第六十二話 夜明けの余白に、未来はまだ名を持たない
正式査問が終わった時刻は、午前六時十二分だった。
その八分後。
競技場には、もう誰も残っていない。
五件を区切っていた白線も。
十二の審査席も。
最後まで残っていた十三番目の席も。
全て、閉じた査問記録の中へ戻されている。
夜の終わりを告げる薄い光だけが。
無人になった観客席へ差し込んでいた。
俺たちは。
五人のまま、別々の場所へ向かっている。
帝都理法大学の黒瀬零は、大学間移動門の前。
《第四候補》は、医療搬送用の診療椅子の上。
現在の俺は、競技場から救護棟へ続く連絡通路。
三年前の黒瀬零は、俺の少し後ろ。
採択領域から離脱した黒瀬零は。
既に、自ら選んだ座標へ移っている。
一つの起源へ統合されることもなく。
誰か一人を代表として残すこともなく。
五件全てが。
独立した現在として登録された。
それが。
昨日までなら、あり得なかった結果だった。
「黒瀬零」
神代緋月の声がする。
「聞こえているか」
「聞こえてる」
「どの黒瀬零へ答えを求めたか、理解しているか」
「現在の俺」
「正確だ」
通信表示の向こうで。
大学間移動門へ向かっていた帝都理法大学の黒瀬零が、僅かに眉を寄せる。
『今後、毎回それを確認するのか』
「必要がなくなるまで確認する」
緋月は、俺の右肩を固定している帯を調整する。
「現在の黒瀬零。右肩を動かすな」
「そこまで痛くない」
「感想は聞いていない」
「本人回答は」
「診断結果を覆さない」
「第四候補に言ってたことと同じだな」
「あれより軽傷だから、説明を短くしている」
少し先を運ばれていた診療椅子が止まる。
第四候補が振り返った。
「聞こえているぞ」
「聞こえるように言った」
「性格が悪いな」
「診断である」
「何の診断だ」
第四候補の左脚は、膝から足首まで新しい固定具で覆われていた。
右大腿部にも圧迫帯。
腹部には、内側から損傷の拡大を抑えるための薄い術式膜が貼られている。
俺より明らかに重傷だ。
それでも本人は、自分で診療椅子を動かそうとして。
競技場を出てから既に三度。
緋月に止められていた。
「四度目は拘束する」
「まだ動かしていない」
「右手が車輪へ向かっている」
「置き場所を変えようとしただけだ」
「どこへ」
「車輪の上へ」
「拘束する」
「待て」
緋月が白い固定帯を取り出す。
第四候補は、ゆっくりと手を膝の上へ戻した。
「……今は動かさない」
「その回答を受理する」
診療椅子の隣では、《第四学籍》が三枚の《異議付記欄》を抱えたまま、治療記録を読んでいる。
「腹部の損傷率が上がっている」
「読むな」
「証人として確認している」
「査問は終わった」
「治療結果の証言は終わっていない」
「誰に証言する」
「必要になった時の本人へ」
「面倒だな」
「お前に言われたくない」
灯が二人を見て、口元を押さえた。
「笑うな」
二人の声が重なる。
「似てる」
「似ていない」
また重なった。
正式査問が終わっても。
世界は急に静かにはならなかった。
◇
五人が別々の場所へ移動したあとも。
共同学籍網には、一つだけ終了していない処理が残っていた。
最終同期。
個体登録。
身体記録。
治療情報。
本日の滞在先。
査問終了後の状態を、五件それぞれへ対応させるための処理。
連絡通路の壁へ、五つの白い表示が開く。
同じ表示は。
帝都理法大学へ向かう移動門にも。
第四候補の診療椅子にも。
三年前の俺が持つ暫定滞在証にも。
採択領域から離脱した俺が選んだ座標にも。
同時に現れていた。
『審査対象五件』
『独立登録を確認』
『個体間に残存する共有身体記録を照合』
「共有身体記録?」
俺は表示を見る。
五人の身体情報が開かれた。
身長。
骨格。
血液型。
遺伝情報。
分岐以前の運動履歴。
分岐後に獲得した身体能力。
負傷。
治療。
各個体が自分で行った訓練。
