第五十八話 昨日の声は、今日を名づけない
防音壁の向こう側で、三年前の声が再生されている。
俺たちには聞こえない。
見えるのは、白い壁を透かして映る三つの輪郭だけだった。
第四候補。
《第四学籍》。
帝都理法大学の黒瀬零。
三人とも、ほとんど動かない。
第四候補は診療椅子へ座ったまま、四枚目の紙を見ている。
左足首は固定具に覆われれている。
右大腿部にも冷却帯が巻かれ、少しでも筋肉へ力が入るたび、淡い警告光が走っていた。
帝都理法大学の黒瀬零は、その正面に立っている。
逃げる場所はいくらでもあるはずなのに、視線を逸らさない。
ただ。
記録の再生が進むたび、《第四学籍》が抱える四枚目の紙だけが淡く明滅していた。
正式査問の時計は停止している。
――中断残り時間。
――八分五十二秒。
「何を話してるんだろう」
灯が防音壁を見つめる。
「話しているとは限りません」
澄玲が答えた。
「三年前の回答を聞いているだけかもしれません」
「それだけで、こんなに長くかかる?」
「聞こえた言葉と、受け取れる言葉は同じではありません」
灯は少し考えたあと、俺の左袖を掴んだ。
「お兄ちゃんは、聞かなくていいの?」
「俺宛てじゃない」
「でも、昔のお兄ちゃんの声かもしれない」
「だからこそだ」
過去に同じ名前を持っていた。
同じ顔をしていた。
同じ身体の記憶へ繋がっているかもしれない。
それでも。
三年前に提出されなかった答えは、まず第四候補本人へ返されるべきだった。
俺が先に知る必要はない。
聞く権利がないとまでは言わない。
ただ。
順番はある。
「待つしかないな」
「お兄ちゃん、待つの苦手でしょう?」
「得意ではない」
「今はちゃんと待ってる」
「右肩と左腕を固定されてるからな」
「そういう理由にしないで」
緋月が俺の固定具を確認する。
「黒瀬零。待てていることと、動けないことは両立する」
「褒めてる?」
「事実を述べただけだ」
「神代先生にしては優しい」
「治療を追加するぞ」
「黙る」
防音壁の内側で、帝都理法大学の黒瀬零が顔を伏せた。
第四候補は彼を見ている。
怒鳴ってはいない。
殴ってもいない。
左足が固定されているからではない。
手を出さないことを、今の本人が選んでいる。
それが許したという意味ではないことだけは、壁越しでも分かった。
――残り六分十四秒。
《第四学籍》の輪郭が一度、大きく崩れた。
四枚目の紙から、細い文字列が抜け出す。
三枚の《異議付記欄》へ混ざろうとして、途中で止まった。
「御厨先生」
文乃が玄理を見る。
「《第四学籍》の構成に変化が出ています」
「あれは未提出回答を、自身の内部記録として保持していた」
玄理は、防音壁の向こうを観測する。
「再生によって、誰の回答であるかが再び明確になった。第四候補本人の記録として分離されようとしているのだろう」
「分離したら、《第四学籍》はどうなるの?」
灯が尋ねる。
「直ちに消えるわけではない」
「本当に?」
「《第四学籍》は、三件の消失記録と未提出回答一件を内部に保持していた。ただし、既に本人の意思によって、証人としての現在状態を獲得している」
玄理は、三枚の《異議付記欄》を見る。
「構成記録の一部が返還されても、それだけで存在根拠を全て失うわけではない」
「直ちには、って言ったよね」
「変化しないとは断言できない」
玄理は淡々と答えた。
「記録から生じた存在にとって、内部記録の返還は身体の一部を切り離すことに近い。だが、記録を保持しているから本人なのか。返還した後も本人なのか。それは《第四学籍》自身の回答による」
名前を持たない第四候補。
複数の記録から生まれた《第四学籍》。
どちらも、制度が用意した分類だけでは足りない。
それでも今。
二人は、自分の答えを選ぼうとしている。
白い頁の監査官は、その様子を一言も発さずに見ていた。
いや。
見ているという表現すら、正しいか分からない。
それは、《公理階層》そのものの意思ではない。
