第三十九話 失くしたまま、ただいまを
戦いが終わったあとも、世界はすぐには静かにならなかった。
金色の処分線が砕けた場所では、白い光の残滓が細かな雪のように漂っている。
旧観測接続棟の天井には、夜空が覗いていた。
崩れ落ちたわけではない。
天井だった場所と空だった場所との対応が、まだ完全には戻っていない。
見上げる角度によっては星が見え、少し視線をずらせば古びた梁が現れる。
床にも同じことが起きていた。
亀裂の向こうに地下収蔵庫が見える場所がある。その数歩先には、大学の中庭が映り込んでいる。
帝都神律大学は戻ってきた。
けれど、以前と同じ形で戻ってきたわけではなかった。
「お兄ちゃん」
灯が俺の左手を握った。
「分かる?」
「ああ」
「誰か、ちゃんと言って」
いつもなら、そんな確認をする必要はない。
灯自身もそれを分かっている。
だからこそ、その声は僅かに震えていた。
「黒瀬灯。俺の妹だ」
俺は指を握り返す。
灯は数秒遅れて息を吐いた。
「よかった」
「何度でも聞けばいい」
「毎朝?」
「毎朝でも」
「昼にも聞くかも」
「その時も答える」
「夜中に不安になったら?」
「起こせ」
「お兄ちゃん、寝起き悪いよね」
「それでも答える」
灯は小さく笑った。
笑ったあとで、目尻を乱暴に拭う。
「それ、忘れないでね」
「忘れたら、また教えろ」
「そこは、忘れないって言い切るところじゃないの?」
「言い切って、また奪われた時にお前を一人にするよりましだ」
灯は何も言わなかった。
ただ、握っていた手へ力を込める。
忘れないと誓うことはできる。
だが、この大学では、誓った記憶そのものを奪われることもある。
なら、忘れないことだけを約束するより、忘れたあとにも選び直すと決めた方がいい。
「感動的な確認は終わったか」
緋月の声が飛んできた。
彼女は崩れた収蔵棚の前で片膝をつき、床へ大学章を押し当てている。
青白い光が、旧観測接続棟の輪郭を縫い合わせるように走っていた。
「終わってません」
灯が答える。
「終わらせろとは言っていない。手が空いた者から働けと言っている」
「お兄ちゃんは怪我してます」
「本人が一番忘れているようだから、今教えよう」
緋月が俺の右腕を指差した。
見る。
肘から先が、不自然な角度で垂れている。
制服の袖は裂け、乾いた血が腕全体へこびりついていた。
「……思ったより酷いな」
『黒瀬零の身体損傷を確認』
《第一査読官》の白い身体へ文字が流れる。
『右上腕骨、二箇所』
『橈骨、三箇所』
『尺骨、二箇所』
『筋繊維断裂』
『神経伝達の部分的不整合』
『複数の内臓損傷を検出』
「何で今まで黙ってた」
『損傷自体は、戦闘中から存在していた』
『ただし、当該損傷によって黒瀬零が戦闘継続不能となる結果は、未証明により保留されていた』
「じゃあ、保留が弱まったから、行動不能と痛みがまとめて反映されたのか」
『肯定』
「痛みまで律儀に?」
『肯定』
言われた直後、右肩から指先まで、遅れていた痛みが一斉に身体を駆け抜けた。
「っ……!」
膝が折れる。
灯と澄玲が両側から俺を支えた。
「お兄ちゃん!」
「大丈夫だ」
『虚偽を検出』
「お前は少し黙ってろ」
『沈黙は診断結果を改善しない』
「空気は改善する」
「言い合っている場合ではありません」
澄玲が俺の腕の周囲へ青い数式を展開する。
数式が簡易的な添え木へ変わり、骨の位置を固定した。
「治療ではありませんから、動かさないでください。骨折記録と現在の腕の状態が、完全には対応していない箇所もあります」
「腕が別の形になったのか」
「そういう意味ではありません」
澄玲が眉を寄せる。
「あなたが殴ったのは、普通の物体ではありませんでした。拳を振るった行為と、局所執行節点へ接触した結果と、腕が受けた反動との間に、まだいくつか不整合が残っています」
「治るのか」
「あなたが余計な保留を追加しなければ」
