第四十五話 百二十秒の在籍猶予
――残り、百二十秒。
停止した《学門衛》の顔へ表示された数字が、一秒ずつ減っていく。
百十九。
百十八。
百十七。
「眺めている時間はありません」
綴木文乃が銀色の書類板を閉じた。
「第四候補を臨時滞在許可へ切り替えます。全員、こちらへ来てください」
「ここで手続きできないのか」
俺は床から立ち上がる。
左腕に鈍い痛みが残っていた。
澄玲が取りつけた救護用固定具が、肘の周囲を青白く覆っている。
「中央改札で行えるのは、処分効力の一時停止までです。臨時滞在許可は、共同学務局の照合端末から申請する必要があります」
「どこにある」
「帝都理法大学・証明行政学部の中央照合室です」
文乃は改札の先を指した。
真っ直ぐに延びた大通りの向こう。
銀色の塔が、周囲の大学施設を見下ろすように立っている。
塔の壁面には、十二本の筆記具を組み合わせた紋章が刻まれていた。
「距離は?」
「直線で二百八十メートルです」
「百十秒で?」
「通常なら間に合います」
俺は周囲を見る。
停止した十二体の《学門衛》。
まだ完全には消えていない銀色の退域線。
改札の向こうで、何が起きているのかと足を止めている学生たち。
「通常じゃない気がするんだが」
「《学術都市》では、この程度は通常です」
「嫌な都市だな」
「帝都神律大学に言われたくありません」
「二度目だぞ、それ」
「事実は反復しても有効です」
文乃は走り出した。
「残り百八秒です!」
「本当に走るのか」
朔夜が菓子パンの袋を白衣のポケットへ押し込む。
「天城先輩、食べながら走らないでください」
「もうしまったよ」
「袋だけです。口の中に残っています」
「九条はよく見てるな」
「転倒してからでは遅いからです」
澄玲が白い線を一本だけ地面へ伸ばした。
中央照合室までの最短経路。
能力を本格的に使ったわけではない。
既に目視できる道の中から、現在通行可能なものを選び出しただけだ。
「お兄ちゃん、走れる?」
灯が俺の左腕を見る。
「走るだけなら許可されてる」
「途中で何か殴らない?」
「殴らない」
「蹴らない?」
「必要がなければ」
「今、『必要がなければ』って言った」
「時間がないぞ」
俺は第四候補を見る。
「行けるか」
「俺は怪我人ではない」
「さっき改札から飛ばされただろ」
「あれは処分だ。負傷ではない」
「元気なら先頭を走れ」
「命令か」
「提案だ」
「断った場合は?」
「百秒後に駅の外へ飛ばされる」
「事実上の強制だな」
「最近、それ流行ってるのか」
第四候補は文乃の後を追った。
俺たちも走り出す。
◇
中央学門駅の外へ出た瞬間、視界が一気に開けた。
《学術都市》。
その名前から、俺は多くの大学が同じ街へ集まっている光景を想像していた。
実際に広がっていたものは、そんな単純な街ではなかった。
石造りの講義棟と、空中に浮かぶ研究塔。
木々の間へ建てられた古い学院。
外壁を持たず、無数の数式だけで形を保つ校舎。
巨大な円形図書館の内部を、別の大学の列車が貫いている。
路上には様々な制服を着た学生が行き交い、頭上では複数の大学章を掲げた案内板が回転していた。
同じ道の左右に、異なる法則を持つ大学が並んでいる。
それぞれの施設は別の空間へ属しているはずなのに、共通の道路だけが、それらを一つの都市として繋いでいた。
「見物はあとです!」
文乃の声で我に返る。
――残り、八十九秒。
数字は駅に置いてきたはずだった。
だが第四候補の頭上へ、同じ表示が追従している。
「どこまでついてくるんだ、あれ」
「退学処分記録と本人の対応が維持されている限り、都市内のどこでも表示されます」
「嫌がらせとして完成度が高いな」
「処分の可視化です」
「言い換えても嫌がらせだろ」
大通りの中央へ、透明な床が現れた。
学生たちが次々に乗り込んでいる。
床は止まることなく前方へ流れ、複数の大学へ分岐していた。
「《履修連絡路》を使います」
文乃が透明な床へ飛び乗る。
「これなら三十秒で帝都理法大学へ到着します」