無限の《観測階序》を内包し、上位階層が前階層全体を一つの公理項へ格下げする。
その終端のない公理構造のうち。
いずれかの《公理階層》に属する規程へ接続した。
局所的な監査機構にすぎない。
だが。
局所的であることと。
現在の名前や記録を書き換える権限を持たないことは、同じではなかった。
頁の一枚には、既に結論が記されている。
――第四候補、起源外個体として分離。
別の一枚には。
――第四候補、黒瀬零として共有氏名へ登録。
どちらの結論も。
本人の回答より先に存在していた。
◇
中断残り時間、三分二十一秒。
防音壁が消えた。
三人の姿が、競技場へ戻る。
第四候補は診療椅子へ座ったまま。
《第四学籍》は三枚の《異議付記欄》を抱え、四枚目の紙だけを両手で持っている。
帝都理法大学の黒瀬零は、三年前の退学処分書を閉じていた。
「聞いたのか」
俺が尋ねる。
「ああ」
第四候補が答える。
「全部?」
「記録されていた範囲はな」
「どうだった」
「お前に説明する必要はない」
「そうか」
「聞かないのか」
「必要なら、お前が話すだろ」
第四候補は僅かに眉を寄せた。
「そういうところが腹立つな」
「聞いたら聞いたで怒るだろ」
「当然だ」
「面倒だな」
「お前に言われたくない」
いつもの返答だった。
だが。
声の底にあった硬さが、少しだけ変わっている。
帝都理法大学の黒瀬零が、文乃へ一枚の書類を渡した。
「三年前の退学処分について、署名者としての現在回答を提出する」
「内容を確認します」
文乃が書類を開く。
――処分署名者回答。
――三年前に提出した退学処分への同意を撤回。
――本人回答を待たずに確定した審査結果について、再審を要求。
「撤回すれば、三年前の処分が消えるのか」
第四候補が尋ねる。
「消えない」
帝都理法大学の黒瀬零は答えた。
「俺の署名によって生じた三年間も、お前が大学の外で過ごした事実も残る」
「なら、何の意味がある」
「今の俺が、あの判断を正しいものとして維持しないという意味がある」
「責任から逃げるためじゃないのか」
「撤回しても、署名した責任は消えない」
「都合のいい言い方だ」
「ああ」
帝都理法大学の黒瀬零は否定しなかった。
「三年前の俺は、お前を残すために退学させた。今の俺は、それを救済とは呼ばない」
「では、何と呼ぶ」
「本人の回答を奪った処分だ」
第四候補の視線が鋭くなる。
「謝るのか」
「謝罪で三年間が戻るとは思っていない」
「聞いているのは、謝るかどうかだ」
短い沈黙。
帝都理法大学の黒瀬零は、第四候補から目を逸らさなかった。
「すまなかった」
競技場へ、静かな声が落ちた。
「お前を残したかった。そのためなら、お前に聞かなくていいと思った。間違っていた」
第四候補は何も答えない。
許さないとも。
許すとも言わない。
その沈黙を、監査機構は未回答として処理しようとした。
『当事者間の和解』
『不成立』
「勝手に和解にするな」
第四候補が監査席を睨む。
「俺は今、返事をしていないだけだ」
『謝罪への回答を要求』
「要求するな」
『正式査問再開のため』
『当事者関係を整理する』
「整理しなくていい」
第四候補は、帝都理法大学の黒瀬零を見る。
「こいつの謝罪を受け入れるかは、査問を進めるために決めることじゃない」
『係争状態を維持しますか』
「俺が決めるまでな」
文乃が即座に記録する。
――三年前の退学処分に関する当事者間回答。
――謝罪提出済み。
――受領判断、保留。
――関係状態、係争継続。
「記録しました」
「それでいい」
第四候補は、《第四学籍》へ視線を向ける。
「そっちは」
「四枚目の紙を返す」
《第四学籍》が答えた。
「俺の内部から、全てを消すわけではない。第四候補本人へ返還した事実を、証人記録として残す」
「都合がいいな」
「お前たちから学んだ」
「悪い影響だ」
「否定しない」
《第四学籍》は、四枚目の紙を第四候補へ差し出した。
紙が指先へ触れる。
その瞬間。
《第四学籍》の輪郭から、一部が剥がれた。
