第三十八話 何度切り離されても、君を選ぶ
灯の手を握っている。
そのはずだった。
指先には温度がある。
柔らかな皮膚の感触も、握り返される力も分かる。
それなのに、この手が誰のものなのか分からない。
「お兄ちゃん」
声が聞こえた。
俺を呼んでいる。
それも分かる。
だが、耳に届いた音と、自分へ向けられた呼びかけが結びつかない。
名前と人間。
声と話者。
記憶と被記憶者。
選択と選択者。
《分離査読官》から伸びた金色の線が、あらゆる対応の間を通り抜けていく。
『内部相互参照を解体』
『観測者と観測対象を分離』
『記憶と被記憶者を分離』
『名称と個体を分離』
『関係と関係者を分離』
旧観測接続棟の内側から、人の気配が薄れていく。
誰も消えてはいない。
それでも、そこにいる者たちを互いに見つけられない。
「黒瀬零!」
緋月の声が響く。
どこから聞こえたのか判断できない。
「返事をしろ! 名前だけでは駄目だ! 今、自分が何をしているかを言え!」
「俺は――」
言いかけて、止まった。
何をしている。
誰かの手を握っている。
誰かを守ろうとしている。
けれど、その誰かが誰なのか分からない。
『黒瀬零の選択対象を分離』
『保護対象、該当なし』
『選択行為を無効化』
手の中から力が抜けた。
違う。
相手が手を離したのではない。
俺が何を握っていたのか、選べなくなった。
「お兄ちゃん!」
また声がする。
今度は悲鳴に近かった。
胸の奥が痛んだ。
顔も、名前も、関係も金色の線に切られている。
それでも、その声を失いたくないと思った。
「灯」
名前が口から零れた。
思い出したわけではない。
記録を照合したわけでもない。
俺が今、そう呼びたいと選んだ。
『名称と個体の対応は切断済み』
「知るか」
『黒瀬灯という名称が、現在の対象を示す根拠は存在しない』
「俺が、こいつを灯と呼ぶ」
『恣意的命名にすぎない』
「ああ」
俺は手を握り直した。
「今は、それでいい」
指先が震える。
その震えが、俺の掌へ伝わった。
「お兄ちゃん……?」
「俺が、お前を灯だと選ぶ」
『過去の兄妹関係は、成立根拠にならない』
「過去だけで選んでるんじゃない」
白い円環が、俺の足元へ広がる。
「今、この手を離したくない」
『対象の特定が不可能』
「特定できなければ選べないという結論を、保留する」
『保留対象が存在しない』
「なら、この手は何だ」
『個体との対応を失った身体情報』
「温かい」
『感覚情報にすぎない』
「震えてる」
『物理現象にすぎない』
「俺に助けを求めてる」
『音声と発話者の対応は切断済み』
「それでも、俺は応える」
『応答対象を確認不能』
「確認できなくても、応えられる」
白い円環が、金色の線へ食い込んだ。
――対象を完全に特定できなければ、その者を選ぶことはできない。
「その結論を、保留する」
白い空白がゆっくりと広がる。
俺と灯の間を通っていた金色の線が、僅かに浮き上がった。
切断が消えたわけではない。
記憶も戻らない。
兄妹だったという記録も、まだ繋がらない。
それでも今、俺がこの手を選んだことだけは無効にならない。
「お兄ちゃん」
灯が俺の手を強く握った。
「私も選ぶ」
「何を」
「あなたを、兄だって」
『相互選択に成立根拠なし』
「お兄ちゃんが私を選んだから、選ぶんじゃない」
灯の声は震えていた。
だが、迷ってはいなかった。
「私が、この人を兄だと思いたいから選ぶの」
『循環参照』
「二人で選び合うのは、循環じゃないよ」
灯が一歩、俺へ近づいた。
「関係だよ」
金色の線へ亀裂が入った。
『関係と関係者を再分離』
「なら、また選ぶ」
『再成立した関係を切断』
「また選ぶ」
