第六十五話 時のない白に、それでも現在は消えない
《零秒棟事故》の記録を見た日の午後。
右肩に施されていた第一段階の治療が完了し、短時間の歩行と検査に支障がないと判断されたことで、神代緋月は《非時刻環境・存在連続性確認室》の使用を許可した。
予定より、三時間遅れての開始だった。
「三時間も待たせる必要あったか?」
「治療を三時間延長した」
「どうして」
「黒瀬零が、固定帯を外そうとしたためだ」
「外してない。留め具の構造を確認しただけだ」
「左手で解除箇所を四度押している」
「構造確認だ」
「五度目は拘束を追加すると伝えた」
「だから四度で止めた」
「反省の根拠として成立しない」
午後四時八分。
《未定義現象研究室》の奥にある確認区画には、俺と灯のほか、御厨玄理、神代緋月、天城朔夜、九条澄玲、獅堂剛毅が集まっていた。
採択領域から離脱した黒瀬零も、旧気象観測所の調査を一時中断して戻っている。
第四候補は、旧学生寮一〇六号室から投影通信で接続していた。診療椅子へ座り、左脚を固定したまま、いかにも自分も現地にいるような顔でこちらを見ている。
午前中に玄理から初めて示された、《証明位相》《証明秩》、そして《証明圏》。
《公理階梯》全体さえ一つの前提として扱い、その上で異なる論理、観測者、証明者、真理値から無限に分岐する証明構造。
あの表示は既に閉じられていたが、理解できたとは言い難い。俺たちは《公理階層》へすら到達していない。それどころか、その内部で交わされる攻防へ自分の一手を差し込むための存在格にも至っていない。
上に何があるのかを知ることと。
そこへ立てることは、まるで別の話だった。
『通信では、存在連続性を正確に確認できないのか』
「できない」
緋月が答えた。
『意識だけを室内へ投影すればいい』
「許可しない」
『身体は動かさない』
「身体感覚と投影記録が分離する。現在のお前には危険だ」
『危険かどうかは、実行してから判断すればいい』
「実行前に判断するため、私がいる」
『本人の意思は』
「事故を起こす自由ではない」
第四候補は不満そうに口を閉じた。
その隣には《第四学籍》がいる。三枚の《異議付記欄》を抱え、第四候補の右手が診療椅子の車輪へ伸びないかを確認していた。
『右手を動かした場合は記録する』
『お前は俺の監視役か』
『証人だ』
『違いが分からない』
『必要になった時に説明する』
『今説明しろ』
緋月が通信音量を下げた。
「放っておけ」
「いいのか?」
「身体を動かせば、こちらへ警告が来る」
「本当に監視してるじゃないか」
「救護記録だ」
確認室の扉は、既に開いていた。
内部にあるのは白い床と壁、中央へ置かれた直径三センチメートルほどの黒い球体。そして、球体から十センチメートル離れた場所へ描かれた白い円だけだった。
通常の部屋として見るなら、何も難しいことはない。
球を拾い、右へ動かし、白い円の上へ置く。
片手が使えなくてもできる。
子供でもできる。
だが、扉の上に表示された確認条件は、その単純な行為から必要な前提を一つずつ奪っていた。
――室内時刻、設定しない。
――経過時間、設定しない。
――行為前後の時系列、設定しない。
――外部時間との対応、設定しない。
――命題、使用禁止。
――外部からの能力付与、禁止。
――結果先行処理、記録対象外。
――時刻操作耐性、存在格判定に使用しない。
「最後の二つは、どういう意味だ」
獅堂が表示を読む。
「結果だけを球の移動後へ書き換えても、本人の存在格を判定する材料にはならないという意味だ」
玄理が答えた。
「時間停止の内部で動く能力や、行為の結果を先に確定する能力も同じだ。それらによって球を移動できたとしても、本人の存在が時間という前提から離れたことにはならない」
