第六十七話 門は六つの帰路を待っている
《六件共同前提》の使用は、翌朝まで禁止された。
「もう身体記録に異常はない」
「使用禁止の理由は、身体記録だけではない」
「確認室も封鎖しただろ」
「封鎖した施設が、二度と外部構造へ接続しないという保証はない」
「調べなければ、保証できるようにもならない」
「だから調査は行う。黒瀬零を自由に歩かせるとは言っていない」
午前八時十九分。
俺は《未定義現象研究室》の移動式治療寝台へ座らされ、右肩を固定されたまま、玄理が開いた解析表示を見ていた。
寝台そのものは床へ固定されていない。だが、俺が立ち上がろうとすれば、緋月の端末へ即座に通知が届くよう設定されている。
「患者の意思は?」
「治療を妨害する自由ではない」
「昨日も聞いた」
「理解するまで答える」
「理解してる。納得してないだけだ」
「治療上、その二つを区別する必要はない」
緋月が俺の右肩へ検査膜を貼り直す。
すぐ隣では、灯が欠伸を噛み殺していた。昨夜は《第六候補》に関する夢を見たらしいが、内容については「覚えているけど、今は記録に使わない」としか答えなかった。
澄玲、朔夜、獅堂も研究室へ集まっている。
採択領域から離脱した黒瀬零は、旧気象観測所から戻らず、施設内部から通信を接続していた。第四候補は旧学生寮一〇六号室から、三年前の黒瀬零は大学構内の暫定滞在区画から参加している。
帝都理法大学の黒瀬零は、既に自分の大学へ戻っていた。
五人の黒瀬零が同じ場所へ集まったわけではない。それでも共同学籍網を介し、五件の現在記録が一つの解析表示へ並べられている。
「確認室と旧気象観測所の共通点が見つかったのですか」
澄玲が尋ねる。
「一つではない」
玄理は、二つの施設記録を重ねた。
旧気象観測所。
《非時刻環境・存在連続性確認室》。
建設年代も、表向きの用途も、管理部局も異なっている。
観測所は本来、大学北西区画の気象変動と法則災害の予兆を記録する施設だった。
確認室は、時刻や経過時間を与えられない環境で、被検者がどこまで自己連続性を保持できるかを調べるための施設だ。
一見したところ、共通点はない。
「だが、外部構造への接続方式が同じだ」
玄理が二つの記録から、通常は表示されない設計欄を開く。
――観測主体を単一化しない。
――各記録の帰属を相互に移転しない。
――代表回答を設定しない。
――外部参照によって個別の帰還先を失わせない。
「昨日、私たちが決めた条件と似ています」
澄玲が言った。
「似ているだけではない」
玄理は、《六件共同前提》の記録を隣へ並べた。
使用されている記号体系。
本人性を保全する処理順序。
代表主体を置かない場合の記録方式。
どの資料にも、同じ古い規格が使われている。
「《六件共同前提》は、確認室が昨日初めて作り出した方式ではない」
「前から存在していた?」
灯が尋ねる。
「名称を付けたのは昨日だ。だが、複数の本人を一件へ統合せず、それぞれの帰属を保ったまま外部参照へ接続する方式自体は、施設の設計段階から想定されていた」
「じゃあ、どうして最初は代表者を作ろうとしたんだ」
獅堂が尋ねる。
「古い方式が使用停止にされていたからだ」
玄理は設計記録の最下部を示す。
――非代表型外部参照。
――使用実績、消去済み。
――代替方式、単一観測主体型。
――変更実行者、記録なし。
「誰かが、六人を六人のまま接続する方式を使えなくしていた?」
灯の声から眠気が消える。
「その可能性が高い。ただし、変更した者は分かっていない」
『採択領域では、施設そのものが存在しなかった』
旧気象観測所から、採択領域を離脱した俺の声が返る。
『方式だけを止めるのでは足りず、施設ごと消した可能性もある』
「まだ決めるな」
俺が言う。
『お前に言われたくない』
「昨日、お前が言っただろ」
『だから同じ言葉を返した』
「面倒だな」
『自分へ言っているのか』
「二人とも黙れ」
緋月が通信音量を一段下げた。
「調査の続きだ」
玄理が表示を切り替える。
二施設の設計記録には、もう一つ共通する部分があった。
正規の建築図面には記載されていない、一本の参照線。
物理的な配線ではない。