俺たちは同じ起源を持っている。
だが。
同じ身体ではない。
帝都理法大学の黒瀬零が積み上げた運動経験を、俺が持っているわけではない。
第四候補が第一実技で記録した身体出力も。
三年前の俺が保存している記録状態も。
採択領域から離脱した俺が、失われた世界で獲得した感覚も。
現在の俺へ自動的に受け渡されるものではない。
『現在身体記録』
『五件へ個別対応』
『本人由来が確定した運動履歴』
『各個体へ割当て』
『分岐以前の共有履歴』
『《共通起源参照記録》へ保存』
『他個体の身体出力』
『継承しない』
『本処理による新規身体能力の付与』
『なし』
「当然だ」
第四候補が言った。
「俺の身体まで、五人へ分配されてたまるか」
「その負傷も?」
灯が尋ねる。
「必要なら持っていけ」
「いらない」
「即答か」
「痛そうだから」
別の表示の中で。
帝都理法大学の黒瀬零が、自分の身体記録を確認する。
『分岐以前の履歴だけが共通記録へ移されたのか』
『肯定』
『現在の能力や身体出力は、本人の記録として保持される』
『肯定』
『ほかの個体を参照して、自動的に再現されることは』
『ない』
『なら問題ない』
三年前の俺も、自分の赤い右目へ触れる。
「俺の右目も、個人記録か」
『現在状態』
『第四件へ対応』
「現在の俺へ戻される可能性は」
『本人間の合意および医療上の適合確認なしには』
『移植処理を行わない』
「移植する気はない」
俺は答えた。
「俺もない」
三年前の俺も言う。
「今さら返されても困る」
「俺も困る」
「意見が一致したな」
「珍しいことみたいに言うな」
白い記録が、それぞれ五人の現在位置へ分かれていく。
共通の過去は残る。
だが。
誰かが積み重ねた現在を、別の誰かが勝手に受け取ることはない。
《共通起源参照記録》は。
能力や肉体を複製するための原本ではない。
必要な時に。
自分たちが過去を確かめるための資料だった。
◇
『本日の滞在先』
『五件へ個別確認』
最初に表示されたのは。
大学間移動門の前に立つ、帝都理法大学の黒瀬零だった。
『第一件』
『帝都理法大学・正規学籍保持者』
『帰還先候補』
『帝都理法大学』
『本人回答』
『帰還する』
「本当に、すぐ戻るの?」
灯が通信表示へ尋ねる。
『必要な処置は受けた』
「大学へ戻って、何するの」
『退学処分に関する学内審査を受ける』
「共同査問で終わったんじゃないの?」
『十二大学共同正式査問は終わった。帝都理法大学内部の処理は別だ』
自分が署名した処分。
その同意を撤回した現在。
第四候補へ謝罪した事実。
それらを、所属大学へ持ち帰る。
誰かへ処理を任せるのではなく。
自分の学籍で。
自分の責任として。
「逃げないんだ」
第四候補が言った。
『逃げる理由がない』
「処分される可能性がある」
『あるだろう』
「学籍を失うかもしれない」
『それでも、俺が答える』
第四候補は。
表示の向こうにいる男を、しばらく見ていた。
「そうか」
『ああ』
「なら、行け」
帝都理法大学の黒瀬零は、僅かに頷いた。
『第一件』
『本日の帰還先』
『帝都理法大学』
『本人回答を確認』
一本目の白い線が。
十二大学共同学籍網から、帝都理法大学へ接続する。
次に。
三年前の黒瀬零の申請書が開いた。
『第四件』
『《第零学部》暫定滞在者』
『正式帰還先』
『未選択』
「現在の大学を見たい」
三年前の俺が言った。
「帝都神律大学を?」
「ああ」
俺を見る。
「案内しろ」
「自分で歩けるだろ」
「三年前の記憶にある構内と、現在の構内が一致するとは限らない」
「地図を見ろ」
「現在の俺がいる」
「便利に使うな」
「自分自身だ」
「別人として登録された直後だろ」
「なら、現在の知人として案内しろ」
「切り替えが早いな」
「三年待った」
灯が俺の袖を引いた。
「案内してあげようよ」
「灯も来るのか」
「三年前の大学、私も知らないから」
