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『神律大学の未証明者《アンプローヴン》』   作者: 仕儀の反駁
第三章《第二観測圏》《分離査読官》編

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第四十一話 世界の欄外で鐘が鳴る

 学内基準時刻で、正午。


 午前九時と定められた時刻から、ちょうど三時間が経過していた。


 太陽らしき光は空の中央まで昇っている。


 時計塔の針も、学生たちの端末も、研究棟の実験装置も、今のところは同じ時刻を示していた。


「これ、正午って呼んでいいのかな」


 灯が窓の外を見ながら言った。


「大学中で正午として扱ってるんだろ」


「でも、本当に太陽が真上へ来てるか確認できてないよ」


「面倒な大学になったな」


「前からだよ」


 《第零学部》共用室の机には、朝の再確認で作られた新しい出席簿が置かれている。


 過去の記録をそのまま復元したものではない。


 現在ここにいる者たちが、自分で答えた呼称と現在の所属、希望する扱いから作られた記録だった。


 白紙だった頁には、既に十を超える項目が刻まれている。


 名前のある者。


 名前を決めていない者。


 同じ起源から分かれた者。


 過去の役割を暫定的な呼称として使う者。


 そして、朝の在所確認へ遅れた第四候補。


「結局、遅刻扱いになったんだな」


 俺は出席簿を覗き込んだ。


 第四候補の欄には赤い文字で記録されている。


 ――在所確認、遅延。


 ――理由申告済み。


 ――正門外における自己意思確認。


 ――帰還意思、確認。


 ――遅刻理由として考慮予定。


「玄理先生、こういうところだけ細かいよね」


 灯が言う。


「こういうところが細かくない者を、教員にするな」


 玄理は黒板の前へ立ち、大量の紙を分類していた。


 机の上には、負傷者一覧、施設損壊報告、記憶不整合者支援申請、所属再確認書、外部接続復旧計画、暫定学位認証に関する協議資料。


 そして、俺宛ての始末書が積まれている。


「多くないか」


「六枚だ」


「何を六回も謝るんだ」


「旧観測接続棟への無断侵入」


「緊急事態だった」


「大学設備の破損」


「壊したのは主に向こうだ」


「《第二観測圏》側の審理機構への無許可接続の継続」


「向こうから勝手に繋がった」


「正式査読手続きへの妨害」


「妨害しなければ全員処分されていた」


「学内保護候補の無断追加」


「助けただけだ」


「非物理的な局所執行節点に対する、素手での破壊行為」


「それは俺も反省してる」


 玄理の手が止まった。


「反省しているのか」


「次は左手を使う」


「反省の定義からやり直せ」


「右手がまだ治ってないから」


「そういう問題ではない」


 俺の右腕は、肩から指先まで青白い固定具に包まれている。


 損傷した肉体だけではない。


 拳を振るった行為。


 局所執行節点へ接触した結果。


 反動によって身体が損傷した事実。


 その三つの対応が、まだ完全には安定していなかった。


 救護担当からは、最低一週間の命題(テーゼ)使用禁止、戦闘禁止、右腕を使用する作業の禁止という指示が出ている。


「始末書は左手で書くのか」


「口述でも受理する」


「じゃあ、灯に書いてもらう」


「本人が書け」


「お兄ちゃんの反省文を代筆するの、少し楽しそう」


「楽しむな」


 玄理は六枚の始末書をまとめ、俺の前へ置いた。


「提出期限は一週間後だ」


「大学の後始末を優先しても?」


「後始末へ参加するためにも、まず自分が何をしたのか整理しろ」


「処分は?」


「未定だ」


「保留?」


「お前の言葉を借りればな」


「便利だろ」


「使う側へ回ると、腹立たしいほど便利だ」


 玄理が次の書類を手に取る。


 太い黒字で、こう記されていた。


 ――全学臨時説明会。


「午後一時から中央講堂で、現在状況の説明を行う」


「全学生へ?」


「学生だけではない。教員、職員、学内滞在者。現在所在を確認できる者は原則参加だ」


「俺たちも?」


「当然だ」


「怪我人だぞ」


「診察室から無断で離れようとした人間が、何を言っている」


「逃げてない。共用室へ帰ろうとしただけだ」


「医師の許可なく病床を離れることを、逃走と呼ぶ」


 灯がゆっくりと俺を見る。


「お兄ちゃん、そんなことしてたの?」


「共用室へ戻ろうとした」


「どうして?」


「暇だった」


「子供?」


「じっとしていると落ち着かない」


「子供だね」


「お前まで」


 灯は俺の固定具を、指先で軽く叩いた。


「次に勝手に動いたら、左腕も固定してもらうから」


「食事ができなくなる」


「私が食べさせる」


「それは困る」


「どうして?」


「一生からかわれる」


「大丈夫。写真は撮らないよ」


「信用できない」


「動画にするから」


「もっと悪い」


 共用室の隅で淡い光が揺れた。


 未証明の観測者が、俺たちのやり取りを見ている。