地下通路でもない。
施設が存在する座標を、同じ観測基準へ対応させるための記録上の接続だった。
旧気象観測所から一本。
存在連続性確認室から一本。
二本の参照線を現在の大学構造へ重ねると、北西区画の地下で交差した。
「ここには何がある」
俺が尋ねる。
「現在の施設台帳では、何もない」
「採択領域では?」
『座標そのものが登録されていない』
採択領域を離脱した俺が答える。
『空白ですらない。施設が存在しないのではなく、何かを置く場所として参照された記録がない』
「現在の大学では、空間自体はあるのか」
「ある」
玄理が頷く。
「だが、用途、建設記録、管理者、立入経路の全てが欠落している」
「面白そうだな」
獅堂が立ち上がる。
「座れ」
緋月が言った。
「どうして俺まで」
「壁の強度を測る目をしている」
「まだ何も見てないぞ」
「見た後では遅い」
◇
大学北西区画の地下へ向かう正規通路は存在しなかった。
そこで、採択領域を離脱した黒瀬零が、旧気象観測所に残っていた参照線を追い、その終点を自分の次の存在位置として定める。
自証座標。
距離を移動したわけではない。
壁を通り抜けたわけでもない。
自分が次に存在する位置を、自分自身で定義した。
通信表示が暗転し、すぐに別の映像へ切り替わる。
『到達した』
「内部は?」
『何も見えない』
「照明を付けろ」
『照明設備がない』
「能力で位置を決められるのに、暗闇は見えないのか?」
『存在位置と視覚は別だ』
「便利なのか不便なのか分からないな」
『少なくとも、負傷したまま歩こうとするお前よりは便利だ』
「歩ける」
「歩かせない」
緋月が寝台の車輪を固定した。
「まだ何もしてない」
「左足が床へ向かっていた」
「置き場所を変えようとしただけだ」
「どこへ」
「床へ」
「拘束を追加する」
「それ好きだな」
「治療に必要だ」
玄理が、通信先へ簡易観測灯を転送する。
暗闇の中に白い光が広がった。
そこには壁も、床も、天井もある。
だが、建築物として施工された痕跡は一切なかった。
大学の地下に最初から存在していた空白へ、後から観測可能な境界だけを与えたような空間だった。
中央には白い枠がある。
形は扉に似ているが、扉板も取っ手もない。
枠の周囲には、六つの細い記録台が置かれていた。
「六つ」
灯が呟く。
「昨日の六人に合わせて作られたわけではない」
玄理が先に釘を刺す。
「建設時期は、少なくとも十五年以上前だ」
「じゃあ、どうして六つなの?」
「記録台の数が、常に六つだったとは限らない」
玄理が設計記録を読み取る。
「現在接続している六件へ合わせ、観測可能な形へ変換されている可能性がある」
『名前がある』
採択領域を離脱した黒瀬零が、白い枠の上部へ観測灯を向ける。
削られかけた文字が浮かび上がった。
――公理標定室。
「《公理標定室》」
澄玲が読む。
「何を標定する施設なのでしょうか」
「接続した公理構造が、どの《公理階層》へ属するかを識別する施設だと考えられる」
玄理は遠隔操作で六つの記録台を起動する。
しかし、全てが同時に拒絶表示へ変わった。
――帰還先、未登録。
――観測主体、未分離。
――代表主体を使用する接続。
――受理しない。
「ここは逆なのか」
俺が言う。
「確認室は途中から一人へまとめようとした。でも、この部屋は一人へまとめた状態を拒否してる」
「元の設計思想が残っているのだと思います」
澄玲が答えた。
「この施設を使用するには、複数の記録が同じ構造を観測するだけでなく、観測後もそれぞれ異なる本人として帰還できなければならないのでしょう」
「《六件共同前提》を使う?」
灯が尋ねる。
「使用は禁止したはずだ」
緋月が言う。
「確認室への再接続を禁止した」
玄理が訂正する。
「保存された条件を、別施設の照合に用いることまでは禁止していない」
「危険性を確認してからだ」
「今、確認している」
「御厨」
「無断では実行しない」
玄理は、昨日の確認室へ入った六件の記録を表示した。
獅堂剛毅。
天城朔夜。
九条澄玲。
採択領域から離脱した黒瀬零。
黒瀬灯。
現在の黒瀬零。
「全員へ改めて確認する」
