第三十話 誰のものでもない命題
『三年前の未処理資料』
『回収を開始する』
階段の奥で、一つの眼鏡が暗闇を反射した。
「未処理資料、か」
年老いた男が、ゆっくりと階段を上ってくる。
灰色の髪。
擦り切れた白衣。
右手には、何も書かれていない古い出席簿を持っていた。
「教授を捕まえるにしては、随分と失礼な呼び方をするようになったな」
『御厨玄理』
『旧《第零学部》観測主任』
『在籍記録、抹消済み』
『存在資格を確認できない』
「それは困った」
御厨玄理は教室の入口で立ち止まり、眼鏡を押し上げた。
「存在しない教員が、講義を始めてしまう」
開かれた出席簿へ一本の線を引く。
「命題――」
何も書かれていなかった紙面へ、無数の文字が浮かび上がった。
「欄外収蔵」
教室中へ伸びていた金色の線が、一斉に紙面の余白へ吸い込まれる。
『干渉を確認』
『《観測独立規程》により、命題と個体を分離する』
《分離査読官》の右手から金色の線が放たれた。
玄理の胸へ真っすぐに。
命題を切り離すために。
「遅い」
玄理が出席簿を閉じた。
金色の線は、胸へ届く直前に行き先を失う。
『対象関係を照合』
『御厨玄理と、欄外収蔵の関係を――』
『確認不能』
「私の命題が、私のものだという記録は、三年前に君たちが消した」
玄理は笑った。
「所有関係のないものを、どう分離する?」
《分離査読官》の左右の顔が、同時に玄理を見る。
『命題発動を確認している』
「発動したから、私のものだとは限らない」
『詭弁である』
「査読とは、詭弁かどうかを根拠と共に判定する仕事だ」
玄理は淡々と答える。
「気に入らない答えを、先に棄却することではない」
金色の栞が開いた。
『抹消処理を再執行する』
「学生諸君、階段を下りろ」
玄理は俺たちへ背を向けたまま言った。
「待て」
緋月が玄理を睨む。
「御厨玄理は、三年前に死んだと記録されている」
「そうだ」
「否定しないのか」
「記録上は、私は死んでいる」
玄理は地下へ続く階段を指した。
「だから、地上には長くいられない」
教室の天井、壁、床。
あらゆる場所へ金色の文字が浮かび上がる。
――抹消済み資料を検出。
――記録との不一致を訂正。
――御厨玄理は三年前に死亡している。
玄理の白衣が、端から透けていく。
「質問は後だ。全員、旧観測接続棟へ入れ」
『移動を禁止する』
《分離査読官》が告げる。
『対象者間の協力関係を分離する』
金色の線が、俺たちの間を走った。
灯と俺。
澄玲と朔夜。
緋月と大学。
三人の黒瀬零。
《第一査読官》と、査読という役割。
今度は個人と能力だけではない。
俺たち全員の間に生まれた、協力するという関係そのものを切ろうとしている。
「触れるな!」
玄理が叫んだ。
「その線は、切断そのものではない!」
金色が俺の肩へ迫る。
三年前の俺が反射的に前へ出て、赤い右目を開いた。
「保存――」
「するな!」
玄理の声に、三年前の俺の動きが止まる。
「何でだ」
「その線を保存すれば、線が正規の処理として確定する」
「なら、どうする」
「避けろ」
「それだけかよ!」
「今はな!」
俺は灯の腕を引いた。
金色の線が俺たちの間を通過し、灯の髪を僅かに掠める。
「お兄ちゃん」
「大丈夫か」
「うん」
返事がある。
俺を兄と呼ぶ。
まだ関係は残っている。
朔夜が澄玲の肩を押した。
「行け!」
「でも、天城先輩が――」
「友達でも何でもないんだろ」
朔夜が金色の線へ背を向ける。
「だったら、俺が残っても困らない」
「それは、天城先輩が決めることではありません」
澄玲が朔夜の服を掴んだ。
「九条にだって、俺を連れていく理由はない」
「ええ。今はありません」
金色の線が二人へ迫る。
「だから、これから作ります」
