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『神律大学の未証明者《アンプローヴン》』   作者: 仕儀の反駁
第四章《学術都市》《第四候補》編

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第四十六話 五人目の黒瀬零

「遅かったな」


 閉ざされた扉の向こうから聞こえたのは、間違いなく俺の声だった。


 灯が俺の服を掴む。


「お兄ちゃんの声……だよね」


「ああ」


 自分の声を外側から聞くことには、まだ慣れない。


 三年前の俺。


 採択領域から離脱した俺。


 第四候補。


 同じ顔と声を持つ存在が既に三人いる。


 だから、声が同じというだけで驚くべきではないのかもしれない。


 それでも、扉の向こうにいる何者かは違った。


 俺たちが《学術都市》へ到着する前から、この部屋にいた。


 三年前の学籍番号を現在も使用し、第四候補の退学処分を有効なまま維持している。


 帝都理法大学に所属する、もう一人の黒瀬零。


「入室申請を行います」


 綴木文乃が扉の横へ書類板を当てた。


 十二本の筆記具を組み合わせた紋章が白く光る。


 ――申請者。


 ――綴木文乃。


 ――帝都理法大学・証明行政学部三年。


 ――《学術都市》共同学務局・学生補助員。


 ――入室目的。


 ――退学処分記録の本人照合。


 ――同伴者、七名。


 文字が扉の表面を流れていく。


 やがて、最後の項目だけが赤く染まった。


 ――入室許可。


 ――拒否。


「拒否?」


 文乃が眉を寄せる。


「閉鎖区画であっても、学務上の緊急照合には応じる義務があるはずです」


「三年前から、その規程は変わっていないのか」


 扉の向こうから声が返ってくる。


「変更されていません」


「なら、申請書の第九十七項を確認しろ」


 文乃が書類板を操作する。


 表示されていた申請書が一気に下へ送られた。


 九十七項。


 ――処分決定者本人が室内に存在する場合、第三者による本人照合は、当該決定者の同意を必要とする。


「本人だから拒否できるのか」


 俺が言う。


「そういうことらしいな」


「話をするために来た。開けろ」


「嫌だと言ったら?」


「六時間後、第四候補が強制退域される」


「正確には、残り五時間五十二分だ」


 扉の向こうの俺は、即座に訂正した。


「時間まで分かってるなら、状況も分かってるんだろ」


「分かっている。だから、まだ開けていない」


 第四候補が扉の前へ進む。


「俺を退学させたのは、お前か」


 返事はすぐには来なかった。


 紙をめくる音だけが、扉の向こうで続いている。


 一枚。


 もう一枚。


 何かを探しているというより、既に並べられた記録を順番に確認しているような音だった。


「そうだ」


 やがて声が答えた。


「三年前、《第四候補》の退学処分を決定したのは俺だ」


 灯の手に力が入る。


 第四候補は表情を変えなかった。


「理由は」


「今のお前へ開示する権限はない」


「処分された本人だぞ」


「だからこそだ」


「意味が分からない」


「分からない状態を維持するために、お前を退学させた」


 扉の前へ沈黙が落ちた。


「説明になっていません」


 澄玲が一歩前へ出る。


「第四候補の記憶を守るために、学籍を停止したという意味ですか?」


「九条澄玲」


 扉の向こうの声が、澄玲の名前を呼ぶ。


 彼女の表情が僅かに固まった。


「どうして、私の名前を知っているのですか」


「現在の共同学籍網を確認した。帝都神律大学から来た人間の氏名、所属、申請内容は全て読める」


「では、私たちが何を求めているかも理解していますね」


「理解している」


「それでも開示しないのですか」


「理解したからこそ、開示しない」


 朔夜が扉の表面へ手を触れた。


「因果を切れば開くか」


「天城先輩、待ってください」


 澄玲がすぐに止める。


「扉と施錠の因果だけを切断できる保証がありません。この部屋は、入室権限と内部記録の閲覧権限が一体化しています」


「扉だけ開いても、中の資料が全て読めなくなる可能性があるか」


「はい」


「面倒な扉だな」


「審査室だからな」


 扉の向こうの俺が答えた。


「侵入対策だけは、三年前より改善されている」


「改善したのはお前か」


「一部は」


「今もこの大学の学生なのか」


 俺が尋ねる。


「学籍上はな」


「元代表学生と記録されていた」


「代表学生ではなくなった。それだけだ」


「卒業は?」


「していない」


「退学も?」


「していない」


「三年間、ここにいたのか」


 また、返事が止まる。


「その質問には、答えられない」


「答えたくないんじゃなく?」


「答えられない」


 声の調子は俺と同じだった。


 けれど、言葉を選ぶ時の間が違う。


 三年前の俺とも、採択領域から離脱した俺とも違う。


 自分のことを隠しているというより、自分自身にも照合できない箇所があるように聞こえた。


 文乃が扉の表示を確認する。


「室内の生命反応を照合します」


 書類板から細い白線が伸び、扉へ触れる。


 ――旧共同履修審査室。


 ――在室者、一名。


 ――氏名、黒瀬零。


 ――身体情報。


 文字が乱れた。


 ――照合不能。


 ――学籍記録との対応、一致。


 ――現在個体との対応、未確認。


「学籍は一致していますが、身体情報を確認できません」


 文乃が言う。


「どういうことですか」


