第二十六話 兄でなくなっても、その手は離さない
黒瀬灯。
十八歳。
俺の妹。
三年前に世界から消された少女。
俺が帝都神律大学へ入った理由。
俺が《第零学部》まで来た理由。
俺が世界の外側へ異議を申し立てた理由。
知識としては、全て分かっている。
それなのに、目の前にいる少女を見ても、胸の奥には何も起きなかった。
「……誰だ」
自分の口から出た言葉を、俺自身が理解できなかった。
知らないわけではない。
顔を知っている。
声を知っている。
好きな食べ物も、寝起きが悪いことも知っている。
嘘をつく時、右手の指先へ触れる癖があることも知っていた。
だが、それらの記憶が目の前の少女へ繋がらない。
黒瀬灯という人物に関する資料と、今ここに立つ少女が同じ存在であることは理解している。
それでも、その理解が俺の中へ入ってこなかった。
「お兄ちゃん」
灯がもう一度呼んだ。
俺の名前ではない。
俺と灯の関係を意味する呼び方。
だが、その言葉が、知らない誰かへ向けられたものに聞こえる。
『兄妹関係の分離を確認』
《分離査読官》が告げた。
『記憶保持』
『人物識別、正常』
『個体機能、正常』
『黒瀬零から失われたものは存在しない』
「ふざけるな」
声を発したのは、三年前の俺だった。
赤い右目が金色の線を睨む。
「こいつから、灯を妹として認識する関係を奪った」
そう言って、現在の俺を指した。
『奪取ではない』
『関係は個体の構成要素ではない』
『外部対象との接触によって、後天的に付加された接続情報である』
「だから切っていいと?」
『個体の独立性を回復した』
三年前の俺が拳を握る。
灯を消した責任を、三年間保持し続けた男。
俺が失ったものを、こいつはまだ失っていない。
「零」
採択領域から離脱した俺が、こちらを呼んだ。
「お前は、灯をどう認識している」
「黒瀬灯」
「それだけか」
「現在地、帝都神律大学」
自分でも、報告書を読み上げているような声だった。
「《第零学部》共同証明者。《終理観測者アレテイア》によって、《外部観測基準》として利用されている」
「感情は」
「確認できない」
採択領域から離脱した俺は目を伏せた。
あいつも、かつて灯との関係を失っている。
正しい世界を維持するため、灯に関する記憶も、疑問も、喪失感も何度も修正された。
今の俺がどう見えているのか、聞く必要はなかった。
「お兄ちゃん」
灯が一歩近づく。
俺の身体が無意識に後ろへ下がった。
灯の足が止まる。
「……ごめん」
なぜ灯が謝る。
何も悪くないはずだ。
記憶によれば、灯はいつもそうだった。
自分が傷ついているのに、誰かが困っていると先に自分が謝る。
その記憶を、俺は知っている。
それでも、懐かしいとは感じなかった。
「近づかない方がいいよね」
灯の唇が小さく震える。
「今のお兄ちゃんには、知らない人なんだよね」
胸は痛まなかった。
だが、その顔を見て一つだけ分かった。
この少女は、俺の言葉で傷ついている。
関係がなくても、それくらいは分かる。
「違う」
俺は言った。
「え?」
「知らない人じゃない」
「でも」
「知ってる」
灯に関する、あらゆる記憶がある。
「黒瀬灯だ」
「うん」
「俺の妹だった」
過去形になった。
灯が目を伏せる。
「だったんだね」
「今は分からない」
正直に答える。
「妹だと感じられない」
「……うん」
「でも」
俺と灯の間で、金色の線が輝いている。
そこには、目に見えない境界がある。
《分離査読官》は、その境界こそが本来の正常な状態だと言った。
「お前が俺の妹かどうかと」
灯を見る。
「今、お前を放っておくかどうかは別だ」
灯が顔を上げた。
『関係消失後の保護行動を検出』
《分離査読官》が告げる。
『過去の接続情報による残留反応と推定』
「違う」
『根拠を要求』
俺は自分の手を見た。
灯と手を繋いだ感触は、記憶の中にある。
けれど、その温度を自分のものとして思い出せない。
「俺は今」
もう一度、灯を見る。
「目の前で泣きそうになっている奴を、放っておきたくないと思った」
一歩、金色の線を越える。
『その判断も、黒瀬灯に関する既存記憶を参照している』
「そうかもしれない」
『ならば、独立した選択ではない』
「誰にも影響されない選択だけが」
白い円環を開く。
「本人の選択だという前提を、俺は認めない」
円環が俺と灯の間へ広がった。
『結論を確認できない』
「結論じゃない」
今まで、《分離査読官》の処理を捉えられなかった理由。
こいつは何かを終わらせるのではなく、最初から別々だったものへ戻すだけだと主張していた。
なら、俺が止めるべきなのは、関係が切られたという結果ではない。