「今の大学を歩くんだぞ」
「三年前のお兄ちゃんが、どう覚えてるのか気になる」
「決まりだな」
三年前の俺が言う。
「勝手に決めるな」
『第四件』
『本日の滞在範囲』
『帝都神律大学構内』
『案内候補』
『第三件・黒瀬零』
「登録するな!」
『本人間の合意を照合』
『黒瀬灯による賛成を確認』
「俺はまだ答えてない!」
『回答を要求』
灯と三年前の俺が、同時にこちらを見る。
「……案内する」
『合意を確認』
「監査官に似てきてないか、こいつ」
「学籍網です」
文乃が訂正した。
「余計に悪い」
次に。
第五件の表示が開く。
そこには。
人物の映像がない。
代わりに、一点の座標だけが表示されていた。
『第五件』
『採択領域離脱個体・黒瀬零』
『現在位置』
『帝都神律大学・北西区画』
『旧気象観測所前』
「もう着いたのか」
俺が尋ねる。
『着いたわけではない』
声だけが返ってくる。
『ここを、次に立つ場所として選んだ』
`自証座標`による座標再指定。
距離を走破したわけではない。
速度へ換算できる移動でもない。
自分が次に存在する場所を。
自分で定義しただけだった。
「どうして旧気象観測所なんだ」
『俺のいた領域では、あの場所が残っていなかった』
「灯を消した後に?」
『最初に取り壊された施設だった』
「何があったの」
灯が尋ねる。
『分からない』
「覚えてない?」
『記録が修正されていた可能性がある』
採択された正解を維持するために。
何度も疑問を削除された世界。
その世界で。
最初に失われた場所。
『確かめたい』
「一人で調べるのか」
俺が尋ねる。
『一人で決めたい』
「危険があったら」
『連絡する』
「誰に」
『今のところは、お前に』
「今のところ?」
『未来まで決めるな』
証明票を受け取った時と同じ答えだった。
『第五件』
『本日の調査先』
『帝都神律大学・旧気象観測所』
『施設使用許可』
『臨時発行』
「本来は立入制限区域です」
文乃が言った。
「ただし、《第零学部》暫定滞在者の調査目的であれば、神代先生の許可によって入れます」
「許可する」
緋月が即答した。
「ただし、単独行動記録を残せ」
『監視か』
「救助のためだ」
『必要ない』
「必要になった時、本人が連絡できる保証はない」
短い沈黙。
『……記録だけは許可する』
「十分だ」
白い線が、大学北西部へ伸びていく。
そして。
第四候補の記録が開いた。
『第二件』
『帝都神律大学・学内保護対象』
『《第零学部》暫定滞在者』
『治療継続を確認』
『治療終了後の滞在先候補』
複数の医療室。
研究棟の保護区画。
《第零学部》の空白講義室。
臨時宿泊施設。
第四候補は、どれにもすぐ答えなかった。
「希望はありますか」
文乃が尋ねる。
「一〇六号室」
聞き覚えのない番号だった。
「どこの部屋だ」
俺が尋ねる。
「旧学生寮」
第四候補が答える。
「三年前に使用していた」
白い表示が検索を始める。
――帝都神律大学・旧学生寮。
――一〇六号室。
――現在状態、封鎖。
――登録居住者、なし。
――三年前の利用記録、欠落。
「記録がない」
「知っている」
「それでも、そこへ行くのか」
「ああ」
灯が。
診療椅子の隣に置かれた白い封筒を見る。
三年前の学生証は、まだ第四候補の手元へ返されていない。
部屋の記録もない。
学籍も未返還。
名前さえ選んでいない。
それでも。
本人の中には。
帰ろうとした場所が残っている。
「治療設備がない」
緋月が言った。
「設置しろ」
「簡単に言うな」
「できないのか」
「できる」
「なら問題ない」
「医療担当者が常駐する」
「断る」
「夜間の容体急変へ対応できない」
「監視装置だけにしろ」
「緊急時は入室する」
「事前に通知しろ」
「意識がある場合は通知する」
「ない場合は」
「入る」
第四候補は不満そうだったが。
やがて、小さく息を吐いた。
