第五十三話 敗れた名にも、朝は続く
第四候補の輪郭が、俺の視界から消えた。
――二十一メートル区間最大走行速度。
――秒速七百六十三・五メートル。
――試験場基準、マッハ二・二三。
――第一実技最大値との差、プラス二・八パーセント。
第四候補が動き始めてから、その姿を見て避けることはできない。
だから俺は、相手が踏み込むより前に身体を右へ傾けていた。
読んだのは、速度ではない。
残された距離。
俺の背後にある場外線。
第四候補が一撃目で見せた、軸を崩してから場外へ押し出す戦い方。
そして、右肩を直接狙わずに勝とうとするなら、次も左側から力を加える可能性が高いということ。
第四候補の拳が、俺の左肩の前を通過した。
外れたのではない。
俺が先に位置をずらしたことで、到達地点から身体が半歩だけ外れていた。
だが、一撃目は囮だった。
第四候補は拳を振り抜かない。
左腕を引く動作と同時に、右膝を腹部へ差し込んでくる。
今度は避け切れなかった。
「っ……!」
膝が当たる直前、第四候補は速度を落としていた。
――接触直前速度。
――秒速二百九十八メートル。
最大走行速度のまま衝突すれば、試合ではなく殺傷になる。
第四候補は二十一メートルの途中で最大速度へ達し、残りの距離で減速しながら打撃姿勢へ移っていた。
手加減ではない。
俺を壊さず、場外へ運ぶための制御だ。
それでも、身体が床から浮く。
腹部へ入った衝撃が骨格を伝い、固定された右肩まで揺らした。
空中で背中を丸める。
右肩から落ちない。
左手も床へ出さない。
両足から着地した。
靴底が床を削り、十四メートル後退する。
場外線まで、残り三・二メートル。
『有効打を確認』
『黒瀬零、右肩新規衝撃値』
――三十八・一パーセント。
『第四候補』
『短距離高出力移動、二回使用』
『残り一回』
『左足関節、追加負荷十七・八パーセント』
『右大腿筋群、微細損傷を検出』
第四候補の右脚が、僅かに震えている。
本人は気づいているはずだ。
それでも、視線を落とさない。
「今のは見えなかっただろ」
「ああ」
「それでも、右肩から落ちなかった」
「落ちる場所は選べる」
「攻撃は避けられなくても?」
「全部避ける必要はない」
第四候補が一歩進む。
今度は高出力移動を使わない。
床を蹴った速度は、先ほどとは比較にならないほど低い。
それでも、俺より速い。
――接近速度。
――秒速二百二十六メートル。
音速には達していない。
だが、現在の俺が走れる速度の三倍以上だった。
右の拳。
左の肘。
踵。
膝。
第四候補は一つの攻撃を終えてから、次へ移らない。
前の動作が終わる途中で、次の攻撃を始める。
避けられた拳が、そのまま次の回転の起点になる。
外れた蹴りが、着地と同時に新しい踏み込みへ変わる。
出来事としての記憶を失っても。
誰と戦ったのかを忘れても。
身体だけは、途切れず戦い続ける方法を覚えている。
俺は第四候補の姿を追う。
先ほどまでとは違う。
今の速度なら、輪郭そのものは見える。
だが、見えることと対応できることは別だ。
拳が動いてから顔を逸らしていては遅い。
肩。
骨盤。
支持脚。
次の動作へ移る前に変化する箇所を読む。
右の拳を、頭を下げて避ける。
続く左肘の内側へ入り込む。
反撃は右脚だけ。
相手の膝裏へ踵を当てる。
倒すほどの力は加えない。
踏み込みの角度を外し、次の攻撃へ必要な足場を崩す。
第四候補の身体が半歩流れた。
だが、倒れない。
左足を床へ滑らせ、崩れた重心をそのまま回転へ変える。
蹴りが来る。
俺は後ろへ下がらず、内側へ踏み込んだ。
第四候補の脛が、俺の制服を掠める。
風圧で布地が鳴った。
攻撃速度は、秒速三百十七メートル。