『黒瀬零と黒瀬灯の発言には、相互に不利益を示す内容が多い』


「仲がいいからだよ」


 灯が答えた。


『不利益を与えることと、良好な関係に関連があるのか』


「本当に嫌なことはしないから」


『動画を撮影するという発言は』


「冗談」


『黒瀬零は、冗談であると認識しているか』


「半分くらい」


「半分は本気だよ」


『判別困難』


「そのうち慣れるよ」


 右機能が未証明の観測者へ向く。


『右機能と左機能も今朝、異音を発する装置への対応について』


 左機能が続ける。


『黒瀬灯から、慣れる必要があると指摘された』


『慣れたか』


『未達成』


「数時間で慣れたら苦労しないよ」


 灯が笑う。


「でも、昨日よりは自分で考えてるでしょう」


 右機能と左機能は互いを見た。


『比較対象となる昨日の右機能は、命令に基づき行動していた』


『比較対象となる昨日の左機能も、同様である』


『現在は』


 右機能の視線が、説明会の通知書へ向く。


『全学臨時説明会へ参加するか、自ら検討している』


「行かない選択肢もあるぞ」


 俺が言った。


 二人が同時に俺を見る。


『右機能と左機能が参加した場合、学生へ不安を与える可能性がある』


 確かに、二人は大学全体へ分離処理を行った。


 学生たちの名前、記憶、関係。


 それらの対応を切り離した存在だ。


 審理機構の命令に従っていた。


 自分で目的を選んだわけではなかった。


 そう説明しても、被害を受けた者が簡単に納得するとは限らない。


「怖がる奴はいるだろうな」


『ならば』


「でも、隠れていれば解決するわけでもない」


『参加するべきか』


「それを俺に決めさせるな」


 二つの金色の輪郭が僅かに揺れた。


「行きたいなら来ればいい。行きたくないなら、ここに残ればいい」


『どちらが正しい』


「知らない」


『判断を放棄している』


「お前たちの答えを、俺が先に決めないと言ってるんだ」


 右機能と左機能は黙った。


 命令を待っているわけではない。


 互いに何度も視線を交わしている。


 やがて、右機能が答えた。


『右機能は、参加を選択する』


 左機能も続ける。


『左機能も、参加を選択する』


「理由は?」


 灯が尋ねた。


『我々が実行した処理によって、学生が損失を受けた』


『損失を受けた者が、現在の我々をどのように判断するのか、確認する必要がある』


「確認して、嫌われてたら?」


『その可能性は高い』


「怖くない?」


 二人はすぐには答えなかった。


『恐怖であるかは判別不能』


『しかし』


 右機能の指先が、微かに震えていた。


『参加を中止したいという処理傾向が存在する』


「それ、たぶん怖いんだよ」


 灯の声は優しかった。


『ならば』


 左機能が右機能を見る。


『右機能と左機能は、恐怖が存在する可能性を保持したまま、参加を選択する』


「うん」


 灯は頷いた。


「一緒に行こう」


     ◇


 中央講堂は、帝都神律大学で最も広い建物だ。


 本来なら、二千人近い学生を収容できる。


 だが、座席の配置はまだ完全には戻っていない。


 前方にあるはずの席が二階へ移動している。


 通路の一部は講堂の外にあり、中庭へ繋がっている。


 壇上も、見る角度によって一つに見えたり、三つに分かれて見えたりする。


 時折、何もない空間へ校章だけが浮かんだ。


「後ろに座ろう」


 灯が言った。


「どうして」


「お兄ちゃんが前にいると、何か起きた時に壇上へ行きそうだから」


「何も起きないだろ」


「その言葉、今回の事件が始まる前にも聞いた気がする」


「覚えてるのか」


「曖昧だけど」


 俺たちは、講堂中央より少し後ろの席へ座った。


 三年前の俺。


 採択領域から離脱した俺。


 第四候補。


 未証明の観測者。


 右機能と左機能もいる。


 朔夜は俺たちより一列後ろで、壁へ背を預けていた。


 周囲の学生たちは、こちらを見ている。


 好奇心。


 警戒。


 恐怖。


 怒り。


 目を逸らす者もいる。


 右機能と左機能が入った時、講堂全体の空気が明らかに変わった。


「何で、あいつらがいるんだ」


「昨日の金色の奴だろ」


「俺たちの記憶を切った……」


「拘束されてないのか」


「また何かされたら、どうするんだ」


 囁き声は二人にも届いている。


 右機能の足が止まった。


 左機能も同じ場所で立ち止まる。


『着席位置を変更する』


「どこへ?」


 灯が尋ねた。


『講堂外』


『参加によって、不安が増加している』


「それでも、話を聞きたい?」


『肯定』


「なら、ここにいていいよ」


 前の列にいた一人の男子学生が振り返った。


「勝手に決めるな」


 灯の表情が固まる。


 男子学生は右腕に包帯を巻いていた。


 額にも治療用の文字が浮かんでいる。


「そいつらが何をしたか、分かってるのか」


「分かってる」


「俺は、研究室の仲間を覚えてない」


 男子学生の声が震えた。


