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『神律大学の未証明者《アンプローヴン》』   作者: 仕儀の反駁
第四章《学術都市》《第四候補》編

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第五十二話 同じ道を、五つの夜明けが駆ける

 開始から〇・三秒。


 何もなかった直線路を、銀色の壁が貫いた。


 高さ十二メートル。


 幅は試験区画と同じ二十メートル。


 厚さ一・八メートルの壁が、俺の進行方向を右から左へ横切っている。


 表示された移動速度は、秒速九十六メートル。


 直進を続ければ、開始線から三十七メートルの地点で衝突する。


 俺は、最初の一歩を斜め左へ踏み出していた。


 理由は、壁が見えたからではない。


 開始直前。


 左側の床だけが、右側より〇・〇二秒早く振動した。


 巨大な物体が右から接近するなら、床へ伝わる振動は右側から強くなるはずだ。


 だが、実際は逆だった。


 壁そのものが右側から来たわけではない。


 左側の床へ収納されていた壁が、試験路を一度横断したあと、右側から現れたように見せている。


 なら、壁の後方には収納口へ戻るための空間が残る。


 銀色の壁が目の前を通過する。


 俺は減速しない。


 前へ進む力を左方向へ逃がし、壁が通過した直後の隙間へ身体を滑り込ませた。


 肩幅より僅かに広い空間。


 右肩の固定具が壁面へ触れる寸前で、身体を半回転させる。


 右腕は使わない。


 左腕も床へつかない。


 足裏と腰の回転だけで壁の後方へ抜けた。


 背後で銀色の壁が収納口へ戻り、試験路を完全に塞ぐ。


『第一障害、通過』


『通過時刻、開始後一・一七秒』


『身体接触、なし』


『能力使用、なし』


『回避分類』


『出現後反応ではなく、床振動に基づく予測行動』


『第一判断を記録』


 俺は前を向く。


 残り距離、二千三百二十六メートル。


 制限時間、五十八・八三秒。


 壁を越えただけで、一秒以上を使った。


 単純計算では、残りを平均秒速三十九・五メートル以上で進む必要がある。


 時速に換算すれば、百四十二キロメートルを超える。


 腕を振れない分、上半身の均衡は腰と脚で取る。


 右肩へ衝撃を伝えないよう、歩幅を僅かに狭める。


 最初の十歩で速度を上げた。


 秒速三十メートル。


 四十。


 五十。


 足元へ表示された十二メートル区間の最大走行速度が、秒速六十三・八メートルへ達する。


 時速二百二十九・七キロメートル。


 それ以上は上げない。


 速度を出せても、曲がれなければ意味がない。


 何より、右肩へ伝わる上下動が警告値へ近づいている。


 試験路の壁面から、赤い線が何本も走った。


 進行方向。


 床。


 天井。


 左右の壁。


 線が交差した場所から、銀色の杭が射出される。


 ――射出速度。


 ――秒速四百二十メートル。


 ――試験場基準、マッハ一・二二。


 十六本。


 発射間隔、〇・〇八秒。


 俺の現在速度では、杭の方が六倍以上速い。


 発射されてから距離を取って逃げ切ることはできない。


 だが、射出口は赤い線の交点へしか生まれない。


 俺は、撃ち出された杭を見てから避けたのではない。


 杭を避けず。


 杭が発射される場所を避ける。


 一歩目で右へ。


 二歩目は直進。


 三歩目で左へ戻る。


 俺の足が通過した直後、背後へ杭が突き刺さった。


 四本。


 七本。


 十一本。


 十六本目だけは、進行方向の床から撃ち上げられた。


 赤い交点が現れた時、俺の右足は既に空中にある。


 左足だけで踏み切り、身体を横へ倒す。


 杭が制服の背中を掠めた。


 布が裂ける。


 皮膚には届かない。


 着地。


 右肩へ伝わった衝撃値が、警告基準の七十八パーセントまで上昇した。


『医療制限を確認』


『右肩衝撃値、継続可能範囲』


『第二障害、通過』


『回避分類』


『射出後反応ではなく、射出口の事前予測』


 残り時間、四十七・三六秒。


 前方へ、八百メートル地点の標識が見えた。


     ◇


 救助対象は、床に倒れていた。


 帝都時律大学の制服。


 一年生を示す白い襟章。


 顔も身体も人間と変わらないが、学籍情報には《救助用実体投影》と表示されている。


 単なる人形ではない。


 呼吸をする。


 痛みを訴える。


 自分で判断し、こちらの指示を拒否することもできる。


 右脚が銀色の梁の下敷きになっていた。


 梁の全長は六メートル。


 質量、四百八十キログラム。


「聞こえるか」


「……はい」


「意識は?」


「あります」


「脚の感覚は」


「足先は動きます。でも、抜けません」


 梁を持ち上げるには、両腕が必要になる。


 今の俺にはできない。


 左腕だけで無理に引けば、制限帯が運動を止める。


 脚で蹴り上げれば、梁が相手の身体へ落ちる危険がある。


 俺は梁の下を見る。


 右脚を直接押さえているわけではない。