「本人へ聞け」


 扉の向こうから返される。


「本人へ聞いています」


「俺にも分からない」


 灯が俺を見上げる。


「お兄ちゃんと同じように、記録と身体の対応がずれてるのかな」


「可能性はあります」


 澄玲が答えた。


「ただし、黒瀬さんたちの場合は複数の現在個体が存在しています。扉の向こうの人物は、学籍だけが現在も有効で、肉体が記録上の本人として確定していないようです」


「幽霊か」


 朔夜が尋ねる。


「幽霊なら出席扱いになるのか」


 扉の向こうの俺が返す。


「玄理先生なら、返事をすれば取ると思う」


「帝都神律大学は相変わらずだな」


「知ってるのか」


「三年前に訪れたことがある」


「帝都神律大学へ?」


「一度だけだ」


「誰に会った」


「今は答えない」


「そればかりだな」


「必要な順番がある」


 扉の表面へ新しい文字が浮かんだ。


 ――入室条件を提示。


「条件?」


 文乃が表示を見る。


 ――条件一。


 ――処分対象者《第四候補》が、現在の自己意思によって再審査を要求していること。


「それは、もう確認したはずだ」


 第四候補が言う。


 ――確認済み。


 ――条件二。


 ――現在の黒瀬零が、三年前の処分決定者とは別個体であること。


 全員の視線が俺へ集まった。


「どうやって証明する」


「知らない」


 扉の向こうから即答される。


「お前が条件を出したんだろ」


「条件を設定したのは、この審査室だ」


「お前じゃないのか」


「俺には、条件の変更権限がない」


 ――条件三。


 ――三年前の処分によって保護された学籍が、現在も存続していること。


「保護された学籍?」


 澄玲が文字を見上げる。


「退学処分は第四候補を排除するためではなく、別の学籍を守るために行われたのですか?」


「そうだ」


 今度は、扉の向こうの声がはっきり答えた。


「三年前、複数学籍の同時消失が発生した。あの時、このまま共同履修審査を続ければ、残っていた学籍まで消える可能性があった」


「誰の学籍だ」


 第四候補が尋ねる。


「開示条件を満たせ」


「俺の処分理由なのに、俺へ隠すのか」


「今のお前が、三年前の《第四候補》と同一である保証がない」


「お前は俺を見て、第四候補だと認識した」


「暫定識別名が一致しているだけだ」


「それで退学処分は適用した」


「適用したのは俺ではない。《学術都市》の共同学籍網だ」


「都合がいいな」


「そう思う」


 扉の向こうの俺は、否定しなかった。


「三年前の記録は、現在のお前を処分対象として扱う。一方で、処分理由の閲覧には、三年前の本人との同一性を要求する」


 澄玲が静かに整理する。


「処分だけは継続されるのに、権利は継続されない。その運用は明らかに不均衡です」


「同意する」


「では、扉を開けてください」


「それとこれは別だ」


「同意した意味がありません」


「九条」


 朔夜が隣から言う。


「こいつは、俺たちを入れたくないんじゃない」


「どういうことですか、天城先輩」


「入れた後に起きることを警戒している」


 朔夜は扉の周囲へ視線を巡らせた。


「さっきから、この部屋の中で紙をめくっている。でも、資料を探している音じゃない」


「何をしていると?」


「数を減らしている」


 紙をめくる音が止まった。


 朔夜は続ける。


「入室条件を満たす前に、読まれては困る資料を分けている。違うか」


 短い沈黙。


「半分正解だ」


 扉の向こうから答えが返る。


「読まれて困るのではない。お前たちが入った瞬間、消える資料を分けている」


「私たちの入室によって?」


 澄玲が問い返す。


「現在の黒瀬零。《第四候補》。帝都神律大学の共同証明者。複数学籍の再照合対象者が同じ審査室へ揃えば、三年前に中断された共同履修審査が再開する」


 扉へ赤い警告が浮かび上がる。


 ――未完了審査。


 ――対象者接近。


 ――自動再開条件、充足率七十一パーセント。


「再開すると、どうなる」


 俺が尋ねる。


「残っている学籍を、もう一度比較する」


「比較するだけか」


「三年前は、それで複数の学籍が同時に消えた」


 第四候補が扉へ手を置いた。


「その原因が俺だと?」


「分からない」


「三年前のお前にも?」


「原因を確定する前に、俺がお前を審査から外した」


「退学させて?」


「それが最も速かった」


「他に方法はなかったのか」


「探す時間がなかった」


 第四候補の拳が僅かに震える。


「お前は、俺へ説明したのか」


「した」


「俺は納得したのか」


 扉の向こうから、すぐには返事がなかった。


「答えろ」


「納得しなかった」


「なら、俺の意思を無視して退学させたのか」


「ああ」


 第四候補の拳が扉を叩いた。


 重い音が廊下へ響く。


「第四候補!」


 灯が呼び止める。


 扉は揺れなかった。


 ただ、表面へ新しい警告が現れる。


 ――処分対象者による審査室への干渉を確認。


 ――未完了審査の再開条件を更新。


 ――充足率、七十六パーセント。


「触れるほど、審査が再開へ近づくのか」


 獅堂が表示を見る。


「ならば、扉を壊すのは逆効果だな」


「壊すつもりはない」


 第四候補は拳を下ろした。


「今は」


「その言い方、お兄ちゃんに似てる」


 灯が呟く。


「似ていない」


「今のところは、どちらも信用できません」


 澄玲が冷静に付け加える。


「九条、俺まで含めるのか」


「天城先輩も、必要以上に扉へ近づかないでください」


