第四十話 君の返事から朝が始まる
目を覚ました時、最初に見えたのは見覚えのある天井だった。
《第零学部》共用室。
長年放置された染み。
剝がれかけた塗装。
いつ落ちてきても不思議ではない照明器具。
何も変わっていない。
そう思った直後、天井の隅にある亀裂が、昨日までとは逆の方向へ伸びていることに気づいた。
「……違うな」
呟くと、すぐ近くで椅子が軋んだ。
「何が?」
机へ突っ伏していた灯が顔を上げる。
髪には寝癖がつき、頬には制服の袖の跡が残っていた。
「起きてたのか」
「今、起きた」
「寮へ戻らなかったのか」
「お兄ちゃんを一人にしたら、勝手に動きそうだったから」
「右腕が使えないんだぞ」
「左腕と両足は動くでしょう」
「よく分かってるな」
「お兄ちゃんの妹だからね」
灯はそう言ったあと、一瞬だけ不安そうに俺を見る。
昨日までなら、その言葉に確認は必要なかった。
だが、今は違う。
「黒瀬灯」
俺から名前を呼ぶ。
「俺の妹だ」
「……うん」
灯は安心したように頷いた。
「おはよう、お兄ちゃん」
「おはよう」
窓の外は朝だった。
少なくとも、空の色だけを見れば。
東の端が薄い橙色に染まり、夜の青がゆっくりと押し流されている。
しかし、太陽が昇るはずの方角には、巨大な白い空白が残っていた。
光はそこから漏れている。
太陽そのものは見えない。
世界は朝になろうとしている。
それなのに、朝の光と、それを生む天体との対応だけがまだ戻っていなかった。
「今、何時だ」
壁の時計を見る。
午前六時十二分。
机の上に置かれた端末は、午前七時四十八分。
窓から見える時計塔は、一つの面が午前四時、別の面が十一時三分を指している。
「分からない」
灯が答えた。
「学内標準時刻は?」
「まだ決まってないみたい」
「朝ではある?」
「たぶん」
「曖昧だな」
「この大学にしては、かなり正確だよ」
共用室の奥から、低く不吉な音が響いた。
ごぼごぼ。
続いて、金属が激しく震える音。
「何だ」
「湯沸かし器」
「爆発するのか」
「玄理先生は、仕様だって言ってた」
「仕様であの音は駄目だろ」
古い電気湯沸かし器の前には、右機能と左機能が立っていた。
二人とも湯沸かし器を、重大な審理対象のように見つめている。
『内部圧力の上昇を確認』
右機能が言う。
『機構の一部に継続的な振動』
左機能が続ける。
『破裂の可能性』
「お前たちも、そう思うよな」
『しかし』
右機能が湯沸かし器の側面を指す。
『御厨玄理による注記を確認』
そこには、小さな紙が貼られていた。
――正常動作中。
――異音は仕様。
――触るな。
『記録と現在観測が一致しない』
「記録の方が間違ってる」
『記録を優先するべきか』
『現在観測を優先するべきか』
「電源を抜け」
二人が同時に俺を見る。
『それは命令か』
「助言だ」
『拒否した場合』
「爆発するかもしれない」
『結果を示すことによる、事実上の強制ではないか』
「命令じゃなくても、選んだ結果はある」
二人は互いを見た。
右機能が電源コードへ手を伸ばす。
左機能が、その手を止める。
『接触による感電可能性』
『電源を遮断しない場合、破裂可能性』
『判断資料が不足』
「そこまで迷うなら、俺が――」
「お兄ちゃんは寝てて」
灯が湯沸かし器へ近づき、ためらうことなく電源コードを抜いた。
異音が止まる。
共用室へ静けさが戻った。
『処理完了』
右機能が言う。
『黒瀬灯の判断速度を記録』
「二人も、少しずつ慣れようね」
『慣れる』
『反復経験による判断効率の変化』
「そう」
『右機能は』
右機能が左機能を見る。
『次に同様の事象が発生した場合、自ら電源を遮断できる可能性がある』
『左機能も、同様の行動を選択する可能性がある』
「うん。たぶんできるよ」
『たぶん』
二人は、不確かなその言葉を少しだけ大切そうに繰り返した。
◇
共用室には、昨夜ここへ来た者のうち半分ほどが残っていた。