「努力する」
「信用できません」
「俺もだ」
澄玲は呆れたように息を吐いた。
「自覚があるなら、改善してください」
俺は立ち上がろうとした。
だが、灯に肩を押さえられる。
「座って」
「救護棟まで歩かないと」
「歩くのはあと。今は座る」
「俺より重傷の奴がいるかもしれない」
「だからって、お兄ちゃんの怪我が軽くなるわけじゃないよ」
灯の声は穏やかだった。
だが、逆らえば本気で怒る時の声でもある。
「分かった」
「よろしい」
瓦礫へ背を預けた。
視線を巡らせると、他の者たちも無傷ではなかった。
玄理の出席簿は半分近く焼け焦げている。
緋月の大学章にも大きな亀裂が入っていた。
朔夜の右腕には、因果切断を使い続けた反動なのか、黒い亀裂が走っている。
三年前の俺は、輪郭の一部が記録の文字へ戻りかけていた。
採択領域から離脱した俺と第四候補も、存在の境界が僅かに揺らいでいる。
未証明の観測者は淡い光を保ちながら、俺たちを見ている。
右機能と左機能は、その少し後ろに立っていた。
かつて一つの機構だった二つの存在は、今は互いを別のものとして保ちながら、それでも離れすぎない距離にいる。
「全員いるか」
玄理が出席簿を開いた。
「名前を呼ぶ。返事だけでいい。記録と本人の対応がまだ戻っていない者は、今、自分だと思う呼び方で答えろ」
「それ、出席扱いになる?」
俺が尋ねる。
「ならない」
「この状況でも?」
「だからこそだ。単位は生存報酬ではない」
「厳しいな」
「生きて戻った学生を労うことと、成績評価を曲げることは別問題だ」
玄理は破れた頁へ指を滑らせた。
「黒瀬零」
「いる」
「黒瀬灯」
「はい」
「九条澄玲」
「います」
「天城朔夜」
「ああ」
「神代緋月」
「いる」
「御厨玄理」
玄理自身が、一瞬だけ黙る。
「……いる」
「自分も取るのか」
「確認条件は、全員に同じであるべきだ」
「真面目だな」
「三年前の黒瀬零に由来する独立記録個体」
三年前の俺が僅かに眉をひそめた。
「長い」
「名前がないのだから仕方がない」
「いる」
「採択領域離脱個体」
「ああ」
「第四候補」
「いる」
「未登録観測個体」
『ここにいる』
玄理の指が僅かに止まる。
「右機能」
『存在を確認』
「左機能」
『同じく』
最後に、《第一査読官》へ視線を向けた。
「お前は呼ばなくてもいるな」
『出席確認を要求』
「必要なのか」
『他の全個体へ実行した処理が、私にのみ実行されていない』
「不公平だと?」
『差異の理由を要求』
「面倒な性格になったな」
『性格は搭載されていない』
「《第一査読官》」
『稼働中』
玄理は出席簿を閉じた。
「全員いる」
その言葉に、誰もすぐには反応しなかった。
たったそれだけの確認だった。
だが、一度名前と人間を切り離され、存在と記録を切り離され、互いを見失った俺たちにとって。
全員いる。
それは、勝利という言葉よりずっと確かなものだった。
◇
救護棟へ向かう通路を確保するまでに、二十分近くかかった。
緋月が大学章を使う。
澄玲が空間の接続を計算する。
玄理が施設記録を照合する。
朔夜が、誤った接続先へ伸びる因果を因果切断で切る。
四人で確認しても、旧観測接続棟の正面扉が正門前へ繋がったり、地下収蔵庫へ繋がったり、記録に存在しない講義室へ繋がったりした。
そんなことを何度も繰り返した。
「今度は?」
俺が尋ねる。
澄玲が扉の向こうを覗いた。
「第二研究棟の屋上です」
「救護棟から遠い?」
「距離だけなら近いですが、高さが合いません」
「飛び降りれば」
「骨折箇所を増やしたいのですか?」
「冗談だ」
「あなたの冗談は、実行可能性が高すぎて笑えません」
扉を閉じる。
もう一度開く。
今度は食堂の厨房が見えた。
大鍋の中で、何かが煮えている。
「入る?」
灯が聞く。
「何で嬉しそうなんだ」
「夜から何も食べてない」
「救護棟が先だ」