「部屋を壊して、球ごと白い円へ落としたら?」
「施設損壊として記録する」
緋月が即答した。
「球は動いたことになるだろ」
「確認目的を理解していない者として、以後の使用を禁止する」
「冗談だ」
「目が壁の強度を測っている」
「癖だ」
「直せ」
澄玲が扉の横へ表示された手順を確認する。
「一人ずつ入るのですね」
「ああ。室内で自己連続性の低下が確認された場合、境界側が被検者を自動的に外へ排出する」
「排出処理には、時間的な前後が必要ありませんか」
「室外側の処理として実行する。室内の被検者が、自分から戻る必要はない」
「本人には、どの程度の時間が経過したように感じられるのでしょうか」
「経過時間が設定されない以上、その質問には数値で答えられない」
緋月は、室内中央の黒い球を見る。
「何も認識できない者もいる。入った記憶すら形成できない者もいる。自分の名前だけを保持する者もいれば、目的だけを保持する者もいる。重要なのは、長く耐えたかではない」
「何を残せたか?」
俺が尋ねる。
「そうだ。時間という並びを失った時、それでも現在の自分に属しているものが何かを確認する」
これは、無刻行動に分類される存在格へ至るための訓練ではない。
ここへ入った回数によって、時間を必要としない存在へ近づけるわけでもない。
今の自分が、どこまで時間へ依存しているか。
時間を奪われた時に、何が崩れ、何が残るのか。
その結果から目を逸らさないための確認だった。
◇
最初に入ったのは、獅堂だった。
「俺から行く」
「理由は?」
緋月が尋ねる。
「最初に行けば、ほかの奴の失敗を見て怖くならずに済む」
「恐怖を感じていないわけではないのですね」
澄玲が言う。
「感じてるから先に行くんだ」
「合理的です」
「褒めてる?」
「はい」
獅堂は一度だけ深く息を吸うと、床を踏みしめた。
万象は我が礎は使用しない。それでも、足裏で自分の立つ場所を確かめる動作は、本人の身体に染みついているらしい。
「獅堂剛毅」
緋月が呼ぶ。
「何だ」
「確認目的を答えろ」
「黒い球を、自分の手で十センチメートル動かす。それと、時間がなくても俺が俺だって分かるかを確かめる」
「入室を許可する」
獅堂が境界線を越えた。
次の瞬間。
彼は、俺たちの隣へ戻っていた。
倒れてはいない。
姿勢も変わっていない。
だが、獅堂はしばらく正面を見たまま動かなかった。
「終わったのか?」
俺が尋ねる。
「……まだ入ってないだろ」
獅堂は、開いた扉を見る。
「俺は、今から入るところだ」
扉上部の記録が開いた。
――被検者、獅堂剛毅。
――氏名認識、保持。
――身体境界認識、保持。
――入室目的、消失。
――位置認識、消失。
――自発的身体行為、成立せず。
――球体接触、なし。
――存在連続性、部分保持。
「入った記憶がないのか」
俺が尋ねる。
「ない。扉の前に立って、次に入ろうとしてた。それだけだ」
「お前の内部では、入室前と退室後を分ける時系列が形成されなかった」
玄理が記録を見る。
「だから、入室したという出来事を過去として記憶へ保存できていない」
「でも、名前は残った」
灯が言う。
「ああ」
獅堂は自分の両手を見る。
「俺が獅堂剛毅だってことは分かる。身体も俺のものだ。でも、何をしようとしてたかが抜けてる」
緋月は、獅堂の瞳孔と脈拍を確認する。
「今日は再入室させない」
「一度だけか」
「回数を重ねる確認ではない」
「分かってる」
獅堂はそう答えながらも、扉から目を離さなかった。
◇
次は朔夜だった。
彼は入室前に、自分の指先へ細い黒線を作りかけたが、すぐに消した。
