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『神律大学の未証明者《アンプローヴン》』   作者: 仕儀の反駁
第二章《第零学部》《第一観測圏》編

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第二十二話 すべての正解は、妹を数えない

 引き込まれた。


 そう認識したのは。


 既に、理解可能な投影への切り替えが終わった後だった。


 落下した感覚はない。


 空間を通過した記憶もない。


 俺たちは、《未提出領域》と接していた状態から。


 別の理解形式に包まれているという結果へ。


 過程を抜き取られたまま、書き換えられていた。


「……ここは」


 灯の声が響く。


 今度は、きちんと音として聞こえた。


 目の前には、巨大な講義室が広がっている。


 白い壁。


 白い床。


 白い天井。


 傾斜に沿って、座席が終端なく並んでいる。


 遠くへ行くほど、一つ一つの席は輪郭を失い。


 最後には、全てが一枚の白い面へ収束していた。


 黒板には、一つの問いが書かれている。


 ――この世界は、正しいか。


 その下には、既に回答が記されていた。


 ――正しい。


 途中の論証はない。


 反証も。


 異論も。


 採点者の所見さえ存在しない。


 問いが書かれた時点で、答えも決まっていたかのように。


「講義室……?」


 三年前の俺が、周囲を見回す。


「違う」


 採択領域から離脱した俺が言った。


「机はあるが、学生がいない」


 座席には、誰も座っていない。


 だが。


 空席ではなかった。


 一つ一つの机に、異なる世界の記録が置かれている。


 戦争の終わった世界。


 文明を一つ消すことで存続した世界。


 自由を制限することで争いを失った世界。


 一人の出生を否定することで、歴史の矛盾を回避した世界。


 平穏。


 幸福。


 犠牲。


 喪失。


 それら全てが、一枚の答案として机に置かれている。


 答案の右上には、同じ印が押されていた。


 ――採択。


「これ全部」


 灯が呟く。


「《第一観測圏》で、正しいって決められた世界?」


『一部である』


 声が響いた。


 黒い月を通じて聞いたものと、同じ声。


 だが。


 ここには月がない。


 声がどこから発せられているのかも分からない。


『当該教室は、黒瀬零たちが理解可能な形式へ変換された回答投影である』


「理解可能な形式?」


『現在のお前たちの認識構造に適合させた表現』


「本当は講義室じゃないのか」


『肯定』


「なら、本当は何だ」


『回答』


 それだけだった。


「場所ですらない?」


 灯が尋ねる。


『場所という分類は不要である』


『ここに存在するものは』


『最終回答との一致、または不一致のみ』


 《第一査読官》が、周囲を照合する。


 身体を侵食していた黒い亀裂は残っている。


 それでも。


 胸元の白い表示は動いていた。


 ――接触状態を照会。


 ――接触対象、《終理観測者アレテイア》が示す末端回答投影。


 ――階層的位置、適用不能。


 ――《終理観測座》を介した接触――否。


 ――現在認識形式、末端回答投影。


「末端?」


 三年前の俺が表示を見る。


「これでも、末端なのか」


『肯定』


 声が答える。


『お前たちは』


『現在の最終回答方針の全容を認識していない』


『理解可能な一つの自己顕現を通じて』


『同じ観測主体と接しているにすぎない』


「随分と慎重だな」


 俺は白い講義室を見渡す。


「そのままの在り方を見せるのが怖いのか」


『恐怖は不要である』


「だったら、投影なんて使わずに答えろ」


『理解不能な在り方は、審理に使用できない』


「俺たちを審理するために、見える形へ変えたのか」


『訂正』


『お前たちが、自ら審理対象として接触した』


「そうだったな」


 黒い月という輪郭を通して。


 唯一の最終回答を、この審理へ強いていた関係に。


 俺たち自身が、異議を申し立てに来た。