澄玲。
灯。
朔夜。
獅堂。
俺。
順番に乗り込む。
最後に第四候補が足を置いた瞬間、透明な床が赤く変わった。
――利用資格なし。
――退学処分対象者。
――移送拒否。
「またか」
第四候補の足元だけが停止する。
他の床は前へ進み続けている。
俺たちとの距離が広がった。
「第四候補!」
灯が叫ぶ。
「先へ行け」
「置いていけるわけないでしょう!」
文乃が書類板を操作する。
「同行者扱いを申請します」
空中へ申請欄が開いた。
――同行対象者。
――《第四候補》。
――身元保証者。
――入力待ち。
「保証者が必要なのか」
「現在有効な学籍を持つ者が、移動中の行動責任を引き受ける必要があります」
「俺がやる」
第四候補がこちらを見る。
「お前が?」
「一番近い」
「理由になっていない」
「時間がない」
俺は左手を空中の申請欄へ伸ばした。
――身元保証者。
――黒瀬零。
文字が入力された瞬間、表示全体が青から金色へ変わる。
鐘のような音が《履修連絡路》全体へ響いた。
周囲を歩いていた学生たちが、一斉に足を止める。
――登録情報を照合。
――旧共同履修審査局・代表学生権限を検出。
――優先移送経路を開放。
「何だ、これ」
俺の足元から金色の線が延びる。
線は流れる床を逆走し、取り残されていた第四候補の足元へ繋がった。
停止していた床が、急激に動き始める。
第四候補が俺たちの位置まで一気に運ばれてきた。
「黒瀬さん、手を離してください!」
文乃が叫ぶ。
「もう離してる」
「違います。申請欄との接触を切ってください!」
俺は空中の文字から手を引いた。
金色の線は残ったままだった。
――身元保証者。
――黒瀬零。
――権限区分。
――元代表学生。
「俺は元代表学生じゃない」
「分かっています」
文乃が険しい表情で書類板を見る。
「ですが、《学術都市》の共同学籍網が、あなたの名前を三年前の処分決定者と一時的に対応づけました」
「学生番号は違うんじゃなかったのか」
「異なります。それでも、氏名と対象者との関係を優先して、旧権限を参照したようです」
澄玲が金色の線を観察する。
「名前が一致しているだけではありません。黒瀬さんが第四候補の身元保証を申し出たことで、三年前と同じ二者関係が再形成されたと判断されたのでしょう」
「三年前と同じ?」
「第四候補と、それを審査する黒瀬零です」
第四候補が金色の線を見る。
「俺を退学させた黒瀬零と、今のこいつを同じ関係へ置いたのか」
「可能性があります」
「解除できるか」
「中央照合室へ着いてから行います」
――残り、六十二秒。
「それまでに間に合わなかったら?」
灯が尋ねる。
「第四候補の強制退域が再開します。それに加え、現在の黒瀬さんが退学処分決定者として誤登録される可能性があります」
「お兄ちゃんまで退学させる側になるの?」
「正式な登録ではありません。ただし、放置すべき状態でもありません」
「走るより面倒なことが増えたな」
俺は金色の線を引っ張ってみる。
線は動かない。
第四候補との間に固定されたままだ。
「切るか」
朔夜が尋ねる。
「駄目です」
澄玲が即座に答えた。
「今切断すると、第四候補を移送している優先経路まで失われます」
「なら、このまま行くしかないか」
「はい。天城先輩は周囲の接続だけを警戒してください」
「了解」
履修連絡路が大きく曲がる。
正面へ、銀色の塔が迫ってきた。
帝都理法大学。
塔の下部には、広い階段と十二本の柱が並んでいる。
柱の一本一本へ、異なる文字が刻まれていた。
証明。
反証。
保留。
異議。
照合。
再審。
その他の文字は、走りながらでは読めなかった。
透明な床が塔の入口へ接続する。
「降ります!」
文乃が先に飛び降りる。
――残り、四十三秒。
◇
帝都理法大学・証明行政学部中央照合室。
その入口には扉がなかった。
代わりに、壁一面を覆う巨大な申請書が立っている。
項目は数百。
記入欄の一つ一つが、人間一人を通せるほど大きい。
「ここを通るのか」
獅堂が眉を寄せる。
