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『神律大学の未証明者《アンプローヴン》』   作者: 仕儀の反駁
第二章《第零学部》《第一観測圏》編

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第二十三話 査読官の帰省先はまだ審理中

 《第一観測圏》から元の世界に帰還した直後。


 俺たちを待っていたものは、歓迎でも、事情聴取でも、上位観測機構からの追撃でもなかった。


「黒瀬君」


 神代緋月は、白い講義室に並ぶ俺たちを見て、眼鏡の位置を直した。


「確認したいことがある」


「ああ」


「なぜ、君が三人いる」


「説明すると長い」


「では、要点だけ」


「俺と」


 三年前の俺を指す。


「三年前の俺と」


 採択領域から離脱した俺を指す。


「灯を消すことに成功した世界の俺だ」


「要点が既に長い」


 緋月は額へ手を当てた。


「もっと悪い」


 隣に立っていた獅堂剛毅が、腕を組んだまま言う。


「黒瀬が増えたことより」


 白い人影へ視線を向ける。


「そいつは何者だ」


『《第一査読官》』


「名ではない」


『識別名である』


「所属は」


『《第一観測圏》』


「目的は」


『審理中』


「敵か」


『確定していない』


「味方か」


『確定していない』


「なら、何をしに来た」


『帰還先を再定義するまでの一時滞在』


 剛毅が俺を見る。


「追い出せ」


「無理だ」


「なぜ」


「一緒に帰ってきたから」


「理由になっていない」


「灯が連れてきた」


「なら、仕方ないな」


「俺との扱いに差がありすぎないか」


「日頃の行いだ」


 灯が、《第一査読官》の後ろから顔を出す。


「剛毅さん」


「無事だったか」


「うん」


 剛毅の声が、ほんの少しだけ柔らかくなる。


 俺には一度も向けられたことのない種類の声音だった。


「それで」


 灯は、三人の俺を順番に指した。


「こっちが今の兄さん」


「分かる」


「こっちが三年前の兄さん」


「目が赤い方か」


「こっちが別の世界の兄さん」


「区別がつかん」


「本人たちも、たまに間違える」


「間違えない」


 三人の声が重なった。


 灯が無言で俺たちを見る。


「……間違えたこともある」


 三人の声が、また重なった。


「見事だな」


 剛毅が呟いた。


 緋月は笑っていなかった。


 俺の顔。


 三年前の俺の赤い右目。


 採択領域から離脱した俺の胸元に残る白い座標。


 そして、灯の輪郭を一つずつ確かめている。


「灯さん」


「はい」


「今の君は」


 緋月が慎重に言葉を選ぶ。


「大学の外へ出られるのか」


 灯は、すぐに答えなかった。


 白い講義室の出口を見る。


 《第零学部》と通常の大学を繋ぐ、存在しないはずの扉。


「分からない」


「試していない?」


「怖くて」


 灯は自分の両手を見る。


「外に出たら、また誰にも見えなくなるかもしれない」


 講義室の空気が、少しだけ重くなる。


 俺は何も考えずに、灯の手を掴んだ。


「なら、俺も行く」


「三人とも?」


 灯が尋ねる。


「俺だけでいい」


「何を根拠に代表を決めた」


 三年前の俺が言う。


「現在世界に所属しているからだ」


「灯を消した時点の記録を最も保持しているのは俺だ」


「現在の灯が《外部観測基準》から離脱できるかを確認するなら、採択領域の記録も必要になる」


「お前まで来るのか」


「合理的だ」


「結局、三人とも来るんじゃん」


 灯がため息をつく。


『同行を推奨する』


 《第一査読官》が告げた。


「お前も?」


『黒瀬灯の状態は、現在も《外部観測基準》と人物存在の間で未確定である』


『境界通過によって、いずれかの状態へ収束する可能性がある』


「それ、先に言って」


『質問されていない』