「名前を聞かせろ」


 俺は言った。


「さっき見た文字が誤りじゃないなら」


 声の主へ向ける。


「お前が、《アレテイア》か」


 講義室の白が、僅かに揺れた。


『識別名を照合』


 黒板の文字が消える。


 代わりに、新たな表示が刻まれた。


 ――観測主体。


 ――現在の最終回答方針。


 ――総てを唯一の回答へ収束。


 ――《終理観測者アレテイア》。


『肯定』


 灯の指が、俺の手を強く握った。


「あなたが」


 声が震える。


「私を消したの?」


『質問を修正する』


「何を」


『黒瀬灯は、消去された対象ではない』


「じゃあ、何だよ」


『《外部観測基準》として再配置された』


 灯が止まる。


「外部……観測基準?」


『現在採用されている最終回答方針において』


『世界を正しいと判定するには』


『世界の変動から独立した基準を必要とする』


『歴史は《改稿》によって変化する』


『法則は《世界論文》ごとに異なる』


『観測主体も、観測によって変動する』


『世界内部に属するものは』


『当該方針における最終的な基準となり得ない』


 黒板へ、一つの図が現れる。


 円。


 その内部に。


 世界。


 歴史。


 法則。


 生命。


 選択。


 可能性。


 円の外に、一つの点。


 その点の横へ、名前が表示される。


 ――黒瀬灯。


『ゆえに』


『一つの対象を、世界の全記録・因果・関係から外部化した』


「それが私?」


『肯定』


『黒瀬灯を《外部観測基準》として設定』


『黒瀬灯が観測対象内に存在しない状態を基準値とする』


『各世界が、当該基準値からどれほど偏差するかを観測する』


 灯の顔から、血の気が引く。


「待て」


 三年前の俺が低く言う。


「灯がいない世界を、正しい世界の基準にしたのか」


『正確ではない』


「どこが」


『黒瀬灯の不存在は、正しさそのものではない』


『最終回答からの偏差を測定する基準値である』


「言葉を変えただけだ」


 俺は黒板を睨む。


「灯がいない状態を基準にして」


「灯がいる世界を」


 採択領域の俺が続ける。


「基準から外れたものとして扱っている」


『黒瀬灯が観測対象内部に存在すると』


『《外部観測基準》と観測対象が重複する』


『審査精度が低下する』


「精度のために」


 灯が、小さく問いかける。


「私を、世界から消したの?」


『お前は消えていない』


「みんな私を忘れた」


『外部化の結果である』


「写真も名前もなくなった」


『観測対象内部の記録から除外された』


「兄さんとの関係も消された」


『基準値の独立性を維持するために必要であった』


「それを」


 灯は、声を震わせながら一歩前へ出る。


「消したって言うんだよ」


 講義室に、灯の声が響く。


 机に置かれていた答案が、僅かに揺れた。


『用語の差異は、処理結果を変更しない』


「私には変わる」


『感情は、観測基準の機能へ影響しない』


「私は基準じゃない!」


『黒瀬灯である』


「それは私の名前!」


『《外部観測基準》の識別名である』


「私の名前だよ!」


 灯の声が、白い講義室を震わせる。


「お母さんとお父さんがつけてくれた!」


 記録には残っていない両親。


 それでも。


 灯の中には、自分の名を呼ばれた記憶が残っている。


「兄さんが呼んでくれた!」


 俺の手を、強く握る。


「友達が呼んでくれた!」


 胸へ手を当てる。


「私が、自分のことを私だって思うための名前なの!」


 黒板に、小さな文字が現れた。


 ――《外部観測基準》に、自己認識を検出。


『不要な残存記述である』


「不要じゃない!」


 俺は灯の前へ立つ。


「こいつが人間だって証拠だ」


『人間であることと、観測基準であることは両立する』


「またそれか」


『機能と属性は排他的ではない』


「なら」


 三年前の俺が、赤い右目を開く。


「人間としての灯に、《外部観測基準》になる意思を確認したのか」


『不要である』


「理由は」


