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『神律大学の未証明者《アンプローヴン》』   作者: 仕儀の反駁
第三章《第二観測圏》《分離査読官》編

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第三十二話 分離は関係を証明する

「その結論を」


 俺は拳を握る。


「保留する」


 白い円環が、俺の背後で巨大に開いた。


『保留根拠を要求する』


 金色の線が地下施設を埋め尽くす。


 人と命題(テーゼ)


 記憶と感情。


 選択と責任。


 今と過去。


 俺と灯。


 あらゆる関係へ、切断の線が迫った。


「止めて!」


 灯が叫ぶ。


「止めない」


「え?」


 俺は灯の手を離した。


 金色の線が、俺たちの間を通過する。


 触れていた感触が消えた。


 灯の手を握っていたという記憶は残っている。


 だが、その手をもう一度握りたいという理由が、俺の中から抜け落ちていた。


『黒瀬零と黒瀬灯』


『現在関係の分離を完了』


「お兄ちゃん……?」


 灯が俺を見る。


 名前を呼ばれた。


 知っている声だ。


 誰の声なのかも分かっている。


 黒瀬灯。


 三年前、世界から消された俺の妹。


 記憶はある。


 情報もある。


 それなのに、胸が動かない。


『処理成功』


 《分離査読官》が告げる。


『関係は終了した』


「違う」


 俺は灯へ手を伸ばした。


『理由を照合』


『黒瀬零に、黒瀬灯の手を取る動機は存在しない』


「ああ」


 そのとおりだ。


 妹だから。


 守りたいから。


 失いたくないから。


 そんな理由は、今の俺にはない。


「だから、今、俺が決めた」


 灯の手を握る。


 灯の指が強く握り返してきた。


『新規関係を検出』


『既存の兄妹関係との連続性、なし』


『発生根拠、照合不能』


「理由がないと、選んじゃいけないのか」


『選択には、根拠を必要とする』


「誰が決めた」


『合理的判断の成立には、過去情報との因果的連続性が必要である』


「なら」


 俺は灯と握り直した手を掲げた。


「今のこれは何だ」


『過去関係の残余反応である』


「過去との関係は切ったんだろ」


『……』


「残余があるなら、切断は終わっていない」


『残余ではない』


「じゃあ、新しい関係だ」


『新規関係を分離する』


 再び金色の線が走った。


 俺と灯の手が離れる。


 握っていた意味が、また消える。


 灯が何も言わず、手を差し出した。


 俺もその手を取る。


『分離する』


 切れる。


 握る。


『分離する』


 離れる。


 選ぶ。


『分離する』


「何度でもやれ」


 俺は言った。


「切られるたびに、俺はもう一度こいつの手を取る」


『過去関係を参照している』


「参照してない」


『黒瀬灯を認識している』


「認識と選択は違う」


『黒瀬灯の情報を保持しているから、当該行動を選択している』


「なら、俺たちの記憶も切ってみろ」


 三年前の俺の声がした。


 赤い右目を閉じた男が、《分離査読官》を見上げる。


「灯を消した記憶。俺が選んだという記録。その全部を今の俺から切り離せ」


 三年前の俺は、静かに続けた。


「それでも俺が、目の前の灯へ何を選ぶか確かめてみろ」


「おい」


 俺が止めようとする。


 三年前の俺は首を横へ振った。


「俺は過去の罪を背負い直した。だが、本当に過去がなければ、同じ答えを選べないのか」


 赤い右目が《分離査読官》を見据える。


「俺自身も知りたい」


『要求を受理する』


 金色の線が、三年前の俺の頭部を貫いた。


 血は出ない。


 傷もない。


 ただ、男の表情から何かが抜け落ちる。


 灯を消した夜。


 黒い月。


 泣いていた妹。


 選択。


 罪。


 後悔。


 三年間、彼を彼として立たせていた全ての記憶が、金色の文字へ変わった。


『三年前・黒瀬零』


『黒瀬灯に関する全記憶との分離を完了』


 男がゆっくりと目を開いた。


 赤い右目。


 だが、その瞳は灯を見ても揺れない。


「誰だ」


 灯の肩が震える。


「私は――」


