂の靴底が、白い床を三メートル以上削る。
「重いな……!」
「身体出力を統合すれば」
久世は掌を押し込んだまま言う。
「お前たちは、現在より強くなれる」
「五人分を一人へ詰めてか?」
「一人分の身体限界を再定義する」
「そういう強さは」
獅堂の腕から亀裂音がする。
「本人に聞いてから使え!」
床が隆起し、久世の足元を持ち上げた。
久世の身体が僅かに浮く。
その瞬間、朔夜が黒い薄刃を振るった。
因果切断。
切断対象は、久世の身体ではない。
踏み込みによって生じた力が、獅堂の腕へ伝達される因果経路。
黒い線が二人の間を横切る。
圧力が消失し、獅堂が後方へ倒れた。
「完全には切れていない」
朔夜が言う。
「向こう側の処理と、こいつの身体が接続されている」
「正しい」
久世は朔夜を見る。
「この投影体を破壊しても、局所公理の適用は止まらない」
「なら、接続を切る」
「指定できるか」
久世の姿が消えた。
「天城先輩、右です!」
澄玲の声。
朔夜は振り返らず、右側へ薄刃を展開する。
久世の拳が黒い刃へ触れた。
今度は衝撃が起こらない。
拳が朔夜へ届くという因果だけが、空中で切断された。
だが。
久世の左手は、既に別の場所へ伸びていた。
俺の影。
床へ落ちた影の内部に、五人分の輪郭が重なっている。
「影を切れ!」
俺が叫ぶ。
朔夜が反応するより早く、久世の指が影へ触れた。
白い線が床を走る。
俺の頭の中へ、第四候補の痛みが流れ込んだ。
左脚。
骨折。
神経損傷。
固定具の圧迫。
俺自身の身体には存在しない負傷が、過去の記憶ではなく、現在の痛みとして重なる。
「何をした!」
「五件の身体記録を、一つの主体へ対応させた」
俺の左脚が崩れた。
第四候補の負傷を、俺が後から受け継いだのではない。
同一起源の一人が現在負っている傷だから、俺の傷でもある。
その公理が、下位側の身体へ適用されている。
「お兄ちゃん!」
灯が駆け寄ろうとする。
「来るな!」
床に重なった五つの影が、灯の足元まで伸びていた。
灯が触れれば、兄妹関係の記録まで代表主体の選定へ使われるかもしれない。
「九条!」
朔夜が呼ぶ。
「何を切ればいい」
「今、定義しています!」
澄玲の前へ、複数の問題表示が開いている。
久世を倒す。
投影体を破壊する。
局所公理の適用を止める。
三年前の黒瀬零を現在へ戻す。
五人の身体記録を分離する。
一見すると、同じ問題に見える。
だが、必要な解はそれぞれ異なっていた。
「久世さんの身体は、適用処理の本体ではありません」
澄玲が言う。
「ですが、無関係でもない。投影体は、上位側の局所公理を、下位側の身体記録へ翻訳する中継点になっています」
「中継点はどこだ」
「彼の身体ではなく」
澄玲は床を指した。
「五件の影が重なった中心です」
そこには俺の影がある。
だが、俺一人の輪郭ではない。
左脚を固定した第四候補。
異なる制服を着た帝都理法大学の黒瀬零。
旧気象観測所に立つ、採択領域から離脱した黒瀬零。
暫定滞在区画で現在を奪われつつある三年前の俺。
五人の輪郭が、一つへ折り畳まれていた。
「中心を壊せばいい?」
獅堂が立ち上がろうとする。
両腕が震えていた。
骨折には至っていないが、もう一度正面から受ければ耐えられない。
「壊すだけでは駄目です」
澄玲が答える。
「現在の対応関係を切らずに記録点を破壊すれば、五件が分離できないまま一件の記録として固定される可能性があります」
「順番は」
「最初に、三年前の黒瀬零さんを、現在の本人として保持します」
「次に、五件の身体記録を一件へ対応させている接続を切断します」
「最後に、中継点を破壊します」