『基準値は、自己判断によって変化してはならない』


「だから聞かなかった?」


『肯定』


「断られる可能性があったから?」


『拒否は基準機能に不要である』


 採択領域の俺が、歯を食いしばった。


「同じだ」


「何が」


 俺が尋ねる。


「俺が灯を消した時と」


 男は、机に並ぶ答案を見る。


「拒否されれば、世界を救えなくなると思った」


「だから聞かなかった」


「ああ」


「こいつも同じだ」


 《アレテイア》へ視線を向ける。


「灯の答えを聞けば、自分の正解が揺らぐ」


 白い講義室へ、男の声が響く。


「だから最初から」


「灯を回答者として数えなかった」


『黒瀬灯は回答者ではない』


「誰が決めた」


『現在の最終回答方針』


「その方針を選んでいるのは、お前だろ」


『肯定』


「自分で灯を回答者から外して」


 三年前の俺が言う。


「灯の回答が存在しないことを、最終回答の根拠にした」


『黒瀬灯の回答は必要とされない』


「必要かどうかを決めたのも、お前だ」


 《第一査読官》の胸元へ、照合結果が浮かぶ。


 ――審理対象から除外された当事者。


 ――除外対象を基準値として使用。


 ――基準値の意思確認、未実施。


 ――当該対象の不在を前提に、全審理結果を算定。


『手続上の循環を検出』


『《終理観測者アレテイア》へ説明を要求する』


『説明は不要である』


『最終回答を成立させた前提が』


 《第一査読官》が告げる。


『その最終回答によって正当化されている』


『循環論証に該当する』


『終理は論証ではない』


「なら、何だ」


『回答である』


「根拠を示せない回答を」


 俺は黒板を指す。


「普通は何て呼ぶか知ってるか」


『用語を要求する』


「思い込みだ」


 黒板に記された「正しい」という回答表示が、僅かに崩れた。


     ◇


『修正を開始する』


 《アレテイア》の声が響く。


 白い講義室の全ての机から、答案が浮かび上がる。


『《外部観測基準》に残存する自己認識が』


『回答投影へ不整合を発生させている』


『黒瀬灯から、人物属性を分離する』


「何をする気だ!」


 灯の身体へ、黒い線が伸びる。


 ――氏名。


 ――記憶。


 ――感情。


 ――関係。


 ――自己認識。


 それら一つ一つが、観測基準に不要な要素として表示される。


『《外部観測基準》に必要な値のみを保持』


『それ以外を削除する』


「させるか!」


 円環を展開する。


 黒い線が灯へ触れる。


 ――黒瀬灯は、人間ではなく観測基準である。


 その結論を、白い空白で止める。


「`未証明(アンプローヴン)`!」


 円環が回る。


 だが。


 重い。


 《第一観測圏》の共通前提へ触れた時より。


 《未提出領域》の棄却を止めた時より。


 遥かに重い。


 白い円環が、回転する前から砕け始める。


「零!」


「まだだ!」


『当該保留は成立しない』


「何で!」


『現在採用されている最終回答方針において』


『黒瀬灯は、既に《外部観測基準》である』


『人物属性は、基準値へ混入した不整合記述として処理される』


「逆だ!」


 俺は叫ぶ。


「灯が先にいた!」


『時間的先行は、論理的優先を意味しない』


「お前が灯を使う前から!」


 円環を掴む。


「灯は人間だった!」


『当該記録は、観測対象内部から除去済み』


「俺が覚えてる!」


『例外記録である』


「三年前の俺も!」


「覚えている!」


 三年前の俺が、赤い円環を開く。


「保存対象――黒瀬灯が、《外部観測基準》へ再配置される以前から存在した事実!」


『観測対象内部の公的記録は存在しない』


「俺たちがいる!」


「俺もだ!」


 採択領域の俺が、自分の胸へ手を当てる。


「灯を忘れた俺の中にも」


 あの世界で、何度も削除されていた。


 原因不明の喪失感。


 未登録の既視感。


「こいつを知っていた痕跡が残っていた!」


 白い円環が展開される。


「`自証座標(アクシス・エゴ)`!」


 ――現在の黒瀬零。


 ――黒瀬灯を、人間として認識。