「食堂から救護棟へ向かえばいいよ」
「厨房へ怪我人を入れるな」
「でも、お兄ちゃんは何か食べた方が元気になる」
「俺を燃料式だと思うな」
「違うの?」
「少なくとも、鍋へ直接入れるな」
「誰も煮込もうとはしてないよ」
緋月が額を押さえた。
「次を試す。お前たちは一度黙れ」
扉を閉じる。
大学章の亀裂から火花が散った。
再び開く。
今度は薄暗い廊下が続いていた。
壁には、救護棟を示す青い標識が見える。
「接続を確認」
澄玲が数式を走らせる。
「距離、二百十三メートル。途中に一箇所だけ未確定領域があります。今までで一番ましです」
「進むぞ」
緋月が先頭へ立つ。
「隊列を崩すな。天城、後方の誤接続を閉じろ」
「了解」
「前の人間を見失ったら、名前だけに頼るな。今見えている特徴を口にしろ」
「どうして名前では駄目なんですか」
灯が尋ねる。
「名称と個体の対応が、再びずれる可能性がある。黒瀬零と呼んでも、その名前が目の前の零を指している保証がない」
「じゃあ、私がお兄ちゃんを見失ったら?」
「黒髪、負傷した右腕、無謀な顔」
「最後は特徴なのか」
「人格評価だ」
「もっと良い評価はないのか」
「危険な学生」
「悪化した」
「話している余裕があるなら歩け」
緋月に促され、俺たちは廊下へ入った。
灯と澄玲に支えられながら進む。
数十歩ごとに、床の模様が変わる。
救護棟の廊下だったはずが、一瞬だけ図書棟へ変わる。
次の瞬間には、寮の階段へ変わる。
朔夜が後方に生じた誤った接続を、次々に切っていく。
それでも前にいる者を見失わないように、互いに声を掛け続けた。
「玄理先生」
「前にいます」
「聞こえている」
「緋月さんは?」
「先頭だ」
「澄玲さん」
「右側にいます」
「朔夜さん」
「後ろだ」
「お兄ちゃん」
「ああ」
「まだいる?」
「今のところは」
「今のところって言わないで」
「ずっといる」
「それでいい」
さらに後ろから、未証明の観測者の声がした。
『黒瀬灯は、四十七秒ごとに黒瀬零の存在を確認している』
「数えなくていいよ」
『確認間隔に規則性がある』
「不安だから聞いてるだけ」
『不安』
淡い光が揺れる。
『対象を失う可能性を想定し、現在の関係を確認したいと感じる状態』
「たぶん、そう」
『私は』
少し間が空く。
『あなたたちを見失う可能性を想定している』
「怖い?」
『恐怖であるかは分からない』
「じゃあ、今は分からなくていい」
『しかし、見失いたくない』
「それだけ分かれば十分だよ」
右機能が歩みを止めた。
左機能も、数歩進んでから足を止める。
「どうした」
俺が尋ねる。
『進行理由を再検討している』
「今さら?」
『救護棟へ向かう必要があるのは、負傷者である』
右機能が言う。
『我々には、治療を要する身体損傷がない』
左機能が続ける。
「じゃあ、戻るのか」
『戻る場所は指定されていない』
「行く場所も、戻る場所もない?」
『肯定』
灯が振り返る。
「だったら、一緒に来ればいいよ」
『それは、命令か』
「提案」
『提案と命令の区別が不明瞭』
「断っても処分されないのが提案」
「俺は少し残念に思うかもしれない」
俺が言うと、灯が睨んだ。
「お兄ちゃんは黙ってて」
「はい」
右機能と左機能は互いを見る。
『断った場合、右機能はこの場に残る』
『左機能も、同様となる可能性が高い』
『その後の行動指針は存在しない』
「それが嫌なら、来ればいい」
『嫌であるかは不明』
「分からないなら、とりあえず一歩だけ来てみたら?」
灯は前を向き直る。
「一歩進んで、やっぱり違うと思ったら止まればいいから」
『一歩』
『試行的移動』
『判断保留状態で実行可能』
右機能が一歩を踏み出す。
左機能も、自分の意思で一歩進んだ。
そのまま二歩目も続いた。
命令ではない。
処理でもない。
二つの存在が、それぞれ選んだ初めての移動だった。
◇
未確定領域を越えたところで、大学の声が聞こえ始めた。