三年前の俺は窓際の椅子に座り、古い学生便覧を読んでいる。
採択領域から離脱した俺は、黒板の前で大学の構造図を眺めていた。
朔夜は壁際の長椅子へ横になっている。
眠っているのかと思ったが、目だけは開いていた。
「寝てないのか」
「右腕が痛む」
「俺もだ」
「張り合ってないで、二人とも休んで」
灯に言われ、朔夜は静かに目を閉じた。
第四候補の姿はない。
夜明け前に、
「少し、大学を見てくる」
とだけ言い残し、一人で外へ出たらしい。
澄玲と緋月は、学内緊急対策会議へ呼ばれている。
玄理も一度は同行していたが、俺たちが目を覚ます前に戻ってきたようだ。
部屋の隅で、焼け焦げた出席簿を修復している。
《第一査読官》は、その手元を無言で観測していた。
「起きたか」
「ああ」
「体調は」
「右腕以外は問題ない」
『虚偽を検出』
《第一査読官》の白い身体へ、即座に文字が浮かぶ。
『微熱』
『睡眠不足』
『内臓損傷の残留』
『複数箇所における痛覚抑制』
『精神的疲労の可能性』
「最後のは、どうやって測った」
『黒瀬零の発話速度、表情、呼吸、視線移動から推定』
「随分、人間らしいことをするようになったな」
『推定は観測処理であり、感情ではない』
「そういうことにしておく」
玄理が出席簿から顔を上げた。
「今日は外へ出るな」
「大学の状況を見たい」
「だから駄目だと言っている」
「学生が困ってるかもしれない」
「学生を困らせたくないなら、まずお前が再入院しないようにしろ。救護棟の寝台が足りない」
「なら、なおさら――」
「ここで寝ていろ」
正論だった。
正論だからこそ、素直に従うのが少し悔しい。
「何か、できることは」
「ある」
玄理は机の上へ一枚の紙を置いた。
大学の正式な通知書だった。
だが、大学章の半分は欠け、文書番号の欄には「照合不能」と記されている。
表題だけは、はっきり読めた。
――帝都神律大学・構成員再確認及び未照合者保護実施要項。
「構成員の再確認?」
「学内基準時刻の午前九時に、全学部で一斉確認を行う」
「午前九時がいつか分からないだろ」
「だから、大学全体で現在を午前八時三十分として、基準時計を同期させる」
「そんな決め方でいいのか」
「外部の標準時刻と対応を確認できない。なら、内部で現在時刻を共有するしかない」
玄理は通知書を指で叩いた。
「時計だけではない。名前、所属、本人の自己認識、周囲による現在の確認。それらを一つずつ照合する」
「過去記録の復旧?」
「違う」
玄理は首を振った。
「過去の状態へ強制的に戻す作業ではない」
通知書の文面を指でなぞる。
「現在の学生が、現在どの名前を使っているのか。どこへの所属を希望しているのか。誰と、どのような関係にあると認識しているのか。それを新たに記録する」
「過去の名簿は使わないのか」
「参考にはする。ただし、過去記録と一致しないことだけを理由に、本人の現在の回答を誤りとは扱わない」
灯が紙を覗き込む。
「本人が名前を思い出せない場合は?」
「名称未定、または希望する暫定呼称で登録する」
「所属が分からない人は?」
「全学共同保護対象」
「誰にも覚えられていない人は?」
玄理の指が止まる。
「本人がここにいると答えれば、在所を記録する」
「本人が、自分のことも分からなかったら?」
「その場合は」
玄理は修復中の出席簿を見る。
「返事だけでいい」
昨夜、《第零学部》で行った確認と同じだった。
名前がなくても。
所属がなくても。
自分が何者か決められなくても。
呼びかけに返事をする。
あるいは、返事ができない者のそばに誰かがいる。
まずは、そこから始める。
「《第零学部》は何をする」
「通常なら、各学部の未照合者を支援する」
「通常なら?」
「今回は、お前たちの記録整理が最優先だ」
玄理が部屋を見回す。
三年前の俺。
採択領域離脱個体。
第四候補。
未証明の観測者。
右機能。
左機能。
そして、複数の自分との対応がまだ整理されていない俺。