因果切断を使用しないための確認だったのだろう。
「黒線を残したまま入れば、外から因果を固定できたかもしれない」
俺が言う。
「だから消した」
朔夜は短く答える。
「能力を持ち込んで動けても、私が動けたことにはならない」
朔夜が境界線を越える。
次の瞬間には、同じ位置へ戻されていた。
ただし、彼は戻った直後から扉の内側を睨んでいた。
「何か見えたか」
「球は見えた」
「動かせた?」
「手を伸ばすという行為を、始められなかった」
記録が表示される。
――被検者、天城朔夜。
――氏名認識、保持。
――入室目的、保持。
――対象認識、保持。
――因果前後の識別、成立せず。
――自発的身体行為、成立せず。
――球体接触、なし。
「球を動かす理由も、動かした後の状態も理解できた」
朔夜が言う。
「だが、手を伸ばす前と、伸ばした後を分けられなかった。切るべき因果がないんじゃない。因果を指定する私の側が、順序を持てなかった」
「能力を禁止していなくても、同じ結果になったと思いますか」
澄玲が尋ねる。
「能力を起動できない。起動前と起動後を、私自身が成立させられないからな」
朔夜は壁際へ戻ると、それ以上何も言わなかった。
三人目は澄玲だった。
「九条」
朔夜が呼ぶ。
「無理に解こうとするな」
「天城先輩」
「問題として定義できたからといって、解へ進めるとは限らない」
「分かっています」
澄玲は微笑んだ。
「ですが、何を問題として残せるのかは確認してきます」
境界線を越える。
直後、澄玲は同じ場所へ排出された。
外から見れば、入室と排出の間に時間差は存在しない。
澄玲は戻った後、目を閉じて呼吸を整えた。
「九条さん?」
灯が声を掛ける。
「大丈夫です」
「中で何があった?」
俺が尋ねる。
「問題は存在していました」
澄玲はゆっくり目を開く。
「黒い球を、白い円へ移す。その必要性も理解できました。ですが、問題を定義した後に解法を導く、という順序が成立しませんでした」
記録が開く。
――被検者、九条澄玲。
――氏名認識、保持。
――対象認識、保持。
――問題定義、保持。
――解法導出、成立せず。
――自発的身体行為、成立せず。
――球体接触、なし。
「世界は解を持つは使っていないのに、問題定義は残ったんだな」
「私が、能力を得る前から続けてきた考え方だからだと思います」
「能力と本人を、完全には分けられない?」
「影響し合ってはいます。ですが、同じものではありません」
澄玲は、黒い球を見つめる。
「私は、問題を問題として認識することはできた。それでも、解へ至るための次の一段を成立させられなかった。それが今の私です」
失敗を飾らない。
だが、失敗したという結論だけで自分を固定もしない。
いつもの澄玲だった。
◇
採択領域から離脱した黒瀬零は、四人目に入った。
「自証座標は使用するな」
緋月が念を押す。
「分かっている」
「存在座標の自己定義も、能力使用に含む」
「今の俺が立つ場所を考えることまで禁止するのか」
「能力として外部記録へ反映しなければ構わない」
「曖昧だな」
「本人の思考と能力作用を、完全には分離できないためだ」
男は扉の前で立ち止まり、俺を見る。
「何だ」
「俺が戻った時」
「ああ」
「お前と同じ場所に立っているか確認しろ」
「それだけ?」
「同じ場所に立っても、同じ人間にはならない」
「分かってる」
「ならいい」
境界線を越える。
戻ってきた男は、入室前と同じ位置に立っていた。
少なくとも、外側からはそう見えた。
「現在地は?」
俺が尋ねる。
「ここだ」
「どこだ」
「俺が、今いる場所」
「座標は」
「分からない」
表示が開く。
――被検者、採択領域離脱個体・黒瀬零。
――氏名認識、保持。