玄理が言った。
「《六件共同前提》に保存された個別条件を、《公理標定室》の起動確認へ使用する」
「能力、身体能力、氏名、学籍、本人意思は共有されない」
「誰か一人を、残る五件の代表として扱わない」
「接続後に新しい回答を要求する処理が始まった場合は、即座に停止する」
「異常な観測、本人性への干渉、身体記録への接続が発生した場合、神代が強制切断する」
「一人でも同意しなければ、起動しない」
回答は一人ずつ行われた。
獅堂は「壁を壊さないことも条件に入れろと言われる前に同意する」と答え、緋月から「当然だ」と返された。
朔夜は、切断対象が明確になった場合に限り、因果切断を使用する権利を留保した。
澄玲は、観測結果を問題の解答として確定せず、未解決情報として扱うことを条件とした。
採択領域から離脱した黒瀬零は、外部座標によって現在位置を上書きされることを拒否した。
灯は、十九歳の自分に関する回答を現在へ転記しないことを求めた。
最後に、俺の前へ回答欄が開く。
「本人意思を、ほかの五人の同意として使用しない」
俺は答えた。
「それと」
『追加条件を要求』
「観測先に『黒瀬零は一人である』と記録されていても、それを現在の五人へ適用しない」
表示が一度停止した。
『本条件は』
『《六件共同前提》の参照範囲を超える』
「なら、五人にも聞け」
共同学籍網へ、別の回答欄が開いた。
現在の俺。
第四候補。
三年前の黒瀬零。
帝都理法大学の黒瀬零。
採択領域から離脱した黒瀬零。
同じ起源を持つ、五件の現在。
最初に答えたのは、帝都理法大学の黒瀬零だった。
『同一起源であることは、現在の回答が同一である根拠にならない』
三年前の俺が続く。
『過去として保存された記録を、現在の誰か一人の所有物にはしない』
第四候補は、固定された左脚へ目を落とした。
『俺が過ごした三年も、負傷も、失った学籍も、代表者へ返還するための記録ではない』
採択領域から離脱した黒瀬零が言う。
『俺の現在位置は、ほかの黒瀬零から派生した座標として扱わせない』
最後に、俺が答えた。
「同じ始まりを持っていても、今を一つにする理由にはならない」
『五件の個別回答を確認』
『同一起源記録の単一主体化』
『禁止』
六つの記録台へ、それぞれ別の光が灯った。
誰か一人の色へ統一されることはない。
六件の保持記録は交ざらず、五人の黒瀬零も一つの氏名記録へ戻されない。
『帰還先』
『六件を個別確認』
『代表主体』
『なし』
『《六件共同前提》』
『参照を許可』
白い枠の内側に、それまでの空白とは異なる白が現れた。
◇
それは、入口ではなかった。
少なくとも、身体を通すための入口ではない。
白い枠の向こうへ表示されたのは、場所ではなく、公理構造同士の参照関係だった。
無限の《観測階序》が、一つの公理項として扱われている。
その一項を無限に内包する、一つの《第一公理階層》。
さらに、相互に異なる《第一公理階層》が無限に並立し、それぞれの全体を一つの公理項として扱う《第二公理階層》。
その先にも、直前の《公理階層》全体を無限に並立させ、一つの公理項として内包する上位階層が終端なく続いている。
ただし、構造が物理的な上下として積み重なっているわけではない。
下位構造全体が、上位構造にとって何として扱われるか。
その関係だけが、俺たちに理解できる表示へ変換されている。
『接続記録を標定』
『対象』
『旧気象観測所・地下接続痕』
『非時刻環境・存在連続性確認室・外部参照痕』
二つの記録が照合される。
表示は何度も書き換わり、やがて一つの分類へ固定された。
『接続先』
『《第一公理階層》』
灯が息を呑む。
「《第一公理階層》……」
「個別階層の位置が、初めて分かった」
俺が言う。
「正確には」
玄理が表示を確認する。
「二施設の接続痕が、一つの《第一公理階層》に属する同一の局所公理群へ対応していると判明した」
「《第一公理階層》そのものが、私たちへ接続していたわけではないのですね」
澄玲が尋ねる。
「そうだ。一つの局所規程を、階層全体の意思として扱うな」
白い枠の中へ、さらに細かな記録が現れる。
――局所公理群。