「大学記録上、識別または身分確認を必要とする項目が七件ある」
「俺と灯と九条は確定してるだろ」
「灯君と九条君については、既存の在籍を確認できる。お前は、複数の黒瀬零との起源対応が未整理だ」
「まだ続いてるのか」
「三年前の個体、採択領域離脱個体、第四候補が独立して存在する限りな」
「全員、別だと答えた」
「本人たちの回答は尊重する。だが、大学の記録上、別々の当事者として扱うには暫定的な呼称が必要になる」
窓際で、三年前の俺が学生便覧から顔を上げた。
「俺は今のままで構わない」
「『三年前の黒瀬零』を正式名称にするつもりか」
「不便か」
「出席を取るたびに長い」
「教授側の都合だろ」
「事務手続きは重要だ」
「俺たちの存在資格より?」
「比較する種類の問題ではない。だが、どちらも面倒ではある」
玄理は真顔で答えた。
採択領域から離脱した俺が、黒板へ視線を向けたまま言う。
「俺は、黒瀬零を名乗るつもりはない」
「では、何と名乗る」
「まだ決めていない」
「第四候補も同じだろうな」
「おそらく」
「右と左は?」
右機能が答える。
『現在の呼称、右機能』
左機能も続ける。
『現在の呼称、左機能』
「それは機能名だ」
『我々は、機能によって成立していた』
「もう《分離査読官》として、命令を執行する立場にはない」
『今後の役割は未定』
「なら」
玄理はペンを置いた。
「名前を今決めろとは言わない。呼ばれたいものができたら、今日の確認でも、その後でも、自分で答えろ」
『呼ばれたいもの』
未証明の観測者が静かに繰り返した。
「名前だ」
『名前は、他者が個体を識別するための記号』
「それだけじゃないよ」
灯が言った。
「自分が呼ばれた時に、返事をするための言葉でもある」
『返事をするため』
「名前を呼ばれると、誰かが自分を見つけようとしてるって分かるでしょう」
『私には現在、名前がない』
「うん」
『ならば、誰かが私を見つけようとしても、呼ぶことができないのか』
「今は『あなた』とか、『未証明の人』とか、呼び方はあるよ」
『それは固有の名前ではない』
「名前じゃなくても、呼びかけにはなる」
『しかし』
言葉が止まる。
『私は、呼ばれた時に、それが私への呼びかけであると確かめたい』
「だったら」
灯が微笑む。
「名前を考えてみたら?」
『私が決めるのか』
「自分で決めてもいい。誰かから候補を聞いてもいい。まだ決めなくてもいい」
『正答は』
「ないよ」
『誤答も』
「自分が違うと思ったら、あとで変えていい」
『名前は変更可能なのか』
「大学の登録には、所定の手続きが必要だ」
玄理が補足する。
「先生、今は黙ってて」
「重要な情報だ」
「雰囲気が壊れる」
『雰囲気』
「それも今度教える」
未証明の観測者は、窓の外にある白く欠けた朝を見る。
『私は』
その声には僅かな迷いがあった。
『まだ、名前を決めない』
「うん」
灯はすぐに頷いた。
「それも、自分で決めた答えだよ」
『肯定』
淡い光が、少しだけ明るくなった。
◇
学内基準時刻、午前八時五十七分。
大学に残る時計が、同じ時刻へ向けて動き始めた。
止まっていた時計塔の針。
学生の端末。
講義室の壁時計。
研究棟の実験装置。
食堂の厨房にある古い時計。
誰かが外側から正しい時間を与えたわけではない。
大学にいる者たちが、現在を同じ時刻として扱うと決めた。
それだけで、ばらばらだった針がゆっくりと重なっていく。
午前八時五十八分。
学内放送が始まった。
『帝都神律大学、全構成員及び学内滞在者へ告げます』
緋月の声だった。
普段より少し低い。
疲労を隠しきれていない。
『現在、本学における人物記録、施設記録、時間記録の一部は、過去の情報との対応を失っています』
『これより実施する再確認は、失われた過去を強制的に復元するためのものではありません』
『記録にないことを理由に、現在ここにいる者を否定しません』
『過去の名簿と一致しないことだけを理由に、本人の現在の回答を誤りとは扱いません』