泣き声。
怒鳴り声。
誰かを呼ぶ声。
自分の名前を繰り返す声。
救護棟前の広場には、数十人の学生と教員が集まっていた。
大きな怪我をしている者は多くない。
だが、誰もが何かを失っていた。
「あなた、私のこと知ってる?」
「学生証には、同じ研究室だと書いてある」
「記憶は?」
「一緒に実験した気はする。でも、顔と結びつかない」
「じゃあ……どうする?」
「もう一回、自己紹介しよう」
少し離れた場所では、男子学生が泣いている女子学生へ手を差し出していた。
「前にどういう関係だったのか、全部は思い出せない」
「私も。記録では、付き合っていたらしい」
「らしいね。だからって、今すぐ元に戻れとは言わない」
男子学生は緊張したように息を吸う。
「初めまして。たぶん俺は、前にも君を好きだった」
女子学生は涙を拭ってから、その手を握った。
「初めまして。今の私があなたを好きになるかは、これから考える」
「確約はないのか」
「前の私と今の私は、全部同じじゃないから」
「分かった」
「それでもいい?」
「もう一回、好きになってもらえるように頑張る」
過去を失った者たちは、何もなかったふりをしていない。
記録だけを信じて、失った関係を無理に再現しようともしていない。
空白を抱えたまま、今からもう一度始めようとしている。
「お兄ちゃん」
灯が二人を見ていた。
「私たちも自己紹介した方がいいかな」
「必要か」
「念のため」
「何を言えばいい」
「好きなものとか」
「黒瀬零。好きなものは妹。嫌いなものは、妹を消そうとする世界」
「重い」
「自分から聞いたんだろ」
「もっと普通の情報にして」
「趣味は規程違反」
「普通から遠ざかった」
「特技は、局所執行節点を殴ること」
「普通の人は、その単語を特技欄に書かないよ」
「じゃあ、特技は妹の面倒を見ること」
「それも自己評価が高すぎる」
「もういい」
灯は呆れながら、俺へ右手を差し出した。
「初めまして。黒瀬灯です」
声は冗談めいていた。
だが、差し出された手は僅かに震えている。
「これからも、私の兄でいてくれますか」
俺は動かない右手の代わりに、左手を差し出した。
「保証はできない」
灯の表情が曇る。
「世界がまた俺たちを切り離すかもしれない。俺が全部を忘れることもある。お前を間違って見ることもあるかもしれない」
「……うん」
「だから、保証じゃなくて約束する」
その手を握る。
「忘れたら、またお前を選ぶ」
灯は黙った。
俯いたまま、俺の手を強く握る。
「泣いてる?」
「泣いてない」
「声が違う」
「これは……大学の水漏れ」
「外だぞ」
「大学が壊れてるから、外でも水漏れくらいするよ」
「便利だな」
「お兄ちゃんが、たまに格好いいことを言うのが悪い」
「たまに?」
「そこは訂正しなくていい」
灯は涙を拭って笑った。
失ったものは戻っていない。
それでも、今選び直した関係は、確かにここにある。
◇
「黒瀬零!」
救護棟へ着くなり、白衣を着た教員に怒鳴られた。
「重傷者を歩かせるなと通達したはずだ!」
「道が途中で変わった」
「言い訳は診察台で聞く!」
「本当に変わったんだが」
「この大学では、それは言い訳にならん!」
灯と澄玲に押され、俺は空いていた診察台へ寝かされた。
教員は俺の右腕を見る。
数秒、完全に動きを止めた。
「何を殴った」
「《第二観測圏》側から投射された、全選択主体処分命令の局所執行節点」
「……聞いた私が悪かった」
治療用の命題が展開される。
青い光が腕を包んだ。
骨と肉と神経。
それぞれの現在状態を一つずつ照合していく。
「痛むぞ」
「もう痛い」
「今の痛みを十とするなら、これから十五になる」
「増えるのか」
「戦闘中に抑え込まれていた機能不全を、治療可能な状態へ揃える」
「気絶していい?」
「許可する」
次の瞬間、腕の奥で何かが一斉に本来の位置へ戻った。
