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『神律大学の未証明者《アンプローヴン》』   作者: 仕儀の反駁
第四章《学術都市》《第四候補》編

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第五十六話 呼ばれた数だけここにいる

 正式査問の開始まで、二十九分四十八秒。


 十二の審査席に映った人影は、まだ顔を持っていない。


 大学章。


 役職。


 審査権限。


 それぞれの席に座る者を示す情報は、その三つだけだった。


 その中に、一席だけ異なるものがある。


 帝都神律大学の大学章を掲げながら、学内には存在しない役職を名乗る席。


 ――《公理階層》接続記録監査官。


 頭部を覆う白い頁には、互いに矛盾する審査結果が絶えず書き換えられている。


 五件全てを独立させる。


 一件だけを残す。


 全件を凍結する。


 第六候補の成立まで判断を延期する。


 どの結論も、まだ正式には選ばれていない。


 それでも、これから採択される可能性として、全てが同じ顔へ並んでいた。


「いったん控室へ移動します」


 文乃が競技場脇の扉を開く。


「正式査問の開始前であれば、審査対象者と共同証明者による事前協議が認められています。ただし、証言内容を統一するための打ち合わせは禁止です」


「全員で同じ嘘をつくなってことか」


 俺が尋ねる。


「正確には、全員の回答を一つへ揃えないでください」


「今までと逆だな」


「今回も、皆さんが別々の個人であることを審査しますから」


 競技場中央に残された十三の席を背に、俺たちは控室へ移動する。


 第四候補は、自分の足では歩いていない。


 緋月が用意した移動式の診療椅子へ座らされている。


 左足首。


 右大腿部。


 右膝。


 腹部。


 第二実技で負荷の集中した箇所は、黒い固定帯と冷却材に覆われていた。


「自分で動かせる」


 第四候補が車輪へ手を伸ばす。


「触るな」


 後ろから椅子を押している緋月が即答した。


「腕は壊れていない」


「腕で動かせば、脚部の固定がずれる」


「その程度でずれる固定なら、作り直せ」


「患者が治療器具へ注文をつけるな」


「黒瀬零にも同じことを言っていたな」


「黒瀬零は歩くなと言っても歩く。お前は止まれと言っても止まらない。治療対象としては同じ種類だ」


「一緒にするな」


「身体の壊し方は似ている」


「それは認めない」


「認めなくてよい。診断結果は変わらない」


 第四候補は不満そうに腕を組もうとした。


 右大腿部の冷却帯が警告を発する。


「腕を組んだだけだ」


「腹圧が上がった」


「面倒だな」


「その感想は私も同じだ」


 俺も隣の診療台へ座らされる。


 右肩には、第一実技から使い続けている固定具。


 左前腕には、把持動作以外を制限する黒い帯。


「俺はもう治療を受けた」


「正式査問の間、右肩を使わないよう追加固定する」


「座って話すだけだろ」


「お前が座って話すだけで終わる保証がない」


「信用がないな」


「実績がある」


 固定具が一段階強く締まる。


「痛い」


「正常だ」


 灯が俺の正面へ立った。


「お兄ちゃん、今日は何回それを言うの?」


「本当に痛い時だけ」


「全部、本当に痛いんでしょう?」


「そうとも言う」


「じゃあ黙って治療されて」


「厳しくなったな」


「昨日からずっと心配してるの」


 灯の声から、軽さが消えた。


 俺は、それ以上の冗談をやめた。


 ◇


「最初に確認しておく」


 控室中央の机へ、玄理が十三枚の審査資料を広げた。


 十二大学の正式な審査官資料。


 そして。


 白い頁の監査官に対応する、出所不明の一枚。


「《公理階層》接続記録監査官を、《公理階層》そのものの意思と考えてはならない」


「確認のために、構造を整理してください」


 澄玲が言った。


「《観測階序》より上位にあるということは分かっています。ですが、《公理階層》と、その先にある公理構造の関係までは、まだ全員で共有できていません」


「そうだな」


 玄理は、資料の上へ一つの円環を表示した。


「《観測階序》は、終端なく続く全《観測圏》の総体である」


 《第一観測圏》。


 《第二観測圏》。


 その上位に続く、さらに別の《観測圏》。


 どの《観測圏》にも上位が存在し。


 全てを合わせても、最後の一圏には到達しない。


「《公理階層》は、その《観測階序》全体を一つの公理項として扱う」


「一つの《観測階序》だけを内包するのか」


 獅堂が尋ねる。


「違う」


 円環が縮小する。


 一つの記号へ変わる。


 その記号と同じものが、玄理の周囲へ無限に並んだ。