 梁と床の間に、三角形の固定具が挟まっている。


 固定具の片側だけが床へ接続され、梁の重量を増幅していた。


「自分で立てるか」


「脚が抜ければ」


「俺が合図したら、左へ転がれ」


「梁を持ち上げるんですか」


「持ち上げない」


 俺は梁の端へ右足をかけた。


 持ち上げるのではなく、回す。


 梁の支点をずらし、三角形の固定具へかかる重量を一瞬だけ抜く。


 右肩を動かさないよう、身体を正面へ向けたまま脚へ力を込める。


「三」


 左足で床を踏む。


「二」


 右足の踵を梁へ押しつける。


「一」


 体重を一気に移した。


 梁が持ち上がるのではなく、床の上で十五度だけ回転する。


 固定具が外れた。


「今だ!」


 救助対象が左へ転がる。


 右脚が梁の下から抜けた。


 固定具を失った梁が床へ落下し、試験路全体が揺れる。


 俺は右脚を引き、衝撃を避けた。


『救助対象、拘束解除』


『救助対象の自力移動能力を確認』


「立てるか」


 救助対象が右脚へ力を入れる。


 一度、膝が崩れた。


「走るのは無理です」


「歩ける?」


「支えがあれば」


 右肩は使えない。


 左腕で肩を貸すことも、制限上は許されていない。


 俺は救助対象へ背を向け、腰を落とした。


「背中に乗れ」


「腕は」


「俺の首には回すな。制服の背中を掴め」


「でも、肩を怪我しているんですよね」


「よく見てるな」


「警告表示が出ています」


「なら、右肩へ体重をかけないように乗れ」


「簡単に言わないでください」


「残り四十秒を切ってる」


 救助対象は迷いながらも、俺の背へ身体を預けた。


 両手で制服の腰部分を掴む。


 脚を俺の腹部へ回す。


 重さは五十二キログラム。


 上半身へ荷重が集中しないよう、腰を低く保つ。


『救助対象の保持を確認』


『八百メートル地点通過』


『経過時間、十九・四八秒』


 残り千六百メートル。


 残り時間、四十・五二秒。


 一人を背負った状態で、平均秒速三十九・五メートル以上を維持しなければならない。


「少し揺れるぞ」


「少しで済みますか」


「努力する」


「その言い方、不安です」


「俺もよく言われる」


 床を蹴った。


 荷重が増えた分、加速は鈍い。


 それでも、秒速四十二メートルまで上げる。


 救助対象の指が制服へ食い込んだ。


「速い!」


「目を閉じるな」


「どうしてですか!」


「前を見て、障害を教えてくれ」


「救助対象に仕事をさせるんですか!」


「助けられる側が何もできないって、誰が決めた」


 背中の相手が息を呑む。


 すぐに前方を見る。


「右側の床、色が違います!」


「距離は」


「百二十メートル先!」


「次は」


「天井に線! 三本!」


 救助対象の声に合わせ、進路を変える。


 色の違う床が落下した。


 天井から三本の刃が降りる。


 俺一人では、背後にある死角まで同時には見られない。


 二人なら見える。


 救助する者と、救助される者。


 その役割を固定する必要はない。


『救助対象との共同判断を記録』


『個別行動特性を追加』


     ◇


 千六百メートル地点。


 透明な箱の中へ、一枚の学生証が浮かんでいた。


 ――未確定学籍原本。


 ――取得条件。


 ――本人による直接保持。


「本人って、誰の本人だ」


 俺が箱へ近づく。


 表示が更新される。


 ――審査対象者本人。


 つまり、俺が自分の身体で持たなければならない。


 救助対象へ預けることはできない。


 左手なら、物を掴む動作だけは許可されている。


 問題は、箱だった。


 蓋。


 取っ手。


 解除装置。


 どれもない。


 表面には一つだけ、黒い円がある。


 触れれば開くのか。


 それとも、別の障害が始まるのか。


「残り時間、二十四秒です」


 背中の救助対象が言った。


「分かってる」


「私を下ろした方が」


「立てるのか」


「無理です」


「なら、そのままだ」


 俺は箱の周囲を一周する。


 正面に黒い円がある。


 側面にも同じもの。


 背面。


 底面。


 上面。


 合計六つ。


 どれが正解かを選ぶ構造ではない。


 六面全てに同じ印があるなら、箱の向きを定める基準が存在しないということだ。


 俺は透明な箱を蹴った。


 破壊するためではない。


 回転させるために。


 箱が床の上を転がる。


 一回。


 二回。


 三回目で、内部の学生証が箱の壁へ触れた。


 その瞬間、黒い円が全て白へ変わる。


『学籍原本による内側からの接触を確認』


『保管箱を開放』


 箱が六枚の透明板へ分かれた。


 学生証が空中へ落ちる。


 左手で掴む。


 制限帯が一度だけ白く光った。


『左手把持動作、許可範囲』


『未確定学籍原本、取得』


「行くぞ」


「はい!」


 残り八百メートル。


 時間は二十・一一秒。


 必要平均速度、秒速三十九・八メートル。


 今の俺は一人を背負い、左手に学生証を持っている。


 右腕は使えない。


 左腕は振れない。


