第五十五話 空席は、六つの明日を待っている
競技場の中央に、一枚の学生証が浮かんでいた。
氏名欄は空白。
所属欄の明日を待っている
競技場の中央に、一枚の学生証が浮かんも空白。
学籍番号だけが、発行直前の状態で白く明滅している。
――《十二大学共同正規学籍》。
――発行可能数、一件。
その周囲には、六つの受領候補が表示されていた。
帝都理法大学の黒瀬零。
《第四候補》。
現在の俺。
三年前の黒瀬零。
採択領域から離脱した黒瀬零。
そして、まだ存在していない第六の黒瀬零。
『回答期限』
――二十九分四十七秒。
秒数が減り始める。
「確認させてください」
澄玲が観測席から文乃へ尋ねる。
「現在の黒瀬さんや、帝都理法大学の黒瀬さんには、既に所属大学の学籍があります。それでも、新たな正規学籍が必要なのですか?」
「今回発行されるものは、各大学が個別に管理している学籍とは異なります」
文乃が学生証の情報を開く。
十二大学の大学章が、円環状に並んだ。
「《十二大学共同正規学籍》は、共同学籍網において、一人の独立した学生として認められたことを証明する原本です」
「今の俺の学生証だけでは足りない?」
俺が尋ねる。
「帝都神律大学の内部では、黒瀬さんの学籍は有効です。しかし共同学籍網では、ほかの黒瀬零と同一人物である可能性が保留されています」
「帝都理法大学の俺も同じか」
帝都理法大学の黒瀬零が聞く。
「はい。大学内での所属や履修は維持されていますが、他大学との共同履修、学籍移動、卒業資格の相互認証では、同一性未確定による制限を受けます」
「この一枚を受け取った者だけが」
第四候補が治療席から学生証を見る。
左足首は固定具に覆われ、右大腿部にも冷却帯が巻かれていた。
「十二大学全体から、一人の独立した学生だと認められる」
「そうです」
「残りは?」
「各大学での現在状態を維持します。ただし、共同学籍網では、選ばれた一件から分岐した独立未確認記録として扱われる可能性が残ります」
「結局、一人を基準にするのか」
第四候補の声が低くなる。
「第三実技の目的は、五件全てが同意できる受領者を選ぶことです」
「同意できなければ?」
「第三実技は不成立となります」
「不成立だけで済むのか」
「共同正規学籍の発行は保留されます。ただし、五件全ての独立性を認める現行手続きが存在しないため、正式査問へ移行します」
「最初から、そっちでいいんじゃないか」
俺が言う。
「正式査問では、現在の学籍を維持してよいかどうかも審査されます」
文乃は視線を逸らさずに答えた。
「保留中の重複無効化処理も、再び審査対象になります」
誰も選ばなければ、何も変わらないわけではない。
一人を選べば、その一人だけが共同学籍網における独立を得る。
選ばなければ、五人全員の現在状態が、もう一度正式な審査台へ載せられる。
「よくできた試験だな」
朔夜が言った。
「どちらを選んでも、誰かが不利益を受ける」
「天城先輩、感心している場合ではありません」
「感心はしていない。嫌っている」
「それなら同意します」
学生証の下へ、新しい表示が開いた。
『第一受領候補』
――帝都理法大学、黒瀬零。
男の学籍情報が拡大される。
――制度上の連続性、最高。
――共同学籍網への登録履歴、最長。
――証明行政記録、完全。
『推奨理由』
――既存制度との接続が最も容易。
「最初は俺か」
帝都理法大学の黒瀬零が表示を見る。
『受領した場合』
――他四件の学籍を、帝都理法大学・黒瀬零から分岐した独立未確認記録として保存。
――第四候補に対する過去の退学処分を、正規学籍者による分岐整理処分として再承認。
第四候補の表情が止まった。
「再承認?」
「俺が受け取れば」
帝都理法大学の黒瀬零が表示を読む。
「三年前にお前を退学させた判断が、制度上正しかったことになる」
「お前にとっては都合がいいな」
「ああ」
男は否定しなかった。
「俺が受け取れば、帝都理法大学の学籍は安定する。共同学籍網での制限も消える。三年間、審査室へ固定されていた期間も、正規学生として在籍していたことになる」
「なら、選ぶのか」
「選ばない」
返答は早かった。
『理由を要求』
「三年前の判断を、現在の全員へ確認せずに正しかったことにはしない」
『制度上の利益を放棄しますか』
「放棄するのではない」
帝都理法大学の黒瀬零は、第四候補を見る。
「俺一人が利益を受け取るために、お前の処分を再承認しない」
「俺のためか」
