第四十七話 四つの学籍は、一人を選ばない
「一人、数え忘れている」
白い空席から現れた黒い人影は、俺と同じ声で告げた。
顔の輪郭も俺に似ている。
だが、細部は定まっていなかった。
目を向けるたびに髪の長さが変わり、制服の襟には帝都神律大学と帝都理法大学、どちらの大学章とも判別できない黒い染みが浮かぶ。
その身体を形作っているのは肉体ではない。
細かく切断された文字だった。
氏名。
所属。
履修記録。
出席情報。
誰かと交わした会話。
何かを選んだという事実。
それらが、一人分の形へ無理に集められている。
「五人目の黒瀬零……」
灯が俺の服を掴む。
『訂正』
黒い人影の口が動く。
「俺は、五人目ではない」
「じゃあ、何人目だ」
「三年前から、この審査に数えられていた四件目だ」
室内に並ぶ無数の机が、一斉に動いた。
床に設置されていた机が壁へ移る。
天井の机が反転し、こちらへ向く。
何百もの大学章が同時に点灯した。
――未完了共同履修審査。
――審査対象学籍、四件。
――必要個体数、充足。
――審査を再開。
「全員、扉から離れてください!」
綴木文乃が叫ぶ。
閉まりかけた扉へ駆け寄り、銀色の書類板を差し込む。
十二本の筆記具を模した紋章が白く光った。
――緊急退出申請。
――拒否。
――共同履修審査中の対象者は、結果確定まで退出不能。
「私たちは審査対象ではありません!」
――審査対象者との同行関係を確認。
――立会人として登録。
「勝手に登録しないでください!」
文乃の抗議を無視し、扉が完全に閉じた。
外の廊下が見えなくなる。
代わりに、扉の表面へ四つの席が表示された。
――第一学籍。
――帝都理法大学・証明行政学部。
――黒瀬零。
理法の黒瀬零が僅かに顔をしかめる。
――第二学籍。
――所属情報、消失。
――暫定識別名、《第四候補》。
第四候補が表示を見上げる。
――第三学籍。
――帝都神律大学・法則災害学群。
――黒瀬零。
「俺まで?」
「現在の共同学籍網が、三年前の未完了審査とお前を接続した」
理法の黒瀬零が答えた。
「審査室は、学籍番号だけを見ていない。同じ氏名、同じ起源、第四候補との関係。それらを一件の比較条件として扱っている」
最後の席へ文字が浮かぶ。
――第四学籍。
――氏名情報、消失。
――所属情報、消失。
――個体対応、消失。
――審査継続用残留記録。
黒い人影が、その表示の下へ立っていた。
「残留記録?」
澄玲が黒い人影を観察する。
「あなたは、三年前に消失した三件の学籍そのものではないのですか?」
「違う」
人影の声に、僅かな雑音が混じる。
「消失した三件を審査対象として数え続けるために、審査室が作成した代替記録だ」
「三件を、一人として扱っているのか」
第四候補が尋ねる。
「一人としてではない。一件としてだ」
「違いがあるのか」
「人間と学籍を同じものだと思うなら、ない」
黒い人影は、中央にある三つの空席へ視線を向けた。
「審査室に必要なのは、学生ではない。比較できる項目だ」
空席の周囲へ黒い文字が集まっていく。
三つの座席。
三件の消失学籍。
それらを一つの代理記録へ押し込め、四件目として審査を継続する。
「じゃあ、その顔と声は?」
俺が尋ねる。
「残存していた一件から借りた」
黒い人影が理法の黒瀬零を見る。
「最後まで氏名と個体の対応を維持していた学籍が、黒瀬零だった。だから、審査室は消失した三件にも同じ外形を与えた」
「お前自身が黒瀬零というわけではないのか」
「分からない」
「三件のうちに、黒瀬零がいた可能性は?」
「ある」
「いなかった可能性も?」
「ある」
「便利な答えだな」
「お前たちの記録を見て学習した」
「俺のせいか」
「複数人の影響だ」
黒い人影の周囲へ、新しい表示が開く。
――審査目的。
――同一の氏名を持つ複数学籍が、同一個体に属することを証明せよ。
――証明成立時。
――正規学籍、一件を採択。
――その他の学籍を重複記録として無効化。
――証明不成立時。
――全学籍を本人照合不能として保留。
――保留期限。
――三年前に超過済み。