音速には届かない。
それでも、直接受ければ立ってはいられない。
俺の右足が、第四候補の軸足へ触れる。
互いに倒れない。
身体だけが、僅かに離れる。
開始から〇・九四秒。
「やっぱり見えていないな」
第四候補が言った。
「最初よりは見える」
「見えるだけだ」
「ああ」
「次に何をするかを、先に読んでいる」
「そうしないと間に合わない」
「なら」
第四候補が構えを解いた。
腰を落とさない。
片足を引かない。
拳も上げない。
両足を自然に床へ置く。
視線も、俺から僅かに外した。
「読ませなければいい」
予備動作が薄れていく。
完全に消えたわけではない。
身体を使って動く以上、出発するための変化は必要になる。
だが、その変化を一つの箇所へ集めず、全身へ分散させている。
足だけを見ても読めない。
視線だけでも。
骨盤だけでも。
俺が読み取れる情報を、一つずつ役に立たなくしていく。
◇
「第一実技では、秒速七百四十二・六メートルでした」
観測席で、澄玲が二つの速度記録を並べる。
「第二実技で記録された最大値は、秒速七百六十三・五メートル。試験場基準でマッハ二・二三です」
「第一実技より速くなっている」
獅堂が言った。
「差は二・八パーセントです」
澄玲は記録条件を開いた。
「第一実技では二十四メートル。今回は二十一メートル。距離は近いですが、今回は救助対象も学籍原本もなく、進行方向も直線に限定されています」
「試験を受けたことで強くなったわけではない」
玄理が三年前の共同履修審査記録を投影した。
――個体連続性照合項目。
――記憶。
――学籍。
――関係性。
――`命題`。
――身体。
――運動履歴。
「第一実技は、第四候補へ新しい身体能力を与えていない。元から存在した出力を、異なる条件で観測したにすぎないのである」
「それでも、どうして現在の黒瀬さんよりこれほど速いのでしょうか」
澄玲が尋ねる。
「三年前の共同履修審査では、複数の黒瀬零を一件へ統合するため、いくつもの連続性が比較されていた」
玄理が第四候補の記録を拡大する。
「第四候補には、そのうち身体運用、反射、戦闘動作に関する連続性が強く残っている」
氏名と学籍の多くは消えている。
誰と戦ったのか。
何を守ろうとしたのか。
どこでその動作を身につけたのか。
出来事としての記憶は、ほとんど残っていない。
それでも。
回避。
踏み込み。
重心移動。
衝撃を逃がす方法。
相手を殺さず制圧する方法。
動作だけが、身体へ残っている。
「本人が思い出せなくても、身体は動けるんですね」
灯が言った。
「そうだ」
玄理が答える。
「反復によって獲得された運動は、出来事の記憶とは別の形で保持される。一般には手続き記憶と呼ばれるものだが、第四候補では保存範囲と精度が通常の水準を大きく超えている」
「何をしたかは覚えていなくても、戦い方は知っている」
「それだけではない」
文乃が、第四候補の失われた学籍記録を表示する。
「第四候補は三年前に退学処分を受けて以降、大学の保護から外れています」
医療支援。
学内保護。
命題災害時の避難経路。
学生寮。
履修連絡網。
正式な学籍を持つ学生なら利用できるものを、第四候補は何一つ使えなかった。
「三年間、生き残るために、自分の身体を使い続けた」
朔夜が言った。
「過去から残った身体運用を、三年間の生存経験がさらに研ぎ澄ましたのでしょう」
澄玲が第四候補を見る。
「現在の黒瀬さんが、状況判断や`未証明`の運用を発達させた一方、第四候補は身体能力と戦闘技術へ偏って成長した」
「どちらが正しい黒瀬零かという問題ではない」
玄理が告げる。
「異なるものを残し、異なる三年間を過ごした結果である」