――自己存在位置、保持。
――外部座標対応、消失。
――入室目的、部分保持。
――自発的身体行為、成立せず。
――球体接触、なし。
――存在連続性、部分保持。
「位置は残ったのに、座標は残らない?」
灯が首を傾げる。
「この人物は、自分が存在しているという現在位置を保持した」
玄理が説明する。
「だが、その位置を外部の座標系へ対応させることはできなかった。通常の時間、距離、前後関係が失われれば、座標も比較対象を失う」
「能力を使えば立てた?」
俺が尋ねる。
「分からない」
採択領域から離脱した俺は答える。
「能力を使うためには、外部から与えられた位置を拒み、自分の座標を選び直す必要がある。だが、あそこでは、拒む前の場所と選び直した後の場所を分けられない」
「それでも、自分がいることは分かった」
「ああ」
「どうして」
男は少し考えた。
「どこにいるかを、他人へ決められたくなかったからだ」
「理由になってるか?」
「今の俺には、それが残った」
それ以上の説明はできないらしい。
緋月も、無理に言葉へさせなかった。
◇
「次は私」
灯が立ち上がった。
「黒瀬灯」
緋月が呼び止める。
「接続記録に異常が発生した場合、即座に排出する」
「うん」
「《第六候補》の音声が聞こえても、回答を約束するな」
「分かってる」
「十九歳の自分に代わって答えるな」
「それも分かってる」
「現在の自分に関する質問だけへ答えろ」
灯は少しだけ不満そうに緋月を見る。
「ちゃんと分かってるよ」
「分かっていることと、危険を説明しなくてよいことは別だ」
「それ、何回目?」
「必要な回数だ」
「神代先生、本当にお兄ちゃんと似てる」
「入室を取り消すぞ」
「ごめんなさい」
灯は俺の方を向いた。
「お兄ちゃん」
「何だ」
「私が戻ってきて、何か勝手に決めてたら止めて」
「何を決める気だ」
「分からないから頼んでるの」
「今の灯が自分で決めたことまで止めないぞ」
「うん。未来の私の代わりに答えてたら止めて」
「分かった」
灯は境界線の前へ立つ。
「黒瀬灯」
緋月が尋ねる。
「確認目的は」
「時間がなくても、今の私が何を決めていないかを覚えていられるか確かめる」
「球体を動かす目的は」
「自分で動かせるなら動かす。でも、誰かに動かされた結果を、私がやったことにはしない」
「入室を許可する」
灯が一歩踏み出した。
そして。
戻ってこなかった。
「灯?」
室外の時計は進んでいる。
一秒。
二秒。
通常なら、入室と同時に排出されるはずだった。
確認室内部には経過時間が設定されていない。それでも、室外にいる俺たちにとっては時間が進む。
「強制排出を」
俺が言うより先に、緋月が端末へ手を置いた。
「待て」
玄理が止める。
「存在連続性は失われていない」
「接続先は」
「確認中だ」
扉の内側に、灯の姿は見えている。
黒い球の前。
立ったまま。
瞬きも。
呼吸も。
衣服の揺れもない。
停止しているのではない。
身体動作を成立させるための時間が、最初から与えられていない。
六枚目の記録が、室外の壁へ現れた。
――《第六候補》。
――現在本人、未成立。
――接続対象、黒瀬灯。
――未来回答参照を開始。
「止めろ」
俺は寝台から立ち上がろうとした。
右肩の固定帯が食い込み、緋月の片手が胸元を押さえる。
「動くな」
「灯が中にいる」
「強制排出の準備はしている」
「未来回答が参照されてる」
「分かっている」
新しい表示が続く。
――十九歳到達時点。
――未選択未来を照合。
――現在回答への転記を――
文字が止まった。
灯の声は聞こえない。
それでも、室内の中央へ一行が現れる。
――今は、決めない。
未来の回答ではない。