「俺自身のためだ」
男は静かに答えた。
「同じ決定を、二度繰り返したくない」
第一候補の表示が暗くなる。
拒否ではない。
現在の回答として、「自分を選ばない」が記録された。
『第二受領候補』
――暫定識別名、《第四候補》。
第四候補の治療席の前へ、空白の氏名欄が移動する。
そこへ、黒瀬零という文字が仮表示された。
――身体連続性、最高。
――運動履歴保存率、最高。
――三年間の独立生存記録を確認。
『受領した場合』
――氏名、黒瀬零として確定。
――過去の退学処分を失効。
――十二大学共同正規学生として即時登録。
「お前が欲しかったものだろ」
俺が言う。
「何を」
「学籍と名前」
「欲しいと言った覚えはない」
「要らないのか」
「決めていない」
第四候補は、仮表示された氏名を見る。
黒瀬零。
今の彼にはない名前。
三年間、どの大学にも所属できず、誰の学籍にも対応しなかった彼へ、初めて正式に与えられる可能性のある名前。
「受け取れば」
灯が慎重に尋ねる。
「第四候補は、もう第四候補じゃなくなるの?」
「制度上は、黒瀬零として確定します」
文乃が答えた。
「本人がその氏名を受け入れれば」
「受け入れなかったら?」
「学籍は発行できません」
第四候補は、治療席に座ったまま俺たちを見る。
現在の俺。
三年前の俺。
帝都理法大学の俺。
採択領域から離脱した俺。
同じ名前へ繋がっている四人。
「今ここで受け取れば」
第四候補が言う。
「俺は、こいつらに勝って名前を得たことになる」
『対抗戦勝者であることを、受領優先理由として参照可能』
「参照するな」
『理由を要求』
「俺が勝ったのは、一試合だ」
第四候補は俺を見る。
「勝ったから名前を得て、負けたこいつが俺の分岐になるなら、さっき証明したことが全部無駄になる」
「俺としては、受け取っても構わないぞ」
「何を勝手に許可している」
「お前が欲しいならって話だ」
「お前の許可で受け取った名前に意味があるか」
「ないな」
「なら黙れ」
「難しい奴だな」
「お前に言われたくない」
第四候補は空白の学生証へ向き直る。
「俺は、自分を消されないために残った」
『肯定』
「だからといって、他の誰かを俺の分岐にして残るつもりはない」
『制度上の独立を放棄しますか』
「違う」
第四候補の拳が握られる。
右大腿部の冷却帯が警告を発し、緋月が無言で視線を向けた。
第四候補は立ち上がらない。
拳だけをゆっくり開く。
「独立は、誰かの上へ立つことじゃない」
第二候補の表示が暗くなった。
『第三受領候補』
――帝都神律大学、黒瀬零。
俺の学籍が開く。
――現在関係性の連続性、最高。
――帝都神律大学における現行履修記録、完全。
――黒瀬灯との現在兄妹関係を確認。
『受領した場合』
――帝都神律大学における黒瀬零を、共同学籍網上の基準個体として採択。
――他四件を、現在個体へ至らなかった可能性分岐として保存。
灯の手が、俺の制服を掴んだ。
表示は続く。
――黒瀬灯との兄妹関係。
――当該黒瀬零へ優先対応。
――他の黒瀬零と黒瀬灯との関係照合を停止。
「お兄ちゃんを選べば」
灯が表示を読む。
「私とお兄ちゃんの関係は、もう揺れなくなる?」
「共同学籍網では、現在の黒瀬さんが黒瀬灯さんの兄として優先されます」
文乃が答える。
「第四候補や、ほかの黒瀬零との兄妹関係候補は、過去の分岐記録として処理されます」
「それなら」
灯は言いかけて、止まった。
俺を見る。
今の俺を兄として残したい。
その気持ちがあることは分かる。
俺にもある。
ここで学生証を受け取れば、俺は灯の兄として制度上確定する。
三年後の灯が誰を兄と呼ぶか。
三年前の灯と第四候補が、本当に兄妹だったのか。
未来側の灯が誰へ「お兄ちゃん」と呼びかけたのか。
その全てを、現在の俺を基準に整理できる。
不安は減る。
俺も。
灯も。
「お兄ちゃん」
「選ばない」
「まだ何も言ってないよ」
「言われる前に答えた」
「どうして」
「欲しいからだ」
「何が?」
「お前の兄でいたい」
灯の指に力が入る。
「なら、受け取ればいいでしょう?」
「この学生証がないと、俺はお前の兄じゃないのか」
「違うけど」
「第四候補との記録を消せば、俺たちの関係が強くなるのか」
「それも違う」
「なら要らない」
『受領すれば、現在関係の制度的安定が得られます』
「俺が灯の兄でいたいのは、他の黒瀬零が兄ではないと決まるからじゃない」
『関係競合を保留しますか』
