表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『神律大学の未証明者《アンプローヴン》』   作者: 仕儀の反駁
第四章《学術都市》《第四候補》編

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
61/82

第六十話 ひとつの名から、五つの帰る場所へ

 白い頁は、結論を書かなかった。


 第四候補が答えるまで。


 三年前から残されていた学籍を受け取るか。


 黒瀬零という氏名を選ぶか。


 別の名を名乗るか。


 何も決めず、今の状態を続けるか。


 その全てを、本人が自分の回答として提出するまで。


 十三番目の席は、一枚の空白を残して待っている。


『回答期限』


『本人設定まで未定』


 十秒も。


 一分も。


 三年も。


 監査官は、もう勝手に期限を決めなかった。


 それは、《公理階層》そのものが変化したという意味ではない。


 無限の《観測階序》を内包し、さらに上位階層が前階層全体を一つの公理項として扱う。


 その巨大な公理構造の全体へ。


 俺たちの査問が、直接影響を与えたわけでもない。


 変わったのは。


 その内部に属する記録規程へ接続し。


 この競技場で判断と処理を行っていた、一つの局所監査機構だった。


 予測と回答を。


 結果と選択を。


 初めて別々の欄へ記録した。


 競技場中央には、三年前の学生証を収めた白い封筒が置かれている。


 第四候補の診療椅子から、手を伸ばせば届く距離。


 近すぎず。


 遠すぎず。


 受け取ることも。


 受け取らないことも。


 今は、決めなくてよい場所。


「これで、正式査問は終わりですか?」


 文乃が十二の審査席へ確認した。


『退学処分の再審』


『暫定決定を完了』


『ただし』


 共同学籍審査官の席が光る。


『共同学籍審査は』


『未完了である』


 俺たち五人の記録が、競技場上空へ並んだ。


 帝都理法大学の黒瀬零。


 《第四候補》。


 帝都神律大学の黒瀬零。


 三年前の黒瀬零。


 採択領域から離脱した黒瀬零。


 第一実技。


 第二実技。


 第三実技。


 正式査問。


 同じ道を走っても、選んだ行動は異なった。


 同じ場所へ立っても、そこに残った理由は異なった。


 同じ結果へ到達しても、そこへ至る答えは重ならなかった。


 勝った者。


 負けた者。


 謝罪した者。


 まだ受け入れるかを決めていない者。


 過去から同じ名前を選び直した者。


 名前そのものを、今は選ばないと答えた者。


 五件が一人ではないことは、既に確認されている。


 それでも。


 共同学籍網の起源照合層では、五件全てが一本の線へ接続されたままだった。


 それは《公理階層》へ直接伸びる線ではない。


 共同学籍網が。


 同じ起源を持つ記録を、一件の識別情報へまとめるために使用してきた内部経路。


 ――起源識別記録。


 ――黒瀬零。


「まだ、その名前を一件の識別番号として扱うつもりか」


 第四候補が尋ねる。


『共有氏名については』


『独立した複数保持を暫定承認した』


「なら、何が残っている」


『氏名ではない』


 五件から伸びる線が、さらに深い記録へ沈んでいく。


 顔。


 身体。


 記憶。


 過去。


 学籍。


 黒瀬灯との関係。


 未来申請。


 複数の共通項目を通過し、最後に一つの欄へ集まった。


 ――共通起源。


『五件は』


『同一起源から分岐した独立個体として記録される』


『しかし』


『共同学籍網は』


『一件の起源に対し』


『一件の学生記録のみを対応させる』


「また一人だけを選ぶのか」


 俺が言った。


『第三実技で未発行となった共同正規学籍とは異なる』


『現在必要なのは』


『起源記録に対応する代表学籍である』


「呼び方を変えただけだろ」


 第四候補が白い頁を睨む。


『代表学籍は』


『他四件を無効化しない』


