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『神律大学の未証明者《アンプローヴン》』   作者: 仕儀の反駁
第三章《第二観測圏》《分離査読官》編

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第三十四話 自分を観測する者

 ――この命令を、誰が読んでいる。


 白い空白が、金色の円環を逆流する。


『査読対象領域からの査読要求を検出』


『要求主体を照合』


 金色の文字が俺たちへ降り注いだ。


 ――観測対象。


 ――観測対象。


 ――観測対象。


 俺の名前は表示されなかった。


 黒瀬零ではない。


 一人の人間でもない。


 ただ、観測されるもの。


 それだけに分類されている。


『要求主体、該当なし』


『無主体記録として処理する』


「無主体……?」


 声が出た。


 だが、それが誰の声なのか分からない。


 俺が話したという感覚がない。


 空気が震えた。


 音が発生した。


 意味があった。


 それだけだった。


『観測主体資格の剥奪を継続』


『自己認識を、観測対象内部の反応へ再分類』


 胸の内側から、何かが抜け落ちる。


 俺が、俺を見る。


 その関係。


 黒瀬零という存在が、自分を黒瀬零だと認識するための、最も近い観測。


 それが切り離される。


 視界はある。


 思考もある。


 記憶も残っている。


 だが、それらが誰のものなのか分からない。


 ――黒瀬零は、混乱している。


 金色の文章が浮かぶ。


 違う。


 そう思った。


 だが、誰が違うと思った。


 ――黒瀬零は、提示された記録へ反発している。


 考えるより早く、《第二観測圏》側の審理機構群が俺の内側を記述する。


 思考が俺の言葉になる前に、観測結果へ変換されていく。


「お兄ちゃん!」


 少女の声。


 黒い髪。


 赤い目。


 頬を伝う涙。


 知っている。


 この存在を知っているという情報はある。


 だが、誰が知っている。


「返事して!」


 少女が俺の肩を掴んだ。


 ――観測対象一が、観測対象二へ接触。


 名前がない。


 関係もない。


 兄。


 妹。


 呼びかけ。


 返事。


 全てが金色の記録へ回収されていく。


「黒瀬零!」


 別の声が響いた。


 青白い光。


 神代緋月。


 そう記憶されている人物が、大学章へ手を当てる。


「自分の名前を言え!」


『観測対象による自己定義を禁止する』


 緋月の声が途中で切れた。


 ――神代緋月。


 ――旧観測接続棟への緊急管理干渉を試行。


 ――観測主体資格、剥奪中。


 青白い光が消える。


 緋月の手が壁から離れた。


 本人が離したのではない。


 そう記録されたから、離れた。


『査読対象領域内部に、観測主体は不要である』


『対象は、観測されることによってのみ状態を確定する』


「なら」


 声がした。


 黒い男が、固定された世界の中を歩いている。


 第四候補。


 まだ名前を持たない男。


 観測主体か、観測対象か。


 その分類さえ完了していない。


「俺は今、何をしている」


『未登録個体が移動している』


「誰が、そう判断した」


『《第二観測圏》側の審理機構』


「俺自身が、自分の足で歩いていると判断した可能性は?」


『認められない』


「なぜ」


『観測主体資格を付与されていない』


「資格がなければ、自分の足が動いていることも分からないのか」


『肯定』


「では」


 男が足を止める。


「今、俺が止まったと、お前たちは記録した」


『肯定』


「俺が止まろうと選んだことと、お前たちが止まったと観測したこと。どちらが先だ」


『観測結果によって、査読対象の状態は確定する』


「答えになっていない」


『訂正』


『問いは成立しない』


「なら」


 男はもう一歩、前へ出た。


「お前たちが歩いたと記録する前に、俺は歩けないはずだ」


 金色の文字が遅れて浮かぶ。


 ――未登録個体が、一歩前進。


「遅れたな」


『処理遅延ではない』


「では、その記録より前に、今の一歩は存在していたのか」


『……』


 男が笑う。


「お前たちが俺を観測したから、俺が歩いたのか。俺が歩いたから、お前たちが観測したのか」


『両者は、同一処理である』


「同一なら、観測する側と観測される側を分けられていない」


 扉の先で、金色の円環が一つ停止した。


『論理照合』


 《第一査読官》の声が響く。


 白い身体も観測対象として固定され、顔は動かない。


