第五十四話 座標の果てで、僕らは並ぶ
三。
二。
一。
『第二実技第二試合、開始』
開始の宣告と同時に、競技場中央の白線が二つに割れた。
物理的に床が裂けたわけではない。
帝都理法大学の黒瀬零が立つ側では、白線は競技場を東西に分ける境界として記録されている。
採択領域から離脱した黒瀬零の側では、同じ線が彼自身を原点とする座標軸へ置き換わっていた。
二人の距離は、視覚上では六十メートル。
帝都理法大学側の観測記録でも六十メートル。
だが、採択領域から離脱した黒瀬零の座標上では、相手との距離そのものが未提出になっている。
――第一対象位置。
――帝都理法大学・共同実技棟、第二競技場。
――第二対象位置。
――本人による自己定義座標。
――両地点間の対応。
――不成立。
「二人が同じ競技場へ立っているという前提が、能力上は成立していません」
澄玲が観測画面を見る。
「見えているのに?」
灯が尋ねた。
「視覚上の位置と、本人が成立させている位置関係が一致していないのです」
採択領域から離脱した黒瀬零が、一歩前へ出た。
足が床を蹴る。
だが、身体は一歩分だけ進んだのではない。
次の瞬間には、四十メートル先へ立っていた。
その間を走ってはいない。
跳んでもいない。
移動途中の軌跡も存在しない。
観測記録には、速度とは異なる項目が表示される。
――`自証座標`。
――座標再指定。
――身体走行距離、〇メートル。
――移動経路、なし。
――速度換算、不可。
――マッハ換算、対象外。
「今のは、速く動いたわけではないんだよね」
灯が確認する。
「はい」
澄玲が頷く。
「自身が存在する座標を、別の位置へ指定し直した結果です。途中の距離を身体が走破していないため、移動速度や反応速度の根拠にはできません」
「攻撃を避けるために使えば、高速回避のようには見える」
獅堂が腕を組む。
「ですが、実際には身体の運動ではありません。第四候補の短距離走行とは、明確に区別して記録する必要があります」
採択領域から離脱した黒瀬零は、帝都理法大学の黒瀬零から視覚上二十メートルの位置へ現れた。
それでも、相手は動かない。
「攻撃しないのか」
採択領域から離脱した黒瀬零が尋ねる。
「今のお前には届かない」
「見えている」
「視覚上はな」
帝都理法大学の黒瀬零は、相手の足元へ伸びる座標軸を見る。
「俺の記録とお前の座標が対応していない。ここから拳を伸ばしても、到達先にお前がいると証明できない」
「証明できなければ殴らない?」
「三年前、証明できていないことを証明したつもりになった」
帝都理法大学の黒瀬零は、懐から銀色の書類板を取り出す。
「同じ失敗はしない」
採択領域から離脱した黒瀬零が右手を伸ばした。
自分の座標を、相手の正面一メートルへ再指定する。
姿が消える。
次に現れた時には、拳が帝都理法大学の黒瀬零の胸元へ迫っていた。
だが、触れない。
拳は制服の表面から三センチメートル手前で止まっている。
腕が止められたのではない。
二人の間に、目に見えない隔たりが残っていた。
見た目では三センチメートル。
座標上では、対応不能。
「お前からも届かない」
帝都理法大学の黒瀬零が言った。
「俺が決めた位置は、俺のものだ」
「そうだ。だが、俺の位置との関係を決めていない」
採択領域から離脱した黒瀬零は拳を下ろす。
『相互接触、成立せず』
『対抗行為、未開始』
『試合開始から十秒以内に相互到達可能性が成立しない場合』
『両対象を、対抗不能として失格処理』
競技場上空へ数字が現れた。
――残り時間。
――九・八秒。
「失格にするための試験だったのか」
第四候補が、治療席から競技場を見下ろす。
左足首は新しい固定具で覆われている。
「本来は、同じ競技場へ入った時点で相互到達可能と判断されます」
文乃が答えた。
「しかし、今回の二人は位置を成立させる方法が異なります」
「試験側も想定していなかった?」
「規則には、異なる座標定義を持つ二名が対抗する場合の手続きがありません」
「また書類不足か」
「正確には、想定不足です」
帝都理法大学の黒瀬零は、銀色の書類板へ指を走らせた。
「緊急申立て」
十二本の筆記具を模した紋章が、空中へ展開する。