「俺は何もしていない」


「切断可能な箇所を探していました」


「観察していただけだ」


「黒い刃が少し出ていました」


「少しだ」


「出ていたのですね」


 朔夜は黙って手を白衣のポケットへ入れた。


 文乃が条件表示を読み直す。


「三つ目の条件にある『保護された学籍』を確認する方法はありますか?」


「ある」


「どのような方法ですか」


「室外の共同学籍端末から、三年前の未完了審査に残る学籍数を照合しろ」


「閲覧権限がありません」


「学生補助員権限では足りない」


「では、誰なら」


「共同履修審査・代表学生」


 文乃が俺を見る。


「現在、その権限を誤って参照されているのは黒瀬さんです」


「俺?」


「あなたと第四候補の間に形成された金色の線です」


 線はまだ消えていない。


 三年前の処分対象者と処分決定者。


 共同学籍網は、俺を扉の向こうの黒瀬零と誤って対応づけている。


「誤認を利用しろってことか」


「正確には、暫定参照されている権限で、現在の記録を照合します」


 澄玲が金色の線へ目を向ける。


「ただし、照合を実行すれば、黒瀬さんと三年前の処分決定者の同一性判定が進行する可能性があります」


「今の俺が、向こうの俺として登録される?」


「その危険があります」


「登録されたら、どうなる」


 文乃が答える。


「第四候補の退学処分を決定した責任が、現在の黒瀬さんへ移る可能性があります」


「それだけか」


「それだけではありません」


 扉の向こうから、俺の声が続けた。


「代表学生権限と、三年前の未完了審査も、お前の学籍へ接続される」


「俺の学籍は帝都神律大学にある」


「今はな」


「どういう意味だ」


「共同履修審査が再開されれば、どの大学の黒瀬零を正規の学籍として採用するか、もう一度比較される」


 灯が俺の袖を強く握った。


「お兄ちゃんの学籍も消えるかもしれないの?」


「可能性はある」


 扉の向こうの俺が答える。


「お前が答えるな」


「質問されたから答えた」


「じゃあ、どうすればいい」


「選べ」


「何を」


「照合しなければ、この扉は開かない。第四候補の臨時滞在許可も六時間で切れる」


 扉へ残り時間が表示される。


 ――臨時滞在許可。


 ――残り、五時間四十三分。


「照合すれば、三年前の審査が再開するかもしれない」


「ああ」


「どちらが正しい」


「俺に聞くな」


 同じ声で、俺と同じようなことを言う。


 それが少し腹立たしかった。


「お前は三年前、選んだんだろ」


「ああ」


「第四候補を退学させた」


「そうだ」


「今も同じ答えか」


 紙をめくる音が、再び一度だけ聞こえた。


「分からない」


 初めて、扉の向こうの声が迷った。


「三年前の俺は、残っている学籍を守るために《第四候補》を切り離した。あの時は、それが必要だと判断した」


「今は?」


「今の《第四候補》を、同じ理由で退学させ続けてよいのかは分からない」


「なら、解除しろ」


「解除するには、三年前に何が消えたのかを確認しなければならない」


「そのために照合が必要?」


「そうだ」


「結局、進むしかないじゃないか」


「進まない選択もある」


「第四候補を六時間後に追い出して?」


「お前たちが帝都神律大学へ戻れば、少なくとも現在の学籍は守られる」


「こいつは?」


「《学術都市》の外へ戻る」


「それで終わりか」


「今の危険だけは避けられる」


 第四候補が扉へ背を向けた。


「なら、俺一人が出ればいい」


「待て」


「お前たちの学籍を巻き込む必要はない」


「自分の処分理由を確かめに来たんだろ」


「そのために、お前の学籍が消える可能性がある」


「まだ可能性だ」


「俺の学籍だけなら、既にない」


「だからって」


「お兄ちゃん」


 灯が俺の言葉を止めた。


「第四候補に、残れって命令するの?」


「違う」


「じゃあ、本人に聞いて」


 灯は第四候補を見る。


「本当に帰りたいの?」


 第四候補が足を止めた。


 前にも、同じ問いを向けられた。


 採択領域から離脱した俺が、戻るべき世界を前にした時。


 誰も彼自身へ、帰りたいかと尋ねていなかった。


「分からない」


 第四候補は答えた。


「でも、何も知らないまま追い出されるのは嫌だ」


「なら、それが今の答えだよ」


 灯は俺を見る。


「お兄ちゃんは?」


「確かめたい」


「学籍が危なくても?」


「怖くないわけじゃない」


「うん」


「でも、俺と同じ名前を使った誰かが、こいつへ何をしたのか。その責任まで今の俺が背負うつもりはない」


 俺は金色の線を見る。


「だから、誰の答えなのかを確かめる」


 灯は頷いた。


「私は、お兄ちゃんの学籍が消えないように見てる」


「見るだけか」


「危なくなったら引っ張る」


「事実上の強制退去だな」


「提案だよ」


「断ったら?」


「怒る」


「やっぱり強制だろ」


 澄玲が共同学籍端末の位置を探す。


「照合を行う前に、条件を整理します」


 青い文字が空中へ並ぶ。


「目的は、三年前の未完了審査へ残る学籍数の確認です。黒瀬さんと処分決定者の同一性を確定することではありません」


「区別できるのか」


「区別できる申請方式を探します」


 澄玲の瞳へ青い光が宿る。


「問題を定義します」


 ――現在の黒瀬零が、三年前の黒瀬零と同一であると確定されることなく。


 ――三年前の代表学生権限によって参照可能な学籍数のみを確認する。


世界は解を持つ(エウレカ)