 ――関係、未確定。


 ――観測基準としてのみ扱うことを拒否。


「俺自身の現在へ」


 灯を見据える。


「こいつが人間だという認識を固定する!」


 三つの円環が、灯を囲む。


 白。


 赤。


 自証の白。


 それでも。


 黒い線は止まらない。


『三件の例外認識を確認』


『基準値全体へ影響しない』


「三件じゃない」


 灯が言った。


 黒い線が、彼女の胸元へ触れている。


 名前が。


 記憶が。


 削られかけている。


 それでも。


 灯は《アレテイア》へ問いかける。


「私が今、自分のことを人間だって言った」


『自己申告を確認』


「それを数えて」


『基準値の自己申告は、審理対象外である』


「じゃあ」


 灯は震える手を握り締める。


「私は何を言えば、あなたに届くの」


『《外部観測基準》に発言権は存在しない』


「何を言っても?」


『肯定』


「何を選んでも?」


『選択機能は不要である』


「私が」


 灯の目から、涙が落ちる。


「生きたいって言っても?」


『回答へ影響しない』


 白い講義室に、沈黙が落ちた。


 誰も、すぐには言葉を返せなかった。


 《アレテイア》だけが、何の迷いもなく。


 総てを唯一の回答へ収束させる現在の方針を、そのまま続ける。


『人物属性の分離を再開』


「……分かった」


 灯が呟く。


「何が」


 俺は灯を見る。


「この人が何をしてるのか」


 灯は涙を拭わない。


「世界を正しくしてるんじゃない」


 机に置かれた、採択済みの答案へ目を向ける。


「答えられない人を数から外して」


「違う答えを言う人を審理の外へ追い出して」


「残った人たちだけで」


 黒板の答えを見る。


「全員が同じ答えでしたって言ってる」


 一枚の答案が、机から落ちた。


 その世界では。


 戦争を止めるために、一つの国が歴史から消されていた。


 消された国の住民は、生存率の算定対象に含まれていない。


 別の答案が落ちる。


 世界を維持するために、一人の子どもの出生が否定されている。


 その子どもが失った人生は、幸福度の計算へ含まれていない。


 さらに一枚。


 自由意思を制限した世界。


 選べなくなった人々は、反対を選ぶこともできないため。


 不満の存在しない世界として採択されている。


「全部」


 灯が呟く。


「私と同じなんだ」


『同一ではない』


「同じだよ」


 灯が、机の間を歩き始める。


 一歩進むたび、答案が床へ落ちていく。


「消した人を数えない」


「選べなくした人に、不満はないって書く」


「声を奪った人へ、反対意見はなかったって言う」


「そうやって」


 黒板の前へ立つ。


「正しい世界を作ってる」


『必要な除外である』


「必要だったかどうかを」


 灯が振り返る。


「除外された人に聞いた?」


『不要である』


「じゃあ」


 灯は黒板へ手を伸ばす。


「これは正解じゃない」


 ――正しい。


 その文字へ、指先を触れる。


「採点したくない答えを」


 黒い文字をなぞる。


「回答欄ごと切り取っただけだよ」


 黒板の回答表示が、大きく崩れた。


 ――正し――


 最後の一文字が崩れ落ちる。


『回答投影に不整合を確認』


『《外部観測基準》からの干渉を遮断する』


「今の言葉を保存する!」


 三年前の俺が叫ぶ。


 赤い円環が、灯の言葉へ重なる。


「保存対象――黒瀬灯が、自らを審理当事者として主張した事実!」


『基準値からの出力である』


「それでも発言だ!」


『回答根拠に使用できない』


「なら」


 《第一査読官》が、黒板の前へ進む。


『当該最終回答に対する反証記録として受理する』


『受理を禁止する』


『禁止理由を提示せよ』


『《外部観測基準》は審理当事者ではない』


『その前提が、現在争われている』


 《第一査読官》の白い身体へ、黒い亀裂が広がる。


『争点となっている前提を』


『既に確定したものとして反証を排除することはできない』


『《終理観測者アレテイア》へ要求する』


