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『神律大学の未証明者《アンプローヴン》』   作者: 仕儀の反駁
第五章《公理階層》《第六候補》編

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第六十三話 時のない門から未来がこちらを振り返る

 午前七時三分。


 黒瀬灯は、まだ眠っていなかったかった。


「仮眠区画を選んだ意味は?」


 俺が尋ねると、灯は《未定義現象研究室》の長机へ頬を付けたまま答えた。


「寝る場所を、自分で決めたこと」


「寝るためじゃないのか」


「眠れると思ったんだけど」


「何か聞こえる?」


「目を閉じると、第六候補の声が聞こえる気がする」


「実際に聞こえるのか」


「聞こえそうなだけ」


「なら寝ろ」


「お兄ちゃんは?」


「寝てない」


「じゃあ言わないで」


「俺は治療中だ」


「ベッドに寝てるだけでしょう?」


「右肩へ治療術式を接続されてる」


「寝ながらできるね」


「反論できないな」


 右肩を固定する黒い帯から、細い光が医療端末へ伸びている。左腕にも動作制限用の帯が巻かれていた。


 正式査問が終わったからといって、身体へ蓄積した負傷まで処理済みになるわけではない。


 俺は簡易寝台へ横になったまま、天井へ投影された六枚目の記録を見ていた。


 ――《第六候補》。


 ――本人、未成立。


 ――氏名、未成立。


 ――現在地、未成立。


 ――接続対象、黒瀬灯。


 ――接続時点、十九歳到達時点。


 ――成立領域分類、《公理階層》。


 どの《公理階層》なのか。


 どの《公理層序》に属するのか。


 先の正式査問で現れた局所監査機構と、同じ接続先なのか。


 今のところ、何一つ分かっていない。


「灯さん」


 澄玲が、二つの紙杯を持って近づいてきた。


「温かいものを飲んだ方がいいです」


「ありがとう、澄玲さん」


「黒瀬さんも」


「俺も?」


「眠っていないのでしょう?」


「治療中だ」


「治療を受けていることと、休息が足りていることは別です」


「神代先生みたいになってきたな」


「褒め言葉として受け取ります」


「褒めたつもりはない」


 澄玲は俺の枕元へ紙杯を置いた。


 飲むためには身体を起こさなければならない。右肩は動かせず、左腕も使える範囲を制限されている。


「飲めない」


「少し待ってください」


 澄玲が寝台の角度を調整すると、上半身がゆっくりと起き上がった。


「便利だな」


「自分で動こうとしないでくださいね」


「分かってる」


「昨日も、そう答えた直後に動きました」


「誰から聞いた」


「神代先生です」


「共有が早い」


「治療記録ですから」


 灯は紙杯を両手で持ちながら、六枚目の表示を見上げた。


「第六候補って、今はどこにもいないんだよね」


「現在時点では、そのように記録されています」


 澄玲が答える。


「でも、声は届いた」


「はい」


「存在していない人が、どうやって話したの?」


「それを調べています」


「未来から送った?」


「可能性はあります」


「《公理階層》から?」


「それも、まだ分かりません」


 澄玲は六枚目の記録へ指を触れた。


「記録の接続先が《公理階層》へ分類されたことと、音声を送った主体が《公理階層》そのものであることは別です」


「白い頁の監査官と同じ?」


「考え方としては同じです」


 構造。


 そこに属する規程。


 規程へ接続する局所機構。


 その内部に存在する個人。


 全てを一つの意思として扱ってはいけない。


「じゃあ」


 灯は紙杯へ視線を落とした。


「第六候補が、本当に自分で声を送ったのかも分からない?」


「はい」


「誰かが、あの人の声を使った可能性も?」


「否定できません」


「本人が言いたくなかったことを、言わせた可能性も?」


 澄玲はすぐには答えなかった。


 分からないことを、安心させるためだけに否定しない。


「あります」


 灯の指へ、僅かに力が入った。


「ですが、だからこそ、あの音声だけで第六候補の意思を全て決めてはいけません」


「本人に聞くまで?」


「本人が成立し、本人として答えられる時までです」


 灯は小さく頷いた。


 その時、研究室の全表示が一斉に暗転した。


     ◇


 壁面へ緊急接続の表示が開いた。


 ――帝都神律大学・北西区画。


 ――旧気象観測所。


 一点の座標が示される。


 採択領域から離脱した黒瀬零が、自分の次の位置として選んだ地点だった。


「第五件から?」


 俺が身体を起こそうとすると、右肩の固定帯が警告音を発した。


「動かないでください」


 澄玲が即座に止める。


「連絡が来た」


「受けるだけなら、起き上がる必要はありません」


 通信が開く。


 映像はない。


 旧気象観測所に設置されていた記録装置が、現在の空間を映像として確定できていなかった。


『聞こえるか』


 採択領域から離脱した俺の声が届く。