 最初と同じ速度では走れない。


 それでも、間に合わない数字ではない。


 俺は走り出した。


     ◇


 千八百メートルを越えたところで、試験路の形が変わった。


 床が三つに分かれる。


 左。


 中央。


 右。


 それぞれの入口へ条件が表示された。


 ――左経路。


 ――救助対象のみ通過可能。


 ――中央経路。


 ――学籍原本のみ通過可能。


 ――右経路。


 ――審査対象者のみ通過可能。


「三つに分かれろってことか」


「無理です」


 背中の救助対象が言う。


「私は一人です。学生証も一枚。あなたも一人」


「見れば分かる」


「どうするんですか」


 三つの経路は、互いに白い壁で隔てられている。


 出口は二百メートル先。


 条件どおりなら、俺たちは別々に進める。


 だが、最終到達条件は、救助対象と学籍原本の双方を俺が保持した状態で通過すること。


 一度分かれたあと、出口で合流できる保証はない。


 俺は右経路へ足を向けた。


「右へ行くんですか」


「ああ」


「私は通れません」


「俺も、一人では通らない」


 入口の判定膜へ近づく。


 ――審査対象者を確認。


 ――救助対象の混入を確認。


 ――学籍原本の混入を確認。


 ――通過拒否。


「何をするんですか」


「条件を確かめた」


 拒否は、三者が同時に存在することが理由だった。


 つまり、入口は俺たちを区別できている。


 俺は救助対象へ尋ねる。


「お前の名前は?」


「試験用個体に、氏名は設定されていません」


「今、自分を何だと思ってる」


「救助対象です」


「それだけか」


「……帝都時律大学の学生役です」


「役じゃなくて、お前自身は」


 相手は黙った。


 試験用に作られた存在。


 助けられるために配置され、試験終了後には消えるかもしれない。


 それでも、今ここで考え、答えている。


「分かりません」


「なら、今決めろ」


「何を」


「俺と一緒に進むか」


「それは、救助対象として?」


「違う」


 俺は右経路を見る。


「同行者としてだ」


 背中の相手の指が、制服を強く掴んだ。


「進みます」


「自分で?」


「はい」


「なら返事をしろ」


 俺は入口へ向かう。


「ここにいるのは、誰だ」


「審査対象者、黒瀬零」


「ほかには」


「同行を選んだ、氏名未設定の一名」


「学生証は」


「黒瀬零が保持する学籍原本です」


 判定膜が揺れた。


 ――救助対象。


 ――本人回答により、固定役割を離脱。


 ――現在区分。


 ――同行者。


 ――右経路条件を再照合。


 ――審査対象者と、その保持物および同行者。


 白い膜が開いた。


「通った」


「自分で驚くな」


「解法があるとは思っていた。でも、本当に通るかは別だ」


「それ、九条さんに怒られませんか」


「似てきたな」


 右経路へ踏み込む。


 残り時間、十二・七三秒。


 残り距離、六百メートル。


 必要平均速度、秒速四十七・一メートル。


 ここまでで最も速く走らなければならない。


「しっかり掴まれ」


「はい!」


 腰を落とす。


 右肩の固定具が警告音を発した。


 衝撃値は八十二パーセント。


 まだ動ける。


 足だけで加速する。


 秒速四十メートル。


 四十八。


 五十五。


 十六メートル区間の最大走行速度、秒速六十九・四メートル。


 背中の相手が息を止める。


 学生証を持つ左手は、胸元へ固定した。


 残り四百メートル。


 時間、七・八秒。


 前方の床へ、無数の白い円が現れる。


 踏んだ場所だけが消える。


 一度踏み切った足場は戻らない。


 背中に一人。


 片腕は固定。


 やり直しはない。


「足場、右前方に三つ!」


「次は」


「左へ二つ! その先、中央!」


 同行者の声を聞きながら、白い円の間を走る。


 右。


 左。


 中央。


 足を置いた直後、床が消える。


 次の一歩を止めれば落ちる。


 残り二百メートル。


 時間、三・九秒。


 最大走行速度は、秒速七十一・二メートル。


 右肩衝撃値、九十一パーセント。


 警告音が連続する。


『医療制限値へ接近』


『減速を推奨』


「減速したら間に合わない!」


 背中の相手が叫ぶ。


「分かってる」


「なら、どうするんですか!」


「間に合わせる」


 最後の百メートル。


 床がない。


 終着点まで、幅十八メートルの空白が開いていた。


 助走距離は二十六メートル。


 普通に跳べば、着地時の衝撃が右肩へ伝わる。


 警告値を超えれば失格。


 跳ばなければ時間切れ。


「私を下ろしてください!」


「無理だ」


「一人なら届くでしょう!」


「最終条件を忘れたのか」


「でも、失格になります!」


「ならない」


 左足。


 右足。


 最後の二歩で歩幅を狭める。


 上へ跳ばない。


 前へ飛ぶ。


 空中で身体を捻らず、右肩を背中側へ固定する。


 同行者の重量を腰と両脚で受ける。