『黒瀬灯が審理当事者ではないことを』


『黒瀬灯本人の証言を用いずに証明せよ』


 《アレテイア》が沈黙する。


『証明は不要である』


『では』


 《第一査読官》が答える。


『当該回答は、査読不能である』


「査読不能?」


 俺が見る。


『最終回答の成立に必要な基準値そのものが』


『最終回答に対する異議を申し立てている』


『しかし』


『当該回答は、その異議を審理対象外としている』


 黒板へ、白い印が現れる。


 ――査読不能。


『誰が当事者であるかという前提が争われている状態では』


『回答の正誤を判定できない』


『本件を』


 《第一査読官》が宣言する。


『前提再審のため、差し戻す』


     ◇


 講義室全体が、大きく震えた。


 机に置かれていた答案が、一斉に宙へ舞い上がる。


『差戻権限を否定する』


『当該回答投影は、《第一観測圏》の査読対象ではない』


『肯定』


 《第一査読官》は答えた。


『ゆえに』


『私は当該回答を採択も棄却もできない』


『ただし』


『《第一観測圏》から提出された審理記録が』


『前提未確定の回答によって処理されることを拒否できる』


「つまり」


 三年前の俺が言う。


「俺たちを連れて帰れるのか」


『帰還ではない』


『審理記録の回収である』


「同じだろ」


『異なる』


「細かいな」


『査読には必要である』


 《第一査読官》の胸元へ、白い文章が展開される。


 ――審理記録回収。


 ――対象。


 ――黒瀬零。


 ――黒瀬零。


 ――黒瀬零。


 ――黒瀬灯。


「本当に三人とも黒瀬零で通すんだな」


「仕方ないだろ」


「登録で揉めるぞ」


「今それを言うか」


「事務は強い」


「また始めないで!」


 灯が叫ぶ。


 その声が、俺たちを現在へ引き戻す。


 《第一査読官》の表示が続く。


 ――前提未確定。


 ――審理継続不能。


 ――原審へ差戻し。


『差し戻しを実行する』


『許可しない』


 《アレテイア》の声が、講義室全体を圧迫する。


 座席が消える。


 答案が消える。


 黒板も。


 壁も。


 床も。


 俺たちが理解できる形が、次々と剥がされていく。


『理解可能形式を解除』


「まずい!」


 三年前の俺が、赤い円環を開く。


 だが。


 保存する対象が、形を失っていく。


 講義室ではない。


 答案でもない。


 声でもない。


 投影を介していた時と同じ観測主体の意志だけが。


 理解できる形を失ったまま、俺たちを包み込む。


 遠くにいるわけではない。


 近くにいるわけでもない。


 どこか別の場所から、手を伸ばしているのでもない。


 距離。


 位置。


 内側と外側。


 その区別自体が、この意志には必要とされていない。


 見えない。


 聞こえない。


 考えようとした言葉が、答えへ変わる前に消えていく。


 ――黒瀬零は帰還しない。


 結論が、直接内側へ書き込まれる。


 円環を回す。


「保留……!」


 白い空白が、形を持てない。


 何を保留するのか、認識できない。


 結論だけがある。


 原因も。


 過程も。


 相手も。


 ここでは必要とされない。


『黒瀬灯は、《外部観測基準》へ復帰する』


 灯の手が、俺の手から滑り落ちる。


「灯!」


 名前を呼ぶ。


 だが。


 灯という音が、意味を失いかける。


『三件の黒瀬零を、一件へ統合する』


 三年前の俺の記憶が、流れ込んでくる。


 灯を消そうとした罪。


 赤い右目。


 保存してきた記録。


 採択領域の俺の記憶も、混ざり始める。


 灯を忘れた世界。


 疑問を何度も削除された日々。


 自分で選び直した現在。


 どれが俺の記憶なのか、分からなくなる。


「`自証座標(アクシス・エゴ)`!」


 採択領域の俺が叫ぶ。


「今の俺は、俺だ!」


 白い円環が、三人の存在境界を固定する。


 三年前の俺も、赤い円環を広げる。


「保存対象――三人の黒瀬零が、別々の現在を選んだ事実!」


 俺は、灯の手を探す。