澄玲が朔夜の腕を引いた。
二人が階段へ飛び込む。
俺たちも続いた。
採択領域から離脱した俺。
三年前の俺。
灯。
緋月。
澄玲。
朔夜。
《第一査読官》。
最後に玄理が、消えかける身体を引きずりながら地下へ降りる。
「閉じろ!」
玄理が出席簿を叩いた。
階段が、教室の床ごと消える。
直後、金色の線が閉じた床を貫いた。
◇
暗い。
だが、何も区別されていない暗さではない。
壁がある。
床がある。
埃がある。
長い間使われていなかった施設の臭いがある。
地下へ続く通路の両側には、巨大な棚が並んでいた。
本はない。
資料もない。
ただ、棚と棚の間へ無数の細い線が張られている。
赤。
青。
白。
黒。
色のないもの。
見ようとすると誰かの声へ変わるもの。
触れようとすると、遠い記憶になるもの。
俺たちが歩くたび、それらが僅かに揺れた。
「ここは……」
緋月が呟く。
「旧観測接続棟」
玄理が答えた。
「《第零学部》が設立されるより前、大学が外部からの観測干渉へ接触を試みていた時代の施設だ」
「《第一観測圏》と?」
「当時は、そんな名前すら知らなかった」
玄理は壁へ手を触れた。
古い大学章が弱く発光する。
「世界の外側から、観測不能な干渉が発生している。それだけしか分からなかった」
棚の間に張られた線が、低く震えた。
「だから、接触したものを理解できなくても保存するために、この棟が造られた」
澄玲が棚の間にある線を見る。
「これは何ですか?」
「欄外資料だ」
「資料?」
「正規の世界記録から除外されたもの。削除された記憶、棄却された仮説、採択されなかった観測結果、存在しないと訂正された人物」
玄理の指が一本の青い線へ触れた。
女の笑い声が、一瞬だけ響く。
「世界は何かを完全に消したつもりでも、消したという差分を残す」
玄理は古い出席簿を見る。
「私の欄外収蔵は、正規の本文に書けなくなったものを欄外へ移す命題だ」
「だから生きていたのか」
緋月が問う。
「違う」
玄理は透けかけた自分の手を見る。
「生きていると採択されているわけではない。死んだという本文から、私という差分が欄外へ追いやられただけだ」
「つまり、幽霊か」
朔夜が言う。
「単位を落とすぞ」
「存在しない教授に?」
「欄外へ成績を残す」
「それは困る」
「話を戻してください」
澄玲が朔夜の頭を軽く叩いた。
「《分離査読官》は、何をしているのですか?」
玄理の表情が変わる。
「先ほども言った。関係を切っているのではない」
玄理は棚の奥へ歩き始めた。
「人間を、査読しやすい資料へ解体している」
通路の両側で、無数の線が揺れる。
「人間は、無数の関係から成立している」
過去の自分と、現在の自分。
選択と責任。
信念と命題。
他者と自己。
記憶と感情。
「それらは独立した部品ではない。互いに意味を与え合うことで、一人の人間を作っている」
『《分離査読官》は、当該関係を分割し、各要素を独立資料として扱っている』
《第一査読官》が続けた。
「そのとおりだ」
玄理が頷く。
「罪から責任を切り離せば、罪を認識していても、自分が償う理由を失う」
玄理は三年前の俺を見る。
「選択から信念を切り離せば、過去の行為を覚えていても、なぜ選んだのか分からなくなる」
次に、俺たちの頭上で回る白い円環を見る。
「命題から個体を切り離せば、能力は残る。だが、誰の生き方から生まれた力なのか分からなくなる」
未証明。
俺の命題だったもの。
今は、誰のものでもない。
「切り離された関係は、どこへ行く」
俺は尋ねた。
「消えるのか」
「消えない」
玄理は即答する。
「切断には、必ず二つ以上の対象が必要だ」
黒瀬零と、未証明。
黒瀬零と、世界を疑う信念。
黒瀬零と、黒瀬灯。
灯の肩が僅かに動いた。