観測画面へ、損傷情報が表示される。
――右大腿筋群、微細断裂。
――左足関節、負荷蓄積。
――右膝周辺、炎症反応。
――内臓衝撃、軽度。
「こんなに速く動いて、大丈夫なの?」
灯が尋ねる。
「大丈夫ではない」
緋月は即答した。
「秒速七百メートルを超える移動は、数十メートルの短距離に限られている。持続速度ではない」
「でも、第一実技でも使っていた」
「使用できることと、安全であることは別だ」
緋月が第四候補の左足関節を拡大する。
「筋肉が出力を発揮できても、腱、関節、内臓が同じ負荷へ耐えられるとは限らない。高出力移動のたびに損傷は増えている」
「それでも止まらない」
「止まらずに生きなければならなかった期間が三年ある」
緋月の声は冷たい。
だが、その視線は第四候補の損傷表示から離れなかった。
「本人にとっては、身体を削って先に動くことが、生存方法として定着している」
「黒瀬さんと、少し似ていますね」
澄玲が言った。
「似ているからこそ、違っている」
「どう違う」
朔夜が尋ねる。
「黒瀬さんは、自分が傷つくという結論を後回しにしようとします。第四候補は、傷つくことを判断項目から外し、その先の行動だけを優先している」
競技場で、第四候補が全身から予備動作を薄れさせていく。
関節へかかる負荷も増している。
「能力ではなく、生き方が身体へ残っているのですね」
「ああ」
玄理が頷いた。
「この速度は第四候補自身のものである。他の黒瀬零から借りた力でも、個別性を認められたことで突然与えられた力でもない」
◇
「いいのか」
俺が尋ねた。
「何がだ」
「その動き方は、自分の身体にも負担が大きい」
「お前に言われたくない」
「それもそうだな」
第四候補の右脚は、僅かに震えている。
本人も気づいているはずだ。
それでも、姿勢を戻さない。
上空へ、俺の医療記録が表示される。
第一実技で記録された右肩衝撃値九十八・七パーセントは、あくまで第一実技中の最大値である。
追加損傷がないことを確認したあと、第二実技では現在の負傷状態を基準とした新しい警告値が設定されている。
表示は〇パーセントから始まった。
だが、許容できる衝撃そのものが増えたわけではない。
身体が治ったわけでもない。
壊れるまでの距離を、測り直しただけだ。
『黒瀬零、右肩新規衝撃値』
――四十二・六パーセント。
まだ、医療停止には届いていない。
だが、次の一撃をまともに受ける余裕はない。
第四候補が一歩進む。
高出力移動は、残り一回。
それを使わず、俺の正面へ近づいてくる。
速度は、秒速百九十メートル。
先ほどまでより遅い。
俺にとっては十分に速い。
第四候補の右拳が動く。
俺は肩の動きから、左へ避ける。
拳は途中で開かれた。
掴むための手。
俺の制服ではない。
左側へ逃げた俺の進路を塞ぐため、掌を床へ向けている。
第四候補の手が床へ触れる直前、俺は右足で床を蹴った。
左へ行くと見せて、正面へ戻る。
掌が床へ届く。
第四候補は腕を軸に身体を浮かせ、両脚を横へ振った。
俺は身を低くする。
蹴りが頭上を通る。
そのまま前へ出る。
狙うのは、固定された左足首。
壊すためではない。
場外線に近い方へ重心を寄せるために。
俺の右足が、第四候補の靴へ触れた。
押す。
第四候補の身体が、半歩だけ白線側へ流れる。
「怪我を狙うのか」
「勝つためだ」
「悪くない」
第四候補が左足を引く。
痛みで動きが遅れた。
その遅れは、〇・〇一秒にも満たない。
それでも今の俺には十分だった。
右足を振る。
第四候補の腰へ蹴りを入れ、場外へ押し出す。
だが、第四候補は蹴りを受ける前に、自分から身体を横へ倒した。
俺の足が制服を掠める。
第四候補は床へ右手をつき、逆立ちに近い姿勢で蹴りを回す。