――相互位置対応申請。
――申請者、帝都理法大学・黒瀬零。
――第一地点。
――申請者本人の現在位置。
――第二地点。
文字が止まる。
通常なら、相手の現在位置を入力する。
だが、帝都理法大学の黒瀬零は書かなかった。
「なぜ止める」
採択領域から離脱した黒瀬零が尋ねる。
「俺が入力すれば、お前の位置を俺が決めることになる」
「試合を成立させるためだ」
「目的が正しければ、本人の答えを省いていいとは思わない」
残り七・二秒。
帝都理法大学の黒瀬零は、第二地点を空欄のまま相手へ向けた。
「自分で書け」
「制度の書類へ?」
「これは、お前を制度の中へ入れるための申請ではない」
「では、何だ」
「お前が自分で決めた場所を、俺が勝手に別の場所へ読み替えないための記録だ」
採択領域から離脱した黒瀬零は動かない。
「記録されれば、俺の座標はお前たちの管理下へ入る」
「異議があれば、いつでも変更できる」
「変更権限も、制度から与えられる?」
「違う」
帝都理法大学の黒瀬零が書類板を裏返す。
申請書の最下部。
権限欄には、帝都理法大学も共同学務局も記載されていない。
――座標決定者。
――本人。
――記録機関。
――帝都理法大学。
――記録内容の変更権限。
――本人のみ。
「制度は、お前の場所を与えない」
残り四・一秒。
「お前が選んだ場所を、後から選ばなかったことにしないために残す」
採択領域から離脱した黒瀬零が申請書を見る。
観測席からは、二人は一メートルも離れていないように見える。
それでも、その一メートルを互いに同じ距離として認めるかどうかは、まだ決まっていない。
「俺の現在位置」
採択領域から離脱した黒瀬零が答える。
「俺自身を原点とする座標、第一点」
空欄へ文字が入る。
――第二地点。
――本人自己定義座標、第一点。
「第一地点との距離は」
帝都理法大学の黒瀬零が尋ねる。
「一メートル」
「方向は」
「正面」
「誰の正面だ」
「俺から見た、お前の正面」
申請書が白く光る。
――相互位置対応。
――両対象の本人回答により成立。
残り〇・六秒。
『相互到達可能性を確認』
『第二実技第二試合、継続』
止まっていた拳が動く。
採択領域から離脱した黒瀬零の右拳が、帝都理法大学の黒瀬零の胸元へ伸びた。
――打撃速度。
――秒速百五十八メートル。
これは座標再指定ではない。
互いの位置が対応したあと、本人の筋力と技術によって放たれた拳である。
新しい身体能力を得たわけでもない。
第一実技で座標移動と身体運動を分離して観測した結果、初めて本人の純粋な打撃として記録されている。
帝都理法大学の黒瀬零は、拳が動き始めてから見て避けたのではなかった。
申請書へ記された、
――相手から見た正面。
その方向情報を基に、接触が成立する前から上半身を左へ傾けている。
拳が制服を掠めた。
『回避分類』
『打撃開始前の方向情報に基づく先行動作』
『打撃開始後の純粋反応としては記録しない』
拳が通過した直後。
帝都理法大学の黒瀬零は、銀色の書類板を相手の右手首へ当てた。
――接触記録。
――第一対象、帝都理法大学・黒瀬零。
――第二対象、採択領域離脱個体・黒瀬零。
――接触部位、右手首。
「記録してどうする」
「お前を拘束するためではない」
帝都理法大学の黒瀬零は手首を掴まず、すぐに書類板を離した。
「今の一撃が、確かにお前の選んだ座標から放たれたことを残す」
「証拠がなければ、攻撃したことにもならないのか」
「お前が攻撃した事実は、お前のものだ。俺が記録を消しても変わらない」
銀色の書類板へ、拳の軌跡が保存される。
「だが、制度が後から『最初から届いていなかった』と処理する可能性は消せる」
採択領域から離脱した黒瀬零の目が僅かに細くなる。
「三年前のお前なら、俺の座標を先に書いていた」
「ああ」
「変わったな」
「三年かかった」
「俺には、その三年がない」
「だから、今から決めろ」
採択領域から離脱した黒瀬零の姿が消える。
座標再指定。
今度は、帝都理法大学の黒瀬零の背後二メートル。
――身体走行距離、〇メートル。
――速度換算、不可。
相互位置対応申請が即座に更新される。
――第二地点、変更。
――本人回答を確認。