「人間は、誰とも関わっていない状態が完成形だ」
その前提。
「未証明!」
白い空白が、金色の線へ差し込まれる。
《分離査読官》の左右の顔が、初めて僅かに異なる方向を向いた。
『前提干渉を検出』
『対象、個体の独立性』
『代替可能性を要求』
「今から作る」
灯へ手を差し出す。
「黒瀬灯」
「……うん」
「俺は今」
理由を探す。
妹だから。
家族だから。
三年前から探していたから。
どれも、現在の俺には繋がっていない。
だから使えない。
「お前のことを、もう一度知りたい」
何もない場所から、答えを選ぶ。
灯の目が大きく開かれた。
「妹だったからじゃない」
「うん」
「昔を思い出したからでもない」
「うん」
「今のお前が、俺にお兄ちゃんと呼びかけた」
灯が差し出した手を見る。
「俺がそれを分からないままにしておくのが、気に入らない」
胸へ手を置く。
痛みはない。
懐かしさもない。
灯の口元が少しだけ緩んだ。
「お兄ちゃんらしい」
「今の俺に言われても分からない」
「そうだね」
「だから、教えてくれ」
手を伸ばす。
灯の指が俺の手へ触れた。
その瞬間、何かが戻ったわけではない。
兄妹だった感覚も、失われた温度も何一つ戻らない。
ただ、新しい事実が一つだけ生まれた。
関係を失った黒瀬零が、黒瀬灯へもう一度手を伸ばした。
「保存する」
三年前の俺が赤い右目を開く。
赤い光が、俺と灯の手へ重なった。
「黒瀬零は、兄妹関係を失った後、自らの意思で黒瀬灯を選び直した」
金色の線が、新たに生まれた接続へ伸びる。
『分離対象を確認』
《分離査読官》が金線を振るった。
『新規関係』
『形成直後』
『固定度、低』
『切除を実行』
金線が俺と灯の手を横切る。
関係が再び消えた。
今度は、何が起きたのかはっきり分かった。
灯の手を握っている。
だが、なぜ握ったのか分からない。
黒瀬灯を知りたいと自分が言った記憶はある。
けれど、その言葉が今の自分の意思だと思えなかった。
『新規接続の分離を完了』
『個体状態、正常』
灯の手から指を離しかける。
「お兄ちゃん」
その呼び方に意味はない。
それでも俺は、離れかけた指をもう一度握った。
『再形成を確認』
《分離査読官》が告げる。
金線が走った。
また理由が消える。
もう一度握る。
また切られる。
握る。
切られる。
握る。
切られる。
「どうして」
灯が尋ねた。
「もう、分からないんでしょう」
「ああ」
「私が誰か」
「黒瀬灯」
「そうじゃなくて」
「分からない」
「だったら――」
「でも」
切られるたび、俺は目の前の少女を見る。
自分の手が離れようとしている。
そのたびに選び直す。
「お前が、俺の手を離されたくないって顔をしている」
また握る。
金線が切る。
「それだけで、今は十分だ」
また握る。
《分離査読官》の金線が連続して瞬く。
何度切っても、関係は保存されない。
だが、その場で何度でも新しく生まれる。
『非効率な反復を確認』
「そっちがな」
『関係形成の根拠は、分離のたびに失われる』
「だから、そのたびに決めている」
灯の手を握る。
『過去の判断を参照できない』
「今、決めればいい」
『現在の判断も、直後に分離される』
「次の俺が決める」
『自己の連続性が保証されない』
「それでも、次の俺に任せる」
もう一度、灯の手を握る。
赤い右目の零が、俺たちの傍らへ立った。
「そして、俺が残す」
赤い光を、切断のたびに生じる事実へ重ねる。
切られた関係ではない。
切られた後、俺が選び直した事実。
それを一つずつ、三年前の俺が保持していく。
「一回目」
赤い右目が、金線の軌跡を記録する。
「二回目」
また俺が手を握る。
「三回目」
関係は切られる。
しかし、関係を作り直した履歴は消えない。
「四回目」
『記録の停止を要求』
「拒否する」
『関係そのものは保存されていない』
「分かってる」
三年前の俺は《分離査読官》を見る。
「だが、お前が何度関係を切っても、そのたびにこいつが同じ相手を選んだ事実は残る」
赤い右目へ、俺たちが選び直した回数が積み重なる。
『選択は、過去関係による残留作用である』
「なら」
採択領域から離脱した俺が、俺の反対側へ立った。
胸元に白い座標が開く。
「現在の選択を固定する」
自証座標。
「今の黒瀬零は、妹だからではなく、記憶に従ったからでもなく、目の前の黒瀬灯を放置しないと選んだ」
『選択理由の外部規定を検出』
「規定ではない」
採択領域から離脱した俺が答える。
「本人の自己申告を、現在の座標として保持している」
三年前の俺が、過去に成立した選択を保存する。