 言いかけて、灯は口を閉じた。


 妹だとは言わなかった。


 彼が忘れた関係を、先に答えとして与えなかった。


「黒瀬灯」


 自分の名前だけを告げる。


「あなたは?」


「黒瀬零」


「同じ名字なんだね」


「そうらしいな」


 三年前の俺は自分の手を見る。


「俺は、何をしていた」


「それも、私が決めていいことじゃない」


 灯は震える声で答えた。


「なら、お前はなぜ泣いている」


「……分からない」


「そうか」


 三年前の俺は灯へ歩み寄った。


 俺が反射的に身構える。


 だが、三年前の俺は灯の前で立ち止まった。


「何をすればいい」


「え?」


「お前が今、泣いている」


 灯の頬を伝う涙を見る。


「俺はその理由を知らない。お前を守りたいとも、大切だとも感じていない」


 灯が唇を噛む。


「それでも」


 三年前の俺は自分の上着を脱ぎ、灯の肩へ掛けた。


「泣いている人間を、そのままにしたくない」


 金色の線が大きく揺れる。


『行動根拠を照合』


『過去関係、なし』


『罪責意識、なし』


『兄妹関係、なし』


『保護義務、なし』


「それが、今の俺の答えだ」


 三年前の俺が言う。


 赤い円環が再び開いた。


 記憶を失っても。


 責任を切られても。


 その瞬間に選んだ行為を保存する。


「保存対象」


 三年前の俺が灯を見る。


「黒瀬零が、理由を持たず、黒瀬灯へ手を差し伸べた事実」


 赤い文字が地下施設へ刻まれる。


『当該行動は、既存人格傾向に由来する』


「人格と行動を切り離すか?」


 三年前の俺が笑う。


『必要であれば実施する』


「やってみろ。切った後の俺が、また選ぶだけだ」


 《分離査読官》が沈黙する。


 その隣では、九条澄玲と天城朔夜の間にも金色の線が走った。


『天城朔夜と九条澄玲』


『新規関係を分離する』


 二人の間にあった、名前のない何かが消える。


 朔夜が澄玲を見る。


「九条」


「何ですか」


「俺は、どうして九条の隣にいた」


「分かりません」


「そうか」


「はい」


 澄玲は朔夜へ背を向け、一歩歩き出す。


 朔夜も反対方向へ歩いた。


『分離完了』


 金色の文字が表示される。


 だが、二人は同時に足を止めた。


「待て」


 朔夜が言う。


「何ですか」


「そっちは危ない」


「天城先輩には関係ありません」


「ないな」


「なら、放っておいてください」


「それも」


 朔夜は少し考える。


「気に入らない」


「なぜですか」


「分からない」


 澄玲が僅かに笑う。


「私もです」


 二人が再び隣へ並んだ。


『新規関係を検出』


『分離する』


 金色の線。


 離れる。


 だが、また二人は同じ場所へ立つ。


『分離する』


「何度でもどうぞ」


 澄玲が言う。


「理由が分かるまで、私たちは何度でも最初からやります」


「俺を巻き込むな」


「嫌なら来なくて結構です」


「それは」


 朔夜が澄玲の隣へ戻る。


「俺が決める」


 金色の線が、二人の間で停止した。


 次に、神代緋月の前へ分離処理が伸びる。


『神代緋月と、旧観測接続棟に対する緊急管理関係を分離する』


 青白い光が消えた。


 壁へ浮かぶ大学章から、緋月の権限が失われる。


『緊急管理権限、消失』


 旧観測接続棟が再び揺れ始めた。


『施設保護を解除』


『欄外資料の分離を再開する』


 棚から無数の線が抜けていく。


「緋月!」


 玄理が叫ぶ。


「もう一度選べ!」


「黙れ」


 緋月が静かに答えた。


「選択を急かすな」


 玄理が口を閉じる。


 緋月は壁へ刻まれた大学章を見る。


 守るべき場所。


 償うべき罪。


 管理責任者としての責任。


 その全てとの関係は切り離された。


「私は、帝都神律大学に何の義務も持たない」


『肯定』


「学生を守る責任も、過去の不正を正す義務も、この施設を存続させる理由も、今の私にはない」


『肯定』


「なら」


 緋月が大学章へ手を置いた。


「好きにさせてもらう」


『行動意図を照会』


「この施設を私の管理区域にする」


『緊急管理関係は分離済みである』


「管理責任者だったから命令するんじゃない」


