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『神律大学の未証明者《アンプローヴン》』   作者: 仕儀の反駁
第四章《学術都市》《第四候補》編

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第五十七話 名前のない君へ、昨日が届く

「俺は――その名前を、今は選ばない」


 第四候補の指が、最初の一文字へ触れた。


 白紙に浮かびかけていた「黒」が揺らぐ。


 指先は、その文字をなぞらなかった。


 代わりに、氏名欄の隣へ短い線を引く。


 ――氏名。


 ――未選択。


 回答期限が〇になる。


 だが、警告音は鳴らなかった。


 白い頁の監査官は、第四候補が提出した一行を読み続けている。


 一枚。


 二枚。


 三枚。


 頁がめくられる枚。


 二枚。


 三枚。


 頁がめくられるたび、異なる解釈が記されては消えた。


 ――氏名入力拒否。


 ――回答保留。


 ――起源識別子不保持。


 ――審査命令違反。


 最後に、一つの判定だけが残る。


『現在氏名選択』


『不成立』


「答えた」


 第四候補が言う。


 診療椅子へ座ったまま、監査官を見上げる。


「今は選ばないと」


『氏名の入力を確認できない』


「選ばないという回答を入力した」


『当該欄は氏名を要求している』


「要求された形式以外で答えたら、回答ではないのか」


『肯定』


「なら、最初から選択じゃない」


 第四候補は筆記具を放した。


 白い器具が空中へ戻る。


「お前が欲しい答えを、俺に書かせようとしているだけだ」


 白い頁が一枚めくられた。


 その頁には、既に次の処理が記されている。


 ――起源外個体分離。


 ――開始。


「待ってください!」


 文乃が異議申立書を展開する。


「本人は氏名を拒否したのではありません。現在時点での選択を保留したのです!」


『氏名未選択状態を確認』


『共有起源識別子を保持しない個体として処理』


「保持しないと決めたわけではありません!」


『現在保持していない』


「現在持っていないことと、起源との関係がないことは別です!」


『接続先《公理階層》規程に』


『両者を分離する項目なし』


 《公理階層》そのものが、第四候補を裁いているわけではない。


 目の前にいるのは。


 その内部に属する何らかの記録規程へ接続した、局所的な監査機構にすぎない。


 だが。


 局所的であることと。


 現在の俺たちへ干渉できないことは、同じではなかった。


 監査官が参照する規程は、共同学籍網へ直接接続されている。


 その処理は。


 今ここにある名前も。


 学籍も。


 過去との関係も。


 現実の記録として書き換える。


 第四候補の診療椅子を囲むように、白い円が開いた。


 先ほどまで四人の黒瀬零を囲んでいた線とは異なる。


 他の全てから、一人だけを切り離すための境界。


 円の外側へ、第四候補に接続されていた記録が並ぶ。


 ――三年前の共同履修審査における当事者記録。


 ――黒瀬灯との関係候補。


 ――《未来学籍先行保全申請》における第二署名予定。


 ――黒瀬零を起源とする身体運用記録。


『起源外個体への分離に伴い』


『以上の帰属を解除する』


「解除されたら、どうなる」


 第四候補が尋ねる。


『身体能力および現在記憶は保持』


『ただし』


『その獲得経緯を黒瀬零へ接続する記録を削除』


「俺は今までどおり動ける」


『肯定』


「今持っている記憶も残る」


『肯定』


「なら、それでいい」


「よくない」


 帝都理法大学の黒瀬零が、即座に否定した。


 第四候補が振り返る。


「お前が決めることじゃない」


「三年前にも、同じ処理が行われた」


 競技場の空気が止まった。


 白い頁の監査官だけが、変わらず動き続けている。


「何だと」


 第四候補の声が低くなる。


 帝都理法大学の黒瀬零は、自分の書類板を開いた。


 古い処分記録。


 三年前の共同履修審査。


 その中に、現在と同じ処理番号が残っている。


