第五十九話 まだ書かれない答えのそばで
白い頁の全てに、空白が生まれていた。
「なぜ」
第四候補が尋ねる。
「俺が答え終わるまで、待てなかった」
十三番目の席は、すぐには答えなかった。
頭部を形作る頁が、何度もめくられる。
――回答予測。
――処理時間。
――分類安定性。
――学籍網負荷。
――結果整合率。
空白を埋めるための項目が、次々に現れる。
だが。
第四候補の問いに対応する欄だけが存在しない。
『質問形式を照合』
『処理理由の開示要求と判断』
「判断するな」
第四候補は診療椅子へ座ったまま、監査官を見上げた。
「聞かれたことに答えろ」
『当該監査機構は』
『審査対象者ではない』
「今は証言対象です」
文乃が書類板を掲げる。
「三年前の退学処分について、正式な再審要求が受理されています。確定時刻の繰上げへ関与した処理主体には、その理由を説明する義務があります」
『《公理階層》接続記録監査官に』
『十二大学共同査問への回答義務は存在しない』
「お前に聞いているのは、十二大学だけじゃない」
第四候補の右手には、三年前の未提出回答が握られている。
「答えを切られた本人が聞いている」
『本人質問は』
『正式な監査項目ではない』
「なら、今から監査項目にします」
文乃が再審記録へ一行を追加した。
――本人回答権侵害に関する処理主体への質問。
――質問者、第四候補本人。
――質問内容。
――なぜ、回答完了まで待機しなかったのか。
『追加を承認しない』
「現場受理者として受理します」
『受理権限を否定』
「否定に対して異議を提出します」
『異議を棄却』
「棄却に対して異議を提出します」
『反復異議を無効化』
「無効化に対して――」
「綴木」
玄理が呼ぶ。
「このままでは処理名だけが増える」
「分かっています」
文乃は書類板から目を離さない。
「ですが、相手が回答するまで、こちらの手続きを止める理由もありません」
「それでよい」
玄理は十三番目の席を見る。
「同じ処理を繰り返すことが、回答の代わりにはならない」
『御厨玄理の発言を』
『意見として記録』
「意見ではない」
玄理の声は変わらない。
「確認である。お前は三年前、第四候補の回答が完了する前に、確定時刻を繰り上げた。それは事実か」
『肯定』
「繰上げの指示は、現在ここに存在する監査機構と連続する処理系統から発せられたか」
『肯定』
「お前は《公理階層》そのものか」
『否定』
白い頁が一枚止まった。
『当該監査官は』
『特定の《公理階層》に属する記録規程へ接続し』
『局所的な審査処理を実行する』
『接続記録監査機構である』
「ならば」
玄理は淡々と続ける。
「お前は公理構造全体の意思ではない。三年前の処理を判断し、実行した局所機構である」
『肯定』
「実行主体である以上、処理理由を提示できる」
『提示可能』
「では答えろ」
白い頁が再びめくられる。
今度は、第四候補の問いを別の言葉へ変換しようとはしなかった。
『当時』
『処分対象者の回答は』
『高確率で予測されていた』
「何パーセントだ」
帝都理法大学の黒瀬零が尋ねる。
『九十九・九九八一パーセント』
「残りは?」
『別回答へ到達する可能性』
「〇ではなかった」
『処理上』
『無視可能な差である』
第四候補の目が細くなる。
『予測回答』
『氏名を現在選択しない』
『起源外個体分離にも同意しない』
『第三状態を要求する』
監査官は、三年前に第四候補が何を言うか知っていた。
完全ではない。
だが。
局所処理を決定するには十分だと判断した。
『当該回答を受理した場合』
『接続先規程へ対応しない状態が発生する』
『共同学籍網の分類処理が長期化する』
『よって』
『回答完了前に退学処分を確定し』
『対象を共同学籍網外へ排出した』
「待てなかった理由は」
第四候補が低く尋ねる。
「俺の答えが分からなかったからじゃない」
『肯定』
「分かっていたから、聞かなかった」
『肯定』
「聞いても結果が変わらないと思った」
