第五十話 ひとつの名に、六つの未来を
――署名予定時刻。
――現在より三年後。
未来の黒瀬零が、未来の黒瀬灯の学籍を六年前へ送った。
その目的は、黒瀬灯が十九歳へ到達するまで、複数の黒瀬零を一件の学籍へ確定させないこと。
記録の意味を理解しても、理由までは分からない。
ただ一つ確かなのは、俺たちが偶然に分かれたのではない可能性が出てきたということだった。
「未来の黒瀬零って、誰?」
灯が《異議付記欄》を見つめながら尋ねる。
「三年後の黒瀬さんとは限りません」
澄玲が答えた。
「署名者の氏名が黒瀬零であり、署名時刻が三年後に設定されている。それだけです。現在の黒瀬さんが三年後に署名した可能性もあれば、別の黒瀬零が署名した可能性もあります」
「今ここにいる黒瀬零のうち、誰かかもしれない」
第四候補が言う。
「あるいは、まだ現れていない黒瀬零だ」
帝都理法大学の黒瀬零が続けた。
俺は記録の末尾へ指を近づける。
「署名者の学籍番号は、現在未発行なんだよな」
「はい」
文乃が銀色の書類板を操作した。
「帝都理法大学の黒瀬さん、現在の黒瀬さん、第四候補。いずれの学籍番号とも一致しません。帝都神律大学に残っている二名についても、先ほど照会した記録とは異なります」
「第五候補か」
「勝手に増やすな」
第四候補が俺を睨んだ。
「まだ候補とも決まっていない」
「お前が一番気にするんだな」
「呼ばれる側だからだ」
《第四学籍》が、黒瀬灯の《異議付記欄》へ黒い指を伸ばした。
「参照申請に、未展開情報がある」
「開けるのか」
「閲覧条件を確認する」
白紙へ細かな文字が浮かぶ。
――参照申請書。
――正式名称。
――未来学籍先行保全申請。
――申請状態。
――未完了。
「未完了?」
文乃の表情が変わった。
「六年前への参照は既に実行されています。申請が未完了のまま、効果だけが成立していることになります」
「帝都神律大学では珍しくない」
俺が言う。
「帝都時律大学では重大な違反です」
「この都市に来てから、重大じゃない書類を見てない気がする」
「それは帝都神律大学から来た方々が、重大な案件しか持ち込まないからです」
「俺たちのせいか」
「主にそうです」
文乃が書類板を《異議付記欄》へ重ねる。
十二本の筆記具を模した紋章が回転し、未完了部分の照合を始めた。
――申請者、一名。
――署名者数。
文字が乱れた。
――一名。
――訂正。
――複数名。
――訂正。
――一名。
「表示が安定しません」
文乃が眉を寄せる。
「署名欄へ複数の筆跡が重なっています。ですが、共同学籍網は全てを同一人物による一筆として処理しています」
「全員が黒瀬零だから?」
灯が尋ねた。
「氏名だけが理由ではありません」
澄玲が筆跡の重なりを見る。
「書き始めと書き終わりが、互いに異なる時刻へ存在しています。一つの署名を複数人が分担して完成させたように見えます」
「そんな署名が認められるのか」
獅堂が問う。
「通常は認められません」
文乃が答えた。
「署名は、一人の意思を一件の記録へ対応させるものです。複数人が一つの氏名を書いた場合、共同署名として個別に記録されます」
「だが、これは共同署名ではない」
帝都理法大学の黒瀬零が言った。
「ああ」
俺は重なった線を見る。
「複数人で、一人分の署名を書いてる」
その瞬間、《異議付記欄》が強く発光した。
白紙の縁から灰色の数字が溢れ、足元の《履修連絡路》へ広がっていく。
――未完了申請への接触を確認。
――現在署名候補を検出。
俺。
第四候補。
帝都理法大学の黒瀬零。
《第四学籍》。
四本の灰色の線が、それぞれの足元へ伸びた。
「全員、記録から離れてください!」
文乃が叫ぶ。
俺は灯の手を引き、《異議付記欄》から距離を取る。
だが、灰色の線は切れなかった。
俺たちの移動へ追従し、足元へ署名欄を展開する。
――未来学籍先行保全申請。
――署名予定者との対応を開始。
「今ここで署名させるつもりか」
第四候補が線を踏みつける。
靴底が灰色の文字を砕く。
しかし、散った文字はすぐに繋がり直した。
「未来の署名を、現在の俺たちで完成させようとしている」
帝都理法大学の黒瀬零が古い学生証を押さえる。
「拒否する方法は」
「申請書そのものを保全庫へ戻します!」
文乃が履修連絡路の先を指した。
「帝都時律大学の《未発行学籍保全庫》です。未来に発行される学籍や、発行時刻より先に参照された記録を隔離しています」
「距離は?」
「正門から約二・四キロメートル。ただし、通常経路は現在閉鎖中です」
「閉鎖?」
「未完了の未来申請が、現在の署名候補へ接続したためです」
「原因も俺たちか」
「今回は、かなり明確にそうです」
足元の表示が赤へ変わった。
――署名候補の離脱を検出。
――申請書の現在固定を開始。
「現在固定が完了すると?」
澄玲が尋ねる。
「三年後に行われる予定だった署名が、現在の行為として確定します」
「そうなれば、未来側で何が起きますか」
「未来の署名者が、既に署名済みとして扱われます」
「まだ選んでいない答えを、今の俺たちが先に決めるのか」
俺が言う。
「はい」
「却下だ」
「私も同意します」
文乃が書類板を強く振り下ろした。
履修連絡路の床へ、巨大な申請印が押される。
「《学術都市》共同学務局・学生補助員、綴木文乃。未発行時点の本人意思を確認できない署名固定へ、緊急異議を提出します!」
――異議申立てを確認。
――処理停止時間。
――百二十秒。
「二分か」
朔夜が菓子パンの袋を白衣へしまった。
「二・四キロなら、走るには十分だな」
「通常の道路ならです」
文乃が正門の先を見る。
帝都時律大学の時計塔から、数百本の針が一斉にこちらへ向いた。