「聞こえる」


『現在の俺か』


「ああ」


『灯もいるか』


「いるよ」


 灯が表示へ近づいた。


「何があったの?」


 通信の向こうで、古い金属が軋む音がした。


『気象観測所ではなかった』


「何だって?」


『少なくとも、気象だけを観測する施設ではない』


 断続的な記録が送られてくる。


 ――気圧。


 ――温度。


 ――湿度。


 ――風向。


 そこまでは一般的な気象情報だった。


 だが、その下には通常の観測装置では使用されない項目が並んでいる。


 ――世界状態採択圧。


 ――非採択未来残留率。


 ――観測基準外部流入量。


 ――公理参照密度。


「公理参照密度?」


 澄玲が表示を拡大した。


「この装置は、どこへ接続しているのですか」


『地下だ』


「地下区画は施設図にありません」


 共同学務局から、文乃の声が通信へ加わる。


『俺のいた領域では、地上部分ごと撤去されていた』


「どうして?」


 灯が尋ねる。


『今なら分かる』


 古い扉の開く音がした。


『ここは、選ばれなかった未来を観測していた』


 灯の顔が固まる。


 六枚目の記録が自動的に開いた。


 ――黒瀬灯が選択しなかった未来。


 ――当該未来に、《第六候補》との接続を確認。


「そこから離れろ」


 俺は言った。


『理由は』


「第六候補の記録と繋がってる可能性がある」


『だから来た』


「一人で確認する必要はない」


『一人で決めたいと言った』


「危険があるかもしれない」


『危険があれば連絡すると答えた』


「今がその連絡か」


『そうだ』


 短い沈黙が流れた。


「分かった」


 俺が治療端末の解除へ左手を伸ばすと、澄玲がその手を押さえた。


「分かっていません」


「行く」


「右肩の治療は終わっていません」


「移動するだけだ」


「これまで、その言葉を何度使いましたか」


「数えてない」


「私は数えています」


「怖いな」


 研究室の扉が開き、神代緋月が入ってきた。


「解除するな」


「まだ何もしてない」


「左手が解除端末へ向かっている」


「位置を変えようとしただけだ」


「どこへ」


「解除端末の上へ」


「第四候補と同じ言い訳をするな」


「偶然だ」


「拘束する」


「待て」


 緋月が白い固定帯を取り出す。


「旧気象観測所で緊急接続が起きてる」


「知っている」


「なら」


「移動用寝台を使う」


「自分で歩ける」


「歩けることと、歩いてよいことは別だ」


「またそれか」


「何度でも言う」


 緋月は寝台の車輪固定を解除した。


「黒瀬灯」


「はい」


「お前も同行する」


 灯が目を見開く。


「いいの?」


「接続対象が黒瀬灯である以上、本人を置いたまま調査すれば、本人のいない場所で関係を決めることになる」


「行く」


「ただし、私の指示から離れるな」


「うん」


「危険を確認した場合は、本人の回答を待たず退避させる」


「それは――」


「意識を失っている場合に限る」


 灯は少し考えてから頷いた。


「分かった」


「九条澄玲」


「同行します」


「御厨教授と天城を呼べ」


「はい」


「獅堂は?」


 俺が尋ねる。


「共同実技棟の事後固定処理中だ」


「第四候補は」


「旧学生寮で治療中だ」


「来るって言いそうだな」


「既に言った」


「何て答えた」


「四週間は高出力行動を禁止すると伝えた」


「納得した?」


「していない」


「だろうな」


「そのため、《第四学籍》が治療結果を記録しながら観察している」


「監視か」


「救助のための観察である」


 移動用寝台が動き出す。


 研究室を出て、まだ講義の始まっていない朝の大学を通り、俺たちは北西区画へ向かった。


     ◇


 旧気象観測所は、帝都神律大学の外縁部に建っていた。


 三階建ての白い外壁。


 錆びた観測塔。


 屋上には、回転を止めた風向計が残されている。


 正門側から見れば、ただの廃施設にしか見えない。


 だが、内部へ足を踏み入れた瞬間、空気とは違う何かの重さが身体へかかった。


「気圧は正常です。温度も変化していません」


 澄玲が端末を確認する。


「では、何が重い」


 朔夜は壁へ手を触れ、右足を一歩前へ出した。


 床が僅かに沈む。


 その動作へ、本来なら意識しない前提が文字として浮かび上がった。


 ――歩行を成立させる公理。


 ――身体は一つの位置を占める。


 ――移動前と移動後は異なる。


 ――一つの順序が成立する。


 ――行為の前後に時間が存在する。


「動こうとするたび、決められていないことまで先に要求される」


 朔夜が言った。


「行為へ必要な条件を、一つずつ露出させているのでしょうか」


 澄玲が表示を読む。


「そうだ」


 玄理が答えた。


「《観測階序》の内部では、時間、順序、位置は世界を成立させる基盤として扱われる。しかし《公理階層》から参照すれば、それらも無限に存在する下位前提の一部にすぎない」