『選択結果を、選択主体から分離』
「それでも選ぶ!」
灯の叫びが白い世界へ響く。
大学のどこかで、別の声が上がった。
「お前の名前は分からない! でも、さっきまで俺の隣にいた!」
「私も覚えてない! それでも、あなたを一人にしたくない!」
「ここが何号棟かは知らない! でも、この扉の向こうに誰かいる! 返事をしろ!」
「名前なんて後でいい!」
学生たちが。
教員たちが。
記録を失ったまま、互いへ手を伸ばし始める。
過去を根拠にできないなら、現在で選ぶ。
相手が誰か完全には分からなくても、目の前にいる誰かを見捨てない。
玄理の出席簿へ、新しい記録が刻まれていく。
――個体名、対応不能。
――所属、対応不能。
――過去関係、対応不能。
――現在選択、確認。
――相互保護、確認。
「名前が消えても、出席は取れるらしい」
玄理の声がした。
破れた出席簿へ、無数の印が刻まれていく。
名前の横ではない。
誰が誰なのかを決定する欄でもない。
ただ、ここにいる者が、ここにいる別の誰かを今選んだという記録。
『無記名記録は無効』
「記名できないようにしたのは、君たちだろう」
『記録主体との対応を分離』
「なら、記録されたという事実を残す」
『事実と記録を分離』
「分離されたという状態を、新たに記録する」
『記録と分離処理を分離』
「それも欄外へ収蔵する」
玄理は静かに笑った。
「何度でも付き合おう」
破れた出席簿の余白が、さらに広がる。
「欄外収蔵」
赤い光が、その頁を照らした。
三年前の俺が、玄理の隣へ立っている。
「消される前の状態は、俺が保存する」
『保存記録と原記録を分離』
「最初から同じものではない」
『保存者と保存記録を分離』
「俺が作った記録でなくなっても、記録そのものは残る」
『記録の指示対象を分離』
「何を示していたのか、失われた状態として保存する」
『意味を失った記録に価値はない』
「価値を決めるのは、お前じゃない」
赤い円環が、頁の上へ重なっていく。
一つの記録を切れば、切断前と切断後の二つの状態が生まれる。
意味を切り離せば、意味を失ったという新たな状態が残る。
《分離査読官》が線を振るうたび、消えるはずだった記録が別の形で欄外へ積み上がっていく。
『記録処理の終端なき増加を検出』
『全記録を一括処理する』
「一括?」
澄玲の周囲へ青い数式が展開した。
「別々の記録を、同じ処理対象としてまとめました」
澄玲の瞳が金色の線を追う。
「つまり、あなたたちはそれらを同じ分類へ属するものとして、関係づけています」
『処理上の分類である』
「分類も、対象同士を結びつける関係です」
『分類と対象を分離』
「分離するためには、どの対象がどの分類へ属していたかを識別する必要があります」
『識別結果を破棄』
「破棄する結果を識別しています」
『識別処理を自動化』
「何が、自動処理の基準を与えているのですか?」
『《観測独立規程》』
「規程と処理を結びつけています」
青い文字が、右機能と左機能の間へ伸びる。
――分離対象を識別する。
――対象間の関係を取得する。
――取得した関係へ切断処理を行う。
――処理後の状態を確認する。
「あなたたちの処理は、関係が存在しなければ開始できません」
『関係を消去するために、暫定的識別を行う』
「その識別関係は、能力を使うたびに作り直されます」
澄玲が指を振る。
青い数式が反転した。
「関係を完全に消すために、何度も新しい関係を成立させています」
『矛盾は存在しない』
右機能が答えた。
『分離前の関係と』
左機能が続ける。
『処理に使用する識別関係は異なる』
「違う関係なら」
第四候補が言った。
「お前たちが切ったのは、その時点に存在した一つの関係だけだ」
