第六十六話 六つの現在と一人の前提
《非時刻環境・存在連続性確認室》の封鎖は、最後まで完了しなかった。
黒い球の表面に現れた「まだ」という二文字を、誰の回答としても扱わない。灯がそう決め、神代緋月が封鎖処理を実行した直後、閉じかけていた白い扉が指一本分ほどの隙間を残して停止した。
「神代先生?」
「私が止めたわけではない」
緋月は灯を扉から離し、制御端末へ視線を落とした。
封鎖命令は受理されている。六人分の被検者記録も、既に全件終了していた。
それにもかかわらず、室内へ時刻、経過時間、行動前後の順序を設定しないという確認条件だけが解除されていない。
扉の隙間から空気や音が漏れているわけでもなかった。白い床や黒い球が見えているように感じるのも、室内の実景ではなく、外側で認識できる形へ変換された観測像にすぎない。
『存在連続性確認』
『被検者、六件』
『個別確認結果を保持』
『共同参照処理を開始』
「共同参照?」
獅堂が表示を見上げた。
「俺たちの結果を、一つにまとめる気か?」
「まだ分かりません」
澄玲は六人分の確認記録を並べた。
獅堂が保持した、氏名と身体境界。
朔夜が保持した、対象認識。
澄玲が保持した、問題定義。
採択領域から離脱した黒瀬零が保持した、自己存在位置。
灯が保持した、現在の回答と未来回答の分離。
そして俺が保持した、自分の意思が誰に属するかという帰属。
六人とも、黒い球へ触れることはできなかった。
経過時間〇で認識、判断、身体行動を成立させた者もいない。存在格が無刻存在へ変化した者もいなかった。
それでも、時刻も前後も設定されない室内で、完全には失われなかったものが一人ずつ異なっていた。
『保持記録を抽出』
――氏名および身体境界。
――対象認識。
――問題定義。
――自己存在位置。
――現在回答と未来回答の分離。
――本人意思の帰属。
『六件の存在連続性保持要素を確認』
「存在連続性保持要素?」
灯が表示を読む。
「正式な存在分類ではない」
玄理が確認室へ近づいた。
「確認室が、各被検者に残された自己認識を処理上区別するため、一時的に付けた名称だ。存在格を示すものでも、新しい能力を意味するものでもない」
「それを何に使うんだ」
俺が尋ねたが、表示は答えなかった。
六件の記録から白い線が一本ずつ伸び、黒い球の周囲へ集まっていく。
最初は、異なる情報を結びつけているだけに見えた。
だが、白い線は次第に輪郭を作り始める。
頭部。
胴体。
両腕。
両脚。
六人がそれぞれ保持した記録から、一人分の人型が組み上げられていた。
『共同存在記録を生成』
『単一観測主体を設定』
『氏名候補――』
「止めろ」
「止めて」
俺と灯の声が重なった。
白い人型の形成が止まる。
「六人の記録から、新しい一人を作ろうとしてるの?」
灯が表示へ問いかける。
『訂正』
『新規個体は生成しない』
『六件の保持記録を統合し』
『共同処理上の単一主体として使用する』
「それを一人にするって言うんだよ」
灯は、黒い球の前に浮かぶ人型を見つめた。
「名前を残した人と、問題を残した人と、自分の場所を残した人と、未来の答えを渡さなかった私を、一人だったことにしないで」
『個別記録のままでは』
『外部参照に必要な前提を満たさない』
「だから、一つの本人へまとめるのですか」
澄玲が一歩前へ出る。
「六件を個別に処理できないのは、観測する側の事情です。扱いやすくするために、六人が異なる本人であることを消してはいけません」
『共同処理には』
『単一の観測主体を要求』
「根拠となる規程を示せ」
玄理が命じた。
『確認室内蔵規程』
『第十九項』
『複数被検者の保持記録を』
『一件の観測主体へ集約可能』
「可能と記載されているだけだ」
玄理は表示を見上げる。
「必須とは書かれていない」
『過去の共同外部参照』
『全件で単一主体を使用』
「過去の実行例が全て同じ方式だったことは、別の方式を禁止する根拠にならない」
『代替方式の安全性』
『保証不能』
「保証できないなら、危険性を説明した上で本人へ選択を求めろ。処理側が無断で一人へまとめる理由にはならない」
確認室は沈黙した。
黒い球の周囲には、人型の輪郭だけが残っている。