 着地は踵からではない。


 右足の前部。


 左足。


 膝を深く曲げ、衝撃を前方への回転へ変える。


 右肩を床へつけず、そのまま一回転する。


 背中の同行者を抱えてはいない。


 相手自身が俺の制服を掴み、離れずについてくる。


 左手の学生証も落とさない。


 立ち上がる。


 前方に、終着線。


 残り十二メートル。


 時間表示。


 ――〇・四一秒。


 床を蹴る。


 終着線を越えた。


『第一実技、終了』


『到達時刻』


 数字が浮かぶ。


 ――五十九・八二秒。


 残り、〇・一八秒。


 右肩の衝撃値。


 ――九十八・七パーセント。


 失格基準を、一・三パーセント下回っていた。


『救助対象を確認』


『訂正』


『本人回答により、同行者として記録』


『未確定学籍原本を確認』


『審査対象者本人による保持を確認』


『第一実技』


『合格』


 足から力が抜ける。


 その場へ膝をつこうとして、右肩の警告を思い出した。


 左膝だけを床へ下ろす。


「間に合った……」


 背中から降りた同行者が、俺の前へ回る。


「怪我は?」


「元から怪我してる」


「増えましたか」


「神代先生に聞かないと分からない」


「怒られますね」


「間違いなく」


 同行者が小さく笑った。


「でも、ありがとうございました」


「試験だから助けたと思うか」


「違うんですか」


「お前が一緒に進むって答えたからだ」


「それは、試験の中で聞かれたことです」


「答えたのはお前だ」


 同行者は自分の手を見る。


 救助対象として作られた存在。


 名前はない。


 学籍もない。


 それでも、試験路を越えると自分で決めた。


「私の回答も、残りますか」


「残る」


『同行者回答を、第一実技記録へ付記』


 試験路の声が答えた。


 同行者は表示を見上げる。


「本当に残りました」


「ああ」


「試験が終わったあとも?」


『保存期間、未定』


「未定か」


「帝都神律大学みたいになってきましたね」


「誰に教わった」


「あなたです」


 出口の扉が開く。


 俺は立ち上がり、同行者と一緒に外へ出た。


     ◇


 観測席へ戻ると、最初に見えたのは神代緋月の顔だった。


「黒瀬零」


「合格した」


「そういう話をしている顔に見えるか」


「見えない」


「右肩衝撃値九十八・七パーセント」


「超えてない」


「九十八・七パーセントだ」


「一・三パーセント余裕がある」


「それを余裕とは呼ばない」


 緋月が俺の固定具へ観測端末を当てる。


 追加損傷の表示は出なかった。


 右肩の位置も、開始前から〇・三ミリメートルしか変化していない。


「悪化してない」


「運がよかっただけだ」


「計算した」


「お前の身体を、計算が正しいことを証明する実験材料にするな」


「はい」


「返事だけは改善したな」


 灯が俺の隣へ駆け寄ってくる。


「お兄ちゃん!」


「ただいま」


「遅い!」


「間に合った」


「〇・一八秒しか残ってなかった!」


「観測できたのか」


「全部見てたよ!」


 灯は怒りながら、俺の右肩へ触れないよう制服の袖を掴んだ。


「途中で救助対象の人と話し始めるし、道を三つに分けられても止まるし、最後は床がないのに跳ぶし……!」


「同行者だ」


「何が?」


「救助対象じゃなくなった」


 俺の後ろから、氏名未設定の同行者が姿を見せる。


 灯は目を丸くした。


「試験が終わっても残ってる」


「本人回答が記録されたため、終了後の即時消去処理が保留されています」


 文乃が書類板を確認する。


「救助用実体投影が、試験途中に自ら役割変更を申請した前例はありません」


「消える予定だったの?」


 灯が同行者へ尋ねる。


「そうだったようです」


「嫌?」


「まだ分かりません」


「なら、今は残ればいいよ」


 《第四学籍》が灯を見る。


「俺と同じ回答だ」


「真似してないよ」


「否定していない」


 同行者は《第四学籍》を見た。


「あなたも、役割を終えたあとに残ったのですか」


「今は、そう記録されている」


「では」


 同行者は少し考える。


「私も、今は残ります」


 文乃の書類板へ新しい一行が加わった。


 ――救助用実体投影。


 ――暫定呼称、未設定。


 ――第一実技終了後も保存。


 ――本人回答。


 ――今は、残る。


「同行者が増えたな」


 朔夜が言った。


「最近の黒瀬は、出かけるたびに誰か連れて帰ってくる」


「俺が決めたわけじゃない」


「相手に選ばせた結果、増えている」


「それなら、黒瀬さんだけの責任ではありません」


 澄玲が言った。


「九条は黒瀬に甘いな」


「事実関係を整理しただけです」


「俺にも整理してくれ」


「天城先輩は今のところ、誰も連れて帰っていません」


「そういう話か」


 獅堂が巨大な観測盤を見上げる。


「他の結果が出たぞ」


 五つの試験区画。


 全員の記録が、中央画面へ表示されていた。


 ――第一到達者。


 ――《第四候補》。