「この人、ずっとこうなの?」


 緋月が俺に尋ねる。


「多分」


『推測による性格固定を否定する』


「絶対こうだ」


     ◇


 《第零学部》の扉の前に、俺たちは並んだ。


 俺。


 灯。


 三年前の俺。


 採択領域から離脱した俺。


 《第一査読官》。


 少し離れた場所で、緋月と剛毅が待機している。


 扉の向こうには、いつもの帝都神律大学がある。


 講義棟の廊下。


 窓。


 床。


 昼休みを知らせる放送。


 誰かの笑い声。


 俺にとっては、昨日までと変わらない光景だった。


 灯にとっては、三年ぶりに戻る世界だ。


「開けるぞ」


「待って」


 灯が俺の袖を掴む。


「やっぱり怖い?」


「怖い」


 それでも、灯は手を離さなかった。


「もし」


「うん」


「向こうに行って、私が消えても」


「消させない」


「最後まで聞いて」


「悪い」


「消えても」


 灯は、俺だけでなく、三年前の俺、採択領域から離脱した俺、《第一査読官》の全員を見る。


「私が、ここまで来たことを覚えていて」


 三年前の俺が赤い右目を開く。


「記録する」


 採択領域から離脱した俺は、胸へ手を当てた。


「現在の俺へ固定する」


 《第一査読官》も、白い表示を展開する。


『審理記録として保存する』


「兄さんは?」


 俺は、灯の手を強く握る。


「忘れるものか」


「能力で?」


「違う」


「じゃあ、何で」


「兄だから」


「答えになってない」


「俺にはなってる」


 灯が少しだけ笑った。


「じゃあ、開けて」


 扉へ手を掛ける。


 引いた。


 光が差し込む。


 普通の廊下。


 誰もいない。


 異常は起きない。


 灯が境界へ足を出す。


 右足。


 左足。


 白い講義室から、通常の大学へ。


 一歩。


 灯の手が、俺の中から抜け落ちた。


「灯!」


 視界から、姿が消える。


 握っていたはずの感触も。


 名前さえ、一瞬だけ遠ざかる。


 ――黒瀬零は、一人で扉を開いた。


 世界の記録が、即座に辻褄を合わせようとする。


 白い円環を開く。


「保留する!」


 ――黒瀬灯は、この廊下に存在しない。


 その結論を、扉の境界へ挟み込む。


 三年前の俺が、赤い円環を重ねる。


「保存対象――黒瀬灯が、自らの意思で境界を越えた事実!」


 採択領域から離脱した俺も、`自証座標(アクシス・エゴ)`を展開する。


「現在の俺は」


 廊下の何もない場所へ手を伸ばす。


「灯と一緒に、ここへ来た!」


 《第一査読官》が、廊下全体へ白い文字を走らせる。


『審理当事者を照合』


 ――黒瀬零。


 ――黒瀬零。


 ――黒瀬零。


 ――《第一査読官》。


 最後の一行だけ、空白になっている。


『当事者一件の欠落を確認』


『原記録との不一致を宣言』


『欠落対象』


 白い文字が、何もない場所へ集まる。


『黒瀬灯』


 輪郭が戻る。


 最初に、俺の手を握っていた指。


 次に。


 腕。


 肩。


 髪。


 最後に、驚いた顔。


「……戻った?」


「ああ」


「見えてる?」


「見えてる」


 灯が緋月を見る。


「神代さん」


 緋月は、すぐに返事をしなかった。


 灯の姿を、目で追っている。


「……見えている」


「私のこと、分かる?」


「黒瀬灯」


 その名前を、緋月が口にした。


 灯の目が大きく見開かれる。


「黒瀬君の妹で」


 緋月は続ける。


「《第零学部》の共同証明者」


「三年前のことは?」


「思い出してはいない」


 灯の笑顔が、少しだけ曇る。


「ただし」


 緋月は灯の前へ立つ。


「君が存在しないという大学側の記録より」


「今、目の前にいる君を優先する」


 灯が、ゆっくりと頷いた。


「それでいい」


 剛毅も灯を見る。


「黒瀬の妹」


「はい」


「以前に会った記憶はない」