最後の一行が赤く染まった。
――強制判定へ移行。
「一件だけを残すのか」
灯が表示を見上げる。
「三年前に、俺が止めた処理だ」
理法の黒瀬零が中央席へ近づく。
「四件のうち一件を正規の学生として採択し、残りを重複学籍として消す。だから俺は、第四候補を審査から外した」
「俺を退学させれば、四件が揃わない」
「ああ」
「その間に別の方法を探すつもりだったのか」
「そのつもりだった」
「三年かかった」
「否定しない」
第四候補の表情が僅かに険しくなる。
だが、言い返す前に床が大きく揺れた。
四つの中央席から、銀色の帯が伸びる。
一本目は理法の黒瀬零へ。
二本目は第四候補へ。
三本目は俺へ。
四本目は黒い人影へ向かった。
「黒瀬さん!」
澄玲が俺の腕を引く。
銀色の帯が足元を掠めた。
床へ触れた瞬間、その場所に俺の学生証情報が浮かび上がる。
――帝都神律大学。
――黒瀬零。
――現在学籍、再照合中。
――第三学籍へ固定。
「席へ座らせるつもりか」
「着席した個体を、それぞれの学籍と対応づける処理です」
澄玲が流れる文字を追う。
「四件全てが着席した時点で、強制判定が始まります」
「座らなければいい?」
灯が尋ねる。
「審査室が強制的に対応を成立させます」
理法の黒瀬零の足元へ銀色の帯が巻きついた。
身体が中央席へ引かれる。
「っ……!」
「本学の黒瀬さん!」
文乃が腕を掴む。
「離れろ!」
「三年間、審査室へ固定されていた人が何を言っているんですか!」
「だからこそ、巻き込むな!」
理法の黒瀬零が踏みとどまる。
しかし、机と学生証との対応が強まるほど、身体が紙のように薄くなっていった。
第四候補にも帯が絡みつく。
「また俺を、勝手に審査対象へ戻すのか」
拳で帯を掴む。
銀色の光が手の中で軋んだ。
「今度は退学させるなよ」
「その前に、全員を出す」
理法の黒瀬零が答えた。
「俺の意思も聞け」
「何だ」
「俺も残る」
「第四候補」
「自分の処分理由を確かめると決めた。ここで俺だけを外せば、三年前と同じだ」
「審査が始まれば、お前の学籍が消える可能性がある」
「今の俺に、正式な学籍はない」
「存在まで学籍と同じように扱われる危険がある」
「だから、お前が勝手に決めるなと言っている」
二人を引く銀色の帯がさらに強くなる。
床の端では、黒い人影が抵抗せず、第四席へ向かっていた。
「お前は座るのか」
俺が呼びかける。
「俺が拒否すれば、消失した三件は比較対象から外される」
「それでいいだろ」
「よくない」
黒い人影の声が、三重に揺れた。
「審査から外れれば、三件は完全に失われる」
「今も誰の学籍か分からないんだろ」
「分からないままでも、残っている」
「強制判定で重複記録にされたら、消えるぞ」
「それでも、審査へ現れなければ探されることもない」
人影が第四席へ手を伸ばす。
「結果が何であっても、存在したと記録されたい」
「三件全員が、そう望んでいるのか」
黒い手が止まった。
「……照合不能」
「なら、一人分の答えとしてまとめるな」
「俺は一人ではない」
「だからだ」
俺は銀色の帯を避けながら、黒い人影へ近づく。
「三件のうち、一件は審査を続けたいかもしれない。別の一件は外れたいかもしれない。残る一件は、まだ決められないかもしれない」
「個別回答を取得する方法がない」
「方法がないから、全部同じ答えにするのか」
「そうしなければ、記録を維持できない」
「維持するために、誰のものかも分からない答えを押しつけるな」
黒い人影の顔が乱れる。
俺の顔。
第四候補の顔。
理法の黒瀬零の顔。
一瞬だけ、どれとも異なる輪郭が浮かび、すぐに消えた。
「それなら」
人影が俺を見る。
「どうすれば、三件を失わずに分けられる」
「今から探す」
「回答期限は超過している」
「期限を決めたのは誰だ」
「共同履修審査規程」
「本人たちじゃない」
白い円環を開こうとして、俺は止まった。
左手首の腕輪が赤く明滅している。
命題の使用は禁止されている。
この審査命令を保留すれば、身体への損傷がどう反映されるかも分からない。
何より、今回は能力で結論を止める前に、別の方法を探すと決めた。