『肯定』
「だから、俺が話し終わる二・三秒を削った」
『処理時間の短縮として適正』
第四候補は何も言わなかった。
診療椅子の肘掛けを握る。
右大腿部の冷却帯が、一度だけ警告を発した。
「第四候補」
緋月が呼ぶ。
「立つな」
「立っていない」
「脚へ力を入れるな」
「今は治療の話をするな」
「意識を失えば、質問を続けられない」
第四候補の手から、僅かに力が抜けた。
監査官は、そのやり取りすら処理記録へ加えている。
『質問への回答を完了』
「完了していない」
第四候補が言った。
『理由を提示した』
「お前の都合は聞いた」
第四候補は、自分の胸元へ未提出回答を置く。
「俺を待つ必要がないと思った理由も分かった」
『ならば回答完了』
「俺が聞いているのは」
診療椅子に座ったまま。
第四候補は、十三番目の席から目を逸らさなかった。
「なぜ、俺の答えを俺のものにする時間まで奪ったのかだ」
白い頁が止まった。
『質問との差異を確認不能』
「違います」
澄玲が静かに言った。
「監査官が答えたのは、情報を得るために待つ必要がなかった理由です」
『回答内容は予測済みだった』
「はい。ですが、第四候補が求めているのは、内容を知るための待機ではありません」
『待機の別目的を要求』
澄玲は第四候補を見る。
先に答えを代弁しない。
本人が言葉を選ぶのを待つ。
第四候補は、短く息を吐いた。
「お前が待つべきだったのは」
三年前の紙を持ち上げる。
「答えを知るためじゃない」
現在の回答を、その隣へ置く。
――氏名、未選択。
「その答えを、俺のものにするためだ」
『回答内容が同一なら』
『帰属差は処理結果へ影響しない』
「影響した」
第四候補は即答した。
「お前が先に決めたせいで、三年前の俺の答えは未提出になった」
『音声記録は保存された』
「保存されることと、提出することは違う」
『内容は残存した』
「俺が誰へ向けて答えたかが、消えた」
『意味差を確認不能』
「分からないなら、聞け」
第四候補の声が競技場へ響く。
「三年前のお前は、それをしなかった」
《第四学籍》が三枚の《異議付記欄》を開いた。
「俺が証言する」
『残余記録の証言能力を照合』
「照合する前に聞け」
《第四学籍》は第四候補の隣へ立つ。
「三年前の回答は、処分確定より先に開始されていた」
『確認済み』
「回答は、音声として残っただけではない」
三枚の紙に、淡い文字が浮かぶ。
――異議。
――統合拒否。
――本人回答待機要求。
「第四候補の回答が始まったことで、他の三件も処理の停止を求めていた」
『当該異議は統合処理へ対するもの』
「違う」
《第四学籍》の胸元に残る透明な空白が明滅する。
「三件は、答えの内容を知らなかった。それでも、第四候補が答え終わるまで待つよう求めていた」
『情報不足状態での異議』
「情報が足りないから待ったのではない」
《第四学籍》は三枚を一枚ずつ掲げる。
「本人が話している途中だったからだ」
『処理結果への寄与を確認不能』
「だから、お前は間違えた」
競技場が静かになる。
「三件の異議を、結果へ寄与しない記録として消した」
《第四学籍》は白い頁を見る。
「第四候補の回答を、結果を変えない音声として切った」
透明になった胸元へ手を置く。
「そして俺を、不要な記録をまとめる容器として作った」
『記録圧縮処理として適正』
「適正ではない」
『理由を要求』
「結果しか残していないからだ」
《第四学籍》は、第四候補を見る。
「俺があの回答を返した時、俺の中から記録が一つ減った」
『肯定』
「それでも、俺は消えなかった」
『暫定状態』
「返したという現在が残ったからだ」
――返還記録、一件。
――本人の答えを、本人より先に提出しないため。
「同じ記録でも」
《第四学籍》は監査官へ向き直る。
「誰が持ち、誰へ返し、誰が提出するかで、現在は変わる」
『結果情報は同一』
「俺は同一ではない」
白い頁が、一斉にめくられた。
