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『神律大学の未証明者《アンプローヴン》』   作者: 仕儀の反駁
第三章《第二観測圏》《分離査読官》編

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第三十一話 命題は証明者を選ぶ

「俺は、どの世界にも採択されなかった黒瀬零の――」


 白い円環が、その男の頭上へ降りる。


「未提出だ」


 誰も言葉を返せなかった。


 俺と同じ顔。


 俺と同じ声。


 だが、その瞳には俺の記憶がない。


 三年前の俺が背負っている罪も、採択領域から離脱した俺が手にした成功も、灯と過ごした時間も、何一つ映っていなかった。


「未提出……?」


 灯が呟く。


 黒い男は、自分の胸へ刻まれた文字に触れた。


 ――未成立。


「《未提出領域》から来たわけではない」


 玄理が、俺たちより先に告げる。


「こいつは、《分離査読官》が三人の黒瀬零から切り離したものだ」


 世界を疑う信念。


 選択の責任を背負う意思。


 採択された答えを選び直す権利。


 本来なら、それぞれの黒瀬零と結びつき、その人生の中でしか意味を持たなかったもの。


 それらだけが、一つの場所へ集められている。


「どうして」


 俺は黒い男を見る。


「俺の姿をしてる」


「分からないのか」


 男が答えた。


「俺を作ったものが、全てお前たちから生まれたからだ」


 黒い指が、三年前の俺を指す。


「こいつから、罪を自分のものとして背負う責任を」


 次に、採択領域から離脱した俺を指した。


「こいつから、一度決めた正解を自分で選び直す権利を」


 最後に、俺を見る。


「そしてお前から、世界の答えを疑う信念を」


 黒い男の胸で、三つの文字が重なった。


 ――疑念。


 ――責任。


 ――再選択。


「俺は、黒瀬零を黒瀬零たらしめていた、根の部分だけでできている」


「違う」


 三年前の俺が言った。


「何が」


「責任は、切り離して取り出せる部品じゃない」


 赤い右目が黒い男を睨む。


「俺が灯を消した。その記憶があるから、俺は背負っている」


 三年前の俺が拳を握る。


「行為も記憶もないお前に、俺の責任は背負えない」


 黒い男は僅かに笑った。


「だが、今のお前には、責任を背負いたいという感情がない」


 三年前の俺の顔が強張る。


 《分離査読官》によって、罪と責任の関係を切られた。


 灯を消したことは覚えている。


 何をしたのかも理解している。


 だが、その罪を自分が背負うべきだという根本的な感覚だけが、今の彼にはない。


「なら、責任を持っているのは、お前と俺のどちらだ」


「どちらでもない」


 玄理が答えた。


「何?」


「お前が保持しているのは、責任ではない」


 玄理が古い出席簿を開く。


 黒い男の胸から、金色の文字が浮かび上がった。


 ――三年前・黒瀬零。


 ――罪責帰属。


 ――分離済み。


 ――一時保管資料。


「《分離査読官》が、責任と呼んでいるだけだ」


 玄理は表示された記録を見る。


「名前を付けられ、分類され、元の人間から切り離された時点で、それは既に生きた責任ではない」


 黒い男の表情が、初めて揺れた。


「俺は、資料だと言うのか」


「現時点ではな」


「では」


 男は頭上の白い円環を見る。


「なぜ、未証明(アンプローヴン)は俺を所有者候補に選んだ」


 玄理が答えるより早く、白い円環が回転した。


『候補として検出した』


「所有者としてではない?」


『未確定』


 人間ではない声が、地下施設へ響く。


 俺の命題(テーゼ)だったものが、俺たちへ自分の言葉で答えている。


『当該個体は、黒瀬零から分離された複数の根本要素を保持する』


『黒瀬零との同一性、未確定』


『黒瀬零との非同一性、未確定』


『証明者候補として保留する』


「また、答えを決めてない」


 灯が白い円環を見上げる。


「あれは、そういう命題(テーゼ)だ」


 俺が言う。


『訂正』


 白い円環が告げた。


『現時点において、命題(テーゼ)であることも保留中である』


「扱いづらいな」


 朔夜が呟く。


「天城先輩に似たのではありませんか」


 澄玲が答える。


「俺はここまで面倒じゃない」


「自覚がないのですね」


『対話を中断する』


 《分離査読官》の声が、地下施設を切り裂いた。


『未成立資料の不正な自己定義を確認』


『第四候補を、独立資料として登録する』


 金色の線が黒い男の周囲を囲む。


 頭。


 腕。


 胸。


 足。


 その輪郭を、一つの人間として測定していく。


『名称、黒瀬零』


『分類、分離残余統合体』


『成立根拠、三個体から分離された根本要素の集積』


『既存三個体に代わる、統合所有者として――』