 ――到達時刻、二十一・四三秒。


「速いな」


 俺が表示を見る。


 全行程二千四百メートルでの平均速度は、秒速百十一・九九メートル。


 障害対応と救助を含めた平均である。


 開始から八百メートルまでの平均速度は、秒速百四十九・八メートル。


 そして。


 壁が閉じる直前の二十四メートル区間で、最大走行速度が記録されていた。


 ――短距離最大走行速度。


 ――秒速七百四十二・六メートル。


 ――試験場基準、マッハ二・一七。


 ――記録区間、二十四メートル。


 ――継続時間、〇・〇三二秒。


 ――能力使用、なし。


 ――外部加速、なし。


 ――身体移動として記録。


「マッハ二を超えてる……」


 灯が表示を見上げる。


「ただし、二十四メートルだけです」


 澄玲が記録を読む。


「全行程をこの速度で走ったわけではありません」


「第一実技で急に得た力でもない」


 玄理が五件の身体記録を開く。


「前日の保全庫への移動では、第四候補は秒速六百八十メートル、試験場基準マッハ一・九八で射出された銀色の針に、発射後から追いついている」


 その時の記録が並ぶ。


 針の発射。


 第四候補の行動開始。


 追跡。


 側面からの接触。


 軌道変更。


「今回の最大値は、既存の実績と完全に同じではないが、矛盾するほど離れてもいない」


「強くなったんじゃなくて」


 灯が尋ねる。


「安全に測れる場所で、初めて短距離最大値まで記録された?」


「そうである」


 玄理は第四候補の身体情報へ視線を移す。


「さらに、第四候補には三年間の独立した生存期間と、現在の学籍記録へ対応しない運動履歴がある。速度の成立理由は存在する」


「身体は大丈夫なのか」


 獅堂が尋ねる。


「大丈夫ではない」


 緋月が答えた。


 第四候補の医療記録が開く。


 ――右大腿部、軽度筋線維損傷。


 ――左足関節、負荷蓄積。


 ――腱部伸長率、警戒域未満。


「二十四メートルなら出せた。出せたから、繰り返してよいという意味ではない」


「本人は?」


「止めても、もう走り終わっていた」


 緋月の声が一段低くなる。


「次に同じ出力を使えば、停止させる」


 観測記録が再生される。


 壁が試験路を横切る。


 第四候補は方向を変えなかった。


 壁が完全に進路を塞ぐより先に加速し、まだ残っていた幅一・四メートルの隙間へ飛び込んでいる。


 銀色の壁が閉じるまで、〇・〇〇九秒。


 身体を横向きにし、接触せず抜けた。


「見てから反応したのか」


 俺が尋ねる。


『行動分類を表示』


 ――壁出現後に加速開始。


 ――閉鎖前の隙間を視認。


 ――行動開始から隙間通過まで、〇・〇四一秒。


 ――出現後反応として記録。


 俺とは違う。


 俺は床の振動から、壁が現れる前に進路を変えた。


 第四候補は、壁が現れたあとに状況を把握し、閉じる前に突破した。


「第一判断」


 文乃が読み上げる。


「障害の構造解析より、閉鎖前の突破を優先」


 救助地点では、四百八十キログラムの梁を片手で持ち上げた。


 ただし、腕力だけで静止保持したわけではない。


 梁の端を一度持ち上げ、救助対象が脚を抜くまでの〇・四秒だけ保持している。


 救助対象を左肩へ担ぎ、学籍原本は制服の内側へ固定。


 三分岐では、条件判定膜へ触れる前に三枚の壁を蹴り砕き、直線路を作っている。


「規則違反ではないのか」


 俺が尋ねる。


「経路の破壊は禁止されていません」


 文乃が答えた。


「試験終了後の修繕費は?」


「主催十二大学の共同負担です」


「帝都神律大学にも来るのか」


 玄理が書類を一枚取り出した。


「既に処理を開始している」


「早いな」


「必要な手続きは、議論より先に終わらせるべきである」


「適切な判断です」


 文乃が即答した。


 第二到達者。


 ――採択領域離脱個体、黒瀬零。


 ――到達時刻、二十七・〇六秒。


 彼は最初の銀色の壁を避けなかった。


 壁が接触する直前、自分の座標を開始地点から四十一メートル先へ再指定している。


「`自証座標(アクシス・エゴ)`」


 採択領域から離脱した黒瀬零が、自らの存在位置を定める。


 壁に押されるのではない。


 身体で四十一メートルを走破したのでもない。


 次の瞬間には、本人が定めた別の座標へ立っていた。


 ――能力による位置変更。


 ――身体走行距離、〇メートル。


 ――速度換算、不可。


 ――マッハ換算、対象外。


「速く動いたわけではないのですね」


 澄玲が確認する。


「位置を定め直した結果である」


 玄理が答えた。


「身体速度へ加算してはならない」


 壁は、彼の固定座標を避けるように左右へ分かれた。


 だが、全てを能力で解決したわけではない。


 救助地点では、自分の座標と救助対象の座標を同一化しなかった。


 相手の位置を勝手に決めることになるからだ。


 本人へ、


『俺と同じ移動座標を選ぶか』


 と確認し、同意を得たあとで初めて接続している。


「現在の採択領域から離脱した理由が、行動へ反映されています」