「灯が誰を兄と選ぶかは、灯が決める」
未来の灯も。
三年前の灯も。
今の灯も。
俺が先に一つへ揃えてはいけない。
「それに」
右腕の固定具を見る。
第四候補に負けた身体。
それでも残った俺の名前。
「俺は、自分の学籍を守るために、こいつらの生き方を失敗扱いしたくない」
第三候補の表示が暗くなる。
灯は、少しだけ寂しそうに俺を見る。
「私との関係が確定しなくてもいいの?」
「今のお前が、俺をお兄ちゃんと呼ぶ限りは」
「呼ばなくなったら?」
「その時は、理由を聞く」
「止めない?」
「止めたいとは思う」
「正直だね」
「でも、学生証で止めない」
灯は少し考えたあと、俺の制服から手を離さなかった。
「今は、お兄ちゃんでいて」
「ああ」
『現在関係者回答を記録』
学生証は俺へ近づかなかった。
『第四受領候補』
――帝都神律大学《第零学部》暫定滞在者。
――三年前の黒瀬零。
男の周囲へ、失われた過去の記録が開く。
――記憶連続性、最高。
――三年前の共同履修審査に関する内部情報を保持。
――現在の黒瀬零より前の履歴を多数保持。
『受領した場合』
――当該個体を、他四件の起源記録として採択。
――現在の黒瀬零を、当該個体から継続した後続個体として登録。
「俺が原本か」
三年前の黒瀬零が呟く。
「少なくとも、時間的には俺たちより前にいる」
俺が言う。
「だからといって、原本になるのか」
「ならないと思う」
「即答か」
「お前もそう思ってるだろ」
「ああ」
三年前の黒瀬零は、自分の記憶表示を見る。
俺が知らない出来事。
忘れた会話。
失われた大学生活。
今の俺へ繋がっているかもしれない過去。
「俺が受け取れば、お前の過去は俺のものになる」
「今でも一部はそうだろ」
「違う」
三年前の黒瀬零は首を振る。
「俺が覚えていることと、お前が経験したことが同じだとは決まっていない」
「同じ記憶なら?」
「記憶が同じでも、今の選択は違う」
男は空白の学生証を見た。
「過去を多く持っている者が、未来を所有できるわけではない」
『記憶連続性を、個体優先理由として採用しませんか』
「しない」
『自身の過去を放棄しますか』
「過去を持つことと、過去で他人を縛ることを混同するな」
第四受領候補の表示が暗くなった。
『第五受領候補』
――帝都神律大学《第零学部》暫定滞在者。
――採択領域離脱個体、黒瀬零。
男の足元へ、白い座標軸が現れる。
――自己位置決定性、最高。
――外部の採択結果から離脱した実績を確認。
――`自証座標`による個体位置の独立性を確認。
『受領した場合』
――当該個体の自己座標を、十二大学共同学籍網へ正式登録。
――いずれの大学・領域からも消去不能な正規座標として固定。
「お前が求めていたものに近いんじゃないか」
帝都理法大学の黒瀬零が言った。
「誰にも場所を決められない学籍だ」
「違う」
採択領域から離脱した黒瀬零は、表示を一度見ただけだった。
「制度が、俺の座標を消去不能な場所として認める」
「何が違う」
「認められたから、存在できることになる」
「実際には、自分で決めた場所だろう」
「ああ。だから、後から学籍を根拠にしたくない」
『共同学籍網への登録を拒否しますか』
「登録そのものを拒んでいるわけではない」
『では、受領可能です』
「俺一人の座標を固定するために、他の四人を未確定へ残すことを拒んでいる」
採択領域から離脱した黒瀬零は、足元の白い軸を消した。
「俺の場所は、他人の場所が不安定であることによって確かになるものではない」
第五候補の表示が暗くなる。
五人全員。
誰も、自分を選ばなかった。
回答期限は、まだ二十一分以上残っている。
それでも、競技場の空気は先ほどより重かった。
「全員、自分を選ばないんだね」
灯が言った。
「相談したわけではありません」
澄玲が答える。
「理由も、全員異なります」
「でも、同じ答えになった」
「はい」
中央画面へ、五件の回答が並ぶ。
――帝都理法大学・黒瀬零。
――過去の単独判断を、現在の正規性へ変換しないため。
――《第四候補》。
――他者の劣後によって、氏名と学籍を獲得しないため。
――帝都神律大学・黒瀬零。
――現在の関係を、他者の関係否定によって固定しないため。
――三年前の黒瀬零。
――過去の保持を、未来への優先権としないため。
――採択領域離脱個体・黒瀬零。
――他者の不安定性を、自身の座標の根拠としないため。
『回答一致』
『理由不一致』
『五件の個別性を追加確認』