「それでいい」
『第二件』
『治療終了後の滞在先』
『帝都神律大学・旧学生寮一〇六号室』
『医療保護区画として臨時再登録』
『本人回答を確認』
四本目の白い線が伸びる。
最後に。
現在の俺の記録が開いた。
『第三件』
『帝都神律大学・正規学籍保持者』
『本日の帰還先』
『登録済み学生居住区』
「普通だ」
灯が言った。
「悪いか」
「一人だけ普通」
「右肩と左腕を負傷して、同じ自分が四人増えた翌朝だぞ」
「帰る場所だけは普通」
「それくらい許せ」
『第三件』
『本日の帰還先』
『登録済み学生居住区』
『本人回答を確認』
『同行者』
『なし』
「なし?」
灯が表示を見る。
『黒瀬灯』
『現在、正式居住記録なし』
『第三件との兄妹関係を参照』
『同一居住先への暫定割当てを――』
「待って」
灯が言った。
白い線が止まる。
「お兄ちゃんの部屋へ行くのは嫌じゃない」
「なら」
「でも、勝手に決めないで」
灯は、表示を見上げる。
「私がどこで寝るかは、私に聞いて」
『回答を要求』
「今日は、お兄ちゃんのところに行く」
「狭いぞ」
「知ってる」
「ベッドは一つだ」
「お兄ちゃんは床で」
「当然みたいに言うな」
「右肩を怪我してる人が床は駄目ですね」
澄玲が口を挟む。
「灯さんは、《未定義現象研究室》の仮眠区画を使用することもできます」
「澄玲さんの部屋は?」
「女子寮への臨時宿泊申請が必要です」
「じゃあ、今日は研究室にする」
「俺の部屋じゃないのか」
「狭いって言ったから」
「事実を言っただけだ」
「明日は変わるかもしれない」
「好きにしろ」
「うん。そうする」
『黒瀬灯』
『本日の滞在先』
『《未定義現象研究室》仮眠区画』
『本人回答を確認』
五人だけではない。
灯も。
誰かの関係記録へ自動的に割り当てられず。
自分の今日を、自分で選んだ。
◇
『個別滞在先』
『五件へ対応完了』
『最終同期を終了』
五つの白い表示が閉じ始める。
その時だった。
共同学籍網の最下部。
第六署名欄だけが。
閉じなかった。
正式査問が終わるまで。
誰の氏名も書かれなかった空欄。
現在の本人。
なし。
現在の身体。
なし。
現在の学籍。
なし。
現在の回答。
取得不能。
五件のうち一人から派生生成することも。
第四候補の未返還旧学籍を転用することも。
未発行の共同正規学籍を与えることも。
未来の氏名を現在へ先行適用することも。
全て。
先の正式査問で禁止されている。
『第六署名欄』
『自動補完』
『禁止』
『現在五件からの派生生成』
『禁止』
『《第四候補》未選択情報の転用』
『禁止』
『未来氏名の先行登録』
『禁止』
「なら、閉じるはずだろ」
俺が言った。
「本人がいないなら、今は何もできない」
「はい」
文乃が表示を確認する。
「通常であれば、未提出状態のまま保全されます」
「通常じゃない?」
「外部から、何かが接続しています」
第六署名欄の中央に。
一つの黒い点が浮かんだ。
白い学籍網の表示へ。
初めから存在していなかった穴を。
後から開けたような点。
「何だ」
三年前の俺が、赤い右目を開く。
「保存された記録ではない」
「現在の登録でもない」
旧気象観測所の前から。
採択領域を離脱した俺の声が返る。
『座標がない』
`自証座標`によっても。
黒い点を、現在の一地点へ対応させられない。
黒い点から。
細い文字が滲み出す。
――第六署名予定者。
――本人、未成立。
――現在時点における起源、該当なし。
「起源がない?」
灯が尋ねる。
「《共通起源参照記録》からも分岐していないということです」
澄玲が答える。
「今いる五人の黒瀬零から生まれる記録ではありません」
『照合を継続』
白い表示が、黒い点を囲む。
――五件の黒瀬零との直接起源関係。
――該当なし。
――《第四候補》の未選択記録との同一性。
――該当なし。
――《第四学籍》との連続性。
