第二十七話 その選択をしたのは、もう俺ではない
『命題と』
《分離査読官》の右半身が告げる。
『その所有者を分離する』
左半身が続けた。
金色の線が、俺の胸を通り抜ける。
痛みはなかった。
血も出ない。
身体のどこにも傷は残っていない。
ただ、何かが俺の中から静かに抜け落ちていく。
「お兄ちゃん!」
灯の声が聞こえる。
手も、まだ握っている。
俺が灯を選び直した事実も、記憶には残っていた。
だが、それを選んだのが自分だったという感覚だけがない。
まるで、他人の答案に自分の名前だけが書かれている。
そんな状態だった。
白い円環が、俺の胸元から離れる。
「……待て」
手を伸ばす。
円環は俺の指を避けなかった。
触れることもできた。
けれど、動かせない。
呼びかけても応えない。
「未証明」
名前を呼ぶ。
白い円環が一度だけ揺れた。
発動ではない。
ただ、その名称に該当する現象が、そこに存在していると確認しただけだった。
『分離を確認』
《分離査読官》が記録する。
『黒瀬零』
『個体機能、正常』
『記憶、保持』
『人格構造、保持』
『命題、保持』
「保持してないだろ」
俺は白い円環を睨んだ。
『未証明は消失していない』
『黒瀬零も消失していない』
『両者の所有関係のみを解除した』
「同じことだ」
『異なる』
「俺の命題だ」
『根拠を提示せよ』
「俺の生き方から生まれた」
『過去の発生経路である』
『現在の所有権を保証しない』
「所有権じゃない」
白い円環へ、もう一度手を伸ばす。
「これは――」
言葉が止まった。
何だ。
俺にとって、未証明は。
能力か。
武器か。
世界へ異議を申し立てるための道具か。
違う。
もっと近い。
けれど今は、その近さ自体を感じられない。
『説明不能を確認』
『分離処理は正常』
《分離査読官》が金色の栞を閉じる。
『個体と能力を分けることで、査読対象の独立性を回復する』
「命題は、持ち物ではありません」
澄玲が言った。
『異議を記録』
「その人の信念や生き方が、世界へ現れたものです」
彼女の周囲へ、青白い数式が浮かぶ。
『発生原因と現在の帰属を混同している』
「あなたは人間から信念を取り出して、それでも同じ人間だと言うつもりですか?」
澄玲が眼鏡の奥から睨む。
『信念は記憶として保持される』
「記憶しているだけで、もう信じていないなら」
澄玲の声が僅かに揺れた。
「それは本当に、その人の信念なのですか?」
《分離査読官》は、すぐには答えなかった。
『検証する』
金色の線が澄玲へ向く。
朔夜が反射的に彼女の前へ出た。
「待て」
関係を失っても、朔夜はまた澄玲を庇った。
『天城朔夜』
『九条澄玲との友人関係は分離済み』
『保護理由を提示せよ』
「分からない」
「天城先輩」
「でも」
朔夜は金色の線から目を離さない。
「九条が今、一番危ない場所にいる。だから前に出た」
『行動理由に、過去関係の残留を確認』
「だったら、残留でも何でもいい」
朔夜は笑った。
「俺が今、そうしたんだ」
『再発を確認』
金色の線が朔夜の胸を貫いた。
次の瞬間、彼の身体から黒い薄刃のような光が浮かび上がる。
朔夜の命題。
俺は、その正式な形をまだ知らない。
本人も普段は、他人へ見せようとしなかった。
だが今は、身体から剥がされた皮膚のように、金色の線へ吊り下げられている。
「……何だよ、これ」
朔夜が自分の胸を押さえる。
「俺のだろ」
『所有関係を解除』
『個体、正常』
「正常なわけあるか」
朔夜は澄玲の前に立ったまま、自分が何をしようとしていたのかを思い出すように眉を寄せた。
「俺は、何でこんなものを持っていた」
「天城先輩」
「名前は覚えてる」
朔夜が澄玲を見る。
「九条を庇ったことも覚えている。でも、そのために力を使おうとした俺が、自分じゃないみたいだ」
澄玲が朔夜の袖を掴んだ。
「離さないでください」
「何を」
「私を」
朔夜の目が困惑に沈む。
それでも、袖を掴まれた腕を振り払わなかった。
『非能力状態でも、関係行動の再形成を確認』
《分離査読官》が、金色の栞へ新たな記録を刻む。
『原因』
『命題ではない』
「当たり前だ」
剛毅が低く言った。
「俺たちが力を持つから、誰かを守るんじゃない」
その全身を、大地のような圧力が覆う。
