第四十八話 十九歳という空欄
――黒瀬灯。
――学籍発行時年齢。
――十九歳。
《異議付記欄》へ現れた二行を、誰もすぐには読み直せなかった。
読み間違いではない。
文字は消えず、白紙の中央に残っている。
灯は俺より年下だ。
少なくとも、今ここにいる灯は十九歳ではない。
「私が、十九歳……?」
灯が自分の胸元へ触れる。
確かめるような動作だったが、年齢が身体のどこかへ書かれているわけではない。
「違う」
俺は灯の手を取った。
「この記録に十九歳と書かれているだけだ。お前が十九歳だったと決まったわけじゃない」
「でも、名前も同じだよ」
「名前が同じ黒瀬零なら、もう何人もいる」
「それは、お兄ちゃんだけがおかしいんじゃないかな」
「否定できない」
軽口へ逃げたつもりはなかった。
けれど、灯の表情がほんの少しだけ緩む。
九条澄玲は《異議付記欄》へ顔を近づけ、浮かんでいる文字列を慎重に観察した。
「綴木さん。この年齢は、どの情報から復元されたものですか?」
「確認します」
綴木文乃が銀色の書類板へ《異議付記欄》を読み込ませる。
十二本の筆記具を模した紋章が回転し、情報の成立経路が空中へ展開された。
――氏名情報。
――現在接触した個体からの逆照合。
――黒瀬灯。
――所属情報。
――過去履修記録と現在回答の複合照合。
――帝都神律大学《第零学部》。
――学籍発行時年齢。
――消失前記録から直接復元。
「名前と所属は、現在の灯さんから逆照合された候補情報です」
文乃が説明する。
「ですが、十九歳という年齢は、三年前の消失記録そのものに残っていた数値です」
「つまり、名前が黒瀬灯だという部分は、まだ現在の灯君との対応によって再構成された可能性がある」
帝都理法大学の黒瀬零が言った。
「一方で、十九歳という情報だけは、三年前から記録に存在した」
「三年前に十九歳だったなら、今は二十二歳のはずだよね」
灯が小さく呟く。
「通常の時間経過に従えば、そうです」
澄玲が答える。
「ただし、この記録と現在の灯さんが同一人物であることは証明されていません。また、《学術都市》には異なる時間基準を持つ大学もあります。年齢の算定方式が私たちと同じだったかも、まだ確認が必要です」
「十九歳という数字にも、別の意味があるかもしれない?」
「可能性はあります。ですが、都合のよい解釈を先に選ぶべきではありません」
澄玲は灯を真っ直ぐに見る。
「今の段階で確定しているのは、三年前に消失した学籍の一件へ十九歳という情報が残されていたこと。その学籍が現在の灯さんへ反応し、黒瀬灯という氏名候補と《第零学部》という所属候補を表示したことだけです」
「私が、その人だったとは決まってない」
「はい」
「その人じゃなかったとも、まだ決まってない?」
「はい」
灯は《異議付記欄》を見つめた。
第四候補も、同じ紙を見ている。
彼と消失学籍の関係欄には、兄妹と記録されていた。
だが、第四候補は灯を妹と呼ばない。
呼べないのではなく、今は呼ばないと選んでいるように見えた。
「聞いていいか」
第四候補が灯へ声をかける。
「何?」
「俺を見て、兄だと思うか」
灯は驚いたように目を瞬いた。
俺の手を握る指へ、少しだけ力が入る。
「思わない」
迷いながらも、答えは明確だった。
「今の私のお兄ちゃんは、この人だから」
灯は俺を見る。
第四候補は感情を表に出さず、その答えを受け取った。
「そうか」
「ごめん」
「謝る必要はない。俺も、お前を妹だと決めていない」
「記録に兄妹って書いてあるのに?」
「記録を見たから兄になれるなら、三年前の俺は退学処分を見ただけで納得していたはずだ」
第四候補は白紙へ視線を戻す。
「それでも、この学籍が誰のものだったのかは知りたい」
「私も」
灯が答える。
「でも、その人が私だったって、今すぐ決められるのは嫌」