「一つの《公理階層》は、無限の《観測階序》を内包する個別段階である」


 無限に続く全《観測圏》の総体。


 その《観測階序》自体が。


 一つの《公理階層》の中では、無限に存在する。


「さらに、上位の《公理階層》は、直前までの《公理階層》全体を一つの公理項として扱う」


 一つの公理階層。


 その内部に存在する、無限の《観測階序》。


 各《観測階序》に含まれる、終端のない《観測圏》。


 その全てが。


 上位では、一つの項へ格下げされる。


「その一項を、上位の《公理階層》は再び無限に内包する」


「それが、また終端なく続く?」


 灯が尋ねる。


「一つの階層系列としては、そうだ」


 玄理は、無限に連なる《公理階層》を一つの枠で囲んだ。


「無限の《公理階層》から成る一体系を、《公理層序》と呼ぶ」


「《公理階層》が無限に集まったものが、一つの《公理層序》」


 灯が確かめる。


「そうだ。ただし、《公理層序》も一つでは終わらない」


 一つの《公理層序》が、再び一個の記号へ変わる。


「上位の《公理層序》は、直前までの《公理層序》全体を一つの公理項として扱い、その全体をさらに無限に内包する」


「階層をまとめた体系そのものが」


 澄玲が表示を追う。


「さらに上位では、一つの項へ変えられるのですね」


「そうだ」


 無限の《公理階層》。


 それらから成る《公理層序》。


 さらに。


 前の層序全体を一項として内包する、次の《公理層序》。


 その関係にも、終端はない。


「そして」


 玄理が、表示された全公理構造を一つの枠で囲んだ。


「終端なく続く全《公理層序》と、その内部に存在する全《公理階層》、全《観測階序》、全下位世界構造を含む総体を、《公理階梯》と呼ぶ」


「《公理階梯》は、《公理階層》のさらに上にある一段ではない?」


 灯が尋ねる。


「違う」


 玄理は即答した。


「個別の一段ではない。《公理階梯》は、全《公理層序》と、その内部の全公理構造を含む総体を示す名称だ」


 《公理階層》。


 その無限系列としての《公理層序》。


 全ての《公理層序》を含む《公理階梯》。


 同じ公理構造でも。


 名称が指している範囲は異なる。


「では、この監査官は」


 獅堂が十三枚目の資料を見る。


「その《公理階層》から来たのか」


「現時点では、そこまで断定できない」


 玄理は、白い頁に記された接続経路を拡大した。


 帝都神律大学。


 共同学籍網。


 《第二観測圏》側の審理記録。


 その先。


 通常の文字では読めない参照番号が、階段のように連なっている。


「役職名が示しているのは、《公理階層》に属する何らかの記録規程へ接続しているということだけだ」


「特定の《公理階層》そのものが、この人を送り込んだとは限らない?」


 灯が聞く。


「そうだ」


「《公理層序》や《公理階梯》から命令されている可能性は?」


「その表現も正確ではない」


 玄理は、表示された全体構造を閉じた。


「《公理層序》や《公理階梯》は、構造を示す名称である。それ自体が、一つの人格や意思主体であるとは確認されていない」


「構造と、そこへ属する機構を分けて考える必要があるのですね」


 澄玲が言った。


「そうだ」


 玄理は、十三枚目の資料へ指を置く。


「現時点で確認できるのは、複数段階の記録を経由し、どこかの《公理階層》に属する規程へ接続している局所的な監査機構であることだけだ」


「前と同じですね」


 澄玲が言った。


「一部の実行機構を、構造全体の意思と取り違えてはいけない」


「そうだ」


 白い頁の監査官は、あくまで局所的な監査窓口。


 その背後にある公理構造全体の代表ではない。


 だからといって、無視できるわけでもなかった。


 監査官が参照している規程は、十二大学の共同学籍規程より優先される。


「問題は、その規程です」


 文乃が別の資料を開いた。


 ――上位接続時における氏名単一対応規程。


 ――一つの起源識別子に対し。


 ――複数の正規個体を対応させてはならない。


「氏名単一対応」


 三年前の黒瀬零が文字を読む。


「一つの名前は、一人にしか使えないという意味か」


「通常の同姓同名を禁止する規則ではありません」


 文乃が首を振る。


「共同学籍網には、同じ氏名を持つ学生が複数存在します。それぞれ異なる学籍番号と出生記録を持っているため、問題にはなりません」


「俺たちは、起源が同じだから問題になる」


 帝都理法大学の黒瀬零が言った。


「はい。一つの起源記録から分岐した個体が、全員同じ氏名を保持する事例を、現行規程は想定していません」


「なら、名前以外の番号で分ければいい」


 俺が言う。


「第一実技と第二実技で、個別性は証明したんだろ」


「十二大学側の規程であれば、それで対応できます」


