第五十一話 同じ夜を越えて、違う朝へ
帝都神律大学へ戻った時、約束の四十分を一分二十六秒超過していた。
《履修連絡路》の終点は、《未定義現象研究室》の扉へ直接接続されている。
銀色の床が途切れる。
見慣れた研究室。
積み上げられた資料。
壁際に並ぶ観測端末。
その中央で、神代緋月が腕を組んで待っていた。
「遅い」
「一分くらいだろ」
「一分二十六秒だ」
「測ってたのか」
「黒瀬零。お前は、自分の身体が今どの程度壊れていると思っている」
「走れる程度」
「その回答をした時点で、自己判断権を一部停止する」
「そんな権限があるのか」
「今、作った」
帝都時律大学へ優先経路を通した時と同じことを言っている。
緋月は俺の反論を待たず、白衣の袖から細い観測具を伸ばした。
青白い輪が、右肩から左手首までを通過する。
固定具の内側。
骨。
筋肉。
腱。
学生証へ記録された負傷情報まで、一つずつ表示された。
――右肩関節、固定状態から二・七ミリメートル逸脱。
――右鎖骨周辺、負荷増大。
――左前腕、筋線維損傷再発。
――左手掌、把持力低下。
――全身衝撃値、許可基準の一・八倍。
「二・七ミリだぞ」
俺が言う。
「人体では十分な悪化だ」
「戻せばいい」
「部品の位置を直す話ではない」
「痛くはない」
「痛覚を判断基準にするな」
「でも動く」
「それを今から動かなくする」
右肩の固定具が強く締まった。
「痛い」
「正常な反応だ」
「さっき痛覚を基準にするなって」
「黙れ」
灯が俺の隣で小さく笑った。
「お兄ちゃん、完全に怒られてるね」
「灯。お前からも止めろ」
「止めたよ。何回も」
「もっと強く」
「私がお兄ちゃんを止められるなら、通知が三十一件も来てないよ」
「今は三十四件だ」
緋月が訂正する。
「増えたのか」
「帰還中に三件追加した」
「何の通知だ」
「一件目は、走るな。二件目は、右腕を動かすな。三件目は、帰ったあと軽口を叩くな」
「最後は今作っただろ」
「作った」
緋月の後ろでは、御厨玄理が机へ書類を並べていた。
隣には、三年前の黒瀬零。
採択領域から離脱した黒瀬零。
二人とも《第零学部》の暫定滞在者として、正式な学籍を持たないまま研究室に残っている。
三年前の俺は椅子へ座り、届いたばかりの申請資料を読んでいた。
採択領域から離脱した俺は、部屋の隅へ自分の位置を固定するように立っている。
俺。
第四候補。
帝都理法大学の黒瀬零。
三年前の黒瀬零。
採択領域から離脱した黒瀬零。
現在確認されている、五件の署名候補。
同じ顔が一つの部屋へ集まっていた。
「増えたな」
俺が言う。
「お前が連れてきた」
三年前の俺が資料から目を上げる。
「帝都理法大学の俺は、そっちの責任だろ」
「第四候補と《第四学籍》は、お前の責任か」
「違う」
「なら、誰の責任だ」
「共同責任にするな」
「黒瀬零が多いと、会話が進みませんね」
澄玲が小さく息を吐いた。
「今の会話で、誰が誰へ責任を求めているのか記録できますか?」
文乃が銀色の書類板を見た。
「できますが、必要ですか?」
「必要ありません」
「なら記録しません」
玄理が文乃へ一枚の書類を渡す。
「綴木。先ほど送られた《未来学籍先行保全申請》の写しである。帝都神律大学側で確認できた学籍情報を付記してある」
「ありがとうございます、御厨先生」
文乃は受け取り、すぐに内容を確認する。
「現在の黒瀬さん以外の二件についても、署名候補との対応が取れたのですね」
「暫定的には取れた。ただし、対応が取れたことと、未来に署名する本人であることは別である」
「承知しています」
「また、共同学籍網が《第四学籍》を署名候補として認識した件にも注意が必要だ」
《第四学籍》が、三枚の《異議付記欄》を抱えたまま玄理を見る。
「俺は、六件の署名者に含まれていない」