――同一起源個体の識別規程。
――採用公理。
――同一起源は、一つの主体である。
誰も、すぐには言葉を返さなかった。
「これが」
灯が、五件の黒瀬零を示す表示を見る。
「お兄ちゃんたちを、一人に戻そうとしていた規則?」
「可能性は高い」
玄理が答えた。
「ただし、正式査問や共同学籍網で生じた全処理が、この一つの局所公理だけによって行われていたとは限らない」
「でも、少なくとも」
三年前の俺が通信越しに言う。
『五件を一件へ戻す処理は、この公理と一致している』
『同一起源記録を確認』
『該当主体数』
『一』
白い枠の表示が、五件の黒瀬零を一つへ重ねようとする。
氏名。
身体。
学籍。
負傷。
選択。
五件の異なる現在が、一枚の記録へ収束し始めた。
「切断する」
緋月が制御端末へ手を置く。
「待ってください」
澄玲が言った。
「まだ本人記録そのものは変更されていません。《公理標定室》が、接続先の分類方法を表示しているだけです」
「変更が始まれば即座に切る」
「ああ」
玄理も同意する。
「観測と適用を混同するな」
表示は続いた。
『代表主体候補を選定』
五件の中心へ、現在の俺の名前が置かれる。
「どうして俺だ」
『現在の帝都神律大学正規学籍』
『黒瀬灯との現在兄妹関係』
『下位側代表主体として』
『適合率、最高』
「適合してない」
灯が即座に答えた。
『関係当事者による異議を確認』
「私が今のお兄ちゃんを兄として選んでいることは」
灯は、五件を重ねようとする表示を睨む。
「ほかの四人が、お兄ちゃんじゃなかったことにはならない」
『黒瀬灯との関係記録は』
『単一主体の選定に使用可能』
「使用を許可してない」
『関係記録は客観情報である』
「私の関係を、私に聞かずに使わないで」
灯の声は震えていなかった。
「私が誰をどう呼ぶかは、代表者を決めるための順位じゃない」
表示が僅かに乱れる。
『黒瀬灯による関係回答』
『代表主体選定への転用』
『拒否』
次に、帝都理法大学の黒瀬零が答える。
『所属大学が違うことを、派生個体の根拠として扱うな』
三年前の俺が続く。
『記録された時点が古いからといって、現在の本人より下位になるわけではない』
第四候補が言う。
『俺の学籍が返還されていないことを、本人性の不足として使うな』
採択領域から離脱した黒瀬零が、白い枠の前へ立つ。
『失われた領域の出身であることは、現在の存在を仮記録にする理由にはならない』
最後に、俺は自分の名前の上へ重ねられた四件を見る。
「俺を代表にするな」
『現在主体としての優先登録を』
『拒否しますか』
「拒否する」
『黒瀬灯との現在関係を』
『ほかの四件へ分配しますか』
「分配しない」
俺と灯の間にある現在の兄妹関係は、ほかの四件へ均等に移せる情報ではない。
「灯との関係は、俺と灯のものだ」
「でも、それを理由に、ほかの四人を俺の過去や可能性へ戻すことも認めない」
『同一起源単一主体規程と』
『下位側回答が矛盾』
「そうだ」
俺は答えた。
「だから、その規則を今の俺たちへ適用するな」
五件の記録が白く発光した。
能力の発動ではない。
誰かが《第一公理階層》の局所公理を書き換えたわけでもなかった。
正式査問によって既に独立登録されている五件が、接続先の局所公理と一致しない現在を、そのまま提出している。
『局所公理』
『同一起源は、一つの主体である』
『下位側現在記録との整合』
『不成立』
「公理を壊したのか?」
獅堂が尋ねる。
「違う」
玄理が答えた。
「この《第一公理階層》に属する局所公理そのものは、接続先で現在も成立している」
「では、何が不成立になったのですか」
澄玲が尋ねる。
「その局所公理を、現在の五件へ正しい分類として適用できるという接続だ」
玄理は、分離した五件の記録を見る。
「俺たちは《第一公理階層》全体を否定したわけではない。一つの局所公理を破壊したわけでもない」
「下位側の現在に対し、その公理を正しい分類として使用できないことを、本人回答と独立登録によって示しただけだ」
白い枠の中央に、新しい表示が開く。
『《第六候補》成立条件』
『前提関係、第一』
灯が俺の寝台へ近づく。