胸元にあった白い空白。
第四候補の未提出回答を保管していた場所。
そこが、薄く透明になる。
灯が息を呑む。
「大丈夫?」
「以前より軽い」
《第四学籍》は、自分の胸元を見る。
「だが、消えてはいない」
残った三枚の《異議付記欄》が、輪郭の中心へ収まる。
「俺は、三件の残余記録から生じた存在である」
一度、言葉を止める。
「第四候補の未提出回答を保管していた証人でもあった」
四枚目の紙を、第四候補へ渡し切る。
「今は、その回答を本人へ返した証人だ」
胸元の透明な部分へ、新しい一行が刻まれた。
――返還記録、一件。
――返還先、第四候補本人。
――返還理由。
――本人の答えを、本人より先に提出しないため。
『《第四学籍》の構成変化を確認』
『残余記録としての整合率低下』
「それがどうした」
《第四学籍》が監査官を見る。
『記録整合率が規定値を下回った場合』
『独立存在としての保存対象から除外』
「俺を消すのか」
『証人記録として外部媒体へ転写する』
『現在輪郭は不要』
「また、記録だけ残せばいいと言うのか」
『肯定』
「拒否する」
『記録に拒否権はない』
「さっきも聞いた」
《第四学籍》は、三枚の紙を抱え直す。
「俺は証拠品ではない」
第四候補が、診療椅子の肘掛けへ手を置く。
立ち上がろうとした瞬間、左足の固定具が赤く光った。
「立つな」
緋月が即座に止める。
「一歩だけだ」
「一歩で靱帯が切れる可能性がある」
「なら、このままでいい」
第四候補は立たなかった。
椅子へ座ったまま、《第四学籍》の隣へ自分の審査位置を移すよう要求する。
「椅子を動かせ」
「私に命令するな」
「お前が立つなと言った」
「それとこれは別だ」
緋月は不満そうに言いながらも、診療椅子を《第四学籍》の隣へ移した。
第四候補は、監査官を見上げる。
「こいつは俺ではない」
『肯定』
「俺の代わりでもない」
『肯定』
「なら、俺の回答を返した後に、こいつがどう残るかは別の審査だ」
『残余記録の構成不足』
「不足しているのは、お前の分類だ」
第四候補の言葉に、《第四学籍》が僅かに顔を向ける。
「さっきのお返しか」
「何が」
「俺が、お前を証人として記録すると言った」
「覚えていない」
「記録してある」
「なら消せ」
「消さない」
「面倒だな」
「お前に言われたくない」
同じではない二人が、似た言い争いをしている。
それでも。
どちらかを、どちらかへ統合する理由にはならない。
◇
『中断時間終了』
『正式査問を再開』
停止していた時計が動き出す。
白い頁の監査官が、第四候補の前へ回答欄を再表示した。
『現在氏名を入力せよ』
「さっき答えた」
『氏名欄は未記入』
「今は選ばない」
『起源外個体分離を再開する』
「それも選ばない」
『第三状態は暫定的に保全されている』
『ただし』
『正式登録には本人回答の提出が必要』
「提出した」
『未提出回答は三年前のものである』
「そっちじゃない」
第四候補は、自分で書いた現在の回答を掲げる。
――氏名、未選択。
「これが今の答えだ」
『氏名として認識不能』
「氏名を答えろという問いに、今は決めないと答えた」
『無回答』
「違う」
第四候補は、返還された四枚目の紙を開く。
「三年前の俺も、同じことを言おうとしていた」
『過去回答の全文提出を要求』
第四候補は紙を見た。
少しだけ迷う。
やがて、《第四学籍》へ確認するように視線を向けた。
「出していいか」
「今は、お前の記録だ」
「証人としては?」
「提出した事実を記録する」
「そうか」
第四候補が、四枚目の紙を開く。
三年前の音声が、今度は競技場全体へ流れた。
『処分対象者本人へ確認』
『氏名“黒瀬零”を保持するか』
若い声。
今の第四候補と同じ声。
だが、僅かに呼吸が荒い。
『保持しない場合』
『起源外個体として分離する』
『回答期限』
――三。
たった三秒。
三年前の第四候補が息を吸う。
「その二つから選べと言うなら、今は答えない」
