第四十三話 無記名の入学願書
始末書の一枚目は、名前を書くところから詰まった。
――氏名。
印刷された二文字の横に、黒瀬零と書くだけの欄だ。
左手で握ったペン先を紙へ下ろす。
黒。
そこまで書いたところで、共用室の反対側から声が飛んできた。
「待て」
顔を上げる。
三年前の俺が、こちらを見ていた。
「何だ」
「その始末書は、どの黒瀬零のものだ」
「俺のだよ」
「俺も黒瀬零だ」
「お前は、始末書を書かされるようなことをしてないだろ」
「記録上、旧観測接続棟へ侵入した黒瀬零は一名だ」
「だったら俺だ」
「その一名が、現在どの黒瀬零へ対応しているかは確定していない」
壁際では、採択領域から離脱した俺が資料から顔を上げた。
「局所執行節点を殴ったのは、現在の彼だ」
「行為の主体はそうだ」
三年前の俺が答える。
「しかし、旧観測接続棟への最初の侵入記録には、現在の黒瀬零と三年前の記録個体が重複している」
「始末書まで分けるつもりか」
「責任の所在は明確にすべきだ」
「じゃあ、六枚を三人で二枚ずつ」
「雑に均等配分するな」
俺は書きかけの氏名欄を見る。
黒。
その一文字だけが、妙に重たく紙の上へ残っていた。
「お兄ちゃん」
隣から、灯が紙を覗き込む。
「もう氏名欄に『殴った方』って書いたら?」
「公的書類だぞ」
「先生たちには一番伝わるよ」
「不名誉すぎる」
「じゃあ、『今のお兄ちゃん』」
「数年後に読んだら分からなくなる」
「『右腕を壊したお兄ちゃん』」
「治る予定なんだけど」
「『始末書から逃げようとしているお兄ちゃん』」
「逃げてない」
「二十分、氏名欄しか見てないよ」
「慎重に検討してる」
「それを逃げてるって言うんだよ」
灯は、机の上へ積まれた残り五枚を綺麗に揃えた。
「一週間後までに六枚でしょう」
「まだ六日ある」
「初日に一文字なら、一週間で七文字」
灯が指を折って数える。
「十分だな。黒瀬零は三文字だ」
「本文が残ってるよ」
「本文は簡潔にまとめる」
「『反省しています』?」
「『再発防止に努めます』」
「本当に?」
「右腕が治るまでは」
「期間限定じゃ駄目」
共用室の前方で、玄理が黙ってこちらを見ていた。
「黒瀬」
「どの黒瀬だ」
三人分の声が、ほとんど同時に返る。
玄理は数秒間、目を閉じた。
「私の呼び方が悪かった」
「先生が認めた」
「記録しておこう」
「余計なところだけ連携するな」
玄理は机の中央へ封筒を置いた。
白い封筒の表面には、帝都神律大学とは異なる紋章が刻まれている。
円形に並んだ十二本の筆記具。
万年筆、鉛筆、羽根ペン、刻印針、彫刻刀。
さらに、見たことのない光の筆が、一つの空白を取り囲んでいた。
「《学術都市》からだ」
灯が封筒へ身を乗り出す。
「もう繋がったの?」
「外部通信の一部だけな」
「大学の外って、まだ道が変なんじゃないのか」
俺が尋ねると、玄理は即座に答えた。
「変だ」
「即答するなよ」
「事実だ。正門から東へ向かう道は、現在も旧運動場へ接続している」
「西は?」
「《学術都市》中央区へ繋がった」
「まともじゃないか」
「徒歩で三分進むと、出発地点へ戻る」
「駄目だな」
「ただし、《学術都市》側から運行される軌道車両は、本学まで到達できる」
灯が首を傾げた。
「向こうから来られて、こっちからは行けないの?」
「現在の本学は、外部座標との対応が一方向だけ復旧している」
「訪問はできるけど、帰せないってこと?」
「その可能性があるため、来訪者には事前説明を行っている」
「誰か来るのか」
「既に来ている」
玄理が共用室の扉を見る。
同時に、三回の硬い音が鳴った。
ノックではない。
扉の外から、金属製の定規で一定の間隔を測るような音だった。
「入ってください」
玄理が告げると、扉が開いた。