朔夜が指先へ黒い薄刃を形成した。
「これを切れば止まるか」
「天城先輩、待ってください」
澄玲が呼び止める。
「単一主体を作る処理だけを切断できるとは限りません。六件の個別記録まで失われる可能性があります」
「なら、切る対象を分ける」
「現在の表示だけでは、両者の境界を指定できません」
朔夜は短く舌打ちし、因果切断の黒い薄刃を消した。
「面倒だな」
「同感です」
処置区画の壁へ、第四候補の投影通信が大きく開いた。
『何を止めている』
「六人分の確認記録から、処理上の代表者を作ろうとしてる」
俺が答えると、第四候補はすぐに白い人型へ視線を向けた。
『誰を代表にする』
「まだ氏名を付ける前だ」
『付けさせるな』
「そのつもりだ」
『なら、六人を六人のまま使わせろ』
「今、それを要求してる」
『要求だけでは弱い』
第四候補は診療椅子の肘掛けへ手を置く。
『六件のうち一件でも代表化を拒否すれば、単一主体に対する本人同意は成立しない。本人同意のない主体を、六件の意思を代行する本人として使用することはできない』
『共同処理用の仮想主体であり』
『現在の本人としては扱わない』
「呼び方を変えても同じだ」
第四候補が即答した。
『俺たちは、処理の都合で一人へ戻されることを拒否した。その結果を、仮想という言葉で繰り返すな』
白い人型が僅かに乱れる。
『第四候補』
『本共同処理の被検者ではない』
『異議権限を確認できない』
『異議付記を提出する』
第四候補の隣から、《第四学籍》の声がした。
投影表示の中で三枚の《異議付記欄》が開き、そのうち一枚が確認室の処理記録へ接続される。
『私は本共同処理の被検者ではない』
『ただし』
『先の正式査問において』
『独立した暫定証人として登録されている』
『既に独立登録された本人記録を』
『単一の観測主体へ再統合しようとしている事実を証言する』
『証言の受理を要求』
確認室は再び沈黙した。
「お前、いつの間にそんな使い方を覚えた」
第四候補が《第四学籍》を見る。
『お前たちから学んだ』
『言い方まで似せるな』
『拒否する』
『何をだ』
『似ているという結論を』
『面倒だな』
『お前に言われたくない』
灯が口元を押さえる。
『笑うな』
二人の声が重なった。
「今はそこじゃないだろ」
俺が言うと、停止していた表示が動き始めた。
『異議証言を受理』
『単一観測主体の生成』
『保留』
『被検者六件へ個別回答を要求』
◇
確認室は、一人ずつ回答を求めた。
『獅堂剛毅』
『保持した氏名および身体境界を』
『単一観測主体へ提供しますか』
「提供しない」
獅堂は迷わなかった。
「俺の名前も身体も、ほかの誰かを一人に見せるための部品じゃない。ただし、俺が獅堂剛毅として残ったという記録を、六人が同じ対象を見るために参照することは認める」
『条件付き参照を確認』
『代表氏名への転用』
『禁止』
『身体境界の他件への転記』
『禁止』
『共同参照のみ許可』
「それでいい」
次に、朔夜の前へ表示が開く。
『天城朔夜』
『保持した対象認識を』
『単一観測主体へ提供しますか』
「提供しない」
朔夜は短く答えた。
「俺が何を対象として認識したかは、俺自身の判断だ。ほかの者の判断として転記させない。ただし、誰か一人を代表へ定めず、六件で同じ対象を参照するためなら使用を認める」
『条件付き参照を確認』
『判断主体の置換』
『禁止』
『共同参照のみ許可』
澄玲にも同じ質問が示される。
『九条澄玲』
『保持した問題定義を』
『単一観測主体へ提供しますか』
「提供しません」
澄玲は表示へ向き直る。
「私が何を問題として認識したかは、私自身に属します。一つの共有主体が定義した問題として扱うことは認めません」
「ですが、六件が独立したまま、同じ未解決事項を確認するための参照には同意します」
『条件付き参照を確認』
『問題定義主体の置換』
『禁止』
『共同参照のみ許可』
採択領域から離脱した黒瀬零の前にも、表示が現れた。
『採択領域離脱個体・黒瀬零』
『保持した自己存在位置を』
『単一観測主体へ提供しますか』
「提供しない」
『理由を要求』
「俺がどこにいるかは、俺が決める。六人を一人に見せるための共通座標へ、自分を置く気はない」