――該当なし。
――未発行共同正規学籍との同一性。
――該当なし。
――黒瀬灯との関係。
そこで。
表示が止まった。
「私?」
灯が、自分の胸へ手を置く。
新しい文字が現れる。
――接続対象。
――黒瀬灯。
――照合時点。
――十九歳到達時点。
灯の顔から、笑みが消えた。
「十九歳……」
今の灯より先の時間。
まだ迎えていない年齢。
まだ選んでいない未来。
表示は続く。
――黒瀬灯が、本人の意思によって選択しなかった未来。
――当該未来に、第六署名予定者との接続を確認。
「私が選ばなかった未来から」
灯が呟く。
「誰かが来るの?」
『訂正』
共同学籍網が答える。
『黒瀬灯を直接起源とする個体ではない』
『黒瀬灯の未来個体でもない』
『黒瀬灯が選択しなかった未来と』
『成立条件の一部を共有する』
「意味が分からない」
「今は、それでいい」
俺は言った。
灯を見る。
「十九歳の灯が何を選ばないのか、今のお前が決める必要はない」
「でも」
「今、答えたら」
三年前の俺が続ける。
「未来の灯が拒否するはずだった選択を、現在の俺たちが先に決めることになる」
「調べることも駄目?」
「調べ方によります」
澄玲が慎重に答える。
「第六署名予定者と灯さんの関係を調べることはできます」
「じゃあ」
「ですが」
澄玲は、十九歳という表示を見る。
「未来の灯さんが何を選ばなかったのかを、現在の灯さんへ答えさせてはいけません」
「先に聞いたら」
「未来の本人が拒否する権利を、今の私たちが奪う可能性があります」
灯は、自分の手を見る。
《外部観測基準》として。
答えを聞かれないまま、世界から除外された過去。
今度は。
未来の自分へ。
同じことをしてしまうかもしれない。
「……分かった」
灯は、すぐには頷かなかった。
考えて。
それから答えた。
「今は、決めない」
『黒瀬灯による現在回答を確認』
『十九歳到達時点の選択』
『現在から確定しない』
「その一行も」
灯が表示を見る。
「未来の私を縛らない?」
『現在回答は』
『現在時点から未来回答を代行しないという意思のみを記録する』
『十九歳到達時点の選択内容』
『未確定』
「なら、それでいい」
第六署名欄が、僅かに震えた。
黒い点の奥から。
音声記録が再生される。
まだ存在しないはずの誰かの声。
『この記録を聞いている時』
『現在の俺は、まだ存在していない』
男の声だった。
現在の俺とも。
三年前の俺とも。
帝都理法大学の黒瀬零とも。
採択領域から離脱した黒瀬零とも違う。
それでも。
どこか。
聞き覚えがあるような声。
『だから』
『今の俺を、現在の誰かへ割り当てないでくれ』
『《共通起源参照記録》から導出しないでくれ』
『《第四候補》の空白を使わないでくれ』
『俺は』
音声が一度乱れる。
『現在の五人から分かれた、六人目ではない』
灯が、無意識に俺の袖を掴んだ。
『俺を探すなら』
『黒瀬零の中を探さないでくれ』
白い記録の周囲に。
これまでの学籍網では使用されていなかった記号が浮かび始める。
公理。
定義。
成立条件。
内包。
前段階の項化。
上位段階からの再内包。
一つの記号が。
その内部にある構造全体を示し。
次の記号では。
その全体さえ、一つの前提項として扱われる。
『黒瀬灯が』
『選ばなかった未来の中に』
『俺はいる』
音声が止まった。
誰も。
すぐには口を開かなかった。
『現在記録に』
『識別可能な氏名なし』
『照合用仮称を要求』
「本人の名前を、こちらで決めてはいけません」
文乃が言う。
「設定する場合は、現在の本人ではなく、この接続記録だけを指す仮称に限定します」
「第六署名予定者のままでは駄目なの?」
灯が尋ねる。
「それは未来申請における役割名です」
澄玲が答えた。
「今確認されているのは、署名予定そのものではなく、まだ成立していない誰かから届いた個別の接続記録です」