返還前。
返還後。
記録量。
構成率。
整合率。
どの数値を比較しても。
監査官が優先しているのは、残った情報の内容だけだった。
それを持つ存在の違いではない。
◇
十二の審査席のうち、帝都時律大学の監査席が光った。
『《公理階層》接続記録監査官へ質問する』
『予測された回答と』
『本人が実際に提出した回答を』
『異なる時点の記録として扱うか』
『内容が一致する場合』
『同一結果として統合する』
『回答主体の違いは』
『結果へ影響しない限り省略する』
続いて、共同学籍審査官。
『三年前』
『第四候補が回答を完了していた場合』
『起源外個体分離は回避されたか』
『接続先規程内では回避不能』
「では」
文乃が言葉を挟む。
「第四候補の回答によって、規程外状態を検討する必要が発生した可能性は?」
『発生した』
「その検討を避けるために、回答を切ったのですね」
『分類遅延の回避を優先した』
「それは、結果が同じだったとは言えません」
『最終的な登録状態は未確定』
「未確定だからこそです」
文乃は再審記録を開く。
「本人の回答が完了していれば、規程外状態の検討へ移行した可能性がある。ですが、監査官はその可能性を消し、退学処分を先に確定しました」
『分類可能な結果を採択した』
「本人の答えによって生じる可能性を、処理の都合で排除したのです」
『合理化処理』
「本人回答権の侵害です」
『当該概念を』
『接続先規程に確認不能』
「十二大学共同規程には存在します」
文乃の書類板へ、該当条項が開く。
――審査対象者は。
――回答期限内に開始した回答を。
――完了まで提出する権利を有する。
『下位規程』
「三年前の退学処分は、十二大学共同学籍網の内部で実行されています」
文乃の声は揺れなかった。
「接続先の公理規程を参照したとしても、下位側で認められた回答権を、告知なく剥奪してよい根拠にはなりません」
『局所処理における優先権限を主張』
「根拠条文を提示してください」
『接続記録監査機構は』
『結果整合性維持のため』
『局所処理を修正可能』
「回答期限の繰上げを含むと書かれていますか」
『明記なし』
「本人回答の切断を含むと書かれていますか」
『明記なし』
「では」
文乃が一枚の書類を十三番目の席へ向ける。
「明記されていない権限を、監査官自身の判断で行使したことになります」
『結果整合性維持に必要だった』
「必要性の判断も、あなた自身が行った」
『肯定』
「実行も?」
『肯定』
「事後確認は?」
『不要と判断』
「つまり」
文乃の書類板に、三つの項目が並ぶ。
――必要性判断。
――処理実行。
――適正性確認。
「全てを、同じ局所監査機構が行った」
『効率的である』
「監査とは呼べません」
十三番目の席の周囲へ、赤い線が増えた。
◇
『当該質問は』
『監査機能の継続を阻害する』
白い頁の動きが変わる。
これまで結論を書き換えていた頁が、今度は一枚ずつ閉じ始めた。
十三番目の席を構成する白い線が、競技場の床から離れていく。
「何をしている」
第四候補が尋ねる。
『局所監査窓口を閉鎖する』
『本件記録を』
『接続先の記録系統へ転送』
『以後の質問は』
『転送先の判断対象とする』
「逃げるつもりか」
『監査機構に逃走概念は存在しない』
十三番目の席が、白い紙片へ分解される。
そこへ保存されていた三年前の処理記録も。
確定時刻繰上げの指示も。
現在の未来氏名先行適用も。
細い光となり、上方へ引かれ始めた。
「記録を持っていく気です!」
文乃が書類板を向ける。
『局所処理記録は』
『接続先記録系統へ帰属する』
「再審中の証拠です。持ち出しを認めません!」
『下位保全要求を棄却』
「獅堂さん!」
「任せろ!」
獅堂が十三番目の席へ向かって走る。
席そのものを殴らない。
中央へ到達すると、右足と左足で競技場の床を強く踏み締めた。
両足。
二つの足裏。
今、自らが立つ現在の場所を《礎》として定める。
「審査の途中で席を畳むな!」