立っていたのは、見知らぬ女子学生だった。
年齢は、俺たちより二つか三つ上に見える。
濃紺の長い外套をまとい、胸元には先ほどの封筒と同じ紋章がある。
片手には銀色の板挟み。
もう片方には、一本の長い定規を持っていた。
女子学生は扉の縁を測り、続いて床、天井、共用室の奥行きを確認した。
「外部寸法と内部寸法の差、二・三メートル。許容範囲です」
「それで許容するのか」
俺が言うと、女子学生はこちらを見た。
「建物が来訪者を食べなければ、当面は許容します」
「食べたことがあるみたいな基準だな」
「三年前に一件」
「あるのかよ」
「建物側からは、履修行為だったと報告されています」
「何を履修したんだ」
「学生です」
「逆だろ」
女子学生は銀色の板挟みを開いた。
「《学術都市》共同学務局所属、帝都理法大学・証明行政学部三年。綴木文乃です」
つづき、ふみの。
そう名乗りながら、彼女は共用室にいる者を一人ずつ確認した。
俺。
灯。
玄理。
三年前の俺。
採択領域から離脱した俺。
窓際にいる未証明の観測者。
右機能。
左機能。
最後に、空いている一席を見る。
「照合対象が一名不足しています」
「第四候補なら外だ」
俺が答えた。
「外とは」
「大学の外」
「現在の帝都神律大学において、その表現は範囲が広すぎます」
「正門の近くだと思う」
「位置記録は?」
「本人が持たないことを選んでる」
文乃は銀色の板挟みへ何かを書き込んだ。
「対象者一名。現在位置、本人の選択により未登録。帰還予定は?」
「決めてない」
「帰還意思は?」
「出る前に、戻ると言った」
「では、帰還意思あり」
迷いなく記録する。
「それで認めるのか」
「現在位置を隠すことと、帰る意思がないことは別です」
「話が早いな」
「話を遅くすると、学務処理が増えます」
文乃は共用室中央へ進み、玄理が置いた白い封筒を開いた。
「本日は、帝都神律大学に対する《学術都市》共通学籍照合の事前通知に参りました」
空中へ、大きな書類が投影される。
――《学術都市》共同学務局。
――外部接続再開機関に対する緊急学籍照合。
――対象。
――帝都神律大学。
その下には、赤い文字が並んでいた。
――学籍記録の不整合。
――重複登録。
――所属未確定者。
――氏名未確定者。
――過去記録との非対応。
――学位認証の一時保留。
「多いな」
「少ない方です」
「これで?」
「別の大学では、全学生が同一人物として登録された事例があります」
「どうなった」
「卒業式で代表者一名だけが答辞を読み、全員分の学位を受け取りました」
「解決してないだろ」
「翌年度に修正されました」
文乃は次の書類へ表示を切り替えた。
「帝都神律大学は、《第二観測圏》側の有効観測結果との対応を失い、本学内部で《査読未成立領域》として記録されたことに伴い、《学術都市》学籍認証網との対応も失いました」
表示された学生名簿の大部分に、赤い警告が重なっている。
「そのため、本学に在籍する全学生の学籍について、現在の本人と既存記録との再照合が必要です」
「全員?」
灯が尋ねる。
「全員です」
「何人いると思ってるの?」
「正確な人数を確認するための照合です」
「終わらない気がする」
「終わらない場合は、照合継続中として教育活動を継続します」
「それでいいんだ」
「学籍が不明だからといって、学んでいる本人を教室から追い出す方が問題です」
未証明の観測者の光が、僅かに揺れた。
『氏名を持たない場合は』
「氏名未定として受理します」
文乃は即座に答えた。
『存在の発生記録がない場合は』
「本人の現在回答と、周囲二名以上による継続確認を提出してください」
『観測者と学生の、どちらであるか決定していない場合は』
「暫定的な二重区分で登録できます」
『……』
「他にありますか」