帝都理法大学の黒瀬零は振り返らない。
書類板の表面へ表示された方向だけを見る。
背後から蹴りが来る。
――蹴撃速度。
――秒速二百〇六メートル。
帝都理法大学の黒瀬零は、相手の座標変更が確定した時点で左膝を床へ落としていた。
蹴りが頭上を通過する。
『回避分類』
『座標確定後、蹴撃開始前の先行動作』
銀色の書類板を、床へ滑らせる。
十二本の細い杭が競技場へ突き刺さった。
――証拠保全点。
採択領域から離脱した黒瀬零が選んだ座標。
一点目。
二点目。
三点目。
移動先を封じてはいない。
同じ場所を再び選ぶこともできる。
ただし、一度選ばれた場所が、後から存在しなかったことにはならない。
「俺の動きを読んでいるつもりか」
「読めない」
「なら、なぜ残す」
「お前がどこへ行ったかではなく、どこを選んだかを見るためだ」
四度目の座標再指定。
採択領域から離脱した黒瀬零が、競技場の上空八メートルへ現れる。
身体が八メートルを跳び上がったわけではない。
高さそのものを、自分の新しい位置として指定した。
能力が終了すると、重力が身体へ作用する。
採択領域から離脱した黒瀬零は空中で身体を反転させ、落下の勢いを加えて真下へ踵を振り下ろした。
帝都理法大学の黒瀬零は、相手が上空へ座標を定めた直後に横へ飛ぶ。
踵が床へ触れた。
直径二・八メートルの範囲で、競技場の床が浅く陥没する。
破壊の大部分は、蹴りそのものだけではない。
八メートル分の落下。
座標再指定によって省略された上昇。
強化床へ集中した接触。
複数の条件が重なった結果だった。
それでも、床から広がった衝撃が帝都理法大学の黒瀬零を捉える。
身体が三メートルほど飛ばされた。
床を転がり、左腕で上体を支える。
立ち上がった時には、口元から血が流れていた。
『有効攻撃を確認』
『帝都理法大学・黒瀬零』
『損傷率、十一・六パーセント』
『攻撃成立要素』
『座標再指定による高度取得』
『自然落下』
『本人による蹴撃』
『各要素を分離して記録』
「書類だけでは勝てないぞ」
採択領域から離脱した黒瀬零が、陥没した床の中央へ立つ。
「知っている」
「俺の場所を記録しても、俺を止められない」
「止めるつもりもない」
「では、どうやって勝つ」
帝都理法大学の黒瀬零は、十二本の証拠保全杭を見る。
採択領域から離脱した黒瀬零が選んだ地点は、競技場全体へ無秩序に広がっているように見える。
前方。
背後。
上空。
左右。
だが、全ての座標には共通点があった。
最初に本人が定めた《第一点》との関係が、必ず記録されている。
「お前は、どこへでも行けるわけではない」
「何を根拠に」
「お前が、そう選んでいる」
帝都理法大学の黒瀬零が、最初の申請書を開く。
――本人自己定義座標、第一点。
採択領域から離脱した黒瀬零は、自分自身を原点として位置を決めている。
どれほど離れた場所へ座標を再指定しても。
どれほど異なる高さへ現れても。
新しい座標は、最初に定めた第一点との関係を失っていない。
「お前は、外部から与えられた原点を拒否した」
「ああ」
「だから、自分で原点を作った」
「それがどうした」
「捨てられないんだろ」
採択領域から離脱した黒瀬零の表情が初めて変わった。
「お前の座標は、最初の自分を置き去りにしない」
証拠保全杭を結ぶ線が、競技場へ浮かび上がる。
全ての座標は、最初に定めた第一点を基準として成立していた。
能力の欠陥ではない。
彼自身が選んだ原則だ。
過去の自分を正解として固定しない。
それでも、自分が一度選んだことまで、存在しなかったことにはしない。
「それを利用して、俺を縛るか」
「違う」
帝都理法大学の黒瀬零は、第一点へ向かって歩く。
「ここがお前の原点だと、俺が決めたわけではない」
一歩。
採択領域から離脱した黒瀬零が座標を再指定する。
帝都理法大学の黒瀬零の左側。
拳が伸びる。
帝都理法大学の黒瀬零は書類板で受けた。
銀色の板が大きく曲がる。
身体が二メートル押し戻された。
それでも、第一点へ向かって立ち上がる。
「お前が選んだ」
二歩目。
採択領域から離脱した黒瀬零が正面へ現れる。
膝が腹部へ入る。
帝都理法大学の黒瀬零の身体が折れた。