俺の脇腹へ踵が迫る。
後ろへ下がる。
踵が制服を裂いた。
直接は当たらない。
それでも風圧が腹部を押し、俺の身体を場外側へ運ぶ。
白線まで、残り二・八メートル。
「今度は避けたな」
「速度が落ちてるからな」
「なら、上げる」
『第四候補』
『短距離高出力移動』
『残り一回』
『使用準備を検出』
緋月の警告が競技場へ響く。
「第四候補。左足関節への負荷は既に許容値の七十二パーセントだ」
「まだ超えていない」
「一度で超える可能性がある」
「超える前に終わらせる」
「その考え方をやめろと言っている」
「試合が終わったら考える」
「考えられる身体を残せ」
第四候補は答えなかった。
俺は場外線を背にしたまま、相手へ向かって走る。
距離は二十七メートル。
俺の走行速度は、秒速七十二メートル。
第一実技で記録した最大値とほぼ同じ。
第四候補にとっては遅い。
だが、逃げる場所はもうない。
前へ進むしかない。
「正面から来るのか」
「後ろが場外だからな」
「なら、終わりだ」
第四候補の全身から、最後の予備動作が消える。
右足。
左足。
肩。
骨盤。
視線。
どこを見ても、進行方向を絞れない。
だが、勝利条件は変わらない。
俺を十秒間行動不能にする。
降参させる。
医療停止へ追い込む。
場外へ出す。
現在位置で最も確実なのは、場外だ。
俺の背後に白線がある以上、第四候補は正面から後方へ力を与えなければならない。
俺は走る。
第四候補は動かない。
距離、二十メートル。
十六。
十四。
そこで第四候補が床を蹴った。
――最終短距離高出力移動。
――記録区間、十四・八メートル。
――最大走行速度。
――秒速七百七十九・八メートル。
――試験場基準、マッハ二・二七。
――第一実技最大値との差、プラス五・〇パーセント。
――継続時間、〇・〇一九秒。
――成立条件。
――無荷重。
――直線移動。
――高出力移動三回目。
――身体負荷、危険域。
第一実技を上回った。
だが、増加は五パーセント。
十四・八メートルだけ。
身体を壊さないための安全な成長ではない。
残された一度へ、負傷した身体の出力を押し込んだ結果だ。
最大速度へ達したのは、接触地点より九メートル手前。
第四候補はそこから減速を始めている。
衝突するためではない。
俺を肩で押し、場外へ運ぶために。
接触直前速度は、秒速三百十二メートル。
それでも、正面から受ければ止められない。
俺は、第四候補の姿を見てから動いたのではない。
高出力移動を使うと判断した時点で、既に右足へ体重を集めていた。
第四候補が俺の目前へ現れるより先に、走行を止める。
想定されていた接触地点より、一・一メートル手前。
左足を外へ開く。
第四候補の左脚が、俺の右横を通る。
右足の踵で、相手の足首の内側を押した。
蹴り飛ばさない。
減速してなお秒速三百メートルを超える身体へ、〇・六度だけ別の方向を与える。
その僅かな差が、二人の位置を入れ替えた。
第四候補の肩が、俺の胸元を掠める。
俺は横へ回り込む。
第四候補が、場外線へ向かう形になる。
線まで二・七メートル。
第四候補は既に減速している。
それでも、完全には止まれない。
「もらった」
俺は背後から右足を振る。
狙いは腰。
腕ではない。
右肩も動かさない。
蹴りが入れば、第四候補は場外へ出る。
だが、俺の足が触れる直前。
第四候補は前方の床へ左足を突き立てた。
――接地時速度。
――秒速百九十八メートル。
競技場が沈む。
左足の固定帯が裂けた。
『第四候補』
『左足関節、医療警告値を超過』
『試合停止判定を準備』
「まだ動ける!」
第四候補は前進する力を止めたのではない。
左足を床との接点にして、残った速度を回転へ変えた。
