第四十九話 未来が私を名乗る前に
「来ないで」
三年先の日付が表示された教室から、現在の灯と同じ声が響いた。
「今の私が十九歳になる前に、ここへ来ないで」
未来へ続く扉の向こうには、一人の少女が立っていた。
黒い髪。
見慣れた顔立ち。
今の灯より僅かに背が高く、帝都神律大学の制服を着ている。
胸元には《第零学部》の標章。
けれど、その姿を灯の未来だと断定するには、決定的な何かが足りなかった。
顔も声も似ている。
十九歳という年齢も、先ほど見つかった学籍記録と一致している。
それでも、似ていることと同じ人物であることは別だ。
未来側の灯は、半分ほど閉じた扉へ両手をかけていた。
こちらから開こうとしているのではない。
向こう側から、必死に閉じようとしている。
「あなたは……私なの?」
灯が尋ねた。
未来側の少女は、すぐには答えなかった。
「その質問へ私が先に答えたら、今のあなたを私へ決めることになる」
「じゃあ、違うの?」
「それも私が決めてはいけない」
「何も答えてくれないんだね」
「答えないために、三年前から待っていた」
黒い針が逆方向へ回り続ける。
教室の壁。
机。
窓の外にある夕焼け。
全てが、一秒ごとに僅かずつ過去へ巻き戻されていた。
机の傷が消える。
窓へ積もっていた埃が薄くなる。
黒板に残されていた古い文字が、書かれる前の状態へ戻っていく。
だが、未来へ開いた扉だけは消えない。
『特別補講の受講条件を確認』
針のない時計から声がした。
『必要受講者』
『黒瀬灯、十九歳』
『現在の受講候補』
『黒瀬灯』
『年齢条件、不足』
灯の足元へ灰色の円環が広がった。
――不足期間。
――三年。
「三年をどうするつもりだ」
俺は灯の前へ出る。
『不足期間を補完』
灰色の円環から、細かな数字が浮かび上がる。
一日。
一か月。
一年。
三年。
灯の周囲だけで時間が急速に積み重なり始めた。
「お兄ちゃん」
灯が俺の手を強く握る。
身体が急に変化しているわけではない。
だが、灯の学生記録へ、まだ経験していない三年間が書き込まれようとしている。
履修歴。
出席日数。
研究活動。
交友関係。
何を選び、何を失い、誰の隣にいたのか。
存在しない三年間の空白へ、未来側の記録が重なり始めた。
――黒瀬灯、十七歳。
――黒瀬灯、十八歳。
――黒瀬灯、十九歳。
「止めて!」
未来側の灯が叫ぶ。
「その三年は、私のものだから! 今の私へ渡さないで!」
『同一学籍間の不足情報を補完』
「同じだって決まってない!」
『氏名一致』
『所属一致』
『兄妹関係一致』
『年齢到達先一致』
「一致してる情報だけで、人間全部を同じにしないで!」
未来側の灯は扉を閉じようとする。
しかし、扉の隙間から伸びた灰色の光が、現在の灯へ絡みついている。
未来と現在。
二つの学籍記録を、一人の黒瀬灯へまとめようとしていた。
「獅堂さん!」
「承知している!」
獅堂が地面を踏みしだく。
「今ここに立つ黒瀬灯の時間を、他の誰かへ渡させはしない!」
黄金の王土が展開する。
「万象は我が礎!」
現在の灯が立つ位置。
今の年齢。
今の身体。
今ここで握っている俺の手。
それらが一つの現在として固定された。
灰色の数字が黄金の床へ衝突する。
十七歳という記録が弾かれる。
十八歳も。
だが、十九歳の情報だけは消えなかった。
灯の未来としてではない。
既に存在する別の学籍として、扉の向こうから現在へ干渉している。
「固定できるのは、現在の位置だけだ!」
獅堂が歯を食いしばる。
「未来側に既に成立した記録までは、俺の王土へ置けん!」
「なら、因果を切る」
朔夜の指先から黒い薄刃が伸びる。
「九条、どこだ」
「まだ待ってください!」
澄玲の周囲へ青い数式が広がっていた。
「現在の灯さんと未来学籍の接続を直接切れば、現在の灯さんが三年間の時間経路から外れる可能性があります」
「それなら、今の時間へ残るんじゃないのか」
「違います」
澄玲は灰色の光を追う。
「この教室は、現在の灯さんを『まだ十九歳へ到達していない同一受講者』として扱っています。接続だけを失えば、現在の灯さんが何歳の時点に属する個体なのか確認できなくなります」