「守ろうとしたから、力が生まれたんだ」
万象は我が礎。
足元の講義室。
机。
壁。
そこに立つ全員。
切断された関係。
行き場を失った命題。
あらゆるものが、剛毅の王土へ組み込まれていく。
『対象、獅堂剛毅』
『命題との同一化率、高』
『優先分離を実行』
「やってみろ」
剛毅が拳を構えた。
「俺から王土を奪えば、俺が王でなくなるとでも思ったか」
『奪取ではない』
金線が剛毅の胸元へ落ちる。
『獅堂剛毅と』
『万象は我が礎を』
『別個の対象へ復元する』
金色の線が大地を切った。
講義室全体を覆っていた王土が、剛毅の足元から離れる。
圧力。
支配領域。
王としての法則。
全てが残っている。
ただ、その中心に獅堂剛毅がいない。
万象は我が礎は、持ち主を失ったまま、講義室の全員を無差別に礎として取り込み始めた。
「ぐっ――!」
床が沈む。
机が潰れる。
窓が外側ではなく、教室中央へ向けて砕けた。
王土は、誰を守り、誰を敵とするか判断できない。
全てを等しく支配対象として扱っている。
「止まれ!」
剛毅が命じる。
王土は応えない。
「俺の命令を聞け!」
『所有関係は解除済み』
《分離査読官》が告げる。
『命題は、本来の機能を正常に継続している』
「これが正常だと?」
『能力に異常はない』
『命令者が存在しないだけである』
天井が軋む。
大学全体が、剛毅の命題によって一つの王土へ変えられようとしていた。
だが、その王国には王がいない。
「万象校正」
緋月が右手を掲げる。
青白い校正線が、暴走する王土へ突き刺さった。
「命題構造と発生主体の対応を再校正する」
『不可能』
《分離査読官》の左半身が答える。
『対応関係そのものが、分離対象である』
緋月の校正線が、王土と剛毅の間を繋ごうとする。
その瞬間、金線が横切った。
校正線だけが緋月の指先から切り離される。
万象校正は残った。
校正という現象も正常に発生している。
しかし、誰の判断を正しい基準として、何を修正するのか分からなくなった。
青白い線が机の傷を直す。
窓の割れを直す。
次に、学生たちの立ち位置を講義開始前の状態へ戻そうとする。
「まずい!」
緋月が叫んだ。
「校正対象が、異常ではなく変化そのものになっている!」
青白い線が灯へ向かう。
現在の大学記録において、黒瀬灯は存在しない。
校正基準から見れば、今ここにいる灯こそが記録との差異。
修正すべき異常になる。
「灯!」
俺は彼女の前へ出た。
白い円環へ手を伸ばす。
「未証明!」
応えない。
円環は俺の背後で静かに回っている。
持ち主を失ったまま、結論だけを探していた。
青白い校正線が灯へ迫る。
三年前の俺が赤い右目を開く。
「黒瀬灯は、ここに立っている」
赤い光が灯の輪郭を囲む。
「今、俺たちに認識されている。その事実を保存する!」
校正線が灯を世界記録から除こうとする。
赤い記録が、存在している事実を繋ぎ止める。
だが、消去と保存が衝突し、灯の輪郭が激しく明滅した。
「お兄ちゃん!」
灯が俺の背中へしがみつく。
俺は能力を使えない。
関係も感じられない。
選択が自分のものかどうかさえ分からない。
それでも、身体だけは灯の前から動かなかった。
『黒瀬零』
《分離査読官》が告げる。
『命題を喪失した個体に、校正現象を防ぐ機能は存在しない』
「知ってる」
『ならば退避せよ』
「断る」
『黒瀬灯との兄妹関係は分離済み』
「それも知ってる」
『保護理由は存在しない』
「だったら、今ここで作る」
校正線へ向けて両腕を広げる。
『関係形成を検出』
「関係じゃない」
灯を背に、緋月の暴走した校正を睨む。
「俺の前に消されそうな奴がいる。それを見て見ぬふりしたくない」
『当該判断と、黒瀬零の帰属は解除済み』
「なら」
俺は拳を握る。
「誰が選んだか分からなくても、俺が今、引き受ける」
《分離査読官》の金線が、再び胸へ伸びる。
『引き受けるという行為と、黒瀬零を分離する』
金線が俺を貫いた。
灯を守ると決めた事実が、自分から離れていく。
また、他人の選択になる。
俺は一瞬だけ、何のために立っているのかを失った。
それでも、目の前から青白い線が迫っている。
後ろから、誰かが俺の服を掴んでいる。
