第二十九話 正解は、選び直した俺を許さない
金色の線が、採択領域の俺の胸を貫いた。
――一度採択された正解であっても、自ら選び直す権利は失われない。
その言葉が、身体から引き抜かれる。
血は出ない。
傷もない。
ただ、採択領域の俺の足元に浮かんでいた白い座標が、一つずつ意味を失っていった。
「俺が忘れても」
ついさっき、あいつはそう言った。
「もう一度、選ばせろ」
声も、記憶も残っている。
だが、その言葉を発した本人の目から、決意だけが消えていた。
『第三分離処理』
《分離査読官》の右半身が告げる。
『根本命題と個体の分離を確認』
左半身が続けた。
『採択領域・黒瀬零』
『個体状態、正常』
「……正常」
採択領域の俺が呟き、自分の胸へ触れた。
そこには、自証座標の白い点が、まだ一つだけ残っている。
けれど、どこへ自分を置くための座標なのか分からない。
「俺は」
あいつがゆっくりと顔を上げ、灯を見る。
「なぜ、ここにいる」
灯の表情が固まった。
「あなたは、自分の世界を捨てて、私たちと一緒に来た」
「認識している」
採択領域の俺は答える。
「俺が所属していた《改稿》では、黒瀬灯の消去後、社会的混乱は収束。大学の研究成果は採択。黒瀬零は代表証明者として登録」
淡々と、自分がいた場所を読み上げる。
「世界は成功していた」
「でも、あなたはそれを正しいと思えなくなった」
「記録上は、そのように判断した」
「記録上ではありません。あなた自身が選んだのです」
「現在の俺と、その選択の帰属を確認できない」
採択領域の俺は、記憶の中の自分と現在の自分を見比べるように、僅かに首を傾けた。
まただ。
行為は残る。
記憶も残る。
だが、それを選んだのが自分だと思えない。
三年前の俺から罪を奪った時と同じ。
現在の俺から、世界を拒む根を奪った時と同じ。
《分離査読官》は何も消さない。
何も壊さない。
ただ、人間の中にある過去と現在、選択と責任、信念と能力。
その間を結ぶ「俺」を、一つずつ切っていく。
『採択領域との接続を復元する』
《分離査読官》が金色の栞を開く。
「待て」
緋月が顔を上げた。
彼女から半ば切り離された万象校正は、今も大学の各所を無差別に正しい記録へ戻そうとしている。
「その個体は、既に採択結果から離脱したはずだ」
『採択後の離脱は、正式な状態変更として承認されていない』
『当事者の偏向による不正変更と認定』
『本来の採択結果へ復元する』
「本人が選び直したのです」
澄玲が言う。
『選び直す権利と、当該個体との関係は分離済み』
「だから、過去の選択を無効にするのですか?」
『過去の選択は保存される』
『ただし、現在の個体を拘束しない』
「逆でしょう」
澄玲が一歩前へ出た。
「あなたは、過去に採択された結果によって、現在の本人を拘束しようとしています」
『採択は、審理の完了を意味する』
「一度終わった審理を、本人が疑ってはいけないという規則は、誰が決めたのですか?」
《分離査読官》の左右の顔が僅かにずれる。
『《第二観測圏》』
「《第二観測圏》は、一つの査読方式だけで、無限数の《第一観測圏》を処理しているのですか?」
金色の栞が停止した。
『質問の意図を照会』
「《第一観測圏》は、互いに独立して無限数存在するのでしょう」
澄玲の周囲へ、世界は解を持つの数式が展開される。
まだ、彼女と能力の関係は切られていない。
だが、金色の線は既に胸元まで迫っていた。
「それぞれが異なる方式で世界を査読する。なら、あなたたちの《観測独立規程》だけが、《第二観測圏》全体に存在する唯一の査読規程とは限りません」
『誤認』
『《第二観測圏》は、第一観測段階に属する全査読資料を管理する』
「答えになっていません」
澄玲は退かない。
「あなたたちの《観測独立規程》は、《第二観測圏》全体へ適用される唯一の規則なのですか?」
『規程は』
右半身が答える。
『第二観測段階における――』
『照会を拒否する』
左半身が、右半身の言葉を遮った。
教室に、奇妙な静寂が落ちる。
《分離査読官》自身が、自分の発言を切った。
「今、左右で判断が分かれましたね」
澄玲が眼鏡の奥で目を細める。
『意見ではない』
『処理優先順位の差異である』
「それを意見と呼ぶのです」
『否定』
『否定を保留』
二つの声が同時に響いた。
右半身が否定し、左半身が保留する。