「同意する」
第四候補は頷いた。
「お前の答えが出る前に、俺の妹として扱わない」
帝都理法大学の黒瀬零が二人を見ていた。
「三年前の俺が、それをできていればよかった」
第四候補の視線が男へ移る。
「後悔を口にすれば、処分が消えるわけではない」
「分かっている」
「なら、今は調べろ」
「ああ」
帝都理法大学の黒瀬零は反論しなかった。
彼が自分の記憶を失ってまで守った一件の学籍。
その持ち主が灯だったのか。
別の黒瀬灯だったのか。
あるいは、現在の灯へ誤って対応づけられただけなのか。
答えは、まだ一つも確定していない。
◇
「年齢情報の発行元を確認できました」
文乃が書類板を操作し、空中へ一枚の履修記録を表示した。
――学籍年齢認証機関。
――帝都時律大学。
「帝都時律大学?」
俺が尋ねる。
「《学術都市》における時間、履修期間、在籍年齢、卒業要件の対応を管理している大学です」
「年齢を大学が管理するのか」
「管理するのは年齢そのものではありません。異なる時間法則を持つ大学間で、何年間在籍したか、どの時点の年齢を正式記録へ採用するかを照合します」
文乃が別の資料を開く。
「例えば、学外では一日しか経過していなくても、大学内部で一年間の研究を終える機関があります。逆に、外部で十年が経過しても、本人にとっては一週間しか経過しない場合もあります」
「便利そうだな」
朔夜が言う。
「締切前に一年使える大学はあるのか」
「天城先輩」
澄玲が静かに名前を呼ぶ。
「研究のためだよ」
「提出期限を延ばす目的が先に聞こえました」
「研究にも期限はある」
「だからこそ、普段から計画的に進めてください」
「九条は未来の俺に厳しいな」
「現在の天城先輩へ言っています」
獅堂剛毅が文乃の表示へ目を向けた。
「帝都時律大学へ行けば、十九歳という数字が何を意味するか確認できるのか」
「少なくとも、どの時間基準で算定された年齢かは分かる可能性があります」
「ならば、すぐに向かうべきだ」
「入構申請が必要です」
「何枚だ」
俺が尋ねる。
「共同履修審査関係者としての訪問であれば、一人につき四枚です」
「全員で?」
「現在の同行者は十一名ですので、四十四枚です」
「《第四学籍》も一人として数えるのか」
黒い人影が文乃を見る。
「数え方は、まだ決まっていない」
「入構申請では、一つの独立した同行対象として登録する必要があります」
「なら、今は一件と数えて構わない」
「本人同意を確認しました」
文乃が即座に記録する。
「申請書が一人分増えたな」
「俺が存在しなければ、四枚減る」
《第四学籍》が答えた。
「そういう意味じゃない」
「冗談か」
「違う」
「判別困難」
「右機能と左機能に会わせたくなってきた」
俺は自分と同じ顔を持つ黒い人影を見る。
「多分、話が合うぞ」
「それは好意的な評価か」
「保留する」
「便利な回答だな」
「学習が早い」
文乃は大量の申請欄を一つの書類へ重ねた。
「緊急共同照合として、人数分の様式を統合します」
「最初からできたのか」
「通常は個別申請です。ただし、現在は未完了共同履修審査の関係者が同時に移動します」
「何枚になる」
「統合後は十一枚です」
「十分多いな」
「四十四枚より少ないです」
「この都市の簡略化は、基準がおかしい」
文乃は聞かなかったことにして、書類板を廊下の端末へ接続した。
――訪問先。
――帝都時律大学・学籍時制管理学部。
――訪問目的。
――消失学籍に記録された年齢情報の照合。
――同行者。
名前と暫定呼称が一つずつ並ぶ。
黒瀬零。
黒瀬灯。
九条澄玲。
天城朔夜。
獅堂剛毅。
綴木文乃。
第四候補。
帝都理法大学・黒瀬零。
《第四学籍》。
その下へ、二つの空白が表示された。
「十一名と言いましたよね」
澄玲が尋ねる。