「黒瀬さん」
澄玲が俺の横へ来る。
「能力は使わないでください」
「分かってる」
「今、少し迷いましたね」
「使わないと決めた」
「なら、別の解法を探します」
青い光が澄玲の瞳へ集まった。
「問題は、四件から一件の正規学籍を選ぶことではありません」
審査室全体へ青い文字が広がる。
「四件を、互いに異なる学籍として維持したまま、強制判定を停止することです」
――同一であることを証明する。
――一件を採択する。
――残りを無効化する。
現在の審査命題が表示される。
「前提そのものを変更するのか」
文乃が尋ねる。
「変更ではありません。異議申立てです」
「未完了審査に対する異議は、代表学生または審査対象者全員の同意が必要です」
「代表学生は」
全員の視線が理法の黒瀬零へ向く。
銀色の帯に引かれながら、男が首を振った。
「俺の代表学生権限は、三年前に停止されている」
「現在、誤参照されている代表権限があります」
文乃が俺を見る。
「また俺か」
「帝都神律大学の黒瀬さんと、三年前の処分決定者との対応関係に、旧権限が残っています」
「それを使えば、また同一性照合が進むんじゃないのか」
「進みます」
「駄目だろ」
「ただし」
澄玲が四つの席を見た。
「今回は、一人で権限を行使する必要はありません」
「どういうことだ、九条」
朔夜が黒い薄刃を構えながら尋ねる。
「この審査は、四件を一人へ統合しようとしています。ならば逆に、異議申立てを四件全ての共同提出として行います」
「四人で代表権限を使う?」
「代表者を一人に決めません」
澄玲の周囲へ、複数の白い経路が現れる。
「四件全てが、現在の自己回答を個別に提出する。その上で、審査命題を『同一個体の証明』から『異なる学籍の併存可能性』へ変更するよう要求します」
「要求は通るのか」
「現時点では分かりません」
「世界は解を持つは?」
「まだ問題の必要条件が足りません」
澄玲は黒い人影を見る。
「第四学籍を構成している三件から、個別回答を得る必要があります」
「できないと言ってる」
黒い人影が答える。
「今のあなたには、できないだけです」
「違いがあるのか」
「あります」
澄玲は丁寧に、しかし迷わず告げた。
「あなたは三件を一つの回答へまとめるために作られた記録です。分ける機能を与えられていないからといって、三件が分けられないことにはなりません」
「必要な機能が存在しない」
「なら、外側から区別します」
澄玲は理法の黒瀬零へ向く。
「消失した三件について、個別に残っている情報はありますか?」
「履修履歴の断片だけだ」
「それぞれ異なりますか?」
「ああ」
「それなら、三件は完全に同一ではありません」
青い数式が黒い人影の身体へ伸びる。
三つの異なる履修記録。
三つの出席時刻。
三つの提出履歴。
同じ名前を失い、同じ代理外形へまとめられていても、完全には重ならない差異。
「問題を再定義します」
澄玲が両手を前へ出す。
――一件へまとめられた三つの消失学籍を。
――残存する履修差異によって、互いに混同せず区別する。
「世界は解を持つ」
三本の白い線が、黒い人影の胸へ突き刺さった。
人影の身体が大きく揺れる。
「っ……」
一つだった声が重なる。
『第一履修記録を確認』
『第二履修記録を確認』
『第三履修記録を確認』
黒い輪郭の内側へ、三つの光点が現れた。
どれも小さい。
人間の姿にはならない。
名前も、顔も、意思も確認できない。
それでも、同じ一件ではない。
「分けられる」
灯が三つの光を見る。
「まだ誰かは分からないけど、三人分ある」
「三件だ」
黒い人影が訂正する。
「人であることは、まだ証明できない」
「じゃあ、三件のままでいいよ」
灯は答えた。
「人じゃないって決める必要もないでしょう」
三つの光が僅かに揺れた。
それぞれ異なる間隔で。
「現在の第四学籍は、三件を代理する一つの記録です」
澄玲が言う。
「異議申立てでは、代理記録自身の回答と、内部に残る三件の回答を区別しなければなりません」
「三件は話せない」
「はい」
「回答できない」