現在の灯が、自分で提出した答え。
――現在回答を確認。
――未来回答との統合。
――拒否。
――現在時点の未選択状態。
――保持。
「灯さんが」
澄玲が表示を読む。
「現在の自分が決めていないことを、未来の答えで埋める処理から守っています」
「能力か?」
朔夜が尋ねる。
「違う」
玄理が答える。
「命題の発動記録はない」
「では」
「黒瀬灯という存在が、現在の回答を自分へ帰属させ続けている」
六枚目の記録から、黒い文字が一つだけ落ちる。
――灯。
呼びかけ。
音声ではない。
誰かの発言として成立した記録でもない。
ただ、灯の名前だけが、時間のない室内へ現れた。
「第六候補?」
俺が呟く。
灯の指先が、僅かに動いたように見えた。
だが、室内記録には身体動作として残らない。
次の瞬間。
灯は扉の外へ排出された。
俺が左腕で支える。
「灯!」
「……お兄ちゃん?」
「聞こえるか」
「聞こえる」
「自分の名前は」
「黒瀬灯」
「今、何歳だ」
「何でそこから確認するの」
「答えろ」
「今の年齢。十九歳じゃない」
「未来の答えは」
「決めてない」
灯は俺の腕へ掴まりながら、確認室を見る。
「球、動いてないね」
黒い球は、最初の位置にある。
白い円にも変化はない。
表示が開いた。
――被検者、黒瀬灯。
――氏名認識、保持。
――現在時点認識、保持。
――未来回答との分離、保持。
――入室目的、保持。
――自発的身体行為、成立せず。
――球体接触、なし。
――外部接続、一件。
――接続主体、照合不能。
――存在連続性、保持。
「球を動かせなかった」
灯が言う。
「ああ」
「でも、私の答えは取られなかった」
「それで十分だ」
緋月は灯の脈拍と瞳孔を確認する。
「本日は再入室させない」
「うん」
「頭痛は」
「少しだけ」
「視覚異常は」
「ない」
「第六候補の声は聞こえたか」
灯はすぐには答えなかった。
「声じゃなかった」
「では、何だ」
「私の名前を、誰かが忘れないでいた感じ」
「意味が曖昧だ」
「私も分からない」
「分からないまま記録する」
「うん」
緋月は灯を椅子へ座らせ、薄い検査膜を額へ貼った。
室外の時計では、灯の排出までに数秒が経過していた。だが、灯自身が室内で何秒を過ごしたという記録は存在しない。
長く耐えたわけではない。
時間のない場所に、長さはない。
それでも灯は、現在の自分を未来の回答へ溶かさずに戻ってきた。
「次は黒瀬零だ」
緋月が言った。
◇
「治療は?」
「第一段階の治療は完了している。確認直前の診断でも、短時間の入室に支障はない」
「急に許可が出たな」
「身体を動かせるとは言っていない」
「球を動かす確認だろ」
「現在のお前には動かせない可能性が極めて高い」
「最初から決めるな」
「予測だ。本人回答としては使用しない」
「使い方を覚えたな」
「以前から知っている」
緋月が固定帯のうち、寝台へ繋がっていた一本だけを外す。
右肩は固定されたまま。
左腕も、急激な動作は禁止されている。
歩行自体には問題がない。
「黒瀬零」
緋月が呼ぶ。
「確認目的を答えろ」
「黒い球を、自分の意思で十センチメートル動かす」
「それだけか」
「時間がなくても、俺が今の俺だって分かるか確かめる」
「今の俺とは」
すぐには答えられなかった。
帝都神律大学の黒瀬零。
灯から現在の兄として選ばれた黒瀬零。
第四候補に負けた黒瀬零。
右肩と左腕を負傷している黒瀬零。
同じ名前を持つ四人とは別の現在を生きている黒瀬零。
どれも正しい。
だが、時間を奪われた場所で、過去の出来事を順番に思い出せる保証はない。
「まだ」
俺は答えた。
「自分の答えを、全部は出していない黒瀬零だ」