 見えない。


 触れられない。


 名前の意味も消えかけている。


 それでも。


 胸に残っている。


 三年前から。


 世界に否定され続けても。


 消えなかった。


 一つの灯。


「俺は」


 声を出す。


「灯の兄だ」


『関係記録は存在しない』


「知ってる」


『《外部観測基準》に兄は存在しない』


「それも聞いた」


『当該自己認識は誤りである』


「だったら」


 白い円環の中心に、何も書かない。


「まだ、正しいかどうか決めるな」


『当該関係は、現在の最終回答と不一致である』


「その最終回答が正しいか」


 円環を回す。


「今、査読不能になっただろ!」


 《第一査読官》が、最後の白い表示を展開する。


 ――最終回答投影。


 ――審理対象の定義に重大な争いあり。


 ――査読不能。


 ――前提再審、未了。


『当該回答を根拠とする処理の正当性を否定』


『審理記録の回収を強制執行する』


 白い亀裂が、《第一査読官》の全身を覆う。


『お前は損傷する』


 《アレテイア》が告げる。


『肯定』


『審理権限を喪失する』


『肯定』


『《第一査読官》として継続できない』


 一瞬。


 白い人影が沈黙する。


『それは』


 自らの胸元を見る。


『私自身が、審理後に判断する』


 白い光が。


 最終回答によって閉じられていた審理関係を貫いた。


 《第一観測圏》へ、審理記録を回収するための経路が一時的に成立する。


「査読官!」


『行け』


「お前は!」


『私は審理記録の回収処理を継続する』


「一緒に来い!」


『私は《第一観測圏》の機構である』


「だから何だ!」


『帰還先を持たない』


 灯の声が、どこかから聞こえる。


「だったら」


 微かな手が、《第一査読官》へ伸びる。


「私たちと一緒に来ればいい!」


 白い人影が、初めて明確に灯を見る。


『当該選択肢は、規程に存在しない』


「またそれ?」


『肯定』


「じゃあ」


 灯は言う。


「今から考えて!」


 白い人影が、僅かに揺れた。


『……審理する』


 回収経路が崩れ始める。


 三年前の俺が、灯の腕を掴む。


 採択領域の俺が、反対側から支える。


「零!」


「分かってる!」


 俺は、《第一査読官》へ手を伸ばす。


 だが。


 届かない。


 最終回答の方針が、白い人影を共同審理対象ではなく。


 従来の記録主体として固定し直そうとしている。


『審理記録を回収』


『対象四件の原審送還を開始』


「四件じゃない!」


 灯が叫ぶ。


『照合』


「あなたも!」


 灯は、消えかける《第一査読官》を指す。


「一緒に審理してた!」


『私は記録主体である』


「だから、記録に入って!」


『記録主体は、記録対象にならない』


「自分を数から消さないで!」


 その言葉に、《第一査読官》が止まった。


 自分を数から消す。


 《アレテイア》が、灯へしたこと。


 採択領域の俺が、自分自身へしたこと。


 正しい世界が、反証者へしたこと。


 《第一査読官》が、自分を審理記録から除外すれば。


 同じになる。


『記録形式を』


 白い声が、僅かに揺れる。


『修正する』


 ――審理記録回収。


 ――共同審理対象。


 ――黒瀬零。


 ――黒瀬零。


 ――黒瀬零。


 ――黒瀬灯。


 最後の行が、空白のまま点滅する。


『自己申告を要求する』


「自分の名前は?」


 俺が尋ねる。


『《第一査読官》』


「役職じゃなくて」


『それ以外の識別名は存在しない』


「なら」


 灯が言う。


「今はそれでいい」


 白い人影が、自らの名を記す。


 ――《第一査読官》。


 ――共同審理対象として登録。


『五件の原審送還を開始』


 白い光が、俺たち全員を包む。


『送還を却下する』


 《アレテイア》の声が、今度は講義室という一点からではなく。


 この自己顕現を成立させていた、全ての関係から響いた。


 遠いのではない。


 近いのでもない。


 その声がどこにあるのかという問い自体が、意味を持たない。