身体が反転する。
俺の蹴りが空を切る。
次に見えたのは、目前まで迫った踵だった。
顔を逸らす。
踵は頬へ触れない。
だが、押し退けられた空気が側頭部を叩く。
視界が白くなる。
第四候補は回転を止めない。
二撃目。
低い足払い。
俺の両足が床から離れた。
このまま倒れれば、背中か右肩から着地する。
左手を床へつけば、身体を支えられる。
ただし、制限帯が許している体重支持は二十パーセントまで。
今の落下を左腕一本で受ければ、確実に超える。
能力を使えば、倒れたという結論を保留できるかもしれない。
だが、`未証明`は禁止されている。
俺には、二つの選択肢があった。
左腕を壊してでも踏みとどまる。
あるいは能力を使い、試合規則を破る。
どちらを選んでも、場外へ出ずに済む可能性はある。
そして。
どちらも選ばないと約束した。
灯に。
緋月に。
何より、今の俺自身に。
身体を壊すことだけを、答えにしない。
俺は左手を伸ばさなかった。
右肩を庇い、身体を横向きにする。
腰。
左脚。
右脚。
順番に床へ触れ、衝撃を分散する。
そのまま転がった。
白線が視界を横切る。
身体が競技場の外側へ滑り出した。
『場外判定』
表示が出る。
左足は線の内側。
右足は外側。
腰も外へ出ている。
『審査対象、黒瀬零』
『競技場外への排出を確認』
『第二実技第一試合』
『勝者、《第四候補》』
『敗者、黒瀬零』
試合終了の音が響いた。
開始から三・二六秒。
第四候補は、高出力移動を三回使用した。
一回目。
六十メートル区間平均速度、秒速七百〇五・九メートル。試験場基準、マッハ二・〇六。
二回目。
二十一メートル区間最大速度、秒速七百六十三・五メートル。試験場基準、マッハ二・二三。
三回目。
十四・八メートル区間最大速度、秒速七百七十九・八メートル。試験場基準、マッハ二・二七。
数値は徐々に上がっている。
だが、距離は短くなり。
負荷は増え。
最後には、左足関節が医療基準を超えた。
突然、新しい強さを得たわけではない。
元から持っていた短距離出力を、身体の損傷と引き換えに使っただけだ。
俺が、その速度へ反応できたわけでもない。
実際の移動が始まってから、第四候補の姿を追えた場面は一度もなかった。
予備動作。
位置。
勝利条件。
残された高出力移動の回数。
移動前に得られる情報から到達地点を予測し、相手が来るより先に自分の位置を変えた。
最後には、その予測も突破された。
俺は負けた。
◇
「お兄ちゃん!」
灯が観測席から降りてくる。
俺は場外の床へ仰向けになったまま、左手を上げた。
「生きてる」
「見れば分かる!」
「なら聞くな」
「心配したの!」
灯が俺の左手を掴む。
制限帯が警告を発しない程度に、慎重に引いた。
俺は自分の脚で立ち上がる。
右肩の新規衝撃値は七十一・三パーセント。
医療停止基準には達していない。
左腕も使っていない。
能力も発動していない。
試合には負けた。
だが、約束は守った。
緋月が俺の前へ来る。
「黒瀬零」
「止まった」
「ああ」
「左手もつかなかった」
「ああ」
「能力も使ってない」
「ああ」
「褒めてくれる?」
「今すぐ診察を受けろ」
「そこは変わらないのか」
「当然だ」
緋月は観測端末を右肩へ当てる。
続けて、第四候補へ別の端末を投げた。
「お前もだ」
「試合は終わった」
「だから治療する」
「動ける」
「左足関節の靱帯損傷。右大腿筋群の微細断裂。右膝の炎症。腹腔内へ軽度の衝撃反応。診察を受けろ」
「まだ歩ける」
「黒瀬零と同じ回答をするな」
第四候補が俺を見る。
「お前のせいだ」
「俺は何も言ってない」
「顔が同じだ」
「理不尽だな」
「二人とも黙れ」