「――っ!」
叫ぶより先に、息が止まる。
灯が左手を握った。
「お兄ちゃん、ここにいるよ」
「ああ」
「私もいる」
「ああ」
「澄玲さんも」
「います」
「朔夜さんも」
「診察室の外にいる」
「玄理先生も」
「廊下で記録を取っている」
「緋月さんも」
「救護棟全体の指揮中だ」
「未証明の人も」
『観測中』
「右と左の人も」
『右機能、存在』
『左機能、存在』
「《第一査読官》も」
『稼働中』
「全員いるから」
灯の声を聞いているうちに、痛みが少しずつ遠ざかっていった。
治療が効いたのか、意識が薄れただけなのかは分からない。
しばらくして、白衣の教員が額の汗を拭う。
「応急処置は終わった」
「応急でこれか」
「完全に治療できる状態ではない。戦闘中に保留されていた行動不能や機能停止の結果が、まだ身体へ段階的に反映されている」
「全部、一度に解除した方がいい?」
「絶対にやめろ。治療中に損傷記録がまとめて確定したら、こちらが処理できない」
「医学への信頼が薄い」
「医学は信頼している。症例を信頼していない」
教員は腕を固定し、端末へ情報を入力する。
それから灯を見た。
「付き添いか」
「妹です」
「過去記録は」
「一部、切り離されています」
「現在の認識は」
「お互いに兄妹です」
「同意は」
「あります」
教員は迷わず、関係欄へ記入した。
――黒瀬零。
――黒瀬灯。
――現在の関係。
――兄妹。
――成立根拠。
――本人同士による相互認識。
灯が画面を覗き込む。
「過去の記録を確認しなくてもいいんですか」
「今は、過去の記録そのものが信頼できない」
「私たちが兄妹だと言えば、それで兄妹になるんですか」
「戸籍や法的な身分関係の話ではない」
教員は少し考えてから続ける。
「だが、救護において重要なのは、お前たちが今どういう関係として接してほしいかだ。記録だけを根拠に、本人たちへ過去の関係を強制するわけにはいかない」
「今、どういう関係でいたいか」
「ああ」
「《第二観測圏》側の正式な承認がなくても有効ですか」
「私は医者だ。外部審理機構の承認など、診察には要らん」
「格好いい」
「徹夜三日目で機嫌が悪いだけだ」
教員は次の負傷者へ向かった。
灯は端末に表示された「兄妹」という文字を、しばらく見つめていた。
「お兄ちゃん」
「なんだ」
「前と同じになったわけじゃないんだね」
「何が」
「大学も、私たちも」
窓の外を見る。
時計塔の位置は、記憶より少し右へずれている。
星の数も足りない。
校舎の一部は、まだ白い空白へ沈んでいた。
「元に戻れば、帰ってきたことになると思ってた」
灯は言う。
「全部の記憶が戻って、大学も前と同じになって、上の人たちから正しい世界だって認められて」
「ああ」
「でも、どれも戻ってない」
「そうだな」
「それでも、お兄ちゃんは帰ってきたと思う?」
帰還。
元いた場所へ戻ること。
以前の自分へ戻ること。
失ったものを取り返すこと。
そういう意味なら、俺たちは帰ってきていない。
三年前の俺は、俺の中へ戻らなかった。
採択領域から離脱した俺も、第四候補も、それぞれ別の存在として残った。
未証明の観測者も、もう《第二観測圏》側の審理機構ではない。
大学も、外部から正しいと認められることで状態を維持する領域ではなくなった。
灯との間にも、埋まらない記憶がある。
「帰ってきたというより」
俺は言った。
「帰る場所を、もう一度選んだんだと思う」
「選ぶ?」
「以前と同じだから帰るんじゃない。変わっていても、失っていても、ここを帰る場所にすると決める」
「それで、帰ったことになるのかな」
「証明はできない」
「また未証明?」
「この大学らしいだろ」
灯は少し笑った。
「じゃあ、私が帰る場所は」
俺の左手を握る。
「お兄ちゃんがいるところにする」
「重いな」
「嫌?」
「まったく」
「即答なんだ」
「簡単な問題だった」