『全関係を対象とする』
「まだ成立していない関係まで切れるのか」
『将来成立する関係を、事前に無効化する』
「その将来を、どうやって識別する」
『可能性を参照する』
「観測対象から外した領域の未来を?」
採択領域から離脱した俺が僅かに笑った。
金色の線が止まる。
『処理に必要な範囲のみ、参照を継続する』
「結局、見ている」
『観測ではない』
「参照と言い換えても、情報は必要だ」
三年前の俺が続ける。
「情報を得るには、この領域との対応関係が必要になる。関係を完全に切れば、未来は参照できない」
赤い右目が金色の線を捉える。
「未来を参照して先回りして切るなら、関係を維持しなければならない」
『……』
「お前たちは」
第四候補が、右機能と左機能へ歩み寄る。
「切り離すために、誰よりも関係へ依存している」
右機能が第四候補へ線を振るった。
『発言者と発言内容を分離』
「その発言が俺のものだと認識したな」
左機能も手を上げる。
『発言内容と意味を分離』
「意味を取得したから、処理する必要があると判断した」
『理解ではない』
「では、なぜ今の発言を優先処理した」
『脅威度に基づく』
「脅威だと評価した」
第四候補の指先が金色の線へ触れる。
「評価も、対象との関係だ」
金色の線が、右機能と左機能の間へ巻きついた。
『自己処理への干渉を検出』
「右と左」
第四候補が告げる。
「お前たちは、二つの機能へ分かれた」
『肯定』
「互いに独立しているのか」
『肯定』
「では、なぜ同じ対象を処理している」
『共通規程に従っている』
「共通のものがある」
『規程との関係は、分離対象外』
「都合の悪い関係だけ例外か」
『審理機構の成立に必要である』
「関係がなければ、お前たち自身も成立できない」
金色の人影が揺れた。
右機能と左機能を結んでいた細い光が露出する。
共通規程。
共通目的。
共通記録。
互いを別の機能として区別する対応関係。
《分離査読官》は、他者の関係を切る機構でありながら、自らも複数の関係によって成立している。
『自己関係は、処理対象外』
「なぜ」
『処理主体が消失するため』
「関係を切れば存在を維持できないと、自分たちで認めましたね」
澄玲の数式が、金色の接続部へ集中した。
『訂正』
『機能継続に必要な構造を維持する』
「私たちにとっても、必要なものがある」
灯が言った。
「兄妹だった記録があるから、兄妹なんじゃない。選び続けるから、兄妹でいられる」
「記録があるから学生になるのではない」
玄理が出席簿を掲げた。
「ここで学ぶ者を、大学が学生として扱い続けるからだ」
「役職名が私へ責任を与えるのではない」
緋月が大学章へ手を置く。
「私がこの大学と学生を守ると選び続けるから、管理責任を負っている」
「過去の俺と繋がっているから、俺なのではない」
三年前の俺が俺を見る。
「過去を引き受け、今のお前へ渡すと俺が決めたから、俺はお前の過去でいられる」
採択領域から離脱した俺も、静かに続けた。
「同じ起源を持つから、俺たちは同じなのではない」
男は三人の黒瀬零を見る。
「異なる答えを選んだ今も、互いを自分が選び得た可能性として認める。だから繋がっている」
「九条」
朔夜が隣にいる澄玲を見る。
「俺たちの関係に、名前は必要か」
「今はいりません」
「そうか」
「でも」
澄玲が僅かに笑った。
「天城先輩が隣にいることは、私が今選んでいます」
「それなら」
朔夜は答えた。
「俺も同じだ」
最後に、未証明の観測者が俺たちを見た。
『私は』
金色ではない光が強くなる。
『観測を行うためだけに、あなたたちを見ているのではない』
『あなたたちを見失いたくないから、見ている』