「曖昧だ」
緋月が言う。
「今の俺には、それが一番正確だ」
玄理がこちらを見る。
「未提出という状態を、自己識別の中心へ置くのか」
「駄目か」
「駄目とは言っていない。ただ、未提出状態だけを自分の本質にすれば、答えを提出した瞬間に自己識別を失う」
「分かってる。だから、今の俺だ」
将来も永遠に答えないという意味ではない。
今、この時点で。
まだ答えを出していないことを、他人に埋めさせない。
その現在だけを持って入る。
「未証明は使用するな」
緋月が念を押す。
「使わない」
「結論を保留しようとするな」
「能力で保留する気はない」
「では、入室を許可する」
境界線を越えた。
◇
入った。
そう考えることはできなかった。
入る前がない。
入った後もない。
白い部屋にいるという認識さえ、最初から成立していたのか、後から得たのか分からない。
黒い球がある。
白い円がある。
二つの間に距離がある。
だが、ここからそこへ、という方向がない。
俺の右肩は負傷している。
左腕は動かせる。
その知識が、自分の身体に属しているのか。
誰かから渡された記録なのか。
区別できない。
黒瀬零。
名前が浮かぶ。
だが、その名前を呼ばれた過去を思い出せない。
帝都神律大学。
所属が浮かぶ。
入学した時点が存在しない。
黒瀬灯。
妹。
兄になった瞬間も。
兄ではなかった瞬間も。
並べられない。
現在。
それだけが、どこにも接続されずに残っている。
俺は誰だ。
問いを作れば、問いを作る前と後が必要になる。
答えようとすれば、答える前の自分と、答えた後の自分が必要になる。
どちらも成立しない。
それでも。
決められていない。
何を。
誰が。
いつ。
その区別はない。
ただ。
俺の答えを。
俺ではないものが、先に記入してはいない。
その事実だけが残っていた。
黒い球。
白い円。
動かしたい。
命令されたからではない。
確認に成功したいからでもない。
俺が動かすと決めたから。
だが、手を伸ばす前がない。
触れた後もない。
動作を始めるための順序を作れない。
それでも、動かす意思を別の誰かへ渡さない。
球が勝手に白い円へ移っても、俺が動かしたことにはしない。
動かなかったからといって、俺が動かす意思を持たなかったことにもさせない。
結論を保留しているのではない。
未証明を使っているのでもない。
結論が成立する前に。
俺という存在が、まだ残っている。
俺は。
まだ。
答えていない。
◇
「黒瀬零!」
灯の声が聞こえた。
俺は、確認室の外へ立っていた。
左手が僅かに前へ伸びている。
右肩には痛みがある。
黒い球は動いていない。
「聞こえる?」
「ああ」
「名前は」
「黒瀬零」
「私は?」
「黒瀬灯」
「誰の?」
灯が尋ねてから、自分で口を閉じた。
関係を、確認のためだけに固定しようとしたことへ気づいたらしい。
「今の俺の妹だ」
俺は答えた。
「今の灯が、それを選んでる間は」
「うん」
灯は小さく頷いた。
緋月が俺の瞳孔と身体記録を確認する。
「右肩の痛みは」
「変わらない」
「室内記憶は」
「ある」
「時間感覚は」
「ない」
「球体へ触れたか」
「触れてない」
「動かそうとはしたか」
「動かす意思は残した」
「身体動作は」
「成立しなかった」
表示が開く。
――被検者、黒瀬零。
――氏名認識、保持。
――現在自己識別、保持。
――過去履歴との時系列対応、消失。
――入室目的、保持。
――本人意思の帰属、保持。
――自発的身体行為、成立せず。
――球体接触、なし。
――存在連続性、保持。
――存在格分類の変化。
――確認せず。
「最後の一行」
俺が表示を見る。
「分かってる」
緋月が答える。