「正式な申請書には含まれていない」
「では、なぜ保全庫へ向かう前に、俺を署名候補として認識した」
玄理が資料を開く。
――一時対応。
――不在署名候補の代理参照。
「《第四学籍》は、失われた三件を一件として数えるために作られた。その内部には、複数の黒瀬零へ接続し得る履修情報が残っている」
「三年前の黒瀬零と、採択領域から離脱した黒瀬零の代理として誤認された?」
「二件のどちらか、または両方である。共同学籍網は、不在の署名候補に最も近い記録として、お前を一時的に対応させた」
「俺自身の署名ではない」
「そうだ」
《第四学籍》の輪郭が僅かに揺れる。
「俺は、また誰かの代理だった」
「今回は、代理を選んだのはお前ではない」
玄理は淡々と告げる。
「それに、正式な署名者ではないことは、価値がないことを意味しない。お前は申請の対象ではなく、経緯を記録する証人として保存されている」
「証人」
「現在のお前が、それを望むならだ」
《第四学籍》は三枚の白紙を見る。
自分の役割。
自分の意思。
その区別を確かめるように、しばらく黙った。
「今は、証人として残る」
「記録しました」
文乃が書類板へ入力する。
代理記録としてではない。
《第四学籍》本人の現在回答として。
その一行が追加された。
◇
緋月による検査は、二十分以上続いた。
その間、俺は椅子へ座らされ、右腕を追加固定され、左腕にも黒い帯を巻かれた。
帯の表面へ、使用制限が表示される。
――左腕。
――把持動作のみ許可。
――打撃、投擲、強制的な牽引を禁止。
――体重支持、最大二十パーセント。
――警告値超過時、運動機能を自動停止。
「最後の機能は聞いてない」
「今説明した」
「腕を勝手に止めるのか」
「止めなければ、お前が止まらない」
「明日の対抗戦は?」
「右腕の使用は禁止。左腕による攻撃も禁止。`命題`の使用は禁止。右肩へ規定値以上の衝撃を受けた場合、即時失格だ」
「ほとんど何もできないな」
「欠場という選択肢もある」
「それを選んだら、共同履修審査はどうなる」
文乃が答えた。
「現在の黒瀬さんが欠場した場合、五件の個別性を実技で確認できなくなります。審査そのものは継続できますが、黒瀬さんの学籍だけが他の四件と未分離のまま残る可能性があります」
「なら出る」
「だからといって、条件は緩和しない」
緋月が俺を見る。
「黒瀬零。明日の試験は、お前が一番強い黒瀬零だと証明する場ではない」
「分かってる」
「勝つために身体を壊せば、お前は自分の学籍を残す代わりに、自分の生活を失う」
「それも分かってる」
「分かっている者は、毎回同じことをしない」
「今回は違う」
「何がだ」
「右腕を使わない」
「それは私が固定したからだ」
反論できなかった。
灯が俺の左手を軽く握る。
帯が警告を発しない程度の力だった。
「お兄ちゃん」
「何だ」
「明日は、ちゃんと帰ってきて」
「試験会場から?」
「その身体から」
灯は真っ直ぐ俺を見る。
「勝っても、お兄ちゃんがまた別の何かになったら嫌だから」
未来の灯。
三年前の灯。
《第零学部》の学生だったかもしれない灯。
複数の学籍が見つかるたび、目の前にいる人物まで別の誰かへ置き換えられそうになる。
その恐怖は、灯だけのものではない。
「分かった」
「本当に?」
「ああ」
「緋月先生の警告に従う?」
「できる限り」
「お兄ちゃん」
「従う」
灯はようやく手を離した。
「記録しました」
文乃が言った。
「今のも?」
「本人による安全規定順守の回答として有効です」
「消せるか」
「消しません」
「御厨先生と本当に気が合うな」
「御厨先生の記録に対する姿勢は、先日お話しした際にも興味深いと感じました」
「じゃあ、仲良くなれそうだな」