「拒否する」


 黒い男が言った。


 金色の線が止まる。


『拒否権を確認できない』


「今、俺が拒否した」


『当該発話は、分離資料の反応であり、個体意思ではない』


「なら」


 黒い男は《分離査読官》を見上げる。


「個体意思と、分離資料の反応を、どう区別した」


『……』


「俺を独立資料として登録するなら、俺の発言も独立した意思として扱え」


『意思能力を、未成立資料から分離する』


 金色の線が男の額へ伸びる。


「避けろ!」


 俺が叫ぶ。


 だが、黒い男は動かなかった。


「何してる!」


「俺には、避ける理由がない」


 金色の線が男の額へ触れる。


『個体と、選択意思を分離する』


 黒い男の瞳から、僅かな光が失われた。


「おい!」


 俺は金色の壁を殴る。


「聞こえるか!」


 男は動かない。


 《分離査読官》が、処理結果を表示する。


 ――第四候補。


 ――選択意思、分離済み。


 ――自律行動、停止。


 ――統合所有者への転用を開始。


「やめろ!」


『第四候補は、三個体の矛盾する要素を単一資料として保持している』


『不要な記憶、不要な関係、不要な感情を持たない』


未証明(アンプローヴン)の最適所有者である』


「最適?」


 灯が震える声で言う。


「何も持ってないから?」


『肯定』


命題(テーゼ)運用に必要な根本要素のみを保持する、純粋な機能個体である』


「人間を」


 玄理が低く呟く。


「能力を動かすための機能へ変えるつもりか」


『人間である必要性を確認できない』


命題(テーゼ)の安定運用には、矛盾の少ない所有者が望ましい』


「それを、こいつが望んだのか」


 俺は言う。


『意思は分離済みである』


「その前に拒否した」


『拒否は、資料反応として処理した』


「都合がいいな」


 三年前の俺が金色の壁へ近づく。


「意思が必要な時は独立した個体として扱う。不都合な答えを出したら、資料の反応として棄却する」


『処理上の矛盾を認めない』


「認めるかどうかを、お前が決めるな」


 採択領域から離脱した俺が、自証座標(アクシス・エゴ)を開く。


「固定対象」


 白い文字が、黒い男の直前へ展開された。


「第四候補が、《分離査読官》による処理の前に、自らの登録を拒否した現在」


『当該現在は、第四候補に帰属しない』


「なら」


 採択領域から離脱した俺が睨む。


「誰が拒否した」


『分離資料による反応』


「どの資料だ」


『……』


「疑念か。責任か。再選択権か。三つのどれが、お前への拒否を発した」


 《分離査読官》の左右の顔が、僅かに異なる方向へ揺れる。


『複合反応である』


「三つが同じ答えを選んだのか」


『選択ではない』


「なら、なぜ同じ言葉になった」


 採択領域から離脱した俺が、白い座標を固定する。


「三つの資料が同時に『俺を所有者にするな』と反応した。その結果、第四候補は一つの声で拒否した」


 白い文字が第四候補を囲む。


「それを個体意思ではないと、お前は証明できていない」


 ――第四候補は、自らの登録を拒否した。


 その一瞬が、白い座標として固定された。


『固定を解除する』


 金色の線が、座標を切り離そうとする。


「解除されたという結論を、保留する」


 俺は言った。


 白い円環が俺の声へ応える。


 ――第四候補の拒否は、個体意思ではない。


 ――保留。


 金色の線が空中で停止した。


『所有者第一候補による、命題(テーゼ)への不正接続を検出』


「所有者じゃない」


 俺は答える。


『訂正を要求』


「今の俺は、こいつを所有していない」


 白い円環を見る。


「こいつも、俺のものだとまだ決めていない」


『ならば、発動権限は存在しない』


「発動させてない」


 俺は《分離査読官》を見る。


「俺が疑った。こいつが、その結論を保留する価値があると選んだ」


 俺と白い円環。


 使用者と能力ではない。


 命令する者と、従う道具でもない。


 俺が疑い、未証明(アンプローヴン)が、その疑念を保留する価値があると選んだ。


 それだけの関係。


「玄理」


 俺は尋ねる。


「これなら、分離できるか」


 玄理が僅かに笑った。


「所有関係ではない。命題(テーゼ)と個体の関係でもない。一方が命令し、一方が従う関係でもない」


 玄理は俺と白い円環を見比べる。


「なら、《分離台帳》へ登録するには新しい分類が必要になる」


『暫定分類、契約関係』


「違う」


 俺が否定する。


『相互利用関係』


『違う』


 白い円環も否定した。


『主従関係』


「違う」


『共生関係』


『未確定』


「勝手に決めるな」


 俺と白い円環の声が重なった。


 灯が小さく笑う。


「似てる」


「誰と誰が」


「零と、未証明(アンプローヴン)


