第四十四話 退学者を拒む門
始末書の二枚目は、まだ白紙だった。
代わりに机の上へ置かれていたのは、――《学術都市》臨時入域許可申請書、共同履修審査・代表学生候補、と印刷された新しい書類だ。
「始末書より先に、別の書類が増えた」
俺は左手で申請書を持ち上げた。
「この大学、紙を増やせば問題が解決すると思ってないか」
「思っていない。問題が解決していないことを、後から証明するために増やしている」
玄理が淡々と答える。
「もっと悪いだろ」
「なお、入域許可申請書は始末書の代わりにはならない」
「聞いてない」
「顔に書いてあった」
共用室の前方では、今日の《学術都市》行きに同行する者たちが、それぞれ自分の書類を確認していた。
黒瀬灯。
九条澄玲。
天城朔夜。
獅堂剛毅。
そして、俺。
昨日、《学術都市》へ向かった第四候補は、まだ帝都神律大学へ戻っていない。
午前六時十三分。
綴木文乃から緊急連絡が入った。
――第四候補の入域手続きが停止。
――三年前の退学処分記録が、現在も有効。
――本人の移動を制限中。
届いたのは、その三行だけだった。
「制限中って、捕まってるってこと?」
灯が申請書の端を押さえながら尋ねる。
「正確には、《学術都市》中央学門駅から外へ出られない状態らしい」
玄理が答えた。
「中へ入れないのではなく、駅から出られないのですか?」
澄玲が資料へ目を落としたまま問い返す。
「駅構内は、《学術都市》の内外どちらにも属さない共通接続区域として扱われている。第四候補が都市側へ進もうとすると、三年前の退学処分が適用される」
「では、本人は現在、入学希望者であると同時に、既に退学処分を受けた者として扱われているのですね」
「そうなる」
「入学前なのに?」
灯が眉を寄せる。
「昨日も聞いた話だが、改めて聞くと意味が分からないな」
「制度上の時間と、本人が経験した時間が一致していない可能性があります」
澄玲は資料をめくった。
「あるいは、過去の記録が現在の第四候補とは異なる存在へ付与されている可能性もあります。いずれにしても、現地で確認する必要があります」
朔夜は壁にもたれたまま、菓子パンの袋を開けた。
「それで、俺たちは学籍問題を確認しに行くのか。それとも、名前のない退学者を駅から回収しに行くのか」
「両方だ」
玄理が即答した。
「面倒な方か」
「帝都神律大学の仕事で、面倒ではない方を期待するな」
「それもそうか」
獅堂が腕を組む。
「俺まで同行する理由を、まだ聞いていない」
「《学術都市》への再接続審査では、複数の学部から代表学生を提出する必要がある」
玄理は書類に視線を落とした。
「法則災害学群から黒瀬零。法則基礎学部から九条澄玲。命題兵装学科から獅堂剛毅。《未定義現象研究室》から天城朔夜。黒瀬灯は《第零学部》共同証明者として同行する」
「俺は法則災害学群の代表として、適切な状態に見えるか?」
固定された右腕を持ち上げる。
「能力使用禁止、戦闘禁止、右腕の使用禁止。ついでに始末書が六件」
「適切だ」
「どこが」
「帝都神律大学の現状を、一人で説明できる」
「悪い意味でだろ」
その時、共用室の扉が開いた。
神代緋月が入ってくる。
右目を覆う眼帯。
白衣の裾。
左手には救護棟の記録端末を持っていた。
緋月は俺を見るなり、足を止めた。
「黒瀬零。右腕を使用した場合、神経接続の治療計画を最初から組み直す」
「使わない」
「命題を使用した場合、退院許可を取り消す」
「使わない」
「戦闘行為を行った場合、救護棟へ強制送還する」
「だから、使わないし戦わないって」
「お兄ちゃん」
灯が俺の顔を覗き込む。
「今、少し目を逸らしたよ」
「逸らしてない」
「視線の移動は確認しました」
澄玲が静かに補足した。
「九条まで」