「見解が一致するとは申し上げていません。議論が長期化する可能性が高いという意味です」
玄理が書類から顔を上げる。
「必要なら、今から始めるか」
「明日の試験後にしてください」
文乃は即答した。
「賢明な判断だ」
絶対に話が長くなる。
今は、それを確認する時間ではなかった。
◇
《未来学籍先行保全申請》の六枚の署名欄が、研究室中央へ投影された。
第一署名者。
帝都理法大学の黒瀬零。
第二署名者。
現在は《第四候補》と呼ばれている人物。
第三署名者。
現在の俺。
第四署名者。
三年前の黒瀬零。
第五署名者。
採択領域から離脱した黒瀬零。
第六署名者。
黒瀬灯が十九歳へ到達する七分前に、初めて個体として成立する黒瀬零。
五枚の署名欄は空白。
六枚目には、学籍番号すらない。
「未来の俺たちは、この申請へ署名する予定らしい」
三年前の俺が表示を読む。
「現在の俺たちは、まだ決めていない」
「その区別は重要です」
澄玲が言った。
「署名予定が存在するからといって、現在の皆さんが署名を約束したことにはなりません」
「それでも、未来の俺は黒瀬零を名乗っている」
第四候補が第二署名欄を見る。
「今の俺には名前がない。未来では、この名前を選ぶ可能性がある」
「嫌なのか」
俺が尋ねる。
「分からない」
「なら、今は決めなくていい」
「お前に言われると腹が立つな」
「灯にも同じことを言われてたぞ」
「だから余計にだ」
帝都理法大学の黒瀬零が、署名規則を開いた。
――六件の署名者は、互いに異なる理由によって同じ申請を選ぶこと。
「同じ黒瀬灯の学籍を六年前へ送る」
男は低く言う。
「行為は一つ。だが、そこへ至る理由は六件全て異ならなければならない」
「六人が同じ人物ではないことを、署名理由の違いによって証明する」
玄理が付け加える。
「同じ結果へ至ることは、同じ意思を持つことと同義ではない。異なる前提から同じ結論へ到達することもある」
「今の俺たちの理由は、既に違う」
第四候補が腕を組む。
「俺は、自分を誰かの重複として消されたくない」
帝都理法大学の黒瀬零が続ける。
「俺は、三年前に下した処分の責任を、自分以外へ渡したくない」
三年前の黒瀬零が、少し考えてから口を開く。
「俺は、過去の記憶を持つという理由だけで、現在の黒瀬零の過去へ固定されたくない」
採択領域から離脱した黒瀬零は、壁際から動かなかった。
「俺は、採択された世界から離れた選択を、事故や誤差として処理されたくない」
四人の視線が俺へ集まる。
「俺は」
灯を見る。
俺の妹。
今ここにいる黒瀬灯。
「自分で選んで、灯の隣にいたい」
「それ、私のためじゃないの?」
「お前の隣にいたいのは、俺の意思だ」
「昨日も言ってたね」
「ああ」
「答え、変わってない?」
「今はな」
灯が少し笑う。
「じゃあ、五人とも違う」
「正確には、第四候補はまだ黒瀬零を名乗っていません」
澄玲が言う。
「現在の個別性を確認する上では、その違いも重要です」
「問題は」
朔夜が壁へ寄りかかりながら、六枚目を見る。
「まだいない六人目だな」
――第六署名者。
――個体成立予定時刻。
――黒瀬灯、十九歳到達の七分前。
「七分前に生まれた人物が、他の五人と違う理由を持てるのか」
獅堂が尋ねる。
「生まれてから七分しか経っていないなら、経験もほとんどないだろう」
「個体成立が、誕生と同じとは限りません」
澄玲が答えた。
「それ以前の記憶や履歴を引き継ぐ可能性もあります」
「また誰かの記録から作られる?」
灯の表情が曇る。
「可能性の一つです」
「未来の私が作るのかな」
「現時点では分からない」
玄理が六枚目の署名欄へ触れる。
表示されたのは、前に確認した一文だけだった。
――黒瀬灯を救うためではない。
――黒瀬灯が、自分を救わない未来を選べるようにするため。