 ――起源外個体分離、準備。


 ――対象、第四候補。


「思い出したのか」


 三年前の黒瀬零が尋ねる。


「記憶ではない」


 帝都理法大学の黒瀬零は、記録を一行ずつ追う。


「現在の処理番号と、過去の処理番号が一致した」


「三年前にも、第四候補を切り離そうとした?」


 澄玲が表示を見る。


「ああ」


 帝都理法大学の黒瀬零が頷く。


「三年前、共同学籍網は四件の黒瀬零を一件へ統合しようとした」


 古い接続経路が表示される。


 帝都神律大学。


 共同学籍網。


 当時の学籍審査記録。


 その先に。


 現在と同系統の、読解不能な参照番号が残っている。


「統合への異議が提出された後」


 帝都理法大学の黒瀬零は続けた。


「共同学籍網へ接続していた《公理階層》側の局所規程が、別の処理を開始した」


「一件へ戻せないなら」


 澄玲が呟く。


「一人だけを、黒瀬零ではない者として分離する」


「ああ」


「その対象が、第四候補だった?」


「当時の照合では、身体運用記録の保存率が最も高く、学籍と関係記録の保存率が最も低かった」


 帝都理法大学の黒瀬零は、第四候補を見る。


「監査処理は、氏名と起源関係を剥がしても、現在機能だけは維持できる個体だと判断した」


 第四候補の目が細くなる。


「だから俺を退学させたのか」


 帝都理法大学の黒瀬零は、すぐには答えなかった。


 その沈黙が、答えの一部だった。


「起源外個体分離の対象は、共同学籍網へ接続された正規学籍に限られていた」


「退学させれば、処理対象から外れる」


「ああ」


「俺を守ったつもりか」


「ああ」


 帝都理法大学の黒瀬零は、逃げずに答えた。


「起源との接続を全て削除される前に、お前を共同学籍網の外へ出した」


「俺に聞かずに」


「ああ」


「名前を失うことも、大学を追い出されることも?」


「ああ」


「三年間、何者でもないまま残ることも?」


「ああ」


 第四候補の右手が握られる。


 右大腿部の冷却帯が、筋肉の緊張を検知して赤く明滅した。


 左足首は固定されている。


 立ち上がることはできない。


 それでも、拳だけは震えていた。


 緋月が一歩近づく。


 だが、止めなかった。


 今ここで必要なのは、傷ついた身体を動かさないことだけではない。


 三年前に途中で切られた会話を、最後まで続けることだった。


「助けたと言うつもりか」


 第四候補が尋ねる。


「言わない」


「実際には残った」


「だから正しかったとも言わない」


「では、何だ」


「俺が一人で選んだ」


 帝都理法大学の黒瀬零は、三年前の退学処分書を自分の前へ置いた。


「お前の存在を残すためなら、お前の答えを聞かなくてよいと思った」


「今もそう思っているのか」


「思っていない」


「結果が同じでも?」


「同じ結果へ至るとしても、今度はお前が選ぶべきだ」


 第四候補は、足元から上がり始めた白い境界を見る。


『処理進行率』


 ――十一パーセント。


「俺が今、このままでいいと言えば?」


「止めたい」


「俺の意思を無視して?」


「それはしない」


「矛盾している」


「ああ」


「なら、どうする」


「聞く」


 帝都理法大学の黒瀬零は、第四候補から目を逸らさなかった。


「お前が黒瀬零という名前を、今は選ばない。それは分かった」


「ああ」


「黒瀬零と関係のない人物になることも、選んだのか」


 第四候補は答えなかった。


 白い境界が、椅子の座面まで上がる。


 黒瀬灯との関係候補へ、削除準備の印が付く。


 未来の第二署名欄から、第四候補へ続く線が薄れる。


 身体運用記録の起源欄が、白く塗り潰され始めた。


「俺は」


 第四候補が低く言う。


「黒瀬零を選ばないと言った」


「ああ」


「黒瀬零ではない者になるとは言っていない」


『回答矛盾』


 監査官が即座に告げる。


「どこがだ」


『当該氏名を保持しない』


『当該氏名を起源とする関係は保持する』


『接続先規程上』


『両立不能』


「お前が参照している規程では、だろ」


 第四候補は白い円の内側で顔を上げた。