『ただし』


『共同学籍網上の照会時』


『代表学籍を経由して』


『他四件へ接続する』


「一人を入口にするのか」


 帝都理法大学の黒瀬零が尋ねた。


『肯定』


「誰を選ぶ」


『制度上の連続性が最も高い個体を推奨』


 帝都理法大学の黒瀬零の記録が、一段上へ移動する。


「選ばない」


 返答は早かった。


『代表学籍は』


『優先順位ではない』


「名称の問題ではない」


 帝都理法大学の黒瀬零は、自分の記録を元の高さへ戻した。


「他の四件へ到達するために、俺を経由しなければならない。それは、俺を基準にすることと同じだ」


『照会効率を目的とする』


「効率のために、本人同士の関係を順序へ変えるな」


『では』


 現在の俺の記録が上がる。


『現在関係の連続性が最も高い個体』


「俺も選ばない」


『理由を要求』


「俺を入口にしたら」


 俺は灯を見た。


「第四候補や、ほかの黒瀬零と灯との関係まで、俺を経由して記録される」


「私は、お兄ちゃんを経由しないと、第四候補へ聞けなくなるの?」


 灯が尋ねた。


『照会手続上は』


『代表学籍との関係を参照する』


「嫌だよ」


 灯は迷わなかった。


「このお兄ちゃんは、このお兄ちゃん」


 俺の左袖を掴む。


 右肩にも。


 左腕の制限帯にも触れない位置。


「第四候補へ聞きたいことは、第四候補へ聞く」


 診療椅子へ座る第四候補を見る。


「三年前の黒瀬零に聞きたいことは、三年前の黒瀬零に聞く」


 三年前の俺へ視線を移す。


「採択領域から離脱した黒瀬零が、どこにいたいのかは、その人へ聞く」


 壁際へ立つ男を見る。


「帝都理法大学の黒瀬零へ怒りたい時も、その人に直接怒る」


「俺には、怒る前提なのか」


 帝都理法大学の黒瀬零が尋ねる。


「今のところは」


「そうか」


「だから」


 灯は五件の記録を見上げた。


「誰か一人を、ほかの人へ行くための入口にしないで」


『関係照会の効率が低下する』


「迷えばいいだろ」


 第四候補が言った。


『不要な探索処理が発生する』


「誰を呼ぶか考える時間まで、不要扱いするな」


 十三番目の席に残された一行が、淡く光る。


 ――待機理由。


 ――回答帰属を本人へ保持するため。


 白い頁の動きが止まる。


 《公理階層》全体が沈黙したのではない。


 局所監査機構が。


 自ら記録したばかりの待機理由と。


 目の前の要求を照合していた。


 監査官は、すぐには反論しなかった。


     ◇


「そもそも」


 澄玲が、五件の記録へ近づく。


「代表学籍が必要になるのは、共通起源と個人記録を、直接対応させようとするからです」


『一件の起源に対し』


『一件の記録入口を必要とする』


「起源を、個人識別の入口として使う必要はありません」


『共通起源を削除しますか』


「削除しません」


 澄玲の周囲へ、白い線が広がる。


「同じ起源を持っていることは、事実です」


 五人の顔。


 似た輪郭。


 異なる姿勢。


 異なる負傷。


 異なる視線。


「共通点を消さなければ、別人になれないとは考えません」


『共通起源を保持した場合』


『複数個体への対応が必要』


「対応してください」


『一件対複数件の対応は』


『現行記録形式に存在しない』


「なら」


 澄玲は、五つの記録を動かした。


 一列には並べない。


 円形にも置かない。


 一件の中心から枝分かれする形にも配置しない。


 五つの記録を、それぞれ独立した位置へ置く。


 その少し離れた場所に。


 一つの共通起源記録だけを残した。


「共通起源を、個人の上位記録にしないでください」


『位置関係を要求』


「前でも、後ろでもありません」


『階層関係を形成不能』


「形成する必要がないのです」


 白い線が、五件から共通起源へ伸びる。


 誰か一人を中心にしない。


 誰か一人から分岐した形にも見せない。


 現在の五人が、それぞれ必要な時に、同じ過去を参照する。