「未来の灯が第六署名者の成立に関わるとしても、それを今の灯の責任へ変換してはならない」
「分かってる」
灯はノートを胸元へ抱いた。
「今の私は、自分を救いたい」
「その回答は保全庫へ記録されています」
文乃が告げる。
「未来の学籍がどのような意思を持っていても、現在の灯さんの回答が上書きされることはありません」
「うん」
六枚の署名欄が閉じる。
未来の答えを、今夜決める必要はない。
明日証明しなければならないのは、署名するかどうかではなかった。
俺たちが互いの複製ではないこと。
同じ名前へ戻されなくても、それぞれが別の判断を持っていること。
その一点だけだ。
◇
「第一実技の規則を確認します」
文乃が別の資料を開いた。
――十二大学共同履修実技。
――第一実技。
――同一条件下における個別到達試験。
「審査対象は五件です」
「《第四学籍》は?」
灯が尋ねる。
「証人として観測席へ登録します。正式な署名候補ではないため、今回の個別到達試験には参加しません」
「異議はない」
《第四学籍》が答えた。
「俺は、五件が異なる行動を選ぶことを記録する」
文乃が試験条件を表示する。
――直線距離、二千四百メートル。
――制限時間、六十秒。
単純に走るだけなら、一秒あたり四十メートル。
時速にすれば百四十四キロメートル。
通常の学生を対象とした試験ではない。
だが、この課題で測られるのは最高速度だけでもなかった。
――第一障害地点。
――開始位置から八百メートル。
――救助対象、一名。
――第二障害地点。
――開始位置から千六百メートル。
――未確定学籍原本、一件。
――最終到達地点。
――開始位置から二千四百メートル。
――到達条件。
――救助対象と学籍原本の双方を保持した状態で、制限時間内に通過すること。
「それだけですか?」
澄玲が尋ねる。
「表面上は」
「障害の内容は?」
「非公開です」
「能力の使用は?」
「認められています。ただし、能力による位置変更と、本人自身の身体運動は別項目として記録されます」
文乃が観測項目を開く。
――持続走行速度。
――短距離最大加速。
――反応開始時刻。
――事前予測による先行動作。
――打撃速度。
――能力による位置変更。
――外部加速。
――損傷率。
――出力継続時間。
「かなり細かいな」
俺が言う。
「五件の身体記録が、まだ完全には分離されていないからです」
文乃の言葉に、三年前の黒瀬零が顔を上げた。
「俺たちの身体まで、一件として扱われているのか」
「一件ではない。だが、相互参照が残っている」
玄理が五件の観測記録を投影する。
骨格形状。
筋力。
反応履歴。
負傷。
過去の運動記録。
共通する項目の間に、銀色の線が伸びていた。
「三年前の共同履修審査以降、複数の黒瀬零に由来する身体情報は、一部が同じ起源記録へ接続されたままである。そのため、公開査問までに観測された数値にも、誰の身体履歴であるか未確定の項目が含まれている」
「明日の試験で、それを分ける?」
灯が尋ねる。
「分けるための観測資料を取る。試験を受けたから身体能力が上昇するわけではない」
玄理は断言した。
「新しい出力が与えられるわけでも、個別性を認められた報酬として制限が解除されるわけでもない。五件が元から持つ身体能力を、それぞれの履歴へ対応させ直すだけである」
「なら、公開査問の時より速い数値が出ることはないのか」
獅堂が尋ねた。
「あり得る」
答えたのは緋月だった。
「ただし、理由が必要だ」
「理由?」
「公開査問で長距離の最高速度を測ったわけではない。全力疾走が必要な場面も、短距離の最大加速を安全に記録できる環境もなかった」
緋月が試験路の構造を表示する。
衝撃吸収床。
多重防壁。
走行風圧を外へ逃がす排気路。
骨格と筋肉の損傷を継続測定する医療観測網。