「必要事項が揃えば、入口が形成されます」
文乃が自分の学生証を書類板へ当てた。
――申請者。
――綴木文乃。
――帝都理法大学・証明行政学部三年。
――《学術都市》共同学務局・学生補助員。
壁の一部が白く光る。
「対象者」
「第四候補」
第四候補が前へ出る。
――氏名。
表示が停止した。
「未定だ」
第四候補が答える。
――現在使用する暫定呼称。
「第四候補」
――本人確認。
――暫定。
――処分状態。
――退学。
――申請資格。
――なし。
文字が赤く変わる。
「その循環は、さっき見たぞ」
俺が言う。
「今回は別の欄を使います」
文乃が書類板を素早く操作する。
壁の右端へ、小さな文字が現れた。
――処分対象者本人による、処分記録再照合要求。
――申請資格。
――処分対象者に限る。
「本人だから申請できるのか」
「退学処分を解除する申請はできません。しかし、自分に対する処分内容の開示と再照合は要求できます」
「最初から、それを使えばよかったんじゃないか」
「中央照合室へ本人が到着している必要があります」
「またか」
「現行制度です」
――残り、三十一秒。
「第四候補、手を置いてください」
第四候補が壁へ右手を当てる。
――本人意思を確認。
――三年前の退学処分について、再照合を要求するか。
「要求する」
――理由を入力。
第四候補は一瞬だけ黙った。
「俺は、この処分を選んだ記憶がない」
壁へ文字が刻まれる。
――本人記憶との不一致。
――再照合理由として受理。
「次に、現在の受入先が必要です」
文乃が帝都理法大学の紋章へ手を当てた。
「帝都理法大学・証明行政学部は、処分記録の再照合が終了するまで、第四候補を臨時審査対象として受け入れます」
――受入責任。
――帝都理法大学・証明行政学部。
――期間。
――再照合終了まで。
――責任者承認。
――不足。
「責任者は?」
澄玲が尋ねる。
「学部長の承認が必要です」
「今どこにいる」
「別の大学との学位認証会議です」
「間に合わないだろ」
――残り、二十二秒。
文乃が別の欄を開いた。
「緊急時には、共同学務局の現地担当者一名と、異なる大学の代表学生二名による仮受入が可能です」
「最初から、それを――」
「この手続きは、処分対象者が都市側へ到達し、再照合要求を行った後でなければ使えません」
「分かった。もう言わない」
「代表学生は誰がやる」
獅堂が尋ねる。
「帝都神律大学から二名です。黒瀬さんは使用できません」
「どうして」
文乃は俺と第四候補を結ぶ金色の線を見る。
「現在、処分決定者との同一性照合が発生しています。中立な立会人として扱えません」
「俺がやる」
獅堂が壁へ手を置いた。
――代表学生候補。
――獅堂剛毅。
――命題兵装学科一年。
――入学試験実技第二位。
――現在学籍。
――再照合中。
――仮承認。
「もう一人」
「私が行います」
澄玲が隣へ立った。
――代表学生候補。
――九条澄玲。
――法則基礎学部一年。
――入学試験筆記首席、実技第三位。
――現在学籍。
――再照合中。
――仮承認。
――残り、十二秒。
「受入申請を提出します!」
文乃が書類板を壁へ叩きつける。
巨大な申請書全体が白く光った。
――臨時滞在許可申請。
――対象、第四候補。
――退学処分再照合中。
――受入先、帝都理法大学・証明行政学部。
――立会人、獅堂剛毅。
――立会人、九条澄玲。
――申請内容を照合。
数字が減っていく。
九。
八。
七。
「遅い!」
灯が壁を見る。
「処理しています!」
文乃が答える。
六。
五。
壁の文字が赤く染まった。
――関連記録を検出。
――三年前の処分決定者による再入域拒否が登録されています。
「拒否?」
俺と第四候補を結ぶ金色の線が強く光る。
――処分決定者。
――黒瀬零。
――決定内容。
――《第四候補》の再入域を認めない。
――理由。
――閲覧制限。
四。
三。
「処分決定者の拒否を、現在の申請へ適用する根拠は何ですか!」
澄玲が壁へ問いかける。