 施設の中央には、採択領域から離脱した黒瀬零が立っていた。


「遅かったな」


「治療中なんだよ」


「寝台で来たのか」


「神代先生へ言え」


「正しい判断だ」


「お前まで言うのか」


 男の前では、床に一枚の鉄扉が開いている。


 地下へ続く階段。


 施設図には存在しない区画だった。


 階段の先に暗闇はない。


 白い空間と、無数の文字が広がっている。


 そこに浮かんでいるのは、一つの世界を説明する法則ではなかった。


 世界を世界として数えるための条件。


 壁も、床も、天井もなく、それぞれの文章が互いを前提として成立している。


「ここを開いたのか」


 緋月が尋ねる。


「俺が開いたわけではない」


 採択領域から離脱した俺は、階段脇の古い記録装置を示した。


「灯の名前を入力した」


「勝手に?」


 俺が睨む。


「入力したのは現在の氏名だけだ」


「それでも」


「関係は決めていない」


「何が起きた」


「地下扉が現れた」


 灯が記録装置へ近づく。


 画面には入力履歴が残されていた。


 ――照合対象。


 ――黒瀬灯。


 ――現在年齢、未入力。


 ――未来選択、未入力。


 ――《第六候補》との関係、未入力。


「本当に、名前だけ」


 灯が言った。


「ああ」


「私が来る前に、何か決められた?」


「何も答えていない」


「なら、ありがとう」


「礼を言う理由はない」


「私の代わりに答えなかったから」


「当然だ」


「当然じゃない人もいたから」


 採択領域から離脱した黒瀬零は、一瞬だけ視線を逸らした。


「今は、当然にする」


 その時。


 地下の白い空間から、一つの足音が聞こえた。


     ◇


 一歩。


 音として聞こえたのは、それだけだった。


 白い階段の最下部に、人影が立っている。


 顔も、衣服もない。


 身体の輪郭だけが、互いに矛盾する公理文によって構成されていた。


 ――人型である。


 ――人型ではない。


 ――一個体である。


 ――複数の執行結果である。


 ――現在ここにいる。


 ――下位時間へは、まだ到達していない。


「局所監査機構か」


 俺が尋ねる。


「違う」


 玄理が答えた。


「あれは記録窓口ではない」


 人影の胸元へ文字が現れる。


 ――《前提執行体》。


 ――所属階層、照合不能。


 ――接続目的。


 ――外部観測基準の回収。


「外部観測基準……」


 灯の顔が強張る。


 人影が、顔のない頭部を灯へ向けた。


『対象を確認』


『黒瀬灯』


『十九歳到達時点における、未選択未来の外部観測基準』


「私は、まだ十九歳じゃない」


『現在年齢は、回収条件へ影響しない』


「影響するよ」


 灯は人影を見返した。


「十九歳の私が何を選ばないか、今の私はまだ答えてない」


『未来側に、未選択結果を確認済み』


「未来の結果を、今の灯へ使うな」


 俺が言うと、白い空間に結論が形成された。


 ――黒瀬灯は回収対象である。


 ――未来の未選択結果は、現在の本人へ適用可能。


 ――外部観測基準を移送する。


 俺は、その結論へ意識を触れさせた。


 右肩も左腕も、攻撃には使わない。


 必要なのは、決められた結果を一時的に確定させないことだけだった。


「その結論を保留する」


 未証明(アンプローヴン)


 灯の足元へ伸びていた白い線が、未確定のまま揺らぐ。


『結論確定を阻害』


『下位側異常命題を確認』


「下位で悪かったな」


『保留継続可能時間、二・四秒』


「十分だ」


 俺が答えた直後。


 人影の右手が、灯の額へ触れようとしていた。


 八メートルの距離を高速で走ったのではない。


 途中の動きが速すぎて見えなかったのでもない。


 人影が灯の前へ立ち、腕を伸ばし、額へ触れようとする一連の行動には、初めから経過時間が必要とされていなかった。


 床へ表示された経過時刻は、〇のままだ。


 俺の身体は、人影が動く前と同じ状態から変化していない。


 澄玲も。


 朔夜も。


 採択領域から離脱した俺も。


 危険を認識して動作を選ぶための時間さえ与えられず、その攻防へ一手も成立させられない。


 だが。


 灯へ届くはずだった人影の手は、額の直前で止められていた。


 神代緋月の左手が、その手首を掴んでいる。


 人影が経過時間〇で接触を成立させようとした行動を、緋月は認識していた。


 そして緋月もまた、経過時間を必要とせず灯の前へ立ち、人影の手首を取る対応を成立させていた。


 どちらが通常時間上で先に動いたわけでもない。


 通常時間は、一瞬も進んでいない。


 それでも二者の間では、執行と迎撃が同じ経過時間〇の攻防として競合している。


 人影の左腕が緋月の喉へ向かう。


 緋月はその攻撃を認識し、同じ経過時間〇のまま上体を外した。


 腕を流す。


 手首を返す。


 重心を崩す。


 膝裏へ足を掛ける。


 人影の身体を床へ倒す。


 一連の無刻行動が成立しても、時計は〇から動かなかった。


 それは速度の数値ではない。


 光より速いという比較でもない。


 行動を成立させる条件として、経過時間を必要としていない。


 存在そのものが、俺たちとは異なる前提に立っていた。


 人影の背中が床へ触れ、緋月が一連の処理を終えた後、通常時間の進行が許される。


 表示が初めて変化した。


 ――経過時刻。


 ――〇・〇〇〇〇〇〇秒。


「何が……」


 俺の声が遅れて出た。


 灯も、自分が狙われていたことを今になって理解したように目を見開いている。


 人影は床へ押さえつけられたまま、緋月を見た。


『下位個体による経過時間〇の対応を確認』


『存在格を照合』


 緋月の周囲へ、一つの分類名が表示された。


 ――無刻存在(アンクロノス)