「うん」


「だが」


 剛毅は、三人の俺へ視線を移す。


「こいつら全員の妹で間違いないのか」


「多分」


「なぜ疑問形だ」


「兄さんが増えすぎたから」


「妥当だな」


「妥当じゃない」


 三人の声が重なる。


 廊下の向こうから、何人かの学生が歩いてくる。


 談笑しながらこちらへ近づき、灯の横を通り過ぎる。


 一人が、ふと立ち止まった。


「あれ」


 灯を見る。


「新入生?」


 見えている。


 灯も気づいた。


「……はい」


「迷った? ここ、関係者以外立ち入り禁止だよ」


「関係者です」


「そうなの?」


 学生は俺たちを見比べた。


「ていうか」


 三人の俺を指す。


「何で黒瀬が三人いるの?」


「説明すると長い」


「双子?」


「三人いるだろ」


「あ、そっか」


 学生は、深く考えることを諦めたらしい。


「まあ、神律大学だしな」


 それだけ言って、去っていった。


 灯は小さく笑った。


 次に。


 声を抑えきれず、肩を震わせる。


「何だよ」


「だって」


 笑いながら、目元を拭う。


「私がいることより、兄さんが三人いる方を気にしてた」


「普通はそうだろ」


「それが嬉しい」


 灯は廊下に立っている。


 誰かに見られた。


 誰かに話しかけられた。


 存在の証明でも。


 《外部観測基準》でもなく。


 ただ、少し変わった新入生として。


「戻れたのか」


 三年前の俺が呟く。


『否定』


 《第一査読官》が答える。


『通常世界への接続は、現在の共同証明によって維持されている』


『黒瀬灯単独では、再び記録外へ逸脱する可能性がある』


「今くらい」


 俺は言う。


「戻れたってことにしておけ」


『不正確である』


「灯が喜んでる」


『感情と事実は――』


 《第一査読官》が途中で言葉を止めた。


 灯を見る。


 廊下の窓から、陽光が差している。


 その光が、灯の輪郭を床へ影として落としていた。


『……表現上の仮採択を認める』


「進歩したな」


『正式な判定ではない』


「分かってる」


     ◇


 その日の午後。


 学生課へ、二件の異常登録申請が提出された。


 一件目。


 採択領域から離脱した黒瀬零。


 氏名。


 黒瀬零。


 生年月日。


 現在の俺と同一。


 出身地。


 現在は存在しない《世界研究領域》。


 戸籍。


 なし。


 学籍。


 なし。


 顔。


 俺と同一。


 指紋。


 俺と同一。


 本人確認書類。


 存在しない。


「却下です」


「まだ何も説明していない」


 採択領域から離脱した俺が言った。


「書類上、黒瀬零さんは既に在籍しています」


「俺は別人だ」


「証明できますか」


「できる」


「公的機関の証明書でお願いします」


「公的機関ごと消失した」


「却下です」


「判断が早い」


「慣れていますので」


「何に?」


「異世界、並行世界、過去改変、未来人、自称概念存在」


 職員は机の下から、分厚い申請書の束を取り出す。


「該当するものを選んでください」


「大学の事務課、対応範囲広すぎないか」


「昨年度は、卒業後に入学前へ戻った学生の単位認定で揉めました」


「どうなった」


「留年です」


「なぜ」


「必修科目を未来でしか履修していなかったので」


「理不尽だ」


「規則です」


 三年前の俺が、少し離れた場所から言う。


「頑張れ」


「お前も申請するんだぞ」


「俺は既存記録からの分離扱いだ」


「何が違う」


「書類が三枚少ない」


「勝ち誇るな」


 二件目。


 《第一査読官》。


 氏名。


 《第一査読官》。


 生年月日。


 なし。


 年齢。


 算定不能。


 出身地。


 《第一観測圏》。


 戸籍。


 なし。


 学歴。


 なし。


 職歴。