共用室の窓から、学生たちが中庭へ集まっていくのが見えた。
学部ごとに。
研究室ごとに。
寮ごとに。
あるいは、現在の所属を確認できない者同士で。
『自身の名前が分かる者は、現在使用する名前を答えてください』
『名前を決められない者は、決められないと答えてください』
『自身が誰か分からない者は、返事だけでも構いません』
『返事ができない者のそばにいる場合は、その者が現在ここにいることを伝えてください』
『なお、本確認は希望する呼称及び現在の在所を記録するものです』
『戸籍、学籍、職位その他の正式な身分変更を、自動的に確定するものではありません』
午前八時五十九分。
大学中から紙をめくる音が聞こえる。
端末が起動する音。
息を整える音。
泣きそうな声。
誰かの手を握る音までは聞こえない。
それでも今、多くの者が互いを見ていることは分かった。
「お兄ちゃん」
灯が俺の隣へ立つ。
「緊張する」
「毎日呼ばれてる名前だろ」
「今日は違うよ」
「何が」
「記録に合わせて答えるんじゃなくて」
灯は胸へ手を当てる。
「自分で、この名前に返事をする日だから」
午前九時。
時計塔の鐘が鳴った。
一度。
音が震える。
二度目は、少し遅れて別の時計塔が鳴る。
三度目から、大学中の鐘が同じ間隔へ揃っていった。
学内放送が静かに告げる。
『構成員再確認及び、未照合者の在所確認を開始します』
玄理が新しい出席簿を開いた。
昨日まで使っていたものとは違う。
白紙の頁だけで作られた、過去の名簿をそのまま写したものではない出席簿。
現在、ここにいる者たちから新しく始めるための記録。
「黒瀬零」
「いる」
答えた瞬間、白い頁へ文字が刻まれる。
――黒瀬零。
――本人による呼称確認。
――現在所属。
――帝都神律大学《第零学部》。
――過去記録との完全一致。
――未確認。
――現在個体としての在籍。
――継続確認。
「黒瀬灯」
「はい」
――黒瀬灯。
――本人による呼称確認。
――現在所属。
――帝都神律大学《第零学部》。
――黒瀬零との現在関係。
――兄妹。
――双方確認。
灯は記録を見て、小さく笑った。
「九条澄玲」
共用室から返事はない。
澄玲は緊急対策会議にいる。
代わりに、学内通信を通して声が届いた。
『います』
新しい頁へ、澄玲の名前が刻まれる。
――九条澄玲。
――本人による呼称確認。
――既存在籍記録。
――再照合継続中。
「天城朔夜」
「ああ」
長椅子から短い返事が返る。
――天城朔夜。
――本人による呼称確認。
――既存在籍記録。
――再照合継続中。
「御厨玄理」
「いる」
「自分で自分を呼ぶのか」
「点呼者も大学構成員だ」
「少し面白い」
「黙れ」
――御厨玄理。
――本人による呼称確認。
――職位及び管理権限。
――再照合継続中。
「神代緋月」
『いる』
学内放送とは別の通信回線から、緋月の声が届いた。
――神代緋月。
――本人による呼称確認。
――法則災害学部特別教授。
――《未定義現象研究室》管理責任者。
――緊急管理権限、暫定継続。
玄理が頁をめくる。
「ここからは在籍確認ではない。現在の在所、希望呼称、及び学内で希望する扱いを確認する」
三年前の俺が学生便覧を閉じた。
「三年前の黒瀬零に由来する独立記録個体」
「いる」
「現在使用を希望する名前は」
「未定」
「暫定呼称を『三年前の黒瀬零』とすることへ、異議は」
「ない」
白紙へ新しい欄が刻まれる。
――名称未定。
――暫定呼称。
――三年前の黒瀬零。
――現在の黒瀬零との関係。
――同一ではない。
――無関係でもない。
――過去の在籍記録。
――参照可能。
――独立個体としての現在学籍。
――審査待ち。
――当面の学内滞在。
――希望。
「学生として残るつもりか」
俺が尋ねる。
「過去へ戻れない者が、今から何を学べるのか確かめたい」
「三年前の俺なのに、俺より真面目だな」
「お前が不真面目になっただけだ」