『比較を保留する』


「そこまで似なくていい」


 金色の線が、俺と円環の間を何度も行き来する。


『分類不能』


『関係定義不能』


『分離対象として登録不能』


「今だ!」


 玄理が叫ぶ。


「関係が分類されていない間に、第四候補の意思を取り戻せ!」


「どうやって」


「お前たちが切り離されたものを、自分のものとして選び直せ」


 三年前の俺が黒い男を見る。


 責任。


 自分から失われたもの。


 だが、今の黒い男から取り返せばいいわけではない。


 そこにあるものは、《分離査読官》が責任として分類した資料にすぎない。


「俺は、灯を消した」


 三年前の俺が言う。


 赤い右目が静かに開く。


「今の俺には、それを背負うべきだという感覚がない」


 三年前の俺は自分の胸へ手を置く。


「だが、感覚がないから、背負わなくていいとは思わない」


 赤い光が胸元へ集まる。


「過去の俺が責任を感じていたからでもない。誰かに償えと言われたからでもない」


 三年前の俺が、灯を見る。


「今、俺が、自分のしたことから逃げないと決める」


 黒い男の胸から赤い文字が抜ける。


 ――罪責帰属。


 だが、そのまま三年前の俺へ戻ることはない。


 古い文字が途中で砕ける。


 代わりに、新しい文字が生まれた。


 ――現在意思。


 ――自らの選択を、自ら引き受ける。


 三年前の俺の右目が、再び赤く輝く。


「保存対象」


 赤い円環が展開される。


「俺が今、逃げないと選んだ事実」


 その瞬間が世界へ保存された。


 次に、採択領域から離脱した俺が前へ出る。


「俺は、灯のいない世界で成功した。その世界を正解として生きていた」


 白い座標が足元へ広がる。


「今でも、そこで得たものを全て間違いだったとは思わない」


 採択領域から離脱した俺は、成功世界の消えた場所を見る。


「だからこそ、一度選んだ答えを、もう選び直せないという結論を拒む」


 白い点が現在座標へ集まる。


「過去の正解を否定するためじゃない。今の俺が、もう一度選ぶために」


 黒い男の胸から、二つ目の文字が抜けた。


 ――再選択権。


 だが、それも採択領域から離脱した俺へ戻らない。


 文字は砕け、新しい形へ変わる。


 ――現在意思。


 ――成立した答えを、再び選択の対象とする。


自証座標(アクシス・エゴ)