『今は、ない』
「承知しました」
未証明の観測者は、文乃を見つめている。
『あなたは、私が何者であるかを確認しないのか』
「確認します」
『ならば』
「ただし、確認と決定は別です」
文乃は銀色の板挟みを閉じた。
「学務局の仕事は、本人より先に人生の結論を書くことではありません」
未証明の観測者は、しばらく何も答えなかった。
『学務局は、そういう場所なのか』
「理想上は」
「現実は?」
俺が尋ねる。
「書類不備との戦いです」
「急に信用できる」
玄理が資料へ目を落とした。
「学位認証の保留について説明を」
「現段階では、帝都神律大学が既に発行した学位を無効とは扱いません」
文乃が別の項目を拡大する。
「ただし、今後発行される学位については、《学術都市》内の他大学および研究機関が、内容を個別に審査する可能性があります」
「大学として再認証を受ける必要があると?」
「はい」
「方法は」
文乃が次の頁を表示した。
――《学術都市》共同履修審査。
――実施予定日。
――七日後。
「七日?」
俺は表示を見上げた。
「始末書の期限と同じだ」
「よかったね。忘れにくくて」
灯が笑う。
「全然よくない」
「共同履修審査って、何をするの?」
「本来は、各大学の学生が他大学の講義を履修するための共通審査です」
文乃は、順番に項目を示していく。
「異なる教育体系、異なる能力分類、異なる評価基準、異なる安全規程。それらの間で、学生が学習を継続できるかを確認します」
「今回は、帝都神律大学そのものの再接続審査も兼ねるということか」
玄理が尋ねる。
「そのとおりです」
「学生が試験を受けるのか」
「一部の代表学生に、複数大学の講義と実習へ参加していただきます」
投影された画面へ、審査項目が追加される。
「その履修記録を通じて、帝都神律大学の学生認証、教育内容、能力管理、学籍の継続性を確認します」
玄理が、嫌な予感を得たような顔で俺を見た。
「俺は怪我人だぞ」
「代表学生の選定基準は、大学側へ一任されています」
文乃が答える。
「先生」
「まだ何も言っていない」
「顔が言ってる」
「便利な学生がいると考えただけだ」
「俺は便利じゃない」
「外部審査、学籍不整合、上位観測被害、同一起源の複数個体、能力使用制限中。これほど今回の審査に適した学生はいない」
「悪条件を並べただけだろ」
「多様な事例を一名で提出できる」
「資料扱いするな」
三年前の俺が手を上げた。
「代表学生に同一氏名の別個体が含まれる場合、どのように扱う」
「その件ですが」
文乃は資料を確認し、一つの欄を拡大した。
――黒瀬零。
――学籍記録数、一。
――現在照合個体数、三。
――候補個体数、一。
「《学術都市》の学籍認証網では、黒瀬零という学生は一名として登録されています」
該当欄から四本の細い線が伸びる。
「現在、その一件の学籍に対して、三名の照合個体と、黒瀬零に由来する第四候補が対応候補として検出されています」
「要求してない」
俺が言う。
「システム上の表現です」
「じゃあ訂正してくれ」
「訂正には、照合対象全員の署名が必要です」
「署名したら、俺が三人いることを認める書類になるのか」
「四名です」
「第四候補は黒瀬零を名乗ってない」
「その点も未確定です」
採択領域から離脱した俺が、資料を覗き込んだ。
「一つの学籍を複数個体へ分割することは可能か」
「可能です」
「軽いな」
「ただし、単位も分割されます」
文乃が続く頁を表示する。
全員が黙った。
「現在の黒瀬零が取得している単位を、四等分するのか」
「均等分割の場合、一名あたり七・五単位です」
「少なすぎる」
「一年生としては、極端に少ないわけではありません」
「そういう問題じゃない」
「では、全員へ同じ単位を複製する」
三年前の俺が提案する。