「三段階か」
朔夜が黒い薄刃を構える。
「黒瀬零」
「分かってる」
俺は床へ片膝をついた。
第四候補の負傷記録が重なり、左脚に力が入らない。
右肩も、まだ完全には治っていない。
久世はそれを見下ろしている。
「統合すれば、その負傷も最適化できる」
「第四候補の傷を、俺が治ったことにするのか」
「五件の中で、最も良好な身体状態を採用する」
「その時、あいつが痛かったことは?」
「記憶として残る」
「またそれか」
俺は左手を床へ置いた。
白い線が、掌から腕へ入ろうとする。
三年前の黒瀬零。
対象分類。
黒瀬零の過去状態。
現在時刻、該当なし。
その結論を。
「保留する」
未証明。
白い線が揺らぐ。
――対象分類。
――確定保留。
――現在人物である可能性。
――棄却不能。
俺の頭の中から、記憶として再生されていた声が消えた。
一瞬の沈黙。
次に、研究室の通信端末が鳴った。
『聞こえるか』
今度は耳から聞こえた。
三年前の黒瀬零本人から届いた、現在の声。
「ああ」
『時間は』
「ある」
『俺の現在は』
「まだ消えてない」
『なら切れ』
「言われなくても」
保留時間は二・四秒。
その間に、最初の二段階を終わらせる。
「天城先輩!」
澄玲が、床を走る白線のうち一本を指した。
「その線です!」
朔夜の黒い薄刃が振り下ろされる。
五件の身体を、一人の身体として対応させる因果。
上位側の局所公理そのものではない。
公理が、現在の五人へ適用されるための接続。
「切断する」
黒線が白線を断った。
俺の左脚から、第四候補の痛みが消える。
通信表示では、三年前の黒瀬零の現在時刻が再び進み始めた。
最初の保留が切れる。
――対象分類。
――独立現在人物。
――暫定維持。
未証明による二・四秒の保留は役目を終えた。
だが、中継点そのものは残っている。
久世の表情が、初めて僅かに変わった。
「下位側だけで、適用経路を識別したか」
「止まっていません!」
澄玲が叫ぶ。
「中継点が、別の接続を再構成しています!」
床へ分かれかけていた影が、再び一つへ集まり始める。
「獅堂!」
「任せろ!」
獅堂が床を踏み抜こうとする。
腕ではない。
万象は我が礎によって、研究室の床全体を自分の足場として接続する。
破壊するのは建物ではない。
五件の影が一つへ重なるために使用している、床面上の記録点。
獅堂の踵が落ちる。
久世が動いた。
――下位投影体、身体速度。
――七〇二・四メートル毎秒。
――マッハ二・〇五。
見えない。
音が届くより先に、久世の身体は獅堂の正面へ到達していた。
獅堂は踵を落とす途中。
朔夜は薄刃を振り終えた直後。
澄玲の警告も間に合わない。
俺自身の身体速度では、久世の拳が獅堂へ届く前に何もできない。
だが。
拳が獅堂の胸部を破壊するという結論は、俺の能力が触れられる場所にある。
「その結論を」
久世の拳が獅堂の制服へ触れる。
「保留する!」
再び、未証明。
久世の拳が停止したわけではない。
身体は動いている。
衝撃も発生している。
だが、獅堂の胸部が破壊されたという結果だけが、二・四秒後へ押し出される。
獅堂の身体が破壊結果を受け入れる前に。
彼の踵が床へ到達した。
轟音。
白い床の一部が、記録点ごと陥没する。
五つの影が分離した。
久世の投影体へ、無数の白い亀裂が走る。
「接続中継点」
玄理が表示を見る。
「破壊を確認」
その瞬間。
通常時間側には、再び次の瞬間が訪れなくなった。
◇
研究室の全てが、直前の状態に留まっている。
獅堂の踵。
床から舞い上がった破片。
亀裂の走る久世の投影体。
俺の呼吸。
通常時間へ依存する全てが、一切変化しない。