「今から、学内の時制防衛機構が起動します」
鐘が鳴る。
今度は一度では終わらなかった。
十二回。
重なった鐘の音が、帝都時律大学の全講義棟へ広がる。
正門から中央時計塔まで続いていた銀色の道が、細かな区画へ分割された。
――第一時区。
――現在比率、一・〇〇。
――第二時区。
――現在比率、二・五〇。
――第三時区。
――現在比率、〇・一〇。
区画ごとに時間の進み方が違う。
同じ道の上で、時計の針が高速で回る場所と、ほとんど動かない場所が交互に並んでいる。
「全員、同じ区画を通ってください!」
文乃が叫んだ。
「別々の時間比率へ入ると、互いの現在位置がずれます!」
「九条、経路は見えるか」
朔夜が尋ねる。
「確認します」
澄玲の瞳へ青い光が宿る。
「問題を定義します。現在の全同行者が、相互の時間対応を維持したまま、《未発行学籍保全庫》へ百二十秒以内に到達する」
白い線が足元から伸びる。
だが、一直線には進まなかった。
第一時区から講義棟の壁へ上がり、時計塔の外周を半周し、空中の連絡橋へ続いている。
「最短距離ではありません」
澄玲が言う。
「ですが、全員が同じ経過時間を維持できる唯一の経路です」
「距離は?」
「三・一キロメートル」
「増えたな」
「制限時間は百十三秒です」
文乃が訂正する。
「話している間にも減っています」
「なら行くぞ!」
獅堂が先頭へ出た。
◇
第一時区へ踏み込んだ瞬間、周囲の音が低く引き伸ばされた。
現在比率、一・〇〇。
俺たちにとっては通常の時間だ。
だが、隣接する第二時区では、学生たちが何倍もの速さで動いている。
第三時区では、空中に舞った紙がほとんど停止していた。
白い経路は、異なる時区の境界ぎりぎりを走っている。
「灯、俺から離れるな」
「うん」
灯は十九歳の学生証とノートを抱え、《第四学籍》のすぐ後ろを走る。
俺の右腕は固定されたまま。
左手も、補講室で灯を引いた影響が残っている。
身体が動かないわけではないが、無理に速度を上げれば神代緋月から届く通知がさらに増える。
今は、増えない可能性の方が低い。
前方の銀色の床が盛り上がった。
三体の人型兵装が、道路の内部から出現する。
細い身体。
顔の代わりに、時計盤が埋め込まれている。
両腕は長い銀色の針。
「《時制執行機》です!」
文乃が叫ぶ。
「未発行の未来記録を現在へ固定するための防衛兵装です!」
三体の時計盤へ数値が表示された。
――射出速度。
――毎秒六百八十メートル。
「音速のほぼ二倍です」
澄玲が即座に換算する。
「針が発射されてからでは、灯さんと文乃さんは回避できません!」
「なら発射させるな」
朔夜の指先から黒い薄刃が伸びる。
「天城先輩、まだ切らないでください」
「理由は」
「射出と命中の因果を切れば、別の時区へ命中結果が移る可能性があります。発射機構だけを狙ってください」
「了解」
一体目の時計盤で、秒針が十二を指す。
銀色の腕が収縮した。
発射準備。
朔夜が刃を振るうより先に、第四候補が床を蹴った。
針が撃ち出される。
空気を裂く衝撃音は、発射より遅れて届いた。
銀色の針は既に二十メートルを進んでいる。
第四候補はその後に動いた。
白い経路を外れず、斜め前へ踏み込み、灯へ向かう針の側面へ追いつく。
右手で掴んだ。
掌から血が散る。
それでも、針の軌道を上方へ逸らす。
銀色の弾体は時計塔の外壁へ突き刺さり、石材を大きく抉った。
「第四候補!」
灯が叫ぶ。
「走れ!」
第四候補は血の滲む手を振り、次の兵装へ向き直った。
「発射後に追いついたのか」
俺は一瞬だけ足を緩める。
「感心してる場合か!」
「褒めてる」
「あとにしろ!」
二体目と三体目の時計盤が同時に動く。
「獅堂さん、右を!」
「任せろ!」
「万象は我が礎!」
黄金の壁が道路から立ち上がる。
二本目の針が毎秒六百八十メートルで衝突した。
轟音。
黄金の壁へ深い亀裂が走る。
だが、貫通しない。
針は先端を潰し、床へ転がった。
三本目は朔夜へ向かう。
「そこだ」
黒い薄刃が発射口の根元を横切った。
「因果切断」
針が発射される。
しかし、発射機構の伸長と、弾体へ速度が与えられる因果だけが失われていた。
銀色の針は砲口から数センチ落下し、そのまま床へ突き刺さる。
「進んでください!」
澄玲の白い経路が時計塔の壁へ駆け上がる。
「ここから垂直です!」
「階段は?」
灯が尋ねる。
「ありません!」
「帝都神律大学みたいになってきたね!」
「認めたくありません!」
獅堂が壁へ手を置く。
黄金の足場が、垂直面へ連続して形成された。
俺たちは壁を走る。
正確には、壁へ並べられた幅三十センチほどの黄金板を蹴って上へ進む。
右腕を使えない俺は、身体を壁側へ傾けながら足だけで均衡を取る。
灯が一段上で僅かに滑った。
「灯!」
左手を伸ばす。
届く前に、《第四学籍》の身体から一枚の白紙が伸び、灯の背中を支えた。
「現在個体の落下を拒否する」
「助かった」
「俺の判断か、第三記録の反応かは不明」
「どっちでもいいよ」
灯が体勢を戻す。
「今、助けてくれたのはあなたでしょう」
《第四学籍》の黒い輪郭が僅かに揺れた。
「現在回答として記録する」
時計塔の外周へ到達する。
白い経路は、無数の長針と短針の上を渡っていた。
巨大な針が、異なる速度で回転している。
最も遅いものは一周に一年。
最も速いものは一秒間に六十周。
「どれを使う」
朔夜が尋ねる。
「最初は三分針です!」
文乃が指したのは、塔の外周を三分で一周する長針だった。
「乗ったあと、二十七秒地点で一秒針へ飛び移ります!」
「一秒針って、一秒で一周するやつ?」
灯の声が少し上ずる。
「はい」
「速すぎない?」
「先端速度は毎秒約四百二十メートルです!」