「私は観測結果を報告しただけです」
緋月は俺の左手首へ薄い腕輪を装着した。
「何だ、これ」
「治療状態監視用の端末だ。黒瀬零が許可範囲を超える運動を行った場合、私へ通知が届く」
「外していいか」
「外した時点で通知が届く」
「よくできてるな」
「患者がよくできていないからな」
灯が小さく笑った。
「お兄ちゃん、絶対に無茶しないでね」
「分かってる」
「本当に?」
「本当に」
「今まで『本当に』って言った後に、何回無茶した?」
「回数を数えるな」
「記録が必要ですか?」
澄玲が尋ねる。
「必要ない」
俺は即答した。
◇
午前八時。
正門前へ、昨日と同じ銀色の軌道が現れた。
霧の向こうから軌道車両が近づいてくる。
昨日は一両だけだったが、今日は三両編成だった。
先頭車両の窓には帝都神律大学の校舎が映っている。
二両目には、空中へ突き出した巨大な歯車状の講義棟。
三両目には、海の底へ沈んだ図書館が映っていた。
「窓ごとに接続先が違うのか」
獅堂が言う。
「間違った車両へ乗ると、別の大学へ到着する可能性があります」
澄玲は乗車案内を確認した。
「私たちの指定は先頭車両です。天城先輩、後方車両へ行かないでください」
「行かないよ。ただ、海底図書館には少し興味がある」
朔夜は三両目の窓を覗き込んでいた。
「帰りにしてください」
「帰りならいいのか」
「今回の目的を終えた後であれば、経路を確認します」
「九条は真面目だな」
「天城先輩が自由すぎるだけです」
扉が開く。
俺たちは先頭車両へ乗り込んだ。
座席は進行方向へ並んでいない。
床、壁、天井のそれぞれへ、異なる向きで固定されていた。
「どこに座ればいいんだ」
「重力方向が変化する可能性があります。固定具のある座席を使用してください」
澄玲の説明を聞き、獅堂は床に設置された座席へ腰を下ろした。
朔夜は壁側。
灯は俺の隣。
澄玲は全員の固定具を確認してから、最後に自分の座席へ座った。
『発車します』
車内放送ではない。
車両そのものが、そう告げた。
次の瞬間、窓の外から帝都神律大学が消えた。
上も下もなくなる。
身体が座席へ押しつけられたと思った直後、今度は横方向へ引かれた。
「うわっ」
灯が俺の左腕を掴む。
「お兄ちゃん、これ本当に電車?」
「線路の上を走ってるなら、たぶん」
「線路が見えないよ」
「じゃあ、電車じゃないかもしれない」
「不安になる答えをしないで」
窓の向こうを、複数の景色が通り過ぎていく。
上下が反転した街。
一秒ごとに季節が変わる校庭。
建物ではなく、巨大な数式の内部へ作られた大学。
空白の空間に、学生の声だけが浮かぶ講義室。
それらは互いに接触することなく、同じ霧の向こうへ流れていった。
「《学術都市》は、一つの土地へ複数の大学が集まっているだけではないようですね」
澄玲が窓の外を観察する。
「異なる法則環境を持つ教育機関を、共通交通網によって接続している。都市というより、大学間の接続構造に近いのかもしれません」
「街に着く前から、面倒な説明が始まったな」
朔夜が言う。
「必要な情報です。天城先輩も、到着後に迷わないよう聞いておいてください」
「九条がいるから大丈夫だろ」
「私を案内装置として扱わないでください」
「頼りにしているということだ」
澄玲は一瞬だけ言葉を止めた。
「……それなら、先にそう言ってください」
窓の外で霧が薄くなる。
無数の鐘の音が重なって聞こえた。
車両がゆっくりと速度を落とす。
『次は、《学術都市》中央学門駅』
『現在、一名の退学処分対象者により、中央改札が封鎖されています』
「一名」
俺は案内表示を見上げた。
「心当たりしかないな」
◇
中央学門駅は、駅というより巨大な講堂だった。
半円形の天井。
幾重にも並ぶ改札。