「それは学術的不正です」
「経験と記憶が共通する場合は」
「記憶の一致と学修成果の一致は別です」
文乃は、どこまでも事務的だった。
「同じ講義を覚えていることと、現在の本人が同じ理解へ到達していることは同義ではありません」
四名へ伸びていた線が、それぞれ別の審査項目へ接続される。
「そのため、黒瀬零に対応する各個体には、個別の履修確認を受けていただきます」
「第四候補も?」
灯が尋ねた。
「第四候補は、現時点で正式な学籍を持っていません。したがって、入学または科目等履修の申請が必要です」
その時、共用室の扉が開いた。
「それは、俺が決めていいのか」
静かな声が背後から届く。
第四候補が立っていた。
外へ出た時と、ほとんど変わらない姿。
ただ、黒い上着の肩には、細かな白い紙片が付いている。
「おかえり」
最初に言ったのは灯だった。
第四候補は僅かに目を見開く。
それから共用室へ足を踏み入れた。
「ああ。ただいま」
未証明の観測者が、その言葉を確かめるように見ていた。
右機能と左機能も、第四候補の帰還をそれぞれの視線で確認している。
文乃は板挟みへ記録した。
「第四候補、帰還確認。現在位置、帝都神律大学《第零学部》共用室。帰還意思、実行済み」
「誰だ」
第四候補が文乃を見る。
「《学術都市》共同学務局の綴木文乃です。あなたの学籍について確認に来ました」
「俺に学籍はない」
「はい」
「名前もない」
「確認しています」
「所属も決めていない」
「それも確認しています」
第四候補は文乃の持つ封筒へ目を向けた。
「それで、何を確認する」
「あなたが、これから学籍を持ちたいかどうかです」
第四候補の目が僅かに細くなる。
「俺を黒瀬零として登録するのか」
「本人が希望しない限り、その登録は行いません」
「第四候補として?」
「それも、本人が希望しない限り正式名称として扱いません」
「では、名前がないまま学生になれるのか」
「帝都神律大学の学内規程では可能です。《学術都市》共通規程では、条件付きで可能です」
「条件は」
「名前の代わりに、本人による継続回答が必要です」
「継続回答」
「昨日の自分と今日の自分、そして明日の自分を、完全に同一だと証明する必要はありません」
文乃は第四候補の正面に立つ。
「ただし、昨日選んだことを今日の自分がどう扱うか。その回答を、本人自身が更新し続ける必要があります」
「名前の代わりに、答え続けろと?」
「はい」
「名前より面倒だな」
「多くの場合、名前を持つ方が簡単です」
第四候補は、文乃を見たまましばらく黙っていた。
「入学した場合、何を学ぶ」
「それはお前が選ぶ」
玄理が答える。
「候補であることについての講義はあるか」
「知らん」
「黒瀬零ではない者になる方法は」
「大学は、何者になるべきかを教える場所ではない」
玄理の声が少しだけ低くなる。
「では、何を教える」
「選んだ答えを、自分で検証する方法だ」
第四候補は玄理を見た。
「間違っていた場合は?」
「答え直せ」
「何度でも?」
「学費を払う限りは」
「先生」
灯が口を挟む。
「そこは、もう少し格好よく終わろうよ」
「大学運営には費用がかかる」
「現実的すぎる」
「学費については、存在発生時期が不明な学生に対する特例奨学金があります」
文乃が資料を確認する。
「あるのか」
俺が尋ねた。
「《学術都市》では、毎年数名ほど発生します」
「急に現れた学生が?」
「未来からの転入、記録からの復元、仮説からの実体化、他者の夢からの独立」
文乃は指を折るように事例を挙げていく。
「卒業論文の結論が、学生として入学した事例もあります」
「《学術都市》、変なの多くない?」
灯が少し引いたような顔をする。
「帝都神律大学の方に言われたくありません」
「それはそう」