「それは、神代先生の能力か」


「違う」


 緋月は人影の腕を押さえたまま答えた。


「技の名称でもない」


「なら、何だ」


「存在格の分類名だ」


 人影が腕へ力を加える。


 緋月の指が僅かに沈み、肘関節が逆方向へ折れかけたところで抵抗が止まった。


無刻存在(アンクロノス)に属する者は、任意に、自分の認識、判断、身体動作を経過時間〇のまま成立させられる」


「今の動きが?」


 灯が尋ねる。


「ああ。この存在格に特有の行動様式を、《無刻行動》と呼ぶ」


「先生はいつも、経過時間〇で動いてるの?」


「違う」


 緋月は否定した。


「私は通常時間の進行を許し、その中で話すことも、歩くこともできる。今こうして会話しているからといって、無刻存在(アンクロノス)ではなくなったわけではない」


「必要な時だけ、時間を使わずに動ける?」


「概ね正しい。だが、時間を消費した後で取り戻しているわけではない。時間を止め、その内側だけで動いているのでもない」


 緋月は押さえている人影を見る。


「最初から、行動成立の必要条件に経過時間が含まれていない」


「それだけなら、先生が一方的に動けるだけじゃないのか」


 俺が尋ねる。


「相手も同じ存在格だ」


 緋月が答えた。


「《前提執行体》が経過時間〇で行動すれば、私はその行動を認識し、同じ経過時間〇で対応を成立させられる。逆も同じだ」


「互いの動きへ反応できる?」


「ああ」


「普通の時間が進んでないのに?」


「通常時間上の反応速度ではない。同じ存在格に属する者同士は、経過時間〇で成立する相手の認識、判断、行動を、同一の攻防過程として扱える」


 玄理が、緋月と人影の間に残された記録を確認する。


「つまり無刻存在(アンクロノス)は、行為の発動名ではない。存在がどの前提へ従属しているかを示す分類だ」


 玄理は経過時刻〇の記録を拡大した。


「この二者の攻防を、秒速やマッハへ換算することはできない」


「超光速とも呼ばない?」


 灯が尋ねる。


「呼ばない」


 玄理は即答した。


「超光速とは、時間と距離が成立する状況で、身体速度が光速を上回ることを示す。今の攻防では、速度を求めるための経過時間そのものが使用されていない。両者は別の評価軸だ」