「ただし、互いの位置を同一化せず、同じ接続先を観測するための参照には同意する」
『条件付き参照を確認』
『自己存在位置の統合』
『禁止』
『共同参照のみ許可』
五人目に、灯の前へ表示が開く。
『黒瀬灯』
『現在回答と未来回答の分離記録を』
『単一観測主体へ提供しますか』
「提供しない」
灯は一度、自分の手を見た。
「十九歳の私が何を選ばないのかは、今の私にも、ほかの誰にも決めさせない」
「でも、今の私が未来の回答を代わりに出さなかったことは、共同記録から確認していい」
『条件付き参照を確認』
『未来回答への転用』
『禁止』
『現在回答のみ共同参照を許可』
「それでいい」
最後に、俺の前へ表示が現れた。
『黒瀬零』
『保持した本人意思の帰属記録を』
『単一観測主体へ提供しますか』
「提供しない」
『理由を要求』
「同じ結果を選んだとしても、誰が決めたかまで同じになるわけじゃない」
「六人で同じ処理を使うために、俺の意思を代表者の意思へ変えるな」
『単一の意思決定主体を設定できない』
「設定しなくていい」
『意思決定主体が存在しなければ』
『共同処理を実行できない』
「六人全員へ聞け」
『全件の新規回答には』
『時刻および順序を必要とする』
「ここは室外だ。今なら時刻も順序もある」
『外部参照開始後』
『六件の回答同期を保証できない』
俺は、指一本分だけ残された扉の隙間を見る。
その向こうには、経過時間も前後関係も設定されていない。
接続先も同じ条件を持つなら、観測開始後に六人へ新しい判断を求めても、誰かが先に答え、別の誰かが後から答えるという関係自体を成立させられない可能性がある。
「なら」
澄玲が言った。
「接続前に、実行できる処理の範囲を限定しましょう」
「どうする」
「接続後には、新しい意思決定を行わせません」
澄玲は六件の回答を一つずつ指す。
「今ここで、それぞれが提出した許可範囲だけを、変更不能な条件として使用します」
「六人の意思を一つへ統合するのではなく」
玄理が続ける。
「六件の条件全てを、互いに代行できない独立した前提として固定するということだな」
「はい」
澄玲が頷く。
「六件のうち一つでも条件を満たせなくなれば、共同処理を停止します」
「誰か一人が、全員の代わりに決めることはない?」
灯が確認する。
「ありません。全員の回答が同じになるまで待つのでもありません」
澄玲は答えた。
「六件は、異なる回答のままです。ただ、その全てに反する処理を許可しないのです」
「面倒じゃないか?」
獅堂が尋ねる。
「本人を一人へまとめないために必要な面倒です」
「なら仕方ない」
六件の回答から、共同処理の条件が作られる。
――代表個体を生成しない。
――氏名および身体境界を共有主体へ転用しない。
――対象認識の判断主体を置換しない。
――問題定義を単一の解答者へ集約しない。
――自己存在位置を統一しない。
――未来回答を現在から代行しない。
――本人意思を代表意思へ置換しない。
『共同参照方式を再計算』
『単一主体』
『不使用』
『六件の独立記録を』
『相互非代行条件の下で参照』
『暫定処理名を要求』
「名称まで必要なのか」
俺が言う。
「既存の単一主体方式と区別するために必要だ」
玄理は六件の条件を見る。
「《六件共同前提》」
「そのままだな」
「誤解が少ない」
「格好よくはない」
獅堂が言う。
「制度名へ格好よさを求めるな」
緋月が切り捨てた。
『暫定処理名』
『《六件共同前提》』
『代表主体』
『なし』
『各件の独立性』
『保持』
『能力・身体出力・氏名・学籍』
『相互移転なし』
『本人意思』
『相互代行なし』
『本処理による存在格の変化』
『なし』
「最後の一行は重要だな」
俺は表示を見る。
「これで俺たちが無刻存在へ至るわけじゃない」
「当然だ」
緋月が答える。
「これは、六件の記録を本人性の混同なしに参照する方式にすぎない。お前たち自身が、経過時間を必要としない存在になったわけではない」
「接続先で、あの《前提執行体》のような相手に襲われたら?」
「今のお前たちは、相手が経過時間〇で成立させる認識、判断、行動を、同じ攻防過程として扱えない」
「《六件共同前提》があっても?」