第四候補は白い封筒へ視線を落とした。
「申請書を見せてくれ」
文乃が一枚の紙を取り出した。
――《学術都市》共通学籍申請書。
上部には、いくつもの記入欄が並んでいる。
氏名。
生年月日。
発生年月日。
所属世界。
所属大学。
志望学部。
過去の学籍。
現在の自己認識。
他者との継続関係。
本人が保持を希望する記録。
本人が破棄を希望する記録。
第四候補は紙を受け取った。
「書ける欄がない」
「現在の自己認識は?」
「第四候補」
「それを名前として使用しますか」
「使わない」
「では、現在の分類として記録します」
「所属世界は?」
「この世界にいる」
「記入可能です」
「生年月日は知らない」
「不明と記載できます」
「発生年月日は、俺が現れた日でいいのか」
「本人が、それを自身の始まりとして扱うなら」
「扱わないなら?」
「未定です」
第四候補は紙を見つめた。
書けることより、書けないことの方が多い。
氏名は空欄。
生年月日も空欄。
発生年月日も空欄。
所属世界は現在地のみ。
過去の学籍はなし。
現在の自己認識は、第四候補。
ただし、正式名称としての使用を希望しない。
文乃は空欄を埋めるよう急かさなかった。
「空欄のまま提出できるのか」
「提出はできます。受理されるかは審査対象です」
「名前がないことを理由に、落とされる可能性は?」
「あります」
灯の表情が僅かに曇る。
だが、第四候補は文乃から目を逸らさなかった。
「その場合、名前を決めれば受かるのか」
「可能性は上がります」
「なら、名前を選ぶことが入学するための正解になる」
「制度上は、そう判断する者もいます」
「あなたは?」
文乃は少しだけ考えた。
「名前を決められない者へ、決めた方が有利だと説明することと、決めなければ存在を認めないことは別です」
第四候補の視線を正面から受け止める。
「私は前者を説明します。後者を正当化するつもりはありません」
「それでも、審査で落ちるかもしれない」
「はい」
「不公平だな」
「制度は、本人より先に存在していることが多いので。大抵、不公平です」
「変えられるか」
「変えるためには、まず申請が必要です」
第四候補が、初めて僅かに笑った。
「結局、書類か」
「書類です」
「玄理先生と気が合いそう」
灯が言う。
「やめてくれ」
玄理と文乃が、ほとんど同時に答えた。
◇
第四候補は共用室の隅にある机へ座り、白紙の申請書を正面へ置いた。
文乃。
玄理。
灯。
三人の黒瀬零。
未証明の観測者。
右機能と左機能。
全員が、少し離れた場所から見守っている。
「見すぎだ」
「観察じゃないよ。応援」
灯が答える。
「違いが分からない」
「そのうち分かるよ」
「そればかりだな」
「大学だからね」
第四候補はペンを取った。
最初の欄は、氏名。
そこには何も書かない。
次の生年月日も空欄。
発生年月日も空欄。
所属欄へ、帝都神律大学と書きかけたところで手が止まった。
「所属したいのか」
俺が尋ねる。
「分からない」
「なら、空けておけばいい」
「それでは申請にならない」
「申請って、全部決めた奴だけが出すものじゃないだろ」
第四候補がこちらを見る。
「何を決めるために学ぶのか。それを書いてもいい」
「お前は、自分が黒瀬零であることを決めたのか」
「最初からそう呼ばれてた」
「なら、自分で選んだわけではない」
「そうだな」
「それでも、その名前を使っている」
「ああ」
「なぜ」
俺は、書きかけの始末書へ目を落とす。
氏名欄には、黒の一文字だけが残っていた。
「呼ぶ奴がいるから」
「それだけか」
「それだけでもいいと思ってる」
灯が俺を見る。
何も言わず、少しだけ笑った。
「名前は、自分が何者かを全部決める答えじゃない」
俺は続けた。
「誰かが呼んだ時に、返事をするためのものでもある」