 通常時間の中で、肉体が光より速く動くことはあり得る。


 だが、それだけで時間を必要としない存在格へ届くわけではない。


 逆に、無刻存在(アンクロノス)へ至っているからといって、通常時間内の純粋な身体速度まで自動的に光を超えるわけでもない。


「存在格は、通常時間内の身体速度、破壊力、防御力、行為を及ぼせる範囲を直接決定する数値ではない」


 玄理は続ける。


「同じ無刻存在(アンクロノス)であっても、出力と強度には比較にならない差が生じる」


 同じ経過時間〇で行動できる者同士でも、拳の強さが同じとは限らない。


 耐えられる衝撃も。


 一度に守れる範囲も。


 同じ経過時間〇の攻防で成立させられる行動の密度も。


 何一つ同じとは限らない。


「じゃあ、神代先生があいつを止められたのは、同じ存在格だから?」


「それは最低条件にすぎない」


 緋月が答えた。


「同じ攻防の中で、相手の無刻行動を認識し、自分の無刻行動で対応するための条件だ。強さまで同じという意味ではない」


 人影の身体を構成する文章が、一度だけ大きく歪む。


『存在格一致を確認』


『出力差、測定中』


『身体制圧技術』


『神代緋月を優位と判定』


「教授の動きじゃないだろ」


 俺が言った。


「法則災害の現場で、治療だけしていれば済むと思うな」


「どういう意味だ」


 緋月は答えなかった。


 代わりに、玄理が彼女を見る。


「神代は以前、上位観測災害における緊急救命を担当していた」


 緋月の視線が僅かに玄理へ向く。


「御厨」


「隠す段階ではない」


「今ここで全てを話す必要もない」


「ならば最低限でよい」


 玄理は俺たちへ向き直った。


「時間が経過した後では、負傷者の死亡が既に確定してしまう災害が存在した」


「神代先生は、その死より速く動いた?」


 灯が尋ねる。


「違う」


 玄理が答える。


「死が成立する前に高速で治療したのでもない。治療行為そのものを、経過時間へ従属させない存在へ至った」


「救うために?」


「そうだ。強敵を倒すためではない。負傷者へ手を届かせるためだ」


 緋月は人影の腕を押さえたまま言った。


「詳しい説明は戻ってから行う。今は目の前を見ろ」


 人影の身体を構成していた公理文が、一斉に組み替わった。


 ――拘束。


 ――下位側行為。


 ――無効。


 緋月が掴んでいた「手首」という定義が消える。


 腕は一つの身体部位ではなく、複数の執行結果へ分解され始めていた。


 その変化は通常時間側からも確認できた。


「地下扉から離れろ!」


 緋月が叫ぶ。


 通常時間の中で、灯を抱えて後退し、俺の移動寝台を蹴った。澄玲と朔夜も扉から距離を取る。


 安全距離が確保された直後、《前提執行体》は再び無刻行動を成立させた。


 白い階段の最下部へ位置を戻す行動に、経過時間は使われていない。


 だが緋月も同じ攻防を認識し、追撃ではなく、灯たちへの再接触が成立していないことを確認する無刻行動を成立させていた。


 通常時間側の表示は〇のままだった。


 ――外部観測基準の回収。


 ――下位側保留命題により中断。


 ――再執行条件。


 ――接続門の完全成立。


 地下の白い空間が広がる。


 階段の一段一段が、世界の距離ではなく前提の差へ変化していく。


 第一段。


 ――一つの《観測階序》。


 第二段。


 ――無限の《観測階序》。


 第三段。


 ――前段階全体を一つの公理項として処理。


 第四段。


 ――当該公理項を無限に内包。


 さらに先には、上や下といった方向では表せない階層が続いている。


『接続先』


『《公理階層》』


『下位側存在格を照合』


 白い文字が、一人ずつ俺たちの前へ現れた。


 黒瀬零。


 ――通常時間依存存在。


 ――経過時間〇の攻防への介入、不能。


 黒瀬灯。


 ――通常時間依存存在。


 ――経過時間〇の攻防への介入、不能。


 九条澄玲。


 ――通常時間依存存在。


 ――経過時間〇の攻防への介入、不能。


 天城朔夜。


 ――通常時間依存存在。


 ――経過時間〇の攻防への介入、不能。


 採択領域離脱個体・黒瀬零。


 ――座標再指定可能。


 ――経過時間〇の攻防への介入、不能。


 御厨玄理。


 ――記録参照可能。


 ――経過時間〇の攻防への介入、不能。


 神代緋月。


 ――存在格分類。


 ――無刻存在(アンクロノス)