「明日の試験路では、持続速度と数十メートルだけの最大加速を別々に測る。過去の数値を上回っても、それだけで急に強くなったとは判断しない」
「短い距離だけなら、普段より速く動ける?」
灯が聞く。
「可能な者はいる。ただし、持続できるとは限らない。直線で出せる速度と、救助対象を抱えて曲がれる速度も違う。移動速度が高くても、その速度で相手を見て判断できるとは限らない」
緋月の視線が第四候補へ移る。
第四候補の身体記録だけ、他の四件とは異なる箇所があった。
古い骨折痕。
筋繊維の再生痕。
関節周辺に蓄積した負荷。
同じ動作を繰り返した者にしか残らない、身体の摩耗。
「第四候補の身体には、現在の履修記録と対応しない運動履歴が大量に残っている」
「三年間の記録か」
第四候補が尋ねる。
「一部はそうだ。だが、それ以前の動作痕もある。何を経験して得た身体なのかは、まだ確定していない」
「強いかどうかも?」
「身体出力が高い可能性はある」
緋月はそこで言葉を切った。
「だが、耐えられるとは限らない」
「動けるなら問題ない」
「その考え方が最も問題だ」
緋月が第四候補の左脚を指す。
「筋肉が速度を出せても、腱や関節が同じ出力へ耐えられるとは限らない。高い数値が記録された直後に歩けなくなることもある」
「試験中に止めるのか」
「医療停止基準を超えれば止める」
「俺にも?」
「当然だ」
「俺は正式な学生ではない」
「患者であることに学籍は要らない」
第四候補が僅かに顔をしかめた。
「現在の黒瀬零は?」
灯が俺を見る。
「右腕と左腕の負傷がある。脚部出力まで一律に落ちているわけではないが、腕を振れなければ加速と姿勢制御へ影響する」
緋月は俺の身体情報を表示した。
「過去より高い数値を出す以前に、現在の身体で安全に出せる範囲が下がっている。試験路が補強されていても、黒瀬零の身体が補強されたわけではない」
「分かってる」
「今の説明を聞いて、速度を試そうと考えなかったか」
「少しだけ」
「失格基準を厳しくする」
「待て」
「今の回答を記録した」
文乃が銀色の書類板へ入力する。
「消してくれ」
「消しません」
「いい連携だな」
「褒めていないだろう」
緋月は俺を睨んだあと、観測項目へ戻る。
「もう一つ重要なのは、能力移動と身体速度を混同しないことだ」
採択領域から離脱した黒瀬零の足元へ、白い座標軸が表示される。
「`自証座標`によって位置を再指定しても、その距離を身体が走ったことにはならない」
「速度として記録されない?」
灯が尋ねる。
「そうだ。移動前後の時間が短く見えても、身体の走行速度や反応速度の根拠にはしない」
「先に危険を読んで避けた場合も同じです」
澄玲が付け加える。
「攻撃が始まる前に動いたのなら、それは予測による先行動作です。攻撃が始まった後に見て避けた反応とは分けて記録する必要があります」
「ずいぶん厳密だな」
朔夜が言う。
「誰かが急に強くなったように見えても、何が変わったのかを区別するためです」
「九条は、もう明日の観測官みたいだな」
「必要な確認です」
「そこは否定しない」
文乃が五枚の参加証を机へ置く。
「第一実技では、これらを全て個別に記録します。過去の身体記録より高い数値が出た場合も、距離、継続時間、補助能力、事前予測、身体損傷を併記します」
「数字だけでは強さを決めない?」
灯が尋ねる。
「はい。短い距離を一度だけ速く動けたことと、その速度で戦い続けられることは別です」
「試験が強くするのではない」
玄理が結論づける。
「それぞれが何を持っていたのかを、初めて混同せずに記録するのである」
採択領域から離脱した黒瀬零が表示を見る。
「五件全てへ、完全に同じ試験場が用意されるのか」
「はい。距離、障害、救助対象、学籍原本、開始時刻。全て同一です」