「では、何を切る」
「不足期間と、即時補完の必要性です」
澄玲の指先が、灰色の文字を示す。
――年齢条件が不足している。
――ゆえに、三年間を直ちに補完する。
「天城先輩、この二つの間にある因果を切断してください!」
「了解」
朔夜が黒い薄刃を振るう。
「因果切断!」
音もなく刃が走った。
灯が十九歳ではない。
その結果として、今すぐ三年間を与えなければならない。
両者の因果的な接続が切断される。
灰色の数字が一斉に止まった。
だが、未来側の扉は開いたままだ。
『年齢条件、不足』
『補完処理との対応を喪失』
『別処理を検索』
「次が来ます」
澄玲が扉を見る。
『十九歳時点の受講者を、現在へ召喚』
「今度は向こうを引っ張るのか」
俺が言った直後、未来側の灯の身体が扉へ引かれた。
「っ……!」
彼女は扉の縁を掴んで踏みとどまる。
未来の教室にいたはずの机や鞄まで、現在側へ滑り始めた。
「来ないでって言ったのに……!」
「お前が来ることになるぞ!」
「それも駄目!」
「どうして」
灯が未来の自分かもしれない少女へ手を伸ばす。
「今の私が向こうへ行くのも、あなたがこっちへ来るのも駄目なの?」
「私が今ここへ来たら、あなたが十九歳になるまでに選ぶはずだった三年間がなくなる!」
「あなたが経験したことを、私がすることになる?」
「違う。私が経験した結果だけが残って、あなたがそこへ至るまでの選択が消える」
未来側の灯は扉から引き剝がされそうになりながら、こちらを見る。
「私が何を選んだのか、今の私は知らなくていい!」
「でも、あなたは私にノートを残した」
「何も知らないまま同じ失敗をするのを防ぐため」
「なら、教えて」
「教えたら、あなたは私の答えを選んだことにされる!」
二人の灯が互いを見つめる。
同じ声。
似た顔。
同じ名前。
それでも、片方がもう片方の完成形ではない。
未来側の灯も、今の灯へ自分の答えを押しつけることを拒んでいる。
「黒瀬さん」
澄玲が俺を呼ぶ。
「未来側の灯さんを引き戻す必要があります」
「どうすればいい」
「未来側の教室へ、その人物が現在も所属していることを固定します」
「獅堂の能力では届かないんだろ」
「はい。ですから、未来側の本人に回答してもらいます」
澄玲が扉の向こうへ声をかける。
「十九歳のあなたは、その教室へ残ることを選びますか?」
未来側の灯は息を詰まらせた。
「残りたいかどうかじゃない」
「では、今のあなたはどこにいると答えますか」
「私は」
少女は自分の足元を見る。
三年先の教室。
使い込まれた机。
黒板の端へ貼られた、《第零学部》の講義予定。
「私は、三年後にいる」
『回答を確認』
未来側の教室へ文字が現れる。
――黒瀬灯。
――十九歳。
――現在位置。
――三年後。
「灯さん!」
澄玲が現在の灯へ向く。
「あなたは?」
「私は今、ここにいる」
「年齢は?」
灯は一瞬だけ迷った。
だが、未来の学籍に書かれた十九歳という数字ではなく、自分が現在認識している年齢を答えた。
「十六歳」
――黒瀬灯。
――十六歳。
――現在位置。
――帝都時律大学・特別補講室。
二つの記録が並ぶ。
同じ氏名。
異なる年齢。
異なる時点。
異なる現在回答。
『同一学籍としての統合に不整合を確認』
「不整合じゃないよ」
灯が言った。
「三年後の私と今の私は、同じ名前でも、同じ今にはいない」
『同一個体判定を要求』
「今すぐ決めなくていい」
『出席処理には、同一性の確定が必要』
「必要なのは、あなたたちの処理にとってでしょう」
澄玲が静かに告げる。
「本人たちが現在別の時点へ存在している事実を、処理上の都合によって一人へ統合してはなりません」
『同一性未確定の場合、補講を成立できない』
「なら、今日は成立しなくて構いません」
澄玲の瞳へ青い光が集まる。
「問題を定義します」
――現在の黒瀬灯と、十九歳の黒瀬灯を統合せず。
――どちらも現在の位置から移動させず。
――補講そのものを消去せず。
――十九歳への到達後まで、受講開始を延期する。
「世界は解を持つ」