「否定できない」
玄理が次の項目を見る。
「採択領域離脱個体」
「いる」
「希望する名前は」
「未定」
「学内で希望する扱いは」
採択領域から離脱した俺は、少し考えた。
「《第零学部》への暫定滞在」
「理由は」
「採択されなかった答えを、捨てずに置いておける場所が他にない」
「記録する」
――名称未定。
――暫定呼称。
――採択領域離脱個体。
――正式な在籍。
――未確定。
――《第零学部》への暫定滞在。
――本人希望。
「簡単に認めるのね」
灯が言う。
「滞在の記録と正式入学は別だ」
「そこは、きっちりしてるんだ」
「大学だからな」
「第四候補」
玄理が呼ぶ。
返事はない。
共用室にも、通信にも、声は届かなかった。
「まだ戻ってないのか」
「在所を確認する」
玄理が出席簿へ手を置く。
だが、頁には何も浮かばない。
採択領域との接続。
旧観測接続棟。
講義棟。
中庭。
正門。
どこにも現在位置を確定できなかった。
「探しに行く」
俺は立ち上がろうとした。
「座れ」
「いないんだぞ」
「不在と不存在は同じではない」
「でも――」
玄理は白紙の頁を閉じなかった。
第四候補の欄を空白のまま残す。
「この点呼は、返事がなければ存在を否定する手続きではない」
「じゃあ、どうする」
「戻ってくるまで、呼びかけられる欄を残しておく」
玄理は次へ進んだ。
「未登録観測個体」
淡い光が共用室の中央へ進み出る。
『ここにいる』
「希望する名前は」
『未定』
「学内で希望する扱いは」
未証明の観測者は、すぐには答えなかった。
黒板。
机。
窓。
灯。
俺。
右機能。
左機能。
この部屋にいる者たちを、一人ずつ見る。
『私は』
静かに言った。
『ここへ戻ってきたことがない』
「そうだな」
『まだ、ただいまと言うことはできない』
「ああ」
『しかし』
淡い光が、黒板に残る「おかえり」という文字を見る。
『次に戻る場所として、ここを知りたい』
玄理は頷いた。
「《第零学部》への暫定滞在を希望する。それでいいか」
『肯定』
――名称未定。
――暫定呼称。
――未登録観測個体。
――存在分類。
――未証明。
――《第零学部》への暫定滞在。
――本人希望。
――正式な在籍及び入学意思。
――未確認。
――滞在理由。
――戻る場所を知るため。
「右機能」
『ここにいる』
「希望する名前は」
『未定』
「学内で希望する扱いは」
右機能は左機能を見る。
左機能も右機能を見る。
『右機能のみでは、即時判断不能』
「二人で一つの答えを出すのか」
『我々は別個体である』
『ただし、現在の判断資料の多くを共有している』
「なら、別々に考えろ。同じ答えになっても問題はない」
右機能は僅かに時間を置いた。
『右機能は、《第零学部》での仮受講を希望』
「左機能」
『左機能も同様に、仮受講を希望』
「理由は」
『命令ではない行動を』
右機能が言う。
『自ら選択する方法を』
左機能が続ける。
『学ぶため』
白紙の頁へ、二つの新しい欄が刻まれた。
――名称未定。
――暫定呼称、右機能。
――名称未定。
――暫定呼称、左機能。
――正式在籍。
――未確定。
――《第零学部》における仮受講。
――本人希望。
どちらも、命じられたのではない。
自分の意思で、この場所に留まることを選んだ。
◇
《第零学部》の確認が終わっても、大学全体の再確認は続いていた。
学内通信を通して、数え切れない名前が聞こえる。
『法則基礎学部一年――』
『命題兵装学科三年――』
『所属不明』
『名前は覚えている』
『名称未定』
『所属未定』
『ここにいる』
『本人は返事ができません』
『ですが、私の隣にいます』
『学生証の名前とは一致しません』
『現在は、この名前で呼ばれることを希望します』
『過去の関係は分かりません』
『現在は、友人として記録してください』
一つの名前が呼ばれるたび、誰かが返事をする。
返事が聞こえない時は、隣にいる者がその存在を伝える。