「四年間、同じ研究をしてたらしい。でも、顔を見ても何も出てこない」


 周囲が静かになる。


「記録には残ってる。写真もある。俺が書いた論文にも名前が載ってる。でも、自分の記憶じゃないみたいなんだ」


 右機能と左機能は、何も答えなかった。


「命令されただけだって、言うつもりか」


『事実として』


 右機能が口を開く。


『右機能と左機能は、《第二観測圏》側の審理機構群から処理命令を受けた』


「やっぱり、言い訳するんだな」


『否定』


 左機能が続ける。


『それは、我々が実行した処理をなかったことにする理由にはならない』


 男子学生が眉を寄せる。


『我々が、あなたの記憶と、その記憶が指していた者との関係を切断した』


『現在も完全には復旧していない』


『その事実を否定しない』


「じゃあ、何しに来た」


『あなたが』


 右機能の言葉が止まる。


 左機能も、すぐには続けられない。


 二人はこれまで、問いへ規程上の処理を返すだけの機構だった。


 だが今、正解のない質問を当事者から向けられている。


「謝れば済むと思ってるのか」


『思っていない』


「だったら」


『我々には』


 右機能が自分の手を見る。


『あなたが失ったものを、元へ戻す方法がない』


 左機能は男子学生から視線を逸らさなかった。


『許しを要求する資格もない』


『しかし』


 二つの声が僅かに重なる。


『我々が行ったことから、目を逸らさないために来た』


 男子学生は長い間、二人を見ていた。


「それで?」


『……』


「来た。それだけか」


『現在は、それ以上の回答を持たない』


 男子学生は唇を噛んだ。


「ふざけるな」


 その言葉を最後に、前へ向き直る。


 許したわけではない。


 納得したわけでもない。


 右機能と左機能も、何一つ解決していない。


 それでも、二人は講堂から出ていかなかった。


 男子学生も席を移らなかった。


 同じ場所にいる。


 今は、それだけだった。


「お兄ちゃん」


 灯が小さな声で呼んだ。


「何だ」


「私たち、勝ったのかな」


 答えようとして、やめた。


 周囲には、消えずに済んだ者たちがいる。


 だが、戻らなかった記憶もある。


 失われた関係もある。


 壊れた建物。


 負傷した学生。


 自分の名前を思い出せない者。


 何を失ったのかさえ分からなくなった者もいる。


「勝ったって言ったら、戻らなかったものまで戦果に含めることになる」


 俺は答えた。


「じゃあ、負けた?」


「それも違う」


「難しいね」


「ああ」


「保留?」


「今はな」


 灯は少しだけ笑った。


「お兄ちゃんらしい」


     ◇


 午後一時。


 壇上へ学長が立った。


 その隣には、各学部長、救護責任者、施設管理責任者、神代緋月、御厨玄理、九条澄玲が並んでいる。


 講堂全体へ、静かな緊張が広がった。


 学長は昨夜までと同じ人物だった。


 少なくとも、現在の記録と周囲の認識では。


 本人の記憶には、複数の空白が生じているという。


「説明を始めます」


 学長が言った。


「まず」


 一度、短く息を吸う。


「本学に所属する学生、教員、職員のうち、現在の所在を確認できていない者がいます」


 講堂が静まり返る。


「行方を確認できない者が十一名」


 誰かが息を呑んだ。


「過去の在籍記録は存在するものの、現在位置を確認できない者が七名」


 学長は続ける。


「さらに、過去の記録からは消失し、周囲の証言によってのみ在籍が推定される者が」


 声が僅かに揺れた。


「少なくとも三名います」


 三名。


 名前も、顔も、所属も、正式な記録には残っていない。


 ただ、ここにもう一人いた。


 そう覚えている者がいる。


 その証言だけが、失われた者との細い関係を支えていた。


「大学は、記録が存在しないことを理由に、その三名を捜索対象から除外しません」


 講堂の端で、泣き声が聞こえた。


「また、今回の事象によって失われた記憶、関係、人物記録の全てを、元の状態へ戻せるとは約束できません」


 学長の言葉が講堂へ落ちる。


「現在の本学には、確実な技術も、十分な権限も、復旧可能性を保証する方法もありません」


「可能な限りの捜索と復旧を行います。しかし、過去を再現することだけを回復とは定義しません」


 学長の背後に大きな画面が現れた。


 現在の大学方針。


 行方不明者の捜索。


 記憶不整合者への継続支援。


 本人同士の現在認識を優先した学内関係登録。


 過去の記録に基づく関係を本人へ強制しないこと。


 既に授与された学位の学内記録上の維持。


 今後授与される学位についての外部認証経路の再構築。


 転学、休学、退学を希望する者へ、理由を問わず利用できる特例手続き。


「本学へ残るよう求めるつもりはありません」


 学長は学生たちを見る。


「本学の現状へ不安を感じる者。この場所で学び続けることが困難だと判断する者。今回の大学の対応を受け入れられない者」


 講堂全体へ視線を巡らせる。