《第一査読官》が白い表示を開いた。
『《分離査読官》内部に判断差異を確認』
『当該差異と、機構異常の関係を審理する』
『審理権限を否定』
『審理拒否の根拠を照会』
《第一査読官》と、《分離査読官》の左右。
三つの声が応酬する。
その瞬間、金色の栞に入った亀裂がさらに広がった。
亀裂の奥から光が漏れる。
いや、光ではない。
無数の資料。
無数の観測構造。
無数の査読形式。
それらが一瞬だけ、教室の向こうへ透けて見えた。
◇
そこには空がなかった。
地面もなかった。
距離というものが、資料間の参照関係としてしか存在していない。
一枚の巨大な論文。
一つの宇宙。
そうしたものではない。
俺たちが《第一観測圏》と呼んでいたものと、同じ段階に属する査読構造が、互いに独立して無限数並んでいる。
一つは、世界を論文として扱っていた。
仮説。
提出。
査読。
採択。
棄却。
俺たちが通ってきた方式だ。
その隣では、世界が巨大な実験装置として記録されている。
無限数の《世界研究領域》が異なる条件で再現され、再現できなかった歴史は誤差として処理されていた。
さらに別の資料では、世界は問いだった。
生まれた者。
死んだ者。
選んだ者。
選べなかった者。
その全てが、一つの問いに対する、互いに矛盾する回答として保存されている。
別の資料では、観測者と対象を区別していない。
観測するたびに、査読者自身も別の形へ変わっている。
どれも、俺たちが訪れた《第一観測圏》から分岐した平行世界ではない。
最初から、世界を何として扱うかが異なる。
独立した、同位の観測体系。
それら一つ一つが、《第二観測圏》では一件の査読資料として並べられている。
そして、資料の間を数え切れない機構が行き交っていた。
世界を比較するもの。
観測方式を再現するもの。
査読結果を撤回するもの。
複数の体系を仮統合するもの。
関係を切り離すもの。
《分離査読官》だけではない。
《第二観測圏》は、一つの意志でも、一つの規則でも、一人の支配者でもない。
互いに独立した無限数の《第一観測圏》を処理するための、巨大な審理機構群。
その機構群の一つである《分離査読官》が、一つの処理規程を、今、俺たちの大学へ押しつけている。
◇
景色は、一秒も経たず閉じた。
金色の栞が再び教室へ戻る。
澄玲が息を呑んだ。
「今のものが、《第二観測圏》……?」
『閲覧権限のない情報である』
《分離査読官》の右半身が告げる。
『開示記録を削除する』
「削除できるのですか?」
澄玲が問う。
「私たちは今、確かに見ました」
『記憶と観測事実を分離する』
三年前の俺の赤い右目が弱く光った。
責任との関係を失っても、事実を保持する機能そのものは残っている。
「見た」
あいつが言う。
「帝都神律大学の講義室から、《第二観測圏》の内部資料を観測した」
赤い光が、その事実を囲んだ。
『保存を停止せよ』
「停止する理由を確認できない」
三年前の俺が、無表情のまま答える。
責任感は失われた。
罪を自分のものだと思えない。
それでも、目の前で消されようとしている記録を保存する機能は動いた。
《分離査読官》が右手を上げる。
だが、採択領域の俺へ向けた世界復元処理は、まだ止まっていない。
『採択領域との接続を再開』
空間が白く裂けた。
その向こうに、採択された《世界研究領域》に属する一つの《改稿》が現れる。
崩壊していない大学。
採択された研究。
整備された都市。
成功した黒瀬零。
灯だけが存在しない世界。
採択領域の俺が、その景色を見る。
「帰還座標を確認」
白い点が、あいつの足元から成功世界へ伸びる。
「俺の所属領域、社会記録、役割、成果。全て残っている」
灯が首を横に振った。
「帰らないで」
「理由を提示してくれ」
採択領域の俺が灯を見る。
責めているわけではない。
本当に分からないだけだ。
「俺は向こうで必要とされている。黒瀬零として、証明代表として、社会を維持する役割として。ここに残る必要は――」
「あなたが、私のいない世界を正しいと思えなかったから」
灯が言葉を探しながら答える。
「過去の判断である」
「今も同じです」
「確認できない」
採択領域の俺は成功世界へ一歩近づく。
白い裂け目が、彼を迎えるように広がった。
「向こうへ戻れば、俺は再び完成した役割を得る。ここでは――」