「先に言って!」
「今言いました!」
三分針が目の前を通過する。
獅堂が最初に飛び乗る。
朔夜。
澄玲。
文乃。
第四候補。
帝都理法大学の黒瀬零。
《第四学籍》。
灯。
最後に俺。
針の幅は二メートルある。
だが、遠心力で身体が外側へ引かれる。
獅堂の黄金の領域が足元へ広がり、全員を針の上へ固定した。
「残り時間!」
「七十八秒です!」
「一秒針まで、あと十五秒」
澄玲が軌道を読む。
時計塔の正面から、さらに六体の《時制執行機》が出現した。
今度は人型ではない。
四枚の翼を持つ銀色の機体。
中央に複数の時計盤が並んでいる。
――対象。
――未完了未来署名。
――固定候補、四件。
四本の赤い線が、俺たちへ向く。
「攻撃対象は四人だけか」
第四候補が血の滲む手を握る。
「俺、第四候補、理法の黒瀬零、《第四学籍》」
「未来申請の署名候補として認識されています」
澄玲が答えた。
「逆に言えば、灯さんたちは直接の固定対象ではありません」
「巻き込まれないとは言ってないな」
俺が言う。
「そのとおりです」
飛行型の時計盤へ数値が現れる。
――時差針。
――射出速度、毎秒千二十メートル。
「今度は音速の三倍です!」
文乃が叫ぶ。
「命中した対象は、現在位置から三秒後へ固定されます!」
「三秒後へ?」
「身体だけが先へ移されます! 足場は現在に残るため、この高さでは落下します!」
「趣味が悪いな」
朔夜が黒い刃を展開する。
「六体同時です」
澄玲が軌道を見る。
「発射後の回避は困難です。撃たれる前に位置を変えます!」
「一秒針への移動を早めるのか」
「はい。今です!」
一秒針が下方から迫ってくる。
その先端は毎秒四百二十メートル。
俺たちが乗る三分針との相対速度は、それ以上になる。
獅堂が黄金の足場を前方へ伸ばした。
「全員、俺の王土を走れ!」
細い黄金の橋が、回転する二本の針の間へ形成される。
固定された橋ではない。
両方の針へ接続されたまま伸縮し、刻々と長さと角度を変えている。
澄玲の白い経路が、その上へ重なる。
「三秒以内に渡ってください!」
「ちょうど撃たれたら落ちる時間だな」
俺が言う。
「縁起でもないことを言わないでください!」
全員が走る。
背後で六体の時計盤が十二を指した。
発射。
六本の時差針が、毎秒千二十メートルで迫る。
「天城先輩、二本だけ切ってください!」
「二本?」
「残りは時区境界へ誘導します!」
朔夜が振り返り、黒い刃を二度振るう。
二本の時差針から、対象へ到達する因果が切断された。
弾体は軌道を失い、時計塔の上空へ消える。
残る四本。
澄玲の白い線が、黄金の橋の左右へ分かれた。
「獅堂さん、橋を六度だけ傾けてください!」
「六度だな!」
黄金の橋が傾く。
俺たちの身体が横へ流れる。
四本の針は、わずか数センチの差で俺たちを通過した。
その先には、時間比率の境界がある。
現在比率、一・〇〇。
その隣は、〇・一〇。
毎秒千二十メートルで飛んでいた時差針は、境界へ入った瞬間、外側から見て十分の一の速度へ落ちた。
後方から回転してきた巨大な長針が、四本まとめて叩き折る。
「当たった!」
灯が振り返る。
「偶然ではありません」
澄玲が息を整えながら答える。
「長針の軌道へ誘導しました」
「九条、今のはかなり危なかったぞ」
朔夜が言う。
「安全な経路はありませんでした」
「なら仕方ない」
「素直ですね」
「九条の解法を疑っている時間がなかった」
「普段から、それくらい信頼してください」
「普段は疑う時間がある」
「天城先輩」
言い合いながらも、二人は走る速度を落とさない。
俺たちは一秒針へ飛び移った。
身体が強く外側へ引かれる。
景色が円形に流れ、講義棟が一秒ごとに視界を横切る。
「残り!」
「五十一秒!」
「保全庫は?」
「時計塔の内部、地下一階です!」
「今、上ってるぞ」
「一秒針が入口の正面を通過した瞬間に飛び込みます!」
「入口はどこだ」
「次の一周で表示されます!」
「一秒後か!」
正面へ黒い扉が現れた。
時計塔の外壁に、縦三メートルほどの入口が開いている。
現在の針から扉まで、水平距離は約十五メートル。
「全員、飛んでください!」
獅堂が黄金の足場を扉まで伸ばそうとする。
だが、時計塔の防衛機構が先に反応した。
扉の左右から、二本の巨大な振り子が落ちてくる。
振り子の先端は鋼鉄製。
重さは表示されていない。
速度だけが赤く示された。
――先端速度。
――毎秒百二十メートル。
人間を叩き潰すには十分すぎる。
「俺が止める!」
獅堂が前へ出る。
「駄目です!」
澄玲が叫んだ。
「一秒針の上で受け止めれば、反作用で全員が弾き飛ばされます!」
「ならどうする」
「振り子同士を衝突させます!」
白い経路が、左右の振り子を結ぶ。
「天城先輩、左の振り子と現在の軌道を切断してください!」
「片方だけか」
「はい!」
「因果切断!」
左側の振り子から、予定された軌道へ従う因果が消える。
重力と慣性は残る。
だが、時計塔の機構が定めた円弧から外れ、僅かに内側へずれた。
右側の振り子と激突する。
巨大な鐘のような音が響く。
二本の振り子が互いに砕け、扉の前から弾かれた。
「今です!」
澄玲が飛ぶ。
全員が続く。
灯も床を蹴った。
だが、抱えていた十九歳の学生証が腕から滑る。
「っ!」
灯が空中で手を伸ばす。
学生証は回転しながら下へ落ちていく。
地上まで数百メートル。
俺は灯の身体を左腕で抱き寄せた。
「お兄ちゃん!」
「学生証は」
反対側から、第四候補が飛び出した。
空中で身体を反転させ、落下する学生証へ手を伸ばす。
指先が届く。
そのまま時計塔の外壁を蹴り、扉へ跳び戻った。
「取った!」
灯が叫ぶ。