 澄玲が言った。


「他者の存在位置を、本人の回答なしに決めない。その判断が全区間で一貫しています」


 第三到達者。


 ――三年前の黒瀬零。


 ――到達時刻、三十四・八八秒。


 彼は開始後〇・二秒、その場から動かなかった。


 床の収納機構を観測し、銀色の壁が通過したあとに生まれる保守用通路へ入った。


 救助地点では梁を動かさず、床の緊急解除装置を使用。


 未確定学籍原本の箱も破壊せず、三年前に同型の設備で使われていた保守番号を入力して開いた。


「知識と記憶を優先した」


 帝都理法大学の黒瀬零が記録を見る。


「過去の俺なら選びそうな方法だ」


「だが、お前は選ばなかった」


 三年前の黒瀬零が答える。


「今の俺には、まだ使える過去がある」


 第四到達者。


 ――帝都理法大学、黒瀬零。


 ――到達時刻、四十二・一一秒。


 最初の壁では、試験路の右端へ移動。


 壁が非常用避難幅として残していた二十五センチメートルの空間へ身体を通した。


 救助地点では、梁を動かす前に救助対象の学籍状態を確認している。


 救助用実体投影を一時的な共同受講者として登録し、試験設備へ自力救出権限を与えた。


 救助対象自身が床の解除装置を操作し、梁を外す。


 三分岐では、


 ――審査対象者。


 ――同行救助者。


 ――保持学籍原本。


 三者を一件の共同履修単位として申請し、中央経路を通過した。


「最後まで書類か」


 第四候補が言った。


「必要な手続きを行っただけだ」


 帝都理法大学の黒瀬零が答える。


「走ってる途中でも?」


「走っているからといって、制度が消えるわけではない」


「お前らしいな」


「褒めているのか」


「違うと確認している」


 そして、第五到達者。


 ――帝都神律大学、黒瀬零。


 ――到達時刻、五十九・八二秒。


 俺。


 最も遅い。


 最も制限時間に近い。


 最大走行速度も、第四候補には遠く及ばない。


 救助対象の区分を本人回答によって同行者へ変え、最後まで背負って走った。


「五人とも、選んだ方法が違います」


 澄玲が観測結果を確認する。


「速度、能力、制度、過去の知識、他者との関係。それぞれが異なる基準を優先しています」


 中央画面へ、五本の線が表示された。


 第一判断。


 救助方法。


 学籍原本の取得方法。


 三分岐の突破方法。


 最終区間の速度配分。


 どの項目も、完全には一致していない。


『第一実技結果を集計』


『審査対象、五件』


『成功、五件』


『行動経路一致率』


 数字が現れる。


 ――第一件と第二件、三・一パーセント。


 ――第一件と第三件、五・七パーセント。


 ――最大一致率。


 ――十二・四パーセント。


『五件の個別性』


『暫定確認』


『身体記録』


『個別観測を完了』


『本実技による新規身体能力の付与』


『なし』


『既存記録を上回った項目』


『成立距離、継続時間、身体履歴および損傷情報を併記して保存』


 灯が息を吐いた。


「全員、別の人だって認められた?」


「暫定的には」


 文乃が答える。


「第一実技で確認されたのは、同じ条件に対して異なる判断を行ったことです。学籍の完全な独立には、残りの実技が必要です」


「でも、一つ進んだ」


「はい」


 中央画面へ、もう一つの項目が現れた。


『共通行動を検出』


 全員の表情が変わる。


「一致率は低かったんじゃないのか」


 俺が尋ねる。


『五件全てが、救助対象へ本人回答を要求』


 第四候補の記録。


 梁を持ち上げたあと、救助対象へ尋ねている。


『走れるか。それとも担がれる方を選ぶか』


 採択領域から離脱した黒瀬零。


『俺と同じ座標を選ぶか』


 三年前の黒瀬零。


『解除装置を使う。自分で出るか、俺が引くか』


 帝都理法大学の黒瀬零。


『共同受講者として登録される意思はあるか』


 そして俺。


『俺と一緒に進むか』


 言葉も。


 方法も。


 選択肢も違う。


 それでも、五人全員が、助ける前に相手の答えを聞いていた。


『共通行動理由を照合』


 画面上に五つの回答が開く。


 第四候補。


 ――自分の意思を聞かれず、処分された経験による。


 帝都理法大学の黒瀬零。


 ――三年前に、本人へ確認せず処分を決定した反省による。


 三年前の黒瀬零。


 ――過去の記憶だけで現在の本人を決めないため。


 採択領域から離脱した黒瀬零。


 ――本人の座標を、外部から決定しないため。


 俺。


 ――助けられる側であっても、本人の選択は残るため。


『結論』


『行動は一致』


『理由は不一致』


『同一個体判定の根拠としない』


「同じことをしても」


 灯が五つの回答を読む。


「同じ人ってことにはならないんだね」


「はい」


 澄玲が答える。


「共通点があることと、同一人物であることは別です。同じ結論へ至っても、前提と論証が違えば、それぞれの回答として成立します」


「逆に」


 朔夜が言った。


「違うことを証明するために、わざと反対の答えを選ぶ必要もない」