「何かと何かを切り離すには、切り離す直前まで両者の間に関係があったと、処理側が把握していなければならない」
玄理は出席簿を開く。
「そして切り離した後も、どちらとどちらを分離したのか記録し続ける必要がある。そうでなければ、分離処理が完了したことすら確認できない」
出席簿の余白へ、無数の金色の文字が現れた。
――黒瀬零/根本命題。
――分離済み。
――三年前・黒瀬零/罪責帰属。
――分離済み。
――採択領域・黒瀬零/再選択権。
――分離済み。
――天城朔夜/因果切断。
――分離済み。
――天城朔夜/九条澄玲との友人関係。
――分離済み。
――神代緋月/万象校正。
――分離処理、未完了。
「これが、《分離査読官》の記録ですか?」
澄玲が息を呑む。
「その一部だ。《分離台帳》」
玄理は出席簿の余白を指した。
「第二観測段階で処理された関係を、再接続されないよう管理する資料だ」
三年前の俺が文字を見つめる。
「俺と責任の関係も残っている」
「記録としてはな」
「なら、保存すれば戻せる」
赤い右目が開く。
「やめろ」
玄理の声が通路へ鋭く響いた。
三年前の俺が目を細める。
「なぜだ」
「その台帳に書かれている関係は、《分離査読官》が定義したものだ」
玄理は台帳に並ぶ項目を見る。
「お前の罪悪感も、選び直す権利も、朔夜君と澄玲君の関係も、人間が生きた結果ではなく、査読対象として分類された資料になっている」
「そのまま戻せば、どうなる」
「《分離査読官》が『こういう関係だった』と定義した状態で、お前たちへ接続される」
「何が違う」
三年前の俺が問う。
「記憶も行為も残っている。責任だけ戻るなら、元の俺に戻れる」
「本当に、元のお前か?」
玄理が三年前の俺を見る。
「責任を感じるべきだと、他者に定義されたお前ではないと、どう証明する?」
三年前の俺は答えなかった。
「関係は部品ではない」
玄理が言う。
「外れたものを元の位置へ戻せば修復できる。そんな単純なものではない」
「なら、どうすればいいの?」
灯が尋ねる。
「選び直す」
玄理は答えた。
「過去と同じ関係へ戻る必要はない。失ったものを完全に再現する必要もない」
玄理は俺たちを順番に見る。
「今の自分が、今の相手と、もう一度関係を作る。それしかない」
『非効率的である』
《第一査読官》が告げる。
『既存関係の復元を行う方が、情報損失は少ない』
「だから、お前も査読機構なんだ」
玄理が苦笑した。
『指摘の意図を照会』
「人間は、情報損失の少なさで生き方を決めない」
《第一査読官》が沈黙する。
「でも、もう一度関係を作っても、また切り離されます」
澄玲が言う。
「そうだ」
「それでは意味がありません」
「いや」
玄理が出席簿の余白を指す。
「同じ関係は、二度と同じ方法では切れない」
「どういうことですか?」
「《分離査読官》は、既存の関係を個体から独立した資料として定義する」
玄理は《分離台帳》に残された記録を示す。
「過去から連続している関係だからこそ、分類し、切断し、台帳へ保存できる」
「ですが、分離された後の個体が、何の根拠もない状態から新しく選んだ関係は、過去の資料と同一ではない」
「同じ二人の間に生まれてもですか?」
「同じではない」
玄理が頷いた。
「昨日まで友人だったから今日も隣に立つのと、友人だったことを感じられないのに、それでも今、隣に立つと選ぶのは別の関係だ」
澄玲が朔夜を見る。
朔夜も彼女を見た。
「俺は、九条を友達だと思えない」
「分かっています」
「記憶はある」
「分かっています」
「九条と話したことも、戦ったことも、助けられたことも、全部覚えてる」
「はい」
「でも」
朔夜は自分の胸へ手を置いた。
「それが俺にとって大切だったという感覚だけがない」