それは、正しい過去を復元する作業ではなかった。
世界が失ったものを、なかったことにするためでもない。
欠けたままの者たちが、今、誰として生きるのか。
誰の隣にいるのか。
互いに確かめ直す作業だった。
窓の外で、白い空白が少しずつ薄くなっていく。
その向こうに、太陽らしい輪郭が現れ始めた。
『外部恒星情報との対応を確認できない』
《第一査読官》が告げる。
『現在観測されている光源が、昨日以前の太陽と同一である証明はない』
「それでも、朝だよ」
灯が言った。
『根拠を要求』
「みんなが起きて、名前を呼んで、今日を始めようとしてるから」
『主観的定義』
「うん」
灯は笑う。
「今は、それでいいの」
大学のどこかで、名前を呼ぶ声が続いている。
そして、誰かが返事をしている。
その声が重なるたび、白く欠けていた空へ少しずつ色が戻っていく。
「お兄ちゃん」
「なんだ」
「呼んで」
「さっき呼んだだろ」
「もう一回」
「黒瀬灯」
「はい」
灯は満足そうに頷いた。
「お兄ちゃんも」
「何が」
「私の名前を呼んだんだから、私も呼ぶ」
灯は真っ直ぐに俺を見る。
「黒瀬零」
「ああ」
「返事は?」
「いる」
ただ、それだけだった。
名前を呼ぶ。
返事をする。
誰かが自分を見つけようとしている。
自分も、その声へ応える。
それだけのことで、人は完全に証明されるわけではない。
失った記憶が戻るわけでもない。
昨日までと同じ世界になるわけでもない。
それでも、呼ぶ声のない場所より。
返事のできない世界より。
少しだけ、ここにいていいと思える。
「第四候補」
玄理がもう一度、空白の欄へ向かって呼んだ。
返事はない。
それでも頁を閉じない。
「第四候補」
今度は俺も呼んだ。
灯も続ける。
「第四候補」
三年前の俺。
採択領域から離脱した俺。
未証明の観測者。
右機能。
左機能。
朔夜。
《第一査読官》。
一人ずつ、まだ戻らない者の呼び名を口にする。
返事がないからといって、存在しないことにはしない。
聞こえていないのかもしれない。
答えたくないのかもしれない。
別の名前を選ぼうとしているのかもしれない。
だから、呼び続ける。
やがて、学内通信の向こうから微かな雑音が聞こえた。
風の音。
足音。
そして。
『……聞こえている』
第四候補の声だった。
灯の顔が明るくなる。
「どこにいるの?」
『大学の正門前だ』
「何してるんだ」
『確かめていた』
「何を」
短い沈黙。
『この大学から外へ出ても、戻りたいと思うかどうかを』
「答えは?」
第四候補はすぐには言わなかった。
正門の向こうには、まだ形の定まらない街がある。
大学の外側。
誰にも役割を与えられない場所。
第四候補ではない、別の何かになれる可能性。
それらを見た上で、声が届く。
『今は、戻る』
玄理が白紙の頁へ、初めて印を刻んだ。
――第四候補。
――本人による応答。
――現在位置。
――帝都神律大学正門前。
――帰還意思。
――確認。
――正式な所属。
――未確定。
「出席扱い?」
俺が尋ねる。
「在所確認は成立した」
「出席は?」
「遅刻だ」
玄理が答えた。
『異議を申し立てる』
「戻ってから聞く」
『世界の存在を巡る戦闘直後だぞ』
「遅刻理由としては考慮する」
「先生、厳しすぎない?」
灯が笑う。
「規則は必要だ」
「上の審理機構みたいにならないでよ」
「私は異議申立てを受理する」
「そこは違うんだ」
共用室へ笑い声が戻った。
窓の外で、欠けた太陽がようやく空へ昇る。
昨日までと同じ太陽なのか、証明はない。
この朝が正しい時刻に始まったのかも分からない。
それでも、大学中で誰かが誰かの名前を呼んでいる。
返事が重なる。
名前のない者にも、呼びかける声がある。
戻らない者にも、空白の欄が残されている。
そして俺たちは、互いを見失わないために、何度でも名前を呼ぶ。
その声が重なった場所から、欠けた世界に新しい朝が始まった。