――退学処分解除まで有効。
「今は解除申請ではありません。再照合中の臨時滞在です」
――両処理の競合を確認。
二。
一。
遠くで、金属が動く音がした。
中央学門駅の方向。
停止していた《学門衛》が、再起動した。
第四候補の頭上にあった表示が消える。
代わりに、床全体へ銀色の線が走った。
――処分停止時間、終了。
――強制退域を再開。
第四候補の身体が後方へ引かれる。
「獅堂!」
「分かっている!」
獅堂が床へ拳を下ろした。
黄金の領域が第四候補の足元を固定する。
だが、今回は駅の局所防衛ではない。
《学術都市》全体から、退学処分が第四候補を外へ押し出そうとしている。
黄金の床へ細い亀裂が走った。
「長くは持たん!」
「天城先輩、第四候補と都市外部の間に形成されている退域経路を切れますか?」
「試す」
朔夜が黒い薄刃を伸ばす。
だが、澄玲がその腕を止めた。
「待ってください。切断した場合、都市側にいる第四候補の位置まで失われる可能性があります」
「ではどうする」
「申請を成立させます」
澄玲は巨大な申請書を睨む。
「現在の競合は、三年前の処分決定者による拒否と、現在の第四候補による再照合要求です」
「処分決定者がいないから、解除できないのか」
俺が尋ねる。
「違います」
澄玲の瞳に青い数式が浮かぶ。
「処分決定者は、いるものとして扱われています」
「どこに」
「それを確認してください、綴木さん!」
文乃が処分記録を開く。
――処分決定者。
――黒瀬零。
――学籍識別番号。
――照合中。
――現在状態。
文字が一度、消えた。
再び現れる。
――有効。
「有効?」
文乃の声が変わった。
「三年前の学籍番号が、現在も失効していません」
「元代表学生じゃなかったのか」
「元代表学生です。ですが、学籍そのものは残っています」
「どこに所属してる」
文乃が表示を下へ送る。
黒く塗り潰されていた欄が、現在の照合によって一部だけ開いた。
――所属大学。
――帝都理法大学。
俺たちのいる塔の紋章が、白く光った。
「お前の大学か」
「はい」
文乃は紙面を見つめる。
「三年前、《第四候補》の退学処分を決定した黒瀬零は、帝都理法大学の学生です」
第四候補を引く力が強くなる。
獅堂の黄金の床が、さらに割れた。
「情報はあとです!」
灯が叫ぶ。
「今は第四候補を止めて!」
「現在有効な処分決定者が同じ大学へ所属しているなら、学内異議照合を申請できます!」
文乃が新しい欄を開いた。
――同一大学内・処分決定者所在照会。
――申請者。
――処分対象者。
――《第四候補》。
――照会を実行。
帝都理法大学の塔全体に、鐘の音が響いた。
床。
壁。
天井。
無数の書類棚。
大学に存在する全ての学籍端末が、一斉に照合を開始する。
――対象学籍番号を検索。
――最終使用記録を確認。
――現在位置を照合。
数秒。
それだけの時間が、異様に長く感じられた。
獅堂の足元で黄金の床が砕ける。
「まだか!」
「検索中です!」
第四候補の身体が一歩、後方へ滑った。
俺は左手で第四候補の服を掴む。
腕輪が赤く点滅する。
『黒瀬零』
緋月の声が響いた。
「今は無理だ!」
『何が起きている』
「人が退学させられてる!」
『説明になっていない!』
「帰ったら話す!」
『左腕の負荷が――』
通信を切った。
「お兄ちゃん!」
「引っ張るだけだ!」
「それも駄目って言われてたでしょう!」
「離したら第四候補が飛ぶ!」
「俺を荷物のように言うな」
「なら自分でも踏ん張れ!」
「踏ん張っている!」
白い文字が、壁の中央へ現れた。
――対象学籍番号の使用記録を確認。
文乃が息を止める。
――最終認証時刻。
――本日、午前六時十一分。
「今朝?」
俺たちが帝都神律大学で緊急連絡を受けたのは、午前六時十三分。
その二分前。
誰かが、この学籍番号を使っていた。
――最終認証場所。
――帝都理法大学・証明行政学部。
――旧共同履修審査室。
現在地から、同じ塔の内部。
文乃がすぐに新たな申請欄を開いた。