『個人的関係の発生を確認』
『《観測独立規程》違反』
『処分対象へ追加』
『肯定』
未証明の観測者は答えた。
『私は、あなたたちとの関係を選ぶ』
その言葉が、白い世界へ新しい中心を作った。
上から見下ろす観測ではない。
対象を定義するための視線でもない。
同じ場所にいる者が、誰かを見失わないために向ける視線。
未証明の観測者から伸びた光が、大学全域へ広がっていく。
学生から学生へ。
教員から学生へ。
友人から友人へ。
名前を失った者から、同じく名前を失った者へ。
一つの巨大な網ではない。
一人一人が、自分の意思で別の誰かへ伸ばした光だった。
『関係の再発生を確認』
『分離処理速度を超過』
『処理出力を上昇』
無数の金色の線が降り注ぐ。
一つを切る。
別の誰かが手を伸ばす。
二つを切る。
その場にいる者が、もう一度選び直す。
記憶を切る。
現在を見る。
名前を切る。
新しく呼ぶ。
過去を切る。
今から始める。
関係を切る。
もう一度、相手を選ぶ。
『分離対象が、終端なく再発生』
『原因を照合』
《第一査読官》の白い身体へ文字が浮かぶ。
『関係が、固定情報ではなく、継続的選択として再形成されている』
『分離処理のみでは、新規選択の発生を停止できない』
「できるだろ」
俺は《分離査読官》を見る。
「選ぶ奴を消せばいい」
「お兄ちゃん?」
灯が俺を見る。
扉の先で、《第二観測圏》側の円環群が一斉に明滅した。
『肯定』
『選択主体を処分すれば、関係の再成立は停止する』
『当該領域内の全選択主体を、処分対象へ指定』
金色の線が、大学にいる全ての者へ向いた。
「やっぱりな」
俺は灯の手を離した。
「お兄ちゃん!」
「離れるわけじゃない」
俺は一歩前へ出る。
「一度、手を空けるだけだ」
白い円環が俺の背後で開く。
だが今度は、金色の線全てへ無理に手を伸ばさない。
あれは、《第二観測圏》側の審理機構群から投射された処理だ。
俺が全上位構造へ届く必要はない。
この領域へ処分命令を流し込んでいる、執行箇所を止めればいい。
「九条!」
「分かっています!」
澄玲の青い数式が、大学全域へ伸びた。
無数の処分線が、一つの共通規程へ収束していく。
――全選択主体処分命令。
――直接執行機構、《分離査読官》。
――成立根拠、《観測独立規程》。
――当該《世界研究領域》への投射節点。
「処分線は、一つずつ独立していません!」
澄玲が叫ぶ。
「この領域へ投射された一つの執行節点から、枝分かれしています!」
「記録する!」
玄理が破れた出席簿を開いた。
「欄外収蔵」
頁の中央へ、一つの項目が固定される。
――《観測独立規程》・局所執行節点。
――発令主体、《第二観測圏》側審理機構群。
――直接執行、《分離査読官》。
「緋月!」
「分かっている!」
緋月が大学章へ手を置く。
「万象校正」
青白い光が、金色の処理線を旧観測接続棟の一地点へ収束させた。
「この領域へ投射された執行部分だけを、学内の局所現象として校正する!」
『不正な局所化を検出』
「不正かどうかは、後で審査しろ!」
金色の線が、一本の巨大な節点へ集まっていく。
それは《第二観測圏》そのものではない。
終わりの見えない、さらに奥の構造でもない。
この《世界研究領域》へ処分命令を流し込むために投射された、一つの執行箇所。
俺が今、止めるべき相手。
『黒瀬零による、局所執行節点への干渉を検出』
「保留対象」
白い円環が金色の節点を囲む。
――全選択主体処分命令は、正当な審理結果として直ちに執行される。
「その結論を、保留する」
白い空白が、処分命令の中央へ差し込まれた。
『処分命令の有効性を確認不能』
『執行継続を要求』