だが、相手の制服を掴まない。
相手の座標も変えない。
自分の足だけで、再び前へ進む。
「だから、俺はそこへ行く」
三歩目。
採択領域から離脱した黒瀬零が、第一点の上へ自分の基準座標を再指定した。
二人の基準点が、同一の座標値へ対応する。
身体が一つへ重なったわけではない。
肩と肩。
足と足。
互いを押し返す接触面は残っている。
それでも記録上の距離は、〇メートル。
相互位置対応申請が激しく明滅する。
――基準座標重複。
――二個体を、同一座標上に確認。
――身体占有領域、別個に維持。
――個体統合の必要性を照合。
「また一つにするつもりか」
採択領域から離脱した黒瀬零が低く言う。
「しない」
帝都理法大学の黒瀬零は、その場から退かなかった。
「同じ場所へ立つことと、同じ人間になることは別だ」
採択領域から離脱した黒瀬零の拳が動く。
距離はない。
拳を大きく加速させる空間もない。
帝都理法大学の黒瀬零は、相手の右肩へ自分の左肩を当てた。
打撃ではない。
互いの身体を接触させる。
――接触関係。
――双方の本人回答により成立した共有座標上。
「離れろ」
「お前が決めろ」
「俺だけを別の座標へ移せば、お前との接触は切れる」
「ああ」
「その時、お前の位置をここへ残すことになる」
「俺の場所は、俺が決めている」
「なら、お前を一緒に移せばいい」
「俺の位置まで決めることになる」
採択領域から離脱した黒瀬零の拳が止まった。
`自証座標`が決められるのは、本人の位置だけだ。
接触した相手を同意なく連れていけば、その相手の座標まで外部から決定することになる。
相手だけを残せば、接触は切れる。
だが、それは今立っている共有座標を、自分だけが捨てる選択になる。
「選べ」
帝都理法大学の黒瀬零が言う。
「俺を残して移るか」
「……」
「俺の位置まで決めて連れていくか」
「お前は」
採択領域から離脱した黒瀬零の左手が、帝都理法大学の黒瀬零の制服を掴む。
「俺に、どちらを選ばせたい」
「どちらでもない」
「では、なぜここまで来た」
「お前が選べる場所まで来たかった」
競技場の中央。
二人が同じ基準座標へ立つ。
制度によって割り当てられた場所ではない。
採択領域から離脱した黒瀬零が自分で選び。
帝都理法大学の黒瀬零が自分の足で辿り着いた場所。
「俺は三年前、選択肢を見せる前に結論を決めた」
帝都理法大学の黒瀬零が続ける。
「第四候補を審査から外す。灯の学籍を守る。そのためなら、本人へ聞かなくていいと思った」
「今は聞くのか」
「ああ」
「試合中でも?」
「試合中だからだ」
採択領域から離脱した黒瀬零は、帝都理法大学の黒瀬零の肩から手を離さない。
「俺は、採択された場所から離れた」
「なぜだ」
「あの領域では、俺が残るべき黒瀬零だと決められていた」
初めて、本人が自分の離脱理由を言葉にする。
「他の分岐は失敗。俺だけが正しい到達点。俺の座標は、最初から世界に与えられていた」
「それを拒んだ」
「ああ」
「だから、誰にも場所を決めさせない?」
「そのつもりだった」
「今は違うのか」
採択領域から離脱した黒瀬零は、自分たちが立つ第一点を見る。
「拒むことだけを選び続ければ、俺の場所は、他人が示した場所の反対側にしか作れない」
離れる。
拒絶する。
外部から定義されない。
その全てが、他者の定義を前提にした反応でもある。
「ここは、お前が決めた場所じゃない」
「ああ」
「制度が決めた場所でもない」
「ああ」
「俺が最初に選んだ」
「そして、俺が来た」
「なら」
採択領域から離脱した黒瀬零が、拳を下ろす。
「今だけは、共有してもいい」
――本人回答を確認。
――第一対象。
――当該座標への滞在を選択。
――第二対象。
――当該座標への到達を選択。
――共有座標。
――成立。
競技場全体のずれが消えた。
二つに割れていた白線が、一つへ戻る。
同じ地面。
同じ距離。
同じ時間。
それでも、二人の身体も意思も重ならない。
『相互位置対応を完全確立』
『身体占有領域を別個に維持』
『個体統合』
『不要』
「話は終わりか」
採択領域から離脱した黒瀬零が尋ねる。
「試合は終わっていない」
「なら、離れろ」
「先に離した方が不利だな」