「それなら、同じ最適解へ到達する可能性がある」
三年前の黒瀬零が言った。
「同じ方法を選んだ場合、同一人物と判断されるのか」
「一つの行動が一致しただけでは、同一性の根拠になりません」
澄玲が答える。
「どの情報を認識し、どの順序で判断し、何を優先し、失敗へどう対応するか。試験では行動過程全体が比較されるはずです」
「意図的に違う行動を選べば?」
第四候補が尋ねる。
「他者の行動は確認できません」
文乃が資料を指す。
「五つの試験区画は相互観測を遮断されます。開始後は通信も停止します」
「相談は今夜までか」
「はい。ただし、互いに異なる行動を取るための事前調整は禁止されています」
「どうして?」
灯が尋ねる。
「打ち合わせによって作られた差異では、本人固有の判断か確認できないからです」
「つまり」
俺は五つの試験区画を見た。
「同じ問題へ、全員が一人で答える」
「そうです」
同じ名前へ繋がる五人。
同じ条件。
同じ制限時間。
同じ救助対象。
同じ学籍。
誰かの回答を真似ることはできない。
自分がどう動くかだけが残る。
「一つ確認したい」
帝都理法大学の黒瀬零が文乃を見る。
「失敗した場合、どうなる」
「第一実技の不合格だけでは、学籍は消えません」
「本当か」
「はい。ただし、五件全てが同じ理由で失敗した場合、共同学籍網は個別性を確認できなかったと判断します」
「同じ理由?」
「全員が救助対象を置き去りにした。全員が学籍原本だけを優先した。全員が同じ障害へ同じ方法で敗れた。そのような場合です」
「成功だけが答えじゃないんだな」
俺が言う。
「はい」
文乃は頷いた。
「異なる失敗も、異なる本人判断の証拠になります」
「だからって、わざと負けるなよ」
第四候補が俺を見る。
「それはお前に言うことか」
「負傷を理由に、最初から失敗を選ばれたら困る」
「選ばない」
「ならいい」
「お前も、俺と違うためだけに無茶をするな」
「お前と一緒にするな」
「今、それを証明するんだろ」
「だから言っている」
朔夜が二人の間へ視線を向けた。
「同じ顔で同じような口論をしている時点で、少し不利なんじゃないか」
「天城先輩」
澄玲が静かに呼ぶ。
「冗談だよ、九条」
「今のは私ではなく、黒瀬さんたちに謝る場面です」
「五人全員に?」
「必要なら」
「面倒だな」
「共同学籍の問題が、今さら一人分の謝罪で済むと思わないでください」
獅堂が参加証を見つめる。
「補助参加者は、第一実技には入れないのか」
「観測席から、審査の不正を監視できます」
文乃が答える。
「戦えないのか」
「戦えません」
「第二実技は?」
「共同証明者の介入が認められる可能性があります」
「なら明日まで待つ」
獅堂は明らかに残念そうだった。
「獅堂さんは、試験を何だと思っているのですか」
澄玲が尋ねる。
「学生の力を示す場だ」
「間違ってはいませんが、今回示すべき力は破壊力だけではありません」
「分かっている。守る力も必要だ」
「そこまでは合っています」
◇
夜が深くなっても、研究室から人は減らなかった。
明日の試験では互いの行動を相談できない。
だから、誰も具体的な戦術について口にしなかった。
それでも、同じ空間に五人の黒瀬零がいる。
何も話さずにいる方が難しい。
帝都理法大学の黒瀬零は、机へ向かい、三年前の処分記録を読み続けていた。
第四候補は廊下へ出て、血の止まった右手を何度も握り直している。
三年前の黒瀬零は、研究室の窓際から大学構内を見下ろしていた。
採択領域から離脱した黒瀬零は、部屋の中央ではなく、誰の位置とも重ならない壁際を選んで立っている。
俺は診療台の横へ座り、灯から渡された水を飲んでいた。
同じ顔。
同じ名前。
似た声。
それでも、誰も同じ場所では眠らない。