『回答を要求』
「俺が黒瀬零だった可能性は否定しない」
『一』
「だが、その名前を残すか捨てるかを、お前たちが先に決めるな」
退学処分の確定音が、言葉へ重なる。
「黒瀬零である前に、俺は――」
処理完了。
学籍剥離。
音声の大部分が途切れる。
それでも。
四枚目の紙には、〇・七秒だけ続きが残っていた。
「――俺の答えを聞かれるべきだった」
再生が終わる。
競技場へ、沈黙が落ちた。
「三年前も」
灯が呟く。
「今と同じ答えだった」
「同じではない」
第四候補が言う。
「え?」
「三年前の俺は、何を失うか分かっていなかった」
第四候補は、左足を覆う固定具を見る。
「今の俺は、三年間を知っている」
大学から外されたこと。
名前を持たなかったこと。
身体だけで生き残ったこと。
誰と戦ったのかも。
何を守ろうとしたのかも。
灯との関係すら、自分で確認できなかったことも。
「同じ言葉でも、今の理由は違う」
第四候補は、現在回答を掲げる。
「三年前の答えを、そのまま今の俺へ使うな」
『過去回答と現在回答の一致を確認』
「理由は一致していない」
『内容は同一』
「だから何だ」
第四候補の声が低くなる。
「過去の俺が今は選ばないと言ったから、今の俺も選べないわけじゃない」
白紙へ書いた一行を、指で示す。
「今の俺が、もう一度選ばないと決めた」
澄玲が一歩前へ出る。
「同一の回答を、異なる時点の本人が、異なる理由で選択しています」
『結果は一致』
「結果が一致しても、現在の選択が不要になるわけではありません」
『過去回答から』
『現在回答を予測可能』
「予測できることと、本人へ聞かなくてよいことは別です」
白い頁が、高速でめくられる。
過去。
現在。
未来。
三つの回答候補が、同じ頁へ並ぶ。
過去。
――氏名、今は選ばない。
現在。
――氏名、今は選ばない。
未来。
――署名者氏名、黒瀬零。
『未来回答を参照』
『当該個体は』
『将来“黒瀬零”を選択する』
第四候補の前へ、《未来学籍先行保全申請》の第二署名欄が開いた。
現在は空白。
だが。
三年後の記録から、淡い筆跡が透けて見える。
――黒瀬零。
『将来選択が確定しているなら』
『現在の未選択状態は』
『一時的な遅延にすぎない』
「未来の俺が選ぶかもしれない」
第四候補は、署名欄を見る。
「だからといって、今の俺が選んだことにはならない」
『同一個体の将来回答を参照』
「お前たちは、俺たちを別人だと審査しているんじゃなかったのか」
『時間的連続性を認める場合』
『未来回答は現在個体へ帰属する』
「なら、未来の俺と今の俺が同じだと証明しろ」
『同一氏名予定』
「名前を根拠に同一だと言いながら、その名前を未来から今へ持ってくるのか」
監査官の頁が、一瞬止まる。
自分自身が参照する規程が、円を描いている。
未来で黒瀬零と署名する。
ゆえに、今も黒瀬零である。
今も黒瀬零である。
ゆえに、未来の署名者と同一である。
「未来の予定を、現在の回答として扱わないでください」
文乃が異議申立てを提出する。
『申請効果は過去に発生済み』
「効果が発生したことと、全署名者が現在同意していることは別です」
『第二署名予定を』
『氏名選択証拠として採用』
「拒否する」
第四候補が言った。
『採用は本人同意を必要としない』
「なら、証拠じゃない」
『接続先《公理階層》側の局所規程により』
『未来記録を現在へ先行適用する』
第二署名欄から、三文字が浮かび上がった。
黒。
瀬。
零。
文字は競技場を飛んでこない。
現実空間を移動する必要すらなかった。
未来の署名欄と、第四候補の現在氏名欄が、一本の銀色の線で直結する。
第四候補の前にある白紙へ。
三文字が、内側から滲み出した。
――現在氏名。
――黒瀬零。
「書いていない」
第四候補が白紙を睨む。
『未来回答を先行転記』
「消せ」
『本人による将来選択を参照』
「今の俺は選んでいない!」
第四候補が紙へ手を伸ばす。
右手で文字を擦っても、消えない。