空中へ浮かぶ無数の案内板。
ホームの向こうでは、異なる制服を着た学生たちがこちらを見ている。
改札の中央。
銀色の線に囲まれた場所へ、第四候補が立っていた。
その外側には綴木文乃。
さらに周囲を、十二体の人影が取り囲んでいる。
顔のない白い制服姿。
手にしているのは金属製の定規と、巨大な退学届だった。
「何だ、あれ」
「《学術都市》共通学籍防衛機構。通称、《学門衛》です」
文乃が答えた。
「書類を持った警備員か」
「書類も武器です」
「嫌な都市だな」
「帝都神律大学に言われたくありません」
昨日と同じ回答だった。
第四候補がこちらを見る。
「遅い」
「始末書を書いてた」
「書き終わったのか」
「一枚目の氏名欄まで」
「何も進んでいないな」
「三文字は書いた」
俺は第四候補を囲む銀色の線へ目を向けた。
「それで、何が起きてる」
「俺が改札を通ろうとした。それだけだ」
文乃が板挟みを開く。
「第四候補が都市側の改札へ接触した時点で、三年前の退学処分記録が起動しました。《学術都市》の退学処分は、所属大学からの除籍だけではありません」
空中へ、処分の適用範囲が表示される。
「共通教育施設、共同図書館、実験区域、学生居住区、他大学の講義。それらへの接続資格も停止されます」
「つまり、《学術都市》全体へ入れないってこと?」
灯が尋ねる。
「現在の処理では、そうなります」
「でも昨日は、入学願書を出しに行ったんでしょう」
「駅構内にある共同学務局の臨時窓口までは、接続区域として扱われます。願書の提出は可能でしたが、都市内部への移動には退学処分が適用されています」
澄玲が銀色の線を観察する。
「処分の解除には、どのような手続きが必要ですか?」
「本人確認、処分理由の照合、当時の所属大学の確認、処分を決定した責任者の確認、再入学審査。以上です」
「どの程度の期間が必要ですか?」
「通常、三か月から半年です」
「共同履修審査は七日後ですね」
「はい」
「間に合いません」
「はい」
澄玲は少し考えた。
「では、臨時入域許可は申請できませんか?」
「申請しました」
「結果は?」
「退学処分中のため、申請資格なしです」
「申請資格を得る方法は?」
「退学処分を解除することです」
「循環しています」
「はい」
文乃は平然と認めた。
「そのため、帝都神律大学へ連絡しました」
「循環を壊すためか」
俺が言う。
「いいえ。現行規程の範囲で、別の申請経路を探すためです」
「真面目だな」
「学務局ですので」
第四候補が銀色の線へ一歩近づいた。
「待ってください。今、触れると――」
文乃が言い終える前に、第四候補の足が線を越える。
床から銀色の光が噴き上がった。
第四候補の身体がこちらへ吹き飛ばされる。
「――っ」
俺は反射的に前へ出た。
左腕で第四候補の肩を受け止める。
足が滑り、背中がホームの柱へぶつかった。
「お兄ちゃん!」
灯が駆け寄ってくる。
「右腕は?」
「使ってない。左で受けた」
手首の腕輪が赤く点滅した。
「通知、行ったんじゃない?」
「たぶん」
直後、腕輪から緋月の声が響く。
『黒瀬零。今の衝撃値を説明しろ』
「電車が少し揺れた」
『中央学門駅は停止中だ』
「詳しいな」
『黒瀬零』
「人を受け止めただけだ」
『帰還後、検査を追加する』
「了解」
通信が切れる。
第四候補が立ち上がった。
「悪い。怪我人に受け止められるつもりはなかった」
「なら、飛んでくるな」
「俺が飛んだわけではない」
「知ってる」
改札側で、十二体の《学門衛》が一斉に顔を上げた。
顔がないはずの場所へ、赤い文字が浮かぶ。
――退学処分対象者。
――都市内部への侵入を確認。
――同行者による侵入補助を確認。
――強制退域を実行。
「同行者というのは、俺たちか」
獅堂が一歩前へ出る。