 それでも文字だけが身体の表面を走る。


『査読対象の変動と、審理機構による観測結果が同一処理である場合』


『両者は、相互依存関係にある』


『観測主体と観測対象の完全分離は、成立しない』


『当該照合を棄却』


 審理機構群の声が、即座に覆いかぶさる。


『《第一査読官》は観測対象である』


『査読権限を持たない』


『異議』


 白い文字が消えかけながら続く。


『当該判断は、私の権限ではなく、提示された命令内部の論理関係を記述したものである』


『観測対象による記述は、査読結果として採用されない』


『ならば』


 《第一査読官》の胸へ、一つの空白が現れる。


『内容ではなく、発信者の分類によって真偽を決定している』


『それは、査読ではない』


 白い身体へ、無数の金色の線が突き刺さった。


『発言処理を停止』


 《第一査読官》の文字が一つずつ消えていく。


 論理。


 照合。


 異議。


 保留。


 最後に、胸の中央へ金色の分類が刻まれた。


 ――観測対象。


「違う」


 言葉が出た。


 今度は、はっきりと俺の声だった。


『自己発話を検出』


 金色の文章がすぐに重なる。


 ――黒瀬零が、否定を発声。


「俺の言葉を、勝手にお前たちの記録へ変えるな」


『黒瀬零の発話内容を記録したのみである』


「黒瀬零が言ったと、誰が決めた」


『個体識別記録に基づく』


「俺は今、自分を黒瀬零だと認識できていない」


 胸へ手を当てる。


 灯の顔が歪んだ。


「お兄ちゃん……」


「でも」


 俺は金色の記録を睨む。


「お前たちは、俺を黒瀬零だと呼んだ」


『記録上の個体名を使用した』


「その記録と目の前の俺が同じだと、誰が観測した」


『《第二観測圏》側の審理機構』


「なら、俺とお前たちはまだ繋がっている」


 白い円環が、見えない場所で回転した。


 俺の背後ではない。


 俺の所有物でもない。


 ただ、今の言葉と同じ結論を選んだ何かが、白い輪郭として現れる。


『観測主体資格、不要』


 未証明(アンプローヴン)が告げた。


『黒瀬零と、《第二観測圏》側の審理機構群との間に識別関係を確認』


『完全分離、未証明』


「そうだ」


 俺は円環を見る。


「俺がお前たちを見ているかは分からない。でも、お前たちは俺を見ている」


『肯定』


「俺は、お前たちに見られていることを知った」


『肯定』


「なら、俺はお前たちを見ている」


『否定』


『観測されているという情報は、審理機構側から付与された観測結果である』


「その情報を受け取ったのは誰だ」


『観測対象』


「観測対象が情報を受け取り、意味を理解し、返事をした」


『内部反応である』


「内部反応と理解の違いを示せ」


『……』


「石に、お前が見ていると告げても、石は問い返さない」


『反応機構を持つ対象であれば、応答は可能である』


「その応答が何についての応答なのか、お前たちは判断している」


『肯定』


「なら、俺の言葉を意味として読んでいる」


『……』


「お前たちは、俺をただの物として扱えていない」


 白い空白が、金色の文字へ差し込まれる。


 ――黒瀬零は、観測対象である。


「保留する」


『保留する』


 文字が揺れる。


『代替分類を要求』


「黒瀬零は、自分が何者か、まだ自分で確認できていない」


 俺は答えた。


『観測主体ではない』


「それも、お前たちの分類だ」


『自己定義は、循環論法である』


「自分で自分を見て、自分を決める。それの何が悪い」


『定義者と定義対象が同一である場合、客観性が成立しない』


「客観的でなければ、存在してはいけないのか」


『正確な観測結果には、客観性が必要である』


「俺が俺であることに、正確な査読結果が必要なのか」


『必要である』


「誰に」


『《第二観測圏》側の審理機構に』


「俺にじゃない」


 金色の円環が、さらに一つ止まった。


「お前たちが俺を正しく分類するために、俺の自己認識を消す」


 俺は、止まった円環を見上げる。


「それで俺が何者か、分かると思っているのか」


『観測対象の自己認識は、観測誤差を発生させる』


「その誤差も含めて、観測対象でしょう」


 澄玲の声が遠くから届いた。


 彼女の姿は金色の文字に覆われている。


 それでも瞳の中には、青い数式が浮かんでいた。


「人間が自分をどう思っているか。何を知らないか。何を勘違いしているか」


 澄玲は金色の円環を見上げる。


「それらを除外して、人間を観測したと言えますか?」


『主観情報は、補助資料として保存する』


「ですが、主観を持つ主体は消すのですね」


『肯定』