「その全てに、離れる権利があります」


 ざわめきが起こる。


「離れることを逃走とはみなしません。裏切りとも判断しません。残る者だけが勇敢であるとも、離れる者が弱いとも、大学は評価しません」


 壇上の緋月が僅かに目を伏せた。


 帝都神律大学は、自分たちが正しかったと宣言しなかった。


 《第二観測圏》側へ抵抗したことも。


 未証明の観測者を保護したことも。


 その結果として生じた全ての損失も。


 一つの勝利へまとめなかった。


「ここからが、本日の説明で最も重要な内容です」


 学長が告げる。


 背後の画面が変わった。


 そこへ、《第二観測圏》側の審理機構群が残した第三次正式査読の処理結果が表示される。


 ――採択。


 ――成立せず。


 ――棄却。


 ――成立せず。


 ――改稿要求。


 ――成立せず。


 ――《観測圏外追放》。


 ――失敗。


 ――正式査読結果。


 ――保留。


 ――回答期限。


 ――未定。


 ――外部暫定状態コード。


 ――《未査読領域》。


 講堂中に、最後の文字が映し出された。


「本学と、本学を含む《世界研究領域》には、《第二観測圏》側から暫定状態コードとして《未査読領域》が付与されました」


 一人の学生が手を挙げ、立ち上がる。


「それは、この世界が正式な世界として認められていないということですか」


「《第二観測圏》側の有効観測体系においては、正規の採択資料として登録されていません」


 学長が答える。


「ですが、査読を一度も受けていないわけでもありません」


 画面へ、帝都神律大学側の新しい記録が表示される。


 ――学内正式分類。


 ――《査読未成立領域》。


「本学は、今回の経緯を、査読が存在しなかったものとしては扱いません」


 学長は説明を続ける。


「査読は行われた。しかし、採択、棄却、改稿要求、追放。そのいずれも有効な結果として成立しなかった」


「そのため、本学内部では現在の領域を《査読未成立領域》として記録します」


「《未査読領域》は、外部から付された暫定的な状態コードです」


 別の学生が立ち上がった。


「大学の資格は?」


「《第二観測圏》側の観測体系を介していた認証経路との対応が、現在失われています」


「じゃあ、卒業しても学位が認められない可能性がある?」


「外部機関によって、個別の確認を求められる可能性があります」


 学長は言葉を選びながら続けた。


「既に授与された学位を、本学が無効とすることはありません。ただし、外部機関が従来どおり認証するかについては、現在協議中です」


「今後授与する学位についても、外部認証が再構築されるまでは、個別の照合が必要となる可能性があります」


 講堂のざわめきが大きくなる。


「就職は?」


「他大学との単位互換は?」


「外の街へ出られるのか?」


「家族の記録は?」


「この世界そのものが、偽物扱いってことか?」


 質問が重なる。


 学長は一つずつ聞いていた。


 安心させるためだけの答えを、すぐには返さない。


 答えられないことは、答えられないと認める。


「現時点では、確定していないことが数多くあります」


 学長が告げた。


「ですが、大学として既に決定したこともあります」


 画面から、《第二観測圏》側の処理記録が消える。


 代わりに、帝都神律大学の大学章が映し出された。


 亀裂の入った、修復途中の大学章。


「本学は、《未査読領域》という外部の暫定コードを、存在の否定としては受け取りません」


 ざわめきが止まる。


「未査読とは、誤りであることではない。偽物であることでも、価値がないことでもありません」


「まして、今回の本学は査読されなかったのではない。査読を受けた上で、結論が成立しなかった」


 学長は、画面へ表示された《査読未成立領域》という文字を見る。


「結論が成立していないことを、存在していないことへ置き換えるつもりはありません」


「《第二観測圏》側が本学を正規資料として扱わないのであれば、本学は自らの存在を、その資料へ掲載されることによってのみ証明しません」


 講堂前方の扉が、ゆっくりと開いた。


 外の光が差し込む。


「認証経路の再構築。外部機関との再接続。失われた記録の捜索。記憶不整合者への支援。学位及び研究成果の個別照合体制の整備」


 学長は一つずつ口にする。


「全て、これから行います」


「結論はまだ出ていません。未来も保証できません」


 学長は講堂にいる全員を見た。


「それでも、学びたい者がいる限り、教えたい者がいる限り、問いを持つ者がいる限り」


 一度、大きく息を吸う。


「帝都神律大学は、教育と研究を継続します」


 画面へ新しい文字が刻まれた。


 ――帝都神律大学。


 ――学内分類。


 ――《査読未成立領域》。


 ――外部暫定コード。


 ――《未査読領域》。


 ――本日。


 ――教育研究活動、再開。


 最初に聞こえたのは、拍手ではなかった。


「早すぎない?」


 誰かの声だった。


 講堂のあちこちで、困惑した笑いが起こる。


「校舎、壊れてるぞ」