白い制服の人影が金属定規を床へ突き立てた。
一本。
二本。
十二本。
銀色の線がホーム全体へ走る。
「全員、線から離れてください!」
文乃が声を上げた。
床が斜めに傾く。
違う。
床そのものは動いていない。
俺たちの身体だけが、駅の外側へ向かって引かれている。
退学処分対象者と、その同行者を駅から押し出すための強制力だった。
「面白い」
獅堂の金色の瞳が光る。
「都市そのものが、俺たちの立つ場所を認めないということか」
足元へ黄金の領域が広がった。
「ならば、ここが誰を支える場所か、今から決める」
獅堂が右拳を床へ下ろす。
「万象は我が礎」
金色の亀裂がホームを走った。
傾いていた感覚が止まる。
俺たちの足元だけが、巨大な王土として固定された。
外へ引く力と、踏みとどまらせる力が正面から衝突する。
空気が震えた。
「獅堂さん、固定できているのは現在の足場だけです」
澄玲が光の流れを読み取る。
「右側から別の強制退域線が来ます。三秒後、二時方向です」
「分かった」
獅堂が身体の向きを変える。
銀色の線が柱を回り込み、俺たちの背後へ迫った。
「天城先輩。獅堂さんの領域へ接触する前に、右から二本目の線を切ってください」
「了解」
朔夜の指先から黒い薄刃が伸びる。
「因果切断」
刃が銀色の線を横切った。
音はない。
線と、強制退域という結果の間にあった接続だけが切断される。
銀色の光は、ただの模様へ変わった。
「一つ。次は?」
「上です」
「上?」
天井から新しい銀線が落下する。
「本当に、退学処分というのはここまで物理的なのかよ」
「《学術都市》では、決定事項に実行機構が付随する場合があります」
文乃は板挟みを操作しながら答えた。
「退学者を空から押し潰す必要があるのか」
「通常は、ここまで抵抗する者がいません」
「俺たちのせいか」
「主に獅堂さんの能力出力が、防衛機構から敵対行動と判定されています」
「俺のせいだと?」
「事実です」
獅堂の額に青筋が浮かぶ。
「九条、道はあるか」
朔夜が落下する銀線を見上げた。
「今、定義します」
澄玲が両手を前へ出す。
白い光が指先へ集まった。
「問題は、第四候補を都市内部へ到達させること。条件は、退学処分記録を破壊しない。《学門衛》を破壊しない。同行者を退域させない。現在の制度上、許容される手続きを維持すること」
白い線がホームへ走る。
「世界は解を持つ」
無数の線が現れては消える。
改札。
壁。
天井。
線路。
ホームの外。
何度も経路が途切れた。
「見つかるか」
俺が尋ねる。
「解法は存在します。ただし、止まっていては成立しません」
一本の細い白線が、第四候補の足元から改札の向こうへ伸びる。
それは直線ではなかった。
動き続ける銀色の退域線の隙間を縫い、獅堂の王土を通り、朔夜の黒刃の下を抜け、改札機の上へ続いている。
さらに、その先は天井近くまで伸びていた。
「何だ、この道」
「今から十二秒間だけ成立する経路です」
澄玲が第四候補を見る。
「走ってください」
「それだけか」
「それだけです」
「途中で道が消えたら?」
「私が次の解法を提示します」
「失敗したら?」
「もう一度定義します」
第四候補は白い線を見た後、俺へ視線を向けた。
「お前はどうする」
「一緒に行く」
灯が俺の服を掴む。
「お兄ちゃん、戦わないって言ったよね」
「戦わない。走るだけだ」
「右腕は?」
「使わない」
「能力は?」
「使わない」
「本当に?」
「本当に」
腕輪が再び赤く点滅した。
「まだ何もしてないぞ」
『黒瀬零』
緋月の声が響く。
「予測通知まであるのか」
『心拍数が戦闘前の数値へ上昇している』
「走るだけだ」
『走行は許可範囲内だ。ただし、黒瀬零。左腕一本で改札を殴るな』