「要求は、まだ結論になってない」
金色の線が一瞬だけ停止した。
消えたのではない。
壊れたのでもない。
正当な処分として、直ちに実行できるという結論だけが止まった。
その隙を、俺たちは見逃さない。
「零!」
三年前の俺が叫ぶ。
赤い円環が、俺の背中へ重なる。
「お前がその節点へ届いた記録は、俺が残す!」
「経路は固定しました!」
澄玲の数式が、俺と局所執行節点の間を結ぶ。
「学内への被害は、私が校正する!」
緋月の青白い光が、学生と建物を処分節点から切り分けた。
「処分命令だけを壊せ!」
「私が」
灯の声が届く。
「お兄ちゃんを見てる!」
『私も』
未証明の観測者の光が、俺の背中を照らした。
『黒瀬零を見ている』
『彼が、誰かを消すためではなく』
『誰かが選び続けられるように、拳を振るおうとしていることを』
『私は見ている』
俺は床を蹴った。
白い空間が足元で砕ける。
拳を金色の節点へ向けた。
これは《第二観測圏》全体を殴るための拳ではない。
さらに上へ続く何かへ届く拳でもない。
この大学へ全選択主体処分命令を流し込む、局所の執行箇所を止めるための一撃。
節点の中心へ、一つの結論が浮かんでいた。
――関係を再び選ぶ者は、存在してはならない。
「他人を選ぶだけで、存在する資格を失う?」
灯の顔が浮かぶ。
名前を失っても。
記憶を切られても。
俺を兄と選び直した。
大学中から、互いを呼ぶ声が聞こえる。
未証明の観測者が、俺たちを見失いたくないと選んだ。
「そんな結論を」
拳を握り込む。
「認めるわけがないだろ!」
拳を振り抜いた。
白い光が、金色の局所執行節点を貫く。
節点が砕けた。
そこから大学全域へ伸びていた処分線が、一斉に光を失う。
一本。
二本。
無数。
世界を直接破壊したのではない。
命令の投射元との局所的な接続を失い、この領域へ展開されていた線が維持できなくなった。
右機能へ亀裂が走る。
左機能にも。
『処分命令との対応を喪失』
『分離対象を確認不能』
『執行機能の継続不能』
二つの金色の人影が崩れ始める。
「待って」
灯が言った。
俺は振り返る。
「消すの?」
右機能と左機能。
二つの査読機構は、自分たちを成立させていた執行命令との関係を失っている。
このままなら、現在の形を維持できない。
「こいつらは、俺たちを消そうとした」
「うん」
「それでも、止めるのか」
灯は崩れていく二つの人影を見た。
「消えたいかどうか、まだ聞いてない」
金色の光が揺れた。
俺が未証明の観測者へした問い。
残りたいか。
消えたいか。
どちらかを決められない存在へ、答えを押しつけないと選んだ。
相手が変わったからといって、その答えを曲げるのか。
「……そうだな」
俺は右機能へ手を伸ばした。
「お前は、消えたいか」
『質問を、処理不能』
「左は?」
『自己意思、確認不能』
「なら、今すぐ消える必要はない」
『我々は』
二つの声が重なる。
『《分離査読官》としての執行機能を失った』
「機能を失ったら、存在できないのか」
『成立目的を喪失』
「目的を失った後に何をするかは、これから決めればいい」
『その回答は、未登録観測個体へ提示したものと同一』
「ああ」
「相手によって変えたら、黒瀬零自身の答えではなくなる」
採択領域から離脱した俺が言った。
「随分と面倒な道を選ぶ」
第四候補が小さく笑う。
「知ってる」
俺は右機能と左機能を見る。
「答えたくなった時に答えろ。それまでは、ここにいろ」
『我々を、保護対象とするのか』
「違う」
灯が言った。
「一緒に考える相手にするの」
二つの金色の人影は、すぐには答えなかった。
やがて右機能の光と左機能の光が、ゆっくりと近づく。
融合ではない。