 だが。


 共通起源から、五人の現在を決定する矢印は伸びていない。


「過去が、現在の本人を決めるのではありません」


 澄玲が言う。


「現在の五人が、自分の意思で必要な過去を参照するのです」


『参照方向の逆転を確認』


「起源を、本人を生成する命令として扱わないでください」


 帝都理法大学の黒瀬零が、三年前の処分責任を参照する。


 現在の俺が、失われた過去の一部を参照する。


 三年前の黒瀬零が、現在へ続かなかった記憶を参照する。


 採択領域から離脱した黒瀬零が、採択された場所を離れる前の自分を参照する。


 第四候補が。


 名前を選ばないまま。


 自分がどこから来た可能性があるのかを、必要な時だけ参照する。


「共通起源は」


 澄玲の瞳へ、青い光が宿る。


「五人を一人へ戻す場所ではありません」


 五つの経路が、互いに重ならず成立する。


「五人が、自分の過去を確かめに行ける資料です」


「`世界は解を持つ(エウレカ)`」


 共通起源記録の表示が変わった。


 ――起源識別記録。


 その文字が消える。


 代わりに。


 ――共通起源参照記録。


『個体識別機能を喪失』


「最初から、個人を一人へ決めるために使うべきではありませんでした」


『代表学籍を設定不能』


「設定しなくて構いません」


『照会時』


『五件全てを個別に確認する必要がある』


「それが、五人いるということです」


 澄玲は五件の記録を見た。


「一人を調べる手間で、五人を処理しようとしないでください」


 白い頁がめくられる。


 処理時間。


 参照負荷。


 記録容量。


 全てが増加を示していた。


『非効率』


「そうですね」


 澄玲は否定しなかった。


「人が増えたのですから、記録も増えます」


『元は一件だった』


「今は五人です」


『同一起源である』


「それでも五人です」


『同じ氏名を四件が保持する』


「四人が、それぞれ現在の自分の氏名として選びました」


『一件は氏名未選択』


「それでも、既に一人として存在しています」


 澄玲の声は穏やかだった。


 だが。


 一つの問いにも、後ろへ下がらなかった。


「減らさないでください」


 五件の記録が、それぞれ別々の白線へ置かれる。


「分けるために、共通点を奪うのでもなく」


「共通点があるから、一つへ戻すのでもなく」


「五人分、記録してください」


 白い頁の動きが止まった。


『記録容量』


『不足なし』


「なら、できます」


『処理時間』


『増加』


「待てます」


 第四候補が言った。


 十三番目の席に残る、回答待機の空白を見る。


「今度は、お前も待てるだろ」


 監査官は、回答を予測して先に記録しなかった。


 数秒の沈黙。


 それ自体を、無駄な時間として削ることもしない。


『待機可能』


 短い一行が、新たに加わった。


     ◇


 五件を、何として登録するのか。


 最後の審査は、そこから始まった。


『第一件』


『帝都理法大学・正規学籍を保持』


『氏名、黒瀬零』


『独立個体登録が可能』


 帝都理法大学の黒瀬零から、ほかの四件へ伸びていた線が切れる。


 学籍番号。


 所属。


 履修情報。


 三年前の退学処分へ署名した責任。


 現在、その署名への同意を撤回した回答。


 全てが、本人一件へ対応する。


『第二件』


『帝都神律大学・正規学籍を保持』


『氏名、黒瀬零』


『独立個体登録が可能』


 現在の俺。


 帝都神律大学の学籍。


 右肩の負傷。


 左腕の制限。


 灯との現在の兄妹関係。


 第四候補との対抗戦に敗北した記録。


 能力を使わず。


 左腕も壊さず。


 敗者として残った選択。


 一つずつが、俺自身の記録として固定される。


『第三件』


『三年前の黒瀬零』


『正規学籍なし』


『《第零学部》暫定滞在者』


『氏名、黒瀬零』


『個体登録は可能』


『学生登録は不能』


 三年前の俺が、表示を見る。