紙の表面へ書かれた文字ではない。
未来記録から現在の氏名欄へ、直接対応させられている。
『現在氏名を確認』
『共有氏名登録へ移行』
「勝手に受け取ったことにするな!」
第四候補が診療椅子から身を起こす。
左足へ体重を移そうとした瞬間、固定具が強く締まった。
「動くな」
緋月が肩を押さえる。
「紙を止める」
「脚で止めるものではない」
「なら放せ」
「身体を壊しても、記録は消えない」
第四候補の右手が、白紙の端を強く掴む。
紙を破ろうとしても。
破損するのは現在の記録媒体だけだ。
未来との接続は残る。
「獅堂さん!」
澄玲の声が響く。
「任せろ!」
獅堂が競技場中央へ踏み込む。
右足。
左足。
両足で、大地を踏み締める。
今、自らが立つ現在の場所を《礎》として定める。
「未来に書かれた名で、今ここに立つ者を塗り潰させはしない!」
足裏から、黄金の王土が広がった。
「`万象は我が礎`!」
黄金の床が、第四候補の診療椅子と現在氏名欄を包み込む。
未来の署名予定ではない。
三年前の未提出回答でもない。
今、この競技場へ存在する第四候補の身体と記録を、現在時点へ固定する。
『物理基盤の固定を確認』
『未来氏名の転記は意味情報である』
『固定対象外』
「氏名そのものを止める必要はない!」
獅堂が叫ぶ。
「今の本人へ、未来の本人を上書きさせなければ十分だ!」
第四候補の氏名欄へ滲んでいた三文字が、途中で止まった。
完全には消えない。
だが。
現在の本人情報と一体化することもできない。
「天城先輩!」
「見えてる」
朔夜の指先へ、黒い薄刃が伸びる。
「未来で名を選ぶ」
刃先が、未来の署名欄と現在の氏名欄を結ぶ銀色の線へ向く。
「だから、現在も同じ名を選んでいる」
朔夜は、二つの時点を繋ぐ結論を見る。
「そこを切る」
黒い刃が走った。
「`因果切断`!」
未来の氏名選択。
現在の氏名登録。
両者を直結していた銀色の経路が断たれた。
現在氏名欄に現れていた「零」が消える。
続いて。
瀬。
黒。
三文字が、現在の白紙から剥がれた。
だが、未来の署名欄からは消えない。
『時間的連続性を再接続』
監査官が、別の経路を作る。
未来の署名。
過去へ発生した申請効果。
現在の第四候補。
三つを迂回させ、再び一つへ繋ごうとする。
「九条」
「はい」
澄玲の周囲には、既に二本の白い経路が開いていた。
一つは未来へ続く。
一つは現在で止まる。
「未来の第四候補が、黒瀬零を選ぶ可能性を否定しません」
『ならば現在へ適用する』
「適用しません」
未来の経路には、黒瀬零という署名予定がある。
現在の経路には、氏名未選択という回答がある。
二つを重ねない。
どちらかを消しもしない。
「未来の選択は、未来の本人へ返します」
澄玲は、未来の署名欄へ伸びる経路を、その時点へ固定する。
「現在の回答は、現在の本人に残します」
現在側の経路を、第四候補が自分で書いた一行へ接続する。
「`世界は解を持つ`」
二本の経路が、互いを否定せずに並立した。
――現在。
――氏名未選択。
――未来。
――氏名選択予定あり。
――両回答の時点差。
――維持。
『同一個体に』
『矛盾する氏名状態を確認』
「時点が違います」
澄玲が答える。
「変わる可能性を、矛盾と呼ばないでください」
『未来記録の確度を優先』
「確度が高くても、現在の本人へ命令する権利にはなりません」
第四候補の現在氏名欄から、最後の白い影が消える。
黒。
瀬。
零。
三文字全てが、未来の署名欄へ戻った。
「まだだ」
第四候補が言った。
診療椅子の肘掛けを握りながら、未来へ戻った文字を見る。
「未来の俺が、本当にその名前を選ぶかも決まっていない」
『署名予定を確認済み』
「予定だろ」
第四候補は、三年前の自分が残した紙を掲げる。
「過去の俺も」
現在回答を示す。
「今の俺も」
未来の署名欄を見る。
「未来の俺の代わりに答えない」
『未来申請との整合率低下』
「下げておけ」