 文乃の視線が、十三枚目の資料へ向く。


「ですが、接続記録監査官は、氏名を単なる表示項目ではなく、起源識別子として読んでいます」


「黒瀬零という名前そのものが」


 灯が呟く。


「五人を一人へ繋ぐ番号だと思われてる?」


「そうです」


 一つの名前。


 一つの起源。


 一人の個体。


 監査官は、その三つが必ず一致しなければならないと考えている。


 だから。


 五人を別人として認めれば、一つの起源識別子が複数へ分かれてしまう。


 一人に戻せないなら。


 一人だけへ名前を残す。


 それもできないなら、全員から名前を削除する。


「馬鹿げている」


 第四候補が診療椅子の肘掛けを握る。


「名前が同じだから一人だというなら、個別性を審査した意味がない」


「その点を、正式査問で証明する必要があります」


 文乃が答える。


「黒瀬零という文字列は、一件の起源記録を指すだけの識別子ではない。複数の個人が、それぞれ保持できる氏名であると」


「証明できなければ?」


 灯が尋ねる。


「現在、黒瀬零を氏名として登録している四件から、その氏名が削除されます」


 第四候補を除く四人。


 現在の俺。


 三年前の俺。


 帝都理法大学の俺。


 採択領域から離脱した俺。


 個体は残る。


 学籍も、直ちには消えない。


 ただし。


 氏名欄が空白になる。


「名前だけなら、あとで付け直せるんじゃないの?」


「同一の氏名を再申請した場合、同じ監査へ戻される可能性があります」


 文乃の答えに、灯は黙った。


 黒瀬零という名前を失う。


 死ぬわけではない。


 存在が消えるわけでもない。


 それでも。


 灯が今まで呼んできた兄の名前。


 俺が十八年間、自分として使ってきた名前。


 それを、重複した識別番号として取り上げられる。


「証明方法は?」


 朔夜が壁へ寄りかかりながら尋ねる。


「同じ名前でも、呼ばれる状況によって別々の人物を指す。それを示すだけでは足りないのか」


「おそらく足りません」


 澄玲が答えた。


「それでは、名前以外の情報が本人を識別しているだけだと反論されます」


「名前が不要だと言われる?」


「はい」


「面倒だな」


「必要な面倒です」


「最近、その言い方が増えたな、九条」


「必要な場面が多いからです」


 澄玲は、机へ並んだ四件の氏名記録を見る。


「名前が本人を一意に決めないことと、名前が不要であることは別です」


「どう違う」


 獅堂が尋ねる。


「名前は、誰かを機械的に特定する番号だけではありません」


 澄玲の視線が灯へ向く。


「本人が自分をどう名乗るか。誰がその人をどう呼ぶか。その呼びかけへ本人が答えるか。複数の関係の中で、繰り返し成立するものです」


「なら」


 灯が俺を見る。


「私が、お兄ちゃんの名前を呼べばいい?」


「それも証明の一つにはなります」


「一つ?」


「灯さんが現在の黒瀬さんを選んで呼んだことは示せます。しかし、ほかの黒瀬零も同じ名前を保持できることまでは証明できません」


 第四候補が、自分の前にある空白の氏名欄を見る。


「俺はどうなる」


「あなたは、まだ黒瀬零を正式な氏名として選んでいません」


 文乃が答える。


「今回、氏名削除の直接対象ではありません」


「俺だけが名前を失わない、と監査官は言った」


「正確には、失う名前をまだ登録していないためです」


「その代わり」


 三年前の黒瀬零が第四候補を見る。


「黒瀬零という名前を、一人だけ新たに選べる位置へ置かれる」


「要らない」


 第四候補は即答した。


「名前が?」


「一人しか持てないという条件で渡される名前がだ」


 第四候補は四人の黒瀬零を見る。


「俺がそれを選べば、こいつらから奪ったことになる」


「今のあなたが、名前そのものを望んでいないとは限りません」


 澄玲が静かに言った。


「ですから、査問のために先に答えを決めないでください」


「選べと言われても、今は選ばない」


「それも、あなた自身の回答です」


 未来の署名欄では、第四候補も黒瀬零を名乗っている。


 だが。


 未来の予定は、現在の回答ではない。


 その原則は、ここでも変わらない。


 ◇


 正式査問開始まで、十一分。


 文乃が証言の順番を確認している間、灯が俺の隣へ来た。


「お兄ちゃん」


「何だ」


「名前がなくなっても、お兄ちゃんはお兄ちゃん?」


「今のところは」


「今のところ?」


「お前がそう呼ぶなら」


「じゃあ、ずっと呼ぶ」


「未来の答えまで決めるな」


「今は、ずっと呼びたいと思ってる」


「なら、それでいい」


 灯は、俺の制服の袖を掴む。


「黒瀬零って名前、好き?」


 考えたことがなかった。


 生まれた時から、そこにあった。


 学校でも。