久世の投影体も動いていなかった。
七〇二・四メートル毎秒という身体速度は、通常時間の距離を移動する数値でしかない。
経過時間〇の攻防へ参加する存在条件にはならない。
動いているのは、上位側の局所公理適用処理。
そして、無刻存在である緋月だけだった。
下位側の中継点が失われたことを受け、上位処理は別の経路を確立するより先に、五件の統合結果を直接固定しようとする。
――同一起源。
――一件の主体。
――五件の現在を、統合後記憶として確定。
緋月は、その処理を認識していた。
同じ経過時間〇で、《無刻行動》を成立させる。
万象校正。
――下位側中継点。
――破壊済み。
――現在五件への適用根拠。
――不成立。
訂正。
上位側は、別の局所経路から統合を成立させようとする。
緋月が訂正する。
一件。
三件。
八件。
通常時間側では一瞬も進まない。
それでも同じ経過時間〇の攻防では、適用と訂正が何度も競合していた。
下位側の中継点は、もう存在しない。
新しい接続を作るには、下位側の通常時間を経由しなければならない。
緋月は最後の適用処理を切断する。
――過去履歴への移管。
――解除。
――五件の身体記録。
――個別帰属を維持。
一連の無刻行動を終えた。
通常時間の進行を許す。
◇
床の破片が落下を再開した。
獅堂の身体が後方へ倒れる。
久世の投影体から白い欠片が剥がれた。
俺たちには、途中で何が起きたのか見えない。
ただ、時計の周囲にあった黒線が一斉に消え、緋月が俺たちの間へ立っていた。
右手の手袋は裂け、傷口から血が流れている。
「上位側の適用処理は切断した」
「神代先生が?」
「私一人ではない」
緋月は、崩れかけた久世の投影体を見る。
「下位側の中継点が残っていれば、上位処理を何度訂正しても再接続された」
「共同作業だったってこと?」
灯が尋ねる。
「ああ」
緋月は短く答えた。
上位側の経過時間〇の処理へ対応した緋月。
下位側で適用経路を識別した澄玲。
現在人物として三年前の俺を保持した俺。
五件の対応を切断した朔夜。
中継点を破壊した獅堂。
どれか一件だけでは、処理を止められなかった。
久世の身体から、白い破片が剥がれていく。
肉体が壊れているのではない。
この世界で人間として振る舞うための投影記録が、維持できなくなっていた。
「勝ったのか」
獅堂が胸を押さえながら尋ねる。
「本体ではない」
朔夜が答えた。
「適用経路を一つ潰しただけだ」
「正しい」
久世が言う。
声には痛みも怒りもなかった。
「今日の適用処理は失敗した」
「次もやるのか」
俺が尋ねる。
「局所公理が正しい限り、適用は再試行される」
「本人が拒否しても?」
「本人の拒否は、下位側の回答として保存する」
「でも、公理より優先しない」
「ああ」
久世は否定しなかった。
「お前は、自分が悪いことをしてると思ってないんだな」
「思っていない」
「五人を一人にしても?」
「一人を五つの不完全な現在へ分断した状態を、救済と呼ぶことはできない」
灯が久世を見る。
「あなたは、五人が苦しんでいるから一人に戻すの?」
「それも理由の一つだ」
「五人が、別々に生きたいって言っていても?」
「分裂によって生じた判断が、分裂状態の継続を望むことはある」
「本人の答えを、病気みたいに扱うんだ」
「訂正可能な矛盾として扱う」
灯は何かを言い返そうとして、一度口を閉じた。
「じゃあ」
それから、ゆっくりと言う。
「あなたが一人へ統合されたくないって言った時も、その答えは矛盾として直していいの?」
久世は沈黙した。
「あなたが誰かと同じ起源だったら」
灯は続ける。