「名前を選ばなければ、過去まで捨てたことになる。そんな決まりを、俺は選んでいない」


『規程に基づき』


『自動処理を継続』


「自動で決めるな」


『現在氏名を入力せよ』


「今は選ばない」


『ならば、起源外個体として分離する』


「それも選ばない」


『登録可能な第三状態は存在しない』


「なら、作れ」


 第四候補の声が、競技場へ響いた。


「俺が今ここにいるのに、俺を置く欄がないのは、お前たちの書類が足りないだけだ」


 澄玲の瞳へ、青い光が宿る。


「問題が定義されました」


『当該定義を』


『現行規程へ受理不能』


「受理できなくても、本人の回答は既に存在しています」


 澄玲の周囲へ、白い線が広がった。


 氏名を選ぶ。


 起源から切り離される。


 二つの選択肢の間。


 これまで存在しないと処理されていた空白へ、細い経路が伸びていく。


「第四候補は、黒瀬零という氏名を現在選択していません」


『肯定』


「ですが、黒瀬零との起源関係を放棄してもいません」


『接続先規程上』


『両立不能』


「氏名と起源関係を、同じ項目として扱うからです」


 空中へ、三つの欄が開く。


 ――氏名。


 ――起源。


 ――現在個体。


「名前は、起源を指す唯一の識別子ではありません」


『接続先規程上は』


『同一項目として処理』


「では、氏名以外の関係によって、起源との接続を確認します」


『当該確認を許可しない』


「許可を求めていません」


 澄玲の足元へ、白い経路が一本ずつ現れる。


「皆さん。第四候補と自分の現在の関係を、それぞれ答えてください」


『証言の事前調整を検出』


「内容は調整していません」


 澄玲は、監査官から視線を逸らさない。


「各自が、自分の答えを提出します」


 最初に口を開いたのは、俺だった。


「俺に勝った相手だ」


 白い線が、俺から第四候補へ伸びる。


『対抗記録を確認』


『氏名起源との関連、不明』


「過去に誰だったかは知らない」


 右肩の固定具が僅かに軋んだ。


「でも、今俺に勝ったのは、あいつだ」


 帝都理法大学の黒瀬零が続く。


「俺が三年前、本人の回答を待たずに退学処分を下した相手だ」


 銀色の線が伸びる。


『処分当事者関係を確認』


「その責任は、相手が名前を選ばないからといって消えない」


 三年前の黒瀬零が、一歩前へ出た。


「俺と一部の過去を共有しているが、俺の未来ではない者だ」


 過去の記憶を示す、淡い線が伸びる。


『履歴部分一致を確認』


「過去が同じなら同一人物になるわけでも、名前が違えば過去が無関係になるわけでもない」


 採択領域から離脱した黒瀬零は、白い円の外側へ自分の座標を定めた。


「俺が採択領域から離れた後も、別の場所で残った者だ」


 座標同士を結ぶ線が伸びる。


『直接履歴の不足』


「同じ起源から、異なる離脱を選んだ。それで十分だ」


 《第四学籍》が、三枚の《異議付記欄》を開く。


「俺は、三件の失われた記録から生じた残余記録だ」


 第四候補とは異なる存在。


 誰かの代理として作られ。


 現在は、証人として残ることを自分で選んだ記録。


「第四候補は、俺ではない」


『肯定』


「俺の内部に残る三件の異議が、統合から守ろうとしていた当事者の一人だ」


 灰色の線が伸びた。


『証人関係を確認』


「代理ではない。統合される相手でもない。俺が証人として記録する対象だ」


 玄理が、三年前の処分資料を掲げる。


「御厨玄理。帝都神律大学教員として回答する」


『証言を許可』


「第四候補は、三年前の共同履修審査における当事者である。現在の氏名欄が空白であっても、審査へ参加した履歴は消えない」


 文乃も書類板を開く。


「綴木文乃。《学術都市》共同学務局の現場受理者として回答します」


『証言を許可』


「第四候補は、第一実技および第二実技へ独立した審査対象として参加しました。現在の氏名が未選択でも、本人として提出した回答は有効です」


 緋月が、第四候補の治療記録を表示する。


「神代緋月。治療責任者として回答する」


『証言を許可』


「第四候補は、黒瀬零とは別の治療記録を持つ患者だ」