第四候補は学生証を口に咥えたまま、片手で扉の縁を掴む。
帝都理法大学の黒瀬零がその腕を引き上げた。
「今度は俺が支えた」
「礼を要求する気か」
「要求しない」
「なら言うな」
「事実を確認しただけだ」
第四候補が学生証を灯へ渡す。
「落とすな」
「ありがとう」
「次はお前が持て」
第四候補は俺を見る。
「右腕が使えない」
「左手があるだろ」
「灯を持ってる」
「なら、落とすな」
帝都理法大学の黒瀬零が言う。
「何を」
「両方だ」
「分かってる」
全員が扉の内側へ入った。
文乃が最後に書類板を通過させる。
黒い扉が閉じた直後、百二十秒の異議申立てが終了した。
――未来署名の現在固定を再開。
だが、灰色の文字は俺たちへ届かない。
扉の表面へ、新しい表示が浮かぶ。
――《未発行学籍保全庫》。
――時制外隔離、成立。
――現在固定処理を一時遮断。
「間に合いました」
文乃が大きく息を吐いた。
「残り時間は?」
「〇・八秒でした」
「十分だな」
「十分ではありません」
「間に合った」
「次回は、もう少し余裕を持って異常を起こしてください」
「起こす前提なのか」
「あなた方に、起こさないよう求めるより現実的です」
◇
《未発行学籍保全庫》の内部には、時計がなかった。
白い壁。
白い床。
白い天井。
時間を示すものは何一つ置かれていない。
代わりに、無数の透明な棚が並んでいた。
それぞれの棚には、まだ発行されていない学生証が浮かんでいる。
氏名が決まっていない者。
所属大学がまだ設立されていない者。
入学するかどうか本人が選んでいない者。
未来の可能性として存在しながら、現在へ先行参照された学籍。
「全部、未来の学生?」
灯が尋ねる。
「正確には、未来に発行される可能性がある学籍です」
文乃が答えた。
「実際に発行されないものもあります。本人が別の大学を選ぶ場合、入学そのものを選ばない場合、学籍の前提となった未来が成立しない場合もあります」
「成立しなかった学籍はどうなる」
第四候補が尋ねる。
「未発行のまま保存されます」
「消さないのか」
「未来に存在しなかったからといって、現在参照された記録まで存在しなかったことにはできません」
「この都市にしては、まともだな」
「帝都神律大学に言われたくありません」
文乃は中央端末へ向かう。
そこには、まだ名前のない学生証が一枚だけ浮いていた。
――学籍発行予定時刻。
――現在より三年後。
――氏名。
――黒瀬灯。
十九歳の学生証。
灯が抱えているものと同じ記録だ。
ただし、こちらは実物ではなく、発行前の原本だった。
「持ってきた学生証は?」
灯が自分の手元を見る。
「原本から三年前へ参照された写しです」
文乃が答える。
「この保全庫なら、過去参照申請の全記録を確認できます」
帝都理法大学の黒瀬零が中央端末へ古い学生証をかざした。
――閲覧権限。
――旧共同履修審査局・代表学生。
――停止済み。
「また停止済みか」
「三年前から変わっていない」
「使えない?」
「通常ならな」
男は俺を見る。
「現在、代表学生権限を誤参照されている黒瀬零がいる」
「また俺か」
「お前一人ではない」
《第四学籍》が前へ出た。
「未来申請は、四件を署名候補として認識している」
「四人で権限を使うのか」
澄玲が中央端末を観察する。
「先ほどの共同異議申立てと同じ形式が使えるかもしれません。ただし、今回は一人分の署名へ統合されないことが条件です」
「目的を定義します」
澄玲の周囲へ青い文字が現れた。
――複数の黒瀬零を同一署名者として確定せず。
――未来学籍先行保全申請の署名構成を閲覧する。
「世界は解を持つ」
四本の白い線が、それぞれ別の角度から中央端末へ伸びる。
俺。
第四候補。
帝都理法大学の黒瀬零。
《第四学籍》。
線は中央で重ならない。
一本の署名を作るのではなく、同じ書類へ異なる立場から触れる経路だ。
「全員、同時に本人回答を提出してください」
澄玲が言う。
「何と答える」
「自分が他の黒瀬零と同一であると、現時点では確定しないことです」
俺は端末の左へ立つ。
第四候補が右。
帝都理法大学の黒瀬零が正面。
《第四学籍》が背後。
「黒瀬零」
端末が俺へ呼びかける。
「俺は、他の黒瀬零と同一であることを今は認めない」
「《第四候補》」
「俺が黒瀬零だった可能性は否定しない。だが、今の俺を他の誰かと一件にするな」
「帝都理法大学・黒瀬零」
「三年前の処分決定者である俺と、現在の黒瀬零は別個体だ」
「《第四学籍》」
黒い人影の内側で、三つの白紙が揺れた。
「俺は三件を一人として代理していた。現在は、その三件とも、ここにいる黒瀬零とも同一であると確定しない」
端末へ四件の回答が記録される。
――署名候補の個別性を確認。
――未来署名の統合を停止。
――署名構成情報を開示。
十九歳の学籍の後方へ、巨大な申請書が現れた。
六枚。
透明な署名欄が、縦に並んでいる。
「六人分」
灯が呟く。
「未来の申請は、一人の黒瀬零が出したものではありません」
文乃が表示を読む。
「六件の個別署名を、共同学籍網が一人分へ統合していたようです」
「どうして統合された」
獅堂が尋ねる。
「申請書自体が、それを要求しています」
文乃が条件欄を開く。
――署名規則。
――全署名者は、氏名として黒瀬零を用いること。
――各署名者は、他の署名者と同一人物であることを否定すること。
――六件の異なる本人回答をもって、一件の申請意思を成立させる。
「矛盾している」
帝都理法大学の黒瀬零が言う。
「全員が同じ氏名で署名し、互いを同一人物ではないと答える」
「それが条件なんだろ」
俺は六枚の署名欄を見る。
「一人分の名前で、六人分の意思が必要になる」