「お前は無刻行動に分類される存在格へ至っていない」
「でも、存在連続性は保持した」
灯が言う。
「ああ」
「前進?」
「競技ではない」
緋月は、俺へ固定帯を再接続する。
「現在の状態を確認しただけだ」
「言い方が厳しくないか」
「成功体験として誤認すれば、再現しようとして無断で入る」
「しない」
「信用できない」
「今から信用を」
「遅い」
固定帯が締め直される。
「ただし」
緋月が続けた。
「時間情報を失った状態で、本人意思の帰属まで保持できる者は多くない」
「褒めてる?」
「観測結果を述べた」
「少しくらい褒めてもいいだろ」
「球は動いていない」
「現実へ戻すな」
「確認室からは戻った」
「そういう意味じゃない」
獅堂が笑い、澄玲も安堵したように息を吐いた。
朔夜は扉の向こうを見つめたまま、静かに言う。
「誰も、球を動かせなかった」
「ああ」
採択領域から離脱した黒瀬零が答える。
「それでも、残ったものは違う」
氏名。
身体境界。
問題。
現在位置。
未選択の未来。
本人へ属する意思。
時間を失った時、何が残るかは一人ずつ異なっていた。
◇
全員の確認が終わった後、緋月が室内封鎖を実行した。
白い扉が閉じかけた時。
灯が声を上げた。
「待って」
黒い球体は、最初の位置にある。
白い円から十センチメートル。
誰も触れていない。
だが、球体の表面に細い白線が一本だけ刻まれていた。
「最初からあったか?」
俺が尋ねる。
「ありませんでした」
澄玲が入室前記録を表示する。
「表面損傷は、確認開始時点で〇件です」
「誰が付けた」
朔夜が尋ねる。
緋月は室内記録を開く。
獅堂。
接触なし。
朔夜。
接触なし。
澄玲。
接触なし。
採択領域から離脱した黒瀬零。
接触なし。
灯。
接触なし。
俺。
接触なし。
「室内機構による傷ではない」
玄理が解析結果を見る。
「外部からの物理干渉も確認されていない」
「じゃあ、何だ」
白線がゆっくりと形を変える。
傷だったものが、二つの文字になる。
――まだ。
それだけだった。
「第六候補?」
灯が扉へ近づこうとする。
緋月が肩を押さえて止めた。
「触れるな」
「でも」
「現在の本人が確認できない以上、返事として扱うな」
灯は足を止める。
黒い球の表面に残された文字を見る。
「私たちの誰かが書いた可能性は?」
「否定できません」
澄玲が答える。
「室内には時間的な前後が存在しません。誰の入室に対応して形成されたのかも特定できません」
「第六候補が書いたとも」
「まだ言えません」
灯は、すぐには頷かなかった。
それでも。
分からないことを、望んだ答えで埋めることはしなかった。
「じゃあ」
灯は言う。
「今は、誰の返事にも使わない」
「その判断を記録する」
緋月が答えた。
扉が閉じる。
最後まで、黒い球は動かなかった。
十センチメートルの距離は、誰にも越えられなかった。
それでも。
何も残らなかったわけではない。
時間を失っても、名前を残した者がいた。
問題を残した者がいた。
自分の立つ場所を残した者がいた。
未来の答えを、現在へ持ち込ませなかった者がいた。
そして俺は。
行為を成立させられない場所でも、その行為を誰の意思として扱うかだけは手放さずに戻ってきた。
黒い球を動かすことはできなかった。
存在格も変わっていない。
《公理階層》へ踏み込めるようになったわけでもない。
午前中に初めて聞かされた《証明圏》など、今の俺たちには遥かに遠い。
だが。
遠くにあるものを知ったからといって。
今ここにいる自分まで、誰かの都合のいい前提へ変える必要はない。
時間のない白い部屋でも。
俺たちは。
まだ。
それぞれの現在として、消えずに残っていた。