未証明の観測者が、静かに聞いている。
第四候補は氏名欄へ目を戻した。
「俺を呼ぶ者は、今のところ第四候補と呼ぶ」
「嫌か?」
「嫌ではない」
「なら、それでもいいだろ」
「だが」
ペン先が紙へ触れる。
「候補である限り、俺は何かに選ばれる前の存在だ」
紙へ小さな点が落ちた。
「採択されるか、棄却されるか。誰かの答えになるか、ならないか。そのための呼び名に見える」
共用室が静かになる。
「俺はもう、選ばれるのを待っていたくない」
灯が優しく尋ねた。
「名前を決めるために入学するの?」
「違う」
第四候補は首を横に振る。
「名前を決めてからでなければ、何も始められないという考えを確かめるためだ」
第四候補は申請書へ視線を落とした。
「名前がなくても学べるのか。誰かと話せるのか。間違えられるのか。戻ってこられるのか。それを自分で試したい」
申請書の下部には、志望理由を書くための広い空欄がある。
第四候補のペンが、一文字ずつゆっくりと動いた。
候補ではなく。
学生になるため。
氏名欄は空白のまま。
所属も学部も未定。
それでも、志望理由だけが黒い文字で残っている。
「これで出す」
文乃が申請書を受け取り、空欄を一つずつ確認した。
「氏名、未定。生年月日、未定。発生年月日、未定。所属大学、希望審査中。志望学部、未定。志望理由――」
そこで文乃の声が止まる。
「候補ではなく、学生になるため」
「ああ」
「受理できるか」
「今から確認します」
文乃は板挟みの中央へ申請書を置いた。
十二本の筆記具を模した紋章が、淡く光る。
氏名欄は反応なし。
生年月日も反応なし。
所属欄も反応なし。
志望理由へ到達した時、黒い文字の周囲へ細い線が集まり始めた。
やがて、申請書の最下部へ一つの印が浮かぶ。
――提出確認。
灯が息を吐いた。
「通った?」
「まだです」
文乃が答える。
「これは、申請が提出されたことを認める印です。入学を認める印ではありません」
「でも、名前がなくても提出はできたんだ」
「はい」
第四候補は申請書を見つめている。
喜んでいるようには見えない。
安心しているようにも見えなかった。
ただ、自分が書いた文字が消されなかったことを確かめている。
「審査はいつだ」
「七日後の共同履修審査と同時に行われます」
「何をすればいい」
「複数大学の共通講義へ参加し、質問へ答え、課題を提出し、他者との共同作業を行います」
文乃は申請書へ添付された要項を示した。
「その過程を通じて、現在のあなたが学習主体として継続できることを確認します」
「能力試験は?」
「あります」
「戦闘は?」
「原則ありません」
「原則?」
「大学によっては、議論を戦闘形式で実施します」
「あるんだな」
「《公理工科大学》では、反論が物理的に飛んできます」
「比喩じゃないのか」
「比喩なら安全でした」
右機能が文乃へ顔を向けた。
『我々も、学籍照合の対象か』
「確認対象ではあります」
『名前は未定』
「問題ありません」
『生年月日は存在しない』
「発生日を使用できます」
『我々は、発生したのか。機能として起動したのか。現在も不明』
「では、未定です」
『過去に、多数の学生へ被害を与えた』
「その記録も提出してください」
『入学を拒否される可能性は』
「あります」
右機能の言葉が止まる。
左機能が続きを尋ねた。
『それでも、申請を検討することは可能か』
「可能です」
右機能と左機能は互いを見る。
『検討する』
『同じく』
文乃は二人の前へ、通常の入学願書とは異なる書類を置いた。
――身分区分新設照会書。
『これは』
「現在の共通規程に、あなたたちへ適用できる適切な分類がありません」
『分類不能』
「はい」
『不利益か』
「現時点では、利益でも不利益でもありません」
文乃が用紙の項目を示す。