「患者」


 第四候補が呟く。


「不満か」


「他になかったのか」


「今最も確実な関係だ」


「否定できないのが腹立つな」


 第四候補の治療記録が、白い線として追加される。


 名前ではない。


 過去だけでもない。


 勝敗。


 責任。


 記憶。


 座標。


 証言。


 審査。


 治療。


 現在ここにいる一人へ、異なる関係が集まっていく。


 最後に、灯が白線の前へ立った。


『黒瀬灯の証言は』


『兄妹関係候補へ影響する』


「分かってる」


 灯は、第四候補を見る。


「私は、あなたがお兄ちゃんだったか、まだ決めない」


 第四候補は黙って聞いている。


「三年前の私が、あなたをどう呼んでいたかも覚えていない」


「ああ」


「でも」


 灯は、削除されかけている関係候補を見る。


「その答えを、あなたに聞かないまま消してほしくない」


『現在兄妹関係を確定しますか』


「しない」


『では、関係候補は不要』


「候補だから必要なの」


 灯の声が強くなる。


「分からないことを、なかったことにしないために残すんでしょう?」


 未来の自分。


 三年前の自分。


 《第零学部》にいたかもしれない自分。


 灯自身が、何度も同じことを求めてきた。


 今度は、その答えを第四候補へ返している。


「私は今、この人をお兄ちゃんとは呼ばない」


 灯は俺の制服の袖を、一度だけ握った。


「今のお兄ちゃんは、こっちだから」


「ああ」


「でも、だからって、この人が私と無関係だったことにはしない」


 灯から第四候補へ、細い赤い線が伸びる。


 兄妹関係ではない。


 兄妹関係を、本人同士がまだ決めていないという関係。


『未確定関係を確認』


「未確定のまま残して」


『氏名が存在しない』


「名前が決まったら、その名前で聞く」


『現在の呼称を要求』


 灯は少し考えた。


「第四候補」


『当該呼称は仮識別名である』


「今は、それで振り返る?」


 第四候補が灯を見る。


「ああ」


「じゃあ今は、第四候補」


 灯は呼んだ。


「何だ」


 第四候補は答えた。


 白い円の上昇が止まる。


『現在呼称への応答を確認』


『ただし』


『起源識別子ではない』


「それで構いません」


 澄玲の白い経路が、全ての関係を一つの図へ繋ぐ。


「私たちは、第四候補が黒瀬零であると証明しているのではありません」


『ならば起源外分離を継続』


「黒瀬零ではないとも、本人は選んでいません」


『二値判定を要求』


「本人は、二つのどちらも選んでいない」


『無回答』


「いいえ」


 澄玲は、第四候補が書いた一行を指した。


 ――氏名、未選択。


「これが、現在の回答です」


 青い光が競技場全体へ広がる。


「`世界は解を持つ(エウレカ)`」


 名前を選んでいない。


 起源を捨ててもいない。


 個体としては、既に存在している。


 その三つを同時に満たす場所へ、一本の経路が開いた。


 ――氏名状態。


 ――未選択。


 ――共通起源との関係。


 ――係争中のまま保持。


 ――現在個体。


 ――独立。


『規程外状態を検出』


「規程の外に本人がいるのではありません」


 澄玲が言う。


「本人を記録する欄が、規程にないのです」


『局所監査機構に』


『新規状態の登録権限なし』


「登録しなくていい」


 朔夜が黒い薄刃を構えた。


「削除だけ止めればな」


『起源外個体分離は』


『氏名未選択から直接執行される』


「そこを切る」


 朔夜の視線が、二つの処理を繋ぐ白い線へ向く。


 ――氏名を現在選択しない。


 ――ゆえに、黒瀬零との起源関係を全て失う。


「天城先輩」


 澄玲が呼ぶ。


「氏名を選ばないという現在回答と、起源関係を放棄したという結論の間だけを切断してください」


「了解」


 黒い刃が振り下ろされる。


「`因果切断(セヴァランス)`!」


 白い円に、一本の亀裂が入った。


『執行接続の切断を確認』


『代替接続を検索』


「させない!」


 獅堂が競技場中央へ踏み込んだ。


 右足。