「回答できないことを、統合への同意として扱いません」
黒い人影が澄玲を見る。
「沈黙を、不存在への同意として処理しない」
「帝都神律大学の学内方針です」
「上位の審査室には関係ない」
「今から関係させます」
澄玲の言葉に、朔夜が僅かに笑った。
「九条も随分、この大学に染まったな」
「天城先輩に言われたくありません」
「褒めている」
「それなら受け取ります」
四つの中央席から伸びた銀色の帯が、急激に太くなった。
審査室が再定義を拒絶している。
俺の足が床から離れ、第三席へ引かれた。
「お兄ちゃん!」
灯が左手を掴む。
「灯、離せ!」
「離さない!」
「お前まで引かれる!」
「だからって、お兄ちゃんを一人で座らせない!」
銀色の帯が灯の腕にも巻きつこうとする。
その前へ、黄金の床が割り込んだ。
「妹まで審査対象に含めるな!」
獅堂が両腕を広げる。
「万象は我が礎!」
王土が俺と灯の足元を支える。
中央席へ引く力と、現在位置を維持する力が衝突した。
「獅堂さん、そのまま三十秒維持してください!」
「三十秒で足りるのか」
「足りる解法を作ります!」
「なら任せろ!」
黄金の床へ亀裂が走る。
無数の机が獅堂を新たな審査妨害者として認識し、銀色の定規を射出した。
「天城先輩!」
「見えている!」
朔夜の黒い薄刃が宙を走る。
定規と獅堂への到達。
机と射出結果。
一本ずつ、必要な因果だけを切断する。
銀色の定規が途中で力を失い、床へ落ちた。
「全部は切れない!」
「左上の三本を優先してください!」
「九条、右からも来ているぞ!」
「そちらは文乃さん!」
「私ですか?」
「証明行政学部の設備でしょう!」
「学生補助員に防衛機構の停止権限はありません!」
「異議申立て準備中として、処理を遅延させてください!」
「それなら可能です!」
文乃が銀色の書類板を床へ突き立てる。
「帝都理法大学・証明行政学部三年、綴木文乃。現在の処理へ、正式な異議申立て予告を提出します!」
十二本の筆記具を模した紋章が広がった。
――異議申立て予告。
――審査結果確定前の追加処理を制限。
――有効時間、二十秒。
「短い!」
「学生補助員権限では、これが限界です!」
「十分です」
澄玲の白い線が、四つの席へ接続する。
「全員、席へ向かってください」
「座れば強制判定が始まるんじゃなかったのか」
俺が尋ねる。
「座らなくても二十秒後には始まります」
「悪化してないか」
「先にこちらの異議を登録します」
「どうやって」
「四件全てが、席へ着く前に個別回答を提出してください」
「歩きながら?」
「走りながらです」
「帝都神律大学らしくなってきたな」
理法の黒瀬零が銀色の帯を掴む。
「不本意だ」
「お前の大学の審査室だろ」
「三年前の俺へ言え」
「今のお前も黒瀬零だろ」
「それを確かめている最中だ」
「二人とも、言い争っている場合ではありません!」
澄玲が珍しく声を強めた。
「黒瀬さんは第三席。本学の黒瀬さんは第一席。第四候補は第二席。代理記録は第四席へ!」
白い経路が審査室へ走る。
床は安定していない。
机が縦横に移動し、進路を塞ぐ。
座席へ近づくほど、学籍情報が身体へ貼りつこうとする。
「行くぞ!」
俺は灯の手を離し、第三席へ向かって走った。
「お兄ちゃん、戻ってきてね!」
「審査が終わったらな!」
「終わらせないんでしょう!」
「そうだった!」
最初の机を飛び越える。
右腕は胸元へ固定したまま。
左手を床へつかない。
足だけで着地する。
腕輪が赤く点滅した。
『黒瀬零!』
緋月の声が響く。
「走ってるだけだ!」
『衝撃値が許可範囲を超えている!』
「床が動いてる!」
『直ちに停止しろ!』
「停止したら学籍が消える!」
『説明になっていない!』
通信を切る。
「また切った!」
灯の声が後ろから聞こえた。
「帰ったら謝る!」
「始末書が増えるよ!」
「七枚目か!」
右から机が迫る。
朔夜の黒刃が、机の移動と俺への衝突を切断した。
「借り一つだ、黒瀬」
「覚えておく!」
「忘れたら九条に記録してもらう」
「私を何だと思っているのですか、天城先輩!」