「個人としては認めるが、学生ではない」


「現在の所属を、自分で選んでいませんから」


 文乃が答えた。


「三年前に保持していた学籍を、そのまま現在へ移すこともできません」


「それでいい」


 三年前の黒瀬零は、迷わなかった。


「過去に学生だったからといって、今の所属まで自動で決めるな」


『現在状態』


『帝都神律大学《第零学部》暫定滞在者』


『仮受講者』


『正式所属』


『本人回答まで未選択』


「記録しろ」


 白い表示が確定した。


『第四件』


『採択領域離脱個体・黒瀬零』


『正規学籍なし』


『《第零学部》暫定滞在者』


『氏名、黒瀬零』


『個体登録は可能』


『学生登録は不能』


「異議は?」


 俺が尋ねる。


「ない」


 採択領域から離脱した黒瀬零は、足元へ一点の座標を定めた。


「所属を持たないことと、所属を拒否することは同じではない」


「選ぶまで待つ?」


「ああ」


『現在状態』


『帝都神律大学《第零学部》暫定滞在者』


『仮受講者』


『正式所属』


『本人回答まで未選択』


 二件の暫定滞在記録。


 結果だけを見れば、同じ状態。


 だが。


 三年前の黒瀬零は、過去の学籍に現在を決めさせないため、未選択を選んだ。


 採択領域から離脱した黒瀬零は、外部に自分の立つ場所を決めさせないため、未選択を選んだ。


 同じ状態。


 異なる理由。


 別々の本人記録として確定する。


『第五件』


 第四候補の前に。


 白い封筒。


 未選択の氏名欄。


 三年間の学籍審査空白。


 現在の負傷記録。


 第一実技。


 第二実技。


 正式査問。


 全てが並んだ。


『氏名』


『未選択』


『旧学籍』


『本人回答まで未返還』


『現在所属』


『なし』


『共通起源関係』


『保持』


『個体登録』


『規程外』


「また規程外か」


 第四候補が言う。


『氏名を持たず』


『旧学籍を受け取らず』


『正式所属を持たない個体を』


『共同学籍網へ登録する区分が存在しない』


「第一実技にも第二実技にも参加しています」


 文乃が異議を提出する。


「正式査問の当事者としても、既に認められています」


『審査対象であることと』


『登録可能であることは別である』


「今ここにいることと」


 第四候補が、白い頁を見る。


「お前の欄に入ることも別だな」


『肯定』


「なら、入れなくていい」


「第四候補」


 灯が呼ぶ。


「何だ」


「登録されなくてもいいの?」


「登録されるために、名前や学籍を選ぶつもりはない」


「でも、登録されなかったら」


「今までと同じだ」


「三年間と同じ?」


 第四候補は、すぐには答えなかった。


 大学の保護がない。


 医療記録が、正式な本人記録へ繋がらない。


 審査へ参加するたび、一時的な識別名を要求される。


 関係候補も。


 過去との接続も。


 制度の都合で、再び切られる可能性がある。


「同じでいいわけじゃない」


 灯が言った。


「お前が決めることじゃない」


「うん」


 灯は否定しなかった。


「でも、第四候補がまだ決めていないことを理由に、また何も守られないのは嫌」


「保護を受けるには、所属が必要だ」


「本当に?」


 灯は文乃を見る。


「名前も、学籍も、大学も決めていない人は、守れないの?」


「通常の学生保護制度では、所属学籍が必要です」


「学生じゃなかったら?」


「学内保護対象として登録する方法があります」


 文乃が、既存の規程を開いた。


 正式学籍を持たない研究協力者。


 審査中の一時保護対象。


 《第零学部》暫定滞在者。


 大学へ正式所属する前の仮受講者。


「現在の第四候補へ、完全に一致する区分はありません」


「また欄がない?」


「はい」


 文乃は認めた。


「ですが、複数の既存制度を組み合わせれば、本人が所属を決めるまで、現在の状態を保護できます」


『複合登録は』


『規程外』