「俺は座標を変えられる」
「俺を置いていくならな」
「挑発か」
「確認だ」
次の瞬間、二人は同時に動いた。
帝都理法大学の黒瀬零が右足を引く。
採択領域から離脱した黒瀬零が左肩を押し込む。
距離は〇。
速度を大きく上げる余地はない。
座標再指定も使わない。
身体と身体。
重心。
足の位置。
呼吸。
互いの判断だけで競う、近距離の攻防になる。
採択領域から離脱した黒瀬零が、帝都理法大学の黒瀬零の右腕を取る。
帝都理法大学の黒瀬零は逆らわず、相手が引く方向へ身体を回した。
投げられる直前、左脚を相手の踵へ絡める。
二人の身体が同時に傾く。
採択領域から離脱した黒瀬零が自分の座標を固定すれば、倒れずに済む。
だが、今固定すれば、接触している帝都理法大学の黒瀬零の位置まで、同じ場所へ拘束する可能性がある。
一瞬の迷い。
帝都理法大学の黒瀬零は、その迷いを利用して相手を押した。
採択領域から離脱した黒瀬零も押し返す。
二人は中央から十三メートル滑った。
場外線まで、残り四メートル。
「お前が先に出る」
帝都理法大学の黒瀬零が言う。
「お前も出る」
「なら、手を離せ」
「お前が離せ」
「同じ答えか」
「理由は違う」
残り二メートル。
帝都理法大学の黒瀬零は、相手を場外へ押し出すために手を離さない。
採択領域から離脱した黒瀬零は、相手の位置を能力で決めないために手を離さない。
同じ行動。
異なる理由。
残り一メートル。
採択領域から離脱した黒瀬零は、最後まで`自証座標`を使わなかった。
帝都理法大学の黒瀬零も、相手だけを場外とする緊急申請を出さなかった。
二人の足が同時に白線を越える。
『場外判定』
『第一対象、場外』
『第二対象、場外』
『時刻差を照合』
――〇・〇〇〇〇秒。
『同時場外』
『第二実技第二試合』
『引き分け』
競技場の外へ倒れた二人は、それでも互いの腕を掴んだままだった。
「離せ」
帝都理法大学の黒瀬零が言う。
「お前が先に離せ」
「試合は終わった」
「なら同時だ」
「面倒だな」
「お前に言われたくない」
二人は視線を合わせる。
三。
二。
一。
同時に手を離した。
◇
「引き分けでも、審査は成立するのでしょうか」
澄玲が中央画面を見る。
「従来の対抗規程では、再試合です」
文乃が答える。
「ただし、今回の目的は優勝者を決めることではありません」
競技場上空へ、二人の行動理由が表示される。
――帝都理法大学・黒瀬零。
――共有座標から離脱しなかった理由。
――本人が選んだ場所を、制度上の都合によって無効化しないため。
――採択領域離脱個体・黒瀬零。
――共有座標から離脱しなかった理由。
――自ら選んだ共有を、外部からの強制と同一視しないため。
『結果一致』
『理由不一致』
『個体差を確認』
灯が二つの回答を読む。
「二人とも同じ場所に残ったけど、残った理由は違う」
「はい」
澄玲が答える。
「同じ場所に立つことも、同じ結果を選ぶことも、同一人物である証明にはなりません」
朔夜が競技場の白線を見る。
「一人は、相手の場所を奪わないために残った」
「もう一人は、自分で共有を選んだことを否定しないために残ったのですね」
「ややこしいな」
「必要な違いです、天城先輩」
「今回は文句を言っていない」
「先に釘を刺しました」
獅堂が大きく頷く。
「己の足で同じ大地へ立ったなら、それはどちらか一方だけの礎ではない!」
「獅堂さんの能力の話ではありませんよ」
「分かっている!」
本当に分かっているかは、少し怪しかった。
競技場の上空にある第六署名欄が光る。
第一試合で刻まれた一本の縦線。
その横へ、二本目の線が加わった。
二本の線は途中で交差する。
だが、一つにはならない。
――第六署名者。
――第二基礎記録を取得。
――記録内容。
文字が浮かぶ。
――同じ場所へ立つことは、同じ者になることではない。
採択領域から離脱した黒瀬零が、その文章を見上げる。
「また使われた」
帝都理法大学の黒瀬零も、場外で上体を起こす。
「俺たちの回答を、未来の個体成立へ転用している」
「異議を出すか」
「今は出さない」
「意外だな」
「記録された内容自体は、俺たちの回答と一致している」
「利用目的は分からない」