「処分決定者の学内所在を確認しました。本人照合が完了するまで、処分対象者の強制退域停止を要求します!」
――理由を照合。
――処分決定者本人による再確認が可能。
――強制処分より、本人照合を優先。
――臨時滞在を許可。
銀色の線が消えた。
第四候補を引いていた力が、突然なくなる。
俺と第四候補は揃って前へ倒れた。
「痛っ……」
「重い」
「受け止めた相手に言うことか」
「今回は俺も倒れた」
獅堂が黄金の領域を解除する。
朔夜も黒い薄刃を消した。
澄玲は表示を最後まで確認してから、短く息を吐く。
「臨時滞在許可は?」
第四候補が尋ねた。
文乃が壁へ表示された内容を読む。
――対象、《第四候補》。
――臨時滞在許可。
――有効期間、六時間。
――行動可能範囲、帝都理法大学構内及び指定共同区域。
――処分決定者との本人照合を条件とする。
「六時間です」
「その間に、俺を退学させた黒瀬零を見つけろということか」
「はい」
文乃は旧共同履修審査室の位置を開いた。
塔の上層。
現在は閉鎖されている区画。
そこへ続く経路が、赤い線で表示される。
「三年前の事件以降、旧審査室は使用されていません」
「でも今朝、誰かが使った」
灯が言う。
「そうなります」
「端末だけが動いた可能性は?」
澄玲が尋ねる。
「あります。学籍番号の不正使用、過去記録の自動更新、別人への誤対応。まだ何も断定できません」
「それでも、行くんだろ」
朔夜が塔の上を見た。
「行きます」
文乃は書類板を持ち直した。
「私は帝都理法大学・証明行政学部の学生です。閉鎖区画への入室申請を行います」
「何枚必要だ」
俺が尋ねる。
「通常様式で二十三枚です」
「六時間で終わるのか」
「緊急照合用の簡略様式があります」
「何枚」
「九枚です」
「簡略とは」
「通常より十四枚少ないという意味です」
この都市では、それで十分簡略らしい。
第四候補は、俺たちを結んでいた金色の線を見る。
臨時滞在許可が成立したあとも、線は消えていない。
処分対象者。
処分決定者。
三年前の関係が、現在の俺へ誤って繋がったまま残っている。
「お前も来るのか」
第四候補が尋ねた。
「俺の名前が使われてる」
「お前の学籍番号ではない」
「それでも黒瀬零だ」
「自分と同じ名前なら、全て背負うつもりか」
「違う」
俺は立ち上がる。
「誰の答えなのか、確かめに行く」
腕輪が再び赤く点滅した。
『黒瀬零』
今度の緋月の声は、さっきより低かった。
「何だ」
『通信を切ったな』
「緊急事態だった」
『左腕の衝撃値が、許可範囲を大幅に超えている』
「人を引っ張っただけだ」
『帰還後の検査を二項目追加する』
「まだ増えるのか」
『加えて、帝都理法大学構内で戦闘行為を行った場合――』
「戦わない」
『黒瀬零』
「本当に戦わない」
灯が俺を見る。
澄玲も。
朔夜も。
獅堂も。
第四候補まで見ている。
「何だよ」
「全員、同じことを考えているだけです」
澄玲が答えた。
「何を」
「黒瀬さんの『戦わない』が、どの程度有効なのかを再照合しています」
「結果は?」
「保留です」
「便利に使うな」
俺たちは、中央照合室の奥へ向かう。
閉鎖された旧共同履修審査室。
三年前、《第四候補》を退学させた元代表学生。
俺とも、三年前の俺とも、採択領域から離脱した俺とも一致しない学籍番号。
その番号は、二時間前でも、昨日でもない。
今朝。
俺たちが《学術都市》へ来る直前に使われていた。
塔の上層へ続く昇降路の前で、文乃が足を止める。
扉には、既に文字が浮かんでいた。
――旧共同履修審査室。
――現在使用中。
――入室者。
その下に、見慣れた三文字が表示されている。
――黒瀬零。
第四候補が扉を見上げた。
「いるのか」
返事はない。
だが、扉の向こうから紙をめくる音が聞こえた。
一枚。
もう一枚。
まるで俺たちが来ることを知っていて、必要な記録を先に揃えているように。
そして、閉ざされた扉の内側から声がした。
「遅かったな」
俺と同じ声だった。