「情報を受け取る際に本人性が混同されにくくなっただけだ。認識能力、身体出力、防御力、存在格は何一つ変化していない。相手の無刻行動へ対応することもできない」
崩れずに見るための窓は作れても。
窓の向こう側で行われる攻防へ、自分の身体を参加させられるようになるわけではない。
それでも。
何も知らずに待つより、確認できるものは増える。
『《六件共同前提》』
『形成を開始』
黒い球を囲んでいた白い人型が崩れた。
一人の頭部として集められていた記録が、獅堂の氏名、朔夜の対象認識、澄玲の問題定義へ戻る。
胴体も、手足も失われた。
一人の形を作ろうとしていた六件の記録が、互いを代用しない六つの記録へ分かれていく。
六件の間に代表者はいない。
中心となる本人もいない。
どの一件も、残る五件を内部へ所有してはいない。
ただ、全ての記録が欠けることなく参照され、どの一件も別人の本人性へ置換されない。
その関係だけが、黒い球の周囲へ記録された。
球体の表面に残っていた「まだ」という二文字が、再び浮かび上がる。
『未完了記録を再解析』
『欠落部分を一部復元』
――まだ。
その下へ、新しい文字が現れた。
――一人にしないでくれ。
灯が息を呑む。
「第六候補の言葉?」
「断定するな」
緋月がすぐに制止した。
「音声署名も、本人識別情報もない」
「でも」
「自分たちの判断と一致する文章が現れたことは、その文章を書いた者の本人性を証明しない」
灯はすぐには頷かなかった。
それでも文字へ駆け寄らず、緋月の手を振り払うこともなく、離れた場所から見つめ続ける。
「今は、誰が残した文章か分からない」
「ああ」
俺が答えた。
「ただ、単一主体の生成を止めて、《六件共同前提》を成立させた後に文章が補われた。それだけは事実として残せる」
澄玲が記録形式を設定する。
「発生条件と、文章の作成主体を分離して保存します」
『文章作成主体』
『照合不能』
『発生条件』
『単一観測主体生成の保留』
『《六件共同前提》の成立』
「その記録でいい」
灯が答えた。
◇
六件の保持記録から、細い白い表示が扉の隙間へ伸びていく。
黒い球は動いていない。
白い円までの十センチメートルも、誰にも越えられていなかった。
代わりに、球体を置くために用意されていた白い円の定義が変化し始める。
「円が動いてる?」
獅堂が言う。
「違う」
採択領域から離脱した黒瀬零が答えた。
「円の座標は変わっていない。あの場所へ、別の構造を参照するための対応関係が追加されている」
白い円の内部から、床としての性質が薄れていく。
穴が開いたわけではない。
距離の先に、別の場所が現れたわけでもない。
白い円として定義されていた一領域が、下位側からは直接扱えない構造を、観測可能な情報へ変換する窓として再定義されている。
その内側に、無数の白い記号が現れた。
一つの記号の内部に、無限の《観測階序》が含まれている。
その全体が、別の記号にとっては一つの公理項として扱われる。
その公理項を無限に内包する個別の《公理階層》。
さらに、その《公理階層》全体を一つの公理項として扱う上位階層。
同じ関係が、終端なく更新されていた。
もちろん、接続先が実際に白い記号の集合として存在しているわけではない。
俺たちの認識が構造規模に耐えられなくならないよう、下位側で理解できる表示へ変換されているだけだ。
「《公理階層》」
灯が小さく言った。
『接続先分類』
『《公理階層》』
『個別階層番号』
『照合不能』
『所属《公理層序》』
『照合不能』
『本接続』
『観測参照に限定』
『身体移送』
『実行しない』
『現地における行動』
『実行不能』
「《六件共同前提》によって」
澄玲が表示を読む。
「私たちの身体を送らず、それぞれの本人性を維持した観測情報だけを、接続できるようになったのですね」
「そう見える」
玄理が答えた。
「ただし、窓に表示されているものを、その構造の実際の姿だと考えるな。規模も関係も見え方も、下位側の認識へ変換されている」
「向こうから、こちらは見えるのか」
朔夜が尋ねる。
『双方向観測』
『未確認』
「既に観測されている可能性もある」
緋月は灯を自分の後ろへ下げる。
「接続を維持するのか」