玄理が。
救護棟側の通路から、黒い点を見上げていた。
競技場の入口ではない。
俺たちと一緒に移動していたはずなのに。
誰も。
彼が足を止めた瞬間へ気づかなかった。
「署名者として確定していない」
玄理が言う。
「黒瀬零としても成立していない」
「現在の五件から分岐した六人目でもない」
黒い点を見る。
「だが、六枚目の欄へ接続し、現在の五件と区別される候補ではある」
玄理は、文乃へ視線を向ける。
「記録上の仮称を、《第六候補》とする」
『仮称』
『《第六候補》』
『適用対象』
『現在未成立の接続記録』
『本人氏名としては使用しない』
「それなら」
灯が小さく頷いた。
「勝手に名前を決めたことにはならない?」
「ならない」
玄理が答える。
「《第六候補》は、現在の本人の名ではない」
「本人が現れた時」
「本人へ改めて聞く」
六枚目の空欄へ。
初めて仮称が記される。
――《第六候補》。
氏名。
未成立。
現在地。
未成立。
起源。
未成立。
黒瀬灯との関係。
未来回答まで未確定。
そして。
最後の一行。
――接続記録の成立領域を照合。
◇
表示が。
何度も書き換わる。
《改稿》。
単独では該当しない。
《世界論文》。
単独では該当しない。
《世界研究領域》。
単独では該当しない。
《第一観測圏》。
該当しない。
《第二観測圏》。
該当しない。
さらに上位の《観測圏》。
該当しない。
終端なく続く全《観測圏》が。
一つの《観測階序》としてまとめられる。
それでも。
接続先には届かない。
『《観測階序》』
『接続先下位構造として確認』
「《観測階序》より上」
灯が表示を読む。
「資料にあった……」
「ああ」
俺も、その名前を知っている。
《観測階序》が大学の正式記録へ追加された際。
その全体を一つの公理項として参照する上位構造として、同時に示された名称。
先の正式査問では。
その内部に属する記録規程へ接続した、局所監査機構が現れた。
そして。
査問終了後に配布された学内資料で。
基本的な構造が整理されたばかりだった。
無限の《観測階序》を内包する個別段階。
上位階層が。
前の《公理階層》全体を一つの公理項として扱い。
その一項を、さらに無限に内包する構造。
「《公理階層》」
灯が。
今度は迷わず、その名を読んだ。
『接続先分類』
『《公理階層》』
『個別階層番号』
『照合不能』
『所属《公理層序》』
『照合不能』
『《公理階梯》全体との対応』
『照合不能』
「名称そのものは、既に知っています」
澄玲が表示を追う。
「ですが、これまでは構造上の分類と、局所監査機構の接続記録しか確認できていませんでした」
「今回は違う?」
灯が尋ねる。
「はい」
澄玲は黒い点を見る。
「初めて、具体的な個別記録の接続先として《公理階層》が表示されています」
「どの《公理階層》だ」
俺が尋ねる。
「分かりません」
文乃が照合結果を確認する。
「一つの《公理階層》には、無限の《観測階序》が内包されます」
「その上位階層は、前階層全体を一つの公理項として扱い、さらに無限に内包します」
「ですが、この接続記録が」
「どの段階に属する《公理階層》なのか」
「どの《公理層序》の内部にあるのか」
「現時点では、識別できません」
「先の正式査問で現れた局所監査機構が接続していた場所と同じなのか」
俺が尋ねる。
「確認できない」
玄理が答えた。
「同じ《公理階層》である可能性も」
「別の《公理階層》である可能性もある」
「公理構造は一段ではない」
玄理は、表示された接続分類を見る。
「一つの《公理階層》だけでも、無限の《観測階序》を内包する」
「さらに、上位階層は前階層全体を一項へ格下げし、その一項を無限に内包する」
「その系列全体が、一つの《公理層序》を成す」
「さらに上位の《公理層序》は、前層序全体を一つの公理項として扱う」
「そして」