「第三実技の目的は、達成しているように見えます」
澄玲が言う。
「五人が、同じ選択へ異なる理由で到達しました」
「ですが」
文乃は学生証を見た。
「第三実技は、個別性の確認だけでは終わりません」
『受領者が選択されていません』
『第六受領候補を提示』
競技場の照明が落ちる。
五つの候補表示が消え、最後の一件だけが残った。
――第六候補。
――氏名、黒瀬零。
――個体、未成立。
――成立予定時刻。
――黒瀬灯、十九歳到達の七分前。
空白の学生証が、ゆっくりと第六候補の表示へ近づく。
『現在存在する五件が受領を希望しない場合』
『将来成立予定個体への保全を推奨』
「待て」
第四候補が治療席から身を起こす。
立ち上がろうとした瞬間、左足の固定具が赤く光った。
「座っていろ」
緋月が肩を押さえた。
「俺の回答に、治療は関係ない」
「回答は座ったままでもできる」
「触るな」
「立つな」
二人が睨み合う間にも、表示は続く。
『第六候補へ発行した場合』
――現在の五件を、将来個体成立までの先行分岐記録として保存。
――第六候補の成立時、五件の個別性を再照合。
「結局」
俺も診療席から立ち上がる。
右肩の固定具が警告を発したが、緋月はまだ止めなかった。
「未来の一人を基準にするのか」
『第六候補は、六件の署名を必要とする未来申請の完了主体となる可能性があります』
「可能性だけだ」
『《未来学籍先行保全申請》に、署名予定者として記録されています』
「予定は、今の同意ではありません」
澄玲の声が競技場へ響く。
「第六候補はまだ成立しておらず、現在の本人回答を提出できません」
『五件全員の同意により、代理選択が可能』
「俺たちが選べば」
三年前の黒瀬零が表示を見る。
「まだいない本人に代わって、学籍を受け取らせることになる」
『肯定』
「それで、その人物が成立する可能性が上がる?」
灯が尋ねた。
『第六候補の成立申請は、次段階へ移行します』
「生まれたくない可能性は?」
『本人未成立のため、回答不能』
「だったら選べないよ」
『現在の黒瀬灯は、選択権者ではありません』
灯の表情が強張る。
「選択権がなくても、意見を聞くことはできるだろ」
俺が第六候補の表示を見る。
「本人が答えられないなら、俺たちが勝手に決めるな」
『第六候補の成立は、黒瀬灯の学籍保全へ必要となる可能性があります』
「可能性ばかりだな」
帝都理法大学の黒瀬零が、銀色の書類板を開く。
「第六候補が学籍を受け取る法的根拠を提示しろ」
『《未来学籍先行保全申請》』
「それは未完成だ」
『申請効果の一部は、過去に発生済み』
「効果が起きたことと、本人が現在受領を希望していることは別だ」
『未来署名予定を、本人意思として参照』
「予定は回答ではないと言っている」
『現在回答を取得不能』
「取得できない回答を、同意として扱うな」
帝都理法大学の黒瀬零の言葉に、《第四学籍》が僅かに反応した。
「俺の内部にいた第三記録と同じだ」
三枚の《異議付記欄》を抱えた人影が言う。
「回答できない記録を、統合への同意として扱おうとした」
「今回は」
灯が《第四学籍》を見る。
「生まれていない人の沈黙を、学籍を受け取る同意にしようとしてる」
『代理選択は、現存五件の全会一致によって成立』
「では、全員が拒否すれば成立しない」
文乃が確認する。
『肯定』
「なら話は早い」
俺は学生証から目を離さない。
「俺は第六候補を選ばない」
『理由を要求』
「本人に聞いていないからだ」
第四候補が治療席から続ける。
「俺も選ばない。まだいない奴を、俺たちが逃げるための受領者にするな」
帝都理法大学の黒瀬零。
「選ばない。未来の予定を、現在の本人意思として処理することに同意しない」
三年前の黒瀬零。
「選ばない。未来の人物へ、俺たちの現在の責任を預けない」
採択領域から離脱した黒瀬零。
「選ばない。本人が存在する前に、その者の立つ場所を決めない」
五件の回答が記録される。
『第六候補への全会一致』
『不成立』
空白の学生証が中央へ戻った。
六つの受領候補のうち。
誰も選ばれなかった。
『第三実技』
『受領者未決定』
『回答期限まで、十八分十二秒』
「まだ続けるのか」
獅堂が尋ねる。
「同じ回答を何度提出しても、受領者は現れません」
澄玲が言う。
「必要なのは、与えられた選択肢の中から、無理に一つを選ぶことではありません」
「また問題を定義し直すのか、九条」
朔夜が尋ねた。