最初の署名欄へ文字が現れる。
――第一署名者。
――帝都理法大学・証明行政学部。
――黒瀬零。
「俺だ」
帝都理法大学の黒瀬零が呟く。
署名状態。
――未署名。
二枚目。
――第二署名者。
――暫定識別名、《第四候補》。
――氏名申告予定、黒瀬零。
第四候補の表情が険しくなる。
「俺は、未来で黒瀬零を名乗るのか」
「予定情報です」
澄玲が答える。
「現在のあなたが、その氏名を選ばなければ成立しない可能性があります」
三枚目。
――第三署名者。
――帝都神律大学・法則災害学群。
――黒瀬零。
「俺か」
署名予定時刻は三年後。
署名状態は未署名。
四枚目。
――第四署名者。
――帝都神律大学《第零学部》。
――暫定滞在者。
――黒瀬零。
「三年前の俺?」
「現在の記録と照合すれば、その可能性が高いです」
文乃が答えた。
五枚目。
――第五署名者。
――帝都神律大学《第零学部》。
――採択領域離脱個体。
――黒瀬零。
帝都神律大学に残っている、もう一人の俺。
「五人」
灯が数える。
「ここまでは、今いる黒瀬零たちなんだね」
「俺を含めるならな」
第四候補が言う。
「まだ黒瀬零を名乗るとは決めていない」
「でも、未来の申請では名前がある」
「未来の俺の答えだ。今の俺の答えではない」
「うん」
灯はすぐに頷いた。
「今、決めなくていい」
最後の一枚。
第六署名者。
氏名欄には、既に黒瀬零と記されている。
だが、所属も学籍番号も空白だった。
――第六署名者。
――黒瀬零。
――学籍発行予定時刻。
――未定。
――個体成立予定時刻。
文字が一つずつ現れる。
――黒瀬灯、十九歳到達の七分前。
「七分前?」
灯が声を落とす。
「私が十九歳になる直前に、もう一人のお兄ちゃんが現れるの?」
「お兄ちゃんとは限らない」
俺は答えた。
「黒瀬零と名乗る誰かだ」
「でも、署名者は六人とも別個体なんでしょう?」
「予定上は」
澄玲が第六署名欄を読み込む。
「この人物は、現在だけでなく、三年後の署名時点にも学籍が発行されていません。黒瀬灯さんが十九歳となる七分前に個体として成立し、その直後に署名へ参加するよう設定されています」
「成立してから、灯が十九歳になるまで七分しかない」
朔夜が言った。
「随分と急な人生だな」
「七分後に消えるとは書かれていません」
澄玲が訂正する。
「現れる時刻しか分かりません」
「誰が作る」
第四候補が尋ねた。
「黒瀬零の分岐が事故ではないなら、この第六署名者も誰かが意図的に成立させる可能性がある」
文乃が申請書の下部を開く。
――第六署名者・成立申請者。
――閲覧制限。
――解除条件。
――現存する五署名者による、将来の分岐への同意。
「五人が同意しなければ、第六署名者は生まれない?」
灯が尋ねる。
「少なくとも、この申請によって成立することはありません」
文乃が答える。
「じゃあ」
灯は俺たちを見回す。
俺。
第四候補。
帝都理法大学の黒瀬零。
ここにはいない三年前の俺。
採択領域から離脱した俺。
「みんなが、もう一人の黒瀬零を作るって決めるの?」
「未来では、そうした可能性がある」
俺は六枚の署名欄を見る。
「でも、今の俺たちはまだ何も決めてない」
「決めなければ」
《第四学籍》が言う。
「未来学籍先行保全申請は完成しない」
「完成しなければ、灯の学籍は六年前へ送られない」
帝都理法大学の黒瀬零が続ける。
「そうなれば、三年前の共同履修審査は止められない」
「三年前の審査が止まらなければ、第四候補を退学させる必要もなくなるかもしれない」
俺が言う。
「だが、複数の学籍が消える」
「その一件に、十九歳の灯の学籍が含まれていた」
第四候補が白紙を見る。
「未来から過去へ送られたから、守られた」
「なら」
灯がノートを抱く。
「未来の私がいるのは、この申請が完成するから?」
「可能性はあります」
澄玲は断定しなかった。
「ですが、この申請を完成させなければ灯さんが必ず消える、とまでは読み取れません。未来は一つに確定していません」
「でも、未来の私は、既にこの申請を知ってた」
「おそらくは」
「お兄ちゃんも」
灯が俺を見る。
「三年後の誰かも、これを選んだ」
「予定上はな」
「今の私が嫌だって言ったら?」
俺は申請書を見た。
複数の黒瀬零を残す。
第六の黒瀬零を成立させる。
未来の灯の学籍を六年前へ送り、三年前の審査を止める。
それが灯を守るためだったとしても、本人の意思を聞かずに決めれば、帝都理法大学の黒瀬零が第四候補へしたことと同じになる。
「完成させない」
俺は答えた。
「お兄ちゃん」
「お前が嫌だと答えるなら、この申請には署名しない」
「それで未来の私が消えるかもしれなくても?」
「それを理由に、お前へ未来を押しつけない」
「今の黒瀬灯と十九歳の学籍が同一だとも決まっていません」
澄玲が灯の隣へ立つ。
「未来の学籍を存続させる責任を、現在の灯さん一人へ負わせてはなりません」
「ですが」
文乃が申請書の端へ目を向ける。
「署名しないという回答も、記録されます」
「どういう意味だ」
「未来署名候補が現在の申請書を閲覧しました。この時点で、将来の署名選択に関する事前回答が要求されています」
端末へ新しい欄が開く。
――現在回答。
――三年後の署名を約束するか。
選択肢は二つ。
――約束する。
――約束しない。
「どちらも選ばない」
俺が言う。
――回答を要求。
「今の俺が、三年後の俺の答えを約束するつもりはない」
――未回答は、申請拒否として処理。
「それも勝手だな」
第四候補が端末へ近づく。
「未来で黒瀬零を名乗るかも決めていない。署名するかどうかを今答える理由もない」
――回答を要求。
帝都理法大学の黒瀬零も古い学生証を外した。