「すぐに閉じたら、何が接続したのかも確認できない」
俺は白い円を見る。
「身体は送らない。新しい回答も提出しない。《六件共同前提》で許可した範囲から外れる処理が始まったら、切断する」
「誰が判断する」
「六人全員」
「接続後に六件の新規回答を同期できる保証はない」
「だから、新しい判断はしない」
俺は六件の表示を見た。
「今ここで決めた範囲だけを見る」
緋月は、俺たち一人ずつの顔を確認する。
「観測だけを許可する。本人性、意識、身体記録への外部干渉を確認した場合は、個別回答を待たずに私が切断する」
「それは、勝手に決めることにならない?」
灯が尋ねる。
「緊急時には本人性の保全を優先することを、今説明している」
「嫌なら断れる?」
「ああ」
灯は少し考えた。
「私は許可する」
残る五人も、それぞれ個別に同意した。
誰か一人の回答が、全員の回答として使用されることはなかった。
『緊急切断条件』
『六件の個別同意を確認』
観測窓に表示される情報が僅かに増える。
無限の《観測階序》を一項として扱う、階位を特定できない一つの《公理階層》。
その内部に、一か所だけ黒い記録が存在していた。
「第六候補の接続記録と同じ色」
灯が言う。
第六署名欄へ現れた黒い点。
旧気象観測所で確認された黒い接続記録。
それらと同じ性質を示す線が、一つの《公理階層》に属する記録規程へ接続している。
『《第六候補》接続記録』
『関連記録を検出』
『五件の黒瀬零との直接起源関係』
『なし』
『成立条件上の前提関係』
『一件を確認』
「起源じゃない」
俺は表示を見る。
「でも、成立するための条件には関係してる?」
『肯定』
「どんな条件だ」
『情報展開には』
『下位側本人性の保全を要求』
「今、保全してる」
獅堂が六件の表示を見る。
『確認』
『《六件共同前提》』
『必要条件を満たす』
黒い記録の一部が、下位側で読める文章へ変換される。
公理記号。
氏名欄。
五件の個体記録。
未成立の第六欄。
互いに異なる情報が、誰か一人の履歴へ統合されることなく対応づけられていく。
やがて、一つの文章が現れた。
――《第六候補》成立条件。
――前提関係、第一。
灯の手が、俺の袖を掴む。
表示は続いた。
――五件の黒瀬零が。
――一人の黒瀬零へ統合されていないこと。
誰も、すぐには口を開かなかった。
「第六候補は」
灯がゆっくり言う。
「五人のお兄ちゃんから作られる、六人目じゃない」
「ああ」
「でも」
灯は五件の独立記録を見る。
「五人が五人のまま認められたことを、成立条件の一つにしてる」
「直接の起源関係ではありません」
澄玲が記録を確認する。
「ですが、五件の独立登録が成立しなければ、《第六候補》に関する前提も一つ満たされなかったようです」
「なぜだ」
朔夜が尋ねる。
『回答情報』
『現在未開示』
「ほかの成立条件は?」
『現在の下位接続では』
『照合不能』
「黒瀬灯が選ばなかった未来は?」
俺が尋ねる。
『前提関係を確認』
『詳細展開』
『禁止』
「誰が禁止してる」
『接続先規程』
「理由は」
『未来本人の回答を』
『現在から代行する危険を確認』
灯が表示を見つめる。
「向こうの規程も、その部分は勝手に見せない?」
「少なくとも、現在接続している処理はそう判断している」
玄理が答えた。
「ただし、規程による保全処理と、《第六候補》本人の意思を同一視するな」
「うん」
灯は頷いた。
観測窓に新しい表示が現れる。
――成立条件上の前提関係。
――第二。
だが、内容は最後まで展開されなかった。
代わりに、接続先から観測が返ってくる。
目が現れたわけではない。
顔も。
人影もない。
それでも、六件の保持記録全てに、同じ外部参照が一度だけ触れた。
『外部観測を確認』
「閉じろ」
緋月が制御端末へ手を伸ばす。
その直前、黒い記録の上へ一つの文章が走った。
――六人を、一人にしなかったこと。
――ありがとう。
「待って!」
灯が声を上げる。
だが、緋月は接続を切断した。
白い円から、外部参照の性質が消える。
《公理階層》の変換表示も。
黒い記録も。
最後の文章も見えなくなった。
残ったのは、白い床と、黒い球と、その十センチメートル先にある白い円だけだった。