「新たな分類が必要であることを、学務局へ照会するための書類です」
『分類を、新しく作る』
「必要であれば、制度側を修正します」
右機能と左機能は、その用紙を見つめていた。
それは処理命令ではない。
自分たちのために、新しく作られる可能性のある欄だった。
未証明の観測者も、第四候補の申請書を見ている。
『名前がないまま、提出できる』
「うん」
灯が答えた。
『回答を決めないままでも、始められる』
「全部を決めなくても、今決められることからね」
未証明の観測者は自分の手を見る。
『私は、まだ名前を決めない』
「分かった」
『しかし、講義を受けたい』
その光が僅かに強くなった。
玄理が出席簿を開く。
「既に受けている」
『正式な学生として』
「申請書を書くか」
『書く』
文乃は新しい一枚を取り出した。
三年前の俺と、採択領域から離脱した俺の前には、それぞれ入学願書とは異なる書類が置かれる。
――独立学籍審査申請書。
「新規入学ではないのか」
三年前の俺が尋ねた。
「既存の黒瀬零の学籍記録と、過去または出身領域の履修記録が存在します」
文乃は書類を一枚ずつ説明する。
「ただし、現在の個体として独立した学籍はありません。そのため、既存学籍の分割、新規学籍の発行、過去履修の認定を同時に審査します」
「面倒だな」
「学籍を四等分するよりは適切です」
「待て」
俺は、増えていく紙を見た。
「俺も書くのか」
「既存学籍との再照合書が必要です」
「始末書が六枚ある」
「学籍書類は別です」
「まとめられない?」
「始末書を学籍再照合書として提出するつもりですか」
「反省してる学生だという証明にはなる」
「大学側が在籍継続を再検討する可能性があります」
「やめておこう」
灯が俺の前へ新しい書類を置く。
「お兄ちゃん、氏名欄からだね」
「今度は三文字書く」
「頑張って」
「名前を書く程度で応援するな」
「さっき一文字で止まった人が言ってる」
俺は左手でペンを持ち直した。
氏名。
黒瀬零。
今度は三文字を書き切る。
「書けた」
「すごい」
「馬鹿にしてるだろ」
「してないよ」
「目が笑ってる」
「嬉しいだけ」
「何が」
「呼んだら返事をするお兄ちゃんが、自分の名前を書いたから」
俺は氏名欄を見る。
黒瀬零。
同じ名前を、ここにいる三人が持っている。
その外側には、同じ起点から生まれながら、その名前を選んでいない者がいる。
名前だけでは、誰が誰であるかを完全には決められない。
それでも名前を書く。
呼ばれた時に、自分が返事をするために。
◇
全ての書類を確認し終える頃には、共用室の机が紙で埋まっていた。
文乃は書類を種類ごとに分ける。
「既存学籍再照合、一件。独立学籍審査、二件。新規学籍申請、二件。身分区分新設照会、二件」
「最後の二件は誰だ」
「右機能と左機能です」
『我々は、新規入学ではないのか』
「過去の活動記録は存在します」
『既存学生ではない』
「はい」
『所属変更でもない』
「はい」
『では』
「現行制度上、分類不能です」
右機能と左機能は、初めて少しだけ不満そうに見えた。
「新しい分類を作ればいいのに」
灯が言う。
「そのための新設照会書です」
「また書類?」
「書類です」
第四候補は、自分の申請書が白い封筒へ入れられるのを見ていた。
「これから《学術都市》へ行くのか」
「はい。本日の最終便で戻ります」
文乃が答える。
「俺も行けるか」
「現在は、帝都神律大学から《学術都市》側への移動経路が安定していません。軌道車両へ同乗する場合のみ移動可能です」
「なら、行く」
玄理が第四候補を見る。
「今からか」
「申請を出すところを、自分で見たい」
「提出は学務局側で行われる」
「だからだ」
第四候補は白い封筒を見つめる。