『五件の黒瀬零が』
『一人の黒瀬零へ統合されていないこと』
『補足条件を展開』
昨日は表示されなかった続きが、ゆっくりと現れた。
――《第一公理階層》局所公理。
――同一起源単一主体規程。
――下位側現在への適用、不成立。
「これが」
澄玲が表示を読む。
「五件の独立が、《第六候補》の成立条件になる理由の一部なのですね」
「第六候補が五人から生まれるからではない」
俺が言う。
「一人に戻される世界では、第六候補へ繋がる前提が成立しないからだ」
『肯定』
機械的な文字が返った。
だが、それを《第六候補》本人の返事として扱う者はいなかった。
◇
公理標定が完了すると、白い枠の奥へ別の輪郭が現れた。
今度は、観測情報だけではない。
扉だった。
白い板。
黒い縁。
中央には取っ手の代わりに、六つの空欄が並んでいる。
『《第一公理階層》』
『局所観測境界』
『接続座標、安定』
『身体移送』
『条件不足』
「何が足りない」
獅堂が尋ねる。
表示はすぐに答えた。
『入域最低存在条件』
『行動成立に経過時間を必要としないこと』
『存在格分類』
――無刻存在。
研究室が静かになった。
「やっぱり」
俺は緋月を見る。
「神代先生なら入れる?」
「存在格だけを見れば、最低条件は満たしている」
「では、行くのですか」
澄玲が尋ねる。
「行かない」
緋月は即答した。
「どうして」
「帰還条件が不明だ」
白い扉には六つの空欄がある。
だが、そこへ表示されているのは、入域者六名という意味ではなかった。
――入域者。
――一件。
――下位側帰還先。
――六件。
「一人が入って」
灯が呟く。
「六人全員を、帰る場所として使う?」
「その解釈はまだ早い」
玄理が言った。
「帰還先が人物を意味するとも限らない」
「でも、一件だけで入ると」
灯は扉を見る。
「帰る時には、六件全部が必要になる」
「可能性はある」
緋月が《公理標定室》へ強制封鎖命令を送る。
『封鎖前確認』
『入域者回答』
『未提出』
「今は入らない」
緋月が答えた。
『現在回答を確認』
『未来入域の拒否としては記録しない』
扉は開かなかった。
閉じもしなかった。
ただ、向こう側にある《第一公理階層》の局所観測境界を示したまま、待機状態へ移行する。
「神代先生でも、すぐには行かないんだな」
俺が言う。
「当然だ」
「十九回入った人なのに」
「だからだ」
緋月の声は短かった。
「戻れない可能性を、救命と呼ぶ気はない」
その言葉に、誰も反論しなかった。
◇
《公理標定室》は再封鎖された。
採択領域から離脱した黒瀬零も、自分の存在位置を旧気象観測所前へ戻す。
帝都理法大学の黒瀬零との通信は切れ、三年前の俺は暫定滞在区画へ戻った。
第四候補も一〇六号室で治療を再開する。
五件はまた、別々の場所へ帰っていく。
それでも。
一つの《第一公理階層》へ属する局所公理が、初めて明確に識別された。
――同一起源は、一つの主体である。
その公理は、接続先では今も成立している。
俺たちが壊したわけではない。
ただ、今ここにいる五人を、一人へ戻すための正解としては使わせなかった。
《第六候補》は、五人の黒瀬零から分かれて生まれる六人目ではない。
だが。
五人が一人へ戻される世界では、その成立条件の一つが失われる。
そして。
《第一公理階層》へ身体ごと入域するためには、少なくとも無刻存在に属していなければならない。
任意に経過時間〇の無刻行動を成立させられるだけではなく、接続先で別の無刻存在が無刻行動を行った場合にも、その行動を同じ攻防過程として認識し、対応できる存在格。
今の俺たちは、そこへ至っていない。
扉を見つけただけだ。
観測しただけで。
その向こう側へ、存在として立てるようになったわけではない。
それでも。
昨日まで、どこへ繋がっているかさえ分からなかった門に。
初めて、帰還先が記された。
一人の名前ではない。
誰か一人を代表にもしない。
それぞれが、それぞれの現在へ戻るための六つの空欄。
門はまだ閉じている。
だが。
帰る名を重ねなかったからこそ。
初めて、その向こう側だけが。
俺たちの前へ、輪郭を現していた。