「規程外であることは、本人が存在しないことを意味しません」


 文乃は第四候補を見る。


「ただし、大学側だけで決定はできません」


「また本人回答か」


「はい」


「聞くのか」


「聞きます」


 文乃は申請書を、第四候補の前へ出した。


 氏名欄はない。


 学籍番号もない。


 旧学籍を受け取る欄もない。


 必要なのは、一つの回答だけだった。


 ――正式所属を決定するまで。


 ――帝都神律大学の学内保護対象として。


 ――暫定滞在することを希望するか。


 回答欄。


 同意。


 拒否。


 保留。


 三つの選択肢が、最初から用意されている。


 第四候補が、文乃を見た。


「保留があるんだな」


「今回の査問で、必要だと分かりました」


「期限は?」


「本人設定まで未定です」


「監査官に習ったのか」


「皆さんからです」


 第四候補は、申請内容を読む。


 一行ずつ。


 最後まで。


 誰も、読む時間を短縮しなかった。


「保護対象になれば、何が変わる」


「学内滞在中の安全保障、治療、資料閲覧、共同学籍審査への参加権が確保されます」


「学生になるわけではない」


「なりません」


「黒瀬零を名乗る必要もない」


「ありません」


「旧学籍を受け取る必要は?」


「ありません」


「後から、受け取るよう強制される可能性は」


「今回の査問記録により、本人回答なしの返還は禁止されます」


 第四候補は、白い封筒を見た。


 三年前に失った学生証。


 手を伸ばせば届く。


 それでも。


 今は触れないと選べる距離にある。


「保留にした場合は」


「現行の臨時保護状態を維持します。ただし、正式査問終了後の滞在権限は限定されます」


「拒否したら」


「大学の外へ出ることはできます。ただし、現在の負傷状態では、退院許可が出ません」


「神代緋月が止める?」


「止める」


 緋月が即答した。


「本人の選択は」


「治療拒否の結果を説明した上で聞く。説明中に逃げようとした場合は拘束する」


「それは聞くと言わない」


「治療中に意識を失えば、回答もできない」


「脅しか」


「診断である」


 第四候補は、緋月を睨んだ。


 やがて。


 僅かに息を吐く。


「同意する」


 右手で筆記具を取った。


 左足へ力が入らないよう、診療椅子へ身体を預けたまま。


 同意欄へ、短い線を引く。


「今は、ここに残る」


 灯の表情が、僅かに明るくなった。


「いつまで?」


「名前と学籍を決めるまでとは言っていない」


「うん」


「出ていくと決めるまでだ」


「分かった」


『第五件』


『仮称、《第四候補》』


『氏名、未選択』


『帝都神律大学・学内保護対象』


『《第零学部》暫定滞在者』


『仮受講者』


『旧学籍』


『本人回答まで未返還』


『共通起源関係』


『保持』


『個体状態』


『独立』


 最後の一行が白く光る。


 ――独立個体として登録。


 第四候補は、しばらくその文字を見ていた。


「これで」


 灯が尋ねる。


「消されない?」


「少なくとも」


 文乃が答えた。


「名前や正式所属を決めていないという理由だけで、現在の状態を削除することはできません」


「大学を出たら?」


「その時は、本人が選ぶ場所に対応した保護方法が必要です」


「今から心配するな」


 第四候補が言う。


「でも」


「今は残ると答えた」


 灯を見る。


「今の答えを聞け」


 灯は口を閉じた。


 未来の答えまで、先に求めない。


 それから。


 少しだけ笑った。


「うん」


     ◇


「《第四学籍》についても確認が必要です」


 文乃が、三枚の《異議付記欄》を抱える人影を見る。


『当該存在は』


『審査対象五件に含まれない』


「含めろとは言っていません」


 文乃は別の申請書を開く。


「証人としての登録を求めます」


『残余記録である』


「本人は、証人として残ることを選びました」


