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『神律大学の未証明者《アンプローヴン》』   作者: 仕儀の反駁
第三章《第二観測圏》《分離査読官》編

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第二十五話 《分離査読官》の来襲

 世界の外側から帰還した翌日も、帝都神律大学の一限は午前九時から始まった。


「納得できません」


 九条澄玲は講義室の最前列に座り、俺を睨んでいた。


「何が」


「全部です」


「範囲が広いな」


「黒瀬君が三人へ増えていること」


 澄玲の指が、俺、三年前の俺、採択領域から離脱した俺を順番に指す。


「世界から消失していた黒瀬灯さんが、普通に隣へ座っていること」


 灯が控えめに手を上げた。


「おはようございます」


「おはようございます」


 澄玲は律儀に返す。


「そして」


 最後に、講義室の一番後ろへ座る白い人影を見た。


「昨日まで世界を査読していた機構が、なぜ学生用の机に座っているのですか」


『仮所属である』


 《第一査読官》が答えた。


「学生なのですか?」


『審理中』


「教員ですか?」


『審理中』


「大学の備品ですか?」


『否定する』


「昨日、学務記録局から備品登録の照会が来ていましたが」


『異議を提出した』


「何と?」


『私は返却物ではない』


 澄玲が眼鏡の奥で目を細める。


「自分を物ではないと判断したのですね」


『正確には』


 《第一査読官》は、机の上へ置かれた仮登録証を見た。


『現時点で、備品として分類される根拠を確認していない』


「だいたい同じです」


『同一ではない』


「面倒な人が増えました」


「俺を見るな」


 俺は言った。


「原因は黒瀬君でしょう」


「半分くらいは」


「三人いるので三倍ですね」


「計算がおかしい」


「黒瀬君が増えた時点で、従来の計算方法は諦めました」


 普段なら、ここで獅堂剛毅が笑うか、天城朔夜が余計な一言を挟む。


 だが今日は、誰も講義開始前の雑談へ完全には戻れていなかった。


 黒板の隅には、昨日現れた金色の栞が黒い画鋲で留められている。


 神代緋月が、その栞の前へ立っていた。


「触るなよ」


 緋月が言う。


「もう三回聞いた」


「四回目だ」


「何が起きる」


「分からない」


「分からないものを講義室に置いておくなよ」


「移動させられなかった」


 緋月は画鋲へ触れず、栞の周囲へ指を滑らせる。


「机へ置いても――」


 次の瞬間、金色の栞は黒板へ縫いつけられたまま、教卓の上にも現れた。


「こうなる」


 二枚に増えたわけではない。


 黒板と教卓。


 離れた二つの場所に、同じ一枚が存在している。


 視線をどちらへ向けても、片方が本物で片方が像だとは判断できなかった。


「位置の情報が分離しています」


 澄玲が呟く。


「栞という対象と、栞が存在する場所が対応していません」


「正確だ」


 緋月が頷いた。


「ただし」


 失われた右目を覆う前髪の奥で、淡い光が揺れる。


「これ自体は攻撃ではない」


「じゃあ、何だ」


「案内状」


 緋月は金色の文字を見る。


「あるいは、解剖器具だ」


     ◇


 午前九時。


 鐘が鳴った。


 誰も教室の扉へ触れていない。


 それでも、前方の扉が開いた。


 廊下は見えなかった。


 扉の向こうには、金色の線が一本だけ存在している。


 縦に。