 家でも。


 大学でも。


 試験でも。


 誰かに呼ばれるたび、振り返ってきた。


「嫌いじゃない」


「それだけ?」


「急に聞かれても困る」


「私は好きだよ」


「俺の名前なのに?」


「お兄ちゃんの名前だから」


 所有するという意味ではない。


 呼ぶ相手がいるから、その呼び方を大切に思う。


 俺一人だけでは、名前は成立しない。


「灯」


「何?」


「査問で、俺を呼んでくれ」


「黒瀬零って?」


「ああ」


「お兄ちゃんじゃなくて?」


「両方」


「欲張りだね」


「名前を取られそうだからな」


 灯は少しだけ笑った。


「分かった」


 ◇


『十二大学共同正式査問』


『開始』


 十三の審査席が、一斉に点灯した。


 俺たちは、競技場中央へ戻っている。


 五件の審査対象者。


 灯。


 澄玲。


 朔夜。


 獅堂。


 玄理。


 緋月。


 文乃。


 そして、証人として残ることを選んだ《第四学籍》。


 それぞれの位置が、細い白線で区切られている。


 第四候補の診療椅子も、独立した審査対象位置として登録されていた。


 最初に顔を上げたのは、共同学籍審査官だった。


『審査対象五件へ確認する』


『本査問の目的は』


『同一起源から分岐した五件を』


『独立した正規個体として登録可能か判断することである』


『第一実技および第二実技により』


『五件の行動、理由、位置、勝敗における個別性は確認された』


『第三実技において』


『五件は代表学籍の選択を拒否した』


『以上に相違はあるか』


「ない」


 五人の回答が、僅かにずれて重なる。


『次に』


 白い頁の監査官が顔を上げた。


 頁が一枚めくられる。


 ――全件の個別性を承認。


 次の頁。


 ――共有氏名を削除。


『独立個体の登録に先立ち』


『共有されている起源識別子を処理する』


『現在、氏名“黒瀬零”を保持する記録は四件』


『将来使用予定を含めれば六件』


『同一の起源識別子を』


『複数の独立個体へ保持させることはできない』


「氏名は起源識別子ではありません」


 文乃が異議を提出する。


『十二大学規程上は肯定』


『上位接続規程上は否定』


「同姓同名の学生は複数います」


『異なる起源を持つ』


「同じ起源から分岐した個体であっても、分岐後は独立した個人です」


『ゆえに』


『個体識別子を分離する』


 白い頁から、四本の線が伸びた。


 俺たちの学生証へ接続する。


 氏名欄だけが、白く光った。


『第一段階』


『呼称照合』


『氏名“黒瀬零”へ応答する個体を確認する』


 競技場全体から、機械音声が発せられる。


『黒瀬零』


「どの黒瀬零だ」


 帝都理法大学の黒瀬零が答える。


「時点を指定しろ」


 三年前の黒瀬零。


「位置を指定しろ」


 採択領域から離脱した黒瀬零。


「呼び方が足りない」


 俺。


 第四候補だけが答えなかった。


『四件の同時応答を確認』


『氏名単独による個体識別』


『不成立』


『当該氏名は』


『個体識別子として機能しない』


「だから削除するというのか」


 第四候補が低く言う。


『肯定』


「識別できないことと、誰も名乗れないことは別だ」


『識別に寄与しない項目を』


『上位接続記録へ保持する必要はない』


「必要があるかどうかを、お前が決めるな」


『監査権限に含まれる』


「では、条件を追加してください」


 澄玲が一歩前へ出た。


「氏名だけでは個人を特定できなくても、文脈を含めれば特定できます」


『実行を許可』


『第一呼称』


 新しい音声が響く。


『帝都神律大学に在籍し』


『現在の黒瀬灯から兄として選択されている黒瀬零』


「俺だ」


 俺だけが答えた。


『第二呼称』


『三年前の共同履修審査において』


『第四候補の退学処分へ署名した黒瀬零』


「俺だ」


 帝都理法大学の黒瀬零。


『第三呼称』


『現在より三年前の履歴を保持し』


『《第零学部》へ暫定滞在している黒瀬零』


「俺だ」


 三年前の黒瀬零。


『第四呼称』


『採択領域から離脱し』


『自らの位置を自己定義する黒瀬零』


「俺だ」


 採択領域から離脱した黒瀬零。


『個別応答を確認』


『ただし』


『個体を識別したのは』


『氏名以外の付加情報である』


『氏名項目の必要性』


『不成立』


「そう来ると思いました」


 澄玲は動じなかった。


「黒瀬零という名前だけで、誰か一人を特定できないことは否定しません」


『ならば削除可能』


「削除できることと、削除してよいことは同じではありません」


『氏名の機能を提示せよ』


 澄玲は灯を見る。


「灯さん」


 灯は頷いた。