 白い線が廊下へ広がった。


 扉。


 壁。


 俺と第四候補を結ぶ金色の線。


 文乃の書類板。


 複数の経路が現れ、すぐに消える。


 最後に一本だけが残った。


 白い線は俺の左手からではなく、金色の線の中央へ伸びている。


「黒瀬さん本人ではなく、現在成立している『処分決定者との対応関係』を申請主体として使います」


「関係そのものに照合させるのか」


「はい。黒瀬さんが権限を行使したとは記録しません。共同学籍網が誤って形成した対応関係に、自らの参照根拠を説明させます」


 朔夜が白い線を見る。


「制度へ、自分の誤認の根拠を提出させるわけか」


「そうです」


「九条らしいな」


「褒めていますか?」


「頼りにしている」


「先にそう言ってくださるようになったのですね」


「学習した」


 澄玲は一瞬だけ柔らかく笑い、すぐに端末へ向き直った。


「綴木さん、申請欄を開いてください」


「分かりました」


 文乃が書類板を扉の前へ置く。


 ――照合申請主体。


 ――入力待ち。


 俺は金色の線へ左手を近づけた。


「触れる必要はありません」


 澄玲が言う。


「今、黒瀬さんが触れれば、本人による権限行使として処理される可能性があります」


「じゃあ、どうする」


「第四候補と同時に、互いへ近づいてください。線そのものを申請欄へ重ねます」


「二人で運ぶのか」


「はい」


 第四候補が俺の反対側へ立つ。


「また、お前と一緒か」


「嫌か」


「未定だ」


「便利な答えだな」


「お前に言われたくない」


 俺たちは、互いの間に伸びた金色の線を挟むように移動した。


 申請欄へ線が触れる。


 白い光が弾けた。


 ――照合申請主体。


 ――三年前の処分対象者と処分決定者の対応関係。


 ――本人同一性。


 ――要求しない。


 ――代表学生権限。


 ――参照元の説明に限り、一時利用。


 ――申請を受理。


 扉の向こうで、何かが大きく動いた。


 紙ではない。


 巨大な棚が、床ごと移動したような音。


 扉の表面へ新しい記録が浮かぶ。


 ――三年前の未完了共同履修審査。


 ――比較対象学籍。


 ――照合開始時、四件。


「四件」


 俺。


 三年前の俺。


 採択領域から離脱した俺。


 第四候補。


 現在、黒瀬零に由来する存在は四人いる。


 だが、この審査は三年前のものだ。


 今の四人が揃う前から、四件の学籍が存在していた。


 表示が続く。


 ――審査中に三件の学籍が消失。


 ――残存学籍、一件。


「三件消えた?」


 灯が息を呑む。


「残った一件は誰のものですか」


 澄玲が端末へ問いかける。


 ――閲覧制限。


「条件三の確認には、残っていることだけで足りるはずです」


 文乃が言う。


 ――保護対象学籍の存続を確認。


 ――条件三、充足。


 扉へ表示されていた三つの条件が、全て白く変わった。


 ――条件一、充足。


 ――条件二。


 文字が点滅する。


 ――現在の黒瀬零と、三年前の処分決定者の同一性。


 ――未確定。


「別個体だと証明したわけではないからか」


 俺が言う。


「同一とも確定していません」


 澄玲が表示を見る。


「条件は『別個体であること』を要求しています。このままでは不足です」


「俺が、違うと答えれば?」


「本人回答だけでは、学術都市側が受理しない可能性があります」


 扉の向こうから声がした。


「俺が証言する」


 全員が扉を見る。


「現在そこにいる黒瀬零は、三年前に《第四候補》の退学処分を決定した俺ではない」


 ――処分決定者による証言を確認。


 ――学籍番号、不一致。


 ――現在個体、別個体として暫定処理。


 ――条件二、充足。


 三つの条件が揃った。


 重い音を立てて、扉の中央へ縦の線が入る。


「開くぞ」


 獅堂が一歩前へ出た。


「警戒は必要です」


 澄玲が白い線を周囲へ残す。


「天城先輩、何か異常が起きても、すぐには切断しないでください」


「分かっている」


「獅堂さんも、床を王土へ変えないでください」


「必要がなければな」


「必要性はこちらで判断します」


「随分と指示が細かいな」


「先ほどの駅で、誰が防衛機構を敵対状態へ移行させたと思っているのですか」


 獅堂は答えなかった。


 灯が俺の左手を握る。


「お兄ちゃん、先に入らないでね」


「分かってる」


「本当に?」


「今回は本当に」


 腕輪が赤く点滅した。


『黒瀬零』


「何もしてないぞ」


 緋月の声が響く。


『心拍数が再び上昇している』


「扉が開くだけだ」


『その言葉を信用できる根拠がない』


「神代先生」


 澄玲が通信へ割り込む。


「現在、帝都理法大学の閉鎖審査室へ入室します。戦闘を目的とした行動ではありません」


『九条澄玲。黒瀬零が何かを殴ろうとした場合、止めろ』


「承知しました」


「承知するな」


『黒瀬零』


「分かった。殴らない」


『記録した』


 通信が切れた。


「全員、俺への信用が低すぎないか」


「積み重ねた結果です」


 文乃が答えた。


「今日会ったばかりのお前まで?」


「共同学務局は記録を重視します」


 扉が左右へ開いていく。


 冷たい空気が、室内から廊下へ流れ出した。


     ◇


 旧共同履修審査室は、講義室ほどの広さしかなかった。


 だが、内部には数え切れない机が並んでいる。


 床。


 壁。


 天井。


 机はあらゆる方向へ設置され、その一つ一つに異なる大学章が刻まれていた。


 何百もの大学から提出された学籍を、同時に審査するための部屋。


 中央には四つの席がある。


 そのうち三つは、机ごと白い空白へ沈んでいた。


 残る一席だけが、現在も形を保っている。