「ああ。だから消すのではなく、利用目的の開示を要求する」
「結局、書類か」
「必要な手続きだ」
「俺は署名しないぞ」
「共同申立てには本人回答が必要だ」
「今の話を聞いていたか」
「拒否を記録した」
「お前とは話が合わない」
「同じ場所には立てた」
採択領域から離脱した黒瀬零は、僅かに目を細めた。
「それだけで十分だと思うな」
「思っていない」
帝都理法大学の黒瀬零は、自分の足で立ち上がる。
「次にどこへ立つかは、また聞く」
「勝手に来るな」
「今回も自分で歩いてきた」
「そういう意味ではない」
二人の会話を聞きながら、俺は診療席で右肩の再固定を受けていた。
「仲良くなったな」
「黒瀬零」
緋月が固定具を締める。
「痛い」
「他人の試合を見ながら余計な発言をする余裕があるなら、治療を進める」
「会話と治療は関係ないだろ」
「今、関係させた」
灯が隣で笑う。
「お兄ちゃんたち、みんな似てるね」
「今の試合を見て、その感想か」
「違うところを証明するたびに、似た言い争いをするところ」
「それは否定できない」
「でも、同じじゃない」
「ああ」
第一試合。
俺は第四候補に負けた。
敗北しても、俺の名前は消えなかった。
第二試合。
二人は同じ場所へ立ち、同時に場外へ出た。
同じ結果を選んでも、二人の理由は一つにならなかった。
勝敗。
位置。
結果。
何かが重なるたび、審査は一人へまとめようとする。
だが、重なることと、同じになることは違う。
それを一つずつ証明している。
『第二実技、終了』
『審査対象五件の個別性を更新』
『第二実技における身体記録』
『新規身体能力の付与、なし』
『座標再指定と身体速度を分離して保存』
『先行動作と純粋反応を分離して保存』
『第三実技へ移行』
競技場中央の床が開く。
その下から、一枚の学生証がせり上がってきた。
氏名欄は空白。
所属欄も空白。
学籍番号だけが、発行可能状態になっている。
――第三実技。
――共同選択審査。
――現在発行可能な正規学籍。
――一件。
五人の黒瀬零に対して。
正式に発行できる学籍は、一件だけ。
「これを、誰か一人へ渡せということか」
第四候補が治療席から尋ねる。
左足首を固定されたため、競技場へ戻ることは緋月に禁じられている。
文乃が規則を開く。
「五件全員の同意によって、受領者を一名選択します」
「選ばれなかった四人は?」
「現在の暫定学籍、または所属情報を維持します。ただし、正規学籍としての独立は確定しません」
「一人だけを、正規の黒瀬零にする」
俺が学生証を見る。
「実質的には、そうなります」
灯の表情が曇る。
「また一人を選ぶの?」
「審査規則上は」
文乃が言葉を止めた。
学生証の上へ、受領候補者一覧が表示されたからだ。
――第一候補。
――帝都理法大学、黒瀬零。
――第二候補。
――《第四候補》。
――第三候補。
――帝都神律大学、黒瀬零。
――第四候補。
――三年前の黒瀬零。
――第五候補。
――採択領域離脱個体、黒瀬零。
五人。
その下に、もう一つの空欄が開く。
――第六候補。
――氏名、黒瀬零。
――個体、未成立。
――選択可能。
「まだ存在していない六人目まで」
澄玲が表示を見上げる。
「正規学籍の受領候補に含まれています」
「今、六人目を選んだらどうなる」
俺が尋ねる。
審査機構が答える。
『正規学籍一件を、将来成立予定個体のために保全』
『現在存在する五件には発行しない』
『第六候補の成立申請を、次段階へ移行』
五人の誰かを選べば、その一人だけが正規の学籍を得る。
誰も選ばずに時間切れとなれば、全員の独立審査が保留される。
存在していない六人目を選べば、現在の五人は誰も正規学籍を得られない。
代わりに。
未来で成立する黒瀬零へ、今から一つの席を空けておくことになる。
『回答期限』
競技場上空へ時刻が表示される。
――三十分。
『必要条件』
『五件全員の同意』
学生証の氏名欄へ、六つの影が重なる。
現在ここにいる五人。
そして。
まだ誰の顔も持たない、一人分の空白。
第三実技は、誰が本物かを選ぶ試験ではなかった。
誰へ未来を渡すのか。
その答えを、五人全員で一つにしろと要求していた。