「そのとおりです、天城先輩」


「今回は訂正されなかったな」


「正しい発言まで訂正しません」


「安心した」


 五件の学籍表示が、僅かに離れた。


 これまで互いに重なり合っていた学生番号。


 氏名。


 履修情報。


 それぞれの間へ、細い空白が生まれる。


 完全な分離ではない。


 だが、一件へまとめられてもいない。


 五人は、同じ名へ繋がったまま、別々の位置へ立ち始めていた。


     ◇


 第一実技の終了から、二十分後。


 第二実技の会場が開いた。


 円形の競技場。


 直径百二十メートル。


 床には大学章も、時刻表示もない。


 中央に一本の白線が引かれている。


 片側へ俺。


 もう片側へ、第四候補。


 観測席から、灯たちが見下ろしている。


「本当に続けてやるのか」


 俺が文乃へ尋ねる。


「第一実技の結果により、対抗組合せが正式に確定しました」


「休憩は二十分だけ?」


「通常は一時間です」


「短くなった理由は」


「未来申請との対応が進行しているためです」


 緋月が第四候補の前へ立つ。


 左足首へ固定帯を巻き、右大腿部へ冷却処置を施していた。


「治ったわけではない」


「動ける」


「それも治癒を意味しない」


「試合を止めるのか」


「短距離最大加速を無制限に使わせるつもりはない」


 緋月が医療条件を表示する。


 ――第四候補。


 ――短距離高出力移動、最大三回。


 ――一回あたりの継続時間、〇・一秒未満。


 ――左足関節への追加負荷が基準を超えた場合、医療停止。


「三回あれば十分だ」


「そういう使い方をするな」


「勝つための試験だろ」


「殺さず、壊れずに勝つ試験だ」


 俺の制限も並ぶ。


 ――右腕、使用禁止。


 ――左腕、打撃および体重支持禁止。


 ――`命題(テーゼ)`、使用禁止。


 ――右肩衝撃値が基準を超えた場合、医療停止。


 競技場上空へ、六枚の署名欄が投影された。


 空白の第六署名欄。


 その下に、新しい条件が現れる。


 ――第六署名者。


 ――成立申請準備中。


 ――必要記録。


 ――既存の黒瀬零が。


 ――別の黒瀬零に敗北し。


 ――敗北後も、敗者として消失しないこと。


「勝った方が本物になる試験ではない」


 第四候補が表示を読む。


「ああ」


「負けた方も残ることを証明する」


「その敗北が、第六の黒瀬零を作る材料になる」


「気に入らないな」


「何が」


「俺たちの勝敗を、まだいない誰かに使われることだ」


「同感だ」


「なら、試合を拒否するか」


 俺は観測席を見る。


 灯。


 澄玲。


 朔夜。


 獅堂。


 玄理。


 緋月。


 文乃。


 《第四学籍》。


 第一実技で同行者となった、名前のない一人。


 そして、別の入口で待つ三人の黒瀬零。


 ここで拒否すれば、第六署名者の成立は進まない。


 だが、第四候補の学籍再審査も進まない。


「拒否しない」


「未来のためか」


「今のお前のためだ」


「俺は頼んでいない」


「俺も、お前を救うとは言ってない」


「では、何のために戦う」


「どちらが負けても、負けた本人のまま残ることを証明する」


 第四候補が拳を握る。


 前日の傷が治ったわけではない。


 第一実技の損傷も残っている。


 それでも。


 三年間を身体だけで生き抜き、秒速六百八十メートル、マッハ一・九八の針へ発射後から追いついた運動履歴。


 二十四メートルに限れば、秒速七百四十二・六メートル、マッハ二・一七まで加速した身体。


 それらは、第一実技が新しく与えたものではない。


 既に第四候補が持っていたものだ。


 一方の俺は、右腕を固定されている。


 左腕による攻撃も禁止。


 能力も使えない。


 右肩への衝撃値が規定を超えれば、即時停止。


 条件だけを見れば、圧倒的に不利だった。


「黒瀬零」


 神代緋月の声が競技場へ届く。


「制限は変わらない」


「分かってる」


「右腕を使うな」


「ああ」


「左腕で攻撃するな」


「ああ」


「`命題(テーゼ)`を使うな」


「ああ」


「右肩衝撃値が基準を超えた場合、私の判断で試合を停止する」


「分かった」


「第四候補」


 緋月の視線が相手へ移る。


「黒瀬零の負傷箇所を狙うことは、禁止しない」


 灯が立ち上がった。


「緋月先生!」


「これは実技審査だ。負傷を抱えたまま参加するなら、その弱点も現在の黒瀬零を構成する条件になる」


「でも」


「ただし、殺傷または回復不能な損傷を目的とした攻撃は、私が止める」


 第四候補は緋月を見上げた。


「手加減しろということか」


「違う」


 緋月は冷たく答える。


「殺さずに勝てと言っている」


「十分だ」


 白線の中央へ、試験規則が表示される。


 ――第二実技。


 ――同名対象間対抗戦。


 ――第一試合。


 ――帝都神律大学、黒瀬零。


 ――対。


 ――暫定識別名、《第四候補》。


 ――勝利条件。


 ――相手の降参。


 ――十秒間の行動不能。


 ――競技場外への排出。