 その椅子へ、一人の男が座っていた。


 黒い髪。


 俺と同じ顔。


 俺と同じ声。


 年齢も、今の俺と大きくは変わらない。


 だが、制服が違う。


 白を基調とし、襟と袖へ銀色の線が走る帝都理法大学の制服。


 胸元には、十二本の筆記具を組み合わせた大学章。


 その下へ、古い学生証が下がっている。


 ――帝都理法大学。


 ――証明行政学部。


 ――共同履修審査局・代表学生。


 ――黒瀬零。


 男は机の上へ両手を置き、俺たちを見た。


 赤い右目ではない。


 白い円環も浮かんでいない。


 ただ、両目の奥で、細かな黒い文字が絶えず書き換わっていた。


「初めまして」


 俺が言う。


「その挨拶が適切かは分からない」


 男は答えた。


「俺は、お前のことを三年前から記録上は知っている」


「俺は今日、初めてお前を見た」


「なら、お前にとっては初めましてだ」


 男は第四候補へ視線を移す。


「お前も、今の姿で会うのは初めてだ」


「三年前の俺を知っているのか」


「ああ」


「どんな奴だった」


「今より、よく喋った」


「それだけか」


「俺を嫌っていた」


「今も好きではない」


「そこは変わっていないらしい」


 第四候補が中央の三つの空席を見る。


「消えた学籍は、あの席か」


「そうだ」


「誰のものだった」


「まだ開示できない」


「条件は満たした」


「入室条件を満たしただけだ。記録の閲覧条件は別にある」


「また書類か」


 俺が尋ねる。


「書類なら九枚用意してきた」


 文乃が書類板を持ち上げる。


「緊急照合用簡略様式です」


「足りない」


「何枚必要ですか」


「書類では開かない」


 男は三つの空席へ目を向けた。


「消えた学籍は、記録上の氏名を失っている。名前で検索しても出てこない。学生番号も、所属大学も、本人との対応も消えている」


「では、どうすれば確認できますか」


 澄玲が尋ねる。


「誰かが覚えている情報から、現在の本人へ辿り着くしかない」


「三年前の関係者による証言ですか」


「ああ」


「お前が覚えてるだろ」


 俺が言う。


 男の目の奥で、黒い文字が一瞬だけ止まった。


「覚えていない」


「三年前の代表学生なのに?」


「記録は残っている。だが、それが誰についての記録なのかを思い出せない」


 第四候補が男へ近づく。


「お前も、《分離査読》を受けたのか」


「違う」


「なら、なぜ」


「三年前、複数学籍が消えた時、俺は残った一件を守るために、自分の記憶を審査室へ提出した」


 男は自分のこめかみへ指を当てる。


「消えた三人を知る記憶。第四候補と過ごした時間。処分を決定するまでに交わした会話。その全てを、未完了審査の封印条件へ変えた」


「自分で忘れたのか」


「忘れなければ、審査が俺の記憶を経由して残った学籍へ到達する可能性があった」


「そこまでして守った学籍は、誰のものだ」


「分からない」


「お前が守ったんだろ」


「守ると選んだことだけは記録にある」


 男は机の上に置かれた一枚の紙を指した。


 ――保護対象学籍、一件。


 ――保護理由。


 ――当該学生を、共同履修審査の結論へ含めてはならない。


 ――決定者。


 ――黒瀬零。


「誰を守ったのかを失っても、守ったという決定だけが残った」


 男の声は平静だった。


 それでも、自分の記録を他人のものとして読むような冷たさがあった。


「だから、俺は三年間ここにいた」


「記憶を取り戻すため?」


「違う」


 男は首を振る。


「誰を守ったのか分からない俺が、勝手に封印を解かないためだ」


「三年間、扉の中で待っていたのか」


 灯が尋ねる。


 男は灯を見る。


 黒い文字が、目の奥で激しく乱れた。


「黒瀬灯」


「私を知ってるの?」


「名前は現在記録から読んだ」


「それだけ?」


「それだけのはずだ」


「はず?」


 男は右手で目元を押さえた。


「お前を見ると、審査室の封印記録が反応する」


 床にある三つの空席が、低い音を立てた。


 白い空白の中から、黒い文字が浮かび上がる。


 ――保護対象学籍との類似情報を検出。


 灯が俺の手を強く握った。


「私?」


「動くな」


 男が初めて声を荒らげた。


 室内に並ぶ全ての机が一斉に向きを変える。


 何百もの大学章が、灯へ向いた。


 ――未完了共同履修審査。


 ――新規比較対象を検出。


 ――保護対象学籍との照合を開始。


「止めろ!」


 俺は灯の前へ出る。


 腕輪が赤く光った。


『黒瀬零!』


「今は黙ってろ!」


 緋月の通信へ叫び返す。


 男が机を叩いた。


「全員、中央席から離れろ! 灯を審査対象へ近づけるな!」


「何が起きてる」


「俺にも分からない!」


「三年前の保護対象は、灯なのか」


「分からないと言っている!」


 男の目の奥から黒い文字が溢れ出す。


 床。


 机。


 壁。


 室内の全てへ、同じ警告が走った。


 ――保護対象学籍。


 ――照合候補、黒瀬灯。


 ――一致率、算定開始。


「黒瀬灯に、学術都市の学籍記録はありません」


 文乃が書類板を操作する。


「現在の所属は帝都神律大学《第零学部》。共同履修学生としての登録も存在しません」


「だから危険なんだ」


 男が答えた。


「三年前に消えた学籍も、今は氏名も所属も持たない。記録がないこと自体を一致条件として比較される!」


「天城先輩、照合と灯さんの間の因果を切れますか?」


 澄玲が叫ぶ。


「対象が広すぎる!」


 朔夜の周囲へ黒い薄刃が展開する。


「審査室全体が、九条の言う照合そのものだ。切れば封印まで壊れる!」


「獅堂さん、灯さんの足場を現在位置へ固定してください!」


「任せろ!」


 獅堂の黄金の領域が灯の足元へ広がる。