第四候補の氏名欄は、空白へ戻る。
だが。
空白であることが、無回答とは表示されていない。
――現在氏名。
――未選択。
――本人回答、提出済み。
――共通起源関係、維持。
――独立個体状態、維持。
『接続先規程に存在しない状態』
『暫定承認』
白い頁の監査官から。
初めて、「承認」という文字が出た。
完全ではない。
正式でもない。
それでも。
名前を選ばないまま。
過去との繋がりを切られず。
一人の個人として残る状態が、記録された。
第四候補は、その表示をしばらく見ていた。
「名前は?」
灯が尋ねる。
「まだない」
「第四候補って呼んでいい?」
「今はな」
「いつまで?」
「俺が決めるまでだ」
「分かった」
灯は少し笑う。
「第四候補」
「何だ」
呼ばれて。
第四候補は振り返った。
黒瀬零ではない。
だからといって、黒瀬零と無関係でもない。
今だけの呼び方。
今の本人が答える名前。
◇
「治療を再開する」
緋月が第四候補の前へ立つ。
「査問は終わっていない」
「だからこそだ。先ほど立とうとしたことで、左足首の固定位置がずれた。右大腿部にも再出血がある」
「動ける」
「その回答は聞き飽きた」
「待て」
「待たない」
緋月が固定具の調整端末を操作する。
第四候補の左足が、診療椅子へさらに強く固定された。
「勝手に止めるな」
「治療を拒否して意識を失えば、査問への回答もできなくなる」
「脅しか」
「診断だ」
第四候補は反論しようとした。
だが。
緋月の後ろに灯が立っているのを見て、口を閉じた。
「何だ」
第四候補が灯へ尋ねる。
「治療されて」
「お前に言われる筋合いは」
「名前を決める前に倒れたら困る」
「お前が困るのか」
「呼び方が、ずっと第四候補になる」
「それは嫌だな」
「でしょう?」
第四候補は、診療椅子の背へ身体を預けた。
「五分だけだ」
「十五分」
「十分」
「処置が終わるまでだ」
「交渉になっていない」
「治療だからな」
緋月は固定具を交換し始める。
俺も右肩を固定されたまま、その様子を見ていた。
「似てるな」
俺が言う。
第四候補がこちらを睨む。
「何がだ」
「神代先生に負けるところ」
「俺は負けていない」
「椅子に固定されてる」
「治療を選んだだけだ」
「理由が違うなら、別人だな」
「黙れ」
そのやり取りへ、白い頁の監査官が割り込んだ。
『第四候補の暫定状態を確認』
『次の審査項目へ移行する』
競技場中央へ、三年前の退学処分書が拡大される。
帝都理法大学の黒瀬零が提出した署名撤回。
第四候補の未提出回答。
二件が並んだ。
『三年前の退学処分について』
『再審要求を受理』
文乃が顔を上げる。
「受理された?」
『肯定』
『処分対象者本人の回答が』
『確定時刻以前に開始されていたことを確認』
『当該処分には』
『手続上の瑕疵が存在する』
第四候補の目が細くなる。
「なら、処分を取り消せ」
『処分確定者の確認が必要』
「署名したのは俺だ」
帝都理法大学の黒瀬零が言う。
『署名者は、お前である』
『ただし』
退学処分書の最下部。
これまで空白だった欄が開く。
――処分確定時刻。
――本人回答開始から〇・七秒後。
――本来の回答期限終了まで。
――残り二・三秒。
「期限より前に確定しています」
文乃が表示を読む。
「帝都理法大学の黒瀬さんが、確定時刻を繰り上げたのではないのですか?」
「俺は、退学処分へ署名した」
帝都理法大学の黒瀬零は、記録を見つめる。
「だが、確定処理は回答期限終了後に行われる予定だった」
「知らなかったのか」
第四候補が尋ねる。
「知らなかった」
「都合がいいな」
「そう聞こえることは分かっている」
帝都理法大学の黒瀬零は、逃げずに続ける。
「俺は署名した。処分が確定することも理解していた。だが、お前の回答が始まった時点で、期限まで待つつもりだった」
「結果は待たなかった」
「ああ」
「誰が早めた」
白い頁が、一斉に開く。
『確定時刻繰上げ指示を表示』
処分書の背後から、一本の白い線が伸びた。