 無限の《世界研究領域》に対する査読。


 資格。


 世界の採択および棄却権限。


 志望学部。


 《第零学部》。


「氏名欄が役職名になっています」


 職員が指摘した。


『識別名である』


「本名を書いてください」


『存在しない』


「通称は」


『《第一査読官》』


「では、通称使用申請が必要です」


『正式名が存在しない場合も必要か』


「必要です」


『理由を提示せよ』


「規則です」


『規則が必要性の根拠になっている』


「はい」


『循環論証である』


「それでも必要です」


『不合理を確認』


「不合理でも記入してください」


 《第一査読官》が職員を見る。


 職員も、《第一査読官》を見る。


 世界を査読する機構と、その世界で働く事務職員。


 どちらも一歩も退かなかった。


「手伝おうか」


 灯が尋ねる。


『不要である』


「でも、止まってるよ」


『審理中である』


「事務手続は、考えても勝てないぞ」


 俺は忠告した。


『勝敗を競っていない』


「その認識では勝てない」


『何に』


「事務に」


 職員が次の欄を指した。


「現住所を書いてください」


『《第一観測圏》』


「都道府県から」


『都道府県ではない』


「郵便番号は」


『存在しない』


「連絡可能な住所は」


『現在地、《第零学部》』


「では、そちらを」


『《第零学部》は公式には存在しない』


「存在しない住所では登録できません」


『私は現在、そこに存在している』


「住所としては存在しません」


『存在しているが、住所として存在しない』


「はい」


『矛盾している』


「大学ではよくあります」


「ないだろ」


 俺が思わず突っ込む。


 職員は、何も聞かなかったことにして最後の欄へ進んだ。


「帰省先を書いてください」


『帰省の意味を照会する』


「休暇中などに帰る場所です」


『該当なし』


「ご家族の家は」


『家族は存在しない』


「以前の所属先は」


『《第一観測圏》』


「帰れますか」


『帰還経路を喪失している』


「では、帰省先なしに丸を」


 《第一査読官》の白い指が、用紙の上で止まる。


 帰る場所。


 なし。


 たった二文字。


 それを書くだけだった。


 なのに、動かない。


「どうしたの」


 灯が尋ねる。


『照合している』


「何を」


『帰省先が存在しないという記述の正確性』


「帰れないんでしょ」


『肯定』


「じゃあ、なしじゃない?」


『しかし』


 《第一査読官》は、《第零学部》と書かれた仮所属欄を見る。


『現在の滞在先は存在する』


「帰る場所とは違う?」


『定義が不明である』


「じゃあ」


 灯は自分のペンを差し出した。


「今は空欄にしておけば」


『必須項目である』


「そこは守るんだ」


『規程である』


「事務の人と仲良くなれそう」


『同意を拒否する』


 灯が笑う。


 職員は、しばらく待った後。


 書類の欄外へ、小さな付箋を貼った。


 ――帰省先、審理中。


「今回はこれで仮受理します」


『その記述は、正式な分類として認められるのか』


「前例はありません」


『ならば、不受理では』


「学部長判断へ回します」


『学部長は存在するのか』


「《第零学部》の?」


「誰だ」


 職員が俺たちを見る。


 俺たちも互いを見る。


 誰も知らない。


「……そこも審理中で」


 灯が答えた。


 職員は、付箋をもう一枚貼った。


     ◇


 夜。


 《第零学部》の白い講義室には、五つの机が並んでいた。


 最初は、俺一人の席しかなかった。


 今は。


 灯。


 三年前の俺。


 採択領域から離脱した俺。


 《第一査読官》。


 それぞれの席がある。


 正式な学籍を持っているのは、今も俺だけだ。


 灯の登録は仮。


 三年前の俺は共同証明者。


 採択領域から離脱した俺は未登録。