灯は少し考えてから言う。
「じゃあ、難しい問題」
「何だ」
「お兄ちゃんが自分を見失った時は、どこへ帰るの?」
答えが止まる。
名前を失った時。
過去と切り離された時。
自分の選択さえ、自分のものだと分からなくなった時。
どこへ戻れば、俺は俺になれる。
『黒瀬零』
未証明の観測者が診察室の入口に立っていた。
『あなたが自分を見失った時は』
淡い光が静かに揺れる。
『私が、あなたを見ている』
「お前が?」
『私は、あなたが何者かを決めない』
『しかし、あなたが何を守ろうとしたか、誰を選ぼうとしたか』
『それを見失わない』
右機能が続ける。
『記録と個体の対応が切断された場合』
左機能が、その言葉を引き継いだ。
『過去情報を完全には保持できない』
「頼りにならないな」
『否定』
右機能が左機能を見る。
『右機能は、左機能が自己とは異なる存在であることを、その都度確認する』
左機能も右機能を見返した。
『左機能も、同様の確認を行う』
『黒瀬零についても、現在状態の再照合を試行できる』
「つまり」
灯が笑う。
「お兄ちゃんが自分を見失ったら、みんなでお兄ちゃんを探せばいいんだよ」
「俺一人の問題だろ」
「一人で見つけられないから、見失ってるんでしょう」
「正論だな」
「珍しいみたいに言わないで」
灯は頬を膨らませた。
帰る場所とは、何も変わらずに待っている場所ではない。
過去の自分を、そのまま保存してくれる場所でもない。
変わった自分を見て。
失った自分を見て。
それでも、もう一度名前を呼んでくれる誰かがいる場所。
失くしたものを、失くしていないふりをしなくていい場所。
全部を取り戻せなくても、ここから始めていいと言ってくれる場所。
◇
夜が明ける前、俺たちは《第零学部》へ戻ることになった。
他の学部棟は、施設接続と学生記録の再照合のため、しばらく封鎖される。
《第零学部》だけは、もともと正規の施設情報と一致しないことが多かった。
そのため、今回の異常による影響が比較的少なかった。
「日頃から存在位置が曖昧だったおかげだな」
玄理が言った。
「それは、大学施設として誇っていいのか」
緋月が睨む。
「今回、生存率に貢献した」
「普段の管理不備を功績に変えるな」
「結果論も論理の一つだ」
「後で施設改善計画を提出しろ」
「保留する」
「却下だ」
久しぶりに聞く、いつものやり取りだった。
それだけで、少し胸が軽くなる。
《第零学部》へ向かう途中、三年前の俺が足を止めた。
「ここから先へは、今のお前とは別に行く」
俺も止まる。
「どういう意味だ」
「俺は、三年前のお前から切り離された一つの記録だった。今まで存在できたのは、過去と現在の対応が不安定だったからだ」
「もう、俺の中へ戻るのか」
「戻らない」
三年前の俺は首を振った。
「お前の中へ戻れば、俺は過去の一部として処理される。だが俺はもう、自分を今のお前と完全に同じだとは思っていない」
「じゃあ、消える?」
「それもしない」
玄理が出席簿を開く。
そこには、黒瀬零とは別の欄が生まれていた。
――三年前の黒瀬零に由来する独立記録個体。
――現在の黒瀬零との同一性。
――未確定。
――本人による暫定回答。
――同じではない。
――無関係でもない。
「随分、曖昧だな」
「お前に言われたくない」
「これからどうする」
「三年前へは戻れない。今のお前になるつもりもない」
三年前の俺は、遠くに見える講義棟へ視線を向けた。
「この大学に残る。過去へ戻れない者が何になれるのか、考える」
「学生として?」
「三年前の在籍記録はある」
「単位は?」
「お前より多い」
「嘘だろ」
「三年前のお前だぞ。今より真面目だった」
「俺が三年で堕落したみたいに言うな」
「否定できるのか」
「できない」
灯が二人の俺を見比べる。
「本当に似てるね」
「同じだからな」
「同じではないと言ったばかりだ」
三年前の俺が訂正する。