「お兄ちゃん」
「何だ」
「眠らなくていいの?」
「寝るつもりだ」
「いつ?」
「これを飲んだら」
「さっきも言ってた」
「今度は本当だ」
灯は俺の前へ椅子を移した。
「明日の試験、怖い?」
「少し」
「お兄ちゃんでも?」
「俺だからだ」
「どういう意味?」
「誰かと同じかもしれないって言われるのは、意外と面倒だ」
「私はずっと言われてるよ」
「そうだったな」
「十九歳の私。三年前の私。《第零学部》の私」
灯は自分の膝へ手を置く。
「でも、明日はお兄ちゃんたちの番なんだね」
「ああ」
「五人が全員、同じ答えを選んだらどうする?」
「同じ答えでも、理由まで同じとは限らない」
「理由も同じだったら?」
「その時は」
少し考える。
「似てるって認める」
「同じだとは?」
「それだけでは決めない」
「ずるい」
「お前にも同じことを言っただろ」
「うん」
灯は小さく笑った。
「でも、少し安心した」
「何が」
「違うことを証明するために、無理に嫌い合わなくていいんだね」
第四候補。
三年前の俺。
理法の俺。
採択領域から離脱した俺。
同じ人間ではないと証明するために、互いを否定する必要はない。
同じ相手を守りたいと思っても。
同じ場所へ辿り着いても。
その過程に自分の判断が残っていればいい。
「嫌う必要はない」
「仲良くする必要は?」
「それもない」
「そこは仲良くしようよ」
「向こうにも聞いてくれ」
灯は第四候補のいる廊下へ目を向ける。
「今聞いたら怒られそう」
「分かってるじゃないか」
研究室の反対側から、三年前の俺の声がした。
「全部聞こえてるぞ」
「寝てなかったのか」
「お前がうるさい」
「お前も黒瀬零だろ」
「だから何だ」
「自分の声に慣れろ」
「お前の軽口には慣れたくない」
採択領域から離脱した俺も、壁際から口を開く。
「会話内容の八割が不要だ」
「残り二割は?」
「灯の発言」
「俺の発言は?」
「不要側だ」
帝都理法大学の黒瀬零が資料から顔を上げる。
「静かにしてくれ。三年前の記録が読めない」
「お前が一番真面目だな」
「三年間、審査室に固定されていた」
「暇だっただろ」
「だから、無駄話には慣れていない」
「そこは慣れるところじゃない?」
灯が尋ねる。
理法の黒瀬零は少し迷ってから答えた。
「今から学ぶ」
誰かが笑った。
誰だったのか分からない。
俺かもしれない。
三年前の俺かもしれない。
灯だったかもしれない。
同じ声が混じったわけではない。
ただ、その夜だけは、誰の笑いかを確定しなくてもよかった。
◇
翌朝。
午前八時五十二分。
《学術都市》中央区画にある、十二大学共同履修実技棟。
円形の建造物の内部へ、五本の試験路が並んでいた。
完全に同じ長さ。
完全に同じ幅。
同じ材質の床。
同じ高さの壁。
相互観測を遮断するため、試験路の間には白い境界膜が張られている。
一度入れば、他の四人の姿も音も届かない。
観測席には、灯、澄玲、朔夜、獅堂、玄理、緋月、文乃、《第四学籍》がいる。
文乃は共同学務局の制服へ着替えていた。
「第一実技開始まで、八分です」
五つの入口へ、参加者名が表示される。
――第一試験区画。
――帝都理法大学、黒瀬零。
――第二試験区画。
――暫定識別名、《第四候補》。
――同名起源候補、黒瀬零。
――第三試験区画。
――帝都神律大学、黒瀬零。
俺。
――第四試験区画。
――帝都神律大学《第零学部》暫定滞在者。
――三年前の黒瀬零。
――第五試験区画。
――帝都神律大学《第零学部》暫定滞在者。
――採択領域離脱個体、黒瀬零。
「黒瀬零」
緋月が俺を呼ぶ。
「警告を復唱しろ」
「右腕を使わない。左腕で攻撃しない。`命題`を使わない。右肩へ規定値以上の衝撃を受けたら失格」
「警告値を超えた場合は」
「止まる」