「三年前の俺が一人で決めたことを、未来の俺に繰り返させるつもりはない」
――回答を要求。
《第四学籍》は三枚の白紙を見た。
「俺が三年後も存在する保証はない」
――回答を要求。
四つの回答欄が赤く明滅する。
「文乃さん、保留は選べないのですか」
澄玲が尋ねる。
「通常の未来申請には存在します」
「この申請には?」
「ありません」
「なら、追加します」
「私の権限では、未来申請の回答形式を変更できません」
「代表学生権限でも?」
「六署名者全員の同意が必要です」
「第六署名者はまだ存在していない」
「はい」
「存在しない人物の同意がなければ、現在回答を保留できない?」
「制度上はそうなります」
「帝都神律大学よりひどいな」
俺が言う。
「否定できません」
文乃が悔しそうに答えた。
赤い表示が強くなる。
――回答期限。
――十秒。
「短いな」
朔夜が言う。
「九条」
「考えています」
澄玲の瞳へ青い光が集まる。
――現在の五署名候補が、未来の自分の回答を確定せず。
――未成立の第六署名者の意思も代行せず。
――申請を拒否したことにもされず。
――現在時点では回答不能であることを記録する。
「世界は解を持つ」
白い線が四つの回答欄へ伸びる。
だが、どの選択肢にも繋がらない。
約束する。
約束しない。
二つの間にある空白へ向かう。
「黒瀬さん」
「何をすればいい」
「未来の自分に対して、現在のあなたが約束できることだけを回答してください」
「署名するとも、しないとも言わず?」
「はい」
残り五秒。
俺は未来申請を見る。
三年後の俺。
その時、灯が十九歳になる。
別の黒瀬零たちも、それぞれの答えを持っている。
今の俺ができるのは、その答えを奪わないことだけだ。
「三年後の俺が、本人の意思で決める」
俺は回答した。
「今の俺は、その答えを代わりに決めない」
第四候補が続く。
「未来の俺が黒瀬零を名乗るなら、その時の俺が署名を選ぶ。今の俺は約束しない」
帝都理法大学の黒瀬零が答える。
「未来でも、一人では決めない。署名するなら、関係する全員の現在回答を聞く」
《第四学籍》が最後に告げる。
「三年後の俺が存在するなら、その俺の回答を保存する。存在しないなら、現在の俺が代行したことにはしない」
残り一秒。
四つの白い線が、選択肢の間へ到達した。
――規定外回答を検出。
――約束。
――不成立。
――拒否。
――不成立。
――現在回答。
――将来本人への留保。
赤い表示が白へ変わる。
回答期限が止まった。
「通った」
灯が息を吐く。
「いいえ」
澄玲は端末を見つめていた。
「まだ、続きがあります」
六枚の署名欄が裏返る。
その背面に、これまで見えなかった文章が現れた。
――未来学籍先行保全申請。
――成立に必要なもの。
――六件の署名ではない。
――六件の異なる黒瀬零が。
――同じ黒瀬灯を守るためではなく。
――それぞれ異なる理由によって。
――同じ申請を選ぶこと。
「異なる理由?」
灯が読み上げる。
「全員が私を守りたいから、では駄目なの?」
「それでは、一人の黒瀬零の意思を六件へ複製しただけと判断される」
帝都理法大学の黒瀬零が言った。
「六人が別個体であることを証明するため、それぞれ異なる理由で同じ署名へ到達する必要がある」
「俺たちを一人にしないための申請が」
第四候補が呟く。
「俺たちが本当に別人であることを要求している」
最後の欄が開く。
――第一署名者・署名理由。
――閲覧不能。
――第二署名者・署名理由。
――閲覧不能。
五件目まで同じ。
第六署名者の欄だけは、短い文章が残っていた。
――第六署名者・署名理由。
――黒瀬灯を救うためではない。
灯が言葉を失う。
「じゃあ、何のために」
その下へ、続きが現れる。
――黒瀬灯が。
――自分を救わない未来を選べるようにするため。
俺は文章を見つめた。
灯を救うためではない。
灯が救われることを拒否する可能性まで残すため。
十九歳の灯が、自分の存続より別の何かを選ぶかもしれない。
その選択を奪わないために、六人の黒瀬零が必要になる。
「お兄ちゃん」
灯が俺の服を掴む。
「未来の私は、自分を救わないかもしれないの?」
「まだ決まってない」
「でも、選べるようにするって」
「選択肢があることと、選ぶことは別だ」
俺は灯を見る。
「未来のお前が何を選ぶとしても、今のお前がその責任を負う必要はない」
「うん」
「それに」
六枚目の署名欄を見る。
「第六署名者は、お前を救わないために生まれるわけじゃない」
「じゃあ、何のため?」
「お前が救われる以外の答えを選んでも、その答えを誰かに奪われないようにするためだ」
灯はすぐには頷かなかった。
正しい答えを聞いたわけではない。
むしろ、未来の自分が何を選ぶか分からないという恐怖が増えただけかもしれない。
それでも、灯は俺の手を握った。
「今の私は、生きたいよ」
「ああ」
「お兄ちゃんの妹でいたい」
「ああ」
「十九歳の私が違う答えを選んでも、今の私は違う」
「ああ」
「なら」
灯は申請書を見上げる。
「今の私の答えも、残しておいて」
文乃が銀色の書類板を構える。
「未来学籍の関係者回答として記録できます」
「書いて」
――現在の黒瀬灯。
――年齢、十六歳。
――本人回答。
「私は、今は自分を救いたい」
文字が刻まれる。
「未来の私が何を選ぶかは、未来の私に返す。でも、今の私をその答えへ合わせないで」
――未来本人の選択を代行しない。
――現在本人の存続意思を確認。
「それから」
灯は俺たちを見る。
「黒瀬零を一人にするかどうかも、私のためだけに決めないで」
俺。
第四候補。
帝都理法大学の黒瀬零。
《第四学籍》。
ここにいない二人。