澄玲の指が僅かに震える。
「そうですか」
「だから」
朔夜は澄玲の隣へ立った。
「もう一度決める」
「何をですか?」
「さっき、九条は俺を置いていかなかった」
朔夜は地下通路の奥を見る。
「友達だからじゃない。今の九条が、今の俺を連れていくと選んだ」
それから澄玲を見る。
「なら俺も、今ここで九条と一緒に行く。それだけだ」
澄玲は何も言わなかった。
ただ、小さく頷いた。
二人の間に細い線が生まれる。
以前の関係を示していた青い線ではない。
色がない。
名前もない。
友人。
仲間。
信頼。
まだ、何と呼ぶのか決まっていない。
それでも、二人の間には確かに何かがある。
『新規関係を検出』
地上から、《分離査読官》の声が響いた。
『天城朔夜と九条澄玲の間に、未登録関係が発生』
『分離処理を――』
「来るぞ!」
玄理が叫ぶ。
天井を貫き、金色の線が落ちてくる。
二人の間に生まれた新しい関係へ、真っすぐに。
「避けろ!」
だが、澄玲は動かなかった。
「九条!」
「避けません」
「切られるぞ!」
「これは、過去から続いている関係ではありません」
金色の線が二人の間へ届く。
『対象関係を照合』
金色が激しく明滅する。
『関係種別、未登録』
『発生根拠、照合不能』
『過去記録との連続性、なし』
『分離対象としての分類を――』
「分類できない」
玄理が言った。
「分類するには、二人の関係が何であるかを、《分離査読官》が先に決めなければならない」
『暫定分類、友人関係』
「違う」
朔夜が即座に答える。
『仲間関係』
「それも違います」
澄玲が否定した。
『相互協力関係』
「今後も協力するとは言ってない」
『感情的依存関係』
「勝手に決めないでください」
二人が同時に言う。
金色の線が行き先を失った。
『分類不能』
『分離処理を保留』
線が二人の間から退く。
玄理が初めて笑った。
「それだ」
名前を付けるな。
答えを決めるな。
今の自分たちにも、《分離査読官》にも分類できない関係を作れ。
「それが、《観測独立規程》への反証になる」
白い円環が、俺たちの上で大きく回転する。
誰のものでもない未証明。
結論を。
分類を。
決定を保留する命題。
今の朔夜と澄玲が作った関係へ、円環の空白が重なる。
――天城朔夜と九条澄玲の関係。
――名称、未定。
――意味、未定。
――継続、未定。
――当事者による選択のみ確認。
金色の線が完全に消えた。
「効いています」
澄玲が言う。
「ああ」
玄理は頷いた。
「だが、時間はない」
地上から巨大な衝撃が響く。
旧観測接続棟全体が揺れた。
『地下施設を確認』
『欄外資料の集積を検出』
『全資料を、個別関係から分離する』
「何をする気だ」
緋月が天井を見る。
「この施設と、収蔵資料の関係を切るつもりだ」
玄理が答える。
「施設に保存されているから資料が残る。なら、保存場所との関係を切ればいい」
「そんなことをすれば、ここにあるものが全部、行き先を失います」
澄玲が棚を見渡す。
「そうだ」
赤。
青。
白。
無数の線が揺れる。
消された人。
棄却された記憶。
正解になれなかった世界。
本文へ戻れず、欄外にだけ残っていたもの。
それら全てが、再び完全な無記録へ落ちようとしている。
「止める方法は」
俺は尋ねた。
「旧観測接続棟を、現在の大学へ再登録する」
「できるのか」
「現行の管理責任者による、施設の再承認が必要だ」
「管理責任者?」
俺たちは一斉に緋月を見た。
「無理だ」
緋月は答える。
「私は大学との関係を切られかけている」
緋月は、自分から離れようとする青白い校正線を見る。
「特別教授としての所属も、《未定義現象研究室》管理責任者としての権限も、万象校正も、既に半分以上は私のものではない」