「本当に止まれ」
「ああ」
「返事が軽い」
「はい」
「黒瀬さん」
澄玲が俺の前へ来る。
「具体的な解法を伝えることはできません」
「相談禁止だからな」
「ですが、一つだけ」
「何だ」
「腕を使えないことを、できないことの一覧として考えないでください」
「どう考える」
「足と視線と判断は、まだ使えます」
「十分だな」
「それから」
澄玲は少し声を落とした。
「他の黒瀬さんと違う答えを出すことを、目的にしないでください」
「分かってる」
「あなた自身の答えを出してください」
「ああ」
朔夜が隣から言う。
「九条。そろそろ過保護になってるぞ」
「黒瀬さんが無茶をしないと信用できるなら、ここまで確認しません」
「俺には何もないのか」
「天城先輩は観測席です」
「そうだった」
獅堂が俺の肩へ手を置こうとし、緋月の視線を受けて途中で止めた。
「勝て」
「第一実技は対抗戦じゃない」
「自分の限界にだ」
「それなら悪くない」
灯が最後に俺の前へ来た。
「お兄ちゃん」
「何だ」
「行ってらっしゃい」
「それだけ?」
「帰ってきて、は昨日言ったから」
「今日も言っていいぞ」
「同じことを何回も言わない方が、別人らしいでしょう?」
「そういう試験じゃない」
「冗談」
灯は笑ってから、俺の制服の襟を整えた。
「行ってらっしゃい、お兄ちゃん」
「行ってくる」
第三試験区画へ入る。
後ろで扉が閉じた。
灯たちの姿が見えなくなる。
試験路は、先まで真っ直ぐ伸びていた。
二千四百メートル。
途中に見えるものはない。
救助対象も。
学籍原本も。
障害も、開始後まで隠されている。
右腕は胸元へ固定。
左腕には制限帯。
能力は禁止。
使えるのは、脚と身体の軸。
目。
耳。
そして、自分の判断だけ。
『第一実技、開始準備』
床へ数値が表示される。
――六十。
制限時間。
――二千四百。
到達距離。
――五。
審査対象者数。
『同一条件を確認』
『相互通信を遮断』
『他参加者の行動情報を非公開』
『個別性審査を開始』
続いて、身体観測項目が開く。
『運動記録を個別取得』
『持続速度と短距離加速を分離』
『反応行動と予測行動を分離』
『身体移動と能力移動を分離』
『既存記録を上回る出力が観測された場合』
『距離、継続時間、損傷および成立根拠を併記』
開始線の上へ立つ。
足の位置を調整する。
右足を半歩後ろ。
身体を前へ倒しすぎない。
腕を振れない分、最初の加速は脚だけで作る必要がある。
この試験が、俺を強くするわけではない。
突然、知らない速度を与えてくれるわけでもない。
今の身体で。
今まで積み重ねたものだけを使って。
どこまで行けるかが記録される。
前方の床へ、赤い数字が浮かんだ。
三。
二。
一。
『開始』
床を蹴った。
同じ瞬間。
五つの試験区画で、五人の黒瀬零が動き始める。
帝都理法大学の黒瀬零は、開始線の正面ではなく、右端へ一歩進んだ。
第四候補は、一切の予備動作なく前方へ飛び出した。
ただし、その速度はまだ表示されない。
持続できる走行なのか。
一度きりの加速なのか。
身体が耐えられるのか。
観測が終わるまで、数値だけを結論にはしない。
三年前の黒瀬零は、〇・二秒だけその場へ残り、床の変化を観測した。
採択領域から離脱した黒瀬零は、自分の足元へ一点の座標を定めた。
その位置変更は、身体速度とは別の欄へ記録される。
そして俺は。
最初の一歩を前ではなく、斜め左へ踏み出した。
開始から〇・三秒。
何もなかったはずの直線路を、巨大な銀色の壁が貫いた。
前だけを見て走った者を押し潰す角度で。
同じ障害。
同じ時刻。
同じ条件。
それでも、五人が見ていたものは違う。
――第一判断を記録。
――五件全て。
――不一致。
同じ名の者たちによる、最初の回答が始まった。