 世界そのものを、左右へ切り分けるように。


『講義開始時刻を確認』


 声が響いた。


 男とも女とも判別できない。


 若くも、老いてもいない。


 一つの言葉が発せられた直後に二つへ分かれ、左右から同時に聞こえてくる。


『回収対象の所在を確認』


 金色の線がゆっくりと開いた。


 そこから現れたものを人と呼んでよいのか、俺には判断できなかった。


 形だけなら人間に近い。


 背が高く、細い。


 大学教員のような長衣を着ている。


 だが、その身体の中央を、頭頂から足元まで金色の直線が貫いていた。


 顔の右半分と左半分が、互いに接触していない。


 一人の人間が切断されているのではない。


 最初から二つの半身が、一人として扱われているだけ。


 そんな姿だった。


 右手には、昨日と同じ金色の栞。


 左手には何も持っていない。


 ただし、指と指の間には極細の金線が張られている。


『《第二観測圏》直属』


 右半身が告げる。


『観測独立性保全機構』


 左半身が続ける。


 二つの声が最後に重なった。


『識別名――《分離査読官》』


 講義室の空気が左右へずれた。


 机。


 椅子。


 窓。


 壁。


 形は何も変わっていない。


 それでも、今まで一つの教室を構成していたものが、互いに関係のない物体として、偶然同じ場所へ置かれているように見えた。


 剛毅がすぐに立ち上がる。


「目的は」


『《第一査読官》に発生した機構汚染の除去』


 《分離査読官》の視線が、講義室の最後列へ向く。


『査読主体と査読対象との間に、非正規の関係形成を確認』


『自己判断』


『所属意識』


『当事者意識』


『保護行動』


『帰還拒否』


『いずれも査読機構に不要』


「不要かどうかは、本人が決めることです」


 灯が立ち上がる。


 《分離査読官》が灯を見た。


『黒瀬灯』


『《外部観測基準》』


「違います」


『記録上の分類である』


「私の名前は黒瀬灯です」


『名称は否定していない』


「人間です」


『属性は否定していない』


「なら」


 灯は《第一査読官》を指した。


「私たちの関係も、勝手に消さないでください」


『関係を消去するのではない』


 《分離査読官》が答える。


『混在した対象を、本来の独立状態へ復元する』


「同じだろ」


 俺は立ち上がった。


『異なる』


 金色の指が、教室の照明スイッチへ向く。


『実演する』


 緋月が止めるより早く、《分離査読官》の左手が動いた。


 指の間の金線が、照明スイッチと天井の蛍光灯の間を横切る。


 何も切れなかった。


 壁も、配線も、空気も、傷一つついていない。


 《分離査読官》がスイッチを押した。


 音がする。


 だが、照明は消えなかった。


 もう一度押す。


 スイッチだけが正常に上下する。


 蛍光灯も正常に点灯している。


 どちらも壊れていない。


 ただ、スイッチを押すことと照明が消えることの間から、対応だけが失われていた。


『スイッチは残存』


『照明も残存』


『電力供給も残存』


『消去された対象は存在しない』


「操作と結果の関係だけを切ったのか」


 緋月が問う。


『肯定』


『対象を破壊せず、対象間に発生した不正接続のみを分離する』


 《分離査読官》が《第一査読官》へ歩き始める。


『お前も同様である』


『《第一観測圏》の査読機構としての構造は保持する』


『記録も保持する』


『識別名も保持する』


『査読権限も保持する』


『黒瀬零たちと接触した事実も保持する』