緋月の声に、俺と第四候補は同時に口を閉じた。
灯は、まだ俺の左手を離していない。
「負けたね」
「ああ」
「悔しい?」
「かなり」
「でも、帰ってきた」
「ああ」
「じゃあ」
灯は少し笑った。
「おかえり、お兄ちゃん」
「ただいま」
その言葉へ、競技場の審査機構が反応した。
上空へ、俺の学籍情報が表示される。
――敗者。
――帝都神律大学、黒瀬零。
――勝者との同名対応を確認。
――学籍優先順位を再計算。
第四候補の学籍候補が上へ。
俺の学籍が下へ移動する。
――敗者学籍を、劣後記録として処理。
「待ってください」
文乃が銀色の書類板を開いた。
「第二実技の目的は、敗者を劣後させることではありません!」
『従来規程を参照』
『同名学籍間の対抗結果により、正規学籍候補の優先順位を決定』
「その規程は、今回の共同異議申立てによって停止されています!」
『停止対象』
『敗者学籍の即時無効化』
『優先順位の算定は継続』
俺の学生証情報から、帝都神律大学の校章が薄れていく。
第四候補の方へ、俺の履修記録が引かれ始めた。
勝った方を本物へ近づける。
負けた方を、その不完全な写しへ落とす。
「俺は要らない」
第四候補が言った。
全員の視線が向く。
「何をですか」
文乃が尋ねる。
「こいつの学籍も、履修記録も、黒瀬零としての優先順位も要らない」
『勝者による採択拒否を確認』
『理由を要求』
「勝ったからだ」
『回答不成立』
「俺がこいつに勝ったことと、俺がこいつになることは別だ」
第四候補が俺の前へ立つ。
「俺が証明したのは、今の俺が、今のこいつより強かったことだけだ」
『同名学籍間の優劣を確認』
「優劣はある」
第四候補は否定しなかった。
「今の戦いでは、俺が上だった」
俺を見る。
「異論はあるか」
「次は勝つ」
「今の結果を聞いている」
「負けた」
「なら、それだけだ」
第四候補は、上空の学籍表示へ振り返る。
「敗北を理由に、こいつから名前を奪うな」
『敗者は、勝者より正規性が低い』
「違う」
第四候補の声が低くなる。
「敗者は、負けた本人だ」
競技場が静まる。
「負けたから別人になるわけじゃない。負けたから俺の一部になるわけでもない。こいつは、俺に負けた黒瀬零だ」
「言い方が腹立つな」
「事実だ」
「次は勝つ」
「その時も、お前はお前だ」
俺の学籍から離れかけていた履修記録が止まった。
だが、元には戻らない。
『勝者回答を既存規程へ対応不能』
『敗者本人の回答を要求』
「黒瀬さん」
澄玲が観測席から呼びかける。
「敗北した現在のあなたが、誰であるか答えてください」
「面倒な質問だな」
「必要な面倒です」
「そうだったな」
俺は、自分の学生証表示を見る。
敗者。
第四候補より遅い。
第四候補より弱い。
今の対抗戦では、明確に負けた。
それでも。
第一実技で選んだ判断も。
灯と交わした約束も。
帝都神律大学で過ごした時間も。
負ける前と何一つ、別の誰かへ移っていない。
「俺は黒瀬零だ」
『勝者との氏名一致』
「今、第四候補に負けた黒瀬零だ」
『敗北結果による個体差を検出』
「それだけじゃない」
右腕の固定具。
左腕の制限帯。
脇腹の痛み。
使わなかった能力。
踏みとどまるために壊さなかった身体。
「勝つために、約束を破らなかった黒瀬零だ」
灯が俺の左手を握る。
「私のお兄ちゃん」
『関係者回答を確認』
緋月が続ける。
「医療制限を順守し、敗北後も治療対象として継続する黒瀬零だ」
『管理責任者回答を確認』
玄理が書類を掲げる。
「帝都神律大学における現在学籍は、対抗戦の結果によって移譲されるものではない」
『所属機関回答を確認』
澄玲が静かに告げる。