『記録構成率』


『規定値未満』


「構成率で、現在の本人回答を消さないでください」


 《第四学籍》が、自分から一歩前へ出た。


「俺は第四候補ではない」


『確認済み』


「失われた三件そのものでもない」


『現在構成との完全一致なし』


「第四候補の未提出回答も、もう持っていない」


『肯定』


「それでも」


 三枚の《異議付記欄》を掲げる。


「三件の異議を保持し」


 胸元の透明な空白へ触れる。


「第四候補の回答を本人へ返し」


 正式査問の記録を見る。


「その後も、ここに残った」


『記録内容を確認』


「俺は、見たことを証言するために残る」


『外部媒体への転写で代替可能』


「俺が見た」


『情報は同一』


「また、それか」


 《第四学籍》は白い頁を見上げた。


「内容が同じでも、誰が証言するかは同じではない」


 監査官の頁には、既にその差が残っている。


 第四候補の未提出回答。


 《第四学籍》による返還。


 帝都理法大学の黒瀬零による謝罪と責任の保持。


 同じ内容だけを保存したのではない。


 誰が、いつ、何を選んだのかまで記録している。


『証言主体の差を確認』


「なら、俺を媒体へ戻すな」


『現在状態を要求』


「証人だ」


『氏名』


「ない」


『学籍』


「ない」


『所属』


「今は決めていない」


『個体分類』


「お前が考えろ」


『回答不足』


「俺は答えた」


 《第四学籍》は、第四候補の現在回答を見る。


 ――氏名、未選択。


「名前がないことを、無回答にするな」


 白い頁が一枚めくられた。


 空白。


 そこへ、新しい記録が書かれる。


 ――証言主体。


 ――仮称、《第四学籍》。


 ――起源。


 ――三件の消失学籍残余記録。


 ――現在状態。


 ――独立した証人記録。


 ――外部媒体への強制転写。


 ――本人同意まで禁止。


『暫定登録』


「暫定か」


『氏名および所属が未選択』


「今は、それでいい」


 《第四学籍》は答えた。


 第四候補が隣から言う。


「お前も名前を決めるのか」


「今は決めない」


「真似するな」


「お前が最初ではない」


「誰が先だ」


「三件の異議を書いた者たちだ」


「俺かもしれないだろ」


「お前ではないかもしれない」


「面倒だな」


「お前に言われたくない」


 灯が、とうとう声を出して笑った。


「二人とも、すごく似てる」


「似ていない」


 二人の回答が重なる。


『発言一致』


『理由照合を――』


「しなくていい」


 俺が監査官へ言った。


「今のは、ただの言い争いだ」


『記録対象外としますか』


「残しておけ」


 第四候補が言う。


「どっちだよ」


「俺が言ったことを消すな」


「なら残す」


『発言記録を保存』


 少しだけ。


 競技場の空気が緩んだ。


     ◇


『審査対象五件の登録を確認』


 五つの個体記録が並んだ。


 誰も上ではない。


 誰も下ではない。


 誰か一人を通過しなければ、ほかの誰かへ届かない形でもない。


 共通起源参照記録だけが、少し離れた場所へ置かれている。


 必要な者が。


 必要な時に。


 自分から参照するための過去。


『代表学籍』


『設定しない』


『優先個体』


『設定しない』


『正規性順位』


『設定しない』


『共有氏名保持者』


 ――四件。


『氏名未選択者』


 ――一件。


『個体数』


 ――五件。


『全件の独立』


 ――承認。


 競技場の上空へ。


 五本の白い線が伸びる。


 それぞれ異なる場所へ。


 帝都理法大学。


 帝都神律大学。


 《第零学部》の暫定滞在区画。


 採択領域から離脱した者が、自ら選び直す座標。


 そして。


 第四候補が、今は残ると決めた場所。


 同じ起源から。


 五つの帰る場所へ。


「終わった?」


 灯が小さく尋ねる。


『十二大学共同正式査問』