 採択領域から離脱した俺が、自分の胸へ手を当てる。


「固定対象。俺は過去の正解に従っているのではない。今ここで選び直している」


 最後に、俺が黒い男を見る。


 世界を疑う信念。


 俺の根本。


 未証明(アンプローヴン)を生んだもの。


 それが黒い男の中にある。


「返せ」


 言いかけて、止めた。


 違う。


 あれは、俺から奪われた所有物ではない。


 疑うことは、誰かが持つ部品ではない。


「俺は」


 灯を見る。


 三年前、世界中が灯はいなかったと証明した。


 写真も。


 戸籍も。


 記憶も。


 全てが、俺の方が間違っていると告げた。


 それでも俺は疑った。


「今も、世界の答えを正しいとは思っていない」


 白い円環が俺の前へ降りる。


「だけど、昔から疑ってきたから疑うんじゃない」


 俺は灯を見る。


「今、灯がここにいる。それを見て、自分で世界の答えを疑う」


 黒い男の胸から、三つ目の文字が抜ける。


 ――根本疑念。


 白い文字が俺へ近づく。


 だが、胸へ入る直前に止まった。


 俺はその文字を掴まない。


「俺のものじゃない」


 手を下ろす。


「俺が今、疑っている。それで十分だ」


 古い文字が砕けた。


 代わりに、何も刻まれない。


 空白だけが、俺と白い円環の間へ残る。


『確認』


 未証明(アンプローヴン)が告げる。


『黒瀬零は、疑念の所有を要求しない』


「ああ」


『黒瀬零は、命題(テーゼ)の所有を要求しない』


「ああ」


『では、何を要求する』


「何も」


 俺は答えた。


「俺が疑う。お前が、その疑いを保留する価値があると思うなら、一緒に来い」


 白い円環を見る。


「違うと思うなら、お前が選べ」


 白い円環が静かに回る。


 長い沈黙。


 世界の記録にも、大学の規程にも、《分離台帳》にも答えはない。


『選択する』


 円環が俺の頭上へ戻った。


『所有者、選択しない』


 《分離査読官》の金色の栞が震える。


命題(テーゼ)に、所有者は必要である』


『当該結論を』


 白い円環が告げる。


『保留する』


「じゃあ」


 灯が尋ねる。


「零は、何になるの?」


 白い円環が俺を観測した。


『所有者ではない』


『使用者ではない』


『支配者ではない』


 白い文字が俺の胸元へ浮かぶ。


『証明者として選択する』


 ――黒瀬零。


 ――未証明(アンプローヴン)の証明者。


 ――所有関係、なし。


 ――強制関係、なし。


 ――継続条件。


 ――双方の現在意思。


 俺は白い円環へ手を伸ばす。


「よろしく」


『返答形式を検索』


「普通に返せばいい」


『……よろしく』


「本当に似てきたな」


 朔夜が言う。


「黙れ」


『黙秘を要求』


「お前まで言うな」


 その瞬間、金色の壁が崩れた。


『矛盾』


 《分離査読官》が叫ぶ。


命題(テーゼ)は、個体へ帰属しなければならない』


『帰属しない命題(テーゼ)は、存在根拠を持たない』


「だったら」


 俺は白い円環を開く。


「存在根拠がないという結論を、保留する」


『保留権限を、個体から分離する』


 金色の線が、俺と円環の間を切った。


 白い光が途絶える。


 だが次の瞬間、俺はもう一度言う。


「その分離を疑う」


『当該疑念を保留する』


 円環が応える。


 新しい関係が生まれる。


『再分離する』


「疑う」


『保留する』


『再分離』


「疑う」


『保留』


 金色の線が走るたび、俺と未証明(アンプローヴン)の関係は切れる。


 そして、切れた次の瞬間に、俺が疑い、円環が選ぶ。


 同じ関係を復元しているのではない。


 その都度、新しく作り直している。


『分離処理、完了不能』


 《分離査読官》の左右の顔へ、罅が走った。


「関係は、一度切れば終わる資料ではない」


 玄理が言う。


「人間が選び続ける限り、何度でも生まれる」


『選択行為と、個体を分離する』


「今の俺から、今の選択を切ったな」


『肯定』


「なら」


 俺は一歩前へ出る。


「次の俺が、もう一度選ぶ」


 白い円環が、俺の足元へ展開された。


未証明(アンプローヴン)