 白線の内側へ進む。


 監査官ではなく、俺を見た。


「お兄ちゃん」


「何だ」


「黒瀬零」


 名前を呼ばれる。


 俺は答えた。


「ああ」


 他の三人は答えない。


 同じ氏名を持っている。


 同じ起源へ繋がっている。


 それでも。


 灯が今呼んだ相手は、俺だった。


『現在兄妹関係を参照した応答』


『氏名による識別ではない』


「私は、関係欄を読んで呼んだんじゃない」


 灯が監査席を見上げる。


『主観的回答は』


『識別根拠として不十分』


「私は、お兄ちゃんを呼びたかったから呼んだ」


『対象選択は、事前に成立している』


「うん」


 灯は否定しなかった。


「名前は、呼ぶ前から相手を決める番号じゃないんでしょう?」


 監査官の頁が止まる。


『誰を呼びたいか決めて、その人へ届くように使うものでもある』


『氏名の前に対象選択が必要』


「だから何?」


 灯の声が強くなる。


「先に誰かを大事だと思わなきゃ、その人の名前を呼んじゃいけないの?」


 審査席の一つが、僅かに揺れた。


 人を選ぶ。


 名前を呼ぶ。


 振り返る。


 名前は、その全てを一つの処理だけで行う番号ではない。


「私は黒瀬零って言えば、世界中から一人だけ自動で出てきてほしいんじゃない」


 灯は俺を見る。


「私が呼びたいお兄ちゃんに、振り返ってほしいの」


『関係に依存する呼称機能を確認』


『個体識別子としての必要性は』


『依然として不成立』


「機械の番号として必要だと言っているのではありません」


 澄玲が続ける。


「関係の中で、本人が応答するために必要だと言っています」


『関係情報のみで代替可能』


「代替できるから、奪ってよいのですか?」


『機能上の重複を整理する』


「それは」


 第四候補が、診療椅子の肘掛けを押した。


 立とうとした瞬間、左足首の固定具が赤く光る。


「座ったまま話せ」


 緋月が即座に制止した。


「立つ必要はない」


 第四候補は舌打ちし、上体だけを前へ起こした。


「人間を、必要な機能だけに分ける考え方だ」


『お前は氏名を保持していない』


「だから分かる」


 第四候補は、空白の氏名欄を監査官へ向ける。


「名前がなくても生きられる」


『肯定』


「だが、名前が要らないわけじゃない」


『矛盾』


「違う」


 第四候補は、四人の黒瀬零を見る。


「俺は、まだ選んでいない。こいつらは、今その名前で生きている」


『起源識別子の重複を許容できない』


「なら、識別子として使うのをやめろ」


『規程変更権限なし』


「規程のために、人間から名前を取るのか」


『個体は保存される』


「保存されれば、それでいいと思うな」


 白い頁が、同時に何枚もめくられる。


『第一段階の回答を終了』


『氏名の非識別的機能を確認』


『ただし』


『上位接続記録へ保持する理由として不十分』


『共有氏名剥離処理を開始』


 俺の学生証から、一文字目が浮かび上がった。


 黒。


 墨で書かれた文字が紙から剥がれるように、氏名欄から離れていく。


 三年前の俺。


 帝都理法大学の俺。


 採択領域から離脱した俺。


 四件の学生証から、同じ文字が抜き取られる。


「止めてください!」


 文乃が異議申立てを送る。


『処理中の異議は』


『処理後に審査する』


「それでは意味がありません!」


 黒の文字が、白い頁へ吸い込まれていく。


 次は。


 瀬。


 声を出そうとする。


「俺は――」


 名前を言おうとした瞬間、喉の奥で音が消えた。


 自分が誰かは分かっている。


 記憶もある。


 灯の顔も見える。


 だが。


 氏名だけが、言葉にならない。


『音声上の氏名出力を停止』


『学籍上の氏名削除と同期』


「お兄ちゃん!」


 灯が俺へ駆け寄ろうとする。


 右肩へ触れないよう、緋月が身体を支えた。


「黒瀬零」


 緋月が俺を呼ぶ。


 その声からも、名前の部分だけが抜け落ちた。


「――」


 口は動いている。


 だが、三文字だけが聞こえない。


「神代先生まで」


「氏名そのものが、共有記録から剥がされています」


 澄玲が白い線を追う。


「このままでは、呼ぶことも名乗ることもできなくなります」


「物理的に止められないのか」


 獅堂が競技場中央へ進む。


「記録処理です。床を壊しても止まりません」


「なら、記録が立つ場所を支える」


 獅堂は両足を開いた。


 右足。


 左足。


 二つの足裏で、競技場の床を強く踏み締める。


 自らの立つ現在の場所を、《礎》として定める。


「ここに立つ者の名を、足場ごと持ち去らせはしない!」


 足元から、黄金の王土が広がった。


「`万象は我が礎(グランド・レガリア)`!」