『最終結果を表示』


 十三の審査席が、一斉に光った。


 ――審査対象。


 ――五件。


 ――個体独立性。


 ――全件承認。


 ――共通起源。


 ――参照記録として保持。


 ――個体識別機能。


 ――使用しない。


 ――代表個体。


 ――設定しない。


 ――正規性順位。


 ――設定しない。


 ――氏名“黒瀬零”の保持。


 ――四件。


 ――各本人による独立選択として承認。


 ――《第四候補》。


 ――氏名未選択。


 ――共通起源関係を保持した独立個体として承認。


 ――旧学籍。


 ――本人回答まで未返還。


 ――現在状態。


 ――帝都神律大学・学内保護対象。


 ――《第零学部》暫定滞在者。


 ――《第四学籍》。


 ――独立した証言主体として暫定承認。


 最後に。


 現在の五件へ、個別の登録番号が与えられた。


 学籍番号ではない。


 起源番号でもない。


 それぞれの現在を、別々に記録するための番号。


 帝都理法大学の黒瀬零。


 ――第一件。


 《第四候補》。


 ――第二件。


 現在の俺。


 ――第三件。


 三年前の黒瀬零。


 ――第四件。


 採択領域から離脱した黒瀬零。


 ――第五件。


 数字に、優先順位としての意味はない。


 正しさの順番でもない。


 単に。


 五人を、五人として数えるための番号だった。


『共同学籍審査』


『完了』


『審査対象五件』


『統合処理』


『実行しない』


『無効化処理』


『実行しない』


『氏名削除処理』


『実行しない』


『個体登録』


『完了』


 競技場中央にあった白線が消える。


 俺たちを区切っていた五つの審査位置も。


 十二の審査席も。


 一つずつ、床へ沈んでいく。


 最後まで残ったのは、十三番目の席だった。


 白い頁の監査官は、第四候補を見る。


『未返還旧学籍について』


『回答を待機する』


「期限は」


『本人設定まで未定』


「予測は」


『実行可能』


「使うのか」


『本人回答としては使用しない』


 第四候補は、僅かに目を細めた。


「なら、待ってろ」


『待機を開始』


 十三番目の席が、白い頁へ分解される。


 今度は、逃げるためではない。


 査問が終わったから。


 局所監査窓口としての役割を閉じるため。


 三年前の処理記録も。


 今回提出された証言も。


 新たに記録された待機理由も。


 接続先の公理構造へ持ち去られることはない。


 正式査問へ提出された記録として。


 十二大学共同学籍網の内部へ残される。


 頁が、最後の一枚になる。


 そこに書かれていたのは、結論ではなかった。


 ――第四候補の回答。


 ――待機中。


 白い頁が閉じた。


     ◇


 競技場の出口が開く。


 最初に外へ出ようとしたのは、第四候補だった。


 正確には。


 診療椅子の車輪へ、右手を伸ばした。


「触るな」


 緋月が後ろから椅子を押さえる。


「査問は終わった」


「治療は終わっていない」


「自分で動ける」


「左足の固定具を交換するまで、歩行は禁止だ」


「座ったまま動かす」


「腹部の損傷がある。腕だけで車輪を回すな」


「では、どうやって出る」


「私が押す」


「断る」


「本人回答か」


「そうだ」


「医療上、却下する」


「さっきまでの話を聞いていたのか」


「聞いていた」


 緋月は、第四候補の正面へ回る。


「だから説明する。現在のお前は、帝都神律大学の学内保護対象であり、私の治療記録へ正式に登録された」


「それがどうした」


「治療方法の説明を受ける権利がある。治療を拒否する権利もある」


「なら拒否する」


「ただし」


 緋月は、第四候補の左足首を示した。


「靱帯損傷を放置した場合、歩行機能へ長期障害が残る可能性がある。右大腿筋群の微細断裂も拡大している。治療を拒否して意識を失えば、学籍や氏名について回答することもできなくなる」