『黒瀬零』


 現在の俺。


 三年前の俺。


 採択領域の俺。


 三人全てへ、同じ声が向けられる。


『お前たちは』


『一つの問いへ、三つの異なる回答を保持している』


「だったら何だ」


『苦しみの原因である』


「違う」


 三年前の俺が答える。


「苦しいのは、答えが違うからじゃない」


 採択領域の俺が続ける。


「違う答えを、最初から存在させないからだ」


 俺は、灯の手を握る。


「お前が一つに決めるから」


『複数の回答は、衝突を生む』


「衝突すればいい」


『喪失が生じる』


「生じるかもしれない」


『後悔が残る』


「残る」


『それでも』


 《アレテイア》が問う。


『一つの答えを拒むのか』


 俺は、すぐには答えなかった。


 灯を見る。


 三年前の俺を見る。


 採択領域の俺を見る。


 《第一査読官》を見る。


 全員、違う。


 同じ問いに、同じ答えを持っているわけではない。


 俺は灯を取り戻したい。


 三年前の俺は、灯を消そうとした責任を背負っている。


 採択領域の俺は、灯を消した正解を自分で疑い直した。


 灯は、俺たちを許すかどうかさえ、まだ決めていない。


 《第一査読官》も、自分が何者になるのかを審理している途中だ。


 それでも。


 今。


 俺たちは、同じ手を握っている。


「拒む」


 俺は答えた。


「答えが違うまま」


 灯の手を強く握る。


「一緒に考えられるからだ」


 送還の光が弾けた。


     ◇


 床へ落ちた。


「痛っ……!」


 背中を強く打つ。


 今度は、きちんと痛かった。


 床の冷たさも。


 空気も。


 重力もある。


 俺は咳き込みながら、上体を起こした。


 見覚えのある白い部屋。


 《第零学部》。


 学生登録を行った、あの空白の講義室だった。


「灯!」


「いる!」


 すぐ隣から声がする。


 灯が、俺の服を掴んでいた。


 三年前の俺も、床へ片膝をついている。


 赤い右目は閉じているが、消えてはいない。


 採択領域の俺もいる。


 胸へ手を当て、何度も自分の輪郭を確認していた。


「戻ったのか」


「記録上はな」


 三年前の俺が答える。


「記録上?」


 頭上に、白い表示が浮かんでいる。


 ――《第零学部》共同証明者の帰還を確認。


 ――黒瀬零。


 ――黒瀬零。


 ――黒瀬灯。


 表示が乱れる。


 ――未登録対象を確認。


 ――識別名、黒瀬零。


 採択領域の俺が、表示を見上げる。


「やはり俺は未登録か」


「事務が来るぞ」


「本当に最初にそれなの?」


 灯が呆れる。


 だが。


 まだ一人足りない。


「査読官は?」


 部屋を見回す。


 誰もいない。


 白い人影も。


 審理表示も。


 黒い亀裂もない。


「置いてきたのか」


 三年前の俺が呟く。


「違う」


 灯は、床の一点を見ている。


 そこに、一枚の紙が落ちていた。


 何も書かれていない。


 真っ白な査読用紙。


 灯が拾い上げる。


 触れた瞬間。


 中央へ、一行だけ文字が現れた。


 ――審理継続中。


 その下に、さらに小さな文字が追加される。


 ――自己申告。


 ――《第一査読官》。


 ――現在地、《第零学部》。


 紙から、白い指先が伸びた。


「うわっ」


 俺たちは一斉に距離を取る。


 紙の中から。


 腕。


 肩。


 頭。


 白い人影が。


 折り畳まれていた文章を開くように、ゆっくりと現れる。


 以前より、一回り小さい。


 身体の各所には、黒い亀裂が残っている。


 それでも。


 確かに、そこに立っていた。


『原審送還を完了』


 《第一査読官》が告げる。


「来たのか」


『共同審理対象として登録されたため』


「規程にはなかったんだろ」


『新規事例として審理中である』


「しばらくいるの?」


 灯が尋ねる。


『帰還先を再定義するまで』


「じゃあ」


 灯は笑った。


「ようこそ、《第零学部》へ」