「はい」
「ここにいるのは九名です」
文乃の指が止まる。
俺も周囲を見た。
人数を数える。
俺。
灯。
澄玲。
朔夜。
獅堂。
文乃。
第四候補。
帝都理法大学の黒瀬零。
《第四学籍》。
九名。
三年前の俺と、採択領域から離脱した俺は帝都神律大学に残っている。
「どうして十一名になった」
第四候補が書類板を見る。
「申請システムが、《第四学籍》の内部に残る三件を、同行者として個別計上しています」
文乃が表示を拡大する。
――同行対象十。
――氏名、未確認。
――第一履修記録。
――同行対象十一。
――氏名、未確認。
――第二履修記録。
「三件目は?」
灯が尋ねた。
空白を維持している《異議付記欄》。
黒瀬灯という名前。
十九歳という年齢。
それだけが戻った三件目。
申請書の同行者欄には、現れていなかった。
「現在の灯さんと重複して計上されています」
文乃が低い声で答えた。
――同行対象二。
――黒瀬灯。
――対応学籍数、二件。
灯の名前の下へ、小さな文字が増えている。
「二人分の学籍を、一人の同行者として扱っているのですか」
澄玲の表情が険しくなる。
「はい。現在の灯さんと、三年前の消失学籍が、同一の移動対象として対応づけられています」
「解除してください」
「既に試しています」
文乃が灯の欄を分離する。
一つ目。
現在の黒瀬灯。
二つ目。
三年前の消失学籍。
だが、分けた直後に二つの欄が再び重なった。
――同一氏名。
――同一所属候補。
――同一関係候補。
――移動対象を統合。
「駄目です」
「なら、帝都時律大学には行かない」
俺は即座に言った。
「お兄ちゃん」
「移動した結果、過去の学籍とお前が統合されるかもしれない」
「ですが、ここに留まっていても、現在の対応は残ります」
澄玲が灯の表示を読む。
「むしろ、年齢認証機関へ行かなければ、誤った対応を解除する方法が分かりません」
「それでも危険だ」
「危険だから調べる必要があります」
「灯を使って?」
「灯さんに選んでもらう必要があります」
澄玲は俺ではなく、灯へ向き直った。
「灯さん。帝都時律大学へ向かえば、三年前の学籍との照合が進む可能性があります。現在の灯さんが十九歳の学籍として誤登録されるかもしれません」
「うん」
「反対に、行かなければ年齢情報の意味は分からないままです。同一性照合も解除できません」
「うん」
「今すぐ決める必要はありません」
灯は俺の手を握ったまま、申請書を見た。
「お兄ちゃんは、行ってほしくない?」
「危ないならな」
「知りたくない?」
「知りたい」
「私も知りたい」
「でも」
「怖いよ」
灯は俺の言葉を遮らず、最後まで聞くように少し待った。
「自分の知らない十九歳の私が、本当の私だって言われたら怖い。第四候補の妹だから、今のお兄ちゃんの妹じゃないって言われるのも嫌」
「そんな結論は認めない」
「うん。お兄ちゃんはそう言うと思った」
灯は俺を見上げる。
「だから、一緒に来て」
「灯」
「一人で記録を見るのは怖い。でも、お兄ちゃんがいるなら、知らない私を見ても、今の私まで見失わないと思う」
俺が灯を守ると決めることと、灯が自分で進むと決めることは違う。
危険だからと止めれば、三年前の帝都理法大学の黒瀬零が第四候補へしたことと同じになる。
本人へ答えを聞かず、守るためだと決めて切り離す。
「分かった」
俺は灯の手を握り返した。
「一緒に行く」
「うん」
「ただし、途中で嫌になったら戻る」
「それは私が決めていい?」
「ああ」
「お兄ちゃんが知りたくても?」
「ああ」
灯は少しだけ笑った。
「じゃあ、行く」
文乃が申請書へ記録する。
――黒瀬灯。
――現在個体本人による訪問同意。
――三年前の消失学籍との統合には同意しない。
――照合目的。