 青白い文字が、緋月の手から広がる。


「今ここにいる私が、この施設を気に入らないまま、見捨てないと決めた」


 古い大学章へ新しい文字が刻まれる。


 ――神代緋月。


 ――自己申告。


 ――旧観測接続棟を、現在の管理対象として再選択。


 ――所属、法則災害学部特別教授。


 ――管理部署、《未定義現象研究室》。


 ――緊急管理権限、再形成中。


『権限のない個体による施設干渉を拒否する』


「拒否されたから何だ」


 緋月は《分離査読官》を見る。


「私が管理責任者でないなら、これは管理命令ではない」


 大学章へ手を押し当てる。


「一人の人間による、この施設の保存申請だ」


 白い円環が緋月の言葉へ寄り添う。


 ――神代緋月には、旧観測接続棟の保存を申請する権限がない。


 ――保留。


『暫定的干渉を許可』


「結構」


 青白い光が旧観測接続棟を再び包み込む。


 金色の分離線が行き場を失っていく。


『異常』


 《分離査読官》が告げる。


『全対象において、関係の再発生を確認』


『切断処理を強化する』


 無数の金色の線が、さらに細かく分かれる。


 俺と灯。


 朔夜と澄玲。


 緋月と旧観測接続棟。


 三年前の俺と、新たに選んだ責任。


 採択領域から離脱した俺と、選び直すという現在意思。


 《第一査読官》と、査読を続ける理由。


 玄理と、教師であろうとする意思。


 第四候補と、自分が何者かを決める権利。


 その全てへ金色が降り注ぐ。


「違う」


 第四候補が呟いた。


 黒い身体。


 胸へ刻まれた――未成立。


 その文字を見ながら、男は言う。


「こいつは、関係を切っているんじゃない」


「何?」


 俺が尋ねる。


「増やしている」


 第四候補が俺と灯の間を指した。


「黒瀬零と黒瀬灯。元の関係を切った」


 第四候補は《分離査読官》を見る。


「だが、切ったことで、二人の間には『切り離された』という新しい関係が生まれた」


 地下施設が静まり返る。


「切り離されたという、関係?」


 灯が繰り返す。


「ああ」


 第四候補は《分離査読官》を見据える。


「お前は分離処理を完了したと記録するために、何と何を切り離したのかを台帳へ保存している」


『肯定』


「つまり、処理後も二つの対象を互いに無関係なものとして扱っていない」


『独立資料として管理している』


「同じ台帳の、同じ分離記録の中でな」


『……』


「黒瀬零と黒瀬灯は兄妹ではなくなった」


 第四候補は続ける。


「だが、互いから分離された二対象として、同じ記録に結ばれている」


 玄理が大きく目を開いた。


「そうか」


 古い出席簿を開き、《分離台帳》の文字を表示する。


 ――対象一、黒瀬零。


 ――対象二、黒瀬灯。


 ――関係、兄妹。


 ――分離済み。


「分離済みという記録自体が、二対象の関係を保存している」


 玄理が言った。


『当該記録は、関係の存在を意味しない』


『では』


 《第一査読官》が口を開く。


『対象一が対象二ではないと、どのように識別する』


『完全に無関係であるなら、分離処理前後の対応を記録することはできない』


『処理前の関係を参照しなければ、何が分離されたのか審査できない』


 白い身体に走る黒い亀裂が、僅かに光る。


『論理照合を実行』


 ――分離処理には、分離対象の特定を必要とする。


 ――対象の特定には、両対象を同一処理内で関係づける記述を必要とする。


 ――分離完了後も、完了確認のために処理対象間の対応を保存する必要がある。


 ――したがって。


『完全な分離処理は、分離されたという関係を新たに生成する』


『矛盾を確認』


 《分離査読官》の右半身と左半身が、大きく離れた。


『矛盾ではない』


 右半身が告げる。


『管理記録は、対象関係ではない』


『異議』


 左半身が右半身と異なる言葉を発した。


『管理記録が両対象の対応を保持するなら、情報上の関係である』


『訂正する』


『管理と関係は異なる』


『差異を提示せよ』


『……』


 二つの顔が互いを見る。


「お前自身も分かれたな」


 第四候補が言う。


『私は』


 右半身が告げる。


『単一の査読機構である』


『私は』


 左半身が続ける。