「信頼できる記録者」
「先にそう言われると、怒りにくいです」
第四候補は第二席へ向かって一直線に進んでいる。
銀色の帯へ逆らうのではなく、引かれる力を利用していた。
座席の目前で床を蹴り、勢いを殺す。
理法の黒瀬零は、文乃が開いた申請経路を使って第一席へ近づく。
黒い代理記録だけが動かなかった。
「何をしてる!」
俺が叫ぶ。
「三件の回答が確認できない」
「だから、沈黙のまま提出しろ!」
「異議申立てへ参加することが、三件を残す結果になる保証はない」
「強制判定よりましだ!」
「比較不能」
「正しい方を選ぶな!」
俺は第三席の前で振り返る。
「選んだあと、間違ってたら答え直せ!」
黒い人影の内側で、三つの光が異なる動きを見せた。
一つは第四席へ近づく。
一つは離れようとする。
最後の一つは、動かない。
黒い人影の身体が三方向へ引き裂かれ始めた。
『回答不一致を検出』
審査室が宣告する。
――代理記録としての統一性を喪失。
――第四学籍を無効化。
「させません!」
澄玲が白い線を黒い人影へ伸ばした。
「三つの異なる回答が存在することを、第四学籍の不成立理由ではなく、三件が別個に存在する根拠として扱います!」
――必要条件を再照合。
――代理記録の分割には、個別記録欄が必要。
「玄理先生の出席簿があれば……」
灯が呟く。
ここに御厨玄理はいない。
欄外収蔵も使えない。
文乃が巨大な申請書を開いた。
「帝都理法大学にも、未確定記録を一時保存する欄があります!」
「使えるのか」
「正式な学籍欄ではありません。再照合中の資料を保管する《異議付記欄》です!」
「三件分を作ってください!」
「作成します!」
銀色の書類板から、三枚の白紙が飛び出す。
名前。
所属。
学籍番号。
全て空白。
文乃が一枚ずつ、黒い人影の中にある光へ向けた。
「名前が分からない者は、空白で構いません! 現在確認できる履修記録だけを提出してください!」
一つ目の光が白紙へ触れる。
――氏名、未確認。
――所属、未確認。
――履修断片、第一記録。
二つ目。
――氏名、未確認。
――所属、未確認。
――履修断片、第二記録。
三つ目は動かない。
「最後の一件!」
文乃が呼びかける。
光は白紙へ近づかない。
「答えたくないのかもしれない」
灯が言った。
「なら、無理に書かなくていい」
「しかし、欄へ入らなければ無効化されます!」
「空白の欄を残して」
「対象との対応がありません!」
「返事がない者を、いないことにしないで!」
灯の声が審査室へ響く。
「今は誰か分からなくても、答えたくなった時に戻れる場所を残して!」
文乃が白紙を見る。
迷いは一瞬だった。
「《異議付記欄》、第三記録」
何も触れていない白紙へ項目を追加する。
――氏名、未確認。
――所属、未確認。
――履修断片、未提出。
――本人回答、未確認。
――空欄を維持。
白紙が消えずに残った。
動かなかった光が、ほんの僅かに揺れる。
黒い代理記録の輪郭が安定した。
「第四学籍、三件の個別付記を確認!」
澄玲が叫ぶ。
「全員、回答を!」
理法の黒瀬零が第一席へ手を置く。
「第一学籍。俺は、他の学籍と同一であることを要求しない」
第四候補が第二席へ拳を置く。
「第二学籍。俺を、他の誰かの重複として処理するな」
俺は第三席の背へ左手を当てる。
「第三学籍。俺が誰と同じかは、俺が決める。他の学籍を消して証明するつもりはない」
黒い代理記録が第四席へ立つ。
三つの光を内側へ残したまま、静かに答えた。
「第四学籍」
声が四つに分かれる。
一つは代理記録自身の声。
一つは、第一記録。
一つは、第二記録。
最後の一つは、沈黙。
「三件を、一人の回答へまとめない」
四つの席が白く光った。
――審査対象者全件による、共同異議申立てを確認。
――異議内容。
――同一氏名を持つ複数学籍が、同一個体に属することを前提としない。
――一件の採択を、他学籍の無効化条件としない。
――現在の各回答を、個別に記録する。
――未回答学籍の空欄を維持する。
『当該異議は、既存の共同履修審査規程に存在しない』