――年齢情報の意味と、同一性の有無を確認するため。
「本人回答を付記しました」
「これで統合を防げる?」
灯が尋ねる。
「保証はできません。ただし、少なくとも現在の灯さんが、過去学籍との自動統合を拒否していることは記録されます」
「十分だよ」
「十分じゃない」
俺が言う。
「お兄ちゃん」
「でも、今はそれで進む」
「うん」
◇
帝都時律大学へ向かう《履修連絡路》は、時計の針に似た形をしていた。
細長い銀色の床が《学術都市》の上空へ伸び、一定の間隔で左右へ揺れている。
足元を流れる数字は、時刻ではない。
それぞれの大学で経過している時間の比率だった。
――帝都理法大学。
――基準比、一・〇〇。
――帝都時律大学。
――現在比、〇・九八。
――帝都神律大学。
――外部対応、再照合中。
「帝都神律大学だけ数字がないな」
俺が表示を見る。
「《第二観測圏》側の有効観測結果との対応を失った影響です」
文乃が答えた。
「現在、帝都神律大学は内部基準時刻を使用しています。《学術都市》側の共通時刻との再接続が完了していません」
「戻ったら、数年経ってる可能性は?」
灯が不安そうに尋ねる。
「今回の経路では、帝都理法大学側を基準に移動します。帰還までの差は数分以内になるよう固定されています」
「数分はずれるんだ」
「完全な一致は保証できません」
「嫌な都市だな」
「三度目です」
「事実は反復しても有効なんだろ」
「学習しましたね」
銀色の床が大きく傾く。
遠くに帝都時律大学が見えた。
巨大な時計塔を中心に、無数の講義棟が円環状に並んでいる。
塔の針は一本ではない。
数百本の針が、それぞれ異なる方向を指していた。
ある講義棟では朝。
隣では夕方。
さらに奥では雪が降っている。
同じ大学の内部へ、複数の時間帯が同時に存在していた。
「迷ったら、戻れないな」
朔夜が言う。
「天城先輩は、勝手に別の時間帯へ入らないでください」
「海底図書館より危険か」
「比較する必要がありません。どちらにも勝手に行かないでください」
「九条は俺の行動範囲を狭めるのが上手い」
「天城先輩が広げすぎるのです」
第四候補は流れる数字を見ていた。
「三年前の俺も、この道を通ったのか」
「共同実習への参加記録が正しければ」
帝都理法大学の黒瀬零が答える。
「だが、俺の記憶には残っていない」
「提出したから?」
「ああ。第四候補と関わった記憶は、未完了審査の封印条件へ変えた」
「今、この道を見ても何も思い出さない?」
「何も」
男は答えた直後、左側へ視線を向けた。
履修連絡路の途中に、一つだけ古い案内板が浮いている。
現在は使われていない経路を示す灰色の表示。
――共同実習参加者専用。
――過年度接続。
男の足が止まった。
「何も思い出さないんじゃなかったのか」
第四候補が尋ねる。
「記憶ではない」
「なら、何だ」
「身体が、この経路を知っている」
帝都理法大学の黒瀬零は灰色の案内板へ手を伸ばした。
「触らないでください!」
文乃の制止が間に合うより早く、案内板が白く点灯する。
鐘の音が鳴った。
一度。
二度。
三度。
帝都時律大学の時計塔からではない。
俺たちの足元にある《履修連絡路》そのものが、過去の履修記録を読み取っている。
――過年度受講者を確認。
――黒瀬零。
――《第四候補》。
――黒瀬灯。
灯の身体が硬直した。
「お兄ちゃん」
俺が手を伸ばす。
だが、灯の足元だけが灰色へ変わった。
――未完了講義。
――欠席期間、三年。
――補講対象。
「補講?」
床が開く。
穴ではない。
灰色の連絡路が、灯の足元から下方向へ折れ曲がった。
「灯!」
俺は灯の手を握る。
強い力が、彼女を別の経路へ引き込もうとする。
「黒瀬さん、離さないでください!」
澄玲の周囲へ青い光が広がる。
「現在の灯さんと、過年度受講者の移動先を分けます!」