 ――《無刻行動》、成立可能。


 ――他者の《無刻行動》への対応、可能。


「神代先生だけ?」


 灯が緋月を見る。


「この場で確認された者の中ではな」


「大学全体でも一人?」


「そこまでは断定できない」


 玄理が答えた。


「記録を秘匿している者。大学外に存在する者。異なる経緯で同じ存在格へ至った者。その全てを、まだ照合していない」


「私たちは、あの場所へ入れない?」


 灯が尋ねる。


「空間へ足を踏み入れること自体はできるかもしれない」


 緋月は人影から視線を外さない。


「だが、あれが無刻行動を成立させれば、お前たちの認識と身体動作が次へ進む前に、経過時間〇の攻防が完了する」


「私たちの時間が止められる?」


「違う」


 緋月は明確に否定した。


「お前たちの時間を停止させているわけではない。お前たちが次の状態へ変化するためには時間の経過が必要だ。その時間が一切進まないまま、こちらの行動だけが成立する」


「普通の時間では動ける?」


「ああ。今も動けている」


「でも同じ攻防には入れない」


「そうだ。相手が経過時間〇で行動している途中へ、自分の判断や身体動作を成立させられない」


 採択領域から離脱した黒瀬零が、人影の背後へ自分の座標を定めようとする。


 白い一点が浮かんだ。


 だが、成立しない。


『座標再指定を確認』


『身体走行ではない』


『速度換算、不可』


『マッハ換算、対象外』


『ただし』


『経過時間〇の攻防への介入条件を満たさない』


 白い一点が、人影と緋月の攻防領域の外側で弾かれた。


「位置を選べても」


 採択領域から離脱した俺が言う。


「あの一手が終わる前の場所には、自分を置けない」


「そういうことです」


 澄玲は、緋月と人影の間に残された記録を見る。


「座標を再指定することと、無刻存在(アンクロノス)同士の攻防へ自分の行為を成立させることは別です」


「天城先輩」


 朔夜は黒い薄刃を伸ばしている。


 だが、振り下ろしてはいない。


「見えなかった」


「はい」


「あの一手が完了する前に、切る因果を指定できない」


「現在の私たちでは、相手の無刻行動へ対応する判断そのものが成立しません」


 人影の胸元へ、新しい文章が現れた。


『《第六候補》への接続を求める場合』


『《公理階層》内部へ到達せよ』


『要求存在格』


 ――無刻存在(アンクロノス)