「脅しか」


「危険の告知である」


 第四候補は黙った。


 監査官ではない。


 回答期限もない。


 予測した結論を、先に提出されることもない。


 緋月は待った。


 第四候補が、自分で答えるまで。


「……治療を続ける」


「分かった」


「ただし」


「条件があるのか」


「椅子は、自分で動かす」


「却下する」


「今、俺の答えを聞いた直後だろ」


「治療を受けるかは選べる。現在の負傷状態で、腹部へ負荷をかける操作は許可しない」


「選べる範囲を、お前が決めるのか」


「人体が決めている」


「面倒だな」


「お前に言われたくない」


 緋月が診療椅子を押し始める。


 その隣を、《第四学籍》が歩いた。


「お前はどこへ行く」


 第四候補が尋ねる。


「証人として、治療結果を記録する」


「必要ない」


「俺が決めた」


「勝手だな」


「お前たちから学んだ」


 二人が出口を越える。


 三年前の黒瀬零は、《第零学部》の暫定滞在証を受け取った。


 採択領域から離脱した黒瀬零は、自分の証明票をすぐには手に取らない。


「受け取らないのか」


 帝都理法大学の黒瀬零が尋ねる。


「紙がなくても、今いる場所は変わらない」


「記録があれば、後から存在しなかったことにはされない」


「お前の言葉か」


「ああ」


 採択領域から離脱した黒瀬零は、証明票を見る。


「なら、今は受け取る」


「今は、か」


「未来まで決めるな」


「分かった」


 帝都理法大学の黒瀬零は、自分の大学へ戻る出口へ向かう。


 採択領域から離脱した黒瀬零は、同じ出口を使わない。


 姿が消える。


 `自証座標(アクシス・エゴ)`による座標再指定。


 身体が距離を走破したわけではない。


 速度へ換算できる移動でもない。


 自分が次に立つ場所を、自分で決めただけだった。


 三年前の黒瀬零は、俺の隣へ一度だけ立った。


「現在の俺」


「その呼び方を続けるのか」


「ほかにない」


「名前は同じだ」


「時点を指定しろと言ったのは俺だ」


「そうだったな」


 三年前の俺は、帝都神律大学の構内へ続く扉を見る。


「この大学を、覚えている場所として歩くのか」


「今の場所として歩くのか」


「まだ決めていない」


「なら、迷ったら連絡しろ」


「誰に」


「俺に」


「過去の自分へ、道を聞かれるのか」


「嫌か」


「少し面白い」


「ならいい」


 三年前の黒瀬零は、僅かに笑った。


「お前も変わったな」


「お前ほどじゃない」


「それを、今から確かめる」


 同じ扉を通る。


 だが。


 同じ帰り道を選んだわけではなかった。


     ◇


 最後に競技場へ残ったのは。


 俺。


 灯。


 澄玲。


 朔夜。


 獅堂。


 玄理。


 文乃。


 そして。


 緋月に押されて出口へ向かう、第四候補の背中だった。


「お兄ちゃん」


 灯が呼ぶ。


「何だ」


「終わったんだよね」


「今回の審査はな」


「また何か起きる?」


「起きるだろうな」


「即答しないでよ」


「今までの実績がある」


「緋月先生みたいなこと言ってる」


「似てきたか」


「そこは似なくていい」


 灯は、俺の左袖を掴む。


 以前と同じ場所。


 それでも。


 この関係は、もうほかの黒瀬零を否定することで守られるものではない。


「五人とも、残った」


「ああ」


「同じ名前の人が四人」


「ああ」


「まだ名前を決めてない人が一人」


「ああ」


「誰が一番本物かは?」


「決めない」


「誰が最初?」


「それも、今の俺たちを決める順番には使わない」


「誰か一人を通さないと、ほかの人へ会えない?」


「直接会いに行け」


「怒りたい時も?」


「本人へ言え」


 灯は少し笑った。


「じゃあ、お兄ちゃんにも直接言う」


「何を」


「心配させないでって」


「今言ったな」


「何度でも言う」


「面倒だな」


「お兄ちゃんに言われたくない」


 出口の向こうから、第四候補の声が飛んできた。


「いつまでそこにいる」


「待てって言われたから」


 俺が答える。


「俺は言っていない」


「監査官が学んだことを復習してた」


「勝手にしろ」


「治療室で待ってるぞ」


「待つな」


「それは無理だ」


「面倒な奴だな」


「お前に言われたくない」


 灯が俺の袖を引く。


「行こう、お兄ちゃん」


「ああ」


 競技場を出る。


 同じ起源から始まった五人は。


 もう、一件の学籍へ戻らない。


 同じ名を持つ者も。


 まだ名を選ばない者も。


 過去の記憶を持つ者も。


 現在の責任を背負う者も。


 与えられた場所から離れ、自分の座標を選ぶ者も。


 それぞれの答えへ続く。


 別々の帰る場所を持っている。


 ひとつの名から。


 五つの帰る場所へ。


 競技場の照明が、一つずつ消えていく。


 最後まで残ったのは。


 閉じた査問記録の端にある、六枚目の空欄だった。


 まだ、誰の名前もない。


 学籍も。


 答えも。


 現在の本人さえ、存在していない。


 だから。


 誰も先に書かなかった。


 五人が五人のまま帰っていく、その後ろで。


 六つ目の空白だけが。


 いつかそこへ来るかもしれない本人の声を。


 何も奪わず。


 何も決めず。


 静かに待っていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