「存在しないなら、今作る」
文乃が銀色の書類板を四席の中央へ叩きつけた。
「帝都理法大学・証明行政学部三年、綴木文乃。共同学務局学生補助員として、未定義異議申立てを受理します!」
――受理権限、不足。
「代表学生権限を共同参照!」
俺たち四件を結ぶ光が、書類板へ集まる。
――単独代表者を確認不能。
「代表者を一人にしなくていい!」
俺が叫ぶ。
「四件全てが当事者だ!」
――規程外。
「だから異議だ!」
審査室が激しく揺れる。
何百もの机が、四つの席を押し潰そうと動き始めた。
「獅堂さん!」
「待っていた!」
獅堂が両拳を床へ下ろす。
「この場に立つ全員の答えを、誰か一人の下へ置かせはしない!」
黄金の王土が四席を別々に支える。
第一席。
第二席。
第三席。
第四席。
どれも上下をつけられず、同じ高さへ固定された。
「万象は我が礎!」
机の動きが止まる。
朔夜が四席の中央へ黒い刃を振るう。
「九条、切るぞ」
「一件の採択と、他三件の無効化を結ぶ因果だけです!」
「了解」
「因果切断!」
黒い薄刃が、強制判定の中央を横切った。
――一件を採択する。
――その結果として、他の学籍を無効化する。
両者の因果的な接続が切れる。
審査室全体へ亀裂が走った。
四つの席は残る。
一件を選ぶ処理も残っている。
だが、一件が選ばれたからといって、他の三件が自動的に消えるという結果だけが失われた。
「今です!」
澄玲の白い線が、四件の回答を一つの申請書へ導く。
「世界は解を持つ!」
四本の線が、互いに重ならないまま中央へ到達する。
――共同異議申立て。
――提出。
長い沈黙。
机も。
座席も。
銀色の帯も動かない。
やがて、審査室の表示が一行ずつ書き換わった。
――強制判定。
――停止。
――未完了共同履修審査。
――再開条件を再審査。
――四件の学籍について。
――同一性を確定せず。
――重複無効化を実行せず。
――個別回答を保存。
――正式結果。
――保留。
「また保留か」
俺は第三席へ寄りかかる。
左腕が痛む。
腕輪は、見るのが嫌になるほど赤く点滅していた。
「今は、それで十分です」
澄玲が息を整える。
「誰か一人を選ばずに済みました」
「保留期限は?」
文乃が表示を確認する。
――回答期限。
――未定。
「帝都神律大学みたいになってきたな」
朔夜が黒い刃を消した。
「天城先輩まで、保留を便利に使わないでください」
「俺は使っていない。感想だよ」
獅堂が王土を解除する。
四つの席が床へ戻った。
銀色の帯も消えていく。
理法の黒瀬零。
第四候補。
俺。
全員の学籍は、少なくとも今は残っている。
黒い代理記録の輪郭だけが、少しずつ崩れ始めていた。
「おい」
第四候補が近づく。
「消えるのか」
「代理記録として、一件へまとめる必要がなくなった」
「なら、三件は?」
「《異議付記欄》へ分かれた」
人影の胸から、三枚の白紙が現れる。
一枚目。
二枚目。
そして、回答のない三枚目。
「お前自身はどうなる」
「俺は、三件を一つとして数えるための形だ」
「役割を失ったから、消えるのか」
「そうなる」
灯が黒い人影の前へ出る。
「消えたい?」
「その質問へ答えるための個別記録がない」
「でも、今は答えてる」
「三件の履修記録から、共通して再構成できる反応を返しているだけだ」
「それがあなたの答えじゃないって、誰が決めたの?」
黒い人影が黙る。
「三件が分かれたあとにも、あなたはここにいる」
灯は人影の輪郭へ手を伸ばした。
触れることはできない。
それでも、逃げずに正面から見る。
「三件をまとめる役割がなくなったあと、どうしたい?」
「照合不能」
「なら、今は決めなくていいよ」
「役割を失った代理記録を保存する欄は存在しない」
「また作ればいい」
「誰が」
「私たちが」
文乃が三枚の《異議付記欄》を見る。
「代理記録自体を、第四の付記として保存することは可能です」
「正式学籍にはなりません」
「今すぐ正式にする必要はないよ」
灯が言う。
「あなたが何者か考える間、消えないようにできればいい」
黒い人影の輪郭が、崩れるのを止めた。