 金色の線が、《第一査読官》の机へ伸びる。


『ただし、その事実を現在の自己判断へ接続する関係のみを切除する』


「待て」


 白い円環を開く。


『発動を確認』


 《分離査読官》は止まらない。


『だが、これは結論ではない』


 金線が《第一査読官》の仮登録証へ触れる。


『対象へ新しい結果を与えない』


『既に混在したものを、別々に戻すだけである』


 円環が揺れる。


 ――《第一査読官》は、《第零学部》との関係を失う。


 そう結論として認識しようとする。


 だが、捉えられない。


 《分離査読官》の言うとおり、こいつは何かを「そうなる」と決めているのではない。


 最初から無関係だったものを、誤って繋がっていただけだと処理している。


「お兄ちゃん!」


 灯の声が響く。


「分かってる!」


 別の可能性。


 関係が異常ではない可能性。


 切られる前に証明しなければならない。


 だが、何をすれば仲間であることを証明できる。


 書類か。


 記憶か。


 一緒に帰った事実か。


 どれも《分離査読官》にとっては、切断可能な接続情報でしかない。


 金線が仮登録証の上を通過した。


 氏名。


 《第一査読官》。


 所属。


 《第零学部》。


 緊急連絡先。


 黒瀬灯。


 文字は全て残っている。


 だが、所属欄と《第一査読官》の間を結んでいた意味が消えた。


 緊急連絡先として記された黒瀬灯と、実際の灯との対応が切れた。


「……あなた」


 灯が《第一査読官》へ近づく。


「私が誰か分かりますか?」


『黒瀬灯』


 すぐに答える。


 灯が僅かに安堵した。


「私は?」


『黒瀬零の妹』


「うん」


『《外部観測基準》』


「それだけじゃない」


『《第零学部》共同証明者』


「あなたにとっては?」


 《第一査読官》が沈黙する。


『質問の意味を照会』


「昨日、私を緊急連絡先にしたでしょう」


『仮登録証に、その記載を確認』


「何かあったら、私が迎えに行くって言いました」


『会話記録を確認』


「あなたは、私の手を握り返した」


『接触記録を確認』


「じゃあ」


 灯は白い手を取った。


「どうして握ったの?」


 《第一査読官》は自分の手を見る。


『理由を』


 白い声が、何もない空間を検索する。


『確認できない』


 灯の指が強く握られる。


「私は、あなたの何?」


『分類不能』


 文字も、記憶も、事実も残っている。


 なのに、その事実が現在の自分にとって何を意味するのか。


 そこだけがない。


 名前は覚えている。


 会話も覚えている。


 手を握ったことも覚えている。


 それでも、呼ばれた時に振り返る理由だけが切り離されている。


「戻せ」


 俺は言った。


『不要』


「戻せ!」


『当該関係は』


 《分離査読官》の左右の声が重なる。


『査読判断へ混入した非正規要素である』


「こいつが残ると決めたんだ!」


『決定は保持されている』


『ただし、その決定と黒瀬灯との関係は独立させた』


『《第一査読官》は、黒瀬灯を理由とせず、改めて帰還または残留を判断できる』


「関係を消してから選ばせることが、自由だと思っているのですか?」


 灯が言う。


『関係に影響された判断は、独立した判断ではない』


「誰にも影響されない選択など、本当に選択と呼べるのですか」


 澄玲が立ち上がった。


 《分離査読官》が、初めて澄玲へ視線を向ける。


『九条澄玲』


『保有命題』


世界は解を持つ(エウレカ)