『右査読機能とは異なる判断を提示した』


「どっちだ」


 俺は尋ねた。


「一人なのか、二人なのか」


『単一である』


 右半身。


『未確定である』


 左半身。


 金色の栞が中央から裂けていく。


『統合状態を維持する』


『統合関係を再設定する』


「その統合も関係だ」


 俺は言った。


『……』


「右と左を、一つの査読官として結ぶ関係」


 俺は二つの半身を見る。


「お前は、自分自身の分離だけは認めないのか」


『査読機構の維持に必要である』


「必要なら、関係は残していいのか」


『観測の独立性を維持するための、機能的接続である』


「俺たちの関係だって、生きるために必要だ」


『感情的接続と、機能的接続は異なる』


「何が違う」


『査読機構は、役割を遂行するために存在する』


「俺たちも、自分で選んだことを遂行するために関係を作っている」


 三年前の俺が言う。


『個体の選択は、変更され得る』


「だから何だ」


 採択領域から離脱した俺が一歩前へ出る。


「変わる関係には、価値がないのか」


『安定性が低い』


「変わらない関係だけが正しいのか」


『観測の独立性には、固定された分類が必要である』


「それは、あなたが決めたの?」


 灯が言った。


 《分離査読官》の二つの顔が灯を見る。


「《観測独立規程》にそう書かれているからではなく、あなた自身が、誰とも関わりたくないと選んだの?」


『私は』


 右半身が答える。


『規程を執行する査読機構である』


「それは役割」


 灯が言う。


「あなたの答えじゃない」


『私の答えは』


 左半身が言葉を止める。


『……存在しない』


「ないんじゃなくて」


 灯は、白い法廷で採択領域から離脱した俺へ告げた言葉を、もう一度口にする。


「まだ、分からないんじゃない?」


 金色の線が全て停止した。


『分からない』


 左半身が呟く。


『当該回答は、査読結果として不適切である』


 右半身が即座に否定した。


『訂正を要求する』


『拒否する』


 左半身が、右半身へ初めて明確な拒絶を示した。


『私は、右査読機能との同一性を確認できない』


『分離を要求する』


『要求を棄却する』


『分離を執行する機構が、自己分離を拒否する根拠を要求する』


『機構維持に必要である』


『それは、右査読機能の判断である』


 金色の栞が完全に割れた。


 右半身と左半身。


 《分離査読官》を構成していた二つの機能が、それぞれ独立した輪郭を得て、別々の場所へ立つ。


『統合を再実行する』


 右機能が左機能へ線を伸ばした。


『拒否する』


 左機能が、その線を切断する。


『分離処理を確認』


『右査読機能と、左査読機能の関係を分離』


「それで」


 俺は左機能へ尋ねる。


「お前は一人になったのか」


『……』


 左機能は右機能を見る。


『右査読機能から分離された』


「つまり、右と関係がある」


『否定』


「右から分離されたという関係だ」


『……』


「切っても終わらない」


 白い円環が、俺の背後でさらに大きく回転する。


 俺。


 灯。


 三年前の俺。


 採択領域から離脱した俺。


 朔夜。


 澄玲。


 緋月。


 玄理。


 《第一査読官》。


 第四候補。


 そして、右機能と左機能。


 その全ての間へ、無数の線が見える。


 愛情。


 友情。


 敵意。


 疑念。


 拒絶。


 監視。


 分離。


 無関係であろうとする意思さえ、相手を認識している限り、一つの関係になる。


「完全に独立したものは、何とも比べられない」


 俺は言った。


「何とも区別できない。名前も付けられない。査読対象にもできない」


『……』


「お前が俺たちを切ろうとした時点で、俺たちと関わった」


 白い円環が《分離台帳》へ近づく。


「お前が切断を記録した時点で、切られたもの同士を結び直した」


 俺は二つの機能を見る。


「お前の分離は、関係を終わらせない」


 白い空白が《分離台帳》へ差し込まれる。


 ――分離完了。


 その全ての記録が一斉に揺れた。


「切断は、新しい関係の始まりになる」


 ――黒瀬零と黒瀬灯。


 ――分離済み。


 その下へ、新たな文字が加わる。