「今回は、解法を作る前に確認すべきことがあります」
澄玲は文乃を見る。
「発行可能な学籍が一件しかないのは、なぜですか?」
「共同学籍網が、五件を同一の起源から分岐した学籍として扱っているからです」
「五件の個別性は、第一実技と第二実技で確認されました」
「はい」
「それでも、一件しか発行できない?」
「審査規程が、同一起源から複数の正規学籍を発行することを想定していません」
「つまり、一件しか存在できないのではありません」
澄玲の瞳へ、青い光が集まる。
「一件しか発行しない規則になっているだけです」
『規程は変更不能』
「今ここで、変更する必要はありません」
白い線が、空白の学生証へ伸びる。
「この一件を、誰か一人へ発行しない形で保存します」
『第三実技は、受領者の選択を要求』
「受領者を選びません」
『実技不成立』
「不成立で構いません」
澄玲は迷わず答えた。
「ただし、発行されなかった学籍を、第六候補へ自動保全してはいけません」
『未発行学籍は、将来請求者へ移行可能』
「移行可能であることと、移行しなければならないことは別です」
白い線が学生証を通過し、その下にある発行前記録へ届く。
――正規学籍、一件。
――現在状態、発行可能。
――受領者、未定。
「受領者が決まっていないなら」
澄玲が言う。
「未定のまま保存してください」
『保存期限を設定不能』
「期限も未定で構いません」
『規程外』
「だから、正式査問へ移行するのでしょう」
文乃が澄玲の意図を理解し、銀色の書類板を開いた。
「第三実技の不成立と、共同正規学籍の未発行保全を同時に申請します」
『申請権限を確認』
「共同学務局学生補助員、綴木文乃。現場受理権限を行使します」
『保全対象を指定』
文乃が五人を見る。
「この学籍を、誰のために残しますか?」
誰か一人の名前を入れれば、同じことになる。
五人全員と書けば、一件の学籍を共有する形になる。
第六候補と書けば、未来を決める。
俺は空白の氏名欄を見る。
「誰のためでもない」
『保全目的、不成立』
「今は、な」
未来の俺たちが署名するのか。
第六の黒瀬零が本当に成立するのか。
第四候補が黒瀬零という名を選ぶのか。
俺たち五人が、このまま別々に残るのか。
何一つ決まっていない。
「受け取りたいと思った本人が、自分で選べる時まで残す」
『対象者を特定不能』
「特定しなくていい」
第四候補が、治療席から空白の学籍を睨む。
「この学生証を、今いる俺たちの誰かの所有物にするな」
帝都理法大学の黒瀬零も続く。
「発行請求権そのものを、係争中の原本として保存する」
三年前の黒瀬零。
「現在の選択によって、未来の受領者を固定しない」
採択領域から離脱した黒瀬零。
「誰かが立つ場所ではなく、誰もまだ立っていない場所として残す」
五つの回答が、空白の学生証へ集まる。
同じ申請。
違う理由。
誰にも渡さないためではない。
誰か一人へ、今すぐ渡さないための選択。
「保全目的」
文乃が書類板へ入力する。
――将来の本人回答まで。
――受領者未定の状態を維持する。
『当該申請は、第三実技の回答として認められません』
「実技結果ではなく、正式査問へ提出する保全申請です」
『第三実技終了時、未発行学籍は自動処理されます』
「自動処理の内容は?」
『受領希望者なし』
『将来成立予定の第六候補へ優先保全』
「やっぱり六人目へ送るつもりか」
俺が言った。
『《未来学籍先行保全申請》との整合を優先』
「止めてください!」
文乃が書類板を学生証へ向ける。
「未発行保全申請の審査中です!」
『現場受理権限では、自動保全を停止不能』
回答期限が急速に減り始める。
十八分あった数字が、一秒ごとではなく、一分ずつ失われていく。
「時間を短縮している?」
灯が表示を見上げる。
『受領者全件の不受領回答を確認』
『残余時間を不要と判断』
――五分。
――四分。
――三分。
「勝手に期限を縮めるな!」
文乃が異議申立てを送る。
だが、銀色の文字は学生証へ届く前に弾かれた。
『第三実技終了準備』
競技場中央の床が開く。
その下に、三年先へ続く細い光が見えた。
空白の学生証が、未来へ向かって降り始める。
「止めるぞ」
第四候補が治療席から立ち上がろうとする。
左足の固定具が即座に赤く発光した。
「座れ」
緋月が肩を押さえる。
「放せ」
「その足で踏み込めば、試合中に傷めた靱帯が切れる」
「学生証を壊せば止まる」
「保全原本まで失われる」
帝都理法大学の黒瀬零が言った。