一本の白い線が、現在の灯から未来の扉へ伸びた。
しかし、二人を直接結ばない。
線は教室の黒板を通り、針のない時計へ到達する。
――欠席。
――未受講。
――条件不足。
三つの処理の間を抜け、別の欄へ続いた。
――未到達。
「欠席したのではありません」
澄玲が言う。
「現在の灯さんは、まだ受講時点へ到達していないだけです」
『補講は三年前に開始済み』
「開始時点が受講者本人の時間と一致していません」
『時間差は、帝都時律大学の照合対象』
「ならば、受講者を時間へ合わせるのではなく、講義を受講者の到達まで待機させてください」
『前例なし』
「解法は存在しています」
白い線が時計の中央へ突き刺さる。
針のなかった時計へ、新しい表示が生まれた。
――開講延期。
――受講者時間への到達待ち。
――必要条件。
――現在受講者本人の同意。
全員の視線が灯へ集まった。
今の灯。
十六歳の黒瀬灯。
未来の教室へ進むか。
扉を閉じるか。
決めるのは俺ではない。
「灯」
「うん」
「お前が決めろ」
「お兄ちゃんは、どっちがいい?」
「今のお前に、三年を飛ばしてほしくない」
「未来の私を、こっちへ連れてきたい?」
「それも違う」
「じゃあ」
灯は未来側の少女を見る。
「今は、会わない方がいいと思う?」
「俺が決めたくない」
「ずるい」
「ああ」
「でも」
灯は少しだけ笑った。
「今は、それでいい」
未来側の灯も、扉の向こうから現在の自分を見ている。
「十九歳の私」
「何?」
「あなたを、未来の私だって決めない」
「うん」
「別人だとも決めない」
「うん」
「でも、あなたが私へ残した言葉は忘れない」
「忘れてもいい」
「どうして」
「忘れたあと、必要ならもう一度選べるから」
灯は少し驚いたように目を見開く。
それから俺を見た。
「似たことを言うね」
「誰と?」
「お兄ちゃんと」
未来側の灯は扉越しに俺を見る。
「お兄ちゃん」
俺をそう呼んだ。
けれど、それが未来の俺を指しているのか。
現在ここにいる俺を指しているのか。
あるいは、複数いる黒瀬零の誰かを指しているのか。
今は分からない。
「今の私を、妹じゃないと思わないで」
ノートに残された言葉と同じだった。
「言われなくても、お前が灯なら妹だ」
「それだと、同じ名前の全員が妹になるよ」
「じゃあ、訂正する」
俺は現在の灯の手を握る。
「今ここで、俺の手を握っている黒瀬灯は、俺の妹だ」
未来側の灯が少しだけ笑った。
寂しそうでも。
安心したようでもあった。
「それならいい」
灯が時計へ向き直る。
「私は、今は補講を受けない」
――現在受講者本人の回答。
――今は受講しない。
「でも、消さないで」
――補講記録の保存を希望。
「私が十九歳になった時、もう一度、自分で決める」
――再確認時期。
――本人年齢、十九歳。
「それまで、この席を空けておいて」
未来側の教室にある学生鞄が、机の中央へ戻る。
灰色の光が弱まっていく。
『開講延期を受理』
『受講状態』
『未到達』
『回答期限』
『黒瀬灯が十九歳となる時点』
未来へ続く扉が、ゆっくりと閉じ始めた。
今度は強制ではない。
二人の灯が、それぞれの時点へ残ると選んだ結果だった。
「待って」
現在の灯が一歩近づく。
俺も手を離さず、隣へ進む。
「最後に一つだけ聞いていい?」
「答えられることなら」
「第四候補は、あなたのお兄ちゃんだったの?」
第四候補の表情が僅かに動いた。
未来側の灯は彼を見る。
記録には兄妹とある。
だが、記録と本人の選択が一致するとは限らない。
「私は」
未来側の灯は、言葉を選ぶ。
「兄がいたことを覚えている」
「それが第四候補?」
「分からない」
「どうして」
「その人を兄と呼んだ理由だけが、記録から切り離されているから」
第四候補は何も言わなかった。
「でも」
未来側の灯は続ける。
「今のあなたを、私の兄だとは決めない」
「そうか」
「あなたも、私を妹だと決めないで」
「ああ」
「それでも、探してくれる?」
「何を」
「三年前、私たちが兄妹だったと記録された理由を」
第四候補は扉の向こうを見つめる。
「探す」
「自分の答えが、記録と違っても?」