「できるのか」
「問題を定義します!」
――過年度学籍に対する補講処理が。
――現在の黒瀬灯本人を、本人の同意なく移送することを防ぐ。
「世界は解を持つ!」
白い線が灯の足元へ伸びる。
しかし、解法は一つではなかった。
俺が灯を引き戻す経路。
灯自身が過年度接続を拒否する経路。
過年度学籍だけを別の記録へ移す経路。
何本もの白線が現れ、次々に消える。
「必要条件が足りません!」
澄玲が叫ぶ。
「過年度学籍と現在の灯さんが、既に同じ移動対象として固定されています!」
「なら、接続を切る!」
朔夜が黒い薄刃を伸ばす。
「待ってください、天城先輩!」
「このままでは連れていかれる!」
「移動先との因果を切れば、灯さんが連絡路の外へ落ちる可能性があります!」
「獅堂!」
俺が叫ぶ。
「言われるまでもない!」
獅堂が銀色の床を踏みしだく。
「万象は我が礎!」
黄金の領域が灯の足元を支えた。
下へ折れ曲がる灰色の連絡路と、現在位置へ固定する王土が衝突する。
金属の軋む音が上空へ響いた。
「長くは持たん!」
「第四候補!」
帝都理法大学の黒瀬零が叫ぶ。
「お前も過年度受講者として認識されている! 灯との共同履修関係を解除できないか!」
「方法を知らない!」
「三年前のお前なら知っていた可能性がある!」
「今の俺へ押しつけるな!」
第四候補は灯へ伸びる灰色の線を掴んだ。
「だが、止める!」
能力ではない。
第四候補は両手だけで、灯と過年度経路を結ぶ線を引き上げる。
黒い文字が手の甲へ食い込み、皮膚を裂いた。
「第四候補!」
灯が呼ぶ。
「俺を兄だと思わなくていい」
第四候補は歯を食いしばる。
「それでも今、お前が連れていかれるのは嫌だ!」
灰色の線が僅かに緩んだ。
その瞬間、帝都理法大学の黒瀬零が古い学生証を案内板へ押しつけた。
「過年度共同実習・代表学生権限で要求する! 補講処理を停止しろ!」
――代表学生権限。
――停止済み。
「分かっている!」
男の目の奥で黒い文字が激しく回転する。
「停止した権限でも、処理を開始した責任は残っているはずだ!」
――異議の根拠を要求。
「三年前の学籍へ対する補講を、現在個体へ強制している!」
――現在個体と過年度受講者の同一性。
――照合中。
「照合中なら、確定するまで待て!」
――補講期限。
――三年前に超過済み。
「それを本人へ押しつけるな!」
古い学生証へ亀裂が入る。
男の輪郭も、再び紙のように薄くなった。
「理法の黒瀬零!」
文乃が腕を掴む。
「学生証を外してください! 学籍との対応が崩れます!」
「今外せば、灯が移送される!」
「あなたまで消えます!」
「三年前にも」
男は灰色の案内板を睨む。
「時間がないと、自分へ言い訳した」
学生証をさらに押し込む。
「今度は、本人が答える時間を作る!」
灰色の連絡路が一瞬だけ停止した。
澄玲の白い線が一本へ収束する。
「灯さん!」
「はい!」
「過年度補講へ参加するか、現在の灯さん自身が回答してください!」
灯は俺の手を握っている。
第四候補も灰色の線を掴んでいる。
帝都理法大学の黒瀬零は、自分の学籍が崩れかけても処理を止めている。
それでも、最後に決めるのは灯だ。
「私は」
灯が灰色の経路を見る。
その先に何があるのかは見えない。
三年前の講義室。
十九歳の自分かもしれない学籍。
現在の自分を待っていた、未完了の補講。
「今のまま、行く」
「灯?」
「連れていかれるんじゃない」
灯は俺を見る。
「私が、自分で見に行く」
「危険だ」
「分かってる」
「戻れないかもしれない」
「だから、お兄ちゃんも一緒に来て」
灰色の経路が再び動き始める。
「現在個体本人による参加意思を確認!」
文乃が書類板へ入力する。
――黒瀬灯。
――過年度補講への参加。
――本人希望。