「殴らない」
『今、少し間があったな』
「通信を切るぞ」
『帰還後、事情聴取を追加する』
通信が切れた。
灯が俺をじっと見る。
「殴ろうとしてた?」
「してない」
「お兄ちゃん」
「時間がない!」
俺は第四候補へ向き直る。
「行くぞ」
「ああ」
「三」
澄玲が白線を見つめる。
「二」
《学門衛》が巨大な退学届を開いた。
紙面から黒い文字が飛び出す。
――資格停止。
――所属否定。
――都市外退去。
「一。今です!」
第四候補が走る。
俺も続いた。
最初の白線。
獅堂の王土。
足元が金色に固定される。
「行け!」
獅堂が叫ぶ。
次の瞬間、床が外側へ崩れた。
王土ではない部分が、退域処理によって駅の出口へ折り畳まれていく。
第四候補が改札機へ飛び乗る。
その上へ、退学届から伸びた黒い文字が迫った。
「天城先輩!」
「見えている!」
朔夜の黒刃が、文字と第四候補の間を切り裂く。
――所属否定。
その結論だけが、第四候補へ届く因果を失い、空中で散った。
「次は上です!」
澄玲が叫ぶ。
白線が改札上部から案内板へ伸びる。
第四候補が跳ぶ。
俺も左手で改札機を押し、身体を上へ運んだ。
右腕は胸元へ固定したまま、足だけで案内板へ着地する。
「怪我人の動きじゃない」
「黙って走れ」
「お兄ちゃん!」
背後から灯の声が飛ぶ。
「ちゃんと戻ってきてね!」
「分かってる!」
白線が案内板の端で途切れた。
「九条、次の道は!」
朔夜が叫ぶ。
「現在、再計算しています!」
銀線が四方から迫る。
改札の下。
天井。
柱。
案内板の文字そのもの。
第四候補が足を止めた。
「道がない」
「まだです。解法はまだ成立しています」
澄玲の声が下から届く。
白い点が俺たちの前に浮かぶ。
その先にあるのは、何もない空間だった。
「進んでください!」
「どこへ」
「前です!」
「足場がないぞ」
「今から作ります!」
獅堂が両腕を広げた。
金色の領域が、駅の床から空中へ持ち上がる。
石でも金属でもない。
誰かが立つためだけに、王土が一枚の足場として形成された。
「俺の礎を踏み外すな!」
第四候補が空中へ踏み出す。
金色の足場は一歩ごとに現れ、通過した後から消えていく。
銀線が背後から追う。
朔夜の黒刃が、その接続を次々と切断した。
「九条、右!」
「天城先輩、次は左です!」
「忙しいな!」
「文句は全て切り終えてからにしてください!」
俺たちは空中の王土を走った。
改札の向こう。
都市側の床まで、あと三歩。
だが、最後の《学門衛》が正面へ現れた。
巨大な退学届を、槍のように構えている。
――退学処分対象者。
――再入域資格なし。
――強制執行。
紙の槍が第四候補へ突き出された。
「避けろ!」
俺は叫ぶ。
第四候補は避けなかった。
真正面から紙の槍へ踏み込み、拳を握る。
「それは、俺への処分だ」
第四候補の拳が紙面へ衝突する。
爆音。
紙が大きく湾曲した。
だが、破れない。
処分記録そのものが物理的な壁となり、第四候補を押し返す。
「俺は、この処分をまだ知らない」
第四候補はさらに一歩、前へ出た。
「だが、知らない処分に従って、ここで止まるつもりもない」
紙面へ細い亀裂が走った。
能力ではない。
制度の矛盾を突いたわけでもない。
第四候補自身の力だった。
《学門衛》の腕が僅かに下がる。
「今です!」
澄玲の白線が紙の槍の側面を通る。
「右へ進んでください!」
第四候補が身体を滑り込ませる。
俺も続いた。
紙の槍が背後を薙ぐ。
風圧が背中へ当たり、足場が消えた。
俺たちは都市側の床へ転がり込む。
直後、文乃が改札中央へ一枚の書類を叩きつけた。
「共同学務局権限。対象者の処分記録を、現在照合中として登録します」
十二本の筆記具を模した紋章が白く光る。
――臨時処理。