黄金の王土が、十三番目の席の足元へ広がった。
「`万象は我が礎`!」
消えかけていた座席の下へ、黄金の基盤が築かれる。
監査官の白い頁そのものを所有するのではない。
三年前の処理記録が、現在この正式査問へ提出されたという事実を、競技場の足場へ固定する。
『局所監査窓口の閉鎖は』
『物理位置へ依存しない』
「それでも、今ここで証言した!」
獅堂が叫ぶ。
「その事実まで、接続先へ持ち去らせはしない!」
十三番目の席の輪郭が、完全には消えなくなる。
上半分は白い紙片へ崩れている。
下半分は黄金の床へ縫い留められている。
「九条」
朔夜が指先へ黒い薄刃を伸ばす。
「切る場所は?」
「局所窓口を閉じること自体ではありません」
澄玲は、上方へ引かれていく処理記録を見る。
「閉鎖した結果、再審証拠まで査問外へ移る。その接続を切ってください」
「席が消えても、証言は残す」
「はい」
朔夜の刃が、閉鎖処理と記録転送の間へ向けられる。
「`因果切断`!」
黒い線が走った。
――局所監査窓口を閉鎖する。
――ゆえに、審査記録も接続先へ移送される。
二つを繋ぐ経路が切断される。
白い頁の上半分だけが、空中で停止した。
『窓口閉鎖と』
『記録転送の対応を喪失』
『代替処理を検索』
「同じことを、別の処理名で続けるつもりです」
文乃が言う。
「監査官をここへ拘束するのではなく、記録だけを正式査問へ残す方法が必要です」
「機構そのものが閉鎖されても」
澄玲の周囲へ白い経路が広がる。
「実行した処理の責任まで、接続先の公理構造へ押しつけることはできません」
『当該監査官は』
『接続先規程の実行端末である』
「端末であることは認めます」
澄玲は否定しなかった。
「ですが、接続先規程を、そのまま転写しただけではありません」
文乃が整理した三つの項目へ、白い経路が接続する。
必要性判断。
処理実行。
適正性確認。
「あなたは局所状況を読み、自分で必要性を判断し、明記されていない繰上げ処理を実行しました」
『規程の目的から導出した』
「なら、その導出を行った処理主体として回答してください」
『機構に人格はない』
「人格の有無を審査しているのではありません」
澄玲の声は静かだった。
「判断を行った処理主体として、証言記録を残します」
――機構。
――非人格。
――ただし、局所判断および処理実行あり。
――再審における証言主体として対応可能。
『規程外分類』
「規程の外に監査官がいるのではありません」
澄玲は、第四候補へ一度視線を向ける。
「監査官を記録する欄が、今まで必要とされなかっただけです」
第四候補が僅かに笑った。
「さっきと同じだな」
「はい」
「なら、その欄を作れ」
「作ります」
青い光が、十三番目の席を囲む。
「`世界は解を持つ`」
消えかけていた局所監査窓口を、人格ある人物として固定しない。
《公理階層》そのものの代表にも置かない。
三年前の処理を判断し。
実行した局所機構。
その一点だけで、現在の正式査問へ接続する。
――証言主体。
――《公理階層》接続記録監査官。
――対応範囲。
――三年前の確定時刻繰上げ処理。
――現在の未来氏名先行適用処理。
――《公理階層》および上位公理構造全体との同一視。
――禁止。
――局所処理責任。
――査問終了まで保全。
『局所監査窓口』
『閉鎖不能』
『理由』
『未完了証言あり』
白い頁の崩壊が止まった。
完全な人影へ戻ったわけではない。
上半分は頁の束。
下半分は黄金の座席。
機構としての姿を保ったまま。
十三番目の席は、査問の内側へ残された。
◇
「もう一度聞く」
第四候補が言った。
「お前は、俺の答えを知っていた」
『高確率で予測した』
「結果が変わらないと思った」
『肯定』
「待つことに、情報上の利益はないと判断した」
『肯定』
「だから待たなかった」
『肯定』
第四候補は、三年前の未提出回答を膝の上へ置く。
「なら、お前に教えてやる」