共同学籍網。
帝都神律大学。
帝都理法大学。
どちらの審査官席にも繋がらない。
線は。
十三番目の席へ向かっていた。
――指示主体。
――《公理階層》接続記録監査官。
競技場の空気が変わった。
頭部を白い頁で覆った監査官。
現在、俺たちの前にいるもの。
《公理階層》そのものではない。
特定の《公理階層》に属する記録規程へ接続し。
そこから共同学籍網を監査するために形成された、局所的な実行機構。
役職名だけが同じなのではなかった。
処理番号。
接続経路。
回答予測の使用履歴。
現在の監査機構は。
三年前に第四候補の処理へ介入した監査系列の記録を、連続した自己記録として保持している。
「お前が」
第四候補が診療椅子の肘掛けを強く握る。
今度は、立ち上がろうとはしなかった。
「三年前も、俺の答えを切ったのか」
『当時の局所監査記録と』
『現在の監査記録に』
『処理連続性を確認』
「質問に答えろ」
『肯定』
『当時の監査処理を』
『現在も自己記録として保持する』
帝都理法大学の黒瀬零が、処分書を握る。
「俺の署名を利用したのか」
『お前は退学処分を選択した』
「回答期限を繰り上げることには同意していない」
『処分結果との整合を優先した』
「結果が同じなら、過程を奪っていいと思ったのか」
『同一結果へ到達する場合』
『処理時間の短縮は合理的である』
第四候補が笑った。
楽しいからではない。
怒りが、声になる前に形を変えただけだった。
「三年前から、何も変わってないな」
『当該処理は適正である』
「今も、未来の俺が名前を選ぶから、現在の俺へ先に書こうとした」
『結果整合を優先』
「昨日も」
第四候補が、白い頁を睨む。
「今日も」
傷ついた左足は、固定されたまま動かない。
それでも。
声だけは、何にも止められていなかった。
「お前は、俺の答えを最後まで聞く気がない」
『回答内容は予測可能』
「なら」
第四候補は、自分の未提出回答を掲げる。
「今度は、予測できない答えを出してやる」
白い頁が僅かに止まる。
「黒瀬零を選ぶか」
「選ばないか」
「起源へ残るか」
「切り離されるか」
「お前が用意した欄には、もう答えない」
『審査拒否を確認』
「違う」
第四候補は、俺たちを見る。
帝都理法大学の黒瀬零。
三年前の黒瀬零。
採択領域から離脱した黒瀬零。
現在の俺。
《第四学籍》。
灯。
澄玲。
朔夜。
獅堂。
玄理。
緋月。
文乃。
「審査する側を、今から審査する」
文乃の書類板へ、再審項目が開いた。
――三年前の退学処分。
――処分対象者、第四候補。
――処分署名者、帝都理法大学・黒瀬零。
――確定時刻繰上げ指示者、《公理階層》接続記録監査官。
――本人回答権侵害の疑い。
『局所監査機構は』
『審査対象外』
「それも、お前が参照している規程か」
第四候補の声が低く響く。
『肯定』
「なら、その規程ごと異議を出す」
正式査問の座席が反転する。
十二の審査席が。
白い頁の監査官へ向いた。
これまで俺たちを見下ろしていた席が。
初めて。
十三番目の席を、審査対象として囲む。
『配置変更を許可しない』
文乃が書類板を掲げる。
「許可は不要です」
「三年前の退学処分について、正式な再審要求が受理されました」
「処分確定へ関与した全ての主体は、証言対象となります」
白い頁が激しくめくられる。
『接続先《公理階層》規程を優先』
「上位の公理構造へ接続していることは」
玄理が淡々と告げた。
「回答責任を免除する根拠にはならない」
十三番目の席に。
初めて、審査対象を示す赤い線が引かれる。
昨日の声は、今日の名前を決めなかった。
未来の名前も、今日の答えを奪えなかった。
そして今。
三年前に、第四候補の声を〇・七秒早く切ったものへ。
聞かれなかった側から。
最初の問いが返される。
「なぜ」
第四候補が尋ねた。
「俺が答え終わるまで、待てなかった」
白い頁の全てに。
まだ一度も記されたことのない空白が生まれた。