「待て」


 俺は人影へ声を掛けた。


「第六候補は、そこにいるのか」


『回答不能』


「お前は、第六候補の意思で動いてるのか」


『回答不能』


「灯を回収して、何をする」


『未来側成立条件へ対応する』


「その条件を、灯は選んだのか」


 人影の文字が止まる。


『十九歳到達時点において』


『未選択結果を確認』


「選ばなかった結果があることと」


 灯が自分で答えた。


「私が回収されることを選んだのは、別だよ」


『選択項目に、回収拒否を確認できない』


「聞いてないからでしょう?」


『未来記録に、回答なし』


「回答がないなら、同意じゃない」


 人影の身体を構成する文字が、一度だけ乱れた。


 先の正式査問で、局所監査機構へ残された原則。


 沈黙を同意として扱わない。


 未来予定を現在回答として使わない。


 その記録が共同学籍網から、地下の接続門へ流れ込む。


『下位側異議を確認』


『回収処理、保留』


「止まった?」


 灯が尋ねる。


「一時的にだ」


 玄理が答えた。


「こちらの査問記録が、接続門の処理へ干渉している」


「どれくらい?」


「分からない」


『再審査期限』


 人影の胸元へ文字が現れる。


 灯の表情が強張った。


 だが、期限を示す数字は表示されなかった。


『本人設定まで未定』


 第四候補が三年前に取り戻した回答時間。


 本人が成立する前に、未来の回答を決めないという原則が、ここにも届いている。


「待つんだ」


 灯が呟く。


「少なくとも」


 澄玲が答える。


「今すぐ、未来の灯さんに代わって答えることは止まりました」


 人影は白い階段の奥へ下がった。


 一歩。


 二歩。


 今度の移動には通常時間が使われている。


 俺たちにも、その動作を追うことができた。


『黒瀬灯の回答を待機』


『《第六候補》の成立を待機』


『下位側調査者の到達を待機』


 最後の一行が現れる。


『ただし』


 人影は顔のない頭部を、俺へ向けた。


『現在の黒瀬零は、当該攻防へ介入できない』


 白い扉が閉じ始める。


「分かってる」


 俺は答えた。


 認めたくはない。


 だが、人影の無刻行動は見えなかった。


 身体を動かすこともできなかった。


 灯へ手が届くより先に、危険を理解するための認識さえ成立していなかった。


「今は、まだ同じ攻防へ一手を成立させられない」


 白い扉が止まる。


『将来回答として記録しますか』


「しない」


 俺は即答した。


「未来の俺の代わりに答えるな」


『現在回答を要求』


「今の俺は、そこへ届いていない」


 一度、息を吸う。


「だから、届く方法を探す」


『現在回答を確認』


 扉が閉じていく。


 最後に、白い隙間の向こうから聞き覚えのある声が流れた。


 《第六候補》の声。


『来てくれとは、まだ言えない』


 音声が乱れる。


『来るなとも、今の俺には決められない』


 灯が一歩前へ出た。


「第六候補!」


『だから』


 閉じる隙間の奥から、声が続く。


『俺を探すかどうかは、今のお前たちが決めてくれ』


 白い扉が閉じた。


 地下階段も消える。


 残ったのは、古い観測装置と、停止した風向計。


 そして、経過時刻〇のまま保存された、緋月と《前提執行体》の攻防記録だった。


     ◇