「今のあなたを、その人の記憶にしていい?」
「私は、同一起源から分岐していない」
「だから分からないんだよ」
久世の身体から、最後の白い破片が落ちる。
「理解できないことは認める」
彼は灯へ答えた。
「だが、理解できないことと、公理が誤っていることは同じではない」
「公理が正しくても」
俺が言う。
「俺たちへ使っていいとは限らない」
「それを証明できる場所まで来い」
久世の輪郭が薄くなる。
「下位側で適用を拒み続けるだけでは、この処理は終わらない」
「《第一公理階層》へ来いってことか」
「お前たちが、自分たちの現在を局所公理より優先するというなら」
久世は俺を見る。
「その回答を、公理の成立している場所へ提出しろ」
「門の最低条件は」
俺は言った。
「無刻存在だ」
「ああ」
「だから、俺たちはまだ行けない」
久世の視線が緋月へ移る。
「一人を除いて」
緋月は何も答えなかった。
「だが」
久世は再び俺を見る。
「無刻存在へ至れば、私と同等になると思うな」
「分かってる」
「今のお前は、この下位投影体の拳にすら反応できなかった」
反論できなかった。
久世の投影体は《無刻行動》を行ったわけではない。
通常時間を使って移動している。
ただ、俺より遥かに速かった。
マッハ二・〇五。
第四候補が負傷前に記録した速度と、ほぼ同じ領域。
俺はまだ、音速にすら届いていない。
「存在格だけではない」
久世が言う。
「通常時間における認識速度」
「身体出力」
「攻撃へ耐える身体構造」
「公理を読み取る知識」
「下位世界を破壊せず、力を行使する制御」
「お前たちには、何も足りていない」
「だったら」
俺は立ち上がった。
左脚に第四候補の痛みはない。
自分自身の負傷だけが残っている。
「全部、身につけて行く」
「その時」
久世の輪郭が消えていく。
「五人のうち、何人が現在に残っているか」
声だけが白い壁へ残った。
「確認している」
投影体が消滅した。
◇
三年前の黒瀬零の現在時刻は復元された。
――対象分類、独立現在人物。
――現在時刻、午前九時二十九分。
――過去履歴への移管、解除。
――身体行動、本人へ帰属。
通信表示の向こうで、三年前の俺が右手を上げる。
今度は動いた。
その行動が、俺の過去記憶へ追加されることもない。
『見えるか』
「ああ」
『俺が動かした』
「分かってる」
『お前の右手じゃない』
「分かってるって」
『念のためだ』
「しつこいな」
『三年後のお前ほどじゃない』
「比較できるのか?」
『今の俺から見れば、お前は三年後だ』
「俺から見れば、お前は別人だ」
三年前の俺は、少しだけ黙った。
『それでいい』
通信が切れた。
獅堂は両腕の打撲と、胸部へ受けた衝撃によって治療区画へ送られた。
俺も右肩と左脚を検査される。
第四候補の負傷記録は完全に分離されていたが、一時的に現在の痛みとして重ねられたことで、神経へ負荷が残っているらしい。
「走れる?」
灯が尋ねる。
「普通には」
「お兄ちゃんの普通って、神代先生の許可が出るくらい?」
「それは普通じゃなくて、治療上の制限だ」
「同じです」
澄玲が言った。
「九条まで」
「先ほど、立ち上がっただけで右肩を庇っていました」
「見てたのか」
「観測しました」
「言い方が御厨先生に似てきたな」
「不本意です」
「九条」
玄理が呼ぶ。
「不本意とは、どういう意味だ」
「そのままの意味です」
朔夜が小さく息を吐いた。
「今はそこじゃない」
「天城先輩の言う通りです」
澄玲は解析結果へ向き直る。
「今回、私たちは局所公理の適用を止めました。ですが、久世律真は再試行されると言いました」