「自分の書類が、自分の見ていない場所で別の答えへ変えられないか確かめたい」
文乃は否定しなかった。
「同乗申請を行います」
「申請が必要なのか」
「必要です」
「今、書く」
「本人確認欄があります」
「何を書く」
「現在の自己認識」
第四候補は、少し困ったように笑った。
「一日で、同じことを何度書かせる」
「昨日と今日で、答えが変わる可能性があるためです」
「大学は面倒だな」
「入学前に理解できて何よりです」
◇
午後五時。
帝都神律大学の正門前に、一本の線路が現れた。
地面から伸びてきたのではない。
空白だった場所へ、初めから存在していたように、二本の銀色の軌道が学外へ続いている。
線路の先は白い霧に包まれていた。
その霧の向こうから、鐘の音が聞こえる。
一つ。
二つ。
三つ。
異なる音程。
異なる間隔。
異なる大学の終業を告げる鐘。
やがて霧の中から、一両の車両が現れた。
古い路面電車に似ている。
だが、窓の一つ一つには違う景色が映っていた。
巨大な図書塔。
空中へ浮かぶ講義棟。
橋の下へ逆さに建つ研究所。
街路そのものが黒板になった広場。
議論する学生たちの言葉が、光の数式となって飛び交う中庭。
制服も、能力も、大学章も、何もかも異なる学生たち。
「これが《学術都市》?」
灯が車窓を見上げる。
「窓に映っているのは一部です」
文乃が答えた。
「帝都神律大学を含む複数の大学、研究機関、共同図書館、学会施設、学生居住区、実験特区、学術商業区。それらを接続した大学連合都市です」
「帝都神律大学も、そこに入ってるんだよね」
「はい」
「学内にいると、全然分からなかった」
文乃は帝都神律大学の校舎を見上げた。
「帝都神律大学は、外部との交流より、学内で発生する問題への対応に多くの時間を使う傾向があります」
「遠回しに閉鎖的って言ってる?」
「記録上の傾向を述べました」
「たぶん言ってるな」
俺が答える。
第四候補は、開いた車両の扉の前へ立った。
その手には、控えとして渡された無記名の入学願書がある。
氏名欄は空白。
志望理由だけが残っていた。
「戻るのか」
俺が尋ねる。
第四候補がこちらを見る。
「戻る」
「いつ」
「申請を出したら」
「それだけ?」
「街も見る」
「大学も?」
「ああ」
「なら、いってらっしゃい」
灯が言った。
第四候補は昨日よりも早く答える。
「行ってくる」
第四候補が車両へ乗り込み、文乃も続く。
扉が閉じる直前、車内の表示板へ新しい文字が流れた。
――《学術都市》共同履修審査。
――参加大学、照合中。
――代表学生、照合中。
――黒瀬零。
――該当学籍、一件。
――対応個体、四名。
俺たち全員が表示を見る。
「四名?」
灯が呟いた。
「第四候補は、黒瀬零として申請してないよね」
文乃が車内から表示板を確認する。
初めて、彼女の表情が僅かに変わった。
「これは、今回の申請による照合結果ではありません」
「どういう意味だ」
第四候補が尋ねる。
「《学術都市》側の記録では、あなたに対応する学籍照合が、既に一度行われています」
第四候補の目が細くなる。
「いつ」
「三年前です」
風が正門を抜けた。
三年前。
今の第四候補が、まだこの大学へ現れるより前。
表示板の文字が次へ進む。
――照合対象。
――氏名、非公開。
――黒瀬零との対応。
――《第四候補》。
――所属。
文字が一瞬だけ乱れる。
表示されたのは、帝都神律大学ではなかった。
――《学術都市》。
――在籍記録あり。
――現在状態。
――退学処分。
第四候補が無記名の願書を握る。
「俺は」
低い声が車内から届いた。
「入学する前に、退学しているのか」
発車の鐘が鳴る。
車両がゆっくりと動き始めた。
霧の向こう。
無数の大学が並ぶ都市へ。
名前のない学生を乗せて、線路が続いていく。