「なら、権限を取り戻せ」
三年前の俺が言う。
「今の話を聞いていなかったのか」
玄理が睨んだ。
「過去の関係を、そのまま戻すなと言った」
「取り戻すんじゃない」
三年前の俺は緋月を見る。
「今のあんたが、もう一度この大学と、この施設を選べばいい」
緋月が僅かに目を見開く。
「私はこの大学を管理する資格がない」
「資格の話じゃない」
採択領域から離脱した俺が言った。
ついさっき、自分が問われた言葉を、今度は緋月へ向ける。
「あんたは今、この大学と、ここにいる学生を守りたいのか」
緋月は黙った。
大学は、彼女から右目を奪った。
命題を利用した。
三年前、灯を消す判断へ関わった。
数え切れない秘密を隠し、学生たちを観測機構との戦いへ巻き込んだ。
正しい場所ではない。
守る価値があると、簡単に言える大学でもない。
「分からない」
緋月は答えた。
採択領域から離脱した俺が小さく笑う。
「なら、まだ捨てると決めてない」
地下施設がもう一度、大きく揺れた。
天井へ金色の亀裂が走る。
『施設分離率、二十三パーセント』
棚から一本の赤い線が外れた。
幼い男の子の声が一瞬だけ響き、消える。
「急げ!」
玄理が叫んだ。
緋月が左目を閉じる。
失われた右目の奥。
命題との接続を切られた場所へ手を当てた。
「私は、この大学が正しいとは思わない」
青白い文字が、指の隙間から漏れる。
「過去の判断を守るつもりもない。特別教授として、全ての責任を負えるとも思わない」
『施設分離率、三十五パーセント』
「それでも」
緋月は俺たちを見る。
「ここには、まだ自分の答えを選べていない学生がいる。消された記録がある。棄却された人間がいる」
金色の亀裂へ顔を上げる。
「そして、私の管理区域へ、許可なく査読官が侵入している」
青白い光が地下通路を満たした。
「それが気に入らない」
玄理が笑う。
「十分だ」
緋月の前へ新しい文字が現れた。
――神代緋月/帝都神律大学。
――過去の所属関係、参照しない。
――管理責任者権限、継承しない。
――現在意思による緊急管理接続を申請。
「帝都神律大学、法則災害学部特別教授」
緋月が自分の言葉で名乗る。
「《未定義現象研究室》管理責任者、神代緋月」
青白い文字が、緋月の背後へ並ぶ。
「旧観測接続棟を、現在の学内危機対応施設として再登録する」
『権限を照合』
大学の声が地下へ響く。
『神代緋月と、管理責任者職の関係を確認不能』
「だから何だ」
緋月が答える。
「今、私が管理責任者として再登録を命じている」
『循環論法である』
「就任とは、最初の命令を出す前に管理責任者であることを証明しなければならないのか」
『……』
「歴代の管理責任者全員について、就任前から管理責任者だった記録を提示しろ」
『照合不能』
「なら、私だけを拒否する根拠はない」
白い円環が緋月の言葉へ近づく。
――神代緋月は管理責任者ではない。
その結論を保留する。
『緊急暫定権限を発行』
『神代緋月』
『自己申告――《未定義現象研究室》管理責任者』
『採否判定、保留』
灯が小さく笑った。
「私と同じ」
「ああ」
緋月も僅かに笑う。
「それでいい」
青白い光が地下施設の壁へ走った。
古い大学章が、現在の校章へ書き換えられていく。
『旧観測接続棟』
『学内危機対応施設として再登録』
『管理部署、《未定義現象研究室》』
『欄外資料の保護を開始』
『施設分離処理を拒否』
金色の亀裂が止まった。
だが、消えない。
『暫定権限を確認』
《分離査読官》の声が、さらに近くなる。
『権限と個体を、再分離する』
天井が金色の線によって切断された。
瓦礫は落ちない。
上と下。
地上と地下。
その関係だけが失われる。
天井の向こうに教室はない。
帝都神律大学もない。