 《第一査読官》は申請審理中。


 誰一人、普通の学生とは呼べない。


「これからどうする」


 三年前の俺が尋ねた。


「決まってる」


 俺は答える。


「《アレテイア》へ、もう一度問いを突きつける」


「方法は」


「今から考える」


「無計画だな」


「三年前の俺に言われたくない」


「俺の計画は成功した」


「最悪の形でな」


 採択領域から離脱した俺が、白い机に腰を下ろす。


「《観測階序》を上がる必要があるのか」


『現時点では不明』


 《第一査読官》が答える。


『末端回答投影との接触は』


『黒い月として顕れた最終回答の方針と』


『《終理予備審査》を結びつけていた関係へ干渉した結果である』


『同一の関係を再び利用できる保証はない』


「じゃあ」


 灯が尋ねる。


「別の方法を探す?」


『肯定』


「あなたは知ってる?」


『《第一観測圏》より上位の情報は』


 《第一査読官》が、そこで止まる。


『本来、下位査読機構には開示されない』


「本来は?」


『現在』


 自らの胸元に残る黒い亀裂を見る。


『上位観測審級との命令関係に、欠損が生じている』


「知らないってことか」


『不完全な断片のみ保持している』


「十分だ」


『信用するのか』


 《第一査読官》が俺を見る。


「何を」


『私は、《第一観測圏》の査読機構として』


『《アレテイア》が現在選んでいる最終回答の方針を』


『審理へ適用していた』


「今も《第一観測圏》の機構なんだろ」


『否定しない』


「なら、何が問題だ」


『上位観測審級との命令関係が修復された場合』


 白い指が、机の端を僅かに握る。


『私は再び、お前たちを査読資料として処理する可能性がある』


 灯が《第一査読官》を見る。


「したいの?」


『意思の問題ではない』


「今は」


『今は』


 白い人影が、少し長く沈黙する。


『その処理を妥当とは判定していない』


「じゃあ」


 灯は笑った。


「その時、また考えよう」


『危険性を理解していない』


「理解してるよ」


『なら、なぜ排除しない』


 灯の笑顔が少しだけ消える。


「それをやったのが」


 机に置かれた仮登録書を見る。


「《アレテイア》の、今の答え方だから」


 《第一査読官》が、何も答えなくなる。


「私たちは」


 灯は続ける。


「あなたが危険かもしれないって理由だけで」


「最初から数から外したくない」


『実際に危険となった場合は』


「止める」


 俺が答える。


「俺たちで」


「俺たち?」


 三年前の俺が眉を上げる。


「お前も含めてだ」


「当然だ」


 採択領域から離脱した俺も頷く。


「選び直す余地は残す」


『私が、お前たちを消去しようとしても』


「その結論を止める」


『止められない可能性がある』


「それでも止める」


『非合理である』


「そうかもな」


『なぜ』


 俺は白い人影を見る。


「もう一緒に帰ってきたからだ」


『それは因果関係ではない』


「俺の中ではなってる」


『理解不能』


「保留しておけ」


 《第一査読官》が、僅かに首を傾げた。


『……保留する』


 灯が笑った。


     ◇


 消灯時間を過ぎても、誰も帰ろうとはしなかった。


 そもそも。


 帰る場所がない者が多すぎた。


 三年前の俺は、現在の世界に正式な家を持たない。


 採択領域から離脱した俺は、世界そのものを失っている。


 灯は、戸籍上存在していない。


 《第一査読官》には、帰省という概念すらなかった。


「俺の部屋に来るか」


 仕方なく言う。


「四人は無理じゃない?」


 灯が言った。


「俺を含めて五人だ」


「兄さんを数え忘れた」


「一番最初に数えろ」


「三人いると、一人くらい忘れるよ」


「忘れるな」


「俺は大学に残る」


 三年前の俺が言う。


「何で」


「記録の監視が必要だ」


「寝床は」