 黄金の線が、四件の学生証を囲む。


 剥がれかけた文字が、空中で止まった。


 黒。


 瀬。


 完全には戻らない。


 だが、白い頁へ吸い込まれる動きが鈍る。


 これは速度競争ではない。


 記録の基盤を、現在の競技場へ固定しているだけだ。


『物理基盤の固定を確認』


『氏名記録は意味情報であり』


『基盤固定の対象外』


「それでも、今ここにある!」


 獅堂が、さらに足裏へ力を込める。


 黄金の王土が厚みを増した。


 競技場全体が、巨大な一枚岩へ変わる。


 俺たちの学生証は、単にその上へ置かれた記録ではない。


 今ここに立つ者の生活へ繋がるものとして、地面へ縫い留められていく。


『剥離処理』


『進行率低下』


「止め切れないか」


 朔夜が黒い薄刃を伸ばす。


「九条。どこを切る」


「共有氏名の――」


 澄玲が処理経路を見る。


「待ってください」


 文乃が止めた。


「現在の処理は、通常の因果結果ではありません。上位規程による直接執行です」


「切っても、別の処理名で続けるか」


 朔夜が問う。


「その可能性があります」


「面倒だな」


「ですが、氏名情報が現在の個体から監査官へ移送される接続は切れます」


「十分だ」


 朔夜の刃が走る。


「`因果切断(セヴァランス)`!」


 四件の学生証と、白い頁を結んでいた線が切れた。


 浮かんでいた黒と瀬の文字が、その場へ落ちる。


 黄金の床に触れる。


 砕けない。


 戻りもしない。


『氏名情報の移送を中断』


『剥離処理そのものは継続』


 名前は、学生証から剥がれ続ける。


 ただし。


 監査官の所有物にもならない。


 俺たちと監査官の間。


 誰にも帰属しない文字として、現在へ残った。


「時間を作っただけです」


 澄玲が言う。


「それでよい」


 玄理が《第四学籍》を見る。


「証人記録を開け」


「俺の中に、何がある」


「三年前の《異議付記欄》である」


 《第四学籍》が抱えていた三枚の白紙を広げる。


 白紙ではない。


 光を斜めから当てると、消去された文字の跡が見える。


 三件の学籍。


 三件の異議。


 三件の氏名欄。


 どの欄にも。


 同じ三文字が残っていた。


 黒瀬零。


「これも、重複記録として削除される」


 《第四学籍》が言う。


「削除される前に、作成時刻を確認する」


 玄理は三枚を重ねなかった。


 一枚ずつ、別々の端末へ接続する。


 ――第一記録。


 ――氏名入力時刻。


 ――三年前、六月十七日、午前九時十二分。


 ――第二記録。


 ――氏名入力時刻。


 ――三年前、六月十七日、午前九時十四分。


 ――第三記録。


 ――氏名入力時刻。


 ――三年前、六月十七日、午前九時十九分。


「同じ原本から複製されたのなら」


 文乃が時刻を見る。


「氏名入力時刻は一致するはずです」


「一致していない」


 玄理が答える。


「三件は統合前に、それぞれ独立して氏名を入力していた」


『同一起源個体による』


『反復入力の可能性』


「筆跡も異なる」


 玄理が文字の輪郭を拡大する。


 一件目は、右上がり。


 二件目は、筆圧が強い。


 三件目は、最後の払いが短い。


 同じ文字。


 異なる書き方。


「筆跡の違いだけでは、個体差の証明にならない」


 帝都理法大学の黒瀬零が言う。


 名前を発音できないため、声の途中に空白が生じていた。


「当時は、同じ人物が時間を置いて書いた可能性もある」


「だから、異議理由を使う」


 玄理の言葉を受け、文乃が三枚の《異議付記欄》を開く。


 第一記録。


 ――記憶が一致しても、現在の判断まで同一とは限らない。


 第二記録。


 ――同じ学籍へ統合されることに、本人として同意しない。


 第三記録。


 ――自分が誰の過去であるかを、審査側に決定させない。


「同じ人物が書いた可能性は、形式上残ります」


 澄玲が言う。


「ですが三件は、統合前から異なる理由で、自分を別々に記録することを求めていました」


『個別性は既に確認済み』


『論点は』


『共有氏名の保持権限』


「なら、本人たちに改めて選ばせてください」


 澄玲の周囲へ、白い経路が広がる。


「名前を、過去から受け継いだから保持しているのか」


 四人の前へ、一枚ずつ白紙が現れる。


「現在の本人が、自分の名として選んでいるのか」


『現在選択による』


『氏名再入力を要求しますか』


「はい」


『同一氏名を複数件が入力した場合』


『起源識別子の重複が再発する』


「重複ではありません」


 澄玲の瞳が、青く光る。


「それを、今から証明します」


 四件の白紙の間へ、白い隔壁が降りた。


 互いの姿は見えない。