金色の栞を背負った《分離査読官》だけが、距離を切り離し、地下施設へ直接現れた。
『反証処理を確認』
右半身が告げる。
『新規関係の発生を確認』
左半身が続けた。
『すべて、発生主体から分離する』
金色の線が無数に広がる。
朔夜と澄玲。
緋月と大学。
三年前の俺と、保存しようとする意思。
採択領域から離脱した俺と、今ここに残るという選択。
俺と灯。
俺たち全員の間に、今、新しく生まれたものへ一斉に線が伸びる。
「玄理!」
「分かっている!」
玄理が出席簿を開いた。
「欄外収蔵!」
余白が広がる。
金色の線を、全て収蔵しようとする。
だが、紙面へ大きな亀裂が走った。
「ぐっ……!」
玄理の身体がさらに透ける。
『抹消済み資料による、第二観測段階への干渉を禁止』
「教授!」
灯が玄理の腕を掴もうとする。
手がすり抜けた。
「私は既に欄外だ。気にするな」
「三年前に消えている」
「そういう意味じゃありません!」
玄理は灯を見て、僅かに目を細めた。
「黒瀬灯」
「はい」
「君もまた、現在の世界記録から切り離されている」
俺の呼吸が止まる。
「何を言ってる。灯はここにいる」
「否定はしていない」
玄理は灯の輪郭を見る。
「だが、三年前の処理によって、君は記録だけでなく、他者との関係や、世界における存在座標からも切り離された」
灯が自分の手を見る。
「だから、私が見えている人と、見えていない人がいるんですか?」
「その可能性が高い」
「なら」
俺は玄理へ詰め寄る。
「元に戻せるのか」
「元に戻す」
玄理がその言葉を繰り返す。
「三年前の灯へか。記録上存在していた灯へか。お前の記憶の中にいる灯へか」
玄理は俺を見る。
「それとも、今ここで自分の意思を持って立っている灯へか」
答えられない。
「過去と同一の状態へ復元すれば、それは現在の彼女ではなく、記録が定義した黒瀬灯になる」
玄理は俺ではなく、灯本人を見る。
「君が何者として世界へ戻るのかは、君自身が選ばなければならない」
灯は静かに頷いた。
「分かっています」
「灯」
「大丈夫」
灯が俺を見る。
「前なら、零に証明してほしいって思ってた」
私がいたと。
私が妹だったと。
全部、零に取り戻してほしかった。
「今は違うのか」
「違わない」
灯は答えた。
「取り戻してほしい。一緒に帰りたい。妹だって、また呼ばれたい」
自分の胸へ手を置く。
「でも、それだけが私の答えじゃない」
金色の線が、灯と俺の間へ迫る。
『黒瀬灯と黒瀬零』
『兄妹関係を分離する』
俺は灯の手を握った。
「させるか」
「待って」
灯が俺の手を握り返す。
「兄妹だから、握ってるの?」
金色の線が、すぐそこまで来ている。
「違う」
俺は答えた。
「お前が灯だからだ」
「私が妹じゃなくなっても?」
胸が痛む。
怖い。
世界から灯を取り戻すために、ここまで来た。
灯が妹ではないと選べば、俺の三年間は何だったのか。
俺が覚えていた灯は、誰だったのか。
それでも、灯の答えを俺が先に決めるわけにはいかない。
「それでも、お前が灯である限り、俺はこの手を離さない」
灯が泣きそうな顔で笑った。
「じゃあ、今は妹でいさせて」
「ああ」
「零も、今はお兄ちゃんでいて」
「ああ」
金色の線が俺たちの手へ届く。
『兄妹関係を――』
「違う」
灯が言った。
『訂正を要求』
「これは、三年前から続いている兄妹関係じゃない」
俺も灯の手を強く握る。
「今、俺たちがもう一度選んだ」
『関係種別を照合』
『兄妹』
「それだけじゃない」
『家族』
「それも違う」
『相互依存』
「違う」
『保護対象と保護者』
「勝手に決めるな」
『分類――』
金色の線が激しく揺れる。
白い円環が、俺と灯の手を囲んだ。
――黒瀬零と黒瀬灯。
――関係名称、当事者による暫定申告――兄妹。