――過去学籍との統合には同意しない。
――現在の自己認識を維持したまま、記録確認のみを行う。
赤かった文字が白へ変わる。
灯を引き込んでいた力が止まった。
代わりに、灰色の連絡路が俺たちの前へ一枚の階段として展開される。
――同伴者を登録。
「俺」
「お兄ちゃんは当然」
「私も同行します」
澄玲がすぐに名乗る。
「経路解析が必要です」
「俺も行く」
第四候補が血の滲む両手を下ろす。
「過去の俺が関わった補講なら、確認する」
「処分決定者として同行する」
帝都理法大学の黒瀬零も学生証を外した。
輪郭が安定するまで、文乃がその腕を支える。
「あなたは治療が必要です」
「黒瀬零が一人増えただけだ。帝都神律大学の方よりは軽傷だ」
「比較対象がおかしいです」
「お前まで俺を基準にするな」
俺が言う。
腕輪が激しく赤く光った。
『黒瀬零』
緋月の声が響く。
「今回は何もしてない」
『心拍数と移動経路が、許可申請に存在しない値へ変化している』
「帝都時律大学の補講へ行く」
『説明が不足している』
「灯の十九歳の学籍が見つかった」
通信の向こうが、完全に静かになった。
「神代先生?」
『黒瀬零』
緋月の声が変わった。
「何だ」
『その学籍へ、帝都神律大学《第零学部》と記録されているのか』
俺は灯を見る。
「知ってたのか」
『質問に答えろ』
「記録されてる」
短い沈黙。
『補講の科目名を確認しろ』
「どうして」
『確認しろ』
「神代先生、何を知ってる」
『今は説明できない』
「またそれか」
『黒瀬零。灯を一人にするな』
「最初から、そのつもりだ」
『そして』
緋月は僅かに言葉を止めた。
『補講室で、黒瀬灯という名前を先に呼ぶな』
「どういう意味だ」
『向こうから呼ばれるまで、現在の灯の名前を提出するな』
「理由は」
『三年前の学籍が、名前を待っている可能性がある』
通信が途切れた。
こちらから呼び返しても繋がらない。
「神代先生は、何か知っているのですね」
澄玲が言う。
「ああ」
「ですが、今は情報が不足しています」
「分かってる」
灯の手を握る。
「名前を聞かれるまで、答えるな」
「うん」
「怖くなったら、すぐ言え」
「うん」
「勝手に遠くへ行くな」
「お兄ちゃんもね」
灰色の階段の先に、一枚の扉が現れた。
古い木製の扉。
帝都時律大学の紋章と、帝都神律大学の校章が並んで刻まれている。
中央には、欠けた科目名が表示されていた。
――共同実習。
――複数学籍間同一個体証明。
――特別補講。
――第零時限。
「第零時限?」
朔夜が扉を見る。
「通常の時間割に存在しない講義です」
文乃が答える。
「受講時刻は?」
澄玲が尋ねる。
――開始時刻。
――三年前。
――終了時刻。
――未定。
「入ったら、三年前へ移動するのか」
獅堂が問う。
「分かりません。過去の講義記録が現在へ接続されているだけかもしれません」
「ならば、俺も行く」
獅堂が黄金の領域を解除し、俺たちの後ろへ立った。
「足場が必要になる可能性がある」
「私も同行します」
文乃は十一枚の訪問申請書を抱え直す。
「未完了履修の学務処理を確認する責任があります」
「天城先輩は?」
澄玲が振り返る。
「ここで待てと言っても無駄だろう」
朔夜が菓子パンを一口かじる。
「扉の向こうで因果が閉じた場合、外側からでは切れない」
「食べ終えてから入ってください」
「時間がない」
「口に入れたまま戦わないでください」
「戦うとは決まっていない」
「天城先輩の場合、決まってからでは遅いのです」
《第四学籍》も三枚の《異議付記欄》を抱え、扉の前へ来た。
「俺も行く」
「中の三件が反応しているのか」
俺が尋ねる。
「第一記録と第二記録に、過年度履修の参照要求が発生している」
「三件目は?」
「現在の黒瀬灯と同じ移動対象として扱われている」