「敗北は、同一性を失う証明ではありません。敗北する前と後で、本人の回答は連続しています」
『個体連続性を確認』
朔夜が腕を組む。
「それに、負けたくらいで黒瀬が静かになるなら苦労しない」
「天城先輩」
「補足だよ、九条」
「内容は否定しません」
『共同証明者回答を確認』
獅堂が大きく頷く。
「敗れた者が大地から消える道理はない! 立ち上がったのなら、その者の歩みは続く!」
『共同証明者回答を確認』
俺の学籍へ、帝都神律大学の校章が戻る。
第四候補の表示との間に、細い白線が引かれた。
上下を示す線ではない。
勝敗だけを記録する、横向きの線。
――対抗結果。
――《第四候補》、勝利。
――黒瀬零、敗北。
――両学籍の個別性。
――維持。
『第二実技第一試合』
『審査目的を達成』
『敗者学籍の消失なし』
『勝者学籍への統合なし』
『個別性を正式記録』
競技場の上空にある六枚の署名欄が光った。
まだ空白の第六署名欄。
そこへ、最初の線が刻まれる。
署名ではない。
文字ですらない。
人の輪郭にも届かない、一本の縦線。
だが、昨日までは存在しなかった形だった。
――第六署名者。
――成立申請準備。
――第一基礎記録を取得。
――記録内容。
文章が浮かぶ。
――敗北は、個体消失の根拠にならない。
「これが」
灯が第六署名欄を見上げる。
「六人目の最初の輪郭?」
「そう見える」
俺は答えた。
「お兄ちゃんが負けたから生まれたの?」
「まだ生まれてない」
「でも、少しだけ近づいた」
「ああ」
第四候補が、第六署名欄を睨む。
「気に入らない」
「同感だ」
「俺の勝利も、お前の敗北も、あいつの材料にされた」
「だったら」
俺は第四候補を見る。
「生まれた時に聞けばいい」
「何を」
「俺たちの勝敗を、どう使うつもりか」
「答えなかったら?」
「答えるまで残す」
「お前らしいな」
「お前も付き合え」
「命令するな」
「提案だ」
第四候補は、すぐには返事をしなかった。
それでも、第六署名欄から目を逸らさない。
「考えておく」
今は、それで十分だった。
◇
第一試合の正式記録が保存されると、競技場中央の白線が消えた。
次の対戦者名が表示される。
――第二実技。
――第二試合。
――帝都理法大学、黒瀬零。
――対。
――採択領域離脱個体、黒瀬零。
「制度で位置を定める者と」
澄玲が表示を見る。
「自分で座標を定める者ですか」
「相性が悪そうだな」
朔夜が言った。
「どちらにとってですか?」
「両方に」
帝都理法大学の黒瀬零が、書類を文乃へ預ける。
採択領域から離脱した黒瀬零は、壁際から競技場へ向かった。
二人は同じ入口を使わない。
片方は正規の選手通路から。
もう片方は、自分で定めた位置から白線の内側へ現れる。
俺は緋月に右肩を診察されながら、その姿を見ていた。
「黒瀬零」
「何だ」
「次の試合へ乱入するな」
「しない」
「第四候補へ再戦を申し込むな」
「今はしない」
「今は、をつけるな」
「治ったら」
「治ってから言え」
灯が俺の隣で笑った。
俺は負けた。
その事実は消えない。
消す必要もない。
敗北のあとにも、俺の名前は残った。
俺の学籍も。
俺の妹も。
次に勝ちたいという、俺自身の答えも。
朝は、勝者だけのために明けるわけではない。
白線の両側へ、次の二人が立つ。
帝都理法大学の黒瀬零が、競技場全体を一件の審査対象として登録する。
採択領域から離脱した黒瀬零が、自らの足元へ一点の座標を定める。
制度が場所を与えるより先に。
一人の黒瀬零が、自分の立つ場所を自分で選んだ。
第二試合の開始表示が浮かぶ。
三。
二。
一。
今度は、勝敗より先に。
二人が同じ競技場へ立っているという前提そのものが、割れた。