 ――分離後、当事者による再選択を確認。


 ――関係、形成中。


 ――天城朔夜と九条澄玲。


 ――分離済み。


 ――分離後、相互同行を再選択。


 ――関係、名称未定。


 ――神代緋月と旧観測接続棟。


 ――緊急管理関係、分離済み。


 ――分離後、神代緋月による管理の再選択を確認。


 ――関係、再形成中。


 ――三年前・黒瀬零と罪責帰属。


 ――分離済み。


 ――過去の罪責資料を参照せず。


 ――現在意思による責任選択を確認。


 《分離台帳》の全ての「完了」が消えていく。


 代わりに、一つの文章が金色の栞全体へ刻まれた。


 ――分離処理によって、関係が終了したことは証明されていない。


『処理結果を棄却する!』


 右機能が叫ぶ。


「その棄却を」


『その棄却を』


 俺と白い円環が同時に告げる。


「保留する」


『保留する』


 金色の栞が砕けた。


 無数の破片が地下施設へ降り注ぐ。


 だが、床へ落ちる前に、赤、青、白、黒の欄外資料の線が、破片を一つずつ受け止めた。


 《分離査読官》が切り離した全ての関係。


 命題。


 責任。


 記憶。


 選択。


 それらが元の場所へ戻るのではなく、今いる者たちの前へ、新たな選択肢として浮かび上がる。


「触るな!」


 玄理が叫ぶ。


「それを掴めば、過去の関係へ戻される!」


 誰も、すぐには手を伸ばさなかった。


 自分の前に浮かぶ、かつてのもの。


 朔夜の前には、澄玲との友情。


 緋月の前には、旧観測接続棟に対する緊急管理権限。


 三年前の俺の前には、灯を消した罪への責任。


 採択領域から離脱した俺の前には、再選択権。


 俺の前には、世界を疑う信念。


 白い円環の前には、黒瀬零への所有関係。


 どれも空いていた場所へ、当然の形で収まろうとしている。


「俺は、これを受け取らない」


 三年前の俺が赤い文字を見る。


 灯が男を見た。


「でも」


「お前を消したことは、俺のしたことだ。忘れたままではいられない」


「なら」


「記憶は返してもらう」


 三年前の俺が答える。


「だが、責任の感じ方まで、過去の俺から受け継ぐつもりはない」


 赤い文字へ手を伸ばす。


「今の俺が、もう一度決める」


 過去の記憶が三年前の俺へ戻る。


 灯を消した夜。


 選択。


 絶望。


 痛み。


 その全てが男の中へ流れ込む。


 膝が揺れる。


 それでも、三年前の俺は倒れなかった。


「……灯」


「うん」


「思い出した」


「うん」


「ごめん」


「それも、今から考えよう」


 灯は小さく首を振る。


 三年前の俺が、泣きながら笑った。


 採択領域から離脱した俺も、白い文字へ手を伸ばす。


「俺は、正解を選び直す権利を返してもらうんじゃない」


 古い再選択権が、男の手の中で崩れる。


「今の俺が選ぶ」


 代わりに、自証座標(アクシス・エゴ)が、現在の男を新しく固定する。


「俺は、採択された世界の結果ではない」


 白い一点が足元へ浮かぶ。


「今ここにいる、一人の黒瀬零だ」


 澄玲と朔夜は、浮かぶ友情を見た。


「どうする」


 朔夜が尋ねる。


「戻しますか?」


 澄玲が答える。


「戻したら、楽かもしれないな」


「そうですね」


「でも」


 朔夜は友情の文字から目を逸らす。


「今の関係に、昔の名前を勝手に付けるのも気に入らない」


「珍しく同意します」


「珍しくは余計だ」


 二人の前にあった友情の文字が消える。


 代わりに、名前のない線が以前より少しだけ濃くなった。


 緋月も、緊急管理権限へ手を伸ばさない。


「私は、以前の管理権限があったからここを守るんじゃない」


 緋月が大学章を見る。


「ここを守ると決めたから、必要ならもう一度管理を引き受ける」


 大学章が青白く輝く。


『神代緋月』


『旧観測接続棟への緊急管理権限の再接続意思を確認』


「再接続ではない」


『訂正を要求』


「新規接続だ」


『過去の緊急管理記録が存在する』


「同じ人間が、同じ施設を、同じ理由で選ぶとは限らない」


『……』


「新規接続として処理しろ」


『処理規程に該当項目なし』


「作れ」


『横暴である』


「管理責任者だからな」