「では、昇降機構を壊す」
「それも同じだ。未来への移送処理が別の経路へ切り替わる可能性がある」
「面倒な仕組みだな」
「今さら気づいたのか」
第四候補は立ち上がることをやめた。
代わりに、俺を見る。
「お前が行け」
「治療中だ」
「俺より動ける」
「比較対象がおかしい」
「黒瀬零」
緋月が俺を呼ぶ。
「動くな」
「でも」
「右腕も左腕も使うな」
「足は?」
「質問するな」
禁止とは言わなかった。
俺は競技場中央へ向かう。
全力では走らない。
右肩を揺らさず、左腕も振らない。
診療席から未来への穴までは、十メートルにも満たない。
学生証へ触れれば、受領と判断される。
なら、触れずに落下経路へ入る。
未来へ開いた穴と学生証の間へ、身体を滑り込ませた。
『第三候補による受領行為を検出』
「受け取らない!」
『学籍との接触可能性を確認』
「接触してない!」
学生証は、俺の胸元から二十センチメートル上で止まった。
触れてはいない。
それでも、俺が移動すれば未来へ落ちる。
「黒瀬さん、そのまま動かないでください!」
澄玲の周囲へ、白い経路が広がる。
「問題を再定義します」
――受領者未定の学籍を。
――特定個人へ受領させず。
――未来候補へ自動移行させず。
――現在時点へ保存する。
「`世界は解を持つ`!」
白い線が学生証へ伸びる。
だが、未来へ向かう銀色の光が、接続直前で線を切り離した。
『規程上の解法を確認不能』
「解法がないのではありません」
澄玲は歯を食いしばる。
「規程が、解法へ接続する経路を閉じています」
「なら、その接続を切る」
朔夜が観測席の縁へ立つ。
「天城先輩、切断対象は一つです」
「ああ」
黒い薄刃が、指先へ伸びる。
「五人が誰も受け取らない」
澄玲が未来へ向かう処理を指す。
「その結果として、第六候補へ自動保全する。両者を繋ぐ因果だけを切断してください」
「了解」
朔夜が刃を振るう。
「`因果切断`!」
黒い線が、現在と未来の間を横切る。
――現存五件、不受領。
――ゆえに、第六候補へ保全。
二つの処理を繋いでいた銀色の経路が切れた。
学生証の降下が止まる。
しかし、未来への穴は閉じない。
『自動保全との因果を喪失』
『代替経路を検索』
「まだ終わっていません」
文乃が叫ぶ。
『未発行学籍を、最寄りの成立予定個体へ移送』
「言い換えただけだろ!」
俺の頭上で、学生証が再び動き始める。
今度は落下ではない。
未来側から引かれている。
「獅堂さん!」
「任せろ!」
獅堂が競技場へ飛び降りる。
着地と同時に、両足で床を強く踏み締めた。
右足。
左足。
二つの足裏によって、自らが立つ現在の大地を《礎》として定める。
「誰の足もまだ立っていない場所を、勝手に未来へ運ばせはしない!」
黄金の王土が、競技場中央へ広がった。
「`万象は我が礎`!」
学生証の下にある昇降機構と、未来への穴の周囲が黄金の床に覆われる。
現在の競技場として固定された空間が、銀色の光を押し返した。
学生証の動きが僅かに鈍る。
だが、完全には止まらない。
獅堂の王土は、誰かが立つ場所を支えられる。
まだ誰も受け取っていない学籍そのものを、直接所有することはできない。
「交代する」
採択領域から離脱した黒瀬零が言った。
彼の姿が消える。
`自証座標`による座標再指定。
身体が距離を走破したわけではない。
速度換算の対象にはならない。
次の瞬間、俺の右側。
学生証の真下から〇・五メートルの位置へ立っていた。
「黒瀬零。右へ退け」
「落ちるぞ」
「お前が退く位置と、俺が立つ位置を同時に決めない」
「どうする」
「お前が自分で退け。俺は、自分がここに立つと決める」
俺は学生証を見上げる。
獅堂が固定した現在の床。
学生証の動きが鈍っている今なら、入れ替われる。
「三つ数える」
「俺に合わせるな」
「じゃあ、好きな時に来い」
採択領域から離脱した黒瀬零の姿が一度だけ揺らぐ。
俺は右へ転がった。
同じ瞬間。
彼が、自分で定めた座標へ立つ。
学生証は〇・五メートルだけ降下し、その頭上で止まった。
「ここは俺の位置だ」
白い座標軸が現れる。
「学生証の位置ではない。未来の第六候補の位置でもない」
自分自身の座標だけを、現在へ定める。
未来へ向かう経路の中央に、一人の黒瀬零が立った。
学生証は彼を通過できない。
だが、接触すれば受領と処理される。
「長くは持たない」
「十分だ」
三年前の黒瀬零が、昇降機構の横へ膝をついた。