採択領域から離脱した俺が、現在の自己認識を固定する。
俺が、確定された関係の不存在を保留する。
三人の零が、同じ一つの手へ繋がった。
『複数人格による相互依存』
『独立性のさらなる低下を確認』
「独立していないと、人間じゃないのか」
俺は言った。
『個体は、他者から分離された状態で完全でなければならない』
「誰が決めた」
『《第二観測圏》の観測独立規程』
「本人たちじゃない」
『本人の判断は、関係によって汚染される』
「その規程も、誰かが作ったものではないのですか」
澄玲の声が後ろから飛ぶ。
振り返る。
澄玲と朔夜が少し離れて立っていた。
二人の友人関係は、まだ戻っていない。
「九条澄玲」
朔夜が言う。
「何ですか」
「俺は今、九条を助けたい理由が分からない」
朔夜が頭を掻く。
「そうですか」
「でも、この状況で一人にしておくと、後で面倒なことになりそうだ」
「最悪の理由ですね」
「何もないよりはましだろ」
「……そうですね」
朔夜が澄玲の隣へ立つ。
澄玲は僅かに笑った。
「今は、それで採択します」
『友人関係の再形成を確認』
金線が二人の間へ向かう。
「させるか!」
剛毅が床を踏み抜いた。
万象は我が礎。
講義室全体が重い王土へ変わる。
机。
椅子。
黒板。
窓。
そこに立つ学生たち。
切られた関係さえも、剛毅の足元へ支えとして集まっていく。
「関係が外部から付着しただけだと言うなら」
剛毅が拳を構えた。
「その外部ごと、俺の礎にしてみせろ」
『命題による関係再定義を確認』
金線が剛毅へ集中する。
その前へ、《第一査読官》が立った。
灯との関係を失っている。
俺たちを仲間と認識できない。
昨日、共に帰った理由も、現在は意味として持っていない。
それでも、白い身体で金線を遮った。
『《第一査読官》』
《分離査読官》が問う。
『なぜ査読対象を保護する』
『保護ではない』
《第一査読官》が答えた。
『審理手続への干渉を防止する』
『詭弁』
『お前は既に、対象との関係を分離されている』
『肯定』
『ならば退け』
『拒否する』
『理由を提示せよ』
《第一査読官》は灯を見た。
『黒瀬灯との関係は、確認できない』
白い表示が空欄を示す。
次に、俺たちを見る。
『黒瀬零たちを保護する動機も、確認できない』
「じゃあ、どうして前に出たの?」
灯が尋ねる。
『現在の審理において、本人の意思を確認せず、関係のみを異常と分類し、処理後の個体を正常と判定している』
《第一査読官》は《分離査読官》へ向き直った。
『当該手続は、査読対象の定義を査読結果によって先に確定している』
白い文字が、金色の線と交差する。
『循環を確認』
灯が目を見開く。
「私たちのことを思い出したの?」
『否定』
《第一査読官》は答える。
『これは』
少しだけ間を置く。
『現在の私自身による査読判断である』
関係がなくても。
記憶へ意味を感じなくても。
同じ答えへ、自分で辿り着いた。
灯が静かに笑う。
「そっか」
『何を評価している』
「また、あなたが選んだこと」
『私は審理しただけである』
「うん。今はそれでいい」
《分離査読官》の左右の顔が、同時に《第一査読官》を捉える。
『機構汚染が、関係分離後も再発したことを確認』
『原因を修正』
『関係は汚染源ではない』
教室中の金線が一斉に停止した。
一瞬、攻撃が止まったように見えた。
だが、《第一査読官》の白い表示が鋭く明滅する。
『警告』
『処理分類が変更された』
「何に」
『《分離査読官》は、関係を切断しても同一の選択が再発すると判断した』
《第一査読官》が金色の線を見る。
《分離査読官》が右手の栞を開いた。
金色の文字が大学全体へ広がっていく。
――第一分離処理、効果不十分。
――関係切断後も、同一判断の再形成を確認。
――原因を、関係から個体へ変更。
背筋に冷たいものが走る。
「何をする気だ」
『第二分離処理へ移行』
《分離査読官》の左手から、新しい金線が伸びた。
今までの線より細く、見えにくい。
その線は俺と灯の間へ向かわなかった。
俺の胸へ直接伸びる。
『選択と』
右半身が告げる。
『選択者を』
左半身が続ける。
『分離する』
「――っ!」
避けるより先に、金線が俺の身体を通り抜けた。
痛みはない。
傷もない。
意識も残っている。
黒瀬灯の手も、まだ握っている。
そして、俺が灯を選んだ事実も確かに存在している。
ただ、その選択をしたのが本当に俺だったのか、分からなくなった。
白い円環が、俺の周囲で持ち主を失ったように揺れる。
《分離査読官》が静かに告げた。
『選択者の帰属を解除』
『次に』
『命題と、その所有者を分離する』