――既存記録との連続性、未確定。
――今後の選択、未定。
――外部査読による確定を保留。
『分類不能』
『分離処理を保留』
金色の線が止まった。
だが、《分離査読官》はすぐに別の線を放つ。
『ならば、選択する個体と選択行為を分離する』
「何でもありかよ!」
朔夜が叫ぶ。
『あらゆる関係は分離可能である』
金色の線が俺たち全員へ伸びる。
選ぶ者と選択。
疑う者と疑念。
生きる者と生涯。
人間を、何一つ自分に帰属しない独立した資料へ解体する。
その処理が地下施設全体を満たした。
「無理だ」
玄理が呟く。
「今の欄外収蔵では、全てを止められない」
「方法は」
緋月が問う。
「一つだけある」
玄理は、俺たちの上に浮かぶ白い円環を見た。
「《分離査読官》の処理は、関係を所有する個体を一人ずつ独立資料として扱う」
玄理が白い円環を指す。
「なら、所有者を定められない関係は、分離台帳へ登録できない」
「既に、未証明は所有者を失っています」
澄玲が言う。
「ああ。だから、まだ分離されずに動いている」
「でも」
俺は円環を見る。
「今のこいつは、誰の命題でもない」
「違う」
玄理が言った。
「誰の命題でもないのではない」
白い円環が、三人の黒瀬零の上を回る。
「誰の命題であるか、確定していない」
俺。
三年前の俺。
採択領域から離脱した俺。
「元の所有者は俺だ」
「どのお前だ」
玄理が問う。
「今ここにいる黒瀬零か。灯を消した三年前の黒瀬零か。灯のいない世界で成功を選んだ黒瀬零か」
「全員、黒瀬零だ」
三年前の俺が答える。
「だが、同一人物ではない」
採択領域から離脱した俺が続けた。
「記憶、選択、成立世界、現在座標。全て異なる」
「だからだ」
玄理が言う。
「《分離査読官》は、未証明を、いずれか一人の能力として登録できない」
白い円環が、俺たち三人の間へ降りてくる。
「なら、どうすればいい」
俺は尋ねる。
「選ばせろ」
「誰に」
「命題にだ」
玄理が出席簿を開いた。
最後のページには、白い空白が一つだけ残っている。
「命題は単なる機能ではない。人間の信念と生き方が、世界へ現れたものだ」
玄理は白い円環を見上げる。
「個体から切り離されても、生まれた理由まで完全な無にはならない」
最後の空白へ、白い光が集まる。
「未証明自身に、今、誰の生き方を証明する命題であるかを選ばせる」
『命題に、自己選択権は存在しない』
《第一査読官》が言う。
「その結論を、誰が決めた」
俺は答えた。
白い円環が大きく震える。
――命題は所有される。
――命題は個体に付随する。
――命題は使用者を選択しない。
世界の。
大学の。
観測機構の。
これまで疑われなかった前提。
その全てへ、白い空白が差し込まれる。
――命題は、自らの証明者を選択しない。
その結論が保留された。
『異常』
《分離査読官》の左右が同時に叫ぶ。
『命題の独立判断を認めない』
『命題と判断能力を分離する』
金色の線が白い円環へ伸びる。
だが、円環はその線を避けなかった。
触れた瞬間、金色の処理そのものへ空白を差し込む。
――未証明は、判断能力を持たない。
――保留。
――未証明は、黒瀬零の所有物である。
――保留。
――未証明は、所有者を持たない。
――保留。
――未証明は、命題である。
――保留。
「自分が何なのかまで、保留してる」
灯が円環を見上げる。
「所有される命題である限り、《分離査読官》に切り離される」
玄理が言う。
「なら、命題であるという結論すら、一度止めるしかない」
白い円環が形を変えた。
一つだった輪が、三つに分かれる。
俺の前。
三年前の俺の前。
採択領域から離脱した俺の前。
同じ白。
同じ空白。
だが、それぞれの円環へ異なる文字が現れる。