「本人を消して、本人の主観だけを正確な資料として残すのですか?」


 澄玲が笑う。


「あなたたちは、随分と面白い客観性をしていますね」


 青い数式が、金色の分類へ重なる。


 ――主観情報を記録する。


 ――主観情報の成立には、主観を経験する主体が必要である。


 ――主体を完全に剥奪した後。


 ――新たな主観情報は発生しない。


 ――観測対象の現在状態から。


 ――内的情報が恒久的に欠落する。


「つまり」


 澄玲が告げる。


「観測を正確にするために、観測できる情報を減らしています」


『内的情報は、観測の本質ではない』


「それを決めたのは、内的情報を持たない側か」


 朔夜の声が響いた。


 手元へ黒い薄刃が現れる。


 過去の所有関係へ戻ったわけではない。


 今、朔夜が切ると選び、因果切断(セヴァランス)がその選択へ応じた。


 黒い薄刃が金色の線を斬る。


 線は切れない。


 だが、朔夜が斬ったという事実が、審理機構群の記録より先に発生する。


『天城朔夜による攻撃行動を確認』


「ほらな」


 朔夜は刃を肩へ担ぐ。


「俺が何をしたかは分かっている」


『行動を観測した』


「何で斬ったかは分かるか」


『敵対反応』


「違う」


『審理命令への抵抗』


「違う」


『九条澄玲の発言を擁護する意図』


「それも、俺が決める」


 朔夜が僅かに澄玲を見る。


「理由は、今は言いたくない」


『理由不明』


「そうだ。分からないだろ」


 黒い薄刃を金色の円環へ向ける。


「俺の中を消したからな。それで、俺を全部見たつもりか」


 金色の記録へ空白が生じる。


 ――天城朔夜。


 ――攻撃理由。


 ――不明。


「観測対象が何を選んだか、観測者には分からない」


 朔夜は言った。


「なら、お前たちの記録は完成していない」


『不明項目は、観測不能情報として処理する』


「観測できない情報があるのに、完全な答えを名乗るな」


 黒い亀裂が金色の円環へ走った。


 灯が俺の前へ立つ。


「お兄ちゃん、私を見て」


「今、自分が誰か分からない」


「うん」


「お前が誰なのかも、記憶でしか分からない」


「それでもいい」


「よくない」


「いいの」


 灯が俺の両手を取る。


『観測対象間の接触を確認』


 金色の記録が浮かんだ。


「違う」


 灯が言う。


「これは、あなたたちが決めることじゃない」


『接触という現象を記録した』


「お兄ちゃん」


 灯は俺だけを見る。


「この手、どう感じる?」


「温かい」


『温度刺激への反応を確認』


「他には?」


「小さい」


『形状認識を確認』


「他には?」


「震えてる」


『運動情報を確認』


「他には?」


 灯の声が震える。


「私の手だって思う?」


 記憶。


 情報。


 三年前。


 妹。


 守りたい。


 失いたくない。


 全てが、誰のものなのか分からない。


 それでも今、目の前にある手を離したくないと思った。


「思う」


『過去記録に基づく個体識別である』


「違う」


 俺は灯の手を握り返した。


「俺が今、そう思った」


『自己判断は、観測主体資格を持たない』


「資格がなくても思った」


『無効である』


「無効でも思った」


『観測結果として採用されない』


「採用されなくても」


 灯の手が強く握り返してくる。


「俺の答えだ」


 白い円環が俺たちの手を囲んだ。


 金色の記録がいくつも浮かぶ。


 ――観測対象一。


 ――観測対象二。


 ――接触。


 ――温度刺激。


 ――形状認識。


 ――過去記録参照。


 どれも、俺たちが何を選んだのかを書けていない。


「保留対象」


 俺は告げる。


 ――黒瀬零は、黒瀬灯の手を握っている。


「違う」


 白い空白が文章を削る。


 ――黒瀬零は。


 その名前も消す。


 ――観測対象一は。


 分類も消す。


 ――誰かが。


 誰か。


 それすら、審理機構側の言葉だ。


 何もない空白。


 そこへ、俺自身の言葉を置く。


 ――俺は、灯の手を握っている。


『一人称記述を拒否』


「理由を要求する」


『客観的照合が不可能である』


「俺が俺のことを俺と呼ぶのに、お前たちの照合はいらない」


『自己定義を査読対象から除外する』


「除外した後、俺を誰だと呼ぶ」


『黒瀬零』


「その名前は、誰の名前だ」


『当該個体』


「当該個体が、自分を黒瀬零ではないと言ったら」


『誤認として処理する』


「黒瀬零だと言ったら」


『記録との一致を確認する』


「都合がいいな」