「必要ない」


「強がるな」


「三年前の記録状態に、睡眠の必要性は薄い」


 採択領域から離脱した俺も言う。


「俺もここでいい」


「お前は生身だろ」


「帰る家がない」


 あっさり言われて、言葉に詰まる。


「じゃあ」


 灯が机を集め始める。


「今日はここに泊まろう」


「全員で?」


「うん」


『講義室での宿泊は、学内規則に違反する可能性がある』


 《第一査読官》が指摘する。


「誰かに言う?」


『違反報告の提出先を照会』


「《第零学部》の学部長」


『学部長は審理中である』


「じゃあ、大丈夫」


『論理が成立していない』


「大学ではよくあることだ」


 俺が言う。


『それは先ほども聞いた』


「便利な言葉だぞ」


 緋月が用意してくれた毛布を、机の上へ広げる。


 灯が窓のない白い壁を見上げる。


「変な感じ」


「何が」


「三年前まで」


 毛布へ座る。


「兄さんと同じ家に帰るのが普通だったのに」


「……ああ」


「今は」


 三人の俺と、白い査読官を見る。


「兄さんが増えて」


「帰る家はなくて」


「世界を査読していた人までいて」


 少し笑う。


「大学の講義室に泊まってる」


「嫌か」


「ううん」


 灯は毛布の端を握る。


「帰れないのに」


 静かに言った。


「一人じゃない」


 《第一査読官》が、その言葉を記録しようと白い表示を開く。


 だが。


 途中で止めた。


「記録しないの?」


 灯が尋ねる。


『これは』


 白い文字を消す。


『審理記録へ含める必要がない』


「そう」


 灯は嬉しそうに笑った。


 それが、《第一査読官》が初めて誰かの言葉を、査読対象ではなく、ただ聞いただけの瞬間だった。


     ◇


 午前〇時。


 講義室の黒板へ、金色の線が走った。


 最初に気づいたのは、《第一査読官》だった。


『起きろ』


 鋭い声。


 俺は跳ね起きる。


「何だ」


『上位観測審級からの照会を検出』


 三年前の俺が、即座に赤い右目を開く。


 採択領域から離脱した俺も、`自証座標(アクシス・エゴ)`を展開する。


 灯を、俺たちの中央へ下がらせる。


「《アレテイア》か」


『否定』


 黒板に現れた文字は、《アレテイア》の自己顕現が示した黒でも、《第一観測圏》の白でもない。


 金色。


 文字そのものが、俺たちのいる講義室を一枚の資料として綴じようとしている。


 ――下位査読機構の所在を確認。


 ――対象、《第一査読官》。


 ――査読主体が査読対象へ混入。


 ――観測上の独立性を喪失。


 ――機構汚染と認定。


 灯が《第一査読官》を見る。


「機構汚染?」


『査読官が』


 白い声が、僅かに低くなる。


『査読対象との関係を持つこと』


「関係って」


『現在の私と、お前たちの状態を指している』


 金色の文字が続く。


 ――不正な関係を切断。


 ――対象機構を上位観測審級へ回収する。


 《第一査読官》の身体へ残っていた黒い亀裂が、金色へ変わる。


 白い輪郭が、上方へ引かれ始めた。


「待て!」


 腕を掴む。


 触れた。


 だが。


 指の間から、文章のように抜け落ちていく。


『離れろ』


「嫌だ」


『回収対象は私のみである』


「だから何だ!」


『お前たちまで、上位《観測圏》の直接審理対象となる』


「もうなってるだろ!」


『程度が異なる』


 灯も、反対側の腕を掴む。


「帰りたいの?」


『質問の意図を照会――』


「照会しないで答えて!」


 灯の声に、《第一査読官》が止まる。


「《第一観測圏》に帰りたい?」


『私は』


 金色の亀裂が、胸元へ達する。


『《第一観測圏》の査読機構である』


 灯の指が、僅かに緩む。


『本来』


 白い視線が、机に置かれた仮登録書へ向く。


 氏名。


 《第一査読官》。


 所属。


 《第零学部》。


 帰省先。