なら、理由がなくても動くしかない。
右足を踏み出す。
校正線へ拳を振るう。
「おおおおおっ!」
人間の拳が、上位観測機構の処理へ届くはずがない。
校正線は俺の腕をすり抜けた。
その瞬間、白い円環が勝手に動く。
俺が発動したのではない。
持ち主を失った未証明が、青白い校正線の中にある結論を検出した。
――黒瀬灯は、公式記録に従って消去される。
白い空白が、自動的に挟み込まれる。
「……動いた?」
灯が呟いた。
校正線が止まる。
同時に、王土によって崩れかけていた天井も止まった。
落下する瓦礫が空中で静止する。
窓ガラスが、割れる直前の形で固定される。
朔夜から離れた黒い薄刃も、次の対象を決められず止まった。
講義室内のあらゆる結論が、次々に保留されていく。
『異常』
《分離査読官》の左右の声が、僅かにずれた。
『未証明の自律発動を確認』
「自律?」
澄玲が白い円環を見る。
「黒瀬君が使ったのではないのですか?」
「違う」
俺は答えた。
「俺には、もう動かせない」
未証明は持ち主を失った。
誰の結論を止めるべきか。
誰の選択を守るべきか。
判断できない。
だから、周囲で確定しようとする全ての結論を、無差別に保留し始めた。
扉が開ききらない。
鐘の音が鳴り終わらない。
落下物が地面へ到達しない。
傷口から流れた血が床へ落ちる結果を失い、空中へ赤い粒となって漂う。
言葉さえ、発せられた後、誰へ届いたのか確定できず、教室の中へ重なっていく。
『危険度を更新』
《分離査読官》が金色の栞を開く。
『所有者を失った命題は、判断基準を喪失する』
『個体から分離することで、純粋な機能へ復元される』
「それを正常とは呼ばない」
緋月が、暴走する自分の校正線を押さえながら言う。
『機能は正常である』
「人間の信念から、人間だけを抜き取ったんだぞ」
『信念は、個体に混入した偏向である』
「違います!」
澄玲が叫ぶ。
「偏っているから、私たちの答えになるのです!」
彼女の周囲へ、世界は解を持つの数式が浮かぶ。
まだ、澄玲とは分離されていない。
だが、《分離査読官》の金色の視線は、既に彼女を捉えていた。
『次の分離対象』
『九条澄玲』
『世界は解を持つ』
「させない」
朔夜が、能力を失ったまま彼女の前へ立つ。
剛毅も、王土を制御できない身体で拳を構えた。
緋月は、自分から離れようとする校正線を素手で掴んでいる。
《第一査読官》も、白い身体を《分離査読官》の進路へ置いた。
『退去せよ』
《分離査読官》が告げる。
『関係は分離済み』
『共同防衛の根拠は存在しない』
『それでも』
《第一査読官》は答えた。
『同一の判断が、各個体において再発している』
『当該現象を、単なる残留汚染として処理することは不可能』
『ならば』
《分離査読官》の金色の線が、教室全体へ拡散する。
『個体ごとの判断を生む、根本原因を分離する』
「根本原因?」
灯が尋ねた。
金色の文字が大学の上空へ展開される。
――第二分離処理、効果不十分。
――命題分離後も、同種の選択傾向を確認。
――原因を、能力および関係から修正。
――対象。
――人格を構成する根本命題。
緋月の表情が変わった。
「まずい」
「何を切る気だ」
俺が問う。
「命題が、人間の信念が世界へ現れたものなら」
緋月は自分の胸を押さえた。
「その信念が生まれる、もっと深い場所」
金色の線が、俺たち全員の胸へ伸びていく。
「次に切られるのは、その人が何を正しいと感じ、何を拒み、何を選ぶ人間なのか――その根本だ」
《分離査読官》が宣告する。
『第三分離処理へ移行』
『個体と』
『その個体を個体たらしめる根本命題を分離する』
白い円環が、持ち主を失ったまま激しく回転する。
大学全体へ、無差別な保留が広がっていく。
校舎の外では、歩いていた学生たちが一歩を踏み出したまま停止した。
講義開始を告げる鐘は鳴り終わらない。
朝と昼の境界さえ、次の時刻へ進む結論を失っていた。
そして、帝都神律大学に所属する全ての学生の胸へ、金色の線が繋がる。
『全学一斉分離を開始する』
《分離査読官》の声が大学中へ響いた。
『人格から、選択の偏りを除去する』
『すべての学生を』
『関係にも、信念にも汚染されていない』
『完全に独立した個体へ復元する』