同じ名前を持つ者たち。
「みんなが別々にいたいなら、私を理由にしないで」
その言葉に、第四候補が小さく息を吐いた。
「未来の申請より、先に答えを出したな」
「何が?」
「俺が別の存在として残る理由だ」
第四候補は六枚の署名欄を見る。
「お前を守るためではない。俺が、他の黒瀬零と一件にされたくないから残る」
帝都理法大学の黒瀬零も頷く。
「俺は、三年前の決定を誰かへ渡さず、自分で責任を取るために残る」
《第四学籍》の輪郭が静かに揺れる。
「俺は、役割を失ったあとも、自分の回答を持つために残る」
灯が俺を見る。
「お兄ちゃんは?」
「俺は」
答えは簡単だった。
「俺として、お前の隣にいるために残る」
「私のためじゃないの?」
「お前の隣にいたいと選ぶのは、俺のためでもある」
灯は少し驚き、それから笑った。
「それなら、いいよ」
六枚の署名欄のうち、現在ここにいる四件の下へ、小さな文字が生まれた。
――署名理由候補。
――互いに不一致。
――個別性、確認。
未来申請が、僅かに完成へ近づいた。
だが、署名そのものは一件も埋まっていない。
今の答えは、未来の約束ではない。
ただ、未来で別々の選択をするための根拠として保存されただけだ。
「申請書を保全状態へ戻します」
文乃が中央端末へ手を伸ばす。
「これ以上の情報は、現在の権限では閲覧できません」
「第六署名者の成立申請者は?」
第四候補が尋ねる。
「五署名者の将来同意がなければ開示されません」
「また未来待ちか」
「はい」
「今できることは?」
澄玲が尋ねた。
「三年前の共同履修審査と、六年先行した学籍参照の対応を正式に再審査することです。また、現在存在する五署名候補が、互いに独立した学籍を持つことを暫定的に認めさせる必要があります」
「十二大学共同履修審査」
帝都理法大学の黒瀬零が言った。
「ああ」
文乃は十一枚の申請書を開く。
「本来、七日後に行う予定でした。しかし未来申請への接触により、審査条件が更新されています」
「悪い方に?」
「競技形式へ変更されました」
「競技?」
獅堂の目が僅かに輝いた。
文乃は表示を拡大する。
――十二大学共同履修実技。
――審査対象。
――複数学籍を持つ同名個体群。
――目的。
――各対象者が、互いに異なる判断・戦術・行動を持つ独立した学生であることを実証する。
「書類だけでは、別人と認めないのか」
俺が尋ねる。
「共同学籍網は、皆さんが同じ状況で異なる選択を行えるか確認するようです」
「何をさせられる」
文乃が次の頁を開いた。
――第一実技。
――同一条件下における個別到達試験。
――第二実技。
――同名対象間の対抗戦。
――第三実技。
――一件のみが正規学籍を得られる状況での共同選択。
「対抗戦」
第四候補が俺を見る。
「お前と戦うらしい」
「右腕が治ってからにしてほしいな」
「今の状態で十分だ」
「随分と自信があるな」
「お前の戦い方は見た」
「俺はお前のも見た」
「なら話が早い」
獅堂が二人の間へ入る。
「待て。対抗戦なら俺も参加できるのか」
「審査対象は同名個体です」
文乃が答えた。
「なぜだ」
「獅堂さんは黒瀬零ではありません」
「それは分かっている」
「ならば、なぜ参加できると思ったのですか」
「戦うと聞いたからだ」
「理由になっていません」
朔夜が獅堂の肩へ手を置く。
「安心しろ。護衛役や妨害役として参加できる実技もあるはずだ」
「本当か」
「知らない」
「天城!」
「落ち着け、獅堂」
澄玲が資料を読み進める。
「第一実技の補助参加者欄に、共同証明者の登録が認められています」
「ほらな」
朔夜が言った。
「偶然でしょう」
「結果が合っていれば問題ない」
「普段からその姿勢だから、危険なのです」
文乃が書類板を閉じる。
「実技開始は明日、午前九時です」
「早いな」
「未来申請の現在固定を一時遮断した影響で、再審査期限が繰り上がりました」
「準備時間は?」
「現在時刻から、約十七時間です」
「帝都神律大学へ戻れる?」
灯が尋ねる。
「戻る必要があります」
文乃が俺の左手首を見る。
端末には、神代緋月からの未確認通知が三十一件へ増えていた。
「少なくとも黒瀬さんは、今夜中に治療と活動許可の再確認を受けてください」
「許可は出ると思うか」
「出ないと思います」
「即答か」
「現在の負傷状態で、明日の対抗戦に参加させる教員がいるとは思えません」
腕輪が震えた。
着信。
神代緋月。
「噂をすれば」
灯が端末を見る。
「出た方がいいよ」
「分かってる」
通話を受ける。
「神代先生」
『黒瀬零』
声が低い。
「今から説明する」
『必要ない』
「状況が分かってる?」
『お前の右肩固定具が規定値を超えて変形し、左腕の筋損傷が再発し、心拍数が三度警告域へ入り、現在は帝都時律大学の《未発行学籍保全庫》にいることまで把握している』
「十分分かってるな」
『なぜそうなった』
「説明は必要じゃないんじゃ?」
『質問に答えろ』
灯が小さく笑う。
「未来の学籍を追いかけて走った」
『黒瀬零』
「はい」
『今すぐ帰還しろ』
「明日、共同履修実技がある」
『欠場しろ』
「俺が審査対象だ」
『欠場しろ』
「欠場したら、第四候補たちが同一学籍として処理される可能性がある」
通信の向こうが黙る。
『詳細を送れ』
文乃が申請書を端末へ転送した。
数秒。
『……十二大学共同履修実技』
「そう」
『対抗戦を含む』
「そう」
『右腕の使用は禁止。命題も禁止。左腕にも追加制限を設定する』
「参加は?」
『今夜の検査結果次第だ』
「欠場しろ、じゃないのか」
『お前が欠場した結果として、他の学籍が消える可能性を無視できない』
緋月は短く息を吐いた。
『だが黒瀬零。参加できることと、勝手に壊れてよいことは別だ』