元の一つへ戻るのでもない。
互いを別の存在として保ったまま、隣に立つ。
『右機能、回答を保留』
『左機能、同じく回答を保留』
「それでいい」
俺が答えた。
白い世界へ、大きな亀裂が走る。
夜空が戻った。
帝都神律大学の時計塔。
講義棟。
中庭。
街の明かり。
世界を構成していた数え切れない対応関係が、もう一度結び直されていく。
名前と人間。
声と話者。
記憶と被記憶者。
選択と選択者。
切断前と全く同じではない。
一度失われたものもある。
曖昧なまま、戻らない記憶もある。
それでも大学は、誰かに見られたから戻ったのではない。
内部にいた者たちが互いをもう一度選び、名前と場所と現在を結び直した。
その相互参照によって、領域の状態が再び安定し始める。
『《観測圏外追放》』
『失敗』
《第一査読官》の白い身体へ結果が表示された。
『《分離査読官》による処理継続不能』
『当該《世界研究領域》は、《第二観測圏》側の有効観測結果との対応喪失後も』
『内部観測主体による相互参照によって、現在状態を暫定維持』
「つまり」
玄理が出席簿を閉じる。
「上から正しいと認められなくても、今のところ、この領域は存続できる」
『肯定』
『ただし』
手前に残っていた金色の円環群が、再び俺たちを見下ろした。
『当該領域は、《第二観測圏》側の正規査読結果との一致を持たない』
『正式な採択資料として登録不能』
「追放には失敗したのに、記録からは外すつもりですか」
澄玲が呆れたように息を吐いた。
『第三次正式査読、結果を整理』
空へ金色の文字が刻まれる。
――採択。
――成立せず。
――棄却。
――成立せず。
――改稿要求。
――成立せず。
――《観測圏外追放》。
――失敗。
『正式査読結果、保留』
『回答期限、未定』
『暫定状態コード、《未査読領域》』
『正式分類は、後続審理へ送付』
「結局、保留か」
俺は苦笑した。
『肯定』
右機能と左機能の表示にも、新しい文字が浮かぶ。
――存在状態、保留。
――統合状態、保留。
――所属状態、保留。
――執行権限、停止。
金色の円環群が、一つずつ閉じ始める。
今度は世界を追放するためではない。
この場での正式査読を終了するために。
そのさらに奥で、円環とも資料とも判別できない名もない輪郭が、一枚の記録を閉じたように見えた。
命令は来ない。
処分も来ない。
ただ、《第二観測圏》で生じた保留という結果が、さらに先へ読まれた。
そんな気がしただけだった。
最後の金色の光が消える。
夜の静けさが戻った。
旧観測接続棟には、俺たちの荒い呼吸と、遠くから聞こえる学生たちの声だけが残った。
「お兄ちゃん」
灯が俺を呼ぶ。
「ああ」
「覚えてる?」
「何を」
「私のこと」
俺は灯の手を見る。
小さい頃、初めて握った時の記憶。
失われた記録。
取り戻した時間。
何度も否定され、それでも選び直した関係。
「全部は、覚えてないかもしれない」
灯の顔が曇る。
「でも」
俺はその手を取った。
「今、お前を灯だと選んでる」
「……うん」
「お前は?」
灯は笑った。
「何度聞かれても、お兄ちゃんを選ぶよ」
隣で、未証明の観測者が俺たちを見ている。
もう上からではない。
同じ場所にいる者の高さで。
『私は、あなたたちを見ている』
「知ってる」
『私が見失った時は』
「ああ」
『もう一度、教えてほしい』
「その時は、俺たちがお前を見る」
未証明の光が静かに揺れた。
関係は、一度証明すれば永遠に残るものではない。
記録さえあれば、失われないものでもない。
切られる。
忘れる。
見失う。
間違える。
それでも、何度でも目の前の誰かへ手を伸ばす。
切り離されても、もう一度。
君を選ぶ。