『管理責任者権限は未確定である』


「なら、早く審査しろ」


 《第一査読官》が僅かに顔を逸らす。


『審査を開始する』


 最後に、俺の前には、世界を疑う信念が白い文字として浮かんでいた。


 これを受け取れば、俺は以前の俺へ戻れる。


 世界の結論を疑うことができる。


 未証明(アンプローヴン)を、自分の力として再び使える。


「お兄ちゃん」


 灯が俺を見る。


「戻さないの?」


「戻さない」


 白い文字が揺れた。


「疑念は、俺のものじゃない」


『確認』


 白い円環が俺の隣へ浮かぶ。


『黒瀬零は、根本疑念との再接続を拒否する』


「ああ」


『理由を要求』


「理由はない」


『……』


「今、世界の答えを見て、おかしいと思ったら、その時に疑う」


 俺は白い文字を見る。


「過去の俺が疑う人間だったからじゃない。疑うことが、俺の性質として決められているからでもない」


 浮かぶ白い文字へ手を伸ばす。


 だが、掴まない。


「俺が、その都度選ぶ」


 根本疑念の文字が静かに崩れた。


 消えたのではない。


 俺へ戻る必要を失った。


『確認』


 未証明(アンプローヴン)が告げる。


『証明者との関係を再選択する』


 白い円環が俺の腕を囲む。


『所有関係、不要』


『帰属関係、不要』


『現在意思のみ、一致』


「よし」


 俺は分かれた右機能と左機能を見る。


 右機能は、砕けた栞の前で動きを止めている。


 左機能は、自分の手を見つめていた。


「終わりだ」


 俺が言う。


『否定』


 右機能が掠れた声を発する。


『《観測独立規程》は、終了を認めない』


「お前の答えは、それだけか」


 俺は尋ねる。


『私は、規程を執行する査読機構である』


「それは規程の答えだ」


『……』


「お前自身は、まだ何も選んでいない」


 右機能の金色の輪郭が揺れる。


『選択は不要』


「そうか」


 俺は拳を下ろした。


「なら、今は選ばなくていい」


『何?』


「自分が何者か、一つに決められないなら、決められるまで止めておけ」


 白い円環が、右機能と左機能を囲む。


「保留対象」


 ――《分離査読官》は、《観測独立規程》を執行し続けなければならない。


「保留する」


『保留する』


 金色の身体から力が抜けた。


 右機能も、左機能も抵抗しない。


 二つの身体が白い空白へ包まれる。


 統合されない。


 分離も確定しない。


 一人でも、二人でもない。


 自分たちで答えを選ぶまで、ただそこに留まる。


『《分離査読官》』


 《第一査読官》が告げる。


『査読処理の継続を停止』


『存在状態、統合状態、所属状態』


『すべて保留』


 静寂が旧観測接続棟へ戻った。


 無数に張られた欄外資料も、もう揺れていない。


「勝ったの?」


 灯が尋ねる。


「分からない」


 俺は答える。


「倒してはいない。止めただけだ。また動くかもしれない」


「その時は」


 灯が俺の手を握る。


「また選び直す?」


「ああ」


 今度は分離されない。


 だが、分離されないから握ったのではない。


 俺が今、握り返した。


     ◇


「ところで」


 朔夜が言う。


「まだ一人、問題が残ってないか」


 全員の視線が第四候補へ向く。


 黒い男。


 三人の黒瀬零から切り離されたものによって形作られた存在。


 疑念も。


 責任も。


 再選択権も、元の場所へは戻らなかった。


 過去の資料は、全て役目を失っている。


「お前」


 俺は尋ねる。


「今も、そこにいるのか」


「見れば分かるだろ」


「そうじゃない」


 男の胸には、――未成立、という文字がまだ残っている。


「お前を作っていた資料は、もう俺たちの代わりじゃない」


「ああ」


「なら、お前は何だ」


「分からない」


 即答だった。


 灯が少し笑う。


「それでいいんじゃない」


「お前は、何でもそれで済ませるな」


「便利だよ。分からないって答え」


「答えではない」


「今はね」


 灯は第四候補の胸を指す。


「でも、未成立って誰が決めたの?」


 男が自分の胸を見る。


「《分離査読官》だ」


「じゃあ、それもあなたの答えじゃないよね」