「今のは」
灯が緋月を見る。
「第六候補だったかもしれない」
「かもしれないだけだ」
「でも、返事を」
「返事をしなければならないという回答を、お前は提出していない」
緋月は灯の瞳孔と身体記録を確認する。
「外部からの観測が発生した。主体も、目的も、干渉可能な範囲も分からない。接続を維持する理由にはならない」
灯は何かを言おうとして、やめた。
「……うん」
納得したわけではない。
それでも、望んだ言葉が現れたという理由だけで、正体の分からない相手へ自分を預けない。
それは灯自身が、これまで選び直してきたことだった。
「記録は残った?」
「残っています」
澄玲が保存結果を表示する。
「最後の文章も、外部観測が発生した事実も保存されています。ただし、文章の作成主体は照合不能です」
「第六候補の言葉としては扱わない?」
「はい」
「でも、消さない?」
「消しません」
灯は、ようやく小さく息を吐いた。
◇
《六件共同前提》は、使用停止状態で保存された。
能力が共有されたわけではない。
身体能力も。
氏名も。
学籍も。
本人意思も。
相互に移されたものはない。
存在格も、何一つ変化していなかった。
俺たちは依然として、無刻存在に属する者が経過時間〇で成立させる無刻行動を、同じ攻防過程として認識することも、それに対応して自分の判断や身体行動を成立させることもできない。
《公理階層》を観測したからといって、そこへ存在として到達したわけでもなかった。
午前中に初めて知らされた《証明位相》、《証明秩》、《証明圏》は、さらにその先にある。
今回の観測窓は、それらへ触れてすらいない。
それでも。
六人を一人へ統合せず。
六件それぞれの本人性を維持したまま。
階位を特定できない《公理階層》に属する記録を、一度だけ観測できた。
「次も同じ方法で開ける?」
獅堂が尋ねる。
「保証されない」
玄理が答えた。
「今回の接続は、確認室に残っていた外部参照機能、《第六候補》に関係する記録、そして《六件共同前提》の三つが重なって成立した」
「確認室は、最初から上位構造を見るための施設だったのか」
「可能性は高い。だが、建設目的の全記録は残っていない」
「隠されてる?」
「失われたのか、意図的に削除されたのかも不明だ」
採択領域から離脱した黒瀬零が、黒い球を見る。
「この確認室は、俺のいた領域には存在しなかった」
「旧気象観測所と同じ?」
灯が尋ねる。
「ああ。正確には、存在していた記録そのものがない」
「採択された世界では」
俺は二つの施設を思い浮かべる。
「第六候補へ繋がる可能性のある場所から、消されていた?」
「まだ決めるな」
採択領域から離脱した男が答えた。
「一致した事例は二つだけだ」
「でも、調べる理由にはなる」
「それは否定しない」
玄理が二つの施設名を並べる。
――旧気象観測所。
――非時刻環境・存在連続性確認室。
「共通点を調べる」
「誰が建設したのか」
「どの《公理階層》に属する規程へ接続していたのか」
「なぜ採択領域では、両施設の存在記録が失われていたのか」
玄理は、《第六候補》成立条件の第一項を開いた。
「そして、五件の黒瀬零が独立した本人として承認されることが、なぜ現在成立していない一人の前提になるのか」
黒い球には、もう文字は残っていなかった。
表面に刻まれていた白い傷も消えている。
それでも、保存記録には二つの文章が残された。
――まだ、一人にしないでくれ。
――六人を、一人にしなかったこと。ありがとう。
二つが同じ主体による言葉なのか。
《第六候補》本人から届いたのか。
それとも。
俺たちが望む言葉を使い、別の何かが接続を続けさせようとしたのか。
何一つ確定していない。
ただ一つ、記録として確かめられたことがある。
《第六候補》は、五人の黒瀬零から分かれた六人目ではない。
だが、五人が一人へ戻されなかった世界でなければ。
その成立条件の最初の一つさえ、満たされなかった。
俺たちが別々に生きることは。
もう、俺たちだけの問題ではない。
それでも。
誰かの成立に必要だからという理由で、再び一人へ戻る必要もなかった。
六つの現在は。
同じものを見るために並んでも。
一つの名前へ、還らなかった。