「記録名が必要です」
文乃が書類板を構える。
「現在の呼称はありますか?」
「ない」
「暫定呼称を設定しますか?」
人影は三枚の白紙を見る。
失われた三件。
その三件を一件として扱うために作られた自分。
「《第四学籍》」
「それは審査上の番号です」
「今は、それでいい」
文乃が項目を入力する。
――暫定呼称、《第四学籍》。
――成立経緯。
――三件の消失学籍を代理する審査継続用残留記録。
――代理対象の分離後も、独立した応答を継続。
――個体性。
――未確認。
――本人回答。
――未定。
――現在状態。
――保存を希望するか。
人影が表示を見る。
長い沈黙のあと、俺と同じ声で答えた。
「今は、残る」
――本人回答。
――今は、残る。
――《異議付記欄》へ暫定保存。
黒い輪郭が安定する。
俺の顔を借りたまま。
それでも、もう三件を一つへ押し込めるためだけの形ではない。
「これで、五人目か」
俺が言う。
「訂正」
《第四学籍》が答える。
「数え方は、まだ決まっていない」
「面倒な奴だな」
「黒瀬零の記録を参照している」
「やっぱり俺のせいか」
◇
審査室の扉が、再び開いた。
外へ出られる。
だが、誰もすぐには移動しなかった。
文乃と澄玲は、分離された三枚の《異議付記欄》を確認している。
履修記録。
提出時刻。
出席確認。
名前へ繋がる断片が、本当に残っていないか。
「一件目は、科目番号だけです」
文乃が一枚目を読む。
「《共同実習・複数学籍間同一個体証明》」
「二件目は?」
「同じ科目です。ただし、提出課題が異なります」
――課題。
――自分と同じ名前を持つ他者を、自分ではないと証明せよ。
「三件目は?」
文乃が、空白を維持した白紙へ触れる。
最初は何も表示されなかった。
しかし、灯が近づいた瞬間、紙面の端へ細い文字が浮かぶ。
「反応しました」
澄玲が目を見開く。
「灯さん、動かないでください」
「うん」
白紙へ、一文字ずつ記録が戻っていく。
――氏名。
文字が乱れる。
一度、消える。
再び現れる。
――黒瀬。
俺の背筋が強張る。
次の文字。
――灯。
「私……?」
灯の声が掠れた。
文乃が記録を止めようとする。
「現在の黒瀬灯さんとの同一性は、まだ確定していません」
だが、表示は続いた。
――最終所属。
――帝都神律大学。
――所属区分。
文字が一部欠けている。
それでも、残った箇所は読めた。
――《第零学部》。
灯が紙面を見つめた。
「三年前に」
自分の胸元へ手を置く。
「私が、《第零学部》の学生だったの?」
「違う」
俺はすぐに答えた。
「今のお前と同じだとは、まだ決まってない」
「でも、名前が同じ」
「名前だけだ」
「帝都神律大学で、《第零学部》」
「それでもだ」
俺は灯の左手を握る。
「この記録がお前を示すかどうかを、先に決めるな」
灯は俺を見る。
不安は消えていない。
それでも、ゆっくりと頷いた。
「うん」
第四候補が、白紙のさらに下へ視線を向ける。
「続きがある」
――処分対象者との関係。
――兄妹。
第四候補の表情が止まった。
「俺の」
声が僅かに揺れる。
「妹だったのか」
「まだ確定していません」
澄玲が言う。
「氏名と所属、関係記録が一致しただけです。現在の灯さんと、三年前の学籍との対応は未確認です」
「それでも、候補ではある」
「はい」
理法の黒瀬零が、遠くから白紙を見ていた。
目の奥で黒い文字が激しく回転している。
「思い出したのか」
俺が尋ねる。
「いや」
男は額を押さえる。
「記憶は戻っていない」
「じゃあ、何だ」
「俺が三年前に守った理由だけが、反応している」
理法の黒瀬零は、第四候補と灯を交互に見た。
「第四候補を審査から外さなければ、妹の学籍が消える」
「だから俺を退学させた?」
第四候補が尋ねる。
「あの時の俺は、そう判断した」
「俺に妹を守るかどうか、聞いたのか」
「聞かなかった」
「俺なら、守らないと答えたと思ったのか」
「答えを聞く時間がないと、自分へ言い訳した」
「今は?」
理法の黒瀬零は、すぐには答えなかった。
「今なら、先に聞く」