――効力停止。
――百八十秒。
銀色の線が止まった。
《学門衛》の動きも、同時に停止する。
静寂。
駅構内へ、俺たちの息だけが残った。
「最初から、それを使えばよかったんじゃないか」
俺は床へ座り込んだまま言う。
「対象者本人が都市側へ到達しなければ、申請できません」
「制度を作った奴、性格が悪いな」
「共同規程制定委員会へ意見書を提出できます」
「何枚だ」
「指定様式で十四枚です」
「やめておく」
灯たちも改札を通ってくる。
銀線は止まったままだった。
獅堂が王土を解除し、朔夜の黒刃も消える。
澄玲は最後まで白線を確認してから、息を吐いた。
「全員、到達しました。負傷者は――」
「お兄ちゃん」
灯がすぐに俺の前へしゃがむ。
「左腕、痛くない?」
「少しだけ」
「少し?」
「まあまあ」
「どっち?」
「後者です」
澄玲が俺の腕輪を確認する。
「衝撃値が許可範囲を超えています。天城先輩、救護用の固定具をお願いします」
「了解」
「九条、本人が大丈夫だと言っていますが」
「お兄ちゃんの『大丈夫』は信用しないで」
灯が言う。
「分かりました」
「九条まで」
「灯さんから、今の発言について同意を求められました。事実として受理します」
「真面目に裏切られた」
第四候補は停止した《学門衛》を見ている。
「俺は、入れたのか」
「百八十秒間だけです」
文乃が答える。
「その間に臨時滞在許可へ切り替えます」
「退学処分は残ったままか」
「はい。まず、三年前の処分記録を開示する必要があります」
文乃が板挟みを操作した。
中央改札の奥で、壁の一部が開く。
中から細長い記録紙が排出された。
古く、端が黄ばんでいる。
だが、印字された文字は今も消えていなかった。
文乃が紙を受け取る。
「三年前の退学処分原簿です」
第四候補が隣へ立つ。
「読めるのか」
「一部には閲覧制限がかかっています」
「見える範囲だけでいい」
文乃が紙面を開いた。
――処分対象。
――氏名、非公開。
――暫定識別名。
――《第四候補》。
――在籍区分。
――共同履修学生。
――所属大学。
――閲覧権限不足。
その下にある処分理由は、多くの文字が黒く塗り潰されていた。
読めたのは一行だけ。
――共同履修審査中に発生した、複数学籍の同時消失。
「複数学籍の同時消失……」
澄玲が紙面を覗き込む。
「第四候補が、他の学生の学籍を消したという意味でしょうか?」
「現時点では断定できません」
文乃が答える。
「処分対象であることと、原因であることは別です」
さらに紙面の下部。
処分決定者。
その欄も半分が塗り潰されている。
ただし、署名だけは残っていた。
見覚えのある三文字。
――黒瀬零。
誰も、すぐには話さなかった。
俺。
三年前の俺。
採択領域から離脱した俺。
現在、その名前を持つ存在は三人いる。
だが三年前、この《学術都市》で第四候補の退学処分を決定した黒瀬零がいる。
「これは、どの黒瀬零だ」
俺が言う。
文乃は署名の下へ表示された識別番号を確認した。
そして、僅かに眉を動かす。
「現在、帝都神律大学にいる三名の黒瀬零とは一致しません」
「何だと」
「この署名には、別の学籍識別番号が付与されています」
第四候補が紙を握る。
「なら、もう一人いるのか」
文乃は、すぐには答えなかった。
紙面の最後の一行。
処分決定者の所属。
そこへ文字が浮かび上がる。
――《学術都市》共同履修審査局。
――元代表学生。
――黒瀬零。
第四候補が低く呟く。
「俺を退学させた黒瀬零は、帝都神律大学の学生ではないのか」
停止していた《学門衛》の顔へ、再起動までの時間が表示される。
――残り、百二十秒。
無数の大学が並ぶ都市の入口で。
俺たちは、まだ知らない黒瀬零の署名を見つめていた。