「本人による脅迫だけではない」
玄理が新しい表示を開く。
五件の黒瀬零。
全員の独立登録は維持されている。
だが、それぞれの記録へ白い印が一つずつ追加されていた。
――単一主体化。
――未完了。
――再照合対象。
「誰から狙われる?」
灯が尋ねる。
「順序は確定していない」
玄理が答えた。
「ただし、現在人物としての登録が不安定な者ほど、下位側で再分類しやすい」
表示が、一件だけ拡大される。
正規学籍、なし。
暫定証人登録。
身体損傷、多数。
本人記録、一部未帰属。
旧学生寮一〇六号室。
「第四候補」
俺が言う。
通信表示が開いた。
診療椅子へ座った第四候補は、既に自分の記録を見ていた。
『次は俺か』
「まだ決まってない」
『決まっていないだけだ』
「今度も止める」
『お前が?』
「俺たちが」
第四候補は画面の向こうで、少しだけ視線を下げた。
『今日のお前は、マッハ二の拳が見えなかった』
「知ってる」
『神代緋月がいなければ、上位側の処理も止められなかった』
「それも知ってる」
『なら』
「だから、速くなる」
俺は答えた。
「能力だけじゃない」
「通常時間でも、あいつの拳を認識できるところまで行く」
『見えても、身体が動かなければ意味がない』
「動かせるようにする」
『動けても、受ければ壊れる』
「壊れない身体にする」
『簡単に言うな』
「簡単だとは言ってない」
俺は、右肩を固定する帯を見る。
「今はまだ無理だ」
「でも、次も今と同じ状態で戦う気はない」
第四候補は、しばらく何も言わなかった。
『俺が消える前に間に合うか』
「消させない」
『答えになってない』
「分かってる」
保証はできない。
いつ再適用が始まるかも分からない。
音速へ届くまで、俺の身体がどれほど耐えられるかも。
俺が無刻存在へ至れるかさえ分からない。
それでも。
分からないことを理由に、今の俺たちを一人へ戻させる気はない。
「まず」
緋月が俺の肩を押さえ、寝台へ座らせた。
「治療を完了させる」
「その後は?」
「通常身体速度の測定を行う」
「訓練していいのか」
「許可した範囲でな」
「音速まで?」
「現在のお前が音速へ到達すれば、肩より先に全身が壊れる」
「じゃあ、壊れないように」
「段階を踏め」
緋月の声は厳しい。
だが、否定ではなかった。
「速度だけではない」
「反応」
「方向転換」
「制動」
「衝撃への耐性」
「周囲を巻き込まない制御」
「一つずつ確認する」
「どれくらいかかる」
「始める前から最終日を聞くな」
「目標は必要だろ」
「最初の目標ならある」
緋月は、久世の身体速度記録を閉じる。
代わりに、俺の直近の実測値を表示した。
――七一・二メートル毎秒。
その隣へ、新しい測定条件が示される。
――第一目標。
――一〇〇・〇メートル毎秒。
「音速じゃないのか」
「段階を踏めと言った」
「遠いな」
「現在のお前には、一〇〇メートル毎秒も遠い」
「そこまで言うか」
「事実だ」
灯が、五件の黒瀬零を示す表示を見る。
五つの現在。
まだ、どれも消えていない。
だが、白い印は残っている。
誰かが俺たちを、一人分の人生へ折り畳もうとしている。
その手は今日、初めて名前を持った。
久世律真。
俺たちより速く。
俺たちより上位の公理を知り。
五人を一人へ戻すことを、救済だと信じている男。
次に会う時も。
俺は、あいつの拳を見失うかもしれない。
それでも。
七一・二メートル毎秒の現在から。
最初の一歩を始めるしかない。
五つの影は、まだ別々に伸びている。
朝の光が同じ方向から差していても。
その先に立つ人間まで。
一人である必要はなかった。