第四候補の拳が強く握られる。
「遅い」
「ああ」
「三年遅い」
「ああ」
「許すつもりはない」
「要求しない」
「それでも、一緒に調べると言ったな」
「言った」
第四候補は白紙を見た。
三年前の妹かもしれない学籍。
現在、目の前にいる灯と同一かどうかは分からない。
「続ける」
低く告げる。
「この学籍が誰だったのか。なぜ消えたのか。俺が何をしたのか」
理法の黒瀬零も頷いた。
「今度は、お前の答えを聞きながら進める」
灯が俺の手を握る力を強める。
「お兄ちゃん」
「ああ」
「私は、どうすればいい?」
記録を否定することも。
すぐに受け入れることもできない。
三年前の自分かもしれない誰か。
第四候補の妹だったかもしれない学籍。
「今は、何もしなくていい」
「でも」
「お前が知りたいと思った時に、一緒に調べる」
「怖いって言ったら?」
「それでもいい」
「知りたくないって言ったら?」
「無理に開かない」
「お兄ちゃんは知りたい?」
「知りたい」
「即答なんだ」
「でも、お前を置いて勝手には進まない」
灯は白紙へ視線を戻した。
「じゃあ」
少し考える。
「今は、ここまでにする」
「ああ」
「でも、この紙は消さないで」
文乃が頷く。
「《異議付記欄》として保管します。黒瀬灯さん本人の同意なく、現在の学籍との統合は行いません」
「ありがとう」
「ただし、正式な閲覧制限手続きには追加申請が必要です」
「何枚?」
俺が尋ねる。
「本人同意、関係者照合、学籍対応停止を含めて十六枚です」
「今の流れで言うことか」
「重要です」
「玄理先生と気が合いそうだな」
「御厨先生の記録に対する姿勢は、先日お話しした際にも興味深いと感じました」
「じゃあ、仲良くなれそうだな」
「見解が一致するとは申し上げていません。議論が長期化する可能性が高いという意味です」
絶対に話が長くなる。
俺は今から少し不安になった。
審査室の壁へ、新しい表示が現れる。
――未完了共同履修審査。
――共同異議申立てにより、強制判定を停止。
――消失学籍三件を、個別の《異議付記欄》へ分離。
――審査継続用残留記録を、《第四学籍》として暫定保存。
――処分対象《第四候補》の臨時滞在許可。
――再設定。
――有効期間、七日間。
「七日」
第四候補が表示を見る。
「共同履修審査までと同じです」
文乃が答える。
「七日以内に、消失学籍と三年前の処分記録を再照合します」
「二百四十七大学を?」
「まずは、共同実習に関与した大学へ絞れます」
「何校だ」
「帝都理法大学、帝都神律大学を含めて十二校です」
「減ったな」
「書類は減っていません」
「聞いてない」
《第四学籍》が三枚の白紙を抱える。
「俺も同行する」
「どこへ」
「三件の履修記録を探す」
「代理する役割は終わったんだろ」
「終わった」
「なら、義務はない」
「義務ではない」
人影は胸元の白紙を見る。
「俺が探したい」
初めて、役割ではない理由を口にした。
灯が小さく笑う。
「じゃあ、一緒に探そう」
「命令か」
「提案」
「断った場合は?」
「少し残念」
「理解した」
人影は自分の意思で頷いた。
俺たちは開いた扉へ向かう。
審査室の外には、帝都理法大学の長い廊下が続いていた。
入室した時より、同行者が一人増えている。
いや。
一人と数えてよいのかも、まだ分からない。
それでも、《第四学籍》は自分の足で廊下へ出た。
灯も、三年前の自分かもしれない学籍を無理に引き受けず、白紙のまま残すと選んだ。
第四候補は、自分を退学させた相手と同じ資料を見ることを選んだ。
理法の黒瀬零は、三年前に一人で決めた答えを、今度は本人と問い直そうとしている。
俺たちは誰が本物かを決めなかった。
一人を残すために、他の誰かを重複として消さなかった。
四つの学籍は、一人の黒瀬零を選ばない。
それぞれが誰なのか。
誰だったのか。
その答えを、これから別々に探す。
ただし。
廊下へ出る直前、空白を維持した三枚目の《異議付記欄》へ、もう一行だけ文字が浮かんだ。
――黒瀬灯。
――学籍発行時年齢。
――十九歳。
現在の灯より、年上だった。