『教示を要求していない』
「俺も許可を求めていない」
第四候補は、現在回答をその隣へ並べる。
三年前。
――今は選ばない。
現在。
――今は選ばない。
文字だけを見れば同じ。
監査官が予測した内容とも一致している。
「三年前の俺は」
第四候補が言う。
「何を失うか知らなかった」
名前。
学籍。
大学で過ごすはずだった三年間。
灯との関係。
自分が誰だったかを確かめる記録。
「今の俺は、全部失った後で同じ言葉を選んだ」
『結果は同一』
「違う」
『氏名状態は同一』
「俺が違う」
第四候補は、二枚の回答を指す。
「三年前の俺が答えたから、今の俺が同じ答えを出したんじゃない」
『時間的連続性を確認』
「過去に命令されたわけでもない」
『現在判断の独立性を確認』
「今の俺が、今の理由で選び直した」
『最終氏名状態は未選択』
「それでも」
第四候補は監査官を見る。
「これは、今の俺の答えだ」
帝都理法大学の黒瀬零が、三年前の退学処分書を開く。
「俺は、その違いを奪った」
第四候補が顔を向ける。
「お前は監査官に言われて署名したわけではない」
「ああ」
「退学させることを選んだのは、お前だ」
「ああ」
「監査官が期限を早めたからといって、お前の責任は消えない」
「分かっている」
帝都理法大学の黒瀬零は、自分の署名へ触れる。
「監査官が何もしなかったとしても、俺はお前を退学させるつもりだった」
灯が息を呑む。
男は、言葉を止めなかった。
「期限まで待ったとしても、俺は同じ処分を確定した可能性が高い」
「なら、何が変わる」
「お前が、退学させられる前に答えた者になる」
第四候補の目が僅かに動く。
「処分結果が変わらなくても」
帝都理法大学の黒瀬零は、未提出回答を見る。
「お前の答えが、俺の判断より先に存在したことになる」
「記録は残る」
「記録だけじゃない」
「何が残る」
「俺が、お前の答えを聞いたうえで、それでも退学させた責任だ」
第四候補は何も言わなかった。
「三年前の俺は、お前が何を言うかを知ろうとしなかった」
男の声が僅かに低くなる。
「監査官は、予測できるから聞かなかった」
「お前は?」
「怖かった」
帝都理法大学の黒瀬零が初めて、視線を落とした。
「何が」
「お前の答えを聞けば」
退学処分書を握る指へ力が入る。
「自分が、本人の意思へ逆らって処分する者だと分かる」
第四候補が彼を見る。
「知らなければ、守るためだったと言える」
「ああ」
「聞かなければ、仕方がなかったと思える」
「ああ」
「だから待たなかった」
「俺は、期限を早めてはいない」
帝都理法大学の黒瀬零は顔を上げる。
「だが、お前へ答える時間を与えようともしていなかった」
署名撤回書。
再審要求。
謝罪。
どれも、三年前を消さない。
「監査官が二・三秒を奪った」
男は自分の胸へ手を置く。
「俺は、その前から、お前の回答を必要ないものとして扱っていた」
第四候補は長く黙っていた。
やがて。
「今の話を、謝罪の続きとして受け取るつもりはない」
「ああ」
「許したとも思うな」
「ああ」
「だが」
第四候補は、三年前の処分書を見る。
「今のお前が、それを言ったことは記録しておけ」
文乃が書類板へ入力する。
――処分署名者追加証言。
――本人回答を聴取しなかった理由。
――処分の正当性が揺らぐことへの恐れ。
――現在回答。
――責任として保持。
『記録を確認』
監査官が、初めて人間側の証言を処理結果へ変換せず、そのまま保存した。
◇
十二の審査席が、再審結果の検討へ入る。
大学章が一つずつ光った。
『三年前の退学処分について』
『手続的瑕疵を確認』
『瑕疵内容』
『処分対象者の回答期限内に』
『確定時刻を繰り上げたこと』
『回答開始後』
『完了前に学籍剥離を実行したこと』
『処分署名者へ』
『繰上げ処理を告知しなかったこと』
帝都理法大学の審査席が続ける。
『処分署名者の責任』
『維持』
『局所監査機構の関与を理由とする免責』
『認めない』