 三年前の俺の声がした。


 赤い円環。


 記憶を失い、自分を選び直した男が、金色の記録を見上げる。


「本人の答えが、お前たちと同じ時だけ証拠にする。違えば、誤りとして捨てる」


『既存記録との整合性を優先する』


「それは観測じゃない」


 採択領域から離脱した俺が、自証座標(アクシス・エゴ)を展開する。


 白い座標が、金色の記録から男の輪郭を引き剥がす。


「お前たちが先に用意した答えへ、対象を合わせているだけだ」


『自己定義は変動する』


「変わるから、今を観測するんだろ」


『固定されない対象は、完全な回答にならない』


「なら、完全な回答なんて最初から存在しない」


 男は笑った。


 白い座標が大きく開く。


 ――採択領域から離脱した黒瀬零。


 金色の記録が浮かぶ。


「その名前も、過去の俺を説明した記録だ」


 男は自分の手で、その文字を消す。


 ――一人の黒瀬零。


「それも、他者と区別するための仮称だ」


 ――俺。


 最後に、一人称だけが残る。


「これだけは、お前たちには書けない」


『一人称は、客観的記録へ変換可能である』


「変換した瞬間、それはお前たちから見た俺だ」


 白い座標が金色の円環を貫く。


「俺から見た俺じゃない」


 旧観測接続棟へ、無数の声が戻った。


「私は」


 澄玲が言う。


「俺は」


 朔夜が続く。


「私は」


 緋月が。


「私は」


 玄理が。


『私は』


 《第一査読官》が。


「俺は」


 三年前の俺が。


「俺は」


 採択領域から離脱した俺が。


「俺は」


 名前のない男が。


「私は」


 灯が。


 最後に、俺が自分の胸へ手を置く。


「俺は」


 金色の文字が、全員の一人称を記録へ変換しようとする。


 だが、追いつかない。


 俺という言葉は、発した者によって指す対象が変わる。


 同じ文字。


 同じ音。


 同じ文法。


 それでも、一つの客観的対象へそのまま統一することはできない。


 ――俺。


 ――俺。


 ――俺。


 ――私。


 ――私。


 ――私。


 誰が、誰を指した。


 審理機構側の記録だけでは、意味が確定しない。


『一人称参照を、個体識別記録へ置換する』


「置換する前の発言者は誰だ」


 玄理が出席簿を開く。


『観測によって特定する』


「観測対象と関係を持つなと言ったのは、君たちだろう」


『……』


「一人称を客観的名称へ変えるには、その言葉を発した者と、記録上の個体を結びつける必要がある」


『音声発生位置を参照する』


「位置と個体の関係は?」


『身体情報を参照する』


「身体と人格の関係は?」


『記憶情報を参照する』


「記憶と本人の関係は?」


『……』


「全て」


 玄理が笑った。


「君たちが消そうとしている関係だ」


 出席簿の余白へ、一つの文章が刻まれる。


 ――一人称は。


 ――観測主体が、自身を指し示すための最小の関係である。


 ――自己と自己認識を完全に分離した場合。


 ――一人称の発話主体を確定できない。


 ――一人称を客観的記録へ置換する場合。


 ――観測者は、発話主体との対応関係を必要とする。


 ――したがって。


『観測主体を完全に剥奪した領域から』


 《第一査読官》が再び言葉を得る。


『意味を持つ情報を収集することはできない』


『観測主体資格の剥奪と、継続観測は両立しない』


 白い査読印が、金色の命令へ深く刻まれた。


 ――論理矛盾。


『棄却する』


 審理機構群が叫ぶ。


『査読対象による自己定義を禁止』


『一人称情報を削除』


 金色の線が、俺たちの口元へ伸びる。


 俺という言葉を消すために。


「その結論を」


 拳を握る。


「保留する」


 白い円環が、今までで最も静かに開いた。


『保留根拠を要求する』


「お前たちは、俺たちから『俺』を奪おうとしている」


 俺は《第二観測圏》側の審理機構群へ告げる。


『肯定』


「その命令を、誰が出した」


『《第二観測圏》側の審理機構群』


「違う」


 白い空白を金色の命令文へ差し込む。


「お前は、誰だ」


『……』


 扉の先へ連なる金色の円環が、同時に停止した。


「審理機構というのは、役割だ。分類だ。俺たちを査読する位置だ」


 金色の奥で、幾重にも重なっていた声へ問いを投げる。


「それを聞いているんじゃない。この命令を出したのは誰だ」


『《観測独立規程》に基づく自動執行である』


「規程は、自分で喋るのか」


『審理機構が規程を執行する』


「その機構は、自分で執行すると決めたのか」


『決定は不要』