『確認』


「保留対象」


 金色の栞。


 その中心へ無数に刻まれた、分離完了の記録を指す。


「《分離査読官》は、俺たちから全ての関係を切り離した」


『処理は完了している』


「本当に?」


 朔夜と澄玲の間には、名前のない関係がある。


 緋月と大学の間には、現在の意思で結ばれた関係がある。


 俺と灯は、今、互いを兄妹として選んでいる。


 三年前の俺は、自分の行為から逃げないと決めた。


 採択領域から離脱した俺は、正解を選び直した。


 そして俺と未証明(アンプローヴン)は、所有ではない関係を今も作り続けている。


「何一つ終わってない」


 白い空白が、金色の栞へ差し込まれる。


 ――全分離処理、完了。


 その結論へ。


「保留する」


 栞に刻まれた無数の文字が止まった。


 ――分離済み。


 ――分離済み。


 ――分離済み。


 その全てが、


 ――処理継続中。


 へと書き換わる。


『処理の遡及変更を禁止する』


「過去を変えてない」


 俺は答えた。


「今、完了していないと言ってるんだ」


 金色の栞が大きく割れる。


 《分離査読官》の右半身と左半身が、互いから離れていく。


『査読機構としての統合を維持できない』


『右査読機能と、左査読機能の関係を――』


「自分まで分離し始めています」


 澄玲が息を呑む。


 玄理が割れた栞を見上げた。


「自らの処理を完了したと定義できなくなった」


 玄理は、離れていく二つの半身を見る。


「右機能と左機能が、一つの《分離査読官》として成立している関係まで、維持できなくなったんだ」


『統合関係を再設定する』


「その関係を、誰が選んだ」


 俺は言った。


『《観測独立規程》により――』


「お前たち自身じゃない」


 白い円環が《分離査読官》を囲む。


「規程に、そう定められているだけだ」


『規程への異議を禁止』


「なら、お前たちは」


 俺は二つの顔を見る。


「右と左の機能として、一つの査読機構でいたいのか」


『質問の意図を照会』


「それとも、別々の存在になりたいのか。お前たち自身が選べ」


『選択は不要である』


「必要かどうかじゃない」


『私は』


 右半身が告げる。


『《観測独立規程》を執行する査読機構である』


『私は』


 左半身が続ける。


『あらゆる関係を分離し、観測の独立性を維持する査読機構である』


「それは、あなたたちの答え?」


 灯が言った。


 二つの顔が灯を見る。


「規程に書いてある役割じゃなくて、あなたたちがそうしたいの?」


『……』


 初めて、《分離査読官》が答えを失った。


 金色の線が全て停止する。


 その隙間から、黒い男がゆっくりと顔を上げた。


 選択意思を分離され、動きを止めていた第四候補。


 分離されたものだけで形作られた男。


「俺は」


 掠れた声が響く。


『第四候補の意思能力は分離済みである』


「それでも」


 男は自分の足で一歩踏み出した。


「俺は、お前たちの代わりにはなりたくない」


 《分離査読官》の栞がさらに割れる。


『選択不能』


「選択できないと、お前が決めるな」


 黒い男は俺たち三人を見る。


「俺には、お前たちの記憶がない」


 灯を見る。


「灯を妹だとも思えない」


 地下施設を見渡す。


「大学を守りたいとも思わない。世界の答えが間違っているとも、まだ思えない」


 灯が黒い男を見つめる。


「それでも」


 男は胸の「未成立」という文字へ手を置いた。


「何も持たない俺を、都合のいい黒瀬零として使おうとするこいつが気に入らない」


 朔夜が僅かに笑う。


「十分じゃないか」


 黒い男が朔夜を見る。


「何が」


「お前が今、初めて自分で選んだ理由だ」


 白い円環が黒い男へ近づく。


『第四候補』


『新規選択を確認』


『黒瀬零から分離された資料との連続性を参照しない』


『独立した現在意思として記録する』


「名前は?」


 灯が尋ねる。


「あなたも、黒瀬零なの?」


 男は答えようとして止まった。


 俺たち三人を見る。


 同じ顔。


 同じ声。


 同じ根から切り離されたもの。


 だが今、初めて自分だけの選択をした。


「分からない」


 男は答えた。


 その言葉に、誰も答えを与えなかった。


 黒瀬零だとも。


 黒瀬零ではないとも。


 決めない。


「なら」


 灯が小さく笑う。


「決まるまで、一緒に考えよう」


 男は灯を見る。


「俺は、お前を知らない」


「うん」


「お前も、俺を知らない」


「今から知ればいいよ」


「なぜ」


「あなたが、そうしたいかもしれないから」


 男は長い間、灯を見つめた。


「分からない」


「それでいい」


 白い円環が、第四候補の胸へ新しい文字を刻む。


 ――未成立。


 その下に、一行だけ加えられる。


 ――自己申告、「まだ分からない」。


 ――採否判定、保留。


 《分離査読官》の二つの身体が、激しく震えた。


『未成立資料による自己選択を認めない』


『すべての新規関係を再分離する』


 金色の栞が最後の力で開かれる。


 地下施設を埋め尽くすほどの、無数の線。


 人と命題(テーゼ)


 人と人。


 人と過去。


 人と選択。


 人と自分。


 あらゆる関係を、もう一度全て切り離すために。


「来るぞ!」


 玄理が叫ぶ。


 俺は白い円環へ手を伸ばした。


未証明(アンプローヴン)


『確認』


「俺が命令するんじゃない」


『確認』


「一緒に止めるぞ」


 円環が俺の腕を囲む。


『現在意思、一致』


 金色の線が俺たちへ迫る。


 俺は一歩踏み出した。


「保留対象」


 世界を埋め尽くす全ての分離線を指す。


「関係は、切り離せばそれで終わる」


 《分離査読官》が初めて掲げた絶対の前提。


 その中心へ、白い空白を差し込む。


「その結論を」


 拳を握る。


「保留する」


 白い円環が、俺の背後で巨大に開いた。

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