「時計もまだ怪しい」


「研究データ、消えたんだけど」


「今日くらい休講にしてくれ!」


 最後の声には、講堂全体から賛同が上がった。


 学長は僅かに黙り、隣の緋月を見る。


 緋月は手元の書類を確認した。


「施設被害を考慮し、本日の通常講義は全て休講です」


 歓声が上がる。


「ただし」


 歓声が止まった。


「各学部において、現在状況を共有するための特別講義を実施します」


「結局、授業あるじゃないか!」


「出席は取るのか!」


「取る」


 玄理が壇上の端から答えた。


 講堂中から落胆の声が上がる。


「先生、今それ言う?」


 灯が呆れている。


「重要な情報だ」


 遠く離れていても、玄理の返答ははっきり聞こえた。


「地獄耳だな」


「教授だからね」


「関係あるか?」


 笑い声。


 不満。


 泣き声。


 怒り。


 全てが同じ講堂にあった。


 誰も完全には納得していない。


 全員が同じ答えを選んだわけでもない。


 それでいい。


 大学とは、一つの回答へ全員を揃える場所ではない。


 少なくとも、今の帝都神律大学は。


     ◇


 説明会が終わったあと、講堂から出ていく学生たちは何度もこちらを見た。


 未証明の観測者へ。


 右機能と左機能へ。


 そして、俺たち《第零学部》へ。


 感謝を口にする者もいた。


 目を逸らす者もいた。


 睨む者。


 小さく頭を下げる者。


 何も言わず通り過ぎる者もいる。


 一人の女子学生が、俺たちの前で立ち止まった。


「黒瀬零」


「俺?」


「そう」


 彼女は一枚の写真を手にしていた。


 四人の学生が写っている。


 女子学生自身。


 先ほど右機能と左機能へ怒りをぶつけた男子学生。


 そして残る二人。


「この人を知らない?」


 一人を指差す。


 短い髪の女子学生。


 白衣を着て、試験管を掲げ、笑っている。


「悪い。分からない」


「そう」


「行方不明なのか」


「違う」


 女子学生は写真を見る。


「行方不明者一覧には名前がない」


「記録から消えた三人のうちの一人?」


「それも分からない」


「どうして」


「私」


 女子学生は、写真の中の人物へ指で触れた。


「この人が誰なのか覚えてないの」


 声が震える。


「でも、見ると苦しい。大切な人だった気がする。なのに、名前が出てこない」


 未証明の観測者が写真へ視線を向けた。


『写真に残る外見情報を、記録することは可能』


「それだけじゃ駄目なの」


『肯定』


 観測者はすぐに認めた。


『外見情報の記録は、あなたがその人物へ抱いていた関係を復元しない』


「じゃあ、何ができるの」


『分からない』


「またそれ?」


『私は』


 淡い光を僅かに弱める。


『あなたへ、できないことをできるとは答えたくない』


 女子学生の目から涙が落ちた。


「あなたを助けるために、大学がこんなことになったって聞いた」


『私を保護したことが、今回の処理拡大の一因となった』


「あなたが消えていたら」


 灯が息を呑む。


「この人のことを、私は忘れなかったのかな」


『その可能性を否定できない』


 未証明の観測者は、逃げずに答えた。


『私が存在継続も、回答の保留も選ばなければ、別の処理結果となった可能性がある』


「じゃあ」


 女子学生は写真を握り締める。


「あなたが残ったことを、よかったなんて言えない」


『肯定』


「許せないかもしれない」


『肯定』


「それでも、あなたはここにいるの?」


『私は』


 淡い光が揺れる。


『まだ、消えることを選んでいない』


「そう」


『あなたへ、許しを要求しない』


「そう」


『しかし』


 未証明の観測者は写真を見る。


『あなたが探している人物を、私も探したい』


 女子学生が顔を上げる。


『私が観測機構であった時の処理記録には、切断時に参照した情報が断片として残っている可能性がある』


「戻せるの?」


『不明』


「見つかる?」


『保証できない』


「それでも?」


『探す』


 女子学生は長い間、未証明の観測者を見ていた。


「許してないから」


『理解している』


「一緒に探すだけ」


『肯定』


「あなたのためじゃない」


『肯定』


 女子学生は写真を差し出した。


 未証明の観測者は、両手で壊れ物を受け取るように、その一枚を受け取った。


「名前が分かったら、最初に私へ教えて」


『約束する』


「約束って分かる?」


『今は、完全には分からない』


「じゃあ」


 女子学生は涙を拭う。


「分かるまで、忘れないで」


『……肯定』


 女子学生は俺たちへ背を向けた。


 数歩進んだところで足を止める。


「その人」


 写真を指差す。


「笑ってるでしょう」


『肯定』


「たぶん、よく笑う人だった」


『記録する』


「記録じゃなくて」


 女子学生は少しだけ考える。


「覚えてて」


 未証明の観測者は写真を見た。


 観測資料としてではない。