灯は《第四学籍》の胸元にある三枚目を見る。
「一緒に行く?」
白紙は答えない。
だが、灯が扉へ近づくと、紙の端が僅かに持ち上がった。
「返事はないけど、置いていかない」
灯が言った。
「そうだな」
俺は扉へ左手を伸ばした。
右腕は固定されたまま。
能力も使わない。
今の俺にできるのは、灯の隣を歩くことだけだ。
「開けるぞ」
全員が頷いた。
扉を押す。
◇
向こう側には、古い講義室があった。
窓の外は夕方だった。
赤い光が机の列を照らしている。
黒板には日付が書かれていた。
三年前。
第四候補が退学処分を受けた日と同じ日付。
教壇には誰もいない。
それでも、出席簿をめくる音が聞こえる。
一頁。
もう一頁。
机は四つ。
中央へ向かい合うように並んでいた。
そのうち三席は空席。
最後の一席には、古い学生鞄が置かれている。
「誰かいるの?」
灯が小さく尋ねた。
返事はない。
俺たちは講義室へ入る。
最後に文乃が扉を押さえたが、閉じる様子はなかった。
「帰還経路は維持されています」
澄玲が白い線を確認する。
「現時点では、同じ扉から戻れます」
「現時点では、か」
朔夜が呟く。
黒板の横にある時計は、針を持っていない。
代わりに、文字が一つだけ浮いている。
――出席確認待ち。
灯が一歩進む。
学生鞄の置かれた席から、紙の擦れる音がした。
机の上へ一枚の学生証が現れる。
写真欄は白い。
氏名欄も空白。
年齢だけが記されていた。
――十九歳。
「これが」
灯が近づこうとする。
「待て」
俺は手を伸ばして止めた。
緋月の言葉。
向こうから名前を呼ばれるまで、現在の灯の名前を提出するな。
講義室の奥から、声が聞こえた。
『受講者の氏名を確認します』
人間の声ではない。
出席簿そのものが話している。
『第一受講者』
帝都理法大学の黒瀬零の机へ文字が現れる。
――黒瀬零。
「いる」
男が答えた。
『第二受講者』
第四候補の机へ、暫定呼称が浮かぶ。
――《第四候補》。
「いる」
『第三受講者』
俺の前には、何も現れない。
代わりに《第四学籍》の内側で、第一記録と第二記録が光った。
『氏名、確認不能』
『二件の在所を確認』
最後に、学生鞄が置かれた席へ出席簿が向く。
『第四受講者』
灯の呼吸が止まる。
『氏名を回答してください』
灯は何も言わない。
俺も呼ばない。
講義室は静かだった。
『氏名を回答してください』
同じ要求が繰り返される。
灯は俺の手を握った。
「答えなくていい」
俺が言う。
『同行者による回答干渉を確認』
「干渉じゃない。本人に決めさせてる」
『氏名が確認できなければ、出席を成立できません』
「成立しなくていい」
灯が自分で答えた。
声は震えていたが、言葉は明確だった。
「私は、今の名前を、この学籍へ渡すために来たんじゃない」
『回答を解析』
『氏名、未提出』
「うん」
『過年度受講者との同一性を確認できません』
「それを確認しに来たの」
灯は十九歳と記された学生証を見る。
「あなたが誰だったのか。私と同じなのか、違うのか。でも、分からないまま私の名前を入れたら、最初から同じだって決めることになる」
『出席には、氏名が必要です』
「名前がなければ、ここにいちゃ駄目?」
『出席を記録できません』
「じゃあ」
灯は俺を見た。
俺は頷く。
自分で選んでいい。
灯は空席へ向き直った。
「今は、返事だけする」
『返事』
「ここにいる」
出席簿の頁が止まった。
長い沈黙。
やがて、氏名欄の下へ新しい記録が刻まれる。
――第四受講者。
――氏名、未提出。
――現在の在所。
――確認。
「通った……」
文乃が書類板を確認する。
「帝都時律大学側が、無記名の在所確認を受理しました」
「帝都神律大学の再確認方式を参照したのでしょうか」
澄玲が出席簿の処理を読む。