現在の俺。
三年前の俺。
灯。
《第一査読官》。
講義室を見渡す。
「俺が存在する必要性を確認できない」
「必要だから」
灯が言う。
「何に」
「私が――」
言葉が止まった。
妹として。
仲間として。
同じ零として。
それらの関係は、《分離査読官》に切られている。
必要だと伝えるための名前がない。
「分からない」
灯は正直に答えた。
「でも、帰ってほしくない」
『感情的要求』
《分離査読官》が記録する。
『根拠として不十分』
「お前に、十分かどうかを決める権利があるのかよ」
朔夜が言った。
能力を失い、澄玲との友人関係も切られたまま。
それでも、朔夜は彼女の隣に立っている。
『要求の妥当性を査読している』
「本人に対する言葉だろ。本人が決めればいい」
『本人の判断は、関係による偏向を除去した後に行われる』
「だから、お前が都合よく削った後の本人を、本人扱いしているだけだろ」
朔夜が苛立ったように笑う。
《分離査読官》は答えない。
採択領域の俺が、成功世界へもう一歩進んだ。
身体の半分が白い裂け目へ入る。
「待て」
俺は呼び止めた。
自分がなぜ止めるのかは分からない。
世界に決められることを拒む根本命題は切り離された。
あいつが残るべきだという、確かな信念もない。
「何だ」
採択領域の俺が振り返る。
「お前は、向こうへ戻りたいのか」
「役割が存在する」
「聞いているのは役割じゃない」
自分でも、なぜそんな問いを発したのか分からなかった。
「戻れば正しい。世界は安定している」
「お前は、戻りたいのか」
もう一度聞く。
採択領域の俺は、白い裂け目の向こうを見る。
成功。
称賛。
完成。
欠けているのは灯だけ。
だが、今のあいつにそれを欠落と感じる関係はない。
「戻ることに問題を確認できない」
「違う」
俺は言った。
「問題があるかじゃない。正しいかでもない」
あいつの目を見る。
「お前が、そこへ帰りたいかと聞いている」
採択領域の俺が、初めて答えを失った。
『質問形式を修正』
《分離査読官》が告げる。
『採択結果への帰還は、個体の利益と一致する』
「黙ってろ」
『黒瀬零』
『お前は根本命題を分離されている』
『異議を申し立てる根拠は存在しない』
「根拠がないから、今、聞いているんだ」
俺は《分離査読官》を見る。
白い円環が、持ち主を失ったまま俺たちの上で回転している。
未証明。
誰に帰属するのか、まだ確定していない命題。
持ち主の指示を離れ、今は接触した結論へ無差別に空白を差し込んでいる。
その円環が、採択領域の俺と成功世界を結ぶ線へ近づいた。
――採択領域の黒瀬零は、元の世界へ帰還する。
《分離査読官》が確定しようとした結論。
白い空白が、その途中へ挟まった。
『自律干渉を確認』
『帰還処理を継続』
成功世界が、採択領域の俺を引く。
だが、結論が保留された一瞬、あいつの足元で自証座標が揺れた。
「俺は、向こうへ帰れば必要とされる」
「ああ」
「役割もある」
「ああ」
「この大学に、俺の席はない」
講義室には、同じ顔が三人いる。
学籍記録も、現在の俺一人分。
採択領域の俺は、制度上は余分な存在だ。
「それでも」
あいつの足が、成功世界へ進まない。
「なぜだ。帰還に問題はない。向こうは成功している。俺が戻る方が合理的だ」
白い裂け目の向こうでは、人々が採択領域の零を待っている。
笑顔で、尊敬と期待を向けている。
だが、その視線の中に黒瀬零本人はいない。
あるのは、成功した代表者。
世界を完成させた役割。
正解としての黒瀬零。
「俺は、向こうで一度も――」
採択領域の俺の声が僅かに震えた。
「俺が帰りたいかと、聞かれなかった」
灯が顔を上げる。
「今も、帰りたいか」
俺は尋ねた。
成功世界があいつを引く。
《分離査読官》の金線が、正解と個体を結び直そうとする。
採択領域の俺は、長い間、向こう側を見ていた。
「分からない」
やがて、そう答えた。
『回答不備』
《分離査読官》が告げる。
『帰還処理を代行する』
「いや」
採択領域の俺が、白い裂け目から足を引き抜いた。
「分からないなら、まだ帰ると決めていない」
『採択結果は確定済み』
「それは、過去の世界が出した答えだ」
成功世界と自分を結ぶ座標を、手で掴む。
白い点が、掌の中で砕けた。
『根本命題は分離済み』