「違うなら、違うと答える」
「それならいい」
扉の隙間が細くなる。
未来側の灯は、最後に帝都理法大学の黒瀬零へ視線を向けた。
「あなたも」
「俺か」
「今度は、一人で決めないで」
男の目の奥で黒い文字が止まった。
「分かっている」
「三年前のあなたも、そう答えたよ」
帝都理法大学の黒瀬零が息を呑む。
「俺は、前にもお前と話したのか」
「その記憶を、自分で封印したでしょう」
「何を話した」
「今は教えない」
「なぜ」
「あなたが思い出す前に答えを渡したら、それは記憶じゃなくて、私が書いた新しい結論になるから」
男は返す言葉を失った。
扉が閉じる。
未来側の灯の姿が見えなくなる直前、彼女は現在の灯へ手を振った。
「十九歳になっても、来るかどうかは自分で決めて」
「うん」
「来なかったら?」
「その時は、行かないって決めた私を覚えてて」
「分かった」
「それじゃあ」
僅かな迷い。
そして、未来側の灯は告げた。
「またね」
「うん」
現在の灯も手を振る。
「またね」
扉が閉じた。
鍵がかかる。
黒い針が止まり、教室の時間が再び動き始めた。
◇
未来への扉が消えたあとも、特別補講室はすぐには元へ戻らなかった。
夕焼け。
四つの机。
針を持たない時計。
十九歳と記された学生証。
全てが残っている。
ただし、学生証の氏名欄には最後まで名前が入らなかった。
――氏名、未提出。
――現在の在所、確認。
――受講状態、未到達。
文乃が銀色の書類板へ記録を転送する。
「補講延期が正式に受理されています」
「この都市の正式って、どこまで信用できるんだ」
俺が尋ねる。
「少なくとも、現在の灯さんを十九歳の学籍へ自動統合する処理は停止しました」
「解除ではない?」
澄玲が問い返す。
「はい。同一性照合そのものは保留されています」
「つまり、灯さんが十九歳になった時、再び審査が始まる可能性があるのですね」
「記録上はそうなります」
「三年後か」
俺は学生証を見る。
「現在の時間基準に従えば」
文乃が答える。
「帝都神律大学との時間対応が再構築されるまでは、正確な日付を確定できません」
「三年後に、三年前の補講を受ける?」
灯が首を傾げる。
「時間だけで言えば、六年ずれているように見えるね」
「そうです」
澄玲の表情が険しくなる。
「三年前に十九歳の灯さんが在籍していたのではなく、三年後に十九歳となる学籍が、何らかの理由によって三年前の共同履修審査へ参照された可能性があります」
「未来の学籍が、過去へ送られた?」
「現時点では推測です。逆に、過去の学籍が三年後まで継続している可能性もあります」
「どっちにしても」
灯は学生鞄から現れたノートを抱える。
「私より先に、私の学籍だけが《第零学部》にいた」
「そう見える」
「どうして?」
「分からない」
俺は答えた。
「今はな」
灯は少しだけ不満そうに俺を見る。
「また未証明?」
「嫌か」
「少しだけ」
「それでも、今すぐ誰かの答えにされるよりましだろ」
「うん」
灯はノートの表紙へ手を置く。
「この続き、読んでもいいのかな」
開こうとする。
だが、最初に読んだ頁より先は白紙だった。
切り取られたはずの部分も、痕跡だけが残っている。
文乃が書類板で照合する。
「閲覧制限が設定されています」
「誰が?」
「十九歳の黒瀬灯本人です」
――閲覧条件。
――現在の黒瀬灯が、自分の意思で十九歳へ到達していること。
「年齢だけでは足りないのか」
第四候補が尋ねる。
「はい。時間操作、記録上の年齢変更、経験期間の補完による到達は除外されています」
「随分、念入りだな」
朔夜が言った。
「九条が未来に資料を残す時も、こういう条件をつけそうだ」
「私は、必要な情報を故意に隠すことを好みません」
「でも、伝えることで相手の答えを奪うなら?」
澄玲は一瞬だけ考えた。
「その場合は、相手が自分で閲覧を選べる条件を設定します」
「やっぱり似てるな」
「誰とですか」
「十九歳の灯」
「天城先輩、それは現在の灯さんと同一であることを前提にしています」
「そうだった。訂正する」
朔夜は素直に頷いた。
「十九歳の学籍を持つ、灯に似た誰か」