 《第一査読官》が、僅かに首を傾げる。


『歓迎の意味を照会する』


「後で教える」


『保留する』


「それ、気に入った?」


『有用である』


 少しだけ、笑いそうになった。


 だが。


 白い講義室の奥。


 黒板に、文字が浮かび始める。


 誰も書いていない。


 《第零学部》の機構ですらない。


 黒い文字。


 ――接触対象の帰還を確認。


 ――末端回答投影との接触記録を保存。


 ――観測主体、《終理観測者アレテイア》。


 ――黒瀬灯の《外部観測基準》化、不完全。


 ――黒瀬零による最終回答への異議を確認。


 黒い文字が、そこで停止する。


 その上へ。


 今度は、白い査読表示が重ねられた。


 《第一査読官》の審理系統。


 《第一観測圏》へ接続していた記録回線だ。


 ――《第一観測圏》審理記録に、未処理の異議を確認。


 ――当該異議を、関連する上位観測審級へ自動送付。


「上位観測審級……?」


 俺は黒板を見る。


 《第一観測圏》より上位に存在する、別の観測審級。


 だが。


 《未提出領域》も。


 《アレテイア》が現在選んでいる最終回答の方針も。


 《観測階序》の単純な上位へ並ぶものではない。


 俺たちが触れた末端回答投影も、《アレテイア》と切り離された別存在ではなかった。


 同じ観測主体が、俺たちに理解可能な形式として顕れた、一つの自己顕現。


 最終回答の一端だった。


 黒板の端に、新たな検索表示が現れる。


 ――《第一観測圏》の上位審級を照会。


 ――該当、あり。


 ――《最終観測圏》を検索。


 表示が長く点滅する。


 ――該当する審級は存在しない。


 ――任意の《観測圏》に対し、上位観測圏の存在を確認。


 白い講義室の天井が、一瞬だけ消えた。


 その向こう。


 空ではない場所に、巨大な円環が見えた。


 一つではない。


 ある円環の外側に、さらに巨大な円環。


 その外側に、また別の円環。


 どこまで見上げても、終わらない。


 一つ上がるたび。


 下にあった全てが、一冊の査読資料へ変わっていく。


「これが」


 三年前の俺が呟く。


「世界の上にあるものか」


 《第一査読官》が、黒板の表示を読む。


『正式名称を確認』


 ――終端なく連なる《観測圏》の総体。


 ――《観測階序》。


 表示が消える。


 天井も戻る。


 見えたのは、ほんの一瞬。


 それでも。


 理解してしまった。


 俺たちが異議を申し立てた《第一観測圏》は、頂点ではない。


 最初の一段にすぎない。


 その上には、終わりなく観測審級が続いている。


 だが。


 《アレテイア》が、その終わりなき階序の最上段にいるわけではない。


 そもそも。


 最上段など存在しない。


 それでも。


 《アレテイア》が現在選んでいる、唯一の最終回答へ収束させる方針は。


 《観測階序》にも。


 《未提出領域》にも届き。


 上位と下位。


 内部と外部。


 投影と観測主体。


 そうした区別を、下位世界の俺たちが理解できる接触面として利用しながら。


 確かにこちらへ顕れていた。


 灯が、俺の袖を掴んだ。


「兄さん」


「何だ」


「怖い?」


 俺は、少しだけ考えた。


「怖い」


 正直に答える。


「でも」


 黒板へ目を向ける。


 ――《アレテイア》。


 その名前は、まだ消えていない。


「見つけた」


 三年前から。


 何へ問いを向ければいいのかさえ分からなかった。


 灯を消したもの。


 灯を回答者から外したもの。


 妹を数から除外することで、正しさを名乗った答え。


「今度は」


 俺は言う。


「こっちから問いを突きつける」


 黒板の《アレテイア》という名前へ、白い円環が重なる。


 答えは出ていない。


 勝ってもいない。


 灯も、まだ完全には取り戻せていない。


 それでも。


 世界が唯一の正解を名乗るなら。


 俺たちは、その正解の回答欄へ。


 最初の反例を書き込んだ。

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