 誰かが見失いたくないと願った、一人の人間として。


『覚えている』


 女子学生は今度こそ歩き去った。


 灯がしばらく、何も言わずにその背中を見ていた。


「お兄ちゃん」


「なんだ」


「残るって、大変だね」


「ああ」


「消えないって選んだら、それで終わりじゃないんだ」


「残ったあとのことが始まる」


 未証明の観測者が写真を胸元へ抱える。


『私は、残るという選択を、存在し続けることだけだと考えていた』


「違った?」


『残った場所で、他者が失ったものと向き合い続ける必要がある』


「それでも残る?」


 灯が尋ねる。


 淡い光はすぐには答えなかった。


『今は』


 写真へ視線を落とす。


『残る』


 昨日とは少し違う答えだった。


 消えたくないから。


 まだ決められないから。


 それだけではない。


 自分が残ったことで、誰かが抱えることになったものから逃げないために。


 ここにいる。


     ◇


 午後三時。


 《第零学部》の特別講義が始まった。


 通常の講義室は、施設照合がまだ終わっていない。


 そのため、場所は共用室。


 机も椅子も全員分はない。


 三年前の俺と採択領域から離脱した俺は、壁際へ立っている。


 第四候補は窓枠へ座っていた。


 右機能と左機能は、一脚の椅子をどちらが使うか決められず、結局二人とも立っている。


「半分ずつ座ればいいのに」


 灯が言った。


『椅子の中心線を基準に、使用領域を分離する案を検討した』


「自分たちの処理を椅子に使わないで」


『現在、分離処理の執行権限は停止している』


「なら安心」


 未証明の観測者は、窓際の空いた席へ座っている。


 机の上には、講堂で受け取った一枚の写真。


 名前の分からない白衣の女子学生。


 その笑顔を、時折確かめるように見ていた。


 玄理が黒板へ白い文字を書いた。


 ――未査読とは、誤りであるか。


「これが今日の講義?」


 俺が尋ねる。


「そうだ」


「状況共有じゃないのか」


「現在の状況そのものだ」


 玄理は共用室にいる者たちを見る。


「外部の暫定状態コードにおいて、本学は《未査読領域》と記録された」


「本学内部では、《査読未成立領域》として経緯を保存する」


「どちらにせよ、《第二観測圏》側の正規資料としては扱われず、本学の存在、発行する学位、研究成果の認証が、今後外部から個別に問われる可能性がある」


 黒板の文字へ一本の線を引く。


「では、外部から正しいと認められていないものは、誤りか」


 誰もすぐには答えなかった。


 未証明の観測者が最初に手を上げる。


『質問がある』


「何だ」


『査読とは、正誤を決定する手続きではないのか』


「正誤を検討する手続きだ」


『結果が成立していない場合、正しいと扱う根拠はない』


「そうだ」


『同時に』


 淡い光が揺れる。


『誤りと扱う根拠もない』


「そのとおりだ」


 玄理は黒板へ新しい言葉を書き足した。


 ――結論未成立。


「未査読は肯定ではない。だが、否定でもない」


「査読未成立とは、審理が行われなかったという意味でもない。結論が成立しなかった経緯を、消さずに残す分類だ」


「ただし」


 玄理が俺たちへ向き直る。


「結論が出ていないことと、何をしても構わないことは別だ」


「未証明だから責任がない。外部から認められていないから価値がない。どちらも安易な結論だ」


 未証明の観測者が写真を見る。


『私は、存在資格を証明されていない』


「ああ」


『それでも、私が残ったことで生じた結果への責任は消えない』


「そうだ」


『ならば』


 観測者はゆっくりと言葉を選ぶ。


『未証明であることは、責任から自由であることではない』


「いい答えだ」


 玄理は黒板へ記す。


 ――未証明と無責任は同義ではない。


 第四候補が窓枠から口を開いた。


「外部に認められなければ、価値がないというのも違う」


「理由は」


「価値を決める主体が、外部だけとは限らない」


「では、内部で価値があると決めれば、全て価値を持つのか」


「それも違う」


「なぜ」


「自分で自分だけを評価するなら、自分の間違いを見つけられない」


「そのとおりだ」


 玄理が頷いた。


「上位の査読結果を拒絶したからといって、他者からの批判まで拒絶してよいわけではない」


「内部の相互参照で存続できるようになったからといって、内部だけが正しいと閉じてよいわけでもない」


「では」


 三年前の俺が尋ねる。


「何を基準にする」


「今から作る」


 玄理は即答した。


「それは、基準がないということでは」


「ないから作る」


「作った基準が正しい保証はない」


「随分無責任だな」


「だから」


 玄理は俺たちを見る。


「検証する。批判する。間違えれば直す。決められなければ保留する」


「誰か一人の答えを、大学全体の正解として固定しない」


 玄理の視線が俺へ向く。


「黒瀬零」


「何だ」


「お前はどう考える。未査読は誤りか」


 黒板の文字を見る。