第四候補は、帝都理法大学の黒瀬零を見なかった。
だが。
拒絶するように目を逸らしたわけでもなかった。
『処分確定手続』
『有効性を再照合』
白い頁の監査官が割り込む。
『最終結果は』
『退学処分として成立している』
「結果だけで判断するな」
第四候補が言う。
『処分署名あり』
『学籍剥離完了』
『三年間の学籍外状態を確認』
「だからこそです」
文乃が答える。
「処理が実行されたことと、正当な手続きによって成立したことは別です」
『実行結果を無効化すれば』
『三年間の記録整合性が失われる』
「三年間を消す必要はありません」
澄玲が言う。
「退学処分が正当だったことにしなくても、第四候補が大学の外で過ごした事実は残せます」
『処分無効と』
『学籍外履歴が矛盾する』
「その三年間を、本人の責任によらない審査空白として扱います」
文乃が新しい処理案を提出する。
――三年前の退学処分。
――手続的瑕疵により、効力を暫定停止。
――退学後三年間の履歴。
――本人責任によらない学籍審査空白として保全。
――第四候補の旧学籍。
――消失扱いを解除。
――復籍処理。
――本人回答まで保留。
『退学処分の効力停止により』
『旧学籍は自動復帰する』
「待て」
第四候補が即座に言った。
競技場中央へ。
三年前に失われた学生証が現れ始める。
氏名欄。
黒瀬零。
所属欄。
共同履修審査中。
学籍番号。
三年前のまま停止した数字。
『手続開始』
『旧学籍を処分対象者へ返還』
「勝手に戻すな」
『退学処分の効力が停止された』
「だから何だ」
『処分前状態へ復帰する』
「追い出したことが間違いだったからといって」
第四候補は、現れかけた学生証を睨む。
「戻すことまで、勝手に決めるな」
『本人は旧学籍の回復を希望しないのか』
「今は決めていない」
『学籍回復を拒否』
「拒否したとも言っていない」
『回答矛盾』
「また二つしかないのか」
第四候補は、未提出回答と現在回答を重ねる。
「追い出すな」
「戻すな」
「どちらも同じだ」
『処理方向は逆である』
「本人に聞かずに決めるところが同じだと言っている」
現れかけた学生証が止まった。
『退学処分の効力停止後』
『旧学籍を未返還状態で保持する項目は』
『接続先規程に存在しない』
「また書類が足りないんだな」
第四候補が言う。
澄玲が小さく息を吸う。
「今回は、すぐに定義できます」
『規程外状態の追加を拒否』
「第四候補は、復籍を拒否していません」
澄玲の周囲へ、二本の白い経路が現れる。
「ですが、復籍へ同意もしていません」
『未回答』
「いいえ」
第四候補の現在回答へ、新しい一行が加わる。
――旧学籍の返還。
――本人判断まで保留。
「回答を急がないことが、今回の再審で確認されたはずです」
『待機による情報増加を確認不能』
「情報が増えるまで待つのではありません」
澄玲は監査官を見る。
「本人が、自分の答えとして提出できるまで待つのです」
第四候補が、十三番目の席へ視線を向ける。
「今度は切るなよ」
『回答予測を実行』
「するな」
『将来、旧学籍を――』
「予測するなとは言っていない」
第四候補は言葉を遮る。
「予測を、俺の回答として使うなと言っている」
白い頁が止まった。
過去。
現在。
未来。
予測。
回答。
これまで一つの結果へまとめられていた項目が、初めて別々の欄へ分かれる。
――予測内容。
――監査機構の処理参考情報。
――本人回答。
――本人提出まで未確定。
『新規区別を確認』
『情報上の重複あり』
「それでも分けろ」
第四候補が言う。
「予測は、お前のものだ」
自分の胸へ手を置く。
「答えは、俺のものだ」
十三番目の席に残っていた空白へ。
初めて、一行の記録が書かれた。
――待機理由。
――情報取得のためではない。
――回答帰属を本人へ保持するため。
白い頁は、その文章を消さなかった。
『退学処分再審結果』
『暫定決定』
十二の審査席が、一斉に光る。