万象は我が礎(グランド・レガリア)!」


 無数の机から伸びた黒い文字が、黄金の床へ突き刺さる。


 灯の身体は動かない。


 だが、名前だけが身体から引き剝がされるように、輪郭の周囲で揺れ始めた。


「お兄ちゃん……!」


「灯!」


 俺は左手で灯の肩を掴む。


 ――黒瀬灯。


 ――学籍記録、該当なし。


 ――三年前の保護対象学籍。


 ――氏名記録、該当なし。


 ――類似を確認。


「記録がない者同士だから、同じだと判断するのか!」


「審査室は空白の内容を読めない!」


 男が机の下から一冊の原簿を引き出す。


「だから、空白であるという状態だけを比較している!」


「止める方法は!」


「灯自身に、現在の学籍を与えろ!」


 文乃が顔を上げる。


「今ここでですか?」


「仮登録でいい! 所属と本人の対応を成立させれば、三年前の空白学籍との一致率を下げられる!」


「《学術都市》への入学意思確認が必要です!」


 灯が苦しそうに男を見る。


「入学って……この大学に?」


「どこでもいい! 共同学籍網へ登録できる所属なら!」


「灯は帝都神律大学の共同証明者だ!」


 俺が叫ぶ。


「正式学籍は?」


「……成立していない」


「なら、今の共同学籍網には空白として映る!」


 俺の背後で、第四候補が一歩前へ出た。


「俺の臨時滞在許可を分けろ」


 文乃が振り返る。


「できません。許可は本人に対するものです」


「俺と灯を、同じ申請へ入れろ」


「何をするつもりですか」


「俺は三年前の処分対象。灯は保護対象の候補だ」


 第四候補は、中央の空席を見た。


「二人を一件の再照合要求として登録する」


 澄玲の瞳へ青い数式が走る。


「成立する可能性があります」


「九条?」


「灯さんを新しい学生として登録するのではありません。第四候補に対する処分記録の関係者として、現在の本人情報を共同学籍網へ提出します」


「関係者登録か」


「はい。三年前の保護対象と同一であるかは確定しません。ただし、現在の黒瀬灯という個人が、帝都神律大学《第零学部》共同証明者として存在することは記録できます」


 澄玲が灯を見る。


「灯さん。現在の所属を、自分の意思で回答できますか?」


 黒い文字が灯の周囲を回る。


 名前と身体の対応を剝がそうとしている。


 それでも灯は、俺の手を握り返した。


「帝都神律大学」


 声は震えていた。


「《第零学部》共同証明者、黒瀬灯」


 文乃が書類板へ入力する。


 ――処分記録関係者。


 ――黒瀬灯。


 ――現在所属。


 ――帝都神律大学《第零学部》。


 ――在籍区分。


 ――正式学籍、未成立。


 表示が赤くなる。


「正式学籍がないため、登録を拒否されています!」


「学籍ではなく、関係者の在所記録として提出してください!」


 澄玲が指示する。


「現在の帝都神律大学は、共同学籍再照合の対象です。所属の確定ではなく、本人回答として記録します!」


 文乃が申請区分を切り替える。


 ――現在回答。


 ――黒瀬灯。


 ――本人による呼称確認。


 ――本人による所属回答。


 ――帝都神律大学《第零学部》。


 ――現在個体としての在所。


 ――確認。


 白い光が灯を包んだ。


 黒い文字が停止する。


 ――三年前の保護対象学籍との一致率。


 ――算定不能。


 ――現在回答との競合を確認。


 ――自動照合を保留。


 黄金の床へ突き刺さっていた文字が、一斉に消えた。


 灯の名前が身体へ戻る。


「灯!」


「お兄ちゃん」


 灯は俺の手を握ったまま、息を整える。


「私は、いるよ」


「ああ」


「黒瀬灯だよ」


「ああ」


「お兄ちゃんの妹」


「ああ」


 何度でも答える。


「俺の妹だ」


 腕輪の向こうで、緋月が何かを叫んでいる。


 今は聞き取れなかった。


 男は中央の席から立ち上がり、灯を見つめていた。


「黒瀬灯」


「何」


「三年前の保護対象が、お前だったかは分からない」


「うん」


「だが、この部屋はお前へ反応した」


「うん」


「そして俺は」


 男は自分の胸元にある古い学生証を握る。


「お前を見た瞬間、守らなければならないと思った」


 俺の背中へ緊張が走る。


「それは三年前の記憶か」


「分からない」


「今の答えか」


 男は灯から視線を逸らさなかった。


「それも、まだ分からない」


「なら、勝手に決めるな」


「ああ」


 男は静かに頷いた。


「三年前の俺は、一度それをした」


 第四候補が男を見る。


「俺を退学させて?」


「お前の意思を無視した」


「後悔しているのか」


「後悔という感情が、三年前の記録に由来するのか、今の俺が抱いたものなのかは区別できない」


「面倒な答えだな」


「お前たちの影響かもしれない」


 男は机の上へ原簿を開いた。


 自動照合が保留されたことで、黒く塗り潰されていた一部の文字が薄くなっている。


 ――未完了共同履修審査。


 ――比較対象学籍、四件。


 ――消失学籍、三件。


 ――保護対象学籍、一件。


 その下。


 これまで閲覧できなかった欄へ、新しい文字が現れた。


 ――保護対象学籍・最終所属。


 ――帝都神律大学。


「帝都神律大学……」


 灯が呟く。


 さらに下の欄が開く。


 ――保護対象者と処分対象者の関係。


 ――兄妹。


 誰も動かなかった。


 男。


 第四候補。


 俺。


 灯。


 同じ記録を、それぞれ異なる意味で見ている。


「兄妹」


 第四候補が低く繰り返す。


「俺に、妹がいたのか」


 男は答えない。


 答えられない。


 記録には名前がない。


 保護対象が灯だという確定もない。


 それでも、三年前に消失しかけた一件の学籍。


 帝都神律大学に所属し、《第四候補》と兄妹関係にあった誰か。