 筆跡も。


 記入内容も。


 誰が何を書くか、確認できない。


『回答の事前共有を遮断』


『現在氏名選択試験を開始』


 俺の前へ、一枚の紙が浮かぶ。


 ――現在の自分が使用を希望する氏名。


 ――使用理由。


 左腕の制限帯を見る。


 把持動作のみ許可。


 筆記具を握ることはできる。


 俺は左手でペンを取った。


 右腕ではない。


 能力も使わない。


 書き慣れた文字を、利き手ではない手でゆっくり記す。


 黒瀬零。


 少し歪んだ。


 最後の払いも短い。


 それでも。


 俺の名前だった。


 理由欄。


 灯の兄だから、だけでは足りない。


 帝都神律大学の学生だから、だけでもない。


 過去から与えられたからでもない。


 俺は書いた。


 ――今ここで。


 ――この名前を呼ばれた時。


 ――自分の意思で振り返りたいから。


 記入を終える。


 他の三人の回答は見えない。


 全件の提出が完了すると、隔壁が上がった。


 四枚の書類が並ぶ。


 帝都理法大学の黒瀬零。


 氏名。


 ――黒瀬零。


 理由。


 ――三年前の決定を行った者として、責任を別人の名前へ移さないため。


 三年前の黒瀬零。


 氏名。


 ――黒瀬零。


 理由。


 ――現在の自分の過去として固定されず、今の自分として同じ名を選び直すため。


 採択領域から離脱した黒瀬零。


 氏名。


 ――黒瀬零。


 理由。


 ――外部から採択された位置を拒んだ後も、自ら捨てなかった名であるため。


 そして俺。


 氏名。


 ――黒瀬零。


 理由。


 ――今ここで、この名前を呼ばれた時、自分の意思で振り返りたいから。


『四件の氏名一致』


『理由不一致』


『相互観測遮断下での』


『独立回答を確認』


「同じ名前を」


 灯が四枚を見る。


「四人が、それぞれ選んだ」


「過去の原本を複製したのではありません」


 澄玲が監査官へ告げる。


「現在の異なる個人が、異なる理由で、同じ三文字を自分の氏名として選択しました」


『同一文字列の選択は』


『共通起源の影響を受ける』


「影響は否定しません」


「九条?」


 朔夜が僅かに眉を上げる。


「否定する必要がありません」


 澄玲は、四枚の回答を見つめる。


「同じ起源から受け継いだものがあるからといって、それを現在の本人が保持できない理由にはなりません」


 記憶。


 顔。


 声。


 身体。


 過去。


 名前。


 同じものを持って始まったとしても。


 分かれたあとに、その全てを捨てなければ別人になれないわけではない。


「独立とは、共通点を全て失うことではありません」


 澄玲が言う。


「共通点を持ったまま、それぞれが自分の理由で選べることです」


 白い頁の動きが止まった。


 黄金の床へ落ちていた文字が、僅かに浮かび上がる。


 黒。


 瀬。


 零。


 四枚の書類へ、一文字ずつ戻っていく。


 俺の喉に、失われていた音が戻った。


「黒瀬零」


 自分の名前を言えた。


 灯が息を吐く。


「お兄ちゃん」


「ああ」


『共有氏名剥離処理』


『一時停止』


『現在選択による』


『複数保持の可能性を確認』


 完全な承認ではない。


 だが。


 削除は止まった。


 獅堂が黄金の王土を解く。


 競技場の床は元へ戻る。


 それでも。


 二つの足跡だけが、淡い黄金色で残っていた。


 ◇


「これで終わりですか?」


 文乃が尋ねる。


『否定』


 白い頁が一枚めくられた。


 新しい審査項目が現れる。


 ――共有氏名。


 ――現在保持者、四件。


 ――未登録候補、一件。


『現在の証明により』


『異なる個体が』


『同一氏名を独立して選択できる可能性は認められた』


『ただし』


『審査対象は五件である』


 全員の視線が、第四候補へ向く。


 彼の診療椅子の前にだけ、白紙が残っている。


 氏名欄。


 未記入。


「俺は、まだ選んでいない」


 第四候補が言った。


『肯定』


『五件の独立を』


『共有氏名のまま登録するためには』


『五件全てが』


『当該氏名を現在の意思で保持する必要がある』


「待ってください」


 文乃が声を上げる。


「第四候補が別の名前を選んでも、五件の個別性は成立します」


『十二大学規程上は肯定』


『上位接続規程上は否定』


『同一起源から分岐した五件のうち』


『四件だけが起源識別子を保持し』


『一件だけが保持しない場合』


『保持しない一件を』


『起源外個体として分離する』


「それの何が問題だ」


 第四候補が尋ねる。


『お前は』


『黒瀬零の分岐ではないと処理される』