 左足。


 両足で床を強く踏み締める。


 拳は地面へ触れない。


 自らが立つ現在の場所を、《礎》として定める。


「名が決まらぬ者にも、今立つ大地はある!」


 足裏から、黄金の王土が広がった。


「`万象は我が礎(グランド・レガリア)`!」


 第四候補の診療椅子を囲んでいた白い円の下へ、黄金の床が差し込まれる。


 起源外。


 起源内。


 どちらへ分類されなくても。


 第四候補の身体は、今この競技場へ存在している。


『物理位置の固定は』


『起源関係へ影響しない』


「それでいい!」


 獅堂が叫ぶ。


「今ここにいる本人を、書類の空欄へ落とさせなければ十分だ!」


 白い円が崩れる。


 削除対象となっていた四件の記録が、空中で停止した。


 黒瀬灯との関係候補。


 未来の第二署名予定。


 三年前の当事者記録。


 身体運用の起源記録。


 完全には戻らない。


 だが、消えもしない。


『規程外状態を暫定検出』


『正式登録不能』


『現在処理を保留』


 第四候補の前へ、新しい表示が現れた。


 ――現在氏名。


 ――未選択。


 ――仮称、《第四候補》。


 ――共通起源関係。


 ――本人判断まで保全。


 ――個体状態。


 ――独立。


 灯が息を吐く。


「残った」


「ああ」


 第四候補は表示を見る。


「名前を選ばなくても」


「今はな」


 俺が答える。


「先のことは、お前が決めろ」


「言われなくてもそうする」


『ただし』


 監査官の頁が、再びめくられた。


『当該状態を正式に認めるには』


『三年前の起源外個体分離準備において』


『本人が何を回答しようとしていたか』


『確認する必要がある』


「本人の回答は聞かれていない」


 帝都理法大学の黒瀬零が言う。


『回答欄は存在した』


「何だと」


『未提出回答、一件』


 三年前の退学処分記録が開く。


 これまで空白だった最下部へ、小さな封印が浮かび上がった。


 ――処分対象者本人回答。


 ――提出状態、未提出。


 ――保存先。


 文字が途中で乱れる。


 共同学籍網。


 帝都神律大学。


 旧査問室。


 どの保管場所にも対応していない。


『保存先を照合』


『残余審査記録内』


 全員の視線が、《第四学籍》へ向いた。


「俺の中に?」


 《第四学籍》が、三枚の《異議付記欄》を見下ろす。


『肯定』


『お前は』


『三件の消失記録のみから構成されたのではない』


『提出されなかった本人回答を』


『一件含む』


 《第四学籍》の胸元へ、四枚目の紙が現れた。


 これまで存在しなかった紙。


 正確には。


 ずっと存在していたが、《第四学籍》自身にも認識できなかった記録。


「俺は」


 《第四学籍》が紙へ触れる。


「第四候補の代理だったから、署名候補として参照されたのではない」


 玄理が、記録構成を読み取る。


「不在の署名者へ近い三件の履歴だけが理由ではない」


 玄理は四枚目の紙を見る。


「第四候補本人の未提出回答を内部に保持していた。そのため、共同学籍網は《第四学籍》を第四候補へ一時対応させたのである」


「俺の答えを」


 第四候補が《第四学籍》を見る。


「お前が持っている?」


「俺が選んで持ったわけではない」


「分かっている」


 四枚目の紙には、音声記録が封じられている。


 記録時刻。


 三年前。


 退学処分が確定する、〇・七秒前。


「再生しますか」


 文乃が第四候補へ尋ねる。


 本人の過去かもしれない。


 だが、現在の本人が選ぶ答えと同じとは限らない。


 再生すれば、その言葉が現在の選択へ影響する。


 再生しなければ、暫定状態を正式に保全できない可能性がある。


「監査のために再生するな」


 第四候補が答えた。


『本人回答の確認が必要』


「俺が聞く」


『同一処理として扱う』


「違う」


 第四候補は、《第四学籍》へ右手を差し出す。


「お前たちへ提出する前に、俺が聞く」


 《第四学籍》は、すぐには紙を渡さなかった。


「これは、俺の内部記録でもある」


「ああ」