 その学籍を守るため、帝都理法大学の黒瀬零は第四候補を退学させた。


「続きを開け」


 第四候補が言う。


「これ以上は、まだ無理だ」


 男が原簿へ手を置く。


「自動照合が再開すれば、今度こそ残った学籍が消える可能性がある」


「なら、どうする」


「三年前に消えた三件の学籍を先に探す」


「誰のものか分からないのに?」


「断片は残っている」


 男は室内に並ぶ無数の机を見回す。


「それぞれ、別の大学の記録へ分散された。氏名も学生番号もない。だが、消失直前に履修していた講義の記録だけは残っている」


 文乃が書類板を構える。


「履修記録から、所属大学を逆算するのですね」


「ああ」


「候補はいくつありますか」


「三件合わせて」


 男は机の下から、厚い書類の束を引き出した。


 床へ置かれた瞬間、大きな音が響く。


「二百四十七大学」


「多いな」


 俺が言う。


「六時間で確認するのか」


「第四候補の臨時滞在許可は、処分決定者との本人照合を条件としている」


 男は自分を指した。


「俺が本人として同行すれば、期限を延長できる」


「部屋から出られるのか」


「三年前から試していない」


「試せ」


「簡単に言うな」


「扉は開いてる」


「俺の身体と学籍の対応が、室外でも維持される保証がない」


 俺は男へ左手を差し出した。


「なら、外へ出て確かめろ」


 男は俺の手を見る。


「消えたら?」


「俺たちが記録する」


「記録だけ残っても、俺自身が消えれば意味はない」


「それは、お前が決めることだ」


「外へ出ろと言ったのはお前だ」


「提案だ」


「断った場合は?」


「二百四十七大学の確認を、この部屋で一人でやる」


「事実上の強制だな」


「最近、そればかりだ」


 灯が男へ近づいた。


「怖い?」


「判別できない」


「じゃあ、出たくない?」


「それも分からない」


「この部屋に残りたい?」


 男は三つの空席を見る。


 三年間、自分が守った相手の名前も知らないまま、封印を維持し続けた部屋。


「残りたいとは思わない」


「だったら」


 灯は開いた扉を指す。


「一歩だけ出てみたら?」


「一歩」


「消えそうになったら戻ればいい」


「戻る時間がある保証は?」


「私たちが引っ張る」


「それも提案か」


「うん。断ったら少し残念だけど、怒らない」


 男は初めて、僅かに笑った。


 俺と同じ顔なのに、俺とは違う笑い方だった。


「黒瀬灯」


「何?」


「三年前の俺が、お前を知っていたかは分からない」


「うん」


「今の俺は、お前から一歩の進み方を教えられた」


「それなら、今から知り合いだね」


「知り合い」


 男はその言葉を確かめるように繰り返す。


 それから、中央の席を離れた。


 一歩。


 床へ足を下ろす。


 身体は消えない。


 二歩。


 俺たちの前を通り、開いた扉へ近づく。


 古い学生証が激しく明滅した。


 ――旧共同履修審査室・固定在籍者。


 ――室外移動を検出。


 ――学籍と個体の対応を再照合。


「止まれ」


 文乃が言う。


「今、出ると――」


 男は止まらなかった。


「三年間、止まっていた」


 扉の境界へ足を置く。


「一度くらい、先に進む」


 白い光が男の全身を包んだ。


 輪郭が透ける。


 制服。


 学生証。


 顔。


 全てが細かな文字へ分解されていく。


「おい!」


 俺は左手を伸ばした。


 男の手首を掴む。


 冷たい。


 人間の皮膚ではなく、長く閉じられていた紙へ触れたような感触だった。


 腕輪がけたたましく鳴る。


『黒瀬零! 左腕への負荷を停止しろ!』


「今、それどころじゃない!」


「黒瀬さん、引かないでください!」


 澄玲が叫ぶ。


「室内へ戻すのではなく、現在位置を固定します!」


 白い線が男の足元へ走る。


「問題は、この個体が旧審査室の外でも、現在の本人として存続すること!」


世界は解を持つ(エウレカ)!」


 白い足場が扉の外へ形成される。


 獅堂が黄金の領域を重ねた。


「外へ出る者の位置なら、俺が支える!」


 朔夜が黒い刃を構える。


「何を切ればいい、九条!」


「審査室から離れた結果と、学籍の消失です!」


「了解!」


因果切断(セヴァランス)!」


 黒い薄刃が、男の背後を横切る。


 男が部屋から離れる。


 その結果として学籍が消える。


 両者の因果的な接続だけが切断された。


 古い学生証の明滅が止まる。


 男の輪郭が戻った。


 一歩。


 扉の外へ出る。


 男は廊下に立っていた。


 消えていない。


 俺の手首を、今度は向こうから握り返した。


「黒瀬零」


「何だ」


「手を離せ」


「礼が先だろ」


「左腕が壊れかけている」


「それは俺の問題だ」


「俺を支えた結果だ。無関係ではない」


 男は俺の手を外し、自分の足で白い足場へ立つ。


「礼を言う」


「どういたしまして」


 灯が笑う。


「お前に言ったのではない」


「でも、一歩を勧めたのは私だよ」


「……それもそうか」


 男は振り返り、三年間閉じこもっていた審査室を見る。


 扉は開いたままだ。


 中央の一席だけが空いている。


「戻る?」


 灯が尋ねる。


「今は戻らない」


「じゃあ」


 灯は少し考える。


「いってらっしゃい?」


「どこへ行くか、まだ決めていない」


「戻る場所があれば使える言葉だから、今は違うか」


 男は帝都理法大学の廊下を見る。


 三年前まで所属していた大学。


 学籍だけが残り、自分自身は一室へ固定されていた場所。


「まず、二百四十七大学の記録を調べる」


 厚い書類の束を持ち上げる。


「その後は?」


「分からない」