『質問を問題として登録』


 空中へ金色の回答欄が開く。


 ――他者との関係に影響された選択は、本人の選択であるか。


「勝手に問題へ変換しないでください」


 澄玲が言う。


『問いは、解を要求する』


「解答を要求しない問いもあります」


『矛盾』


「それを決めるのは、あなたではありません」


『審理を継続』


 《分離査読官》の指が動く。


 澄玲の机と、隣に座る天城朔夜の机の間へ金線が落ちた。


「避けろ!」


 朔夜が澄玲の腕を引く。


 金線は二人の身体へ触れなかった。


 それでも、朔夜の手が途中で止まる。


「……何で」


 掴んだ澄玲の腕を見る。


「俺は、九条を引いた?」


「天城先輩?」


「名前は分かる」


 朔夜が澄玲を見る。


「九条澄玲」


「はい」


「《未定義現象研究室》の共同解析者」


「そうです」


「何度も同じ現場に立った」


「そうです」


「なのに」


 朔夜の指が離れる。


「危ないと思った時、九条を助けた理由が分からない」


 澄玲の顔から血の気が引いた。


 《分離査読官》は静かに告げる。


『記憶は保持』


『人物認識も保持』


『身体機能も正常』


『危険回避行動も記録済み』


『友人関係のみを分離』


 剛毅の周囲へ、重い圧力が満ちる。


「今すぐ戻せ」


『拒否』


「なら力ずくで――」


「待ってください!」


 澄玲が止める。


 朔夜は今も、自分の手を見ていた。


「天城先輩」


 澄玲が呼ぶ。


「私たちは友人です」


「記録では、そうなっている」


「記録だけではありません」


「なら」


 朔夜は、本気で困った顔をする。


「何をもって、そう言っている」


 澄玲は答えられなかった。


 一緒に解析した。


 助けられた。


 言い争った。


 笑った。


 何度も名前を呼んだ。


 全て記憶として残っている。


 だが、それらを一つに束ねて、友人だったと感じる関係だけがない。


「これが正常化である」


 《分離査読官》が告げた。


『対象は誰一人消失していない』


『奪われた記憶も存在しない』


『個々の存在は、より純粋に保存された』


「純粋?」


 灯が振り返る。


「誰とも関わっていない状態が?」


『関係は、対象へ外部から付着した情報である』


『個体の保存に不要』


「違います」


 灯が言う。


「私たちは、関わる前から完成していたわけではありません」


『感情的主張』


「あなたも!」


 灯が《第一査読官》の手を持ち上げる。


「昨日までのあなたと、今のあなたは違います」


『機能に変化はない』


「違います!」


『根拠を要求』


 灯は答えようとして、止まった。


 《第一査読官》自身が、灯との関係を失っている。


 本人へ昨日と今の違いを聞いても、違いを意味として認識できない。


 俺は白い円環を握りしめる。


 こいつの攻撃は、存在を消さない。


 記憶を消さない。


 結果を強制したようにも見えない。


 ただ、人と人の間にあったものを、本人ではない誰かが不要だと分類して切り離す。


 俺の能力が、どこへ異議を挟めばよいのか。


 まだ見えない。


『第一処理を完了』


 《分離査読官》が告げる。


『対象範囲を拡張する』


 金色の栞が黒板から浮かび上がった。


 無数の金線が講義室の壁を抜け、帝都神律大学全体へ伸びていく。


 教員と学生。


 友人と友人。


 先輩と後輩。


 所属と責任。


 能力と信念。


 名前と、それを呼ぶ者。


 目には見えなかった関係が、金色の線として大学中に浮かび上がる。


 その中心で、《分離査読官》が宣告した。


『《第零学部》に接続した全関係を、機構汚染の疑いありと認定』


『次に、黒瀬零と黒瀬灯を分離する』


「させるか!」


 灯の前へ出る。


 金線が俺たちの間へ落ちた。


 白い円環を開く。


 だが、間に合わない。


 灯は消えなかった。


 名前も覚えている。


 三年前まで一緒にいた記憶も。


 世界から消された事実も。


 取り戻すと決めた言葉も。


 全て、そのまま残っている。


「お兄ちゃん」


 灯が俺を呼ぶ。


 声も聞こえる。


 俺は黒瀬灯を知っている。


 黒瀬灯が、黒瀬零の妹であることも知っている。


 それなのに。


 目の前の少女を、命を懸けて取り戻そうとした理由が、俺の中から消えていた。


「……誰だ」


 自分の口から、その言葉が落ちる。


 灯の顔が凍りついた。


 《分離査読官》が淡々と記録する。


『兄妹関係の分離を確認』


『個体保存――正常』


 白い円環が音を立てて揺れた。


 名前は残っている。


 記憶も残っている。


 だが、それをもう一度選ぶ理由がない。


 なら。


 俺は、理由がなくても、もう一度選ばなければならない。


 黒瀬灯が俺の妹だったからではない。


 世界から消された少女が、今、目の前で泣きそうな顔をしている。


 その事実を、俺がどう受け取るか。


 そこから、もう一度始めるしかない。


 金色の線が、俺と灯の間で冷たく輝いていた。

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