「そういうところが似てる」
灯は考え込んだ。
「何て呼べばいい?」
「好きに呼べ」
「三年前お兄ちゃん」
「却下」
「過去お兄ちゃん」
「もっと却下だ」
「旧お兄ちゃん」
「古い製品みたいに言うな」
「じゃあ、自分で決めて」
三年前の俺は黙った。
名前を選ぶ。
自分が誰なのかを選ぶ。
俺たちが、未証明の観測者へ、右機能と左機能へ、何度も向けた問いだ。
その問いが今度は、俺自身の過去へ返ってきた。
「今すぐでなくていいよ」
灯が言った。
「決めたくなった時に教えて」
「ああ」
「それまでは?」
「三年前の俺でいい」
「長い」
「我慢しろ」
採択領域から離脱した俺と、第四候補も大学に残ることを選んだ。
「採択領域へ戻っても、以前と同じ役割には戻れない」
離脱した俺が言う。
「俺は、最終的な候補として確定しなかった」
第四候補が続けた。
「だが、可能性が消えたわけでもない」
「危険なのか」
「お前が暴走する可能性と、同程度には」
「かなり危険じゃないか」
「自覚があるなら結構だ」
緋月が額を押さえる。
「黒瀬零に由来する存在が四人。未登録観測個体が一人。右機能と左機能。加えて《第一査読官》」
「《第零学部》が随分賑やかになるな」
玄理が言った。
「収容施設ではないぞ」
「では、他に所属させられる学部があるか」
「ない」
「即答するな!」
緋月の声が、夜明け前の大学へ響いた。
◇
《第零学部》の建物は、ほとんど以前のまま残っていた。
傾いた看板。
古びた扉。
正規の学部棟より小さな玄関。
窓には新しい亀裂が増えている。
入口横の掲示板には、昨日の講義予定が残っていた。
――第一限。
――未証明命題概論。
――担当、御厨玄理。
――提出課題。
――自身が存在することを、他者の承認を用いずに説明せよ。
「提出期限は?」
俺が聞く。
「昨日だ」
「世界が消えかけてた」
「遅延届を提出しろ」
「理由欄に何て書けばいい」
「《第二観測圏》側の存在資格審査、および《観測圏外追放》への対応」
「長い」
「正式な記録には必要だ」
「口頭でいい?」
「却下」
玄理が扉へ手をかける。
だが、すぐには開かなかった。
「どうした」
「接続先を確認している」
「ここまで来て?」
「今日、見た目だけで扉を信じて何度失敗したと思っている」
出席簿を開き、扉と建物の対応を照合する。
――対象。
――《第零学部》正面入口。
――現在接続先。
――《第零学部》共用室。
――内部在籍者。
――なし。
――帰還者および同行個体。
――確認待ち。
「帰還者と、同行個体?」
灯が尋ねる。
「以前からこの場所へ所属していた者ばかりではない」
玄理は未証明の観測者と、右機能、左機能を見る。
「彼らまで帰還者と記録するのは正確ではない」
「私たちは、ずっと大学にいたのに?」
「場所としてはな」
玄理は出席簿を閉じた。
「だが、この大学は一度、以前の成立根拠を失った。今ここにある大学は、昨日までと完全には同じではない」
「じゃあ」
灯が扉を見る。
「私たちは、今の大学へ初めて帰るんだ」
「妙な言い方だが」
玄理が扉を開く。
「間違ってはいない」
扉の向こうには、見慣れた共用室があった。
揃っていない机。
傷だらけの椅子。
壁いっぱいの黒板。
動くたびに異音を立てる古い電気湯沸かし器。
《第零学部》へ初めて来た日の景色と、ほとんど変わらない。
ただ、黒板の中央に、見覚えのない文字が書かれていた。
――おかえり。
誰も、すぐには部屋へ入らなかった。
「誰が書いた」
緋月が尋ねる。
澄玲が青い数式を展開した。
「成立記録を確認できません。少なくとも、戦闘前からあった文字ではありません」
「内部には誰もいなかった」
玄理が言う。
「《第二観測圏》側の処理記録にも該当しない」
「大学が書いたんじゃない?」
灯が言った。
「建物がか」
「この大学なら、それくらいしても驚かないよ」