「治療棟へ戻る」


 緋月が言った。


「待ってくれ」


「待たない」


無刻存在(アンクロノス)について聞きたい」


「戻りながら話す」


「どうやって、その存在格へ至る」


「今のお前が、すぐに試せるものではない」


「第四候補なら?」


「現在は高出力行動自体を禁止している」


「純粋な身体速度とは別なんだろ」


「別だ」


 緋月は俺の移動寝台を押し、旧気象観測所の出口へ向かう。


「どれほど速く走れても、行動成立に時間の経過を必要としている限り、それだけで無刻存在(アンクロノス)へ至ることはない」


「でも、身体速度は要らなくなる?」


「身体速度が無意味になるわけではない」


 緋月は答えた。


「同じ無刻存在(アンクロノス)へ属する者同士なら、互いに経過時間〇の行動へ対応できる。その上で、通常時間内に培った身体制御、基礎出力、認識精度、技量、防御強度、一度の攻防で成立させられる行動の密度が差になる」


「存在格が同じなら、攻防の土俵には立てる」


「ああ」


「勝てるかどうかは、また別」


「そうだ」


「能力で代用は?」


「一時的に時間を止めても、順序を書き換えても、結果を先に置いても、本人の存在格が変化したことにはならない」


 俺の未証明(アンプローヴン)は、灯を回収するという結論を保留した。


 それでも、人影と緋月の経過時間〇の攻防へ、俺自身の身体動作を成立させることはできなかった。


「じゃあ、今の俺では灯を守れない」


「全ての状況で守れないとは言っていない」


 緋月は答えた。


「だが、無刻存在(アンクロノス)との直接攻防では、今のお前の判断と身体動作は、相手の無刻行動が完了するまで成立しない」


 その言葉は、右肩の痛みより深く残った。


 第四候補の速度には、予測で先回りした。


 負けた。


 それでも、同じ試合の中にはいた。


 だが、さっきの攻防では、俺の敗北すら成立していない。


 戦う前に、一手を成立させる条件そのものがなかった。


「神代先生」


 灯が尋ねる。


「私も、いつか同じ存在格へ至れる?」


「可能性は否定しない」


「今は?」


「至っていない」


「そっか」


 灯は少しだけ俯いた。


「怖いか」


 俺が尋ねる。


「怖いよ」


「なら――」


「でも」


 灯は、地下扉が存在していた場所を振り返った。


「私が選ばなかった未来のことを、私が怖いからって、ほかの人に全部決めてほしくない」


「ああ」


「だから、一緒に調べよう」


「今の俺は、あの攻防へ手を出せないぞ」


「今は、でしょう?」


 さっき、俺が《前提執行体》へ返した言葉。


「今は、まだ届いてないだけ」


 俺は少しだけ笑った。


「似てきたな」


「誰に?」


「俺に」


「それは嫌かも」


「そこは否定するのか」


「面倒なところだけ似たくない」


「もう遅いな」


「お兄ちゃんに言われたくない」


 移動寝台が旧気象観測所の外へ出る。


 朝日は、来た時より高い位置にあった。


 大学の時計は午前七時二十一分を示している。


 こちら側では、十八分が経過した。


 それでも地下に残された記録では、神代緋月と《前提執行体》が交わした全ての無刻行動が、無限小という刹那さえ必要としなかったことを示し続けていた。

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