「再生すれば、俺の構成が変化する可能性がある」


「なら、お前も決めろ」


「俺が?」


「証人として残ると選んだんだろ」


 《第四学籍》の輪郭が揺れた。


 誰かの代理ではない。


 誰かの回答を運ぶだけの容器でもない。


 自分が保持している記録を、どう扱うか。


 その判断は、《第四学籍》自身のものだった。


「俺は」


 三枚の《異議付記欄》。


 四枚目の未提出回答。


 全てを抱えたまま、《第四学籍》は答えた。


「第四候補本人と、俺だけで先に確認する」


『正式査問記録への即時提出を要求』


「拒否する」


『証人記録に拒否権はない』


「俺は証人として残ることを選んだ」


 《第四学籍》が顔を上げる。


「証拠品として残ることは、選んでいない」


 第四候補が僅かに笑った。


「言うようになったな」


「お前たちが面倒だからだ」


「それは認める」


 《第四学籍》から、第四候補へ四枚目の紙が渡される。


 触れた瞬間。


 二人の周囲へ、白い防音壁が展開した。


 査問側が作ったものではない。


 《第四学籍》自身が、証人記録の閲覧範囲を限定している。


 俺たちには、音が聞こえない。


 第四候補と《第四学籍》だけが、三年前の声を聞く。


 記録が再生される。


 最初の数秒。


 第四候補の表情は変わらなかった。


 やがて、眉が僅かに動く。


 《第四学籍》の三枚の《異議付記欄》が震える。


 音声は、俺たちには届かない。


 だが、最後の一言だけ。


 防音壁を越えたのではない。


 第四候補自身が、現在の声で繰り返した。


「黒瀬零である前に」


 白い頁の動きが止まる。


 第四候補は、自分の過去の言葉を確かめるように続けた。


「俺は、俺の答えを聞かれるべきだった」


 帝都理法大学の黒瀬零が、目を伏せる。


 三年前。


 第四候補は、名前を捨てるとも。


 黒瀬零を選ぶとも。


 まだ答えていなかった。


 ただ。


 自分で答える権利を求めていた。


 その〇・七秒後。


 本人の声が提出される前に、退学処分は確定した。


『未提出回答を確認』


『内容を正式査問へ提出せよ』


 第四候補は紙を閉じる。


「まだだ」


『理由を要求』


「この続きは」


 第四候補が、帝都理法大学の黒瀬零を見る。


「三年前に俺の答えを待たなかった本人へ、先に聞かせる」


「俺に?」


「ああ」


「許されるのか」


「お前が聞くかどうかは、お前が決めろ」


 帝都理法大学の黒瀬零は、三年前の退学処分書を見る。


 一人で選んだ記録。


 本人の回答より、〇・七秒早く確定した結論。


「聞く」


 今度の返答に、迷いはなかった。


 白い頁の監査官が、初めて処理を止める。


『正式査問を中断』


『未提出本人回答の確認後、再開』


『中断時間』


 ――十分。


 たった十分。


 それでも。


 三年前には与えられなかった時間だった。


 第四候補。


 《第四学籍》。


 帝都理法大学の黒瀬零。


 三人の周囲へ、防音壁が広がる。


 過去の答えを、過去のまま現在へ命令させるためではない。


 今の三人が。


 今の意思で。


 聞き直すために。


 名前を選ばなかった者にも。


 名前を奪われた者にも。


 名前を奪った者にも。


 昨日はある。


 だが。


 昨日の答えを、今日の本人より先に提出してはならない。


 防音壁が閉じる直前。


 第四候補が俺を見た。


「黒瀬零」


 名前を呼ばれる。


「何だ」


 俺は振り返った。


「その名前」


 第四候補は、一度言葉を止める。


「少しだけ、借りずに聞いてくる」


「ああ」


「戻ったあとも、選ぶとは限らない」


「分かってる」


「勝手に待つな」


「それは無理だ」


「面倒な奴だな」


「お前に言われたくない」


 防音壁が閉じる。


 正式査問の時計は止まった。


 止まった十分の内側で。


 三年前に提出されなかった一人分の声が。


 名前のない現在へ、ようやく届き始めた。

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