「意思があるなら、まず設備修繕を優先させたい」
緋月が呟く。
「湯沸かし器も直してほしい」
「そこなの?」
「毎回、爆発しそうな音がする」
「あれは仕様だ」
玄理が答える。
「壊れていることを仕様と呼ぶな」
俺は黒板に書かれた文字を見る。
誰が書いたのか。
俺たちが帰ってくることを、誰かが知っていたのか。
何も分からない。
もしかすると、失われた記録の中に、ここで待っていた誰かがいたのかもしれない。
その名前も、顔も、今は確認できない。
「消すか?」
玄理が尋ねる。
「書いた者が特定できない。正式な記録にはできない」
「残しておこう」
俺は答えた。
「根拠は?」
「俺たちに向けて書かれた気がする」
「客観性がない」
「今さらだろ」
玄理は僅かに笑った。
「そのとおりだ」
黒板消しから手を離す。
灯が共用室へ一歩入った。
机。
椅子。
黒板。
窓。
その一つ一つを確かめるように見回す。
そして、黒板の文字へ向かって小さく告げた。
「ただいま」
返事はない。
部屋には俺たちしかいない。
それでも、黒板に書かれた「おかえり」という文字は消えなかった。
俺も灯の隣へ立つ。
全部を取り戻したわけではない。
ここが以前と同じ場所だという証明もない。
俺が昨日までの俺と、完全に同じだとも言えない。
帰ってきたという記録さえ、正式な査読結果には載っていない。
それでも。
「ただいま」
声に出した。
未証明の観測者が、言葉の意味を確かめるように黒板を見つめる。
『ただいま、とは』
「帰ってきた時に言う言葉だ」
『私は、ここへ来るのは初めてだ』
「なら、今は言わなくていい」
『次に』
「ん?」
『ここを離れ、もう一度戻ってきた時は』
未証明の観測者は、ゆっくりと問いかけた。
『私も、ただいまと言えるか』
「ああ」
灯が答える。
「ここが、戻ってきたい場所になったらね」
『戻ってきたい場所』
「今すぐ決めなくていいよ」
『……肯定』
右機能と左機能は、扉の前で立ち止まっていた。
「入らないのか」
『内部への所属が確定していない』
右機能が答える。
『入室権限も未設定』
左機能が続けた。
「俺たちも、大半が未確定だ」
『それでも、入室している』
「そういう学部だからな」
『保留状態での入室は可能か』
「この学部で、未確定を理由に入口から追い返された奴はいない」
右機能と左機能は互いを確認する。
そして、それぞれの意思で室内へ足を踏み入れた。
三年前の俺。
採択領域から離脱した俺。
第四候補も続く。
《第一査読官》も何も言わず、最後尾から入室した。
最後に、玄理が全員を見渡す。
破れた出席簿を開いた。
――帝都神律大学《第零学部》。
――帰還者。
――黒瀬零。
――黒瀬灯。
――九条澄玲。
――天城朔夜。
――御厨玄理。
――神代緋月。
――同行個体および暫定滞在者。
――名称未定の独立記録個体。
――採択領域離脱個体。
――第四候補。
――未登録観測個体。
――右機能。
――左機能。
――《第一査読官》。
余白へ、一つずつ印が刻まれていく。
証明済みではない。
正式な在籍登録でもない。
存在資格を与えられたわけでもない。
ただ、今ここにいる者たちの記録。
「出席を取る」
玄理が言った。
「名前を持たない者は、返事だけでいい。決めたくなった時に追記する」
一人ずつ、名前が呼ばれる。
「黒瀬零」
「いる」
「黒瀬灯」
「はい」
「九条澄玲」
「います」
「天城朔夜」
「ああ」
「御厨玄理」
「いる」
「神代緋月」
「いる」
名前を持つ者。
まだ持たない者。
同じ名前から分かれた者。
役割を失った者。
何者なのか分からない者。
全員が、自分の番に返事をした。
最後の印が刻まれる。
――帰還者および同行個体。
――現在確認。
――全員応答。
失くしたものは戻っていない。
空白は、空白のままだ。
それでも俺たちは、失くしたまま、もう一度ただいまを言った。