床ではなく、側面の古い点検蓋へ手をかける。
「この機構は、三年前の共同履修審査で使われたものと同型だ」
「止められるのか」
「保全先は止められない。だが、発行状態を一段階戻せる」
「どうなる」
「発行可能な学生証ではなく、未審査の学籍原本へ戻る」
「それなら、誰も受け取れない?」
「ああ。ただし、第三実技の結果として発行可能になった状態も失われる」
「構わない」
俺たち五人の声が重なった。
三年前の黒瀬零が、点検端末へ番号を入力する。
――発行工程。
――最終承認待機。
――工程巻き戻し。
――管理権限を要求。
「俺の権限は、三年前に失効している」
帝都理法大学の黒瀬零が、横から銀色の書類板を差し込む。
「現在の証明行政学部の学籍で補完する」
「共同権限になるぞ」
「一人でやらないために来た」
二件の学籍が、同じ操作へ別々に接続する。
過去の機構知識。
現在の行政権限。
どちらか一人では足りない。
文乃も書類板を重ねた。
「共同学務局現場受理権限を追加します!」
『工程巻き戻し』
『権限不足』
「まだ足りないのか」
「受領候補全件の同意が必要です!」
文乃が俺たちを見る。
「巻き戻せば、共同正規学籍の発行可能状態そのものを失います。未審査原本へ戻した後、再び発行できる保証はありません!」
「最初から、誰も受け取っていない」
第四候補が治療席から答える。
「戻せ」
「同意する」
採択領域から離脱した黒瀬零。
「同意する」
三年前の黒瀬零。
「同意する」
帝都理法大学の黒瀬零。
「同意する」
第四候補。
残るのは俺。
学生証は、まだ採択領域から離脱した黒瀬零の頭上にある。
受け取れば、俺の学籍は安定する。
灯との関係も、制度上は守られる。
このまま失えば、正式査問で今の学籍まで危険にさらされる。
「お兄ちゃん」
灯が観測席から俺を見る。
選んでほしいとも。
選ばないでほしいとも言わない。
俺の答えを待っている。
「同意する」
学生証が白く輝いた。
『受領候補五件の同意を確認』
『発行工程を巻き戻します』
十二大学の大学章が、一つずつ消える。
学籍番号が消える。
所属欄。
氏名欄。
受領候補。
全ての表示が、白紙へ戻っていく。
最後に残ったのは、一枚の無記名記録だった。
――未審査学籍原本。
――受領者、なし。
――発行先、なし。
――保全目的。
文乃が、先ほどの申請を入力する。
――将来の本人回答まで。
――受領者未定の状態を維持する。
白紙が黄金の床へ静かに降りた。
誰の手にも触れない。
未来へも送られない。
今ここに、空白のまま残った。
『第三実技』
『所定回答、不成立』
『共同正規学籍、未発行』
『受領候補五件』
『不合格』
不合格の文字が、赤く浮かぶ。
その下へ、新しい文章が続いた。
『ただし』
『全候補による共同不受領を確認』
『不受領理由、全件不一致』
『五件の個別性を正式確認』
『一件の学籍による代表処理を拒否』
『正式査問へ移行』
「不合格なのに、個別性は認めるのか」
灯が表示を読む。
「第三実技の課題には答えませんでした」
澄玲が息を整えながら言う。
「ですが、審査の目的には、別の形で答えています」
「一人を選ばなかったから?」
「一人を選べなかったのではありません」
澄玲は五人を見る。
「五人全員が、自分の理由で、一人を選ばないと決めたからです」
競技場上空にある第六署名欄が光る。
これまで刻まれた二本の線。
敗北しても消えない。
同じ場所へ立っても一つにならない。
その二本の下へ、三本目が加わった。
三本の線は、椅子のような形を作る。
だが、座る人影はない。
――第六署名者。
――第三基礎記録を取得。
――記録内容。
文章が浮かぶ。
――選ばれないことは、存在を拒まれることではない。
続いて、もう一行。
――他者が空けた席によって、本人の意思より先に成立してはならない。
「六人目を選ばなかったことまで」
第四候補が表示を睨む。
「あいつの輪郭になった」
「矛盾してるな」
俺が言う。
「成立させないための判断が、成立するための材料になっている」
「気に入らない」
「三度目だな」
「何が」
「その台詞」
「何度でも言う」
第六署名欄の線は増えた。
それでも、人の形にはならない。
俺たちが拒んだことで、六人目は今すぐ成立しなかった。
同時に。
本人の意思より先に生み出してはいけない存在として、少しだけ明確になった。
◇
未審査学籍原本が、文乃の保全箱へ収納される。
空白のまま。
誰の名前も入れずに。