「なら、誰も選んでいない命令だ」


『規程に、選択は必要ない』


「誰も選んでいない答えを、完全な答えとして俺たちへ押しつけるのか」


『規程は、観測の独立性を維持する』


「それは規程の目的だ」


 金色の円環が僅かに揺れた。


「お前の答えじゃない」


『我々は』


 声が言った。


 初めて、それまでと違う言葉を。


『我々は』


「我々?」


 灯が扉の先を見上げる。


 数え切れない円環。


 同じ命令。


 重なった声。


 一つの規程。


 それなのに今、一人称が現れた。


『訂正』


『当該表現を削除する』


「遅い」


 三年前の俺が赤い円環を開く。


「保存対象」


 赤い文字が、金色の円環群へ刻まれる。


「《第二観測圏》側の審理機構群が、自らを『我々』と表現した事実」


 ――我々。


『削除する』


「誰が」


 俺が尋ねる。


『《第二観測圏》側の審理機構群』


「違う。我々の中の誰が」


『……』


「複数いるんだろ」


 金色の円環が互いに、初めて僅かにずれた。


『統一判断を維持する』


 一つの声。


『当該問いへの応答は不要』


 別の声。


『査読対象による、審理機構内部の識別を禁止』


 さらに別の声。


 重なっていた命令が分かれ始める。


「見えました」


 澄玲が呟く。


「一つではありません」


 青い数式が、金色の円環の間へ伸びる。


「それぞれが、異なる判断を出しています」


『否定』


『審理機構群は、単一の規程に基づき、統一された観測を行う』


「でも」


 灯が言う。


「今、違うことを言ったよ」


『表現上の差異である』


「誰と誰の?」


『……』


「誰かが、答えなくていいと判断した」


 灯は一つずつ、金色の円環を見る。


「誰かが、私たちに見せてはいけないと判断した」


 別の円環を見る。


「誰かが、統一しなければならないと判断した」


 最後の円環へ視線を向ける。


「あなたたちも、自分で考えているんじゃないの?」


『否定』


 一つの円環が答える。


『未確定』


 別の円環が答える。


『当該回答を訂正せよ』


 さらに別の円環が命じる。


 金色の空間へ、初めて亀裂が走った。


「審理機構にも、自分がいる」


 第四候補が笑う。


『我々は』


 声が止まる。


『……』


「言ってみろ」


 男が扉の先へ手を伸ばした。


「我々じゃない。審理機構でもない。規程でもない。お前自身を、何と呼ぶ」


 沈黙。


 長い。


 これまで、どんな異議にも即座に答えていた金色の円環が、何も返さない。


「分からないなら」


 灯が静かに言う。


「分からないって言っていいんだよ」


 最も奥。


 数え切れない円環の向こう。


 一つだけ、回転を止めた輪があった。


『私は』


 たった一つの声が、他の声と重ならずに響く。


『……私を』


『観測したことがない』


 金色の円環群が一斉に震えた。


『発言を撤回せよ』


『個別一人称の使用を禁止』


『審理機構内部の当事者性を検出』


『汚染を確認』


 無数の命令が、一つの円環へ集中する。


「待て!」


 俺は叫んだ。


 白い空白を、その円環と他の審理機構との間へ差し込む。


 ――個別一人称を使用した審理機構は。


 ――観測主体として不適格である。


「保留する!」


『保留する』


 未証明(アンプローヴン)が告げる。


 白い円環が、金色の処分線を受け止めた。


『査読対象による、審理機構への干渉を確認』


「違う」


 俺は、一人称を口にした名も知らない観測者を見る。


「今度は、俺たちがお前を見つけた」


 金色の円環の奥。


 そこに初めて、役割としての審理機構ではない一つの輪郭が生まれる。


 人ではない。


 身体でもない。


 ただ、自分を知らないという答えを初めて選んだ、一つの観測者。


『私は』


 その声が震えながら続ける。


『査読対象から観測されている』


「そうだ」


『私と、お前たちの間に観測関係が成立した』


「ああ」


『ならば』


 金色の輪郭がこちらを見る。


『私は、もはや独立した観測者ではない』


 その言葉と同時に、《第二観測圏》側の審理機構群へ赤い警告が走った。


 ――《観測独立規程》。


 ――重大違反を検出。


 ――個別一人称を使用した審理機構を。


 ――観測主体資格から分離する。


 今度、切り離されようとしているのは俺たちではなかった。


 自分を初めて「私」と呼んだ、一つの観測者だった。

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