「違います」
文乃の表情が変わる。
「この形式は、三年前から設定されています」
「三年前?」
出席簿が自動で次の頁を開いた。
そこには、既に一件の記録が残っていた。
――第四受講者。
――氏名を現在個体へ要求しない。
――本人が回答するまで、空欄を維持。
――設定者。
署名欄へ、二つの名前が並んでいる。
――黒瀬零。
――黒瀬灯。
「私の名前……」
灯が呟く。
帝都理法大学の黒瀬零が記録へ近づく。
「俺の署名だ」
「覚えてる?」
「いや」
「もう一つの署名は」
第四候補が黒瀬灯という文字を見る。
「十九歳の学籍本人が書いたのか」
文乃が筆跡を照合する。
――署名筆跡。
――現在の黒瀬灯との一致率、六十一パーセント。
――同一人物判定、不成立。
「似てはいますが、同一とは判断できません」
「六十一パーセント」
灯は自分の右手を見る。
「私が大人になったら、こういう字を書く可能性はある?」
「あります」
澄玲が答える。
「ですが、別人の筆跡が偶然似ている可能性もあります。この数値だけでは判断できません」
学生鞄の留め具が外れた。
中から一冊の薄いノートが現れる。
表紙には何も書かれていない。
灯が手を伸ばす前に、ノートが自ら開いた。
最初の頁。
――この記録を見つけた、今の私へ。
灯の指が止まる。
文字は、現在の灯の筆跡に似ている。
だが少しだけ大人びていた。
――私が十九歳だったことを、すぐに自分の過去だと思わないで。
――私とあなたが同じかどうかを、記録に決めさせないで。
――お兄ちゃんが隣にいるなら、先に名前を呼ばせないで。
俺たちは誰も話さなかった。
ノートの文字だけが続く。
――三年前の私は、《第零学部》にいた。
――けれど、あなたがまだ《第零学部》にいないなら。
――私がどうして先にそこへいたのかは、まだ知らない方がいい。
「まだ、知らない方がいい……?」
灯の声が掠れる。
次の一行。
――知れば、あなたは私になる。
――知らなければ、私はあなたになれない。
――どちらを選ぶかは、今のあなたが決めて。
そこで文章は途切れていた。
頁の下半分は、鋭く切り取られている。
「続きがない」
灯がノートへ触れる。
切断された紙の奥から、もう一枚だけ小さな紙片が落ちた。
そこには、短い文が残されている。
――お兄ちゃんへ。
俺の胸が強く脈打った。
――十九歳の私を見つけても。
――今の私を、妹ではないと思わないで。
灯が俺を見る。
俺も灯を見る。
十九歳の黒瀬灯。
三年前に《第零学部》へ所属していた学籍。
今の灯より年上でありながら、今の灯へ宛てて文章を残した存在。
何一つ、理由は分からない。
それでも、その誰かは、俺が現在の灯を見失う可能性を知っていた。
「お兄ちゃん」
「ああ」
「私は、今も妹?」
質問の答えに、記録は必要なかった。
「お前は黒瀬灯だ」
俺はその手を握る。
「今、俺が選んでいる妹だ」
「十九歳の私が別にいても?」
「ああ」
「私が、その人と同じだったとしても?」
「ああ」
「違っていても?」
「ああ」
灯は俯き、ノートを胸元へ抱いた。
「よかった」
声は小さかった。
だが、確かに今の灯の声だった。
その時。
針のなかった時計へ、一本の黒い針が現れた。
ゆっくりと逆方向へ回り始める。
――補講記録の閲覧を確認。
――未開示部分への到達条件を再照合。
――必要受講者。
――黒瀬灯、十九歳。
教室の後方で、もう一つの扉が開いた。
扉の向こうには、今より三年先の日付が表示されている。
そして。
現在の灯と同じ声が、未来側の教室から聞こえた。
「来ないで」
灯が顔を上げる。
俺も扉を見る。
声は続いた。
「今の私が十九歳になる前に、ここへ来ないで」
未来へ続く扉の前で。
十九歳の黒瀬灯が、こちら側から鍵をかけようとしていた。