『三年前の退学処分』
『効力を暫定停止』
『処分署名者の責任』
『維持』
『確定時刻繰上げ処理』
『不適正』
『三年間の学籍外履歴』
『本人責任によらない審査空白として保全』
『旧学籍』
『本人回答まで未返還状態を維持』
『復籍』
『未実行』
『退学』
『未確定』
『現在状態』
『第四候補本人の回答まで保留』
第四候補の前へ。
三年前の学生証が、白紙の封筒へ収められた。
本人へは渡されない。
制度へも戻されない。
文乃の保全箱へも入らない。
第四候補の診療椅子の隣。
本人が手を伸ばせば届く。
それでも。
今は触れなくてよい場所へ置かれた。
「これでいいのか」
俺が尋ねる。
「今はな」
第四候補が答える。
「受け取るかもしれない」
「ああ」
「受け取らないかもしれない」
「ああ」
「黒瀬零を選ぶかもしれない」
「ああ」
「別の名前を選ぶかもしれない」
「ああ」
「何も決めないまま、しばらく残るかもしれない」
「それも、お前が決める」
第四候補は、俺を見る。
「物分かりがよすぎて腹が立つな」
「面倒な奴への対応に慣れてきた」
「誰のことだ」
「お前だ」
「お前に言われたくない」
灯が少し笑った。
その笑いへ。
競技場中央の審査機構が反応する。
『旧学籍未返還状態を確認』
『共同学籍網上の空席を検出』
「空席?」
文乃が表示を見る。
第三実技で保全した、受領者未定の共同正規学籍ではない。
第六候補のために空けられた未来の席でもない。
三年前。
第四候補が退学させられたことで、消失したと処理されていた一件。
その旧学籍が。
退学でも復籍でもない状態として、再び共同学籍網へ現れた。
――旧共同履修学籍。
――氏名、黒瀬零。
――現在保持者、未確定。
――旧処分対象者、第四候補。
――現行同名学籍との重複照合を開始。
「待ってください」
澄玲が表示へ近づく。
「第四候補の旧学籍が戻ったことで、現在の黒瀬さんたちの学籍と再び接続しています」
「一人分の学籍を、また俺たちへ重ねるのか」
俺が尋ねる。
「違います」
文乃が記録を追う。
「旧学籍は誰にも返還されていません。それでも、共同学籍網では有効な学籍候補として復活しています」
「持ち主のいない学籍?」
灯が聞く。
「持ち主がいないのではありません」
澄玲は第四候補を見る。
「本人が、まだ受け取ると答えていない学籍です」
表示が続く。
――旧共同履修学籍。
――現在の五件との対応を照合。
――未来署名予定との対応を照合。
――第六候補との対応。
――不一致。
「六人目の席じゃない」
第四候補が言った。
「はい」
澄玲が頷く。
「これは、三年前から第四候補の回答を待っていた学籍です」
白い封筒の上へ、細い光が灯った。
氏名。
所属。
学籍番号。
全てが残っている。
だが。
本人へ戻ることも。
ほかの黒瀬零へ重なることも。
未来の第六候補へ渡ることもない。
『未返還学籍の長期保全は』
『共同学籍網の整合性を低下させる』
十三番目の監査官が告げる。
「だから何だ」
第四候補が答えた。
『早期回答を推奨』
「待て」
白い頁の動きが止まる。
第四候補は、監査官を見上げる。
「今、お前が覚えたことだろ」
十三番目の席に。
先ほど書かれた一行が残っている。
――待機理由。
――回答帰属を本人へ保持するため。
『回答期限』
監査官は、そこまで表示して止まった。
数字は出ない。
十秒も。
一分も。
三年も。
監査官は期限を決めなかった。
『回答期限』
『本人設定まで未定』
第四候補は、白い封筒を見る。
手を伸ばさない。
拒みもしない。
ただ。
自分の隣へ置かれたままにする。
三年前に切られた二・三秒。
今日、初めて返された時間。
それは、過去をやり直すための時間ではない。
今の本人が。
自分の答えを、自分のものとして選ぶための時間だった。
白い頁の監査官は、もう結論を書かなかった。
代わりに。
一枚の空白を残したまま。
第四候補が答え始める日を、初めて待った。