 ――未査読とは、誤りであるか。


 《第二観測圏》側の審理機構群は、俺たちを正規資料として採択しなかった。


 だから今度は、自分たちだけで正しいと言い張ればいい。


 そういう話でもない。


 正しいかどうかは、まだ分からない。


 俺たちが守ったものが、他の誰かに生じた損失とどう向き合うべきなのか。


 その答えも出ていない。


「誤りかもしれない」


 俺は言った。


 灯が俺を見る。


「俺たちの選択も、大学の判断も、これから間違っていたと分かるかもしれない」


「なら」


 玄理が尋ねる。


「どうする」


「間違ってるかもしれないから」


 黒板へ目を向ける。


「今のうちに、存在ごと消すって結論を認めない」


「根拠は」


「間違っていた時に、自分たちで答え直すため」


 玄理はしばらく俺を見た。


 それから、黒板へ一行を書き加える。


 ――答え直す権利。


「悪くない」


「単位は?」


「まだ講義開始から十五分だ」


「発言点くらい」


「始末書を提出したら考える」


「取引材料にするな」


「評価は総合的に行う」


 灯が小さく笑った。


 右機能と左機能は、黒板に書かれた文字を見つめている。


『答え直す』


 右機能が言う。


『過去に決定した処理を誤りと判断した場合』


 左機能が続ける。


『異なる行動を、新たに選択すること』


「そうだ」


『右機能と左機能にも可能か』


 玄理はすぐには答えなかった。


 代わりに、二人へ問い返す。


「可能だと思うか」


 右機能と左機能は互いを見た。


『分からない』


「なら、今後の課題だ」


『課題』


「大学へ正式に所属したかどうかは、まだ決まっていない」


 玄理が新しい出席簿を開く。


「だが、自分の意思でこの講義の仮受講を希望した」


「今、私の講義を受けている以上、講義中は学生と同じように扱う」


 右機能と左機能は、出席簿へ刻まれた「仮受講者」という文字を見る。


『学生として扱われる』


 命令によって与えられた役割ではない。


 自ら希望した、学ぶという行為によって一時的に与えられた立場。


『学生は』


 右機能が尋ねる。


『何を行う存在か』


「学ぶ」


 玄理が答えた。


『何を』


「分からないことを」


『いつまで』


「分かるまで」


『分からなかった場合』


「分からないまま、次の問いへ進むこともある」


『非効率的』


「そういうものだ」


『理解困難』


「だから学べ」


 右機能と左機能は再び互いを見る。


 それから、それぞれの意思で答えた。


『肯定』


     ◇


 講義終了を告げる鐘は、予定より七分遅れて鳴った。


 時計塔同士の接続が途中でずれたらしい。


「初日から延長か」


 俺が言った。


「七分では延長とは呼ばない」


 玄理が答える。


「学生側の体感では延長だ」


「始業も五分遅れた」


「差し引き二分」


「その計算なら許す」


 受講者たちが席を立つ。


 三年前の俺は学生便覧と講義資料を抱え、採択領域から離脱した俺と今後の学内手続きについて話している。


 第四候補は窓枠から降り、一人で外へ向かおうとした。


「どこへ行く」


 俺が尋ねる。


「正門前」


「また外へ出るのか」


「外を見る」


「戻る?」


 灯が聞いた。


 第四候補は扉の前で止まる。


「今度は」


 僅かに笑った。


「戻ると言ってから出る」


「いってらっしゃい」


 灯が答える。


 第四候補は、その言葉の意味を考えるように一度だけ振り返った。


「ああ。行ってくる」


 扉が閉じる。


 未証明の観測者も、写真を持って立ち上がった。


「どこへ?」


 灯が尋ねる。


『写真の人物を探す』


「一人で?」


『右機能と左機能が』


 二人を見る。


『切断処理時の記録照合へ協力すると、自ら提案した』


 右機能が言う。


『右機能には、過去の処理記録を確認する責任がある』


 左機能が続ける。


『左機能にも同じ責任がある』


『また、未証明の観測者が単独で行動した場合、学内施設の接続異常により帰還不能となる可能性がある』


「心配してるの?」


 灯が尋ねた。


『安全確保の必要性を判断した』


「それを心配って言うんだよ」


『断定には追加検証が必要』


「じゃあ、検証しながら行ってらっしゃい」


 未証明の観測者は黒板を見る。


 昨日から残る、


 ――おかえり。


 その文字。


『私は』


 扉へ手をかける。


『戻ってきた時、ただいまと言う』


「うん」


 灯は笑って答えた。


「いってらっしゃい」


『いって』


 未証明の観測者が、言葉を確かめる。


『きます』


 右機能と左機能も、少し遅れて告げた。


『行ってくる』


『左機能も、行ってくる』


 三人が共用室から出ていく。


 命令ではない。


 追放でもない。


 自分で戻る場所を選んだ者たちの外出。


「お兄ちゃん」


 灯が隣へ来る。


「私たちも帰る?」


「寮に?」


「うん」