その直後。
競技場を囲む十二の大学章が、赤く変わった。
『第三実技不成立を確認』
『共同正規学籍の発行拒否を確認』
『現行審査規程では、五件の独立学籍を処理不能』
『十二大学共同正式査問を招集』
競技場の床から、十二本の高い席がせり上がる。
帝都神律大学。
帝都理法大学。
帝都時律大学。
共同実習に関与した残り九大学。
それぞれの大学章が、審査席の背へ刻まれている。
「今から始まるのか」
獅堂が尋ねる。
「正式査問には、各大学の代表審査官が必要です」
文乃が表示を確認する。
「通常であれば、招集に最低でも三日はかかります」
『代表審査官の事前登録を確認』
『全十二名、接続可能』
「待っていた?」
澄玲の表情が険しくなる。
「第三実技が不成立になることを、想定していたのでしょうか」
『正式査問、開始時刻』
――三十分後。
第四候補の臨時滞在許可が表示される。
――残存期間。
――六日。
その数字が、赤く書き換わった。
――正式査問終了まで。
「査問で退学処分が再承認されたら?」
第四候補が文乃を見る。
「臨時滞在許可は失効します」
「また消されるのか」
「今回は、第四候補だけではありません」
文乃の書類板へ、五件の学籍が並ぶ。
「同一起源から五件の独立学籍を認めるか。認めない場合、どの記録を正規として残すか。五件全てが審査対象です」
「一人を選ばなかったから」
灯が、空になった競技場を見る。
「今度は十二大学が選ぶの?」
「選ばせない」
俺は答えた。
「お兄ちゃんたちだけで?」
「違う」
帝都理法大学の黒瀬零が、文乃から自分の書類板を受け取る。
「今度は、最初から全員で異議を出す」
三年前の黒瀬零が、過去の審査記録を開く。
「三年前の俺が何を隠したのかも、査問の前に確認する」
採択領域から離脱した黒瀬零は、十二の審査席を見上げる。
「俺の立つ場所を、大学側の席だけで決めさせない」
第四候補が、治療席で拳を握る。
今度は、緋月の警告が出ない程度の力だった。
「退学させられる前に聞く」
「何を」
俺が尋ねる。
「なぜ、俺を消す必要があるのか」
「答えに納得したら?」
「それでも、俺が残るかは俺が決める」
「なら、一緒だな」
「何が」
「俺も残る」
「お前には、既に学籍がある」
「今から審査されるらしい」
「面倒だな」
「黒瀬零だからな」
「その名前を、まだ俺へ含めるな」
「じゃあ、第四候補だからだ」
「それも仮の名前だ」
「本当に面倒だな」
「お前に言われたくない」
十二の審査席へ、人影が一人ずつ映り始める。
まだ顔は見えない。
肩書だけが表示される。
共同学籍審査官。
時間履修監査官。
存在照合官。
分岐学籍管理官。
そして、最後の一席。
帝都神律大学の大学章を持つ審査席へ、見覚えのない役職名が現れた。
――《公理階層》接続記録監査官。
「帝都神律大学に、こんな役職があるのか」
俺が玄理を見る。
「ない」
玄理は即答した。
「少なくとも、学内の正式組織には存在しない」
審査席の人影が、ゆっくりと顔を上げる。
顔は見えない。
頭部にあるのは、何重にも重なった白い頁だった。
頁の一枚ごとに、異なる審査結果が書かれている。
――五件を独立学籍として承認。
――一件を採択し、四件を無効化。
――全件を本人照合不能として凍結。
――第六候補の成立まで判断を延期。
互いに矛盾する結論が、同じ顔の上で同時にめくられていた。
『正式査問に先立ち』
十二席とは異なる声が、競技場へ響く。
『審査対象五件へ、事前通告を行う』
現在の俺たちの学籍情報が、一斉に白く染まる。
『本査問において』
『五件全ての独立が証明された場合』
『黒瀬零という氏名自体を、共同学籍網から削除する』
灯が俺の服を掴んだ。
「どういうこと?」
『一つの氏名に、複数の正規個体を対応させることは』
『上位接続規程に反する』
『個体を残す場合』
『氏名を一つ、失わなければならない』
五人を一人へ戻せないなら。
五人を消す代わりに。
今度は、全員から黒瀬零という名前を奪う。
第四候補が審査席を睨む。
「俺には、まだその名前がない」
『ゆえに』
白い頁の顔が、第四候補へ向く。
『お前だけが、失わずに済む』
俺たちが一人を選ばなかった結果。
査問側は、別の一つを選び始めた。
誰を残すかではない。
誰の名前を残すか。
三十分後。
俺たちは、自分たちが別人であることだけでなく。
同じ名前のまま、別々に生きてよいことまで証明しなければならない。