「終端なく続く全《公理層序》と、その内部の全公理構造を含む総体が、《公理階梯》である」
「今回分かったのは」
灯が確認する。
「《第六候補》の記録が、どこかの《公理階層》へ繋がっていることだけ?」
「そうである」
「《公理層序》や《公理階梯》から来たとは、まだ言えない?」
「言えない」
玄理は即答した。
「接続先の分類が《公理階層》であることと、公理構造全体が一人の記録を送ったことは同じではない」
先の正式査問で。
俺たちは既に確認している。
局所機構と。
構造全体を。
同じものとして扱ってはならない。
「では」
澄玲が黒い点を見つめる。
「この記録を送った主体も、まだ分からないのですね」
「分からない」
「《第六候補》本人が送ったのか」
「本人と関係する何らかの機構が送ったのか」
「未来学籍側の保全処理なのか」
「特定の《公理階層》に属する別の記録規程なのか」
「現在の情報だけでは、確定できない」
玄理が言葉を切る。
「だから」
「今すぐ追うべきではない」
「理由は」
俺が尋ねる。
「お前たちは負傷している」
「それだけか」
「《第六候補》は、現在成立していない」
玄理は六枚目の空欄を見る。
「存在しない者を急いで見つけようとすれば」
「見つけた側の都合で」
「成立条件を決めることになる」
「なら、何もしない?」
灯が尋ねる。
「違う」
玄理は答えた。
「調べる」
「何を」
「この接続である」
《第六候補》と黒瀬灯の間に存在する関係。
現在成立していない者から、音声記録が届いた仕組み。
十九歳の黒瀬灯が選択しなかった未来と。
現在の共同学籍網が接続した理由。
そして。
記録が繋がっている、特定不能の《公理階層》。
「ただし」
玄理は灯を見る。
「未来の回答そのものは、現在から決定しない」
「期限は?」
「設けない」
「いつまでに見つけないと、消えるとかは」
「現時点で確認されていない」
「確認されたら?」
「その時点で考える」
「今、決めなくていい?」
「よい」
玄理の答えは短かった。
灯は、六枚目の空欄を見る。
そこには。
氏名も。
顔も。
身体もない。
ただ。
いつか存在するかもしれない誰かの声だけが残っている。
「第六候補」
灯が、小さく呼んだ。
返事はない。
現在の本人は。
まだ存在していない。
「聞こえてないよね」
「分からない」
俺は答えた。
「でも」
灯は、空欄へ向けて言う。
「勝手に決めないで待ってるから」
六枚目の記録は、何も返さなかった。
沈黙。
だが。
俺たちは、それを同意とも拒否とも扱わない。
まだ。
答えを受け取っていないだけだ。
◇
午前六時二十四分。
最終同期が終了した。
帝都理法大学の黒瀬零は。
自分の大学へ戻るため、大学間移動門を通過した。
三年前の黒瀬零は。
俺たちと共に、現在の帝都神律大学を歩く。
採択領域から離脱した黒瀬零は。
失われた世界に存在しなかった旧気象観測所へ入る。
第四候補は。
名前も学籍も受け取らないまま。
治療を終えた後。
今は残ると決めた一〇六号室へ運ばれていく。
現在の俺は。
右肩と左腕の治療を続けながら。
灯と共に。
《第六候補》へ繋がる《公理階層》の記録を調べる。
五人は。
昨日まで。
一つの名前へ戻されようとしていた。
今は。
五つの現在として。
五つの場所へ進んでいく。
その後ろに。
六枚目の空欄が残っている。
現在の五人から分岐するのではない。
第四候補の名前を奪うのでもない。
《第四学籍》を本人へ作り替えるのでもない。
灯の未来を。
現在から決めて生まれるのでもない。
まだ誰にも選ばれていない未来で。
まだ誰にも名づけられていない本人が。
いつか。
自分の答えを持って現れるかもしれない。
夜は明けていた。
五人分の帰る場所には。
既に朝が届いている。
けれど。
夜明けの余白に残された未来は。
まだ。
誰の名前も持っていなかった。