 競技場が静まった。


 第四候補の三年間。


 失われた学籍。


 身体へ残った戦闘経験。


 灯との関係候補。


 未来の署名欄。


 それら全てが。


 黒瀬零とは無関係な、別起源の人物の記録として切り離される。


「別人として残るなら、それでもいいんじゃないか」


 第四候補はそう言った。


 だが。


 声には、僅かな迷いがあった。


『分離した場合』


『黒瀬零を起源とする履歴を』


『全件削除する』


 表示が続く。


 ――三年前の共同履修審査における当事者記録。


 ――黒瀬灯との関係候補。


 ――《未来学籍先行保全申請》における第二署名予定。


 ――黒瀬零を起源とする身体運用記録。


『当該記録は』


『別起源個体へ帰属させられない』


「身体の記憶まで消すつもりか」


 緋月が低く言う。


『起源帰属のみを削除』


『身体能力そのものは保持される』


「何を経験して身につけたのかという、履歴上の繋がりだけが失われる」


 玄理が表示を見る。


「既に多くを失っている者から、残された過去との接続まで切断することになる」


『別名を選択する場合』


『必要な処理である』


 第四候補は、白紙を見つめた。


 黒瀬零を選べば。


 他の四人と同じ名前を持つ。


 自分が誰かの複製だと認めることにはならない。


 今の証明が、それを示した。


 だが。


 監査を通過するために必要だから。


 過去との接続を失いたくないから。


 未来の署名予定に記されているから。


 その理由で選べば。


 それは本当に、本人の選択なのか。


「答えを急がせないでください」


 澄玲が言った。


『正式査問中である』


『回答期限を設定する』


 第四候補の前にある白紙の上へ、数字が現れた。


 ――六十。


「一分?」


 灯が声を上げる。


『現在氏名選択に必要な時間として十分』


「誰が決めた」


 第四候補が監査官を睨む。


『過去の氏名保持期間を参照』


「俺は、その過去をほとんど覚えていない」


『記録上は保持していた』


「記録が、俺に代わって答えるな」


 残り五十二秒。


「第四候補」


 俺が呼ぶ。


「何だ」


「俺たちのために選ぶな」


「分かっている」


「過去を失わないためだけにも選ぶな」


「分かっていると言っている」


「未来の署名欄も無視しろ」


「お前は黙れ」


「まだある」


「本当に黙れ」


「俺が、その名前を使っているからって遠慮するな」


 第四候補が俺を見る。


「遠慮しているように見えるか」


「見えない」


「なら言うな」


「でも、俺の許可も要らない」


「最初から求めていない」


 残り三十八秒。


 灯が、白線の前まで来る。


「第四候補」


「何だ」


「私は、今のお兄ちゃんを、お兄ちゃんって呼ぶ」


「ああ」


「でも、三年前の私があなたをどう呼んでいたかは、まだ分からない」


「ああ」


「それを知るために、黒瀬零を選んでとは言わない」


 第四候補の視線が、灯へ向く。


「選ばないで、とも言わない」


「なら、何を言いに来た」


「あなたが名前を決めたあとも」


 灯は、白紙を見る。


「その名前で、ちゃんと呼ぶ」


 残り二十五秒。


「黒瀬零でも?」


「うん」


「別の名前でも?」


「うん」


「第四候補のままでも?」


「それは呼びにくい」


「そこは我慢しろ」


「だから、できれば名前は欲しい」


 第四候補が、僅かに息を漏らした。


 笑ったのかもしれない。


「勝手だな」


「お兄ちゃんの妹だから」


「どの黒瀬零のだ」


「今は、このお兄ちゃん」


 灯は俺を指す。


「でも、あなたとの関係は、これから聞く」


 残り十六秒。


 白紙が、第四候補の診療椅子の前まで下りてくる。


 立ち上がる必要はない。


 筆記具も、右手の届く位置へ浮かんだ。


 第四候補は取らない。


 氏名欄を見つめるだけだった。


『回答を要求』


「黙れ」


『残り十秒』


「数えるな」


『九』


 第四候補の右手が動く。


『八』


 指先が、筆記具へ触れる。


『七』


 だが、掴まない。


『六』


 未来では、この名前を選ぶ可能性がある。


『五』


 だが、未来は今の回答ではない。


『四』


 過去に持っていたかもしれない。


『三』


 だが、過去も今の回答ではない。


『二』


 第四候補が顔を上げた。


『一』


「俺は――」


 白い頁が、回答欄を開く。


「その名前を」


 黒瀬零という三文字が、白紙の上へ淡く浮かび始める。


「今は――」


 第四候補の指が、最初の一文字へ触れた。

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