「部屋が元の場所にあるか?」


「さっき確認した」


「中は?」


「ほとんど同じ」


「ほとんど?」


「お兄ちゃんの部屋に、知らない椅子が一脚増えてた」


「怖いな」


「椅子くらいで?」


「誰が座ってた椅子か分からない」


 灯の表情から、僅かに笑みが消えた。


 名前も、顔も、記録も失われた誰かが、以前俺の部屋へ来ていたのかもしれない。


 ただ、施設の再接続によって別の部屋から移動してきただけかもしれない。


「捨てる?」


 灯が尋ねる。


「残しておく」


「どうして」


「誰かが取りに来るかもしれない」


「来なかったら?」


「その時に考える」


 俺は左手で鞄を持つ。


 右腕は動かせない。


 灯が当然のように鞄を奪った。


「持つよ」


「左手で持てる」


「私が持ちたいから持つの」


「命令?」


「提案」


「断ったら?」


「怒る」


「事実上の強制だろ」


「命令じゃなくても、結果はあるんでしょう?」


「聞いてたのか」


「お兄ちゃんが言ったんだよ」


 灯は鞄を肩へかけた。


 俺たちは《第零学部》の扉へ向かう。


 玄理はまだ黒板の前にいる。


「帰らないのか」


「次の講義準備がある」


「明日もやるの?」


「大学が教育活動を再開した以上はな」


「世界が査読未成立でも?」


「査読未成立だからだ」


 玄理は黒板に残っていた課題を消さなかった。


 その下へ、新しい一文を書く。


 ――次回。


 ――正しさを保証しない世界で、何を学ぶか。


「宿題?」


 灯が聞く。


「考えておけ」


「提出は?」


「口頭でいい」


「珍しい」


「現在、紙が不足している」


「現実的な理由だった」


 俺は黒板を見る。


 昨日までと同じ大学ではない。


 同じ世界でもない。


 正しいと認める上位の保証もない。


 過去の全てを取り戻せる約束もない。


 それでも、問いがある。


 答えようとする者がいる。


 間違えれば、答え直せる。


 なら、講義は続けられる。


「また明日」


 俺が言う。


「遅刻するな」


 玄理が答えた。


「世界の時刻がずれたら?」


「自分で合わせろ」


「無茶を言う」


「昨日、《第二観測圏》側の正式観測から外されても世界を維持した学生の発言とは思えないな」


「時計合わせより簡単だった」


「始末書へ書いておけ」


「余計に怒られそうだ」


 灯が扉を開ける。


 外には、修復途中の大学があった。


 欠けた空。


 位置のずれた講義棟。


 名前を確認し合う学生たち。


 失った者を探す教員たち。


 休学届を受け取る事務職員。


 新しい研究計画を話し始めた者。


 大学を離れるため、荷物をまとめる者もいる。


 誰も同じ答えを選んでいない。


 それでも、午後の鐘が鳴る。


 今日の講義が終わり、次の問いが始まる。


     ◇


 その頃。


 帝都神律大学から、認識の段階を遥かに隔てた先で。


 一件の査読報告が閉じられようとしていた。


 《第二観測圏》側の審理機構群が作成した処理記録。


 ――査読対象。


 ――帝都神律大学を含む《世界研究領域》。


 ――第三次正式査読。


 ――採択、成立せず。


 ――棄却、成立せず。


 ――改稿要求、成立せず。


 ――《観測圏外追放》、失敗。


 ――分離処理、継続不能。


 ――正式査読結果、保留。


 ――外部暫定状態コード、《未査読領域》。


 報告書の末尾には、一行だけ追記されていた。


 ――当該領域は、外部の有効観測結果を成立根拠とせず、内部相互参照によって教育研究活動を再開。


 それを最後に、記録は閉じられるはずだった。


 だが、頁の外側から何かが報告書を開いた。


 《第二観測圏》側のどの審理機構でもない。


 今回、帝都神律大学へ命令を送った存在でもない。


 《第二観測圏》そのものを、一件の下位資料として読む別の観測段階。


 そこにある何者とも定義できないものが、《未査読領域》という文字へ僅かに触れた。


 判断は下されない。


 命令も送られない。


 ただ、読まれた。


 それだけだった。


 それでも、《第二観測圏》の記録よりさらに先で、一枚の頁をめくる音が初めて響いた。


 そのさらに奥にも、同じような何かが続いているのか。


 今は誰にも分からない。


 帝都神律大学では、誰一人その音を知らなかった。


 俺たちはまだ、目の前の後始末で精一杯だった。


 そして、それでよかった。


 全てを知ってからでなければ、次へ進めないわけではない。


 世界の外側がどこまで続いているのか。


 今は証明できなくていい。


 今日、講義が行われた。


 学生が問いを持った。


 名前のない者が、戻る場所を選んだ。


 失った者を探す者が、歩き始めた。


 外部の資料に正しい世界として記載されなくても。


 世界の欄外で鐘は鳴る。


 帝都神律大学は、この日、再び開講した。

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