「名前は?」


 俺が尋ねる。


「黒瀬零だ」


「俺もだ」


「知っている」


「三年前の俺もいる」


「記録にある」


「採択領域から離脱した俺もいる」


「それも確認した」


「紛らわしくないか」


「お前が別の名前を選べばいい」


「どうして俺が」


「俺の方が、三年前からこの学籍を使っている」


「先着順かよ」


「学務上は重要だ」


 文乃が真面目に頷く。


「実際、現在の共同学籍網では、帝都理法大学の黒瀬零が最も古い有効学籍を持っています」


「文乃まで」


「事実です」


 男は俺を見る。


「当面は、所属をつけて呼べ」


「帝都理法大学の黒瀬零?」


「長いな」


「お前が言うな」


「元代表学生」


 第四候補が言った。


 男の表情から、僅かに笑みが消える。


「その呼称は、好きではない」


「俺を退学させた役割だ」


「ああ」


「忘れさせるつもりはない」


「忘れなくていい」


 二人の間へ、冷たい沈黙が生まれる。


 許していない。


 謝れば終わることでもない。


 それでも、男は第四候補から目を逸らさなかった。


「処分を解除する」


 男が言った。


「今すぐ?」


「今すぐはできない。消えた三件と、保護した一件を確認する必要がある」


「また、俺の意思を無視するのか」


「今度は聞く」


 男は第四候補へ向き直る。


「お前は、退学処分の再審査を続けたいか」


「続ける」


「消えた記録へ、お前自身が関与していたと分かる可能性もある」


「それでもだ」


「保護対象が、お前の望まない相手である可能性もある」


「今の俺が決める」


「そうか」


 男は頷いた。


「なら、今度はお前と一緒に調べる」


 三年前にはできなかったこと。


 処分を決める前に、本人へ問いかけること。


 その答えを聞いた上で、同じ資料を見ること。


 第四候補はすぐには答えなかった。


 やがて、男が持つ書類の束から半分を奪う。


「一人で持つには多い」


「重くはない」


「そういう問題ではない」


 どこかで聞いたような言葉だった。


「お兄ちゃん」


 灯が俺を見る。


「似てるね」


「誰と誰が」


「全員」


「雑すぎるだろ」


 文乃が書類板へ新しい予定を表示する。


 ――消失学籍履修記録・照合候補。


 ――二百四十七大学。


 ――臨時滞在許可、残り五時間二十一分。


「全件を回る必要はありません」


 文乃が説明する。


「帝都理法大学の共同記録庫から、履修科目名と担当大学を照合できます。ただし、三年前の記録の一部には閲覧制限があります」


「解除に必要な書類は?」


 俺が尋ねる。


「大学ごとに異なります」


「合計は?」


「現時点では算定不能です」


「聞かなければよかった」


「まず、消えた三件が最後に同時履修していた講義を確認します」


 文乃が書類を一枚開いた。


 文字の大半は失われている。


 残っているのは科目名の一部だけだった。


 ――共同実習。


 ――複数学籍間の――


 ――同一個体――


 ――証明――


 その下に、担当大学が表示される。


 ――主幹校。


 ――帝都理法大学。


 ――協力校。


 ――帝都神律大学。


 俺たちは同時に顔を上げた。


「帝都神律大学が関わっていた?」


 灯が呟く。


「三年前の共同履修記録です」


 文乃が答える。


「ですが、現在の帝都神律大学側の記録には、この実習が残っていません」


「向こうで消えたか」


 俺が言う。


「あるいは、こちらで対応を失った可能性があります」


 澄玲が書類を読む。


「科目名を復元できれば、帝都神律大学側の記録から逆照合できるかもしれません」


 帝都理法大学の黒瀬零が、紙面の下部を指した。


「続きがある」


 失われた科目名の下。


 受講条件。


 そこへ、薄い文字が残っていた。


 ――受講対象。


 ――同一の氏名を持ちながら。


 ――互いに異なる学籍を持つ学生。


「同じ氏名を持つ学生」


 第四候補が俺を見る。


 俺も男を見る。


 三年前。


 既に複数の黒瀬零が、《学術都市》の共同実習へ参加していた。


 現在の俺たちが分かれる前から。


 あるいは、今の俺たちとは別の形で。


「四件の学籍は」


 俺は男へ尋ねる。


「全部、黒瀬零だったのか」


 男は答えなかった。


 答えの代わりに、最後の一枚をめくる。


 受講者一覧。


 三件は完全な空白。


 残る一件だけに、氏名があった。


 ――黒瀬零。


 ――所属、帝都理法大学。


 男自身の学籍。


 そして、一覧の下へ手書きの追記が残されている。


 文字を書いた者の署名はない。


 だが、筆跡は俺のものに似ていた。


 ――四名の黒瀬零が揃った場合。


 ――《第四候補》を、決して審査室へ入れるな。


 俺たちは今、その警告が残された審査室の前にいる。


 第四候補は既に、その中へ入った。


 直後。


 開いたままだった扉が、音を立てて閉じ始めた。


 ――未完了共同履修審査。


 ――対象学籍、四件。


 ――必要個体数。


 ――充足。


「四件?」


 澄玲が周囲を見る。


「ここにいる黒瀬零は、三人です」


 俺。


 第四候補。


 帝都理法大学の黒瀬零。


 三年前の俺も、採択領域から離脱した俺も、ここにはいない。


 それでも審査室は、四件が揃ったと判断している。


 中央の扉が閉じる直前。


 三つの空席のうち、一つへ黒い人影が浮かび上がった。


 誰も座っていないはずの席。


 そこから、俺と同じ声が聞こえる。


「一人、数え忘れている」


 白い空白の中で。


 五人目の黒瀬零が、こちらを見ていた。

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