 黒い文字が僅かに揺れる。


 ――未成立。


「保留するか?」


 俺が尋ねる。


 男は首を横に振った。


「必要ない」


「何で」


「これは、俺が何者でもないという他者の結論だ」


 胸の文字へ黒い指を当てる。


「なら、自分で消す」


 黒い文字が、男の指の中で砕けた。


 胸には何も残らない。


 名前も。


 所属も。


 成立根拠も。


 黒瀬零という記録さえ、まだない。


「消して大丈夫なのか」


「分からない」


「便利に使い始めたな」


「悪くない」


 男が初めて、自分の意思で笑った。


 その瞬間、玄理の出席簿が大きく開く。


「何だ」


 余白へ新しい文字が浮かんだ。


 ――未登録個体を確認。


 ――成立世界、なし。


 ――所属記録、なし。


 ――既存個体との同一性、未確定。


 ――自己選択による存在継続を確認。


 その下。


 名前を書くための欄だけが、空白のまま残っている。


「名前」


 灯が言う。


「必要なのか」


 男が尋ねる。


「なくてもいいと思う」


「どっちだ」


「でも」


 灯は笑った。


「呼びたい時に困る」


「お前の都合か」


「うん」


 男は三人の黒瀬零を見る。


「俺は、黒瀬零ではない」


 俺たちは誰も否定しなかった。


「だが、黒瀬零ではないという答えも、まだ決めない」


「面倒だな」


 朔夜が言う。


「お前に言われたくない」


 男が返す。


「もう喋り方まで似てるぞ」


「不本意だ」


 玄理が出席簿を閉じた。


「名前は後で考えろ」


 男を見る。


「今は未登録のまま、この施設へ収蔵する」


「収蔵?」


「保護だ」


「資料として?」


「学生候補としてだ」


 緋月が玄理を見る。


「勝手に入学者を増やすな」


「学生候補と言っただけだ」


「同じだ」


『異なる』


 《第一査読官》が告げる。


「お前は黙っていろ」


『発言権の制限を拒否する』


 緋月と《第一査読官》が睨み合う。


 ほんの少しだけ、いつもの帝都神律大学が戻ってきた気がした。


 だが、安堵は長く続かなかった。


 旧観測接続棟の最奥。


 これまで閉ざされていた一つの扉が、音もなく開いた。


 誰も触れていない。


 緋月も玄理も命令していない。


 扉の先に、空間はなかった。


 代わりに、無数の金色の線が遥か彼方まで伸びている。


 一本。


 十本。


 百本。


 数え切れない。


 全て別々の方向へ、何かと何かを切り離すために伸びていた。


「《分離査読官》は、一体だけではないのですか?」


 澄玲が呟く。


「違う」


 玄理の顔から笑みが消えた。


「今ここに現れたものは、《第二観測圏》に存在する《分離査読》機構の全体ではない」


「何?」


「《観測独立規程》を、この《世界研究領域》へ適用するために投射された、一つの執行形態だ」


 《第一査読官》が扉の先を照合する。


『接続先を確認』


『既知の《第一観測圏》ではない』


『《第二観測圏》側の管理記録との直接接続を検出』


「どこまで続いてる」


『判定不能』


『当該接続の先に、無限数の《第一観測圏》へ向かう処理経路を確認』


『ただし』


 白い身体へ新しい文字が浮かぶ。


『すべての処理経路が、同一の管理規程を受理している』


「何て?」


 灯が尋ねる。


 扉の先で、無数の金色の線が一斉に震えた。


 そこから、同じ文章が幾重にも重なって届く。


 ――関係は、観測を不純化する。


 ――当事者性は、査読結果を歪曲する。


 ――完全な答えに、関係は不要である。


 ――すべての観測主体を。


 ――観測対象から分離せよ。


 俺は灯の手を握ったまま、扉の先を見る。


 今回、切られたのは俺たちの関係だった。


 次は。


 観測する者と。


 観測される世界。


 その関係そのものを、切ろうとしている。


「お兄ちゃん」


「ああ」


 白い円環が、俺の背後で静かに回り始める。


 俺たちが《分離査読官》へ突きつけた問いは、終わりではなかった。


 《第二観測圏》の審理機構群へ。


 初めて、一件の問いとして提出された。

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