 審理中。


『帰還命令へ従うべきである』


「べきじゃなくて」


 灯が聞く。


「あなたは、どうしたいの」


『私は――』


 白い人影が、答えられない。


 自分の意思を、審理対象として扱ったことがまだほとんどない。


 正しいか。


 誤りか。


 規程に沿うか。


 逸脱するか。


 それ以外の答え方を、知らない。


「すぐ決めなくていい」


 俺は言う。


「でも」


 白い円環を開く。


「決める前に、連れていかれる必要もない」


 ――《第一査読官》は、上位《観測圏》へ回収される。


 金色の結論へ、白い空白を差し込む。


「`未証明(アンプローヴン)`!」


 金色の亀裂が、一瞬だけ止まる。


『代替可能性を要求』


 《第一査読官》が、査読官としての声で告げる。


「お前が」


 俺は答える。


「自分で帰るか、残るかを選ぶ」


『上位命令に、機構の自己選択権は規定されていない』


「じゃあ」


 灯が、《第一査読官》の手をもう一度強く握る。


「今、作ろう」


 三年前の俺が、赤い円環を展開する。


「保存対象――《第一査読官》が、回収前に自己判断を要求された事実」


 採択領域から離脱した俺も、白い座標を《第一査読官》の足元へ固定する。


「現在地」


 仮登録書を見る。


「《第零学部》」


 金色の文字が、激しく明滅する。


 ――下位査読機構に自己選択を検出。


 ――異常分類を更新。


 ――査読対象と査読主体の関係を、不正結合として認定。


 ――自律判断を機構障害として処理。


「判断することが」


 灯が呟く。


「故障扱いなの?」


『査読主体は』


 《第一査読官》が答える。


『査読対象から独立しなければならない』


「だから」


 俺は金色の文字を睨む。


「査読対象と一緒に考えた時点で」


「こいつは壊れたことにされた」


 金色の亀裂が、再び動き始める。


 白い身体を、上方へ引き裂いていく。


『保留限界を確認』


「まだだ!」


『黒瀬零』


 《第一査読官》が俺を見る。


『お前の代替可能性には』


『私の選択が必要である』


「ああ」


『私は』


 白い指が、灯の手を初めて握り返す。


『現在』


 机。


 毛布。


 仮登録書。


 三人の黒瀬零。


 黒瀬灯。


 白い講義室。


 その全てを見る。


『《第零学部》から退去する理由を』


 金色の回収命令へ向き直る。


『確認していない』


 灯が笑った。


「それで十分」


 白い円環が、一気に回転する。


 ――《第一査読官》は、上位《観測圏》へ回収される。


 その結論が、未確定へ崩れる。


 金色の文字へ、新たな一文が割り込んだ。


 ――対象機構、回収命令を保留。


 ――理由、自己判断未了。


 ――下位査読機構による命令拒否を確認。


 ――《第二観測圏》へ再審査を要請。


 教室の天井が、音もなく開いた。


 実際の空間が割れたのではない。


 《第二観測圏》からの審査表示が、俺たちに理解可能な形として講義室の上方へ展開された。


 そこから、一枚の金色の栞がゆっくりと降りてくる。


 机の上へ落ちた。


 表面には、一行だけ記されている。


 ――査読官は、資料と仲間になってはならない。


「仲間」


 灯が、その言葉を読む。


 《第一査読官》も、金色の栞を見下ろす。


『当該関係は』


 僅かに迷ってから。


『まだ審理中である』


「なら」


 俺は栞へ手を伸ばす。


「結論を出される前に」


 白い円環を、金色の一文へ重ねる。


「次は、俺たちが上を査読する」


 栞の裏面に、新たな文字が浮かんだ。


 ――《第二観測圏》。


 ――《分離査読官》の派遣を決定。


 ――到着予定。


 ――次回講義開始時。


 朝を知らせる鐘が、帝都神律大学に鳴り響いた。

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