「長いですね」
「正確さは面倒だな」
「必要な面倒です」
獅堂が四つの机を見回す。
「結局、この補講は何を教えるためのものだった」
黒板には科目名が残っている。
――共同実習。
――複数学籍間同一個体証明。
――特別補講。
――第零時限。
「同じ名前を持つ複数の学籍が、一人の個体に属することを証明する講義」
帝都理法大学の黒瀬零が答えた。
「三年前、四件の黒瀬零に対して行われた審査と同じ目的だ」
「だが、補講対象は灯だ」
第四候補が言う。
「なぜ、黒瀬零の同一性審査へ黒瀬灯が必要になる」
誰も答えられなかった。
《第四学籍》が、三枚の《異議付記欄》を胸元へ抱え直す。
「第一記録と第二記録にも、同じ補講科目が残っている」
「二件も黒瀬灯だった可能性があるのか」
俺が尋ねる。
「氏名は確認できない」
「では、黒瀬零かもしれない?」
「それも確認できない」
「同じ科目を履修していただけ?」
「肯定」
文乃が補講室の出席記録を確認する。
「この教室には、本来四名の受講者が設定されています」
――第一受講者、黒瀬零。
――第二受講者、《第四候補》。
――第三受講者、氏名確認不能・二件。
――第四受講者、氏名未提出。
「人数が合っていません」
澄玲が表示を読む。
「第三受講者へ二件がまとめられています。第四受講者は灯さんの学籍候補。合計すれば五件です」
「また一つ多いのか」
俺は《第四学籍》を見る。
「お前を数えている?」
「俺は受講者として登録されていない」
「では、どこから五件目が出た」
文乃が記録をさらに開く。
受講者一覧の下。
通常は教員名が入る欄へ、黒く塗り潰された文字があった。
――講義担当者。
――氏名、閲覧制限。
――学籍区分。
――受講者兼任。
「教員自身も受講者として数えられている?」
灯が尋ねる。
「そのようです」
「担当者は誰だ」
帝都理法大学の黒瀬零が表示へ手を伸ばす。
閲覧制限の根拠を照合する。
――解除条件。
――黒瀬灯、十九歳。
「また十九歳か」
俺が言った。
「今は開けない方がいい」
灯は自分から一歩下がった。
「知りたくないのか」
第四候補が尋ねる。
「知りたいよ」
「なら」
「でも、さっき今はここまでにするって決めた」
灯はノートを胸元へ抱える。
「すぐに答えを変えたら、未来の私が扉を閉めた意味がなくなる」
「未来の自分かは、まだ決まっていない」
「うん。だから、あの人が閉めた扉を、今の私が勝手に開けない」
第四候補はそれ以上言わなかった。
未来側の灯を妹と決めない。
現在の灯も、記録上の妹へ固定しない。
それでも、彼女が選んだ境界を尊重する。
「分かった」
短く答える。
文乃が補講室の記録を封印し直した。
――特別補講。
――開講延期。
――再確認時期、黒瀬灯十九歳。
――現在受講者による氏名提出、なし。
――本人意思による延期、確認。
「これで退出できます」
「戻る時間は、元の時点と一致する?」
澄玲が尋ねる。
「帰還経路は維持されています。ただし、数分程度の差が生じる可能性があります」
「数年ではなく?」
「その可能性は、現在確認されていません」
「安心させる言い方が下手だな」
俺が言う。
「保証できないことを保証するより適切です」
「玄理先生と本当に話が合いそうだ」
◇
灰色の階段を上り、《履修連絡路》へ戻る。
足元の時計表示は、帝都時律大学へ向かう前から十一分しか進んでいなかった。
補講室では一時間近く過ごした感覚がある。
「これくらいの差で済んだか」
朔夜が腕時計を見る。
「締切前に使えそうだな」
「天城先輩」
「冗談だよ」
「半分は本気でしょう」
「九条は俺のことを理解し始めている」
「理解した結果、警戒しています」
先ほどまで張り詰めていた空気が、ほんの少しだけ緩む。
灯は俺の隣を歩いていた。
ノート。
十九歳の学生証。
現在の自分へ宛てられた言葉。
それらを鞄へ入れず、両手で抱えている。
「重くないか」
俺が尋ねる。
「重い」
「持つか」
「お兄ちゃん、右腕使えないでしょう」
「左がある」
「さっき私を引っ張って、また負荷がかかったよね」
「腕輪は黙ってる」