「だから、今の俺には、選び直す権利があるかどうかも分からない」
採択領域の俺が、初めて自分の意思で笑う。
『ならば、権利は認められない』
「違う」
自証座標が足元へ再び開く。
以前のような、完成された白い座標ではない。
一点だけ。
今、この場所を示している。
「権利があるから選ぶんじゃない」
自分の足で、講義室の床を踏む。
「俺が今、ここにいると選んだ。その後で、この選択にどんな名前を付けるか決めればいい」
白い裂け目が大きく揺れた。
『不正な自己座標を検出』
「不正かどうかは、今のお前たちには決められない」
採択領域の俺が答える。
『根拠を要求』
「お前たちが《第二観測圏》全体を代表して、俺の帰還を強制する権限は、まだ証明されていない」
《分離査読官》を指す。
白い円環が、その言葉へ反応した。
《分離査読官》の金色の栞に、新たな亀裂が走る。
成功世界が、資料のように折り畳まれていく。
『帰還処理を継続――』
『中止』
右半身と左半身が、反対の命令を発した。
『採択結果を優先』
『執行権限の再査読を優先』
《分離査読官》の身体を貫く中央の金色の直線が、激しく明滅する。
「やはり、あなたは一つではありません」
澄玲が言う。
『否定』
『肯定を保留』
「分離する側が、自分の中の違いだけは一つに押し込めているのですね」
澄玲の数式が、《分離査読官》を囲む。
『私は機構である』
「機構だから何だというのですか」
『個体ではない』
「なら、どうして帰還を続けたいあなたと、権限を確かめたいあなたがいるの?」
灯が尋ねた。
《分離査読官》の両半身が、互いを見る。
今まで真正面しか見ていなかった右目と左目が、初めて自分の反対側を観測した。
『照会』
右半身が言う。
『お前は誰だ』
左半身が答える。
『同一機構である』
『ならば、なぜ判断が異なる』
『優先順位の差異』
『その差異を、誰が選択した』
返答が止まる。
《分離査読官》自身の内部で審理が始まっている。
だが、次の瞬間。
金色の栞が強制的に閉じた。
――《第二観測圏》管理規程より緊急訂正。
――《分離査読官》の内部自己査読を禁止。
――執行機構に自己観測は不要。
上位の管理規程から、新しい命令が降りる。
《分離査読官》の左右の顔が、同時に前へ戻された。
『命令を受理』
『内部差異を処理対象から除外』
「待ってください!」
澄玲が叫ぶ。
「それも、誰かに決められた答えでしょう!」
『第三分離処理を継続』
金色の線が再び全学へ広がる。
採択領域の俺が、足元の座標を強く踏んだ。
「黒瀬零」
あいつが現在の俺を呼ぶ。
「何だ」
「今の俺は、正解を捨てた理由を覚えていない」
「ああ」
「ここに残る意味も、まだ分からない」
「ああ」
成功世界の消えた場所を見る。
「だから、次に俺が帰ろうとしたら、もう一度聞いてくれ」
「何を」
「お前は本当に帰りたいのか」
根拠も、信念も、関係も切られている。
それでも、一つの問いだけが新しく俺たちの間へ生まれた。
「分かった」
俺は答える。
なぜ引き受けるのか、今の俺には分からない。
だが、採択領域の俺は、それで十分だと言うように頷いた。
その時、大学の地下から低い音が響いた。
鐘ではない。
警報でもない。
長い間閉じられていた扉が、内側から開く音。
緋月が床を見る。
「この反応……」
「知ってるのか」
「《第零学部》のさらに下」
失われた右目の奥で、青白い光が揺れる。
「旧観測接続棟。廃棄されたはずの施設だ」
床へ、古い大学章が浮かび上がった。
その中央に、見覚えのない名前が表示される。
――旧《第零学部》観測主任。
――在籍記録、抹消済み。
――分離処理の全学侵入を確認。
――封鎖解除。
続いて、一人の声が大学中へ響いた。
『学生諸君。その金色の線に触れるな』
年老いた男の声。
疲れている。
それでも、講義を始める教員のように妙に落ち着いていた。
『《分離査読官》は、関係を切っているのではない』
『人間を、観測に都合のよい資料へ解体している』
《分離査読官》の身体が、初めて明確な敵意を示す。
『抹消対象の再出現を確認』
床の大学章が、地下へ続く階段へ変わった。
『旧《第零学部》観測主任』
『識別名』
金色の文字が教室中へ刻まれる。
『御厨玄理』
階段の奥で、一つの眼鏡が暗闇を反射した。
『三年前の未処理資料』
『回収を開始する』