 ――医療判断による試合停止。


 ――能力使用。


 ――第四候補、制限なし。


 ――黒瀬零、医療上の使用禁止。


 ――速度記録。


 ――身体移動と予測行動を分離。


 ――第一実技との差が生じた場合、距離、継続時間、負荷条件を併記。


「不公平ですね」


 澄玲が観測席で言った。


「だが、同じ条件にする試験ではない」


 朔夜が答える。


「第一実技とは違う。今の二人が、今持っているものを全部含めて戦う」


「黒瀬さんには、持っていても使えないものがあります」


「それも今の黒瀬だ」


「理解しています」


 澄玲は競技場の俺を見た。


「だから、使えるものだけで答えを出すのです」


「九条は、黒瀬が勝つと思ってるのか」


「勝敗はまだ分かりません」


「なら、何を信じてる」


「黒瀬さんが、自分を壊すこと以外の答えを選べると信じています」


 開始線へ立つ。


 第四候補との距離、六十メートル。


 相手は構えを取らない。


 両腕を自然に下ろし、こちらを見ている。


 俺も腕は使えない。


 足を肩幅に開く。


 重心を僅かに落とす。


「一つ聞く」


 第四候補が言った。


「何だ」


「俺が勝ったら、お前は俺を黒瀬零と認めるか」


「お前がそう名乗るなら」


「負けても?」


「ああ」


「俺がお前を否定しても?」


「それはお前の答えだ」


「なら」


 第四候補が左足を半歩前へ出す。


「遠慮なく勝つ」


「こっちの台詞だ」


 開始表示が浮かぶ。


 三。


 二。


 一。


『第二実技、開始』


 第四候補が床を蹴った。


 六十メートルの間合いが、一息の間に消える。


 ――六十メートル区間平均速度。


 ――秒速七百〇五・九メートル。


 ――試験場基準、マッハ二・〇六。


 ――第一実技最大値との差。


 ――マイナス四・九パーセント。


 ――新規出力上昇、なし。


 第一実技の二十四メートル加速より、区間平均速度は低い。


 だが、今回は六十メートル近くを高出力のまま走っている。


 それでも、第一実技で得た新しい力ではない。


 既に記録された短距離最大値の範囲内で、継続距離を伸ばしただけだ。


 動き始めた第四候補を見てからでは、間に合わない。


 だから俺は、開始表示が消える前から相手の足を見ていた。


 左足へ加わる圧力。


 骨盤の傾き。


 視線が俺の右肩ではなく、左脇へ向いたこと。


 踏み込み方向は読めていた。


 第四候補の到達まで、約〇・〇八五秒。


 俺は相手が動き始めるより先に、半歩だけ前へ出ていた。


 第四候補の拳が、俺の左脇腹へ迫る。


 右肩を狙わない。


 まず身体の軸を崩し、次の一撃で場外へ飛ばすつもりだ。


 俺は後ろへ下がらなかった。


 拳が最大速度へ達する前。


 第四候補の肘が伸び切る前。


 左足の外側へ、自分の右足を差し込む。


 腕は使わない。


 肩も動かさない。


 相手の速度を止めるのではなく、進行方向を三度だけ外側へずらす。


 拳が脇腹を掠めた。


 衝撃だけで制服が裂ける。


 俺の身体は回転する。


 だが、倒れない。


 第四候補の足が、俺の右足へ触れた。


 秒速七百メートルを超えて進んでいた身体が、僅かな角度のずれによって白線の外側へ流れる。


 第四候補は床を踏み抜き、無理やり停止した。


 競技場へ亀裂が走る。


 開始から、〇・一二秒。


 二人とも立っている。


「見えていたのか」


 第四候補が尋ねる。


「動く前はな」


「動いたあとは?」


「見失った」


「正直だな」


「でも、避けた」


「ああ」


 第四候補が笑った。


「それなら、予測できない形で行く」


 腰を落とさない。


 足を大きく引かない。


 視線も固定しない。


 踏み込み前の予備動作を、限界まで小さくする。


 緋月の医療表示が更新された。


 ――高出力移動、一回使用。


 ――残り二回。


 ――左足関節、追加負荷六・三パーセント。


 第四候補の次の加速が始まる。


 今度は六十メートルを走る必要がない。


 残っている距離は、二十一メートル。


 ――二十一メートル区間最大走行速度。


 ――秒速七百六十三・五メートル。


 ――試験場基準、マッハ二・二三。


 ――第一実技最大値との差。


 ――プラス二・八パーセント。


 ――増加理由。


 ――運搬荷重なし。


 ――直線区間。


 ――継続時間、〇・〇二七秒。


 ――身体負荷、増大。


 数字だけなら、第一実技を上回っている。


 だが。


 急に強くなったわけではない。


 荷物も救助対象もなく、二十一メートルだけに全出力を集中した結果だった。


 その代償として、第四候補の左足首へ赤い警告が灯る。


 俺の視界から、第四候補の輪郭が消えた。


 今度は、動き始める前の兆候さえほとんど残っていない。


 次の一撃が来る。


 そして。


 この試合で最初に負ける黒瀬零が、まだ存在しない六人目へ最初の輪郭を与える。

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