左手首の端末を見る。
赤い点滅は既に消えている。
代わりに、画面へ文字が表示されていた。
――神代緋月から、未確認通知二十七件。
「黙ってなかった」
「帰ったら怒られるね」
「帰る前から怒られてる」
「通知、見る?」
「あとで」
「今見た方がいいと思う」
「今は灯の記録が先だ」
「お兄ちゃん」
「何だ」
「私が十九歳になったら」
灯は歩きながら、前を見ている。
「また、あの教室へ行くのかな」
「行きたいなら」
「お兄ちゃんも来る?」
「呼ばれれば」
「呼ばなかったら?」
「近くで待つ」
「扉の前?」
「ああ」
「勝手に入らない?」
「努力する」
「努力じゃなくて約束して」
俺は少し考えた。
灯が自分で開くと決めた扉。
俺が守るという理由だけで、先に壊してはいけない。
「お前が呼ぶまで入らない」
「うん」
「でも、中で危険が起きたら行く」
「条件を追加した」
「兄だからな」
「今の?」
「ああ」
「三年後も?」
「その時のお前が、俺を兄だと選ぶなら」
灯は一瞬だけ黙る。
そして、俺の左手を取った。
「今のところ、三年後も選ぶ予定」
「予定か」
「未来の答えを今決めちゃ駄目なんでしょう?」
「そのとおりだ」
灯は少し得意そうに笑った。
未来の自分に、今を決めさせない。
今の自分も、未来を縛らない。
その間にある三年間を、誰かの記録で埋めない。
自分で歩く。
その選択だけは、今ここで確かだった。
履修連絡路の先に、帝都時律大学の正門が見えてくる。
本来の目的は、十九歳という年齢情報の照合だった。
補講室へ入ったことで、答えの一部は得られた。
三年前の記録に十九歳と記されていたからといって、その人物が三年前に十九歳として生きていたとは限らない。
三年後の学籍が、三年前の審査へ参照された可能性がある。
だが、なぜ。
誰が。
何のために。
未来の灯の学籍を過去へ置いたのかは分からない。
その時、《第四学籍》が足を止めた。
「どうした」
俺が尋ねる。
「第三の《異議付記欄》に、新しい情報が発生した」
《第四学籍》が、黒瀬灯の名前を持つ白紙を開く。
未来への扉が閉じたことで、閲覧制限の一部が更新されていた。
――学籍発行予定時刻。
――現在より三年後。
――初回参照時刻。
――現在より三年前。
「六年間」
澄玲が二つの時刻を確認する。
「この学籍は、本来発行される時点より六年前に、共同履修審査へ参照されています」
「誰が参照した」
第四候補が尋ねる。
その下へ、新しい項目が表示された。
――過去参照申請者。
――学籍番号、現在未発行。
――氏名。
文字が一つずつ現れる。
――黒瀬零。
俺たちは立ち止まった。
「また黒瀬零か」
獅堂が低く言う。
帝都理法大学の黒瀬零が、表示へ近づく。
「俺の学籍番号ではない」
「今の俺でもない」
「三年前の俺でも、採択領域から離脱した俺でもない可能性が高い」
「第四候補でもない」
同じ名前。
現在は存在しない学籍番号。
三年後に発行される黒瀬灯の学籍を、六年前へ参照した黒瀬零。
申請者欄の下には、もう一つだけ条件が残されていた。
――参照理由。
――黒瀬灯が十九歳となる時点まで。
――黒瀬零の学籍を、一件へ確定してはならない。
俺。
三年前の俺。
採択領域から離脱した俺。
第四候補。
帝都理法大学の黒瀬零。
《第四学籍》。
今、同じ名前から分かれた者たちを、一人へまとめようとする共同履修審査を止めたばかりだった。
それは偶然ではない。
十九歳の灯が残る未来まで。
複数の黒瀬零が存在し続ける必要がある。
誰かが、六年前からそう判断していた。
「黒瀬零を一人にするな」
灯が記録を読む。
「どうして、私が十九歳になるまで?」
答えは表示されなかった。
代わりに、参照申請の末尾へ署名時刻だけが浮かぶ。
――署名予定時刻。
――現在より三年後。
未来の黒瀬零が。
未来の灯の学籍を。
六年前へ送った。
その目的は、複数の黒瀬零を生かしたまま残すこと。
俺たちが今まで、自分たちの分岐を事故や審査の結果だと思っていた、そのさらに前から。
未来では既に。
黒瀬零が一人では足りない理由が、存在している。