俺の前には。
――世界が押しつけた結論を疑った者。
三年前の俺の前には。
――自ら選んだ罪から逃れなかった者。
採択領域から離脱した俺の前には。
――正解だった世界を、自ら選び直した者。
三つの円環が、三人の黒瀬零を観測している。
『命題帰属処理を禁止』
《分離査読官》が金色の栞を完全に開いた。
『所有者候補を、個別資料として隔離する』
三人の足元が金色に切り分けられる。
俺たちを、別々の世界へ分離しようとしている。
「零!」
灯が俺へ手を伸ばす。
だが、金色の壁がその間へ立った。
俺。
三年前の俺。
採択領域から離脱した俺。
三人が互いに触れられない。
互いの声だけが、辛うじて届く。
『所有者候補、三名』
『同一命題への複数帰属は、論理矛盾である』
「誰か一人を選ばせるつもりか」
三年前の俺が言う。
『否定』
《分離査読官》の左右の声が、初めて完全に重なった。
『命題帰属の矛盾を根拠として』
『未証明を、不成立命題に指定する』
白い円環へ金色の文字が刻まれる。
――命題成立根拠、矛盾。
――所有者、確定不能。
――個体との関係、分離済み。
――自律判断、規程外。
――処理結果。
――棄却。
白い円環が、一つずつ崩れ始めた。
「やめろ!」
俺は金色の壁を殴る。
届かない。
三年前の俺が赤い目で、円環の崩壊を保存しようとする。
だが、責任との関係を失った能力は、何を守るべきか選べない。
採択領域から離脱した俺が、自証座標を展開する。
だが、命題との関係を持たない現在座標では、円環へ届かない。
白い欠片が地下施設へ降る。
俺の命題。
俺の信念。
俺が三年間、世界の答えへ抗うために使い続けた力。
それが、誰のものでもないという理由で不成立にされようとしている。
「違う」
声がした。
俺でもない。
三年前の俺でもない。
採択領域から離脱した俺でもない。
灯でもない。
玄理でもない。
人間の声ではなかった。
崩れかけた白い円環そのものから、声が響く。
『――当該結論を』
俺たち全員が円環を見る。
白い欠片が空中で止まった。
『保留する』
《分離査読官》の左右の顔が、同時に歪む。
『命題による自己発話を確認』
『規程外』
『否定』
白い円環が再び回り始める。
俺たち三人の誰の前でもない。
誰の上でもない。
三人の間に生まれた、名前のない中心で。
『所有者を選択する』
白い文字が、ゆっくりと展開される。
――候補一。
――現在・黒瀬零。
――候補二。
――三年前・黒瀬零。
――候補三。
――採択領域・黒瀬零。
そして最後に、四つ目の文字が現れた。
――第四候補。
――該当個体、未定。
俺は息を呑む。
「四人目……?」
白い円環は答えない。
ただ、三人の黒瀬零を越え、誰もいないはずの場所へ一筋の光を伸ばした。
その先で、黒い影が立っていた。
三人の誰とも違う。
だが、間違いなく俺と同じ輪郭を持つ男。
右目は赤くない。
白い円環もない。
成功した世界の証明者でもない。
その胸には、一つの文字だけが刻まれている。
――未成立。
男がゆっくりと顔を上げた。
「ようやく」
俺と同じ声で言う。
「俺を候補に入れたな」
《分離査読官》の金色の栞が、初めて完全に停止した。
『識別不能』
『黒瀬零に該当する記録なし』
『成立世界なし』
『過去記録なし』
『存在根拠なし』
黒い影は静かに笑った。
「当然だ」
男は三人の黒瀬零を見る。
「俺は、お前たちが三人の黒瀬零から切り離してきたものだ」
世界を疑う信念。
罪を自分のものとして背負う責任。
一度決めた正解を選び直す権利。
分離された三つの根が、黒い影の胸で一つに重なる。
「俺は、どの世界にも採択されなかった黒瀬零の――」
白い円環が、その男の頭上へ降りた。
「未提出だ」