「分かってる」
『分かっていないから、通知が三十一件ある』
「帰ったら全部読む」
『今読め』
「通話中だ」
『読み上げる』
「帰る。今から帰るから」
『四十分以内に《未定義現象研究室》へ来い』
「帝都時律大学から四十分?」
『履修連絡路の優先経路を開く』
「そんな権限があるのか」
『今、作った』
通信が切れた。
文乃が目を見開いている。
「帝都時律大学の優先経路へ、帝都神律大学から直接申請が届きました」
「通った?」
「規程には存在しない申請形式です」
「神代先生だからな」
「帝都神律大学は、本当に制度を後から作るのですね」
「慣れると便利だぞ」
「慣れたくありません」
◇
《未発行学籍保全庫》を出る前に、十九歳の黒瀬灯の学籍は再び透明な棚へ戻された。
未来申請も、六枚の署名欄を空白のまま閉じる。
ただし、現在の灯が記録した答えだけは残った。
――私は、今は自分を救いたい。
未来の灯が何を選ぶかは分からない。
未来の黒瀬零たちが署名するかも分からない。
第六署名者が本当に生まれるのかも分からない。
それでも、今の灯の答えは、未来の記録より先にここへ存在している。
「お兄ちゃん」
灯が透明な棚を見上げた。
「三年後、みんなが署名したら、未来は決まるのかな」
「決まらない」
「どうして?」
「署名する理由は、全員違わないといけない」
俺は六枚の空欄を思い出す。
「同じ申請へ辿り着いても、同じ答えを選んだことにはならない」
「未来が同じでも?」
「そこへ行くまでの理由が違えば、別の人生だろ」
灯はしばらく考えた。
「なら、六人必要なのは」
「ああ」
「未来を一つにするためじゃなくて」
「一つの未来へ、六通りの選び方を残すためかもしれない」
灯は透明な棚へ背を向けた。
「一人じゃ、足りないんだね」
「何が?」
「私の未来を決めないためには」
黒瀬零が一人では足りない。
それは一人の力が弱いからではない。
一人がどれだけ正しい答えを選んでも、その答えしか残らなければ、灯は選べない。
異なる六人が、異なる理由で同じ扉を開く。
その時に初めて、扉の向こうへ進むかどうかを、灯自身が決められる。
俺たちは保全庫を出た。
時計塔の外では、先ほどまで起動していた《時制執行機》が停止している。
優先経路の銀色の床が、帝都神律大学へ向かって一直線に伸びていた。
「明日」
第四候補が俺の隣へ来る。
「対抗戦だ」
「ああ」
「能力は禁止なんだろ」
「俺だけな」
「好都合だ」
「何が」
「能力抜きなら、どちらが黒瀬零に相応しいか、分かりやすい」
「その審査じゃない」
「分かっている」
第四候補は前を見る。
「誰が本物かを決めるつもりはない」
「なら、何を決める」
「俺がお前とは違うことだ」
血の滲んだ掌。
毎秒六百八十メートルで飛ぶ針へ、発射後から追いついた脚。
自分の学籍がなくても、灯の学生証を拾いに飛び出した判断。
同じ起源を持つ可能性があっても、俺とは既に違う戦い方をしている。
「俺も同じだ」
俺は答えた。
「お前が俺とは違うってことを、明日証明する」
「負けた方が?」
「別人だ」
「勝った方は?」
「別人だ」
第四候補が僅かに笑う。
「勝敗の意味がないな」
「それでも勝つ」
「そこは同じか」
「らしいな」
前方で、澄玲が振り返った。
「黒瀬さん、第四候補。明日の対抗戦について話しているのですか?」
「ああ」
「黒瀬さんは今夜の検査結果次第です。参加できると決まったわけではありません」
「九条、止めても無駄だ」
朔夜が言う。
「止めるのではありません。参加する場合に備えて、負傷を悪化させない戦術を考えます」
「戦わせる前提になっているぞ」
「欠場させられない可能性が高い以上、最悪の場合へ備えるのが合理的です」
「九条らしいな」
「褒めていますか?」
「頼りにしている」
「では、明日までに黒瀬さんの左腕を使わず、右腕も動かさず、命題にも頼らず、第四候補へ勝つ方法を考えます」
「無理じゃないか?」
「黒瀬さん」
澄玲が足を止める。
「始める前から、解がないと決めないでください」
白い光が彼女の瞳へ僅かに宿った。
「問題を正しく定義すれば、解法は存在します」
「どう定義する」
「明日、考えます」
「今じゃないのか」
「まず治療を受けてください」
「結局そこか」
「当然です」
優先経路の先に、帝都神律大学の観測環が見えてくる。
十九歳の灯。
未来の六署名。
まだ生まれていない第六の黒瀬零。
分からないことは増えた。
それでも、次にやることだけは単純だった。
明日。
同じ名前を持つ者同士で戦う。
誰が本物かを決めるためではない。
誰も、他の誰かの重複ではないと示すために。
その時、灯が俺の袖を引いた。
「お兄ちゃん」
「何だ」
「明日、負けても消えないよね」
「消えない」
「勝っても、第四候補は消えない?」
「消させない」
「なら」
灯は少し迷ってから言った。
「どっちも頑張って」
「俺だけ応援しないのか」
「第四候補も、学生になろうとしてるから」
「お前の兄かもしれないぞ」
「今は、お兄ちゃんじゃないよ」
「そうか」
「でも」
灯は第四候補の背中を見る。
「他人でも、消えていいわけじゃないでしょう」
「ああ」
その答えだけは、三年後まで待つ必要がなかった。
銀色の経路を走る俺たちの背後で、帝都時律大学の時計塔が一度だけ鐘を鳴らした。
同時に、《未発行学籍保全庫》の第六署名欄へ、新しい記録が生まれる。
俺たちはまだ知らない。
――第六署名者。
――成立申請準備、開始。
――成立に必要な対抗記録。
――黒瀬零同士による、最初の敗北。
明日の対抗戦で。
誰か一人が負けた時。
まだ存在しない六人目へ、最初